2018年6月16日土曜日

ロンドン ギルップールストリート(Giltspur Street)–その2

ギルップールストリートの北端にある
West Smithfield Rotunda Garden(その1)–
画面中央奥に中央刑事裁判所(Central Criminal Court)が見える

プランタジネット朝最後のイングランド王であるリチャード2世(Richard II:1367年ー1400年 在位期間:1377年ー1399年)は、1378年と1380年の2回、百年戦争(Hundred Year’s War:1337年ー1453年→フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国とプランタジネット朝 / ランカスター朝イングランド王国の戦い)でフランスに奪われた元イングランド地域の奪還を目指して、欧州大陸へと遠征したものの、目的を達することができなかった。2回にわたる大陸遠征により、膨大な戦費調達が必要となって、リチャード2世は人頭税の導入を図る。

ギルップールストリートの北端にある
West Smithfield Rotunda Garden(その2)

ただし、この人頭税が、上層階級に対しては軽く、逆に下層階級に対しては重い税制だったため、1381年6月、増税に反対する下層階級の農民や労働者が反乱を起こす。屋根瓦職人のワット・タイラー(Wat Tyler:?ー1381年)が、神父のジョン・ボール(John Ball:1338年頃ー1381年)と共に、この反乱に指導者として加わると、勢いを得た反乱軍は、カンタベリー(Cantebury)を占拠した後、ロンドン郊外、続いて、ロンドン市内へと侵入し、カンタベリー大司教や政府の幹部だった財務長官のロバート・イルズと尚書部長官のサイモン・サドベリーを殺害したのである。

ギルップールストリートの北端にある
West Smithfield Rotunda Garden(その3)

これが、「ワット・タイラーの乱(Wat Tyler’s Rebellion)」、または、「農民反乱(Peasant’s Revolt)」と呼ばれている。なお、ワット・タイラーの半生について、判っていることが非常に少なく、出生時の名前は「ウォルター(Walter)」とされているが、姓に関しては不明で、屋根瓦職人(roof tiler)であったことから、「Tyler」の姓が付けられたものと考えられている。

1381年6月15日に行われた2回目の交渉時、
ワット・タイラーに斬りつけたロンドン市長のウィリアム・ウォルワース

リチャード2世率いる国王軍は、今のギルップールストリート(Giltspur Street)がある辺りで、ワット・タイラー達が率いる反乱軍を出迎え、同年6月14日、1回目の交渉が行われ、リチャード2世は、ワット・タイラー達に対して、農民や労働者の要求を保証すると回答した。ところが、翌日の同年6月15日、2回目の交渉が行われている最中、当時のロンドン市長(Lord Mayor of the City of London / Lord Mayor of London)だったウィリアム・ウォルワース(William Walworth:?ー1385年)によって、ワット・タイラーは突然斬りつけられた。ワット・タイラーは近くにあるセントバーソロミュー教会(St. Bartholomew the Great Church)へ難を逃れようとしたものの、そのまま殺害されてしまったのである。重要な指導者の一人を失った反乱軍自体も、国王軍によって鎮圧されてしまった。

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