2024年8月7日水曜日

ケンブリッジ大学創立800周年記念 / オリヴァー・クロムウェル(800th Anniversary of the University of Cambridge / Oliver Cromwell)- その2

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)
で販売されている
オリヴァー・クロムウェルの肖像画の葉書
(Robert Walker / 1649年頃 / Oil on canvas
1257 mm x 1016 mm) 

1649年1月30日にステュアート朝(House of Stuart)の第2代国王であるチャールズ1世(Charles I:1600年-1649年 在位期間:1625年ー1649年 → 2017年4月29日付ブログで紹介済)の処刑を執行した後、同年5月19日、イングランド共和国(Commonwealth of England:1649年ー1660年)の樹立を宣言したオリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell:1599年ー1658年は、1649年から1651年にかけて、反議会派の拠点だったアイルランドやスコットランドへと侵攻し、アイルランドを併合するとともに、1651年9月3日のウースターの戦い(Battle of Worcester)において、チャールズ1世の皇太子であるチャールズ(王政復古(Restoration)後のステュアート朝(House of Stuart)国王であるチャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年ー1685年))が率いるスコットランド軍を撃破し、チャールズを欧州大陸へと追いやった。

これが、第三次イングランド内戦(Third English Civil War:1649年ー1651年)に該る。


チャリングクロス交差点(Charing Cross - 2016年5月25日付ブログで紹介済)内に建つ
チャールズ1世の騎馬像―
奥に見えるのが、トラファルガースクエア内に建つ
ネルソン記念柱(Nelson's Column)とナショナルギャラリー(National Gallery)
<筆者撮影>


イングランド(ウェールズを含む)、アイルランドおよびスコットランドを支配下におさめたオリヴァー・クロムウェルは、1653年12月16日に終身護国卿となり、独裁体制を敷いた。


オリヴァー・クロムウェルは、インフルエンザに罹患して、1658年9月3日に死亡、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)に葬られた。


オリヴァー・クロムウェルの三男であるリチャード・クロムウェル(Richard Cromwell:1626年ー1712年)が、父の後を継いで、第2代護国卿となったが、父オリヴァー・クロムウェル程の器量や才能がない上に、軍人としての経歴もないため、議会や軍からの支持を得られず、1659年5月25日に護国卿辞任を余儀なくされた。

こうして、オリヴァー・クロムウェルとリチャード・クロムウェルの親子2代にわたる護国卿政(1653年ーか1659年)は、短い歴史にその幕を下ろしたのである。この時代を護国卿時代(Protectorate)と呼んでいる。


1660年に王政復古となり、チャールズ2世が国王に就くと、オリヴァー・クロムウェルは「王殺し」や「簒奪者」と徹底的に貶められるようになり、彼は既に亡くなっていたが、チャールズ1世の処刑(1649年1月30日)の12年後に該る1661年1月30日、タイバーン刑場(The Tyburn)において、彼の遺体は絞首刑の後斬首され、彼の首はウェストミンスターホール(Westminster Hall)の屋根に掲げられたまま、1685年までの四半世紀にわたって晒されることとなった。


タイバーン絞首刑台(Tyburn Tree)は、ハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)の北東の角にあった。より具体的に言うと、ハイドパークの北東の角にある周回道路の北側マーブルアーチ(Marble Arch)の中間辺りから北西方向へエッジウェアロード(Edgware Road → 2016年1月30日付ブログで紹介済)が延びているが、このエッジウェアロードが始まるところに、タイバーン絞首刑台が設置されていた。タイバーンの名は、ロンドン北部のプリムローズヒル(Primrose Hill)を源とするタイバーン川(River Tyburn)に由来している。
タイバーン絞首刑台は、その脚部が三角形を成していたため、「三本足の悪魔(three-legged mare)」と呼ばれ、1571年に設置された以降、1783年に死刑執行がニューゲート監獄(Newgate Prison)で行われるようになるまで、ここで公開処刑が行われていた。死刑囚は、シティー(City → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)にあるニューゲート監獄から荷馬車で オックスフォードストリート(Oxford Street → 2016年5月28日付ブログで紹介済)経由、ここまで乗せられてくる。そして、荷馬車が絞首刑台の下まで来ると、死刑囚の首にロープの輪がかけられ、絞首刑執行人が鞭をいれて、荷馬車を走り出させると、死刑囚が絞首刑台にぶら下がるという仕組みである。
この地が公開処刑の地に選ばれたのは、(1)オックスフォードストリート、マーブルアーチ通り、そして、ベイズウォーターロード(Bayswater Road)と真っ直ぐに続くこの道がオックスフォード(Oxford)へ向かう主要な街道になっていたため、一般庶民に法を厳しく徹底させる目的があったことと(2)もう一つは、死刑という不吉な作業をシティーからかなり離れた場所で行う必要があったこと等からである。

もちろん、今、タイバーン絞首刑台は残っていないが、エッジウェアロードをハイドパーク側の歩道から地下鉄マーブルアーチ駅(Marble Arch Tube Station)側の歩道へ渡る際、エッジウェアロードの真ん中に信号待ちのための浮き島があるが、この浮き島の地面にタイバーン絞首刑台があった場所を示す標識が残っている。


絞首刑が行われていたタイバーン刑場(The Tyburn)の樹が立っていた場所を示すプレート
<筆者撮影>


その後、オリヴァー・クロムウェルの首は、多くの所有者の手を経て、1960年に彼の母校であるシドニーサセックスカレッジ内の礼拝堂の床下に葬られた。

また、息子とのリチャード・クロムウェルは、海外へ亡命したが、1680年頃にこっそりと英国へ帰国している。


オリヴァー・クロムウェルの死後、400年弱が経過しているが、彼が類い稀な優れた指導者なのか、それとも、強大な独裁者なのか、現在も彼の歴史的評価は分かれたままである。


          

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