2018年4月14日土曜日

ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)ーその3

画面中央にある建物が、
家族が増えたミレー夫妻が1862年に引っ越したクロムウェルプレイス7番地の家

ロンドンのロイヤルアカデミー(Royal Academy)付属の美術学校(Antique Schol)において共に学んだウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt:1827年ー1910年)やダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti:1828年ー1882年→2018年3月4日 / 3月11日付ブログで紹介済)達と一緒に、初代
准男爵サー・ジョン・エヴァレット・ミレー(Sir John Everett Millais, 1st Baronet:1829年ー1896年)が結成した「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)と呼ばれる芸術グループにとって、思想的な面で大きな影響を与えたのは、同時代の思想家 / 芸術評論家であるジョン・ラスキン(John Ruskin:1819年ー1910年)の「芸術は自然に忠実でなければならない。」という提言であった。


ジョン・ラスキンのお気に入りで、金銭的にも彼の援助を受けていたジョン・エヴァレット・ミレーは、1852年にジョン・ラスキンの新妻ユーフィミア(Euphemia / 通称 エフィー・グレイ(Effie Gray):1829年ー1897年)をモデルとした絵画を製作して、ラスキン夫妻との親交を深めていった。

クロムウェルプレイス7番地の入り口
残念ながら、建物は、現在、改装工事中

ユーフィミアは、1848年、19歳でジョン・ラスキンと結婚したが、彼は自らが理想とする貞淑で従順な妻を求める口うるさい夫だったため、まだ幼く社交好きだった彼女は、夫としばしば衝突した。また、取材旅行中、ジョン・ラスキンが調査に没頭して、ユーフィミアは寂しい思いをさせられた。更に、ジョン・ラスキンが、ユーフィミアだけではなく、自分の両親も取材旅行によく同行させたこともあって、彼女は、義父母の過干渉や夫のマザコンぶりにも、次第に不満を募らせていったのである。
1853年、ジョン・ラスキンが、ユーフィミアとジョン・エヴァレット・ミレーを伴って、スコットランド旅行に出かけた際、ジョン・ラスキンとの不幸な結婚生活に不満を抱いていたユーフィミアは、ジョン・エヴァレット・ミレーに惹かれていった。そして、1854年4月、ユーフィミアは、ジョン・ラスキンとの結婚生活が実態のないものであったとする結婚無効の訴訟を起こしたのである。

クロムウェルプレイス7番地の建物は、
「ミレーハウス(Millais House)」と呼ばれている

しかし、当時、妻が夫を捨てるようなことは非常に異例だったため、ユーフィミアの行動は恥ずべき行為であると、世間から大きく非難された。1854年7月、ジョン・ラスキンの性的不能を理由にして、離婚が認められると、翌年の1855年に、ジョン・エヴァレット・ミレーとユーフィミアは結婚する。しかし、ジョン・エヴァレット・ミレーを寵愛していたハノーヴァー朝第6代のヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年-1901年→2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)は、この結婚を良しとせず、ユーフィミアとの謁見を拒否して、以後、ジョン・エヴァレット・ミレーに自分の肖像画を描かせることはなかった。

クロムウェルプレイス7番地の反対側から北方面を見たところ
画面中央奥に見える建物は、自然史博物館(Natural History Museum)

1855年の結婚後、ジョン・エヴァレット・ミレーとユーフィミアは、8人の子宝に恵まれた。

(1)1856年ーエヴァレット(Everett)
(2)1857年ージョージ(George)
(3)1858年ーエフィー(Effie)
(4)1860年ーメアリー(Mary)
(5)1862年ーアリス(Alice)
(6)1863年ージェフリー(Geoffroy)
(7)1865年ージョン(John)
(8)1868年ーソフィー(Sophie)

家族が増えたミレー夫妻は、1862年に現在のケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のサウスケンジントン地区(South Kensington)内にあるクロムウェルプレイス7番地(7 Cromwell Place)へと引っ越している。

クロムウェルプレイス7番地の反対側から南方面を見たところ

妻ユーフィミアと8人の子供を養うことになったジョン・エヴァレット・ミレーは、「5シリング硬貨よりも小さな部分を描くのに、丸一日を費やす訳にはいかない。」と考え、そのために、彼の絵画はラファエル前派が唱える厳格な理想から徐々に遠のいていくことになる。
ユーフィミアと離婚した後も、ジョン・エヴァレット・ミレーを擁護し続けてきたジョン・ラスキンまでが、それまでとはうって変わったように掌を返して、「単に失敗ではなく、破局(catastrophe)である。」と、ジョン・エヴァレット・ミレーを厳しく非難し始めたのであった。

0 件のコメント:

コメントを投稿