2018年12月16日日曜日

ジョーゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling)–その1

1889年から1891年にかけて、
英国の小説家 / 詩人ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングが住んでいた
ヴィリアーズストリート43番地の建物(その1

ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のチャリングクロス地区(Charing Cross)内に所在するヴィリアーズストリート43番地(43 Villiers Street→2018年12月8日付ブログで紹介済)に住んでいたジョーゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling:1865年ー1936年)は、英国の小説家 / 詩人である。

ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングは、1865年12月30日に英国領インドのボンベイ(現在のムンバイ)に出生する。父親のジョン・ロックウッド・キップリングは彫刻家 / 陶器デザイナーで、ボンベイに設立された芸術・産業学校に建築彫刻の教授として勤めていた。両親は、2年前に彼らが出会った英国スタッフォードシャー州(Staffordshire)のラドヤード湖(Lake Rudyard)の美しさに因んで、生まれた息子にラドヤードと名付けた、とのこと。
キップリングの両親は、自分達を英国陣ではなく、「アングロ・インディアン(Anglo Indian→英国で生まれ、インドで暮らした人々、あるいは、英国人とインド人の混血児のこと)」と考えるようになり、息子にも、英国人として、そして、インド人としても、一人前の人間になるように教育した。まずヒンディー語で考え、それを英語に翻訳しながら話す生活は、インド生まれで英語を知らない彼に大きな苦痛をもたらした。こうしたアイデンティティーの複雑な問題が、後に彼の作品を特徴付けるようになる。

1889年から1891年にかけて、
英国の小説家 / 詩人ジョーゼフ・ラドヤード・キップリングが住んでいた
ヴィリアーズストリート43番地の建物(その2)

彼が6歳になると、2歳下の妹と一緒に、英国ポーツマス(Portsmouth→2016年9月17日付ブログで紹介済)近郊のサウスシー(Southsea)に住む知人のホロウェイ夫妻に預けられ、彼らの屋敷で6年間を過ごす。この時期、彼はホロウェイ夫人から虐待と無視を受けたようで、彼は父親から送られた物語を読むことに逃げ込み、それが彼の文学人生を決定づけたものと思われる。一方、彼の妹の方は、ホロウェイ夫人から自分の息子との結婚を望まれる程に気に入られた、とのこと。
1878年、彼はデヴォン州(Devon)にある軍人の子弟のために設立された全寮制の学校ユナイテッド・サービス・カレッジ(United Services College)に入学し、そこで英国、フランスやロシアの文学を愛読するとともに、学友会雑誌の編集部員を務めた。同カレッジを卒業した後、彼の両親は彼をオックスフォード大学(Oxford University→2015年11月21日付ブログで紹介済)へ進学させたがったが、学費の工面ができなかったこと、それに加えて、彼の学力が奨学金を得られる程ではなかったことから、諦めざるを得なかった。そこで、彼の父親は、自身が校長を務める美術学校と館長を務める博物館がある都市ラホール(現パキスタン)にある小さな地方新聞「シビル&ミリタリーガゼット」紙の編集助手としての仕事を彼のために探し出した。

1882年9月、まだ16歳のジョーゼフ・ラドヤード・キップリングは、英国からインドへ向けて出発し、同年10月に自分が生まれたボンベイに到着した。そして、数日かけて、汽車でボンベイからラホールへと移動した。
彼は、「シビル&ミリタリーガゼット」紙の編集助手として働くとともに、詩を書いて掲載。1886年、最初の詩集を刊行する。その後、新しい編集者から彼は短編小説の寄稿を依頼され、1886年11月から1887年6月までの間に、39作の小説を発表する。

その後、より広い文筆活動の場を求めた彼は、1889年3月にインドを離れ、シンガポール、香港、日本、米国やカナダ、そして、再度米国を巡り、同年10月、英国のリヴァプールに到着したのである。

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