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シャフツベリーアベニュー近辺のディーンストリート(その1) - 画面奥に見える左右に延びる通りが、シャフツベリーアベニュー。 <筆者撮影> |
米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1946年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第16作目に該る「囁く影(He Who Whispers → 2025年8月2日 / 8月7日 / 8月8日 / 8月12日付ブログで紹介済)」の場合、歴史学者のマイルズ・ハモンド(Miles Hammond - 35歳)が、ソーホー地区(Soho)内のベルトリングレストラン(Beltring’s Restaurant)において開催される「殺人クラブ(Murder Club)」の晩餐会に出席するために、現地へ向かっているところから、その物語が始まる。
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大英図書館(British Library → 2014年5月31日付ブログで紹介済)から 2023年に出版された ジョン・ディクスン・カー作「囁く影」の表紙 (Front cover : Mary Evans Picture Library) |
1938年にノーベル賞(Nobel Prize)を受賞した歴史学者のマイルズ・ハモンドは、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、陸軍(Army)に入隊したが、戦車部隊(Tank Corps)に所属していたため、ディーゼル油中毒(Diesel-oil-poisoning)に罹患して入院、18ヶ月間、病院のベッドで過ごす。
その間に、彼の叔父に該るサー・チャールズ・ハモンド(Sir Charles Hammond)がデヴォン州(Devon)のホテルにおいて亡くなったので、マイルズ・ハモンドは、妹のマリオン・ハモンド(Marion Hammond)と一緒に、ハンプシャー州(Hampshire)ニューフォレスト(New Forrest)のグレイウッド(Greywood)に所在する土地と屋敷(膨大な蔵書がある図書室を含む)等の全財産を相続。
1945年5月7日、枢軸国のドイツが連合国側に対して無条件降伏を行ったため、欧州にはやっと平和が訪れていた。
漸く心身の傷が癒えたマイルズ・ハモンドは、同年6月1日(金)の午後9時半頃、ロンドンのソーホー地区内を歩いていた。彼は、5年ぶりにソーホー地区内のベルトリングレストランにおいて開催される「殺人クラブ」の晩餐会(午後8時半開始)に、友人のギディオン・フェル博士から招待されていたものの、気が進まず、1時間程遅れてしまったのである。
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シャフツベリーアベニュー近辺のディーンストリート(その2) <筆者撮影> |
マイルズ・ハモンドは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から北東方向へ延びるシャフツベリーアベニュー(Shaftesbury Avenue → 2016年5月15日付ブログで紹介済)を左へ折れて、ディーンストリート(Dean Street)へと入った。
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シャフツベリーアベニュー近辺のディーンストリート(その3) <筆者撮影> |
A fine rain was falling, less than a rain than a sort of greasy mist, when Miles Hammond turned off Shaftesbury Avenue into Dean Street. Though you could tell little from the darkened sky, it must be close on half-past nine o’clock. To be invited to a dinner of the Murder Club, and then to get there nearly an hour late, was more than mere discourtesy; it was infernal, unpardonable cheek even though you had a good reason.
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シャフツベリーアベニュー近辺のディーンストリート(その4) <筆者撮影> |
ディーンストリートは、ロンドンの中心部にあるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のソーホー地区内に所在する通りで、その北側はオックスフォードストリート(Oxford Street → 2016年5月28日付ブログで紹介済)から始まり、
オックスフォードサーカス(Oxford Circus)からマーブルアーチ(Marble Arch)へ向かう オックスフォードストリート(画面奥)を望む。 <筆者撮影> |
*カーライルストリート(Carlisle Street)
*セントアンズコート(St. Anne’s Court)
*リッチモンドビルディングス(Richmond Buildings)
*チャポーンプレイス(Chapone Place)
*ベイトマンストリート(Bateman Street)
*メアードストリート(Meard Street)
*バーチアーストリート(Bourchier Street)
*オールドコンプトンストリート(Old Compton Street)
*ロミリーストリート(Romilly Street)
ディーンストリート(右手)近辺のシャフツベリーアベニュー - シャフツベリーアベニューから左手奥に入ると、チャイナタウンが広がっている。 <筆者撮影> |
と交差した後、その南側はシャフツベリーアベニューに突き当たって終わっている。
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シャフツベリーアベニュー近辺のディーンストリート(その5) - 画面奥に見えるのが、チャイナタウン。 <筆者撮影> |
「囁く影」の場合、マイルズ・ハモンドは、南側のシャフツベリーアベニューからディーンストリートへと入り、北上することになる。
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「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から ソーホー地区の地図を抜粋。 |
なお、チャポーンプレイスとベイトマンストリートの間のディーンストリート沿いに建つ建物に、「共産党宣言(Manifest der Kommunistischen Partei)」(1848年ープロイセン王国時代のドイツのの社会思想家 / 政治思想家 / ジャーナリスト / 実業家 / 軍事評論家 / 革命家であるフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels:1820年ー1895年)との共著)や「資本論(Das Kapital)」(1867年)で有名なプロイセン王国時代のドイツの哲学者 / 経済学者 / 革命家であるカール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx:1818年~1883年)が以前住んでいた。
カール・マルクスが以前住んでいたディーンストリート28番地の建物 - 現在、「クォ・ヴァディス(Quo Vadis)」と言う名前のレストラン・バーが, ディーンストリート26ー29番地(26 - 29 Dean Street)の建物を使用して営業中。 <筆者撮影> |
カール・マルクスは、1849年に妻子と一緒に、激動に揺れるヨーロッパ大陸からロンドンに移住して、ソーホー地区のディーンストリート28番地(28 Dean Street → 2014年6月6日付ブログで紹介済)に間借りしていた。ロンドンに移住した当時、彼は貧乏のどん底で、友人のフリードリヒ・エンゲルスから生活費の援助を受けて、なんとか糊口をしのいでいた。
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大英博物館の正面入口 - グレイトラッセルストリート(Great Russell Street → 2025年7月15日付ブログで紹介済)に面している。 <筆者撮影> |
そんな貧乏のどん底に居たカール・マルクスにとって、入場無料で開放されていた大英博物館(British Museum → 2014年5月26日付ブログで紹介済)の円形閲覧室(Round Reading Room)は願ってもない場所であり、また、格好の研究の場でもあった。よって、彼は、毎日のように大英博物館に通っては、円形閲覧室で研究に没頭したとのこと。その研究成果として、カール・マルクスが発表したのが、あの有名な「資本論」だった訳である。
大英博物館内の円形閲覧室 <筆者撮影> |
なお、カール・マルクスが間借りしていた建物では、現在、「クォ・ヴァディス(Quo Vadis)」と言う名前のレストラン・バーが営業しており、多くの人で賑わっている。
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ディーンストリート28番地の建物外壁には、 カール・マルクスが以前住んでいたことを示すブループラークが掛けられている。 <筆者撮影> |
建物の壁には、イングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)が管理するブループラーク(Blue Plaque)と呼ばれる銘板が掲げられており、「1851年から1856年までの約5年間、カール・マルクスがここに住んでいた。(KARL MARX 1818-1883 lived here 1851-1856)」と表示されている。
