2016年3月6日日曜日

ロンドン レイトンハウス博物館(Leighton House Museum)

赤レンガの外観が映えるレイトンハウス博物館

アガサ・クリスティー作「ひらいたトランプ(Cards on the Table)」(1936年)は、エルキュール・ポワロが謎多き裕福な蒐集家であるシャイタナ氏(Mr Shaitana)からブリッジパーティーへの招待を受けるところから、物語が始まる。「まだ告発されていない殺人犯を招いた上でのパーティーだ。」と言うシャイタナ氏の趣旨に興味を覚えたポワロは、パーティーへの参加を決める。


シャイタナ氏の自宅で行われたパーティーに招待されたのは、以下の8人だった。
(1)探偵組
*エルキュール・ポワロ
*バトル警視(Superintendent Battle)ースコットランドヤードの警察官
*レイス大佐(Colonel Race)ー秘密情報局の情報部員
*アリアドニ・オリヴァー夫人(Mrs Ariadne Oliver)ー女流推理作家
(2)容疑者組
*ロバーツ医師(Dr Roberts)ー成功をおさめた中年の医師
*ロリマー夫人(Mrs Lorrimer)ーブリッジ好きな初老の女性
*デスパード少佐(Major Despard)ー未開地を探索する探検家
*アン・メレディス(Anne Meredith)ー内気で若く麗しい女性

ホーランドパークロードの東側から見た
レイトンハウス博物館全景

食事の最中、シャイタナ氏はパーティーの出席者に対して、謎めいた告発を行う。そして、食事が済むと、容疑者組の4人はメインルーム(客間)で、また、探偵組の4人は別の部屋でブリッジを始めることとなった。シャイタナ氏はメインルームの暖炉の側に置かれた椅子を自分の居場所として、ブリッジへの参加を辞退する。
ブリッジが終わり、ポワロとレイス大佐がシャイタナ氏に暇を告げようとした際、彼らはシャイタナ氏が彼の蒐集品であるナイフで胸を刺されて死んでいるのを発見する。
果たして、シャイタナ氏が謎めいた告発をした対象の人物は誰だったのか?そして、その人物がシャイタナ氏を刺殺したのだろうか?
名探偵、警察官や情報部員等が同席しているパーティーの最中、大胆にも行われた犯行を解き明かすべく、ポワロの灰色の脳細胞が、ブリッジの点数表の内容にその糸口を見いだすのであった。

レイトンハウス博物館の入口右側にある掲示板

英国のTV会社ITV1で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「ひらいたトランプ」(2006年)の回では、シャイタナ氏が住む屋敷ピーコックハウス(Peacock House)の内部として、ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)内にある「レイトンハウス博物館(Leighton House Museum)」が撮影に使用されている。

ホーランドパークロードの反対側から
レイトンハウス博物館の正面を見上げたところ

レイトンハウス博物館は、ピーコックハウスの外観として撮影に使用された「デベナムハウス(Debenham House)」の割合と近くに位置しており、地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)の前を通って、地下鉄ハマースミス駅(Hammersmith Tube Station)へと西に延びるケンジントンハイストリート(Kensington High Street)を右折して、アディソンロード(Addison Road)を北上し、右手に現れる最初の通りであるホーランドパークロード(Holland Park Road)に入った左手にある。

レイトンハウス博物館の入口左側の外壁に
「フレデリック・レイトン(レイトン男爵)がここに住んでいた」ことを
示すブループラークが掲げられている

レイトンハウス博物館は、元々、ヴィクトリア朝時代の英国を代表する画家 / 彫刻家であるフレデリック・レイトン(Frederic Leighton:1830年ー1896年)の私邸だった建物である。

フレデリック・レイトンは、1830年12月3日に、ヨークシャー州(Yorkshire)のスカボロー(Scarborough)に出生。彼の父親と祖父は共に医師で、特に、祖父はロシア皇帝一家の主治医を務めており、裕福な家庭環境の中、彼は育ち、早くから美術の才能を開花させた。

フレデリック・レイトンは、彼の友人である建築家のジョージ・エイチソン(George Aitchison:1825年ー1910年)に委託し、4千5百ポンド(現在の価値に換算すると、約8千万円)を投じて、作品を制作するためのスタジオを有する邸宅を建設してもらった。
ホーランドパークロード2番地(2 Holland Park Roadーのちに、ホーランドパークロード12番地(12 Holland Park Road)に住所表記が変更される)の場所をベースにして、ジョージ・エイチソンによる設計が1864年に始まったが、フレデリック・レイトンが1866年4月まで土地を賃借出来なかったため、工事が開始したのは、それからであった。同年末には入居できるようになったものの、フレデリック・レイトンは、その後30年間にわたって、増改築を繰り返して、自分好みの邸宅をつくりあげていった。

レイトンハウス博物館の庭を遠くに望む
(前日の雨のため、保護の観点から、庭への入口が閉鎖されていた)

建物の外観は、赤レンガを使用して、古典的に建設されているが、建物の内部は、フレデリック・レイトンの小さくて簡素な寝室を除くと、豪華そのもので、各部屋が彼の美意識を具体化しており、建物全体が一つの見事な美術作品となっている。
特に、ポワロシリーズにも登場したアラブホール(Arab Hall)は、1877年から1879年に架けて増築された部分で、ジョージ・エイチソンによると、イタリアのパレルモ(Palermo)にあるラ・ジサ宮殿(Palace of La Zisa)を参考にした、とのこと。フレデリック・レイトンは、18年間にも及ぶ欧州滞在の際に出かけた中東旅行において、現地の文化に惹かれ、その中東への思いをこの部屋の装飾で表現している。部屋の中央には小さな噴水が設けられており、涼やかな水の音が人を圧倒する壮麗な雰囲気の内に癒しの色取りを加えている。また、アラブホールへと至る壁のタイルについては、彼の友人で、小説家/デザイナー/画家/陶芸家という多彩な顔を持つウィリアム・デ・モーガン(William de Morgan:1839年ー1917年)によるものである。博物館内は写真撮影が禁止されている関係上、アラブホールの写真をお見せできないのが残念である。

ホーランドパークロードの西側から見たレイトンハウス博物館

フレデリック・レイトンは、欧州滞在からロンドンに戻った後、ヴィクトリア朝時代の寵児となり、1878年には王立芸術院(Royal Academy of Arts)の会長に就任し、以後20年近く会長として君臨する。
そして、1896年1月24日、彼は初代レイトン男爵(1st Baron Leighton)となったが、翌日の1月25日、狭心症の発作を起こして、この世を去ってしまう。僅か1日だけではあったが、英国美術界において、男爵以上の爵位を与えられたのは、現在に至るまで、彼一人である。

レイトンハウス博物館の正面外壁

フレデリック・レイトンは生涯独身で過ごしたため、彼の死後、邸宅内にあった彼の作品を含む美術品や家財等はほとんど競売にかけられてしまった。それに加えて、小さな寝室が一つしかない邸宅を購入しようという希望者が現れなかったため、邸宅は博物館として管理されることになり、現在に至っている。

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