2016年12月3日土曜日

ニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)は、元軍医局のジョン・H・ワトスン医学博士の回想録で、物語の幕を開ける。

1878年に、ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。
英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。
こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。

自然史博物館(Natural History Museum)内にある
地球儀のオブジェ

ホームズとの共同生活が始まった後、ワトスンが非常に驚いたのは、現代文学、哲学や政治に関して、ホームズがほとんど何も知らないことであった。英国の歴史家/評論家であるトーマス・カーライル(Thomas Carlyle:1795年ー1881年→2016年10月15日付ブログで紹介済)をホームズは知らなかったし、更に、コペルニクスの地動説や太陽系の構成についても、全く知らなかったのである。

自然史博物館の建物外観

「しかし、太陽系を知らないなんて!」と、私は抗議した。
「太陽系の構成を知っていることが、僕にとって何か価値があるのかい?」と、彼(ホームズ)は苛立って私の話を遮った。「僕達が居る地球が太陽の周りを回ると君は言ったが、仮に地球が月の周りを回ったとしても、僕にとって、そして、僕の仕事にも、何の違いもないのさ。」

夜空に浮かぶ月(その1)

'But the Solar System!' I protested.
'What the deuce is it to me?' he interrupted impatiently ; 'you say that we go round the sun. If we went round the moon it would not make a penny worth of difference to me or to my work.'

夜空に浮かぶ月(その2)

ホームズが全く知らなかったため、ワトスンが非常に驚いた「地動説」を唱えたニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus:1473年ー1543年)は、ポーランド出身の天文学者である。当時主流だった「天動説(地球中心説)」を覆す「地動説(太陽中心説)」を彼は唱え、これが天文学史上最も重要な発見と見做されている。意外なことに、彼は「天動説」を支持していたカトリック系教会の司祭でもあり、知事、長官、法学者や医者の他、占星術師という顔も有していたのである。

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