2022年7月31日日曜日

コナン・ドイル作「ぶな屋敷」<小説版>(The Copper Beeches by Conan Doyle ) - その1

英国で出版された「ストランドマガジン」
1892年6月号に掲載された挿絵(その1) -
ベーカーストリート221B(221B Baker Street)において、
シャーロック・ホームズは、ジョン・H・ワトスンに対して、
「最近、自分のところに持ち込まれる依頼の質が落ちた。」と嘆く。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット

(Sidney Edward Paget 1860年 - 1908年)

英国イーストサセックス州(East Sussex)ルイス(Lewes)出身の作家であるジェイムズ・マシュー・ヘンリー・ラブグローヴ(James Matthew Henry Lovegrove:1965年ー)が2013年に発表した「悪夢の塊(The Stuff of Nightmares → 2022年6月11日 / 6月18日 / 6月24日付ブログで紹介済)」において、ジョン・H・ワトスンは、序文で以下のように述べている。


「As I wrote in the story entitled “The Final Problem”, there were only three cases of which I retain any record for the year 1890, and two of those I published as “The Red-Headed League” and “The Copper Beeches”. This is the third, and it has remained solely in note form until now.」


つまり、著者のジェイムズ・ラヴグローヴは、ジョン・ワトスンの口を借りて、彼(ジョン・ワトスン)が知る限り、シャーロック・ホームズが1890年に手掛けた事件は3件しかなく、それらは、

(1)「赤毛組合(The Red-Headed League)」

(2)「ぶな屋敷(The Copper Beeches)」

(3)「悪夢の塊」(←これは、ジェイムズ・ラヴグローヴによる創作である。)

の3件だと言わせているのである。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1892年6月号に掲載された挿絵(その2) -
約束した翌日の午前10時半に、
若い家庭教師であるヴァイオレット・ハンターが
ベーカーストリート221Bのホームズの元を訪れる。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット

(1860年 - 1908年)


「ぶな屋敷」は、ホームズシリーズの56ある短編小説のうち、12番目に発表された作品で、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1892年6月号に掲載された。そして、ホームズシリーズの第1短編集である「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1892年)に収録された。


ちなみに、本作品は、作者であるサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年-1930年)の母親であるメアリーが思いついたアイディアが、物語のベースになっている。

1891年7月の「ボへミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」を皮切りに、「ストランドマガジン(Strand Magazine)」に毎月シャーロック・ホームズ作品を連載していたコナン・ドイルであったが、毎回新しいストーリーを考え出して作品を創作することが、彼にはだんだん苦痛となってきていた。また、コナン・ドイルとしては、自分の文学的才能は長編歴史小説の分野において発揮/ 評価されるべきと考えており、ホームズ作品は彼にとってはあくまでも副業に過ぎなかったのである。ところが、「ストランドマガジン」を通じて、ホームズ作品が予想以上に爆発的な人気を得るに至ったため、コナン・ドイルは、ホームズ作品の原稿締め切りに毎回追われる始末で、自分が本来注力したい長編歴史小説に時間を全く割けない状況であった。そのため、コナン・ドイルとしては、ホームズシリーズを打ち切るつもりでいたが、母親から物語のアイディアを得たことにより、ホームズシリーズは存続することとなった。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1892年6月号に掲載された挿絵(その3) -
ウェストエンドにある家庭教師紹介所ウェストアウェイにおいて、
ヴァイオレット・ハンターは、
ハンプシャー州の「ぶな屋敷」に住むジェフロ・ルーカッスル氏から
住み込むの家庭教師の申し出を受ける。
その申し出は、破格の給料であったが、
彼から提示された条件の中には、何か不自然なものが伴っていて、
ヴァイオレット・ハンターは、疑念を抱いた。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット

(1860年 - 1908年)

ジョン・H・ワトスンに対して、「ここのところ、自分のところに持ち込まれる依頼の質が落ちた。」と嘆くホームズの元に、若い家庭教師であるヴァイオレット・ハンター(Violet Hunter)から、相談の手紙が来た。

約束した翌日の午前10時半に、ベーカーストリート221B(221B Baker Street)に現れたヴァイオレット・ハンターによると、彼女は、現在、失業中で、次の仕事の目処が立っていなかった。そんな中、ウェストエンド(West End)にある家庭教師紹介所ウェストアウェイ(Westaway)において、彼女は、ジェフロ・ルーカッスル氏(Mr. Jephro Rucastle)なる人物から、破格の給料(年額100ポンド → 後に、年額120ポンドへ値上げ / なお、ヴァイオレット・ハンターは、以前の勤務先で、月額で4ポンドの報酬を得ていた)で、住み込みの家庭教師の申し出を受けた。


しかしながら、このあまりに高額の報酬には、いくつかの条件があった。


(1)ハンプシャー州(Hampshire)のウィンチェスター(Winchester)から5マイル離れた「ぶな屋敷」に住み込むこと

(2)6歳の腕白坊主の面倒を見ること

(3)妻(ルーカッスル夫人)のちょっとした頼みをきくこと

(4)雇い主(ルーカッスル氏)が指定する服を着ること

(5)「ぶな屋敷」へ来る際に、髪を短く切ってくること


条件のうち、(1)から(3)については、ヴァイオレット・ハンターとしても、問題なかったが、(4)と(5)に関しては、何か不自然なところがあると疑い始めた。特に、(5)の場合、亡き母からも喜ばれていた長い髪を切ることになり、彼女としては、受け入れることができず、その場でルーカッスル氏の申し出を断ってしまった。


ルーカッスル氏の申し出を断ったヴァイオレット・ハンターであったが、生活が苦しくなってきたため、折角舞い込んだ高額の働き口を受けなかったことを後悔していた。そんな最中、ルーカッスル氏から、彼女宛に再考を求める手紙が届いた。その手紙の中で、報酬の年額が当初の100ポンドから120ポンドへと引き上げられていたのである。


生活が苦しい中、高額な報酬に未練があるものの、ルーカッスル氏から提示された不自然な条件に引き続き疑念を抱くヴァイオレット・ハンターは、ホームズに対して、助言を求める。

彼女の話を聞いたホームズは、こう答えた。「正直に言うと、これが自分の妹だったら、引き受けさせたくないですね。(I confess that it is not the situation which I should like to see a sister of mine apply for.)」と。


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