2018年7月15日日曜日

ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)–その3

テイト・ブリテン美術館に所蔵されている
ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー作「Norham Castle, Sunrise」(1845年)

1804年にハーリーストリート(Harley Street→2015年4月11日付ブログで紹介済)の自宅近くにオープンした自分自身の作品を展示するギャラリーの運営が軌道に乗り始めると、ギャラリーを父親に任せて、J・M・W・ターナー(J. M. W. Turner)こと、ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner:1775年ー1851年)は、英国外へと足を伸ばし、フランス、スイス、オランダやベルギー等へスケッチ旅行に出かけることが増えていく。
そして、J・M・W・ターナーにとって大きな転機となったのは、1819年、44歳の時に初めて訪れたイタリアであった。ルネサンス期以来、イタリアは西洋美術の中心地であり続け、英国等の北方ヨーロッパ出身の画家達にとっては、いつか訪れてみたい「憧れ」の地だったのである。イタリア訪問中、J・M・W・ターナーは、北方ヨーロッパにはない明るい陽光とそこから生まれる豊かな色彩に息を飲み、そして、魅せられた。イタリアの中でも、彼は「水の都」と呼ばれるヴェネツィア(Venice)に惹かれ、4週間に満たない滞在中に、400枚を超えるスケッチを残した。ヴェネツィアをこよなく愛したJ・M・W・ターナーは、その後、同地を何度も訪れている。

イタリア旅行後、J・M・W・ターナーの作品上、画面における光と空気の関係性を追求することに主眼が置かれた。彼は、イタリア滞在中、目に焼き付けた光を分解して、空気や大気の動きを色によって描き出す研究に、その後の画家人生を捧げたのである。そのため、彼が描く対象の形態は、次第に曖昧になり、最終的には、ほとんど抽象画に近づいていった。彼の絵画は、ただただ、まばゆいばかりの光の海、波と霧の渦でしかないものまで行き着いたのである。J・M・W・ターナーの最終学歴は小学校で、その上、難読症でもあったが、雲の成り立ちに関する気象学者の講義に出席したり、ニュートンの光学理論やゲーテの色彩論に基づいて、光を描いたりと、自分の不利なところを補う人一倍の探究心を持って、独学で突き進んでいった。

ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの遺体が埋葬された
セントポール大聖堂の正面を見上げたところ

強い絆で結ばれていた父親が1829年に死去すると、J・M・W・ターナーは失意のどん底で苦しんだ。そんな彼を側で支えてくれたのが、25歳年下の未亡人ソフィア・キャロライン・ブース(Sophia Caroline Booth)であった。
老齢を迎えて、1846年にロイヤルアカデミー(Royal Academy)の副会長の座を辞したJ・M・W・ターナーは、現在のチェルシー地区(Chelsea)にあるテムズ河(River Thames)沿いのチェイニーウォーク(Cheyne Walk)に居を構え、ソフィア・キャロライン・ブースと一緒に暮らしながら、作品の制作を続けた。その後、1851年に体調を崩し、彼は病床に絵の具を持ち込んで、作品を制作したが、同年12月19日、コレラ(cholera)が原因で世を去り、76歳の生涯を閉じた。彼の遺体は、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral)に埋葬された。

ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの遺体が埋葬された
セントポール大聖堂のドームと側面を見上げたところ

J・M・W・ターナーは、自分の手元にあった主要作品を全て国家に遺贈したので、彼の作品の多くは、ロンドンのナショナルギャラリー(National Gallery)やテイト・ブリテン美術館(Tate Britain→2018年2月18日付ブログで紹介済)で見ることができる。特に、テイト・ブリテン美術館には、400点にのぼる油彩画と2万点に及ぶ水彩画が所蔵されている。

0 件のコメント:

コメントを投稿