2017年4月22日土曜日

リチャード・ズーチ作「諸国民間の法規」(’De Jure inter Gentes' by Richard Zouche)

クライストチャーチ(Christ Church)は、オックスフォード大学最大のカレッジで、
オックスフォード主教管区の大聖堂でもある

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。

ラドクリフカメラ(Radcliffe Camera)の近くに建つ
University Church of St. Mary the Virgin

英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。


こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Road)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardensー2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレード警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。


イーノック・J・ドレッバーの死体を発見したのは、ジョン・ランス巡査(Constable John Rance)であるという話をレストレード警部から聞くと、ホームズとワトスンの二人は、早速、彼が住むケニントンパークゲート(Kennington Park Gate)のオードリーコート46番地(46 Audley Courtー2017年3月25日付ブログで紹介済)へと向かう。そこで、ジョン・ランス巡査から死体発見の経緯を聞いたホームズは、ワトスンに対して、「彼は犯人を捕まえられる絶好のチャンスをみすみすとふいにしたのさ。」と嘆くのであった。


オックスフォード・ブルックス大学
(Oxford Brookes University)の構内(その1)

イーノック・J・ドレッバーの死体を持ち上げた際、床に落ちた女性の結婚指輪に気付いたホームズは、この指輪が犯人に繋がるものだと考え、朝刊全紙に広告を掲載して、
(1)金の結婚指輪がブリクストンロード近くのパブ「ホワイトハート(White Hart)」とホーランドグローヴ通り(Holland Grove)の間の道路で見つかったこと
(2)落とし主は、今晩8時から9時までの間に、ベーカーストリート221Bのワトスン博士を訪ねること
と告げるのであった。

オックスフォード・ブルックス大学の構内(その2)
オックスフォード・ブルックス大学の構内(その3)

「今午後8時だ。」と、私は懐中時計を見ながら言った。
「そうだな。おそらく、落とし主(犯人)は、あと数分でやって来るだろう。扉を少し開けておいてくれ。それでいい。それから、鍵を内側から差してくれ。ありがとう。僕が昨日露店で買ったこの古本は奇妙だな。ー「諸国民間の法規」ー1642年にローランズ(スペイン領低地地方)のリエージュにおいてラテン語で出版されたものだ。この小さな茶色い背表紙の本が出版された時、チャールズ(1世)の頭はまだ胴体にしっかりと付いていたんだ。」
「出版者は誰だい?」
「フィリップ・ド・クロイ、何者だろう?本の見返しに、かなり色あせたインクで『グリオルミ・ホワイト蔵書』ウィリアム・ホワイトとは誰だろう?多分、17世紀の実務的な法律家だろう。彼の筆跡には、法律家特有の癖がある。おや、待っていた人が来たようだ。」
シャーロック・ホームズがそう話している時、呼び鈴の音が鋭く鳴った。彼は静かに立ち上がり、椅子を扉の方へ動かした。使用人がホールを横切って、扉を開ける時に、鋭い掛け金の音がするのが聞こえた。

オックスフォード・ブルックス大学近くの住宅街

"It is eight o'clock now," I said, glancing at my watch.
"Yes. He will probably be here in a few minutes. Open the door sightly. That will do. Now put the key on the inside. Thank you! This is a queer old book. I picked up at a stall yesterday - 'De Jure inter Gentes' - published in Latin at Liege in the Lowlands, in 1642. Charles' head was still firm on his shoulders when this little brown-backed volume was struck off."
"Who is the printer?"
"Philippe de Croy, whoever he may have been. On the fly-leaf, in very faded ink, is written 'Ex libris Guliolmi Whyte'. I wonder who William Whyte was. Some pragmatical seventeenth century lawyer, I suppose. His writing has a legal twist about it. Here comes our man, I think."
As he spoke there was a sharp ring at the bell. Sherlock Holmes rose softly and moved his chair in the direction of the door. We heard the servant pass along the hall, and the sharp click of the latch as she opened it.

オックスフォードの中心街へと向かう通り

ホームズが露店で買った古本「諸国民間の法規(Of the law between Peopoles)」は、英国のリチャード・ズーチ(Richard Zouche:1590年ー1661年)が執筆したもので、彼はオックスフォード大学(University of Oxfordー2015年11月21日付ブログで紹介済)の法学教授(1619年ー1660年)や高等海事裁判所の判事(1641年ー1649年+1660年)等を歴任している。
「諸国民間の法規」は2部形式の本で、第1部のタイトルが「国家間の法律関係(De Jure inter Gentes)」とのこと。
同作は、1650年にオックスフォードで、そして、1651年にオランダのライデンで刊行されたそうなので、「緋色の研究」の内容とは異なっているように思える。

オックスフォード・ブルックス大学内の駐車場(その1)
オックスフォード・ブルックス大学内の駐車場(その2)

ちなみに、ローランズ(スペイン領低地地方)とは、現在のオランダとベルギーを含めた一帯の地理的呼称のことで、一般的には「ネーデルランズ(Nederlands)」と呼ばれていたが、スコットランドでは「ローランズ(Lowlands)」と呼ばれていた。
原作者のコナン・ドイルがスコットランドのエディンバラ(Edinburgh)出身だったため、ホームズの口を借りて、スペイン領低地地方を「ローランズ」と呼ばせているが、物語的には、ホームズはスコットランド出身であることを意味する。

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