2018年6月23日土曜日

ロンドン ギルップールストリート(Giltspur Street)–その3

英国の作家 / エッセイストであるチャールズ・ラムの胸像と記念碑が建物外壁に設置されている
The Watch House(ギルップールストリート10番地)

ギルップールストリート(Giltspur Street)とホルボーン高架橋通り(Holborn Viaduct)の角に建つ教会 St. Sepulchre Without Church に隣接する The Watch House(ギルップールストリート10番地)の建物外壁には、英国の作家 / エッセイストであるチャールズ・ラム(Charles Lamb:1775年ー1834年)の胸像と記念碑が設置されている。


チャールズ・ラムは、インナーテンプル(Inner Temple)法曹院の幹部サミュエル・ソールト(Samuel Salt)の秘書を務めた父の下、ロンドンに出生。
学校を卒業した後、正業として、彼は南海会社(South Sea Companyー南アフリカ大陸及びその周辺諸島と英国との貿易を独占することを目的に、1711年に設立された勅許会社)、続いて、東インド会社(East India Companyーアジア貿易を目的に、1600年に設立された勅許会社)に30年以上も勤務し、恩給をもらって退職。
正業としての会社勤務をしていた1796年9月22日、精神の病を患っていた実姉のメアリー・ラム(Mary Lamb:1764年ー1847年)が発作を起こして、突然お針子にナイフで襲いかかり、それを制止しようとした母親を刺殺してしまう。チャールズ・ラムは、姉のメアリーをイズリントン病院に入院させ、自分は結婚を断念して、精神疾患のために不定期に発作に見舞われる姉の面倒を一生見続けたのである。

The Watch House は、1791年に建設されたが、
第二次世界大戦中の1941年に破壊された。
その後、1962年に再建された。
チャールズ・ラムの胸像と記念碑–
1962年に The Watch House が再建された際に、Christchurch Greyfriars から移設された

チャールズ・ラムは、正業としての会社勤務と実姉の面倒に加えて、副業としての文筆業を始め、1807年1月末に姉メアリーとの共著で「シェイクスピア物語(Tales from Shakespeare)」を発表。また、彼は「エリア(Elia)」の筆名でエッセイ集「エリアの随筆(Essays of Elia)」を1823年と1833年に発表している。

Christchurch Greyfriars–
第二次世界大戦中に甚大な被害を蒙った
現在、Christchurch Greyfriars Garden として保存され、
シティー・オブ・ロンドン内で働く人達にとって
憩いの場となっている

チャールズ・ラムの胸像と記念碑は、元々、1782年から1789年にかけて彼が在学していたクライスト・ホスピタル学校(School of Christ’s Hospital)があった近くに建つ教会 Christchurch Greyfriars(ニューゲートストリート(Newgate Street→2018年5月19日付ブログで紹介済)沿い)に、1934年から設置されていたが、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中に教会が甚大な被害を蒙ったこともあり、The Watch House(元々は、1791年に建設され、1941年に破壊)が1962年12月に再建された際に、Christchurch Greyfriars から移設されたのである。

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