2018年6月10日日曜日

エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Edward Coley Burne-Jones)–その2

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain)に所蔵されている
初代准男爵サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ作
「黄金の階段(The Golden Stairs)」(1880年)

後に初代准男爵(1st Baronet)となったエドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Edward Coley Burne-Jones:1833年ー1898年)は、1856年にマクドナルド四姉妹の次女ジョージアナ・マクドナルド(Georgiana MacDonald:1840年ー1920年)と婚約した。ジョージアナ・マクドナルドは、当時、画家になる勉強をしていて、彼の昔から学友の妹であった。

翌年の1857年に、彼は、「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」に思想的な面で大きな影響を与えた思想家 / 美術評論家であるジョン・ラスキン(John Ruskin:1819年ー1910年)達と一緒に、初めてのイタリア旅行に出かけ、フィレンツェ(Florence)、ピサ(Pisa)、シエナ(Siena)やヴェネツィア(Venice)等のイタリア各地を訪問して、彼特有のスタイルを発展させることとなった。

1860年に彼はジョージアナ・マクドナルドと結婚し、1861年に長男のフィリップ(Philip)が生まれる。1864年に次男が生まれるが、残念ながら、生後間もなく亡くなってしまう。悲しみに沈むバーン=ジョーンズ夫妻は、現在のケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のケンジントン地区(Kensington)内にあるケンジントンスクエア41番地(41 Kensington Square)へと引っ越すと、1866年には長女マーガレット(Margaret)が生まれた。そして、1867年には、バーン=ジョーンズ夫妻は、1965年まで独立した区だったフラム地区(Fulham)内にあるノースエンドロード(North End Road)沿いに居を構えた。

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain)に所蔵されている
初代准男爵サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ作
「コフェチュア王と乞食娘(King Cophetua and the Beggar Maid)」(1884年)

1867年にフラム地区に居を構えて、家庭的には落ち着いたエドワード・コーリー・バーン=ジョーンズであったが、1870年代は展覧会をほとんど開催しなかった。何故ならば、その頃、彼はギリシア人のモデルだったマリア・ザンバコ(Maria Zambaco)と不倫関係になり、新聞紙上でかなり批難されていたからである。彼とマリア・ザンバコの不倫関係は、彼女が公衆の面前でリージェンツ運河(Regent’s Canal)へ身を投げて、自殺未遂を演じたことで、幕を閉じた。

一方で、1859年にウィリアム・モリス(William Morris:1834年ー1896年)と結婚したジェーン・バーデン(Jane Burden:1834年ー1896年)は、彼の師匠であるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rosetti:1828年ー1882年→2018年3月4日 / 3月11日付ブログで紹介済)と親密な関係になっており、そのため、ウィリアム・モリスは、エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズの妻ジョージアナと次第に友情関係を深めていった。最終的には、バーン=ジョーンズ夫妻も、モリス夫妻も離婚することはなかったものの、ウィリアム・モリスとジョージアナ・バーン=ジョーンズの二人は、生涯を通じ、近しい友人として交際を続けたのである。

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