2018年2月3日土曜日

イアン・ランカスター・フレミング(Ian Lancaster Fleming)−その1

イアン・ランカスター・フレミングが生まれた
「グリーンストリート27番地」の家は、
現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区の高級地区メイフェア内にある

「007(ダブル・オー・セブン)」のコード名を持つ英国秘密諜報部員(British Secret Service agent)であるジェイムズ・ボンド(James Bond → 2018年1月28日付ブログで紹介済)を創出したイアン・ランカスター・フレミング(Ian Lancaster Fleming:1908年ー1964年)は、商業銀行 Robert Fleming & Co. (スコットランド出身の祖父ロバート・フレミング(Robert Fleming)が設立)と関係がある裕福な家系に生まれた。


イアン・フレミングは、父ヴァレンティン・フレミング(Valentine Fleming)と母エヴリン・フレミング(Evelyn Fleming)の次男として、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級地区メイフェア(Mayfair)で、1908年5月28日に出生。彼の父親であるヴァレンティン・フレミングは、1910年から国会議員を務めていたが、第一次世界大戦(1914年ー1918年)の勃発に伴って出征し、1917年5月20日に西部戦線(West Front)で命を落としている。最終的な階級は少佐(Major)であった。

グリーンストリート27番地(右側)の建物を見上げたところ

イアン・フレミングは、兄が一人(ピーター・フレミング(Peter Fleming:1907年ー1971年))と弟が二人(リチャード・フレミング(Richard Fleming:1911年ー1977年) / マイケル・フレミング(Michael Fleming:1913年ー1940年))の他に、父親を異にする妹アマリリス・フレミング(Amaryllis Fleming:1925年ー1999年)が居る。

グリーンストリート27番地(画面中央)の家と
28番地の家は、現在、改装工事中である

イアン・フレミングは、1921年にイートン校(Eaton College)に入学するが、彼の生活態度、髪型、車の所有や女性関係等が次々と問題となり、1927年に当初の予定よりも早くイートン校を去ることになる。同年、英国陸軍士官学校(Royal Military College at Sandhourst)に入学するも、1年も経たずに、そこを去った。
次に、彼は、英国外務省(Foreign Office)に入るべく、準備を始め、彼の母親は彼をドイツのミュンヘン大学(Munich University)やスイスのジュネーヴ大学(University of Geneva)等へ送って勉学に励ませたが、相変わらずの女性関係が続き、残念ながら、外務省の試験に受からなかった。

グリーンストリートから
東側のパークストリート(Park Street)方面を見たことろ

そこで、彼は、彼の母親の尽力により、1931年10月、大手通信社のロイター通信(Reuters News Agency)に入社し、1933年にはソビエト連邦(当時)のモスクワに赴任している。
その後、彼は、家族の求めに根負けして、1933年に銀行勤務、そして、1935年に株式仲買人としての勤務を経るが、いずれも実を結ぶことはなかった。

グリーンストリートから
西側のパークレーンストリート(Park Lane)方面を見たことろ

イアン・フレミングは、1939年5月に英国海軍情報部(Naval Intelligence Division)にスカウトされて、同年8月からコードネーム「17F」として勤務を始める。彼の当初の階級は少尉(Lieutenant)であったが、数ヶ月後には中佐(Commander)へと昇進した。
同年9月から勃発した第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、彼は諜報員として活動し、「ゴールデンアイ作戦(Operation Goldeneye)」(1941年ー1942年)等の指揮を執り、終戦に伴い、退役する。

0 件のコメント:

コメントを投稿