2025年8月13日水曜日

ロンドン ディーンストリート(Dean Street)

シャフツベリーアベニュー近辺のディーンストリート(その1) -
画面奥に見える左右に延びる通りが、
シャフツベリーアベニュー。
<筆者撮影>

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1946年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第16作目に該る「囁く影(He Who Whispers → 2025年8月2日 / 8月7日 / 8月8日 / 8月12日付ブログで紹介済)」の場合、歴史学者のマイルズ・ハモンド(Miles Hammond - 35歳)が、ソーホー地区(Soho)内のベルトリングレストラン(Beltring’s Restaurant)において開催される「殺人クラブ(Murder Club)」の晩餐会に出席するために、現地へ向かっているところから、その物語が始まる。


大英図書館(British Library → 2014年5月31日付ブログで紹介済)から
2023年に出版された
ジョン・ディクスン・カー作「囁く影」の表紙
(Front cover : Mary Evans Picture Library)


1938年にノーベル賞(Nobel Prize)を受賞した歴史学者のマイルズ・ハモンドは、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、陸軍(Army)に入隊したが、戦車部隊(Tank Corps)に所属していたため、ディーゼル油中毒(Diesel-oil-poisoning)に罹患して入院、18ヶ月間、病院のベッドで過ごす。

その間に、彼の叔父に該るサー・チャールズ・ハモンド(Sir Charles Hammond)がデヴォン州(Devon)のホテルにおいて亡くなったので、マイルズ・ハモンドは、妹のマリオン・ハモンド(Marion Hammond)と一緒に、ハンプシャー州(Hampshire)ニューフォレスト(New Forrest)のグレイウッド(Greywood)に所在する土地と屋敷(膨大な蔵書がある図書室を含む)等の全財産を相続。



1945年5月7日、枢軸国のドイツが連合国側に対して無条件降伏を行ったため、欧州にはやっと平和が訪れていた。

漸く心身の傷が癒えたマイルズ・ハモンドは、同年6月1日(金)の午後9時半頃、ロンドンのソーホー地区内を歩いていた。彼は、5年ぶりにソーホー地区内のベルトリングレストランにおいて開催される「殺人クラブ」の晩餐会(午後8時半開始)に、友人のギディオン・フェル博士から招待されていたものの、気が進まず、1時間程遅れてしまったのである。


シャフツベリーアベニュー近辺のディーンストリート(その2)
<筆者撮影>


マイルズ・ハモンドは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から北東方向へ延びるシャフツベリーアベニュー(Shaftesbury Avenue → 2016年5月15日付ブログで紹介済)を左へ折れて、ディーンストリート(Dean Street)へと入った。


シャフツベリーアベニュー近辺のディーンストリート(その3)
<筆者撮影>


A fine rain was falling, less than a rain than a sort of greasy mist, when Miles Hammond turned off Shaftesbury Avenue into Dean Street. Though you could tell little from the darkened sky, it must be close on half-past nine o’clock. To be invited to a dinner of the Murder Club, and then to get there nearly an hour late, was more than mere discourtesy; it was infernal, unpardonable cheek even though you had a good reason.


シャフツベリーアベニュー近辺のディーンストリート(その4)
<筆者撮影>


ディーンストリートは、ロンドンの中心部にあるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のソーホー地区内に所在する通りで、その北側はオックスフォードストリート(Oxford Street → 2016年5月28日付ブログで紹介済)から始まり、


オックスフォードサーカス(Oxford Circus)からマーブルアーチ(Marble Arch)へ向かう
オックスフォードストリート(画面奥)を望む。
<筆者撮影>


*カーライルストリート(Carlisle Street)

*セントアンズコート(St. Anne’s Court)

*リッチモンドビルディングス(Richmond Buildings)

*チャポーンプレイス(Chapone Place)

*ベイトマンストリート(Bateman Street)

*メアードストリート(Meard Street)

*バーチアーストリート(Bourchier Street)

*オールドコンプトンストリート(Old Compton Street)

*ロミリーストリート(Romilly Street)


ディーンストリート(右手)近辺のシャフツベリーアベニュー -
シャフツベリーアベニューから左手奥に入ると、チャイナタウンが広がっている。
<筆者撮影>


と交差した後、その南側はシャフツベリーアベニューに突き当たって終わっている。


シャフツベリーアベニュー近辺のディーンストリート(その5) -
画面奥に見えるのが、チャイナタウン

<筆者撮影>


「囁く影」の場合、マイルズ・ハモンドは、南側のシャフツベリーアベニューからディーンストリートへと入り、北上することになる。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ソーホー地区の地図を抜粋。


なお、チャポーンプレイスとベイトマンストリートの間のディーンストリート沿いに建つ建物に、「共産党宣言(Manifest der Kommunistischen Partei)」(1848年ープロイセン王国時代のドイツのの社会思想家 / 政治思想家 / ジャーナリスト / 実業家 / 軍事評論家 / 革命家であるフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels:1820年ー1895年)との共著)や「資本論(Das Kapital)」(1867年)で有名なプロイセン王国時代のドイツの哲学者 / 経済学者 / 革命家であるカール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx:1818年~1883年)が以前住んでいた。


カール・マルクスが以前住んでいたディーンストリート28番地の建物 -
現在、「クォ・ヴァディス(Quo Vadis)」と言う名前のレストラン・バーが,
ディーンストリート26ー29番地(26 - 29 Dean Street)の建物を使用して営業中。
<筆者撮影>


カール・マルクスは、1849年に妻子と一緒に、激動に揺れるヨーロッパ大陸からロンドンに移住して、ソーホー地区のディーンストリート28番地(28 Dean Street → 2014年6月6日付ブログで紹介済)に間借りしていた。ロンドンに移住した当時、彼は貧乏のどん底で、友人のフリードリヒ・エンゲルスから生活費の援助を受けて、なんとか糊口をしのいでいた。


大英博物館の正面入口 -
グレイトラッセルストリート(Great Russell Street
→ 2025年7月15日付ブログで紹介済)に面している。
<筆者撮影>


そんな貧乏のどん底に居たカール・マルクスにとって、入場無料で開放されていた大英博物館(British Museum → 2014年5月26日付ブログで紹介済)の円形閲覧室(Round Reading Room)は願ってもない場所であり、また、格好の研究の場でもあった。よって、彼は、毎日のように大英博物館に通っては、円形閲覧室で研究に没頭したとのこと。その研究成果として、カール・マルクスが発表したのが、あの有名な「資本論」だった訳である。


大英博物館内の円形閲覧室
<筆者撮影>


なお、カール・マルクスが間借りしていた建物では、現在、「クォ・ヴァディス(Quo Vadis)」と言う名前のレストラン・バーが営業しており、多くの人で賑わっている。


ディーンストリート28番地の建物外壁には、
カール・マルクスが以前住んでいたことを示すブループラークが掛けられている。
<筆者撮影>


建物の壁には、イングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)が管理するブループラーク(Blue Plaque)と呼ばれる銘板が掲げられており、「1851年から1856年までの約5年間、カール・マルクスがここに住んでいた。(KARL MARX 1818-1883 lived here 1851-1856)」と表示されている。


2025年8月12日火曜日

ジョン・ディクスン・カー作「囁く影」(He Who Whispers by John Dickson Carr)- その4

大英図書館(British Library
→ 2014年5月31日付ブログで紹介済)から
2023年に出版された
ジョン・ディクスン・カー作「囁く影」の内扉


1945年6月1日(金)の夜、ソーホー地区(Soho)内のベルトリングレストラン(Beltring’s Restaurant)において開催される予定だった「殺人クラブ(Murder Club)」の晩餐会に講演者として呼ばれてたジョルジュ・アントワーヌ・リゴー教授(Professor Georges Antoine Rigaud - エディンバラ大学(Edinburgh University)のフランス文学(French Literature)の教授)は、歴史学者であるマイルズ・ハモンド(Miles Hammond - 35歳)とフリートストリート(Fleet Street → 2014年9月21日付ブログで紹介済)にある新聞社の記者であるバーバラ・モレル(Barbara Morell - 26歳):フリートストリート(Fleet Street → 2014年9月21日付ブログで紹介済)の2人に対して、約6年前の1939年8月12日に、フランスのシャルトル(Chartres - パリから60㎞ 程南方に位置)郊外で実際に起きた「塔の上の殺人事件」と言う不可思議な話を語り終えた。

ウール川(River Eure)を間に挟んで、ボールガー荘(Beauregard)の向こう側に残る古城の廃墟の一部である「ヘンリー4世の塔(la Tour d’Henri Quarte / the tower of Henry the Fourth)」と呼ばれる古い塔の上で、仕込み杖の剣で刺されて殺されたハワード・ブルック(Howard Brooke - 皮革製造業(leather manufacture)のペルティエ社(Pelletier et Cie.)を営む英国人の大富豪 / 50歳)の息子であるハリー・ブルック(Harry Brooke - 20台半ば)は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)に出兵して、戦死した模様。


マイルズ・ハモンドとバーバラ・モレルの2人は、ベルトリングレストランを一緒に出ると、タクシーに相乗りする。

セントジョンズウッド地区(St. John’s Wood → 2014年8月7日付ブログで紹介済)へ帰宅するバーバラ・モレルを地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station)で降ろすと、マイルズ・ハモンドは、宿泊先のバークリーホテル(Berkeley Hotel)に戻る。


セントジョンズウッド ロード(St. John's Wood Road)沿いにあるフラット


マイルズ・ハモンドは、第二次世界大戦中に、叔父のサー・チャールズ・ハモンド(Sir Charles Hammond)がデヴォン州(Devon)のホテルにおいて亡くなったため、妹のマリオン・ハモンド(Marion Hammond)と一緒に、ハンプシャー州(Hampshire)ニューフォレスト(New Forrest)のグレイウッド(Greywood)に所在する土地と屋敷(膨大な蔵書がある図書室を含む)等の全財産を相続していた。

マイルズ・ハモンドは、図書室に所蔵されている膨大な蔵書の目録を作成してくれる司書(librarian)を募集しており、人材派遣会社より「司書の募集に応募があった」旨を知らされる。司書の募集に応募してきたのは、なんと、リゴー教授の話に出てきたフェイ・シートン(Fay Seton)だった。


翌日(1945年6月2日(土))の午後4時、マイルズ・ハモンドは、ウォータールー駅(Waterloo Station → 2014年10月19日付ブログで紹介済)に到着。ニューフォレスト行きの列車は、午後5時半発の予定だった。

そこへ彼の妹マリオン・ハモンドとスティーヴン・カーティス(Stephen Curtis - 愛称:スティーヴ(Steve))の2人がやって来る。スティーヴン・カーティス(30台後半 / 禿げ / 口髭あり)は、マリオン・ハモンドの婚約者で、英国情報局(Ministry of Information)に勤務。スティーヴン・カーティスは、情報局において、マリオン・ハモンドと知り合い、婚約に至っていた。


ウォータールー駅の正面玄関


マリオン・ハモンドとスティーヴン・カーティスに会ったマイルズ・ハモンドは、2人に対して、


(1)約6年前のシャルトル郊外で発生した謎の殺人事件

(2)当該殺人事件の容疑者だったフェイ・シートンを司書として採用したこと

につき、説明を行う。

スティーヴン・カーティスは、マリオン・ハモンドに対して、殺人事件の容疑者を雇うことに異を唱えたが、後の祭りだった。

生憎と、スティーヴン・カーティスは、明朝までに処理する必要がある仕事のため、同行できず、ニューフォレストへ戻るのは、マイルズ・ハモンド、マリオン・ハモンドとフェイ・シートンの3人だけとなる。


その夜、リゴー教授とギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が、突然、ニューフォレストのグレイウッドにあるマイルズ・ハモンドの屋敷へと車でやって来る。

リゴー教授によると、


*約6年前、フェイ・シートンとの不品行な関係と噂されたピエール・フレナック(Pierre Fresnac)が、衰弱のため、屋根裏部屋で寝込んでいた際、「窓の外に白い顔が浮かんでいるのを毎晩見た。」と証言。

*ピエールの父親であるジュールズ・フレナック(Jules Fresnac)が、ピエールの首に巻いていたスカーフを剥ぎ取ると、首筋には生き血を吸った鋭い歯型があった。


と語り、「実は、フェイ・シートンは、空中に浮かび上がることができる吸血鬼(vampire)で、約6年前の1939年8月12日、「ヘンリー4世の塔」の上に空中から近寄って、ハワード・ブルックを仕込み杖の剣で刺し殺したのだ。」と主張。


その時、屋敷の階上で銃声が轟き、マイルズ・ハモンド、リゴー教授とギディオン・フェル博士の3人が階上の部屋に駆け付けると、マリオン・ハモンドが瀕死の状態に陥っていた。何者かに襲われたらしい。マリオン・ハモンドの右手には、32口径の拳銃が握られており、彼女の部屋の窓ガラスに、銃弾の穴が開いていた。

マリオン・ハモンドは瀕死の状態だったが、リゴー教授の応急処置と往診に駆け付けた地元のガーヴィス医師(Dr. Garvice)の手当てにより、何とか一命を取りとめた。

一命を取りとめたマリオン・ハモンドは、何かが「囁く」と言う言葉を、譫言のように何度も呟いた。「吸血鬼は、生き血を吸う獲物を昏睡状態に陥れる際に、耳元で囁く。」とのこと。


約6年前のシャルトル郊外にある「ヘンリー4世の塔」の上で発生した殺人事件(被害者:ハワード・ブルック)と今眼前に発生した殺人未遂事件(被害者:マリオン・ハモンド)の2つの不可解な謎を解明するべく、ギディオン・フェル博士が動き出す。

果たして、リゴー教授が主張する通り、フェイ・シートンは空中に浮かび上がることができる吸血鬼で、これら2つの事件の犯人なのか?


2025年8月11日月曜日

ロンドン ピッツハンガーマナー(Pitzhanger Manor)- その2

ピッツハンガーマナーの建物正面を見たところ -
画面左手の建物(南側)は、
ジョージ・ダンス(子)による設計が残っている南翼で、
画面右手の建物)は、現在、ギャラリーとなっている。
建物正面の地面に設置されているのは、
Julian Opie 作「Curly hair」(2021年)と言うアート作品。
<筆者撮影>

英国の新古典主義を代表する建築家となり、1788年10月16日に、英国の建築家 / 彫刻家であるサー・ロバート・テイラー(Sir Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行(Bank of England → 2015年6月21日 / 6月28日付ブログで紹介済)の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めたサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年 → 2025年6月24日 / 6月28日 / 7月9日付ブログで紹介済)の自邸だったピッツハンガーマナー(Pitzhanger Manor)について、引き続き紹介したい。

ピッツハンガーマナーの建物裏面を見たところ -
画面右手の建物(南側)は、
ジョージ・ダンス(子)による設計が残っている南翼。
<筆者撮影>


ピッツハンガーマナーは、ロンドンの西部イーリング地区(Ealing)のウォルポールパーク(Walpole Park)内に所在するマナーハウスである。


英国の肖像画家であるサー・トマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence:1769年ー1830年)が描いた
「サー・ジョン・ソーン(76歳)の肖像画 (Portrait of Sir John Soane, aged 76)」
(1828年ー1829年)
の絵葉書
Oil on canvas 
<筆者がサー・ジョン・ソーンズ博物館で購入>


ジョン・ソーンは、1788年10月16日に、サー・ロバート・テイラーの後を継いで、イングランド銀行の建築家に就任し、正に建築家として上り調子にあった。

ジョン・ソーンは、妻エリザベス・ソーン(Elizabeth Soane / 旧姓:スミス(Smith)- 1784年8月21日に結婚)の叔父ジョージ・ワット(George Wyatt - ロンドンの建築業者で、1790年2月に死去)の遺産を相続した後、1792年6月30日にリンカーンズ・イン・フィールズ12番地(12 Lincoln’s Inn Fileds)の物件を購入。

そして、1792年から1794年にかけて、自分の設計に基づき、当時特有の質素な煉瓦家屋だった建物を取り壊しの上、再築を行い、1794年1月18日に移り住み、自宅と建築事務所を兼ねた。

リンカーンズ・イン・フィールズ12番地は、現在、サー・ジョン・ソーンズ博物館(Sir John Soane’s Museum / 住所: 12 - 14 Lincoln’s Inn Fields, London WC2A 3BP → 2025年5月22日 / 5月30日 / 6月3日 / 6月13日付ブログで紹介済)の一部として、一般に公開されている。


ピッツハンガーマナーの建物接続部分にある小庭園(その1)
<筆者撮影>

ピッツハンガーマナーの建物接続部分にある小庭園(その2)
<筆者撮影>


1800年、ジョン・ソーンは、ロンドンの西部に家族のための邸宅を購入することを決めた。

当初は、家族のための邸宅を一から建築するつもりだったが、同年7月21日、ピッツハンガーマナーの荘園全体が売却されることを知り、当地を訪問。当地を気に入った彼の購入希望は、同年8月1日に受諾される。


ピッツハンガーマナーの建物接続部分にある小庭園(その3)
<筆者撮影>

ピッツハンガーマナーの建物接続部分にある小庭園(その4)
<筆者撮影>


ジョン・ソーンは、新居のために、100通り以上のデザイン案を作成。

彼は、邸宅の古い部分と外壁の大部分の改築を考えていたが、英国の建築家であるジョージ・ダンス(子)(George Dance the Younger:1741年ー1825年)が1768年に設計した2階建ての南翼部分だけはそのまま残した。これは、ジョン・ソーンにとって、ジョージ・ダンス(子)が最初の師匠 / 雇い主であったため、かつての師匠 / 雇い主に対して敬意を払ったものと思われる。

ジョン・ソーンによる改築工事は、1800年に開始して、1804年に完了。

ジョージ・ダンス(子)が設計した南翼に接するピッツハンガーマナー本館には、イオニア式の円柱4本を備えた豪壮な正面玄関が構築された。

ジョン・ソーンは、1804年に竣工したピッツハンガーマナーにおいて、学会や美術界の名士達を集めた盛大なパーティーを度々開催。


ピッツハンガーマナーの建物正面玄関を見たところ -
正面玄関には、イオニア式の円柱4本が配置されている。
<筆者撮影>


ジョン・ソーンは、建築家として、大きな成功を収めたが、プライベート面において、子供達が彼の意に沿わないと言う問題を抱えていた。

彼と妻エリザベスの間には、以下の通り、4人の息子が生まれた。


*長男:ジョン(John)- 1786年4月29日に出生。

*次男:ジョージ(George)- 1787年のクリスマス前に出生するも、6ヶ月後に死亡。

*三男:ジョージ(George)- 1789年9月28日に出生。

*四男:ヘンリー(Henry)- 1790年10月10日に出生するも、翌年に死亡。


サー・ジョン・ソーンズ博物館内に所蔵 / 展示されている
「サー・ジョン・ソーンの長男ジョン(右側の人物)と
三男ジョージ(左側の人物)の肖像画」で、
英国の肖像画家であるウィリアム・オーウェン(William Owen:1769年ー1825年)が、
1804年に制作。
<筆者撮影>


ジョン・ソーンとしては、長男のジョンと三男のジョージの両方、あるいは、どちらかが自分の後を継いで、建築家になることを望んでいたが、残念ながら、長男のジョンも、三男のジョージも、建築には全く興味を示さなかった。

彼は、当初、ピッツハンガーマナーを建築家の仕事を受け継ぐことを希望していた長男のジョンと三男のジョージに相続させることを考えていたが、上記の理由により、その計画を断念。

また、妻エリザベスは、田舎生活をあまり楽しんでいなかった。

更に、ジョン・ソーンは、1806年に王立芸術院(Royal Academy of Arts)の建築教授に就任したことに伴い、リンカーンズ・イン・フィールズ12番地に隣接するリンカーンズ・イン・フィールズ13番地(13 Lincoln’s Inn Fileds)の物件を1808年6月に追加購入。当初、購入したリンカーンズ・イン・フィールズ13番地を前の所有者に賃貸しつつ、翌年の1809年にかけて、建物の裏手の馬小屋だった場所に、製図室と博物館を建設。これが、現在のサー・ジョン・ソーンズ博物館の元となっている。


ピッツハンガーマナーの建物接続部分にある小庭園(その5)
<筆者撮影>

ピッツハンガーマナーの建物接続部分にある小庭園(その6)
<筆者撮影>


ロンドン市内のリンカーンズ・イン・フィールズ12番地 / 13番地の整備に舵を切ったジョン・ソーンは、1810年にピッツハンガーマナーを売却。

その後、ピッツハンガーマナーは、数名の購入者の手を経た後、1843年に、英国で唯一暗殺された首相であるスペンサー・パーシヴァル(Spencer Perceval:1762年ー1812年)の娘の邸宅となっている。


ピッツハンガーマナーの建物正面玄関の左側にある装飾
<筆者撮影>

ピッツハンガーマナーの建物正面玄関の右側にある装飾
<筆者撮影>


なお、サー・ジョン・ソーン、長男のジョンと三男のジョージのその後について、述べておく。


長男のジョンは、怠惰な上に、病気がちで、1811年にマーゲイト(Margate)へ療養に出かけた際、そこで知り合った女性(マリア・プレストン(Maria Preston))と同年6月に結婚。サー・ジョン・ソーンは、渋々、ジョンの結婚を承諾するしかなかった。

また、三男のジョージは、ケンブリッジ大学(Cambridge University)で法律を学んでいたが、親交を結んだジャーナリストのジェイムズ・ボーデン(James Boaden:1762年ー1839年)の娘アグネス(Agnes)と、両親への事前の連絡なしに、同年7月に結婚。1814年9月、ジョージとアグネスの間に、双子が生まれたが、片方が出生後まもなくして亡くなった。

更に、ジョージは、1814年11月、負債と詐欺の容疑で投獄され、1815年1月、サー・ジョン・ソーンの妻エリザベスが、ジョージを保釈させるために、彼の負債と被害者への支払を肩代わりした。

三男のジョージの投獄による恥辱と心労のためか、サー・ジョン・ソーンの妻エリザは、1815年11月22日になくなってしまう。

三男のジョージは、保釈されたものの、妻アグネスと子供に対する家庭内暴力を続ける他、妻アグネスの妹との間にも、子供を設ける等、サー・ジョン・ソーンの面目を潰すことばかりを行った。

また、長男のジョンは、1823年10月21日に死去。


サー・ジョン・ソーンが埋葬されているセントパンクラス オールド教会は、
サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル
(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作
シャーロック・ホームズシリーズの短編第3作目に該る
「花婿失踪事件(A Case of Identity)」にも登場する。
<筆者撮影>


サー・ジョン・ソーンは、自分の死に際して、博物館の創設のために、自邸のリンカーンズ・イン・フィールズ12番地 / 13番地の建物を国家に寄贈することを決めた。

三男のジョージは、これが認められると、自分が父親の遺産を相続できなくなることを恐れ、裁判所に訴えたが、成功しなかった。


セントパンクラス ガーデンズ(St. Pancras Gardens → 2025年7月11日付ブログで紹介済)内にある
サー・ジョン・ソーンの霊廟
<筆者撮影>


サー・ジョン・ソーンは、1837年1月20日に亡くなり、セントパンクラス オールド教会(St. Pancras Old Church → 2014年10月11日付ブログで紹介済)に埋葬されている。


2025年8月10日日曜日

エリザベス・フリンク作ブロンズ彫刻「馬と馬乗り」(Horse and Riser by Elisabeth Frink)- その2

エリザベス・フリンク作ブロンズ彫刻「馬と馬乗り」(その1)
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の長編第2作目で、かつ、トマス・ベレズフォード(Thomas Beresford - 愛称:トミー(Tommy))とプルーデンス・カウリー(Prudence Cowley - 愛称:タペンス(Tuppence))の記念すべきシリーズ第1作目に該る「秘密機関(The Secret Adversary)」(1922年)の冒頭、第一次世界大戦(1914年ー1918年)が終わり、世界が復興へと向かう中、ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅(Dover Street Tube Station / 現在の地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)→ 2025年7月30日付ブログで紹介済)のドーヴァーストリート(Dover Street → 2025年7月28日 / 7月29日付ブログで紹介済)出口において、昔馴染みのトミーとタペンスは、数年ぶりに再会する。


エリザベス・フリンク作ブロンズ彫刻「馬と馬乗り」(その2)
<筆者撮影>


トミーとタペンスが再会したドーヴァーストリートとピカデリー通り(Piccadilly - ピカデリーライン(Piccadilly Line)とベイカールーライン(Bakerloo Line)の2線が乗り入れる地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station)とピカデリーラインが停まる地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)を東西に結ぶ約1マイルの幹線道路 2025年7月31日付ブログで紹介済)が交差する西側の角には、英国の彫刻家 / 版画家であるエリザベス・ジーン・フリンク(Elisabeth Jean Frink:1930年ー1993年)が制作したブロンズ彫刻「馬と馬乗り(Horse and Riser)」が設置されていた。


エリザベス・フリンク作ブロンズ彫刻「馬と馬乗り」(その3)-
画面左手の方向へ行くと、
王立芸術院の出入口(バーリントンガーデンズ側)に辿り着くことができる。
<筆者撮影>


1974年、エリザベス・フリンクは、ドーヴァーストリートとピカデリー通りが交差する西側の角に建つトラファルガーハウス(Trafalgar House)から彫刻作品の制作依頼を受ける。


エリザベス・フリンク作ブロンズ彫刻「馬と馬乗り」は、
2018年6月に、ピカデリー通りとドーヴァーストリートの角から
バーリントンガーデンズとニューボンドストリートの角へと移設された。
<筆者撮影>

1963年に最初の夫ミシェル・ジャメット(Michel Jammet)と離婚した後、1964年にエドワード・プール(Edward Pool)と再婚したエリザベス・フリンクは、、1967年から1970年にかけて南フランスで暮らしていた際、馬をモティーフにして彫刻作品を制作することが多くなった。


エリザベス・フリンク作ブロンズ彫刻「馬と馬乗り」が置かれている地面には、
王立芸術院の開設250周年を記念して、
2018年にこの場所に設置された旨を記す碑がある。
<筆者撮影>

彼女が制作した「馬と馬乗り」は、1975年にドーヴァーストリートとピカデリー通りが交差する西側の角に設置された。

馬は4本足で静かに立ち、その上に裸の男性が馬具なしで乗っている。そして、馬も馬乗りも、進行方向左手に顔をやや向けて、何かを見つめている。


王立芸術院が使用しているバーリントンハウスの正面玄関
(ピカデリー通り側)
<筆者撮影>

エリザベス・フリンク作「馬と馬乗り」は、2015年9月、歴史的な建造物の一つとして、「グレード II(Grade II listed building)」に指定された。


1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手の1枚


1769年に開校した王立芸術院(Royal Academy of Arts)の250周年記念事業の一環として、王立芸術院が使用しているバーリントンハウス(Burlington House)が大改修され、ピカデリー通り(南側)に加えて、バーリントンガーデンズ(Burlington Gardens - 北側)にも、出入口が設けられたことに伴い、エリザベス・フリンク作「馬と馬乗り」は、2018年6月、王立芸術院の北側出入口へ至るバーリントンガーデンズとニューボンドストリート(New Bond Street)の角へと移設されたのである。 


2025年8月9日土曜日

ヘンリー4世(Henry IV)

カンタベリー大聖堂に安置されている墓の上に建つ
ランカスター朝初代イングランド国王であるヘンリー4世と
彼と再婚して王妃となった
ジャンヌ・ド・ナヴァール(仏)/ ジョーン・オブ・ナヴァール(英)の彫像
(英国の Dorling Kindersley Limited から2001年に出版された

「Kings and Queens - A Royal History of
England & Scotland」から抜粋)

「囁く影(He Who Whispers → 2025年8月2日 / 8月7日 / 8月8日付ブログで紹介済)」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1946年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第16作目に該る。


エディンバラ大学(Edinburgh University)のフランス文学(French Literature)の教授(Professor)であるジョルジュ・アントワーヌ・リゴー(Georges Antoine Rigaud)が

シャルトル(Chartres - パリから60㎞ 程南方に位置)のホテルに滞在していた時期の1939年8月12日の午後4時過ぎ、「ヘンリー4世の塔(la Tour d’Henri Quarte / the tower of Henry the Fourth)」と呼ばれる古い塔の上において、皮革製造業(leather manufacture)のペルティエ社(Pelletier et Cie.)を営む英国人の大富豪であるハワード・ブルック(Howard Brooke - 50歳)が、仕込み杖の剣で刺され、流れ出た血でレインコートの背中がびしょ濡れとなった絶命寸前の状態で倒れているのが発見される。

ウール川(River Eure)を間に挟んで、ブルック一家が住むボールガー荘(Beauregard)の向こう側に、古城の廃墟があり、「ヘンリー4世の塔」は、その古城の一部だった。


「ヘンリー4世の塔」の入口の辺りには、ランバート(Lambert)一家がピクニックをしていたため、彼らの目を掻い潜って、塔の上へ向かうことは、誰にもできなかった。

そうなると、塔の上に行くには、川から塔の外壁をよじ登るしか、他に手段がないのだが、「ヘンリー4世の塔」は40フィート(約12 m)の高さがある上に、塔の壁面はすべすべとしているため、川から壁面をよじ登って、塔の上まで行くことは不可能に近いと思われた。


「ヘンリー4世の塔」自体、「囁く影」を執筆したジョン・ディクスン・カーによる創作であるが、ヘンリー4世(Henry IV:1366年ー1413年 在位期間:1399年ー1413年)は、ランカスター朝(House of Lancaster)初代のイングランド国王である。


ヘンリー4世は、


父:プランタジネット朝(House of Plantagenet)のイングランド国王であるエドワード3世(1312年ー1377年 在位期間:1327年ー1377年)の四男であるジョン・オブ・ゴーント(John of Gaunt:1340年ー1399年)


母:初代ランカスター公爵ヘンリー・オブ・グロスモント(Henry of Grosmont, 1st Duke of Lancaster:1310年頃ー1361年)の娘であるブランシュ・オブ・ランカスター(Blanche of Lancaster:1345年(?)/ 1347年(?)ー1368年)


の長男として出生。

彼は、リンカーンシャー州(Lincolnshire)のボリングブルック城(Bollingbroke Castle)で生まれたため、ヘンリー・ボリングブルック(Henry Bollingbroke)とも呼ばれた。


ヘンリー・ボリングブルックは、1380年、第7代ヘレフォード伯爵 / 第6代エセックス伯爵 / 第2代ノーサンプトン伯爵ハンフリー・ド・ブーン(Humphrey de Bohun, 7th Earl of Hereford, 6th Earl of Essex, 2nd Earl of Northampton:1342年-1373年)の次女であるメアリー・ド・ブーン(Mary de Bohun:1368年頃ー1394年)と結婚。

メアリー・ド・ブーンは、ヘンリー・ボリングブルックとの間に、後にランカスター朝第2代のイングランド国王となるヘンリー5世(Henry V:1387年頃ー1422年 在位期間:1413年ー1422年)を含む5男2女を儲けているが、ヘンリー4世即位以前の1394年、次女の出産時に亡くなっているため、王妃にはなっていない。


ヘンリー・ボリングブルックは、プランタジネット朝最後のイングランド国王であるリチャード2世(Richard II:1367年ー1400年 在位期間:1377年ー1399年)と対立し合う関係にあり、1398年、フランスのパリへ追放処分となり、王位継承権を奪われた。さらに、翌年の1399年2月に死去した父ジョン・オブ・ゴーントが残したランカスター公爵領も没収されたのである。


1399年5月、アイルランドへ遠征したリチャード2世がイングランドを空けた隙を狙って、ヘンリー・ボリングブルックは、イングランドに上陸。

北部貴族の協力を得た彼は、同年8月、遠征からの帰還途中だったリチャード2世をウェールズ(Wales)の国境で破り、リチャード2世を逮捕。同年9月30日、イングランド議会は、リチャード2世の廃位とヘンリー・ボリングブルックの王位継承を議決したことに伴い、同日、ヘンリー・ボリングブルックは、国王ヘンリー4世として即位して、ランカスター朝を開いた。なお、逮捕されたリチャード2世は、翌年の1400年2月に獄死している。


治世の初期から、ヘンリー4世は、相次ぐ諸侯の反乱に苦しめられたが、ヘンリー王太子(後のヘンリー5世)等の働きもあって、1405年には反乱も概ね平定され、晩年の治世は安定した。


フランスとの百年戦争(Hundred Years’ War:1337年ー1453年)が続く最中、ヘンリー4世は、フランスへの進出に意欲を見せ、1403年、ブルターニュ公のジャン4世・ド・ブルターニュ(Jean IV de Bretagne:1339年ー1399年 在位期間:1364年ー1399年)の未亡人であるジャンヌ・ド・ナヴァール(仏)/ ジョーン・オブ・ナヴァール(英)(Jeanne de Navarre / Joan of Navarre:1370年(?)ー1437年)と再婚。

しかし、ヘンリー4世の意図を見抜いたブルターニュの貴族 / 軍人であるオリヴィエ5世・ド・クリッソン(Olivier V de Clisson:1336年ー1407年)による計らいで、ジャンヌ・ド・ナヴァールと先夫ジャン4世・ド・ブルターニュの間の息子達については、イングランドへ連れて行かないで、フランス王室へ預けられることになり、ヘンリー4世の目論見は頓挫することになった。

なお、ヘンリー4世と王妃となったジャンヌ・ド・ナヴァールの間には、子供は居ない。


地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)内の
ベイカールーライン(Bakerloo Line)用プラットフォームの壁に描かれている
ヘンリー5世(一番左側の人物)の肖像画


1405年の反乱平定後、体調を崩したヘンリー4世は、政治運営がままならなくなったため、ヘンリー王太子が父王に代わって国政に関与するようになった。ヘンリー王太子自身、ウェールズ平定の功績が非常に大きく、次第に人気が高まって行った。


ヘンリー4世は、リトアニア遠征時(1390年ー1392年)に罹患した伝染性疾患のため、1413年3月20日、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)内の礼拝堂で祈っていた際、発作に襲われて、崩御。

遺言に基づき、ヘンリー4世は、カンタベリー大聖堂(Canterbury Cathedral)に埋葬され、ヘンリー王太子がヘンリー5世として即位したのである。