2024年8月27日火曜日

ロンドン カドガンプレイス44番地

ウィリアム・ウィルバーフォースが住んでいた
カドガンスクエア44番地の建物全体を見上げたところ

英国の政治家 / 博愛主義者(philanthropist) / 奴隷廃止主義者(leader of the movement to abolish the slave trade)であるウィリアム・ウィルバーフォース(William Wilberforce:1759年ー1833年 → 2024年8月21日付ブログで紹介済)が住んでいた家が、ロンドンの中心部に所在するロンドン特別区の一つのケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)内にある。


ケンブリッジ大学創立800周年を記念して、
英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイクが描いた
ウィリアム・ウィルバーフォースの絵葉書
<筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum
→ 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入>


サークルライン(Circle Line)、ハマースミス&シティーライン(Hammersmith and City Line)とディストリクトライン(District Line)が通る地下鉄スローンスクエア駅(Sloane Square Tube Station)から、ピカデリーライン(Piccadilly Line)が通る地下鉄ナイツブリッジ駅(Knightsbridge)へと向かって、スローンストリート(Sloane Street)を北上し、進行方向右手に広大な庭園が見えたところで、スローンストリートを右折。



広大な庭園の東側に、スローンストリートのに並行して南北に伸びるカドガンプレイス(Cadogan Place)と言う通り沿いに、ウィリアム・ウィルバーフォースが住んでいたカドガンプレイス44番地(44 Cadogan Place, London SW1X 9RU)が建っている。


カドガンスクエア44番地の建物正面から
北方面を望む

24歳の若さでヨークシャー州(Yorkshire)選出の国会議員となるウィリアム・ウィルバーフォースは、1787年に、奴隷貿易に反対するグループを紹介され、英国議会における奴隷貿易反対運動のリーダーとなるよう、説得を受け、同年、奴隷貿易廃止促進協会(1786年に設立)に参加し、それ以降、奴隷貿易反対運動を進めてきた。

残念ながら、英国議会内の理解を得ることは非常に難しい上に、ケンブリッジ大学の同窓かつ親友で、トーリー党(Tory Party - 現在の「保守党」の前身となる政党)のウィリアム・ピット(William Pitt the Younger:1759年ー1806年 首相在任期間:1783年ー1801年 / 1804年ー1806年)やホイッグ党(Whig Party - 後の「自由党」と「自由民主党」の前身に該る政党)の奴隷貿易廃止主義者であるチャールズ・ジェイムズ・フォックス(Charles James Fox:1749年ー1806年)等の協力者が早逝したため、前途は多難であった。


カドガンスクエア44番地の建物正面から
方面を望む

その後、ウィリアム・ウィルバーフォースに協力する初代グレンヴィル男爵ウィリアム・ウィンダム・グレンヴィル首相(William Wyndham Grenville, 1st Baron Grenville:1759年ー1834年 首相在任期間:1806年ー1807年)が、1807年1月2日に「奴隷貿易廃止法案(Slave Trade Act 1807)」を貴族院に提出して、熱のこもった演説で法案への支持を訴えた結果、「賛成41対反対20」と言う大差で、貴族院を通過させた同年2月23日、庶民院に提出された同法案は、「賛成283対反対16」で可決され、同年3月25日、国王の裁可を経て、「奴隷貿易廃止法」は成立した。

ここに、約20年間にわたり、奴隷解放を目指してきたウィリアム・ウィルバーフォースの尽力は、遂に実を結んだのである。


カドガンスクエア44番地の建物G階の外壁には、
ブループラークが架けられている。


その後も、ウィリアム・ウィルバーフォースは、全ての奴隷の最終的な解放を目指して活動を続けたが、1824年、重篤な病気に罹患したため、翌年の1825年に国会議員を辞職。

議員辞職後も、ウィリアム・ウィルバーフォースは、多くの協力者達との活発なやりとりを続けたものの、彼の健康状態は悪化の一途を辿る。

1833年7月26日、ウィリアム・ウィルバーフォースは、奴隷制廃止法案が庶民院の第3読会を通過したことを非常に喜んだのも束の間で、同年7月29日の早朝に亡くなった。

なお、ウィリアム・ウィルバーフォースが亡くなった1ヶ月後、第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ(Charles Grey, 2nd Earl Grey:1764年ー1845年 首相在任期間:1830年ー1834年)の政権下、英国議会は、英国内に居る全ての奴隷に自由を与える「奴隷制廃止法」を成立させたのである。


カドガンスクエア44番地の建物G階の外壁に架けられているブループラークには、
ウィリアム・ウィルバーフォースがここで亡くなったことが記されている。


カドガンプレイス44番地の外壁に架けられたブループラーク(Blue Plaque - イングリッシュヘリテージ(English Heritage)が管理)には、ウィリアム・ウィルバーフォースが、(1833年7月29日、)この建物内で亡くなったことが表示されている。


カドガンスクエア44番地の建物入口の両側にある円柱には、
「44番地」と言う表示ではなく、
「43B番地」と言う表示が為されている。

厳密に言うと、「カドガンプレイス44番地」の建物の住所表記は、現在、「カドガンプレイス43B番地(43B Cadogan Place)」となっている。


          

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