2015年6月7日日曜日

ロンドン アディソンマンションズ(Addison Mansions)

オリンピア展示場の裏手ブライスロード(Blythe Road)沿いに建つフラット

第一次世界大戦(1914年ー1918年)が終わって1年が経った1919年に、実家のデヴォン(Devon)州アッシュフィールド(Ashfield)で一人娘のロザリンド(Rosalind)を出産したアガサ・クリスティーと(最初の夫である)アーチボルド・クリスティー(Archibald Christie:1889年ー1962年/通称 アーチー(Archie))は、ケンジントン区(Kensington)にアパートを見つけて、それまで住んでいたノースウィックテラス5番地(5 Northwick Terrace)から引っ越した。彼らが引っ越した先は、ケンジントン・オリンピア駅(Kensington Olympia Station)の近くで、オリンピア展示場(Olympia Exhibition Centre)の裏にあった二棟のアパート「アディソンマンションズ(Addison Mansions)」の25号室であった。

ケンジントンハイストリート側のオリンピア展示場

オリンピア展示場では、アンティーク本フェアが開催されていた

オリンピア展示場の裏側

その後、クリスティー夫妻は、中庭を挟んで別棟にあるより住環境が良い96号室へ移り、アガサ・クリスティーは4つの寝室と2つの居間の改装に取りかかった。アディソン・マンションズ96号室は、クリスティー夫妻と一人娘のロザリンドに加えて、乳母のジェシー・スワネル(Jessie Swannell)とメイドのルーシー(Lucy)が暮らすには充分な広さであった。そして、クリスティー一家はここで1922年1月まで心地良い暮らしを送った。1922年1月に、アガサ・クリスティーは、(1924年に開催予定の)大英帝国博覧会の宣伝使節の一員となったアーチボルドと一緒に、1年近く世界歴訪の旅に出かけることとなった。クリスティー夫妻は、娘のロザリンドをアガサの姉の元に預けて、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドや南アフリカ等を巡っている。

ブライスロード沿いにあるカフェ

ブライスロード沿いに建つ郵便局の集配施設—
建物の一部を大英博物館等が使用している模様

アガサ・クリスティーは、アディソンマンションズに住んでいた間、娘のロザリンドを乳母車に乗せて、ケンジントンハイストリート(Kensington High Street)を通り、ホーランドパーク(Holland Park)までよく散歩に出かけた。ただ、「乳母車を押して、ホーランドパークまで行って戻って来るのは、冗談にならない位、非常に大変だった。」と、彼女は後に述懐しているようである。
ケンジントンハイストリート沿いには街路樹が生い茂り、通りを一歩北側に入ると、ホーランドパークとケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)に挟まれた区域には、ヴィクトリア朝の住宅や大使館/領事館等が建ち並ぶ高級住宅街で、散歩するにはうってつけの場所だったと言える。

ハズリットロード(Hazlitt Road)と
マクリースロード(Maclise Road)の角に建つフラット(その1)

ハズリットロード(Hazlitt Road)と
マクリースロード(Maclise Road)の角に建つフラット(その2)

アガサ・クリスティーがアディソンマンションズに住んでいた頃(1919年ー1922年)から、近くにあった「ジョーゼフ・ライオンズ会社(Joseph Lyons and Co.)」という仕出し会社が、同社の敷地拡張のため、アディソンマンションズの取り壊しを計画しており、実際、その30年後に取り壊しが行われ、その跡地には同社の本社ビルであるキャドビーホール(Cadby Hall)が建てられたとのこと。

ただ、1970年代に入ると、同社の業績が傾き、1978年には他社に売却された後、1983年6月には本社ビルのキャドビーホールを含め、一帯の建物は取り壊されてしまったので、残念ながら、今現在、当時の面影は全く残っていない。

ライオンズウォーク—
当時あった仕出し会社の名前が通り名に残っている

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