2025年9月22日月曜日

横溝正史作「黒猫亭事件」(Murder at the Black Cat Cafe by Seishi Yokomizo)- その1

英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2025年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

横溝正史作「黒猫亭事件」の裏表紙
(Jacket illustration by Thomas Hayman /
Jacket design by Jo Walker)


日本の推理作家である横溝正史(Seishi Yokomizo:1902年ー1981年)による金田一耕助(Kosuke Kindaichi)シリーズの中編「黒猫亭事件(Murder at the Black Cat Cafe)」は、「小説」1947年(昭和22年)12月号に発表された。ただし、発表時の原題は、「黒猫」になっている。


黒猫亭事件」の場合、1947年(昭和22年)3月20日の深夜、東京近郊の武蔵野(Musashino)の面影が多く残る G 町(G - Town)が、事件の舞台となる。


英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2025年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

横溝正史作「黒猫亭事件」内に付されている
黒猫亭と
日蓮宗蓮華院の周辺地図


その夜、G 町派出所(police box)勤務の長谷川巡査(Constable Hasegawa)は、巡回中で、酒場「黒猫亭(Black Cat Cafe)」に差し掛かる。長谷川巡査の記憶によると、酒場「黒猫亭」は夫婦によって営まれていたが、彼らは既に酒場を売却しており、確か、1週間程前から空き家同然になっている筈だった。

ところが、長谷川巡査は、酒場「黒猫亭」の裏庭に、謎の人影を目撃した。長谷川巡査が眼を凝らしてよく見てみると、その人影は、酒場「黒猫亭」の裏庭に隣接する日蓮宗(Nichiren sect)蓮華院(Renge-in)の若い僧である日兆(Nitcho)で、裏庭で穴を掘っていたのである。

日兆の行動を不審に思った長谷川巡査が、日兆が掘った穴の中を確かめてみると、驚くことに、穴の中には、腐乱しかけた女性の全裸死体が横たわっていた。しかも、その女性の顔は完全に損壊しており、生前の容貌を判別すらできなかった。

警察による検死の結果、女性の死因は頭部の傷で、他殺であることが認定された。

不思議なことに、同じ場所に、黒猫の死体も埋められていた。「黒猫亭」には、酒場の店名に因んで、黒猫が飼われていたことから、その猫の死体かと思われたが、その直後、生きている黒猫が見つかり、「黒猫亭」では、、2匹の黒猫が飼われていたのではないかと考えられた。


長谷川巡査、そして、事件の捜査を担当した村井慶次(Detective Murai)により、以下のことが判明。


*「黒猫亭」には、糸島大伍(Daigo Itojima:42歳)とお繁(O-shige:29歳)の夫婦が暮らしていた。


*糸島大伍とお繁の2人は、中国からの引き揚げ者。ただし、2人は一緒に中国から引き揚げて来たのではなく、お繁の引き揚げが先で、糸島大伍が後となった。

お繁:中国 → 横浜(1945年10月)→ G 町(1946年7月)

糸島大伍:中国 → 長野(1946年4月)→ G 町(1946年7月)

と言うルートを辿り、2人は G 町にやって来て、酒場を借り、「黒猫亭」を営んでいたが、1947年3月14日に店を閉めて、神戸へ引っ越した。


*「黒猫亭」には、お君(O-Kimi:17歳)が住み込んで、働いていた。。


*「黒猫亭」で客の相手をしていたのは、通いの加代子(Kayoko:23歳)と珠江(Tamae:22歳)の2人。


糸島大伍とお繁の2人が「黒猫亭」を閉めて、神戸へ引っ越したのが、約1週間前の1947年3月14日。

警察の捜査により、お君、加代子と珠江の3人が生存していることは確認された。

また、「黒猫亭」閉店の際、お君、加代子と珠江の3人は、お繁に会った、とのこと。


一方で、警察による検死の結果、「黒猫亭」の裏庭の穴の中から見つかった女性の死体の死亡推定日時は、それよりも2週間も前だった。

そうなると、酒場「黒猫亭」の女性関係者であるお繁、お君、加代子および珠江の中には、の裏庭の穴の中から見つかった女性の死体に該当する者が居ないことになる。


それでは、「黒猫亭」の裏庭の穴の中から見つかった女性の死体は、一体、誰なのか?


           

2025年9月21日日曜日

ロンドン パントンストリート(Panton Street)

ヘイマーケット通りからパントンストリートを見たところ
<筆者撮影>

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1936年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第7作目に該る「アラビアンナイトの殺人(The Arabian Nights Murders → 2025年8月30日付ブログで紹介済)」の場合、クリーヴランドロウ(Cleveland Row → 2025年9月5日付ブログで紹介済)沿いに建つウェイド博物館(Wade Museum - 大富豪であるジェフリー・ウェイドが10年程前に開設した私立博物館で、中近東の陳列品(Oriental Art)を展示する他、初期の英国製馬車で、素晴らしい逸品も保存)が、殺人事件の舞台となる。


東京創元社から創元推理文庫として出版された
ジョン・ディクスン・カー作「アラビアンナイトの殺人」の表紙
(カバー:山田 維史)


天下の奇書アラビアンナイトの構成にならって、スコットランドヤードのお歴々である(1)ヴァインストリート(Vine Street → 2025年9月19日付ブログで紹介済)署勤務のジョン・カラザーズ警部(Inspector John Carruthers - アイルランド人)、犯罪捜査部(CID)のデイヴィッド・ハドリー警視(Superintendent David Hadley / イングランド人)と(3)副総監であるハーバート・アームストロング卿(スコットランド人)が、三人三様の観察力と捜査法を駆使して、この事件を解説する。

彼らの話の聞き手は、南フランスで4ヶ月間の休暇を楽しんで、アデルフィテラス1番地(1 Adelphi Terrace → 2018年11月25日付ブログで紹介済)の自宅に戻ったばかりのギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)だった。



まず最初に、ヴァインストリート署勤務のジョン・カラザーズ警部による陳述が始まる。


私がホスキンズ(巡査部長)と出会ったのは、六月十四日金曜日の夜、十一時を十五分過ぎたときでした。(ヴァインストリート)署の仕事がたてこんでいましたので、私はそんなおそくでも居残っておりました。仕事がすんだわけではなかったのですが、腹ごしらえの必要がありましたので、私は一度、外へ出ました。パントン・ストリートのかどに出ている屋台店で、コーヒーとサンドイッチをとって、それからあらためて、もう一度仕事にとりかかる考えだったのです。

<宇野 利泰訳>


ヘイマーケット通りの北側から南側を見たところ -
画面中央奥に見える横の通りが、パントンストリート。
<筆者撮影>


ヴァインストリート署勤務のジョン・カラザーズ警部が、腹ごしらのために、コーヒーとサンドイッチをとっていた屋台店が出ていたパントンストリート(Panton Street)は、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のメイフェア地区(Mayfair)内の東端にある通りである。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ピカデリーサーカス周辺の地図を抜粋。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から西へ向かう通りは、ヘイマーケット通り(Haymarket)とパル・マル通り(Pall Mall → 2016年4月30日付ブログで紹介済)の2つに分かれる。

ヘイマーケット通りは北上して、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)へと至る。

一方、パル・マル通りは更に西進して、進行方向左手にセントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)が見えたところで、セントジェイムズストリート(St. James’s Street → 2021年7月24日付ブログで紹介済)とクリーヴランドロウの2つに分かれる。



ヘイマーケット通りとパントンストリートが交差する南東の角に建つ建物 -
ヴァインストリート署勤務のジョン・カラザーズ警部が、腹ごしらのために、
コーヒーとサンドイッチをとっていた屋台店は、この辺りで営業していたものと思われる。
<筆者撮影>


パントンストリートの西側は、ヘイマーケット通りが北上して、ピカデリーサーカスへと至る途中から始まり、その東側は、シティー・オブ・ウェストミンスター区のストランド区(Strand)内にあるレスタースクエア(Leicster Square)に突き当たって、終わっている。つまり、パントンストリートは、レスタースクエアとヘイマーケット通りを東西に結ぶ通りである。


パントンストリートの北側を見たところ
<筆者撮影>


レスタースクエア周辺には、映画館が、また、ハイマーケット通り周辺には、劇場が多く点在しているため、パントンストリート沿いには、飲食店が数多く営業している。現在、特に、韓国系のレストランやカフェが多い。


パントンストリートの南側を見たところ -
画面右側から3番目の建物が、ハロルドピンター劇場である。
<筆者撮影>


また、東西に延びるパントンストリートと南北に延びるオックスエンドンストリート(Oxendon Street)が交差する南西の角には、ハロルドピンター劇場(Harold Pinter Theatre - 2011年までは、コメディー劇場(Comedy Theatre)と呼ばれていた)が所在している。


2025年9月20日土曜日

ロンドン ダリッジピクチャーギャラリー(Dulwich Picture Gallery)- その4

レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン作
「ヤーコブ・デ・ヘイン3世の肖像
(Portrait of Jacob de Gheyn III)」(1632年)-
同作品は、1966年から1983年にかけて、4回の盗難に遭っており、
「世界で最も盗難に遭った美術品」として、ギネス世界記録に登録されている。
盗難の都度、「匿名の密告」、「自転車の荷台」、
「ストリーサム地区(Streatham → 2017年12月2日付ブログで紹介済)近くの墓地のベンチ」、
そして、「西ドイツの手荷物一時預かり所」から発見されて、取り戻されている。
<筆者撮影>

今回は、英国の新古典主義を代表する建築家となり、1788年10月16日に、英国の建築家 / 彫刻家であるサー・ロバート・テイラー(Sir Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行(Bank of England → 2015年6月21日 / 6月28日付ブログで紹介済)の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めたサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年 → 2025年6月24日 / 6月28日 / 7月9日付ブログで紹介済)が設計したダリッジピクチャーギャラリー(Dulwich Picture Gallery - 当時は、ダリッジカレッジピクチャーギャラリー(The Dulwich College Picture Gallery)と呼ばれた)は、1815年に王立芸術院(Royal Academy of Arts)の学生達に対して公開された後、1817年、イングランドにおいて最初に一般大衆に開かれた美術館(the oldest public art gallery in England)としてオープンした。ギャラリーの正式な開館が2年も遅れたのは、美術館内に設置された暖房設備に問題が生じたためである。


英国の肖像画家であるサー・トマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence:1769年ー1830年)が描いた
「サー・ジョン・ソーン(76歳)の肖像画 (Portrait of Sir John Soane, aged 76)」
(1828年ー1829年)
の絵葉書
Oil on canvas 
<筆者がサー・ジョン・ソーンズ博物館で購入>


ダリッジピクチャーギャラリーは、17世紀から18世紀を中心とした欧州のオールドマスター(Old Master)達による絵画を所蔵するイングランド有数の美術館として有名で、特に、オランダ、フランドル、イタリア、スペインやフランスの絵画とテューダー朝(House of Tudor)から19世紀にかけての英国の肖像画のコレクションで知られている。


ダリッジピクチャーギャラリーの建物正面
<筆者撮影>


(1)オランダ絵画 - レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn:1606年ー1669年)、ヤーコブ・アイザックソーン・ファン・ロイスダール(Jacob Izaakszoon van Ruisdael:1628年ー1682年)やウィレム・ファン・デ・フェルデ(子)(Willem van de Velde de Jonge:1633年ー1707年)等


レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン作
「Girl at a Window」(1645年)-
1966年12月31日、
「ヤーコブ・デ・ヘイン3世の肖像
」(1632年)と一緒に、
一度盗難に遭っている。
<筆者撮影>

レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン作
「A Young Man, perhaps the Artist's Son Titus」(1668年)-
1966年12月31日、
「ヤーコブ・デ・ヘイン3世の肖像
」(1632年)や
「Girl at a Window」(1645年)と一緒に、
一度盗難に遭っている。
<筆者撮影>

(上)ヤーコブ・アイザックソーン・ファン・ロイスダール作
「Landscape with Windmills near Haarlem」(1650年ー1652年)
(下)ジョン・コンスタブル作
Landscape with Windmills near Haarlem,
after Jacob van Ruisdael」(1830年)
<筆者撮影>

ウィレム・ファン・デ・フェルデ(子)作
(上)「A Calm」(1663年)
(下)「A Brisk Breeze」(1665年)
<筆者撮影>


(2)フランドル絵画 - ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577年ー1640年)、アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck:1599年ー1641年)やダフィット・テニールス(子)(David Teniers de Jonge:1610年ー1690年)等


ピーテル・パウル・ルーベンス作
(左)「Saints Amandus and WalWalburga」(1610年)
(右)「Saints Catherine of Alexandria and Eligius」(1610年)
<筆者撮影>

ダフィット・テニールス(子)作
「Winter Scene」(1660年頃)
<筆者撮影>


(3)イタリア絵画 - ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi:1483年ー1520年)やカナレット / ジョヴァンニ・アントーニオ・カナール(Canaletto / Giovanni Antonio Canal:1697年ー1768年 → 2023年11月19日 / 11月27日付ブログで紹介済)等


(上)ピーテル・パウル・ルーベンス作
「The Miracles of Saint ignatius of Loyola」(1619年)
(左下)
ラファエロ・サンティ作「Saint Francis of Assisi」(1504年)
(右下)ラファエロ・サンティ作「Saint Anthony of Padua」(1504年)
<筆者撮影>

カネレット作「A View of Walton Bridge」(1754年)
<筆者撮影>

カナレット作
「The Bucintoro at the Molo on Ascension Day」(1760年)
<筆者撮影>


(4)スペイン絵画 - ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルヴァ・イ・ベラスケス(Diego Rodriguez de Silva y Velazquez:1599年ー1660年)等


Studio of Diego Velazquez 作
「Philip IV, King of Spain」(1644年)
<筆者撮影>

(5)フランス絵画 - ニコラ・プッサン(Nicolas Poussin:1594年ー1665年)等


(6)イングランド絵画 - ウィリアム・ホガース(William Hogarth:1697年ー1764年)、トマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)やジョン・コンスタブル(John Constable:1776年ー1837年)等


トマス・ゲインズバラ作
「A Couple in a Landscape」(1753年)
<筆者撮影>

トマス・ゲインズバラ作
「Elizabeth and Mary Linley」(1772年)
<筆者撮影>

2025年9月19日金曜日

ロンドン ヴァインストリート(Vine Street)

ヴァインストリートの西側入口から
東側の行き止まりを見たところ
<筆者撮影>

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1936年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第7作目に該る「アラビアンナイトの殺人(The Arabian Nights Murders → 2025年8月30日付ブログで紹介済)」の場合、クリーヴランドロウ(Cleveland Row → 2025年9月5日付ブログで紹介済)沿いに建つウェイド博物館(Wade Museum - 大富豪であるジェフリー・ウェイドが10年程前に開設した私立博物館で、中近東の陳列品(Oriental Art)を展示する他、初期の英国製馬車で、素晴らしい逸品も保存)が、殺人事件の舞台となる。


東京創元社から創元推理文庫として出版された
ジョン・ディクスン・カー作「アラビアンナイトの殺人」の表紙
(カバー:山田 維史)


天下の奇書アラビアンナイトの構成にならって、スコットランドヤードのお歴々である(1)ヴァインストリート署勤務のジョン・カラザーズ警部(Inspector John Carruthers - アイルランド人)、犯罪捜査部(CID)のデイヴィッド・ハドリー警視(Superintendent David Hadley / イングランド人)と(3)副総監であるハーバート・アームストロング卿(スコットランド人)が、三人三様の観察力と捜査法を駆使して、この事件を解説する。

彼らの話の聞き手は、南フランスで4ヶ月間の休暇を楽しんで、アデルフィテラス1番地(1 Adelphi Terrace → 2018年11月25日付ブログで紹介済)の自宅に戻ったばかりのギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)だった。



まず最初に、ヴァインストリート署勤務のジョン・カラザーズ警部による陳述が始まる。


非常識の最初の現われは、ホスキンズ巡査部長の口から聞かされました。念のためにくりかえして起きますが、ホスキンズは現職の巡査部長ですから、いろいろととりあつかう事件も多いことでしょうが、気違いが塀の上ではねまわるなどという光景は、そうめったに出っくわすものではありますまい。だいたいあのヴァイン・ストリートという界隈は、酔っぱらいの多い地区で、ことに白ネクタイの連中が羽目をはずして騒ぎまわる晩などは、相当彼を手こずらせる事件も起きがちです。それにしても、両頬にまっ白いひげをはやしているのが相手とは、ホスキンズとしても珍しいことだったにちがいありません。

<宇野 利泰訳>


ヴァインストリート1番地(1 Vine Street)の建物入口 -
右側がヴァインストリートで、左側がスワローストリート。
<筆者撮影>


ヴァインストリート署勤務のジョン・カラザーズ警部による陳述の中に出てくるヴァインストリート(Vine Street)は、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のメイフェア地区(Mayfair)内にある通りである。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ピカデリーサーカス周辺の地図を抜粋。


ピカデリー通り(Piccadilly - ピカデリーライン(Piccadilly Line)とベイカールーライン(Bakerloo Line)の2線が乗り入れる地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station)とピカデリーラインが停まる地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)を東西に結ぶ幹線道路 → 2025年7月31日付ブログで紹介済)とリージェントストリート(Regent Street - 地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station)とベイカールーライン、セントラルライン(Central Line)およびヴィクトリアライン(Victoria Line)の3線が乗り入れる地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)を南北に結ぶ幹線道路)を南北に結ぶスワローストリート(Swallow Street)と言う小道があり、ヴァインストリートの西側は、スワローストリートの中間あたりから始まり、東側は行き止まりとなる路地である。


ヴァインストリートからスワローストリートの南側を見たところ
<筆者撮影>


ヴァインストリートの場合、スワローストリート経由で、ピカデリー通りへと繋がるが、ピカデリープレイス(Piccadilly Place)と言う路地を使えば、ヴァインストリートからピカデリー通りへと直接出ることも可能。


ヴァインストリートからスワローストリートの北側を見たところ
<筆者撮影>


この通り沿いに、「The Vine(葡萄 / 葡萄の木)」と言う店名のパブが18世紀にあったため、それに因んで、ヴァインストリートと名付けられた。


ヴァインストリート(画面左奥へ延びる通り)、
スワローストリート(画面手前右側へ延びる通り)と
ピカデリープレイス(画面奥右側へ延びる通り)に囲まれた建物は、
取り壊された後、現在、建替え中。
<筆者撮影>


ジョン・ディクスン・カー作「アラビアンナイトの殺人」において述べられているとおり、18世から20世紀にかけて、ヴァインストリート沿いには、ヴァインストリート警察署(Vine Street Police Station)が存在しており、酔っぱらいの多い地区だったため、世界で最も多忙な警察署となった。


ヴァインストリート1番地(1 Vine Street)の建物を見上げたところ -
右側がヴァインストリートで、左側がスワローストリート。
<筆者撮影>


なお、第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ショルト・ダグラス(John Sholto Douglas, 9th Marquess of Queensberry:1844年ー1900年)の三男で、作家 / 詩人 / 翻訳家のロード・アルフレッド・ブルース・ダグラス(Lord Alfred Bruce Douglas:1870年ー1945年)は、アイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、シャーロック・ホームズシリーズの作者さー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)の友人でもあったオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)と同性愛の関係にあったため、ヴァインストリート警察署において逮捕されている。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
オスカー・ワイルドの写真の葉書
(Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card
305 mm x 184 mm) 


ヴァインストリートは、元々、もっと長い通りであったが、1816年から1819年にかけて、リージェントストリートが敷設され、リージェントストリート沿いに建物が建設されたことに伴い、行き止まりの短い路地になってしまった。


2025年9月18日木曜日

コナン・ドイル作「花婿失踪事件」<小説版>(A Case of Identity by Conan Doyle )- その4

1891年9月号に掲載された挿絵(その4) -
シャーロック・ホームズが事件の調査を引き受けてくれることを聞いた
メアリー・サザーランドは、ホームズの求めに応じて、

(1)先週の土曜日の「クロニクル紙」に出した尋ね人の広告

(2)ホズマー・エンジェルから受け取った手紙4通

を預け、自宅(キャンバーウェル地区リヨンプレイス31番地 )へと帰って行った。

挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)

サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作シャーロック・ホームズシリーズの短編第3作目に該る「花婿失踪事件(A Case of Identity)」の場合、ジョン・H・ワトスンが、数週間ぶりに、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れたところから、その物語が始まる。

ホームズとワトスンの2人が会話を交わしている最中、事件の依頼人であるメアリー・サザーランド(Mary Sutherland)が、給仕の少年に案内されて、部屋へと入って来た。そして、彼女は、ホームズに対して、「結婚式の場から行方不明になったホズマー・エンジェル(Hosmer Angel)を探してほしい。」と依頼するのであった。


彼女の母親の再婚相手であるジェイムズ・ウィンディバンク(James Windibank - メアリー・サザーランドの母親よりも15歳近く年下)は、フェンチャーチストリート(Fenchurch Street → 2014年10月17日付ブログで紹介済)にある大きな赤ワイン輸入業者ウェストハウス&マーバンク(Westhouse & Marbank)で外交員をしている、とのことだった。



ロンバードストリート(Lombard Street
→ 2015年1月31日付ブログで紹介済)から
フェンチャーチストリートを望む。
<筆者撮影>


義理の父となったジェイムズ・ウィンディバンクは、メアリー・サザーランドに対して、男友達との交際を禁じていたが、彼がフランスへ出張している間に、彼女は、ガス管取付業界の舞踏会(gasfitters' ball)へ出かけ、そこでホズマー・エンジェルと知り合い、間もなく婚約した。

ホズマー・エンジェルは、レドンホールストリート(Leadenhall Street → 2014年10月5日付ブログで紹介済)にある事務所で出納係(cashier)として働いていて、寝起きもその事務所でしている(He slept on the premises.)と言う。



レドンホールストリート沿いに建つロイズ保険組合の本社ビル「ロイズビル」-
ロイズ(Lloyd’s)」とは、正式には、
「ロイズ・オブ・ロンドン(Lloyd’s of London
→ 2023年12月8日付ブログで紹介済)」と言う。
<筆者撮影>


義理の父ジェイムズ・ウィンディバンクが再度フランスへ出張した際、ホズマー・エンジェルがメアリー・サザーランドの家を訪れて、「ジェイムズ・ウィンディバンクさんがフランスへ出かけているうちに、結婚式を挙げるべきだ。」と説得した。(Mr Hosmer Angel came to the house again and proposed that we should marry before father came back.)

彼女は母親にも相談したが、母親も、ホズマー・エンジェルを非常に気に入っており、「結婚式のことは、後で報告すればよい。」と答えた。

その結果、ホズマー・エンジェルとメアリー・サザーランドは、金曜日の朝に結婚式を挙げることが決まった。


残念ながら、セントサヴィオール教会は実在しておらず、
セントパンクラス オールド教会(St. Pancras Old Church)が、その候補地と思われる。
<筆者撮影>


メアリー・サザーランドとホズマー・エンジェルは、キングスクロスの近くにあるセントサヴィオール教会(St. Saviour's (Church) near King's Cross 2014年10月11日付ブログで紹介済)で結婚式を挙げ、その後、セントパンクラスホテル(St. Pancras Hotel → 2014年10月12日付ブログで紹介済)へ移動して、そこで結婚披露朝食会を開催する運びとなった。


セントパンクラスホテルの正面入口
<筆者撮影>


ユーストンロード(Euston Road)から見上げたセントパンクラスホテルの建物
<筆者撮影>


結婚式を挙げる金曜日の朝、ホズマー・エンジェルは、メアリー・サザーランドの家に、二人乗り馬車(hansom)で迎えに来た。

メアリー・サザーランドと彼女の母親の2人は、ホズマー・エンジェルが乗って来た二人乗り馬車には乗り、ホズマー・エンジェルは、通りに居た四輪辻馬車(four-wheeler)に乗り込み、セントサヴィオール教会へと向かった。

セントサヴィオール教会には、メアリー・サザーランドと彼女の母親が先に到着。彼女と彼女の母親は、後から着いた四輪辻馬車からホズマー・エンジェルが出て来るのを待つが、彼は一向に姿を現さない。そこで、四輪辻馬車の御者が降りて馬車の中を見てみると、ホズマー・エンジェルの姿は忽然と消えていた。

更に驚くことに、それ以降、彼の消息がつかめなくなったのである。


メアリー・サザーランドは、「結婚式を挙げる金曜日の朝、ホズマー・エンジェルは、何か良くないことが起こりそうな懸念を示していた。」と言う。

実際、ホズマー・エンジェルは、彼女に対して、「何が起きても、君は誠実でなくてはいけないよ。例え全く予測できないことが二人を引き裂いたとしても、君は僕に対して誓ったことを決して忘れてはいけない。いずれ、僕はその誓いを求めに来るからね。(’Why, all the morning he was saying to me that, whatever happened, I was to be true; and that even if something quite unforeseen occurred to separate us, I was always to remember that I was pledged to him, and that he would claim his pledge sooner or later.’)」と、奇妙なことを話したのである。


また、メアリー・サザーランドの母親と義理の父ジェイムズ・ウィンディバンクの反応も、どこかおかしかった。

メアリー・サザーランドの母親は、結婚式の場からホズマー・エンジェルが突然失踪したことについて、怒ってはいたものの、彼女に対して、「この件に関しては、二度と口にするな。」と言い渡した。(’She was angry, and said that I was never to speak of the matter again.’)

義理の父ジェイムズ・ウィンディバンクは、彼女と同じように、「ホズマー・エンジェルさんに、何かが起きたのだろう。」と言う意見ではあったが、「そのうち、ホズマー・エンジェルから連絡があるだろう。」と、何故か、楽観的だった。(’Yes; and he seemed to think, with me, that something had happened, and that I should  hear of Hosmer again.)

義理の父ジェイムズ・ウィンディバンクの言葉とは裏腹に、メアリー・サザーランドの元に、ホズマー・エンジェルからの連絡は何もなく、彼のことを他の人に尋ねても、その行方は全く判らなかった。

そこで困り果てたメアリー・サザーランドは、ホームズのところへ頼って来たのである。


メアリー・サザーランドの依頼を受けて、事件の調査を引き受けたホームズであったが、何故か、彼女に対する彼の態度はやや冷たく、「このことは、私に任せて、貴女はこれ以上この件であれこれ悩まないことです。何よりも、ホズマー・エンジェル氏のことは、貴女の記憶から消し去るようになさい。彼は、貴女の人生から既に去ったのですから。(’Let the weight of the matter rest upon me now, and do not let your mind dwell upon it further. Above all, try to let Mr Hosmer Angel vanish from your memory, as he has done from your life.’)」と助言した。

ところが、傷心のメアリー・サザーランドは、「彼(ホズマー・エンジェル)に対して、誠意を尽くすつもりです。(’I shall be true t Hosmer.’)」と答えると、ホームズの求めに応じて、


*先週の土曜日の「クロニクル紙」(last Saturday’s Chronicle)に出した尋ね人の広告

*ホズマー・エンジェルから受け取った手紙4通


を預けると、自宅(キャンバーウェル地区リヨンプレイス31番地 / Number 31, Lyon Place, Camberwell)」へと帰って行った。


メアリー・サザーランドから預かった手紙は、4通とも全て、文面がタイプで打たれていた。更に、署名までが、タイプで打たれていたのである。(’Not only that, but the signature is typewritten.’)

ホームズは、ワトスンに対して、「署名に関する特徴は、非常に示唆に富んでいる。実際のところ、決定的と言ってもいいかもしれない。(’The point about the signature is very suggestive - in fact, we may call it conclusive.’)」と告げた。


そして、ホームズは、「手紙を2通書き、一通はシティーの会社に出し、もう一通はメアリー・サザーランド嬢の義理の父ジェイムズ・ウィンディバンク氏に送って、明日の午後6時にここ(ベイカーストリート221B)で会えないかと尋ねてみよう。(’I shall write two letters, which should settle the matter. One is to a firm in the City, the other is to the young lady’s stepfather, Mr Windibank, asking him whether he could meet us here at six o’clock tomorrow evening.’)」と追加した。

翌日の午後6時の面会には、ワトスンも同席することになった。


1891年9月号に掲載された挿絵(その5) -
翌日の午後6時に、ジョン・H・ワトスンがベイカーストリート 221B を訪れると、
シャーロック・ホームズは、
細く痩せた身体を肘掛け椅子の奥に丸めて、
うつらうつらしているところだった。