2022年4月24日日曜日

トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar) - その2

「トラファルガーの海戦」(1805年10月21日)の200周年を記念して、
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が、2005年10月18日に発行した
記念切手に付いている海戦図

英国本土上陸作戦の中止を決断したフランス第一帝政の皇帝であるナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte:1769年ー1821年 在位期間:1804年-1814年+1815年)、すなわち、ナポレオン1世は、次の手として、オーストリアへの侵攻を計画し、その支援のため、スペインのフィニステレ岬(Cape Finisterre)の沖で行われたフィニステレ岬の海戦(Battle of Cape Finisterre - 1805年7月22日に、英国艦隊とフランス / スペイン連合艦隊の間で行われた海戦)から撤退して、スペインのカディス(Cadiz:スペイン南西部に位置し、大西洋に面する港湾都市)に入り、整備を行っていたフランス / スペイン連合艦隊を率いる提督(トゥーロン駐留艦隊司令官)のピエール=シャルル=ジャン=バティスト=シルヴェストル・ド・ヴィルヌーヴ伯爵(Pierre-Charles-Jean-Baptiste-Silvestre de Villeneuve:1763年ー1806年)に対して、命令を下した。ナポレオン1世からの命令を受けたド・ヴィルヌーヴ提督は、1805年10月19日から20日にかけて、フランス / スペイン連合艦隊をカディスから出撃させた。一方、地中海艦隊司令長官(Commander-in-Chief of the Mediterranean  Fleet)であったホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson:1758年ー1805年)が率いる英国地中海艦隊は、出撃したフランス / スペイン連合艦隊をカディス沖で監視していた。


そして、カディス沖に布陣していた英国地中海艦隊とカディスを出撃したフランス / スペイン連合艦隊は、翌日の1805年10月21日に、スペインのトラファルガー岬(Cape of Trafalgar)の沖において、相見えることになる。


トラファルガースクエア(Trafalgar Sqaure)の近くにある
地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の改札口へと向かう地下通路の壁に描かれている
タイル画(その1) -
「トラファルガーの海戦」を前にして、作戦を練るネルソン提督

英国地中海艦隊とフランス / スペイン連合艦隊の指揮官と戦力は、以下の通り。


<英国艦隊>

(指揮官)

ホレーショ・ネルソン(階級:1804年に白色艦隊中将(Vice-Admiral of the White)へ昇進) → 英国側の旗艦である「ビクトリー(HMS Victory → 2022年1月16日付ブログで紹介済)」に乗艦

・カスバート・コリングウッド(Cuthbert Collingwood:1748年ー1810年)(階級:1805年に赤色艦隊中将(Vice-Admiral of the Red)へ昇進) → 「ロイヤルソブリン(HMS Royal Sovereign)」に乗艦

(戦力)

・戦列艦: 27隻

・フリゲート艦: 4隻

・その他: 2隻


<フランス / スペイン連合艦隊>

(指揮官)

・フランス: ピエール=シャルル=ジャン=バティスト=シルヴェストル・ド・ヴィルヌーヴ伯爵(階級:海軍中将) → フランス側の旗艦である「ビューサントル(Bucentaure)」に乗艦

・スペイン: ドン・フェデリコ・カルロス・グラビーナ・イ・ナポリ(Don Federico Carlos Gravina y Napoli:1756年ー1806年)(階級:大将(Admiral)) → スペイン側の旗艦である「プリンシペ・デ・アストゥリアス(Principe de Asturias)」に乗艦

(戦力)

・戦列艦: 33隻(フランス:18隻+スペイン:15隻)

・フリゲート艦: 5隻

・その他: 2隻


フランス / スペイン連合艦隊を率いるド・ヴィルヌーヴ提督は、当初、艦隊を三日月型の陣形にしていた。そこで、英国艦隊を率いるネルソン提督は、フランス / スペイン連合艦隊の隊列を分断するために、2列の縦列で相手に突っ込むネルソンタッチという戦法を使用する。


トラファルガースクエアの近くにある
地下鉄チャリングクロス駅の改札口へと向かう地下通路の壁に描かれているタイル画(その2) -
三日月型の陣形を採るフランス / スペイン連合艦隊に対して、
2列の縦列で突っ込む英国艦隊
(風上の列は、ネルソン提督が乗艦する旗艦「ビクトリー」が先導し、
風下の列は、コリングウッド提督が乗艦する「ロイヤルソブリン」が先導)


午前11時45分に、戦いの火蓋は切って落とされ、ネルソン提督は、各艦に対して、「英国は、各員が自身の義務を果たすことを期待する。(England expects that every man will do his duty.)」という有名な信号旗を送信した。

その際、フランス / スペイン連合艦隊は、北方向へカーブした陣形を採っていたが、ネルソン提督の戦法通り、ネルソン提督が乗艦する旗艦の「ビクトリー」が風上の縦列で、そして、コリングウッド提督が乗艦する「ロイヤルソブリン」が風下の縦列で、フランス / スペイン連合艦隊へと向かった。


フランス / スペイン連合艦隊は、英国艦隊よりも、数的には優位であったが、フランス海軍艦にスペイン海軍艦が混在していたため、指揮系統が複雑だったことに加え、士気や練度も低かった。一方、英国艦隊の方は、士気や練度も高かった。また、フランス / スペイン連合艦隊の艦載砲の射速(3分に1発)は、英国艦隊(1分30秒に1発)に比べると、かなり劣っていた。


大激戦の末、フランス / スペイン連合艦隊は、


大破: 1隻

拿捕: 21隻

戦死: 約4,500名

戦傷: 約2,500名

捕虜: 約7,000名


という被害を受けた上に、フランス / スペイン連合艦隊を率いるド・ヴィルヌーヴ提督も捕虜となった。ドン・フェデリコ・カルロス・グラビーナ・イ・ナポリ提督は負傷し、スペインへと戻った後も、負傷が癒えず、数ヶ月後に世を去った。


一方、英国艦隊は、


大破: 0隻

拿捕: 0隻

戦死: 約450名

戦傷: 約1,200名


という被害で済んだが、英国艦隊を率いたネルソン提督が、フランス艦「ルドゥタブル(Redoutable)」の狙撃兵による銃弾に倒れ、「神に感謝する。私は、義務を果たした。(Thank God. I have done my duty.)」と言い残して、息を引き取ったのである。


トラファルガースクエアの近くにある
地下鉄チャリングクロス駅の改札口へと向かう地下通路の壁に描かれているタイル画(その3) -
英国艦隊を率いたネルソン提督は、フランス艦「ルドゥタブル」の狙撃兵による銃弾に倒れ、
息を引き取ってしまう


ネルソン提督が死亡したため、コリングウッド提督が、英国艦隊の最高指揮官となった。嵐の接近を予測したネルソン提督は、「錨を下ろせ。」と遺言したが、コリングウッド提督は、これを無視した。その結果、トラファルガー岬の沖合いに発生した嵐により、英国艦隊は、せっかく拿捕した艦の多くを失うことになったのである。

トラファルガースクエアの近くにある
地下鉄チャリングクロス駅のプラットフォームに描かれている壁画 -
「トラファルガーの海戦」における英国艦隊の勝利とネルソン提督の死を伝える新聞記事と
ネルソン提督の肖像画


ネルソン提督の遺体は、腐敗を防ぐために、当時最高級のコニャックの樽に入れられ、旗艦「ビクトリー」が曳航された先のジブラルタルにおいて、ワインを蒸留したスピリッツで満たされた棺へと移された後、鉛で密封の上、英国本国まで運ばれた。そして、翌年の1806年、君主以外では初となる国葬として、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral → 2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)に葬られたのである。
 

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