2023年9月29日金曜日

シェイクスピアの世界<ジグソーパズル>(The World of Shakespeare )- その24

ロンドン塔内に建つホワイトタワー(White Tower)の窓から、
サー・ウォルター・ローリー(画面中央の人物)が、身を乗り出している。


英国の Laurence King Publishing Group Ltd. より、2020年に発売されたジグソーパズル「シェイクスピアの世界(The World of Shakespeare)」には、のイラスト内には、イングランドの劇作家 / 詩人であるウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare:1564年ー1616年 → 2023年5月19日付ブログで紹介済)や彼が生きた時代の人物、彼の劇が上演されたグローブ座、そして、彼が発表した史劇、悲劇や喜劇に登場するキャラクター等が散りばめられているので、前回に続き、順番に紹介していきたい。


今回紹介するのは、ウィリアム・シェイクスピアと同時代の人物である。


<サー・ウォルター・ローリー(Sir Walter Raleigh:1552年頃(または、1554年)ー1618年)>


サー・ウォルター・ローリーは、英国の廷臣 / 軍人 / 探検家で、作家 / 詩人と言う側面も有していた。


ウォルター・ローリーは、1552年頃(または、1554年)1月22日、ウェールズ人のジェントリー(gentry - 下級地主層)であるウォルター・ローリー(同名)を父に、フランス出身のキャサリン・シャンパナウンを母に、デヴォン州(Devon)に出生。

ウォルター・ローリーの家は、宗教的に、プロテスタント寄りであった。彼の幼少期は、テューダー朝(House of Tudor)の第4代イングランド王で、カトリック教徒であるメアリー1世(Mary I:1516年ー1558年 在位期間:1553年-1558年)の治世に該るが、メアリー1世によるカトリック教徒以外への弾圧が厳しかったため、家族でなんども逃げ回る経験をしており、カトリック教への憎しみを募らせていった。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
メアリー1世の肖像画の葉書
(Master John / 1544年 / Oil on panel
711 mm x 508 mm) 


プロテスタントであるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年)が1558年にテューダー朝の第5代かつ最後の君主で、イングランドとアイルランドの女王として即位すると、ウォルター・ローリーは、


(1)1568年にフランスへ渡ると、ユグノー戦争(Guerres de religion:1562年ー1598年)において、傭兵として、ユグノー(プロテスタント)側に加勢。

(2)1580年にアイルランドへ渡ると、デズモンドの反乱(Desmond Rebellions:1569年ー1573年 / 1579年ー1583年)において、同年から1581年にかけ、英国政府の雇われ隊長として、同反乱鎮圧に従軍し、アイルランドに上陸したローマ教皇の援軍を虐殺。


等の活躍をして、注目を集めた。

ウォルター・ローリーは、1581年にアイルランドからイングランドに帰国すると、エリザベス1世の寵臣として抜擢され、本人が長身の美貌でもあったことから、エリザベス1世から非常に気に入られて、次々と恩賞を与えられた。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
エリザベス1世の肖像画の葉書
(Unknown English artist / 1600年頃 / Oil on panel
1273 mm x 997 mm) 


サー・ウォルター・ローリーは、1586年に国王親衛隊隊長(Captain of the Yeoman of the Guard)となり、彼の出世は頂点に達した。

彼は、議員活動も行い、1584年と1586年の2回、デヴォン選挙区から、1597年にドーセット選挙区(Dorset)から、また、1601年にコンウォール選挙区(Cornwall)から、庶民院議員に選出された。


サー・ウォルター・ローリーは、生涯で2度、ロンドン塔(Tower of London → 2018年4月8日 / 4月15日付ブログで紹介済)に投獄されている。


ロンドン塔の全体像が描かれている。


<1度目>

1587年頃に、第2代エセックス伯爵ロバート・デヴァルー(Robert Devereux, 2nd Earl of Essex:1566年ー1601年)がエリザベス1世の新たな寵臣に取り立てられると、サー・ウォルター・ローリーの栄光には、次第に陰りが見え始めた。

1591年に、サー・ウォルター・ローリーは、エリザベス1世付きの女官の一人で、10歳以上も年下のエリザベス・スロックモートン(Elizabeth Throckmorton:1565年ー1647年頃)と秘密裏に結婚していたが、1592年にこの秘密結婚が発覚すると、激怒したエリザベス1世は、サー・ウォルター・ローリーをロンドン塔に投獄し、エリザベス・スロックモートンを宮廷から解雇するように命じた。

しかし、ロンドン塔へ投獄される前に、サー・ウォルター・ローリーは、船団を率いて、大西洋のアゾレス諸島(Azores)沖でスペイン貨物船団を捕獲し、それから得た高額の報奨金を保釈金として使い、釈放された。

また、スペイン戦争にかかるカディス遠征(1596年)やアゾレス諸島遠征(1597年)において、大きな戦果を挙げ、莫大な戦利品を獲得したサー・ウォルター・ローリーとは対照的に、大した戦果を挙げることができなかった第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーは没落していくことになり、サー・ウォルター・ローリーは、1597年に国王親衛隊隊長に復帰して、エリザベス1世の寵愛を再び受けるようになった。


<2度目>

エリザベス1世の寵愛を再び受けるようになったサー・ウォルター・ローリーは、1600年からジャージー島総督(Governor of Jersey)として、スペインからこの島を防衛するために、近代化を進めたが、1603年にエリザベス1世が死去して、ステュアート朝(House of Stuart)のスコットランド、イングランドおよびアイルランドの王であるジェイムズ1世(James I:1566年ー1625年 在位期間:1603年-1625年)が即位した。

(1)ジェイムズ1世に接近した初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシル(Robert Cecil, 1st Earl of Salisbury:1563年ー1612年)と初代ノーサンプトン伯爵ヘンリー・ハワード(Henry Howard, 1st Earl of Northampton:1540年ー1614年)が、ジェイムズ1世に対して、「サー・ウォルター・ローリーが、(ジェイムズ1世の)即位に反対した。」と讒言したこと

(2)親スペイン派であるジェイムズ1世としては、反スペイン派であるサー・ウォルター・ローリーの存在が疎ましかったこと

等から、サー・ウォルター・ローリーは、エリザベス1世から授与された国王親衛隊隊長等、数々の地位を、ジェイムズ1世によって取り上げられる羽目となったのである。

その後、1603年11月17日に、ジェイムズ1世の追放を企てたメイン陰謀事件(Main Plot)が発覚して、サー・ウォルター・ローリーも、この政府転覆未遂事件への関与を疑われ、内乱罪で裁判を受け、ロンドン塔へ投獄された。死刑判決を受けたものの、未決のまま、1616年まで監禁された。ロンドン塔では、比較的自由な活動が許されたため、サー・ウォルター・ローリーは、監禁中に著作活動に熱中して、ギリシアとローマの古代史に関する「世界の歴史(A Historie of the World)」を執筆している。


1616年にロンドン塔から解放されたサー・ウォルター・ローリーは、黄金郷を発見するべく、南米大陸のオリノコ川(Orinoco River)流域に派遣された探検隊を指揮した。

探検の途中、サー・ウォルター・ローリーの部下達が、スペインの入植地であるサンソーム(San Thome)において、略奪行為を行った。その際、サー・ウォルター・ローリーの息子ウォルター(Walter)が、銃で撃たれて、死亡している。


サー・ウォルター・ローリーが南米大陸からイングランドに戻った後、彼の部下達による略奪行為に憤慨したスペイン大使のディエゴ・サルミエント・デ・アクーニャが、ジェイムズ1世に対して、サー・ウォルター・ローリーの死刑判決を執行するように、強く求めた。

ジェイムズ1世は、スペイン大使の要求を認め、1618年10月に、サー・ウォルター・ローリーの公開裁判が開催され、未決のままになっていた1603年の死刑判決執行が決定されて、同年10月29日に、ホワイトホール宮殿(Palace of Whitehall)において、サー・ウォルター・ローリーは、斬首刑に処せられた。斬首されたサー・ウォルター・ローリーの首は、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)の隣りにあるセントマーガレット教会(The Anglican church of St. Margaret, Westminster)に、彼の胴体と一緒に埋葬されたのである。


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