2016年6月19日日曜日

ロンドン トリニティースクエア10番地(10 Trinity Square)

トリニティースクエア10番地の建物正面全景

アガサ・クリスティー作「愛国殺人(→英国での原題は、「One, Two, Buckle My Shoe」(いち、にい、私の靴の留め金を締めて)であるが、日本でのタイトルは米国版「The Patriotic Murders」をベースにしている)」(1940年)は、エルキュール・ポワロがクイーンシャーロットストリート58番地(58 Queen Charlotte Street)にある歯科医ヘンリー・モーリー(Henry Morley)の待合室に居るところから、物語が始まる。
流石の名探偵ポワロであっても、半年に一回の定期検診のために、歯科医の待合室で診療を待つのは、自分の自尊心を大いに傷つけられるのであった。ようやく診療を終えて、建物の外に出たポワロは、そこで女性の患者とすれ違った際、彼女が落とした靴の留め金(バックル)を拾って渡した。そして、フラットに戻ったポワロを待っていたのは、ついさっき自分を診療したモーリー歯科医が診療室で拳銃自殺をしたとのスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)からの連絡であった。

トリニティースクエア10番地の正面玄関ー
現在、ホテルが入居している

ポワロの後に、モーリー歯科医の待合室にやって来た患者は、以下の3名であることが判る。
(1)マーティン・アリステア・ブラント(Martin Alistair Blunt)/銀行頭取
(2)アムバライオティス氏(Mr Amberiotis)/インドから帰国したばかりのギリシア人→モーリー歯科医の患者で、元内務省官僚のレジナルド・バーンズ(Reginald Barnes)は、アムバライオティスがスパイである上に、恐喝者だとポワロに告げる。
(3)メイベル・セインズベリー・シール(Mabelle Sainsbury Seale)/アムバライオティス氏と同じく、インド帰りの元女優

トリニティースクエア10番地の玄関右側に置かれている彫刻

トリニティースクエア10番地の玄関左側に置かれている彫刻

モーリー歯科医の死が自殺ではなく、他殺の可能性もあると考えて、捜査を開始したポワロであったが、その後、アムバライオティス氏が歯科医が使用する麻酔剤の過剰投与により死亡しているのが発見される。モーリー歯科医は、アムバライオティス氏の診療ミス(=注射する薬品量の間違い)を苦にして、拳銃自殺を遂げたのだろうか?
続いて、メイベル・セインズベリー・シールが行方不明となり、アルバート・チャップマン夫人(Mrs Albert Chapman)という女性のフラットにおいて、彼女の死体が発見される、しかも、彼女の顔は見分けがつかない程の有り様だった。チャップマン夫人がメイベル・セインズベリー・シールを殺害の上、逃亡したのだろうか?ところが、モーリー歯科医の診療記録によると、発見された死体はメイベル・セインズベリー・シールではなく、チャップマン夫人であることが判明する。
ポワロが診療を終えて去った後、モーリー歯科医の診療室において、一体何があったのであろうか?ポワロの灰色の脳細胞がフル回転し始める。

トリニティースクエア内から見上げた
トリニティースクエア10番地の建物

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「愛国殺人」(1992年)の回において、マーティン・アリステア・ブラントが率いるアーンホルト財閥が経営する銀行の外観として、トリニティースクエア10番地(10 Trinity Square)の建物が使用されている。
トリニティースクエア10番地は、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー(City)内にあり、地下鉄タワーヒル駅(Tower Hill Tube Station)の直ぐ近くである。建物の前に広がる広場/公園越しに、ロンドン塔(The Tower)を望むことができる。
トリニティースクエア10番地に建つビルには、以前、ロンドン港湾局(Port of London Authority = PLA)が入居していた。

トリニティースクエア10番地の玄関全景

英国では、18世紀から19世紀にかけて発した産業革命(Industrial Revolution)以降、経済の発展に伴って、濫立するドック会社や貿易商人等が港湾施設を運営してきたが、その運営管理はバラバラな上、相互の利害関係調整が非常に難しく、港湾経営の一元化が強く求められていた。
1900年にそのための「ロイヤル委員会」が発足し、1908年には議会の承認を経て、「ロンドン港湾法(Port of London Act 1908)」が成立した。そして、翌年の1909年にロンドン港湾局が設立され、港湾施設の経営に関する権限がここに一元化されたのである。ロンドン港湾局は、テムズ河(River Thames)流域における船舶の運行管理や河川の環境維持等も、その役目として担っている。


トリニティースクエア10番地へ移転する前に
ロンドン港湾局が入居していたチャーターハウスストリート沿いの建

同建物の反対側にあるスミスフィールドマーケット

ロンドン港湾局の本部は、当初、スミスフィールドマーケット(Smithfield Market)を間に挟んで、シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンが初めて出会った場所として有名なセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)とは反対側にあるチャーターハウスストリート(Charterhouse Street)沿いにあったが、1922年に地理的にテムズ河により近いトリニティースクエア10番地の建物に移転した。
トリニティースクエア10番地の建物へロンドン港湾局の本部移転を行ったのは、当時の英国首相である初代(ドワイフォーの)ロイド・ジョージ伯爵デイヴィッド・ロイド・ジョージ(David Lloyd George, 1st Earl of Lloyd George of Dwyfor:1863年ー1945年 首相在任期間:1916年ー1922年)である。

トリニティースクエア10番地の建物を真下から見上げたところ

その後、1946年に、国際連合(United Nations)の最初の会合も、トリニティースクエア10番地の建物で開催されている。
現在、同建物には、ホテルが入居している。

テムズ河を見守る Father Thames

トリニティースクエア10番地の建物上部にある塔部分には、テムズ河を司る「Father Thames」なる彫刻が設置され、ロンドン塔越しにテムズ河を今も見守っている。錨の上に乗った彫刻の左手は東を指差している。

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