2016年6月12日日曜日

ロンドン サヴォイホテル(Savoy Hotel)

ストランド通りの反対側から見たサヴォイホテル

アガサ・クリスティー作「愛国殺人(→英国での原題は、「One, Two, Buckle My Shoe」(いち、にい、私の靴の留め金を締めて)であるが、日本でのタイトルは米国版「The Patriotic Murders」をベースにしている)」(1940年)は、エルキュール・ポワロがクイーンシャーロットストリート58番地(58 Queen Charlotte Street)にある歯科医ヘンリー・モーリー(Henry Morley)の待合室に居るところから、物語が始まる。
流石の名探偵ポワロであっても、半年に一回の定期検診のために、歯科医の待合室で診療を待つのは、自分の自尊心を大いに傷つけられるのであった。ようやく診療を終えて、建物の外に出たポワロは、そこで女性の患者とすれ違った際、彼女が落とした靴の留め金(バックル)を拾って渡した。そして、フラットに戻ったポワロを待っていたのは、ついさっき自分を診療したモーリー歯科医が診療室で拳銃自殺をしたとのスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)からの連絡であった。

ストランド通りに面したサヴォイホテルの玄関上部

ポワロの後に、モーリー歯科医の待合室にやって来た患者は、以下の3名であることが判る。
(1)マーティン・アリステア・ブラント(Martin Alistair Blunt)/銀行頭取
(2)アムバライオティス氏(Mr Amberiotis)/インドから帰国したばかりのギリシア人→モーリー歯科医の患者で、元内務省官僚のレジナルド・バーンズ(Reginald Barnes)は、アムバライオティスがスパイである上に、恐喝者だとポワロに告げる。
(3)メイベル・セインズベリー・シール(Mabelle Sainsbury Seale)/アムバライオティス氏と同じく、インド帰りの元女優

ストランド通り沿いに建つサヴォイホテル(その1)

モーリー歯科医の死が自殺ではなく、他殺の可能性もあると考えて、捜査を開始したポワロであったが、その後、アムバライオティス氏が歯科医が使用する麻酔剤の過剰投与により死亡しているのが発見される。モーリー歯科医は、アムバライオティス氏の診療ミス(=注射する薬品量の間違い)を苦にして、拳銃自殺を遂げたのだろうか?
続いて、メイベル・セインズベリー・シールが行方不明となり、アルバート・チャップマン夫人(Mrs Albert Chapman)という女性のフラットにおいて、彼女の死体が発見される、しかも、彼女の顔は見分けがつかない程の有り様だった。チャップマン夫人がメイベル・セインズベリー・シールを殺害の上、逃亡したのだろうか?ところが、モーリー歯科医の診療記録によると、発見された死体はメイベル・セインズベリー・シールではなく、チャップマン夫人であることが判明する。
ポワロが診療を終えて去った後、モーリー歯科医の診療室において、一体何があったのであろうか?ポワロの灰色の脳細胞がフル回転し始める。

ストランド通り沿いに建つサヴォイホテル(その2)

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「愛国殺人」(1992年)の回において、歯科医が使用する麻酔剤の過剰投与により、アムバライオティス氏が死亡しているのが発見されるが、彼の宿泊先のホテルであるアストリアホテル(Astoria Hotel)の入口外観として、フリーメイソンズホール(Freemaison's Hall)が撮影に使用されている。一方、アガサ・クリスティーの原作では、アムバライオティス氏の宿泊先はサヴォイホテル(Savoy Hotel)と設定されている。

サヴォイホテルの玄関
サヴォイホテルの玄関脇に置かれている
猫の形をした植栽

アガサ・クリスティーの原作において、アムバライオティス氏が宿泊していたサヴォイホテルは実在のホテルで、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内にあり、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からロンドンの経済活動の中心地であるシティー(City)に向かって東に延びるストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)沿いに建っている。

サヴォイホテルを建設したリチャード・ド・オイリー・カルテが
以前住んでいていた家ー残念ながら、現在改装中
リチャード・ド・オイリー・カルテが以前住んでいた家は、
ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)の
ダートマスパーク地区(Dartmouth Park)内の
ダートマスパークロード2番地(2 Dartmouth Park Road)に建っている

サヴォイホテルは、興行主/プロデューサーであるリチャード・ド・オイリー・カルテ(Richard D'Oyly Carte:1844年ー1901年)によって建設された。彼は、米国へ興行で何度も出かけており、米国のホテルに滞在した経験に基づいて、英国の地方や外国からロンドンを訪れる旅行者のために、英国で最も豪華なホテルを建設しようという意図の下、興行で得た資金で現在の土地を取得した。1881年の時点で、当地にはサヴォイ劇場(Savoy Theatre)が既に建っており、当初は、同劇場用の自家発電機を設置するために、同劇場に隣接する土地を取得したのである。

ダートマスパークロードの両側は、閑静な住宅街となっているー
奥へ進むと、かなりの坂道となる
リチャード・ド・オイリー・カルテがここに住んでいたことを示す
ブループラークは、建物改装中のため、現在外されている

リチャード・ド・オイリー・カルテは、英国の建築家であるトーマス・エドワード・コルカット(Thomas Edward Collcutt:1840年ー1924年)に設計を依頼した。トーマス・エドワード・コルカットは、シティー・オブ・ウェストミンスター区のメイフェア地区(Mayfair)にあるウィグモアホール(Wigmore Hallー音楽ホール)を設計したことでも有名である。
ホテルの建設には5年を要し、1889年8月6日に正式にオープンした。

サヴォイホテルとテムズ河の間は、サヴォイプレイス(Savoy Place)と呼ばれ、
ヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ(Victoria Embankment Gardens)という公園がある

フランスに在住するサヴォイ家のピーター伯爵(Peter II, Count of Savoy:1203年ー1268年)は、姪が英国王ヘンリー3世(Henry III:1207年ー1272年 在位期間:1216年ー1272年)と結婚したことに伴い、英国に移住し、1246年にヘンリー3世からリッチモンド伯爵(Earl of Richmond)に叙せられて、現在のストランド通りとテムズ河(River Thames)の間の土地を与えられた。1263年、彼はそこにサヴォイパレス(Savoy Palace)を建設した。
サヴォイパレスの跡地にホテルを建設したリチャード・ド・オイリー・カルテは、サヴォイパレスに因んで、当ホテルを「サヴォイホテル」と名付けたのである。
サヴォイホテイルは、世界で初めて、ホテル内に電灯と電動エレベーター(リフト)が導入されたホテルとなった。また、同ホテルは、当時としては珍しく、268室ある客室の大部分に浴室を設け、かつ、温水と冷水が常時行き渡るようにしたのである。

サヴォイプレイス側に面した
サヴォイホテルの裏玄関

リチャード・ド・オイリー・カルテは、1890年に同ホテルの初代支配人として、スイス人のシーザー・リッツ(Cesar Ritz:1850年ー1918年)を採用した。彼は1898年にサヴォイホテルを解雇された後、リッツホテル(Ritz Hotel)を立ち上げた人物で、パリのリッツホテルは1898年に、また、ロンドンのリッツホテルは1906年にオープンしている。

手前がヴィクトリアエンバンクメントガーデンズで、
奥がサヴォイホテルの裏玄関
サヴォイホテルを建設したリチャード・ド・オイリー・カルテを讃える記念碑が
サヴォイホテルの裏玄関前のヴィクトリアエンバンクメントガーデンズ内に設置されている

サヴォイホテルには、フレッド・アステア(Fred Astaire)、フランク・シナトラ(Frank Sinatra)、チャーリー・チャップリン(Charlie Chaplin)、オードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)、H. G. ウェルズ(H. G. Wells)、ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw)、ローレンス・オリヴィエ(Lawrence Olivier)、マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)、ジョン・ウェイン(John Wayne)、ハンフリー・ボガート(Humprey Bogart)、エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor)、リチャード・バートン(Richard Burton)やソフィア・ローレン(Sophia Loren)等、数々の著名人が宿泊している。


ナショナルギャラリー(National Gallery)に所蔵されている
クロード・モネ作「テムズ河とウェストミンスター寺院(La Tamise a Westminster)」
(1871年頃)

特に、印象派を代表するフランスの画家であるオスカー・クロード・モネ(Oscar-Claude Monet:1840年ー1926年)は、1871年以降、ロンドンを数度にわたって訪れており、1899年、1900年、そして、1901年の3回、サヴォイホテルに滞在し、自室のバルコニーに画架を据えて、国会議事堂(House of Parliament)、ウォータールー橋(Waterloo Bridgeー2014年10月24日付ブログで紹介済)とチャリングクロス橋(Charing Cross Bridge)という3つのモティーフを描いている。

パリの美術館で撮影したクロード・モネ作の国会議事堂

サヴォイホテルの建物は、現在、「グレードII(Grade II)」の指定を受けている。

0 件のコメント:

コメントを投稿