2019年6月9日日曜日

ロンドン フェントンハウス(Fenton House)–その2

フェントンハウスの建物正面全景

イングランド北部のヨークシャー州(Yorkshire)出身で、バルト海を中心に取引を行っていた商人のフィリップ・フェントン(Philip Fenton)が、1793年に建物を買い取った後、かなりの改装工事を実施した。

ハムステッドグローヴの北側から南方面を見たところ–
フェントンハウスは、右側に建っている

フィリップ・フェントンは、現在のラトビア(Latvia)の首都であるリガ(Raga)に商売のベースを置き、甥のジェイムズ・フェントン(James Fenton)と一緒に、主にリガでの暮らしを送り、ロンドンで暮らすということは少なかったが、1834年に亡くなるまでの約40年間、邸宅を所有し続けた。フィリップ・フェントンの死後、甥のジェイムズ・フェントンが邸宅を相続した。

フェントンハウスの反対側にある歩道から、
ハムステッドグローヴの北方面を望む–
閑静な住宅街内にあり、週末でも人通りが少ない

フィリップ・フェントンが約40年間にわたって所有していたことから、建物は「フェントンハウス」と呼ばれるように変わったのである。

フェントンハウスの反対側にある建物の外壁一面には、
薔薇が生い茂っている

その後、フェントンハウスは所有者を転々とするが、最後の所有者となったのは、レディー・キャサリン・ビニング(Lady Katherine Binning:1871年ー1952年)である。

ハムステッドグローヴから見たフェントンハウス(その1)

彼女は、第11代ハディントン伯爵(11th Earl of Haddington)の第二子で、長男のビニング卿ジョージ・ベイリー=ハミルトン(George Baillie-Hamilton Lord Binning)と結婚。英国陸軍将校だった夫は、1917年に父親より先に亡くなったため、爵位を継承することにはなかった。

ハムステッドグローヴから見たフェントンハウス(その2)

夫の死後、レディー・キャサリン・ビニングは、1936年にフェントンハウスを購入して、亡くなる1952年まで住み続けた。

フェントンハウス内の庭園への入口

1952年にレディー・キャサリン・ビニングが亡くなった後、フェントンハウスは、ナショナルトラスト(National Trust)に管理され、1953年に一般公開の上、現在に至っている。

ハムステッドグローヴから見たフェントンハウス(その3)

なお、フェントンハウスは、現在、グレード I(Grade I listed building)の指定を受けている。

2019年6月8日土曜日

ロンドン フェントンハウス(Fenton House)–その1

フェントンハウスの建物正面全景–
以前、建物の外壁に時計が設置されていたことに因んで、「クロックハウス」と呼ばれていたが、
現在、時計は取り外されている。
写真の白い丸の部分に、以前、時計が設置されていた。

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、「フェントンハウス(Fenton House)」と呼ばれる建物がある。


ノーザンライン(Northern Line)が停まる地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)の改札口を出ると、ジュビリーライン(Jubilee Line)が停まるスイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)からハムステッドヒース(Hampstead Heath→2015年4月25日付ブログで紹介済)へと北上してきたヒースストリート(Heath Street)が、目の前を通過している。

フェントンハウスの庭園への入口

このヒースストリートを横切り、フログナルライズ(Frognal Rise)の登り坂を上がって行くと、進行方向右手にハムステッドグローヴ(Hampstead Grove)が見えてくるので、そこで右折し、そして、少し進むと、進行方向左手に、フェントンハウス(Fenton House)が建っている。

庭園越しにフェントンハウス(横側)を望む

フェントンハウスは、1686年から1683年にかけて、ウィリアム・イーデス(William Eades)によって建設された。

フェントンハウスの庭園(その1)
フェントンハウスの庭園(その2)

フェントンハウスは、18世紀初め頃、オステンドハウス(Ostend House)と呼ばれており、その後、建物正面の外壁に時計が設置されたことに因んで、クロックハウス(Clock House)と呼ばれるようになった。

2019年6月3日月曜日

ロンドン ウォーリントン クレッセント2番地 / ザ・コロネードホテル(2 Warrington Crescent / The Colonnade Hotel)

地下鉄ウォーリックアベニュー駅方面から見た
「ザ・コロネードホテル」の全景(その1)

第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、ブレッチリーパーク(Bletchley Park)にある英国の暗号解読センターの政府暗号学校において、ドイツ軍が使用したエニグマ暗号機による通信の解読に成功した英国の数学者、論理学者、暗号解読者兼コンピューター科学者であるアラン・マシソン・テューリング(Alan Mathison Turing:1912年ー1954年)が出生した場所が、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のメイダヴェール地区(Maida Vale)内にある。


ベイカールーライン(Bakerloo Line)を使い、地下鉄パディントン駅(Paddington Tube Station)から一駅北上した地下鉄ウォーリックアベニュー駅(Warwick Avenue Tube Station)で下車。そして、地下鉄の出口近くにあるウォーリントン クレッセント(Warrington Crescent)を少し北へ上がったウォーリントン クレッセント2番地(2 Warrington Crescent)の建物である「ザ・コロネードホテル(The Colonnade Hotel)」が、それである。

「ザ・コロネードホテル」の右側正面

アラン・マシソン・テューリングの母親であるエセル・テューリングは、インドの高等文官であった夫のジュリアス・テューリングと一緒に、英国領インド帝国オリッサ州チャトラプルに駐在していた。ジュリアス・テューリングは、妻エセルの妊娠を知ると、子供を英国本国で養育することを考えて、彼女をロンドンへと帰国させた。そして、1912年6月23日、アラン・テューリングは、当時、病院だったウォーリントン クレッセント2番地にて出生したのである。

「ザ・コロネードホテル」の玄関(その1)

「ザ・コロネードホテル」の玄関(その2)

アラン・テューリングが出生した病院があったウォーリントン クレッセント2番地の建物では、現在、「ザ・コロネードホテル」が営業している。「コロネード(Colonnade)」とは、(1)列柱 / 柱廊や(2)並木 / 街路樹を意味する。
ホテルの玄関左横にある建物外壁に、アラン・テューリングがここで出生したことを示すイングリッシュヘリテージ(English Heritage)管理のブループラークが掛けられている。

「ザ・コロネードホテル」の玄関左側の建物外壁に掛けられている
ブループラーク(その1)

「ザ・コロネードホテル」の玄関左側の建物外壁に掛けられている
ブループラーク(その2)

アンドリュー・ホッジスによる伝記「Alan Turing:The Enigma」を基にして、アラン・テューリングを主人公にした歴史ドラマ映画「イミテーションゲーム / エニグマと天才数学者の秘密(The Imitation Game)」が、2014年に公開された。
なお、主人公のアラン・テューリングを、BBC1 で放映された推理ドラマ「シャーロック(Sherlock)」(2010年ー)において、シャーロック・ホームズを演じた英国の俳優であるベネディクト・ティモシー・カールトン・カンバーバッチ(Benedict Timothy Carlton Cumberbatch:1976年ー)が演じている。

「ザ・コロネードホテル」の玄関口の大理石に刻まれている
ホテル名

ドイツ軍が使用したエニグマ暗号機による通信の解読に成功したアラン・テューリングであったが、第二次世界大戦後の1952年、当時、英国では違法だった同性間性行為のかどで告発され、その後、不遇の時を過ごした。
そして、1945年6月8日、家政婦が、アラン・テューリングが自宅で死んでいるのを発見した。検死解剖の結果、彼が死亡したのは、前日の同年6月7日で、青酸化合物による中毒死であることが判明。彼のベッドの脇に、齧りかけのリンゴが落ちていたが、そのリンゴに青酸化合物が塗られていたかどうかの分析は行われなかった。ただ、彼の部屋には、青酸化合物の瓶が多数あったため、死因審問において、彼の死は自殺と断定された後、同年6月12日に火葬された。

地下鉄ウォーリックアベニュー駅方面から見た
「ザ・コロネードホテル」の全景(その2)

近年、アラン・テューリングの再評価が進んでおり、それが契機となって、歴史ドラマ映画「イミテーションゲーム / エニグマと天才数学者の秘密」が製作 / 公開されている。

2019年6月2日日曜日

カーター・ディクスン作「九人と死で十人だ」(Nine - and Death makes Ten by Carter Dickson)–その3

東京創元社が発行する創元推理文庫「九人と死で十人だ」の表紙−
    カバーイラスト:ヤマモト マサアキ氏
カバーデザイン:折原 若緒氏
  カバーフォーマット:本山 木犀氏

ジア・ベイ夫人の殺人現場は、ニューヨークから英国の某港へと航行するエドワーディック号(2万7千トン級)の船内、つまり、洋上であり、外部からの侵入はあり得なかった。そうなると、容疑者は限定されて、エドワーディック号の乗組員、あるいは、一般人の乗客8人のうちの誰かが犯人であることは、間違いなかった。その上、殺害現場には、犯人の明瞭な指紋が残されており、犯人の逮捕は時間の問題だと思われた。

エドワーディック号の船長であるフランシス・マシューズ海軍中佐の指示に基づいて、グリズワルド事務長が、彼のオフィス内にあった指紋採取用のインクローラーと小さな座席カードを使って、船内に居る全員の指紋を集めた。そして、ニューヨークの地方検事補であるジョン・E・ラスロップに協力を求め、グリズワルド事務長が集めた船内全員の指紋とジア・ベイ夫人の殺害現場に残されていた犯人の血染めの指紋との照合を依頼したのである。

翌1月21日の日曜日、船長のフランシス・マシューズ海軍中佐と彼の弟であるマックス・マシューズの二人は、C甲板にあるグリズワルド事務長のオフィスへと呼び出された。協力を求めたジョン・E・ラスロップによる指紋照合の結果が、遂に出たのだ。グリズワルド事務長のオフィスへと集まった二人に対して、ジョン・E・ラスロップは、驚くべき事実を告げる。ジア・ベイ夫人の殺害現場に残されていた二つの血染めの指紋は、左右の親指の指紋であったが、前日にグリズワルド事務長が集めた船内に居る全員の指紋を調べた結果、奇妙な事に、該当者は一人も居なかったのである。

信じ難い結果に頭を抱えた船長のフランシス・マシューズ海軍中佐は、陸軍省情報部長だったヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)に、今回の謎の解明を委ねることにした。乗客名簿に記載されていた残りの人物とは、ヘンリー・メリヴェール卿のことで、船長室の隣の船室に秘密裡に居たのである。

「九人と死で十人だ(Nine - and Death makes Ten)」(1940年)は、ジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年) / カーター・ディクスン(Carter Dickson)がメイントリック一つのシンプルなストーリー構成で魅せた1940年代の作品に属しているが、本作品の評価については、「1940年代初期のカーの最上作の一つ」と非常に高く評価する側(ダグラス・G・グリーン→「ジョン・ディクスン・カー 奇跡を解く男」(1995年)の著者)とあまり評価しない側(松田道弘→「新カー問答」(1977年ー1978年)の著者)の二つに大きく分かれている。
個人的には、指紋トリックがそれ程とは思えず、同時期の代表作である「皇帝のかぎ煙草入れ(The Emperor’s Snuff-Box)」(1942年)と比べると、全体的に物足りない印象を受ける。

日本において、「九人と死で十人だ」は、1999年に国書刊行会から出版された以降、そのままになっていたが、2018年7月に創元推理文庫に収録された。

2019年3月24日日曜日

ロンドン バーンズ地区(Barnes)–その2

バーンズ地区内にあるロンズデールロード(Lonsdale Road)沿いにある学校 St. Paul's School

西の方から流れてきたテムズ河(River Thames)は、バーンズ地区(Barnes)近辺に到達したところで、北側へ大きく曲がりくねり、そして、再び南側へと曲がって、ロンドン市内へと流れていく。テムズ河に沿って、大きな瘤のように北側へとせり出している部分が、バーンズ地区に該る。

バーンズ地区内にあるロンズデールロード(Lonsdale Road)沿いに
建ち並ぶ高級住宅街(その1)

バーンズ地区は、テムズ河の上流にあるチジック橋(Chiswick Bridge)経由、テムズ河の北岸にあるハウンズロー・ロンドン自治区(London Borough of Hounslow)のチジック地区(Chiswick→2016年7月23日付ブログで紹介済)と繋がっているが、正確には、チジック橋があるのは、リッチモンド・アポン・テムズ・ロンドン自治区(London Borough of Richmond upon Thames)のイーストシーン地区(East Sheen)内である。
また、北側へ大きくせり出した瘤の頂点辺りで、ハマースミス橋(Hammersmith Bridge→2019年2月16日 / 2月24日付ブログで紹介済)経由、テムズ側の北岸にあるハマースミス・アンド・フラム・ロンドン自治区(London Borough of Hammersmith and Fulham)のハマースミス地区(Hammersmith)と繋がっている。
そして、テムズ河の下流にあるパットニー橋(Putney Bridge)経由、テムズ河の北岸にあるハマースミス・アンド・フラム・ロンドン自治区のパーソンズ・グリーン地区(Parsons Green)を繋がっているが、正確には、パットニー橋があるのは、ワンズワース・ロンドン自治区(London Borough of Wandsworth)内である。

と言う訳で、バーンズ地区自体がテムズ河の北岸と繋がっているのは、実質的には、ハマースミス橋を経由してのみで、改修工事等の関係で、ハマースミス橋が閉鎖されてしまうと、バーンズ地区は、所謂、「陸の孤島」状態になってしまうのである。

バーンズ地区内にあるロンズデールロード(Lonsdale Road)沿いに
建ち並ぶ高級住宅街(その2)

テムズ川の北岸にあるハマースミス地区内には、地下鉄ハマースミス駅(Hammersmith Tube Station)があり、

(1)地下鉄ハマースミス駅を始発駅とするサークルライン(Circle Line)とハマースミス・アンド・シティーライン(Hammersmith and City Line)を使って、シティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の北側方面へ、
(2)ピカデリーライン(Piccadilly Line)を使って、ウェストエンド(West End)方面へ、そして、
(3)ディストリクトライン(District Line)を使って、シティー・オブ・ロンドンの南側方面へと

行くことが可能で、非常に交通の便が良いため、ハマースミス橋を渡ったテムズ河の南岸にあるバーンズ地区には、ロンドン市内へと通う会社勤めの人も、かなり多く住んでいる。

バーンズ地区の西エリアと北東エリアには、18世紀 / 19世紀に建てられた住宅街が広がっており、南東エリアには、WWT London Wetland Centre と呼ばれる湿原があり、保存されている。

2019年3月10日日曜日

ロンドン バーンズ地区(Barnes)–その1

バーンズ地区内にあるロンズデールロード(Lonsdale Road)沿いに建ち並ぶ高級住宅街

サー・アーサー・コナン・ドイル作「六つのナポレオン像(The Six Napoleons)」は、ある夜、スコットランドヤードのレストレイド警部(Inspector Lestrade)がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れるところから、物語が始まる。

最近、ロンドンの街中で何者かが画廊や住居等に押し入って、ナポレオンの石膏胸像を壊してまわっていたのだ。そのため、レストレイド警部はホームズのところへ相談に来たのである。最初の事件は、4日前にモース・ハドソン氏(Mr Morse Hudson)がテムズ河(River Thames)の南側にあるケニントンロード(Kennington Road→2016年6月11日付ブログで紹介済)で経営している画廊で、そして、2番目の事件は、昨夜、バーニコット博士(Dr Barnicot)の住まい(ケニントンロード)と診療所(ロウワーブリクストンロード(Lower Brixton Road)→2017年7月20日付ブログで紹介済)で発生していた。続いて、3番目の事件がケンジントン地区(Kensington)のピットストリート131番地(131 Pitt Street→2016年6月18日付ブログで紹介済)にあるセントラル通信社(Central Press Syndicate)の新聞記者ホーレス・ハーカー氏(Mr Horace Harker)の自宅で起きたのであった。4体目の石膏胸像が狙われた上に、今回は殺人事件にまで発展したのだ。

ハマースミス橋(Hammersmith Bridge)を渡って
バーンズ地区内に入ったところ

ステップニー地区(Stepney → 2016年7月16日付ブログで紹介済)のチャーチストリート(Church Street)にあるゲルダー社(Gelder and Co.)を訪れたホームズとジョン・H・ワトスンは、ナポレオンの石膏胸像が全部で6体制作され、3体がケニントンロードのモース・ハドソン氏の画廊へ、そして、残りの3体はケンジントンハイストリート(Kensington High Street→2016年7月9日付ブログで紹介済)のハーディングブラザーズ(Harding Brothers)の店へ送られたことを聞き出す。モース・ハドソン氏の画廊へ送られた3体は、全て何者かによって壊されたため、ホームズとワトスンはハーディングブラザーズの店へ出向き、ホーレス・ハーカー氏が購入した1体を除く残りの2体の行方について尋ねたのであった。


この大商店の創始者は、きびきびとして歯切れのいい小柄な男で、こざっぱりした服装をしていた。また、頭の回転が速く、口が達者な男だった。
「ええ、夕刊で既にその記事を読みました。ホーレス・ハーカーさんは、私どもの顧客でございます。数ヶ月前に彼に問題の胸像を配達しました。同じ種類の胸像は、ステップニー地区にあるゲルダー社に注文しましたが、もう全部売れてしまいました。誰にですって?ああ、売上台帳を見れば、簡単にお教えできますよ。ここに記載してあります。一つは、既に御存知の通り、ハーカーさん、もう一つは、チジック、ラバーナムヴェール、ラバーナム荘のジョサイア・ブラウンさん、最後の一つは、レディング、ロウワーグローヴロードのサンドフォードさんです。」

The founder of that great emporium proved to be a brisk, crisp little person, very dapper and quick, with a clear head and a ready tongue. 
'Yes, sir, I have already read the account in the evening papers. Mr Horace Harker is a customer of ours. We supplied him with the bust some months ago. We ordered three busts of that sort from Gelder and Co., of Stepney. They are all sold now. To whom? Oh I dare say by consulting our sales book we could very easily tell you. Yes, we have the entries here. One to Mr Harker, you see, and one to Mr Josiah Brown, of Laburnum Lodge, Laburnum Vale, Chiswick, and one to Mr Sanderford, of Lower Grove Road, Reading.'

11時にベイカーストリート221B の戸口に四輪馬車が横付けされた。私達はそれに乗って、ハマースミス橋の反対側の場所へと向かった。そこで、馬車の御者は待つように指示された。少しばかり歩くと、一目につかない道に出た。その道の周辺には、自分の敷地にそれぞれ建てられた感じの良い家が並んでいた。街灯の明かりで、それらの家の一つの門柱に「ラバーナム荘」と書かれていることが見てとれた。住人は既に就寝しているようだった。というのも、玄関口の上の扇形の明かりを除くと、家全体が真っ暗だったからだ。扇形の明かりは、庭の小道にぼんやりとした光の輪を落としていた。庭を道から隔てる木製の塀が、内側に濃く、そして、黒い影を落としていた。私達は、正に、その影の中にしゃがみ込んで、身体を低くしたのである。

A four-wheeler was at the door at eleven, and in it we drove to a spot at the other side of Hammersmith Bridge. Here the cabman was directed to wait. A short walk brought us to a secluded road fringed with pleasant houses, each standing in its own grounds. In the light of a street lamp we read 'Laburnum Villa' upon the gatepost of one of them. The occupants had evidently retired, for all was dark save for a fanlight over the hall door, which shed a single blurred circle on the garden path, The wooden fence which separated the grounds from the road threw a dense black shadow upon the inner side, and here it was that we crouched.

ロンズデールロードから
カステルノー通り(Castelnau−ハマースミス橋から真っ直ぐ南下する道路)を
見たところ

夜の11時過ぎに、ホームズ、ワトスンとレストレイド警部の3人が四輪馬車で向かった「ハマースミス橋(Hammersmith Bridge→2019年2月16日 / 2月24日付ブログで紹介済)の反対側」とは、リッチモンド・アポン・テムズ・ロンドン自治区(London Borough of Richmond upon Thames)のバーンズ地区(Barnes)で、テムズ河(River Thames)の南岸沿いに位置している。

2019年3月3日日曜日

カーター・ディクスン作「九人と死で十人だ」(Nine - and Death makes Ten by Carter Dickson)–その2

東京創元社が発行する創元推理文庫「九人と死で十人だ」の表紙−
    カバーイラスト:ヤマモト マサアキ氏
カバーデザイン:折原 若緒氏
  カバーフォーマット:本山 木犀氏

航海初日が何事もなく過ぎた翌日(1月20日(土))の午前11時、エドワーディック号の甲板では、三等航海士クルクシャンクの指導の下、緊急時に備えた救命ボート訓練が、一般人の乗客8名も含めて、実施された。全員参加が必須であったが、ヴァレリー・チャトフォードとジェローム・ケンワージーの2人が結成して、クルクシャンクの機嫌が非常に悪くなる。彼は「これは生死に関わる重大な問題だ。」と言って、手伝いのボーイに2人を船室から引きずり出すよう、命じる。そうこうしている間に、今度はフランス人のピエール・ブノワ大尉が、いつの間にか、姿を消してしまった。

同日の午後9時、食堂で夕食を終えたマックス・マシューズとエステル・ジア・ベイの二人は、休憩室でブランデーを飲み始め、一緒に酔いつぶれた。
甲板で暫く風にあたって酔いを冷ました二人は、社交室を通り抜けて、中央階段があるホールまでやって来た。すると、ジア・ベイ夫人は、お化粧直しと肩に羽織るものを取って来るため、一旦船室へ戻って行った。その時、中央階段の向かい側にあるエレベーターの上の掛け時計は、午後9時45分を指していた。

ジア・ベイ夫人が船室へ戻ってから、マックス・マシューズは彼女を十数分間待ったが、戻って来ないため、彼女のことが心配になってきた。マックス・マシューズは、ジア・ベイ夫人の様子を見に行くために、階段を下りて、B甲板へと着いた。マックス・マシューズは、ジア・ベイ夫人の部屋B37号室をノックするが、内から全く返事がなかった。三度目のノックの後、マックス・マシューズはドアを開けて、ジア・ベイ夫人の部屋へ入った。
室内は暗く、右隅の浴室内に灯る薄明かりで、ジア・ベイ夫人が化粧机の前にスツールにこちらへ背を向けて座り、机に顔を伏せているのが、朧げに見えた。一見すると、彼女は化粧直しをしている最中に寝入ってしまったかのようだった。マックス・マシューズが寝室の明かりをつけると、化粧机の鏡に飛び散った血しぶきが、彼の目に飛び込んできた。彼が彼女の周りを見ると、一面血の海だった。ジア・ベイ夫人は、何者かによって、喉を掻き切られていたのである。

マックス・マシューズは、部屋を出ると、近くに居た船室係に、兄で船長のフランシス・マシューズ海軍中佐を至急呼んでくるように伝えた。5分も経たないうちに、フランシス・マシューズ海軍中佐がやって来て、マックス・マシューズと一緒に、ジア・ベイ夫人の遺体を調べ始めた。すると、彼女の白いドレスの右肩に、親指と思われる血染めの指紋が、明瞭に残されていたのである。それに、ややぼやけているいるものの、遺体の左腰にも、指紋がもう一つあった。これらの指紋は、ジア・ベイ夫人の喉を掻き切った犯人のもので、ジア・ベイ夫人の喉から飛び散った血しぶきの量に動転した犯人が慌てて逃げる際に、誤って残したのだと、二人には推測できた。