2025年3月17日月曜日

ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth)- その4

020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
ウィリアム・ワーズワースが選ばれている。

1802年10月4日に、幼馴染のメアリー・ハッチンスン(Mary Hutchinson)と結婚したウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth:1770年ー1850年)は、5人の子供に恵まれる。


(1)長男ジョン(John Wordsworth:1803年ー1875年)

(2)長女ドーラ(Dora Wordsworth:1804年ー1847年)

(3)次男トーマス(Thomas Wordsworth:1806年ー1812年)

(4)次女キャサリン(Catherine Wordsworth:1808年ー1812年)

(5)三男ウィリアム(William Wordsworth:1810年ー1883年)


彼の妹ドロシー(Dorothy Wordsworth:1771年ー1855年)も、兄夫婦と彼らの子供達との同居を続けた。

その一方で、ワーズワース夫妻の経済的な窮乏が続いており、生活の拠点を湖水地方(Lake District → 2024年12月21日付ブログで紹介済)のグラスミア湖(Lake Grasmere)近くのタウンエンド(Town End)内にある「ダヴコテージ(Dove Cottage)」から転々とする中、1812年に次男トーマス(享年:6歳)と次女キャサリン(享年:3歳)の2人を相次いで失くしている。


また、英国のロマン派詩人で、批評家 / 哲学者でもあるサミュエル・テイラー・コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge:1772年ー1834年)と今まで非常に良好な関係を築いていたウィリアム・ワーズワースであったが、サミュエル・テイラー・コールリッジが持病のリウマチ熱の痛み止めのために使用していた阿片への依存を増し始めたことが要因となり、1810年頃から、2人は次第に不仲となっていった。


020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
サミュエル・テイラー・コールリッジが選ばれている。


1813年に入り、ウィリアム・ワーズワースは、初代ロンズデール伯爵ウィリアム・ラウザー(William Lowther, 1st Earl of Lonsdale:1757年ー1844年)と親しくなる。

ウィリアム・ワーズワースの父ジョン・ワーズワース(John Wordsworth)が、初代ロンズデール伯爵ウィリアム・ラウザーの先代の事務弁護士として仕えていたこともあり、ウィリアム・ワーズワースは、初代ロンズデール伯爵ウィリアム・ラウザーから、年400ポンドの印紙販売官(Distributor of Stamps)の職を与えられ、妹のドロシーも伴い、終生の地となるライダルマウント(Rydal Mount)にある邸宅を借り、移住した。

印紙販売官への就任により、ワーズワース夫妻は、経済的な安定を得たのである。


ウィリアム・ワーズワースは、翌年の1814年に、生前の最大作となる「逍遥(The Excursion)」を、また、1815年には、最初の全集である「Poems」と「リルストンの白鹿(The White Doe of Rylstone)」を出版するも、批評家による評価はあまりよくなかった。

英国のロマン派詩人で、ゴシック小説「フランケンシュタイン、或いは、現代のプロメテウス(Frankenstein; or, the Modern Prometheus. → 2021年3月24日付ブログで紹介済)」(1818年)を執筆し、フランケンシュタインの怪物を創造して、SF の先駆者と見做される英国の小説家メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー(Mary Wollstonecraft Godwin Shelley:1797年ー1851年 → 2021年3月9日 / 3月16日付ブログで紹介済)の夫であるパーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley:1792年ー1822年 → 2021年5月1日付ブログで紹介済)は、ウィリアム・ワーズワースのことを、「体制派のジェントルマン階級となり、邸宅暮らしをした結果、堕落した。」と批判。


スイス / ジュネーヴ近郊のレマン湖畔にあるディオダディ荘での怪奇談議 -
画面左側から、
英国のロマン派詩人であるパーシー・ビッシュ・シェリー、
メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー
(当時は、まだ
メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン)、
そして、
英国のロマン派詩人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンだと思われる。
フランケンシュタインの世界<ジグソーパズル>(The World of Frankenstein <Jigsaw Puzzle>)から抜粋。


2020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
パーシー・ビッシュ・シェリーが選ばれている。


更に、英国のロマン派詩人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron:1788年ー1824年 → 2021年5月9日+2024年8月24日 / 8月30日付ブログで紹介済)も、ウィリアム・ワーズワースのことを、「保守化した。」と避難。


地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)内の
ベーカールーライン(Bakerloo Line)用ホームの壁に描かれている
第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンの肖像画 -
彼は、アルバニア風の衣装を身に着けている。


020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(=バイロン卿)が選ばれている。


1820年代に入ると、ウィリアム・ワーズワースは、「ダッドン川ソネット州(River Duddon sonnets)」と「湖水地方案内(Description of the Scenery of the Lakes / Guide to the Lakes)」等を出版。

英国の国内旅行が盛んとなり、上記の「湖水地方案内」が好評で、ウィリアム・ワーズワースは、次第に湖水地方の名士と目される。その結果、多くの訪問者達が彼の住居であるライダルマウントを訪れ、社交に時間をとられることになり、新たな詩の創作はほとんどなくなってしまう。


上記の通り、ウィリアム・ワーズワースは、やっと名声と栄誉を得たが、親交があったスコットランドの小説家 / 詩人 / 歴史家であるサー・ウォルター・スコット(Sir Walter Scott:1771年ー1832年)が1832年に、また、サミュエル・テイラー・コールリッジが1834年に死去し、家族(次男トーマスと次女キャサリン)に続いて、友人達の死に直面する。


1842年に「青年期初期後期の詩(Poems, Chiefly of Early and Later Youth)」を出版した後、ウィリアム・ワーズワースは、三男ウィリアムに印紙販売官の仕事を譲った。


1843年には、次の「桂冠詩人(Poet Laureate)」に推挙されたが、ウィリアム・ワーズワースは、当初、老齢(73歳)を理由に辞退した。ところが、英国ハノーヴァー朝(House of Hanover)の第6代女王で、かつ、初代インド女帝であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)の個人的な希望による指名だと聞いて、最終的には、「桂冠詩人」への推挙を受け入れた。ただし、「桂冠詩人」への就任後、ウィリアム・ワーズワースは、桂冠詩人らしい仕事をしていない。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手の1枚 -
ウィリアム・ワーズワースが「桂冠詩人」に推挙された1843年の3年前(1840年)に、
ヴィクトリア女王は、アルバート公(Albert, Prince Consort:1819年ー1861年)と結婚。


この後、またもや、家族の死が、ウィリアム・ワーズワースを襲った。愛する長女ドーラが、1847年7月9日、結核により亡くなってしまう。

娘のドーラの死に続いて、聡明だった妹のドロシーも、病により廃人同様となってしまった。

娘のドーラの死から立ち直ることができなかったウィリアム・ワーズワースは、80歳の誕生日を過ぎて間もない1850年4月23日に亡くなり、グラスミア(Grasmere)のセントオズワルド教会(St. Oswald’s Church)に埋葬された。


彼の死後、未亡人となった妻メアリーにより、彼の遺作「序曲(The Prelude)」が出版。出版当時は、あまり評価されなかったが、現時点では、ウィリアム・ワーズワースの傑作の一つとして見做されている。


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