2016年11月27日日曜日

ロンドン パル・マル通り107番地 アセニアムクラブ(Athenaeum Club / 107 Pall Mall)

「アセニアムクラブ」が入居する建物の正面全景

アガサ・クリスティー作「厩舎街(ミューズ)の殺人(Murder in the Mews)」(1937年)は、ガイ・フォークス ナイト(Guy Fawkes Night)に該る11月5日、打ち上げられる花火がロンドンの夜空を照らす中、物語が始まる。
「厩舎街の殺人」は、1937年に出版された中編集「厩舎街の殺人」(英国版)/「死人の鏡(Dead Man's Mirror)」(米国版)に収められている。


「厩舎街(ミューズ)」とは、厩舎(うまや)から表通りまでの路地のことを指している。ロンドン市内では、厩舎だった建物が後にフラット等の住居に改装され、人が住むようになったが、「ミューズ」という名は市内各所にそのまま残り、以前、厩舎が建ち並ぶ路地であったことを今に伝えている。

カールトンハウステラス(Carlton House Terrace)に近い
ウォーターループレイスから見た「アセニアムクラブ」

夕食を終えて、静かな脇道のバーズリーガーデンミューズ(Bardsley Garden Mews)を歩くスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)は、隣りを歩くエルキュール・ポワロに次のように話しかける。「殺人を行うには、うってつけの晩だ。今夜なら、たとえピストルを撃ったとしても、誰にも聞こえやしない。」と...
全くの偶然ではあるが、彼らが歩いていたバーズリーガーデンミューズにおいて、事件が発生する。若い未亡人であるバーバラ・アレン夫人(Mrs. Barbara Allen)が拳銃自殺をしたのである。しかし、彼女には自殺する理由が見当たらない上に、現場には自殺と断定するには疑わしい点が多かった。何故ならば、ピストルは彼女の右手の中にあったものの、握られていた訳ではなかった。不自然なことに、ピストルの弾丸は、彼女の頭の右側からではなく、左側から入っていたのである。つまり、何者かが彼女を殺害した後で、自殺に見せかけようとしたのだ!これを他殺と考えたジャップ主任警部は、ポワロに事件の捜査協力を依頼する。

建物外壁を改装中の「アセニアムクラブ」

容疑者は以下の3名。
一人目は、アレン夫人の家に同居していたミス・ジェーン・プレンダーリース(Miss Jane Plenderleith)。事件発生当時、彼女は遠く離れた田舎に居たことが判っているが、何故か、アレン夫人の家の階段の下にある戸棚の中を、ポワロやジャップ主任警部に見せたがらない態度をとる。実際、戸棚の中にあったのは、ゴルフクラブ、傘と小型のスーツケースだけだった。
二人目は、アレン夫人と婚約していた今売り出し中の下院議員チャールズ・レイヴァートンーウェスト(Charles Laverton-West)。事件発生当時における彼のアリバイはハッキリしていない。
三人目は、アレン夫人の知人ユースタス少佐(Major Eustace)。事件発生当時、彼はアレン夫人の家から出て来るところを目撃されている上、アレン夫人から多額の現金を強請っていたようである。
果たして、アレン夫人を射殺した真犯人は誰なのか?


英国のTV会社 ITV1 で放映された「Agatha Christie's Poirot」シリーズの「厩舎街の殺人」(1989年)の回では、ポワロとジャップ主任警部の二人が、アレン夫人と婚約していた下院議員のチャールズ・レイヴァートン・ウェストが会員となっているクラブを訪れ、クラブ内のスイミングプール脇で、事件発生時における彼のアリバイを尋ねた後、クラブから出て来るシーンがあるが、このシーンは「アセニアムクラブ(Athenaeum Club)」の建物外観が使用されている。

パル・マル通りから見た「アセニアムクラブ」

「アセニアムクラブ」は、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James's)内にあり、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からセントジェイムズ宮殿(St. James's Palace)へ向かって西に延びるパル・マル通り(Pall Mall(北側)ー2016年4月30日付ブログで紹介済)とチャリングクロス交差点(Charing Crossー2016年5月25日付ブログで紹介済)からバッキンガム宮殿(Buckingham Palace)へ向かって西に延びるザ・マル通り(The Mall(南側))に挟まれたエリアに位置している。
「アセニアムクラブ」の住所は「パル・マル通り107番地(107 Pall Mall, London SW1Y 5ER)」で、建物はパル・マル通りとウォーターループレイス(Waterloo Place)が交差する南西の角に建っているが、建物の入口はパル・マル通り側ではなく、ウォーターループレイス側に面している。

カールトンハウステラスから見たウォーターループレイス -
「アセニアムクラブ」が入居する建物は左側に建っている

「アセニアムクラブ」は、アイルランド出身の政治家/著述家で、当時英国海軍を統括する Secretary to the Admiralty という重責を担っていたジョン・ウイルソン・クローカー(John Wilson Croker:1780年ー1857年)が、科学、文学や芸術を愛する紳士が集うクラブとして、1824年に創立し、最初の会合が同年2月16日に開催された。

カールトンハウステラスから
ウォータールーガーデンズ(Waterloo Gardens)越しに
「アセニアムクラブ」を望む

当初、「アセニアムクラブ」は、ウォーターループレイス12番地の建物に仮入居し、本格的な入居先を探す努力が続けられたが、クラブの希望に合う建物がなかなか見つからなかった。丁度上手い具合に、英国政府がカールトンハウス(Carlton House)を取り壊し、一帯を再開発することになり、現在の土地が「アセニアムクラブ」に貸し出された。

「アセニアムクラブ」が入居する建物入口上のテラスに立つパラスアテナ像

「アセニアムクラブ」が本格的に入居する建物の設計者として、英国の建築家/都市計画家であるジョン・ナッシュ(John Nash:1732年ー1835年)やジェイムズ・バートン(James Burton:1760年ー1837年)と一緒にリージェンツパーク(Regent's Parkー2016年11月19日付ブログで紹介済)の再開発を行ったデシマス・バートン(Decimus Burton:1800年ー1881年 → ジェイムズ・バートンの息子)が選ばれた。デシマス・バートンは、新古典主義スタイルでクラブが建物を設計し、クラブの入口にはドーリア式の柱を配置した。


クラブが入居する建物の建設は1827年に始まり、1830年初めに竣工し、この建物を使用した最初の会合が1830年5月30日に開催された。
建物入口上のテラスには、トラファルガースクエアにあるネルソン像(Nelson's Column)でも有名な英国の彫刻家であるエドワード・ホッジェス・ベイリー(Edward Hodges Baily:1788年ー1867年)が制作したパラス・アテナ(Pallas Athene)像が同年に設置された。アテナは、知恵、芸術、工芸や戦略を司るギリシア神話の女神(オリュンポス十二神の一人)であり、「アセニアムクラブ」の創設趣旨に合わせたものと思われる。アテナが右手に持つ槍は、後で追加されている。
当初、建物は日本で言うところの2階建てであったが、19世紀末に3階と4階が追加された。


建物の建設に予想外の費用を要したため、必要な資金を捻出すべく、会員数を増やすことを強いられた。また、室内にガス燈を採用した最初の建物の一つだった関係上、空調設備を改善するため、更に会員数をつのり、費用を賄った。この頃に会員となったのが、小説家のチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens:1812年ー1870年)や自然科学者のチャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin:1809年ー1882年)等である。シャーロック・ホームズシリーズの作者であるサー・アーサー・コナン・ドイルも、「アセニアムクラブ」の会員であった。

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズの写真の葉書
(George Herbert Watkins / 1858年 / albumen print, arched top
190 mm x 152 mm) 

ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
チャールズ・ダーウィンの肖像画の葉書
(John Collier
 / 1883年 / Oil on panel
1257 mm x 965 mm)

夕闇に映える「アセニアムクラブ」

その後、1886年にクラブ内に自家発電機による電燈が灯り、1896年には一般電源が供給されるようになった。
2002年にはクラブ規約が改正されて、男性会員に加えて、同条件で女性会員が認められた。

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