2016年1月9日土曜日

ロンドン コヴェントガーデンマーケット(Covent Garden Market)

サウザンプトンストリート(Southampton Street)沿いの建物壁面に架けられている
「コヴェントガーデンマーケット」の看板

サー・アーサー・コナン・ドイル作「青いガーネット(The Blue Carbuncle)」では、クリスマスの早朝、宴席から帰る途中の退役軍人ピータースン(Peterson)が、トッテナムコートロード(Tottenham Court Road)とグッジストリート(Goodge Street)の角で発生した喧嘩の現場に残された帽子とガチョウを、ベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元に届けて来た。ホームズに言われて、ピータースンは拾ったガチョウを持って帰ったが、その餌袋の中から、ホテルコスモポリタン(Hotel Cosmopolitan)に滞在していたモーカー伯爵夫人(Countess of Morcar)の元から12月22日に盗まれて、懸賞金がかかっている「青いガーネット」が出てきたのだ。

奥の建物がロンドン交通博物館

ホームズは早速新聞に広告を載せて、ガチョウの落とし主を探したところ、ヘンリー・ベイカー氏(Mr Henry Baker)が名乗り出て来た。ベーカー氏によると、大英博物館(British Museum)の近くにあるパブ「アルファイン(Alpha Inn)」の主人ウィンディゲート(Windigate)がガチョウクラブを始め、毎週数ペンスずつ積み立てていくと、各人クリスマスにガチョウを一羽ずつ受け取れる仕組みだと言う。

野菜や果物の卸売り市場だったコヴェントガーデンマーケット

ジョン・ワトスンを連れて、アルファインに赴いたホームズは、そこで主人のウィンディゲートから、「問題のガチョウは、コヴェントガーデンマーケット(Covent Garden Market)にあるブレッキンリッジ(Breckinridge)の店から仕入れた」ことを聞きつける。
そこで、二人はブレッキンリッジの店へと向かった。

コヴェントガーデンマーケットの内部

コヴェントガーデン(Covent Garden)は、一般に、東側のドルリーレーン(Drury Lane)、南側のストランド通り(Strand)、西側のセントマーティンズレーン(St. Martin's Lane)、そして、北側のハイホルボーン通り(High Holborn)に囲まれた地区を指す。以前、北側の境界線はロングエイカー通り(Long Acre)にあったが、コヴェントガーデンの発展に伴い、ハイホルボーン通りまで北上したのである。
コヴェントガーデンの大部分はシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)内に属しているが、北側の一部がロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)内に属している。

コヴェントガーデンマーケット内の天井装飾

コヴェントガーデン内には、ロイヤルオペラハウス(Royal Opera House)、ロンドン交通博物館(London Transport Museum)、セントマーティンズ劇場(St. Martin's Theatreーアガサ・クリスティー作「ねずみとり(Mousetrap)をロングラン公演中」)やライシアム劇場(Lyceum Theatreーコナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」に登場)等をはじめとして、劇場、博物館、ホテル、レストラン、商店や娯楽施設等は混在して建ち並んでおり、観劇客や観光客等でいつも賑わっている。

コヴェントガーデンマーケット内のクリスマス用装飾

また、ブレッキンリッジの店が所在していたと思われるコヴェントガーデンマーケットは、コヴェントガーデンの中心部にあり、17世紀から1974年まで野菜や果物の卸売市場が置かれていたが、市場がテムズ河(River Thames)の南岸にあるナインエルムズ(Nine Elms)へ移転したことに伴い、市場の跡地はショッピングセンターとして死海発され、現在に至っている。

ロイヤルオペラハウス側から見たコヴェントガーデンマーケット

コヴェントガーデンの始まりは、ローマ時代まで遡る。中世に入ると、この地域は「コンヴェントガーデン(Convent Garden)」と呼ばれ、ウェストミンスター大修道院(Westminster Abbey)の所有となり、大修道院の食料を賄う野菜畑(Garden of the Abbey and Convent)として利用された。時代を経るに従って、現在の「コヴェントガーデン」という名前へと変遷していく。
ウェストミンスター大修道院が食料を独占することへの批判の声が高まり、英国王ヘンリー8世(Henry Ⅷ:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)は1540年に僧院とその所有地を解体し、その後、1552年にコヴェントガーデンは初代ベッドフォード伯爵ジョン・ラッセル(John Russell, 1st Earl of Bedford)に与えられた。

コヴェントガーデンマーケットの建物上部

そして、第4代ベッドフォード伯爵フランシス・ラッセル(Francis Russell, 4th Earl of Bedford)の時代に、コヴェントガーデンの再開発が計画され、1630年に英国の建築家であるイニゴー・ジョーンズ(Inigo Jones:1573年ー1652年)により、野菜と果物の卸売り市場とそれを囲む教会や住宅が設計された。イニゴー・ジョーンズによって設計された市場は、ロンドンにおける食料市場として、瞬く間に大きな発展を遂げ、1666年のロンドン大火でロンドン東部にあった市場が焼失したこともあり、英国最大の食料市場へと上り詰めたのである。

ロイヤルオペラハウス側のコヴェントガーデンマーケットに設置されたトナカイ像

1960年代に入ると、コヴェントガーデン周辺道路の交通渋滞がかなり深刻化して、市場への商品運搬が非常に困難となってきた。そのため、当時の英国政府は、1973年に市場周辺の建物を「指定建造物」として指定することにより、過度の開発を食い止めようと努力したが、その努力は成功せず、翌年の1974年に市場はテムズ河南岸のナインエルムズへと移転し、そこにニューコヴェントガーデンを建設した。そして、市場跡地は、大改装を経て、1980年にショッピングセンターとして新しく生まれ変わり、今でも多くの買い物客や観光客等が集まっている。

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