2016年6月26日日曜日

ロンドン リッチフィールドコート(Litchfield Court)

シーンロードの反対側から見たリッチフィールドコートー
一雨降る直前で、ポワロシリーズの雰囲気にうまくマッチしている

アガサ・クリスティー作「愛国殺人(→英国での原題は、「One, Two, Buckle My Shoe」(いち、にい、私の靴の留め金を締めて)であるが、日本でのタイトルは米国版「The Patriotic Murders」をベースにしている)」(1940年)は、エルキュール・ポワロがクイーンシャーロットストリート58番地(58 Queen Charlotte Street)にある歯科医ヘンリー・モーリー(Henry Morley)の待合室に居るところから、物語が始まる。
流石の名探偵ポワロであっても、半年に一回の定期検診のために、歯科医の待合室で診療を待つのは、自分の自尊心を大いに傷つけられるのであった。ようやく診療を終えて、建物の外に出たポワロは、そこで女性の患者とすれ違った際、彼女が落とした靴の留め金(バックル)を拾って渡した。そして、フラットに戻ったポワロを待っていたのは、ついさっき自分を診療したモーリー歯科医が診療室で拳銃自殺をしたとのスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)からの連絡であった。


ポワロの後に、モーリー歯科医の待合室にやって来た患者は、以下の3名であることが判る。
(1)マーティン・アリステア・ブラント(Martin Alistair Blunt)/銀行頭取
(2)アムバライオティス氏(Mr Amberiotis)/インドから帰国したばかりのギリシア人→モーリー歯科医の患者で、元内務省官僚のレジナルド・バーンズ(Reginald Barnes)は、アムバライオティスがスパイである上に、恐喝者だとポワロに告げる。
(3)メイベル・セインズベリー・シール(Mabelle Sainsbury Seale)/アムバライオティス氏と同じく、インド帰りの元女優

リッチフィールドコートの左側のフラット

モーリー歯科医の死が自殺ではなく、他殺の可能性もあると考えて、捜査を開始したポワロであったが、その後、アムバライオティス氏が歯科医が使用する麻酔剤の過剰投与により死亡しているのが発見される。モーリー歯科医は、アムバライオティス氏の診療ミス(=注射する薬品量の間違い)を苦にして、拳銃自殺を遂げたのだろうか?
続いて、メイベル・セインズベリー・シールが行方不明となり、アルバート・チャップマン夫人(Mrs Albert Chapman)という女性のフラットにおいて、彼女の死体が発見される、しかも、彼女の顔は見分けがつかない程の有り様だった。チャップマン夫人がメイベル・セインズベリー・シールを殺害の上、逃亡したのだろうか?ところが、モーリー歯科医の診療記録によると、発見された死体はメイベル・セインズベリー・シールではなく、チャップマン夫人であることが判明する。
ポワロが診療を終えて去った後、モーリー歯科医の診療室において、一体何があったのであろうか?ポワロの灰色の脳細胞がフル回転し始める。

リッチフィールドコートの反対側にある建物前の庭園

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「愛国殺人」(1992年)の回では、行方不明になったメイベル・セインズベリー・シールが死体となって発見されるアルバート・チャップマン夫人のフラット外観として、リッチフィールドコート(Litchfield Court)が撮影に使用されている。

リッチフィールドコートの右側のフラット

リッチフィールドコートは実在の建物で、テムズ河(River Thames)の南岸にあるリッチモンド(Richmondーロンドンの南東部)内に所在しており、リッチモンド駅(Richmond Station)を中心にして発展している街の中心部のすぐ近くに建っている。北方面(キューガーデンズ(Kew Gardens)の方)からザ・クワドラント通り(The Quadrant)を南下してきて、リッチモンド駅を過ぎたところで左折し、東方面へ進むと、通りは一旦ザ・スクエア通り(The Square)となるが、すぐにシーンロード(Sheen Road)という名前に変わる。リッチモンド駅手前で右折した後、数百m進んだ左手に、リッチフィールドコートは位置している。住所は、「Litchfield Terrace, Sheen Road, Richmond, London TW9 1AU」である。

地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の
ベーカールーライン(Bakerloo Line)のプラットフォーム壁に貼られている
サー・クリストファー・マイケル・レンとセントポール大聖堂

現在、リッチフィールドコートが建っている場所には、以前、セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)やハンプトンコート(Hampton Court)等の建設で有名な英国を代表する建築家サー・クリストファーマイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren :1632年ー1723年)が設計したリッチフィールドハウス(Litchfield House)があった。
英国の保守党の政治家である初代ブロードブリッジ男爵ジョージ・トーマス・ブロードブリッジ(George Thomas Broadbridge, 1st Baron of Broadbridge:1869年ー1952年)が1933年に当地を取得して、英国の建築家であるジョージ・バートラム・カーター(George Bertram Carter)が設計した二棟のフラット(=リッチフィールドコート)が1935年に建設された。そして、2004年にリッチフィールドコートはグレードⅡ(Grade II)の指定を受けている。

リッチフィールドコートの入口門に架けられているフラット名

TV版のポワロシリーズの場合、全作品の時代設定を第一次世界大戦(1914年ー1918年)と第二次世界大戦(1939年ー1945年)の間に置いており、当時流行したアールデコ様式(Art Deco)の建築物、内装や小物等が画面にしばしば登場する。リッチフィールドコートが竣工したのは1935年であり、TV版のポワロシリーズの時代設定に非常にうまくマッチしていたため、撮影場所として使用されたものと思われる。リッチフィールドコートの入口に該る門の上に架けられているフラット名「リッチフィールドコート」の文字も、アールデコ風である。

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