2018年7月8日日曜日

ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)–その2

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain)に所蔵されている
ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー作「Peace - Burial at Sea」(1842年)

初期の「J・M・W・ターナー(J. M. W. Turner)」こと、ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner:1775年ー1851年)は、なるべく、ロイヤルアカデミー受けのする写実的な作品を制作した。彼の初期作品が具象的で、歴史画や神話的な風景画をベースにした作品が多いのは、そのためである。

J・M・W・ターナーは、ロイヤルアカデミー内において、順調に出世街道を邁進していくが、間もなく、他のロイヤルアカデミー会員から、彼の態度の悪さについて、次々と文句が出始める。ロイヤルアカデミーには、あらゆる階級の人達に門戸を開いているという建て前はあるものの、実際のところ、ロイヤルアカデミー会員は貴族やそれに準ずる裕福な家庭の出身者が大半を占めていたのである。そんな高尚な会員の中、生まれも育ちも下町で、喧嘩っ早い性格だったJ・M・W・ターナーは、浮いた存在だった。当時、彼は若くて態度が悪かったが、才能が非常にあったため、それを嫉妬する気持ちもあり、多くのロイヤルアカデミー会員達は、彼に対して反感を抱いたのである。そのため、ロイヤルアカデミーが年1回主催する展覧会において、彼の作品を意図的に見えにくい場所に展示するといった陰湿な嫌がらせを受けたりしたものの、それに彼が屈することは、決してなかった。

逆に、J・M・W・ターナーは、1807年に32歳の若さで、ロイヤルアカデミーの遠近法教授という地位を得た後、最終的には、ロイヤルアカデミーの副会長まで昇りつめた。そして、1846年に副会長を辞するまで、40年以上にわたって、彼はロイヤルアカデミーに居座り続けたのであった。

テイト・ブリテン美術館に所蔵されている
ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー作「War. The Exile and the Rock Limpet」(1842年)

母親のメアリーが精神疾患を悪化させて、精神病院に入院し、最終的にそこで亡くなっていることもあって、それがJ・M・W・ターナーの女性観に大きな影響を与えたものと思われる。そのためか、当時では珍しく、彼は生涯を通じて結婚をしなかったが、彼が25歳(1800年)の頃から、早世した友人の未亡人で、自分よりも10歳年上のサラ・ダンビー(Sarah Danby)と関係を持ち、彼女の4人の子供と彼の父親を含めた7人で一緒に暮らしていた。そして、彼とサラ・ダンビーの間には、1801年と1811年に二人の娘が生まれ、その関係は10年以上続いた。

母親のメアリーが精神病院で亡くなった1804年、彼女の呪縛から解き放たれたのか、J・M・W・ターナーは、サラ・ダンビーや子供達と一緒に暮らしていたハーリーストリート(Harley Street→2015年4月11日付ブログで紹介済)の自宅近くに、自分自身の作品を展示するギャラリーをオープンした。

彼の父親は、コヴェントガーデン(Covent Garden→2016年1月9日付ブログで紹介済)の理髪店を畳み、ギャラリーの留守番、キャンバスづくりや顧客への書類作成等の雑用をして、約25年間にわたって、息子を影で支えた。母親の愛情とは全く縁のなかったJ・M・W・ターナーではあったが、父親との絆は非常に強く、長く続いたのである。

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