2023年9月12日火曜日

デヴォン州(Devon) ダートマス城(Dartmouth Castle)- その2

ダートマス城内から見たセントペトロックス教会(St. Petrox Church - 左側)と
大砲台(Gun Tower - 右側)
<筆者撮影>

テューダー朝(House of Tudor)の第5代かつ最後の君主(イングランドとアイルランドの女王)であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年 → 2023年6月24日付ブログで紹介済)の治世時、英国海軍提督(中将)のサー・フランシス・ドレイク(Sir Francis Drake:1543年頃ー1596年 → 2023年7月9日付ブログで紹介済)が、当時、「無敵」と呼ばれたスペイン艦隊(Spanish Armada)を、1588年7月から8月にかけ、英仏海峡で行われた「アルマダの海戦(Battle of Armada)」において、大勝利を収め、スペインによるイングランド侵攻を防いだが、幸いにして、その際、ダートマス城(Dartmouth Castle)が攻撃されることはなかった。


ダートマス城の城内
<筆者撮影>


1625年にステュアート朝(House of Stuart)の初代国王である父ジェームズ1世(James I:1566年ー1625年 在位期間:1603年ー1625年)の死去に伴い、第2代国王(イングランド、スコットランドとアイルランドの王)となったチャールズ1世( Charles I:1600年ー1649年 在位期間:1625年-1649年 → 2017年4月29日付ブログで紹介済)は、父王と同様に「王権神授説」を信奉して、議会と対立。1628年に議会は「権利の請願(Petition of Right)」を提出し、課税には議会の承認を得ることを求めたが、チャールズ1世は1629年に議会を解散して、議会の指導者を投獄する等、専制政治を実行した。更に、彼は国教統一にも乗り出し、ピューリタン(Puritan)を弾圧したため、各地での反乱を引き起こす引き金となった。

1642年、チャールズ1世が反国王派の議員を逮捕しようとしたことに伴い、議会派と王党派の内戦が勃発。これが、ピューリタン革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)である。

その際、ダートマス(Dartmouth → 2023年9月6日付ブログで紹介済)は議会派を支持したため、1646年1月、ダートマス城を含むダートマスは、王党派軍による攻撃を受け、残念ながら、1日で陥落した。


ダートマス城からダート川(River Dart)を望む
<筆者撮影>


1660年の王政復古(Restoration)以降、19世紀にかけて、ダートマス城の改修が実施されたが、英国軍内において、ダートマス港の防衛自体が、優先順位として、次第に低くなった。その結果、20世紀初頭には、ダートマス城は、現役の要塞ではなくなり、一般に開放された。


ダート川を間に挟んで、ダートマス城の対岸には、
キングウェア城(Kingswear Castle)が建っている。
<筆者撮影>


第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、ダートマス城は、一旦、要塞として復帰するものの、1955年には、完全に退役した。


現在、ダートマス城は、イングリッシュヘリテージ(English Heritage)により管理され、一般に開放されている。


0 件のコメント:

コメントを投稿