2015年6月20日土曜日

ロンドン マウントヴァーノン通り7番地(7 Mount Vernon)

ロバート・スティーヴンソンが住んでいたマウントヴァーノン通り7番地

「宝島(Treasure Island)」(1883年)や「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件(Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde)」(1886年)等の作品で知られるロバート・ルイス・バルフォア・スティーヴンソン(Robert Louis Balfour Stevenson:1850年ー1894年)は、スコットランドのエディンバラ生まれの小説家、詩人でエッセイストである。


彼は、灯台建設を専門とする技術者である父トーマス・スティーヴンソン(Thomas Stevenson)と母マーガレット・バルフォア(Margaret Balfour)の間に生まれる。祖父のロバート(Rober Stevenson)、そして、伯父/叔父のアラン(Alan Stevenson)やデイヴィッド(David Stevenson)も、父のトーマスと同様に、灯台建設に従事する技術者であった。
生憎と、彼は生まれつき病弱だったため、生涯各地を転地療養することになる。ただし、これが彼の処女作である紀行文へとつながっていく。
スティーヴンソン家の流れを汲むべく、1867年11月に彼はエディンバラ大学の土木工学科に入学するが、土木工学に興味を持つことができず、後に法科に転科して、弁護士になる。彼の出生時の名前は 'Robert Lewis Balfour Stevenson' であったが、18歳の時(1868年)に、セカンドネームの「Lewis」を「Louis」に変更し、更に23歳の時(1873年)には、名前の間に入っていた Balfour を外してしまう。

「ロバート・スティーヴンソンがここに住んでいた」ことを示すプレート
—建物玄関の右の外壁に架けられている

彼の興味は、段々と旅行と著作だけに特化していく。
友人のサー・ウォルター・シンプソン(Sir Walter Simpson)と一緒に出かけたベルギーやフランスでのカヌー旅行がベースとなり、彼は処女作として紀行文「内陸の旅人(An Inland Voyage)」を1878年に発表することになる。
その前の1876年9月、彼はパリで後の妻となるファニー・ヴァン・デ・グリフト・オズボーン(Fanny Van de Grift Osbourne:1840年ー1914年)と出会う。彼女は米国のインディアナポリス出身で、当時既婚で2人の子供が居た。長女が絵画の勉強でパリに留学するため、1875年に彼女もパリに来ていたのである。夫の度重なる不貞行為に嫌気をさしていたファニー・オズボーンとロバート・スティーヴンソンは、1877年に入る頃には恋人関係になっていた。1878年8月に彼女が米国のサンフランシスコへ戻っても、当初、彼は旅行を続けていた。1年後の1879年8月に、彼は船でニューヨークへ、そして、陸路でサンフランシスコへ向かうが、これが彼の健康状態を悪化させる。一方、彼女は、夫が病気を患ったことに伴い、1879年に夫と離婚し、ロバート・スティーヴンソンの看病に努めた。そして、体調が改善したロバート・スティーヴンソンとファニー・オズボーンは1880年5月に結婚し、彼女の2人の子供を連れて英国に戻り、その後は精力的に創作に取り組んだのである。

マウントヴァーノン通り—画面左手奥に7番地の建物がある

その頃に執筆/発表したのが、「宝島」や「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件」等であったが、彼の健康上の理由から英国各地を転々としていた。彼が「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件」を執筆した場所は、英国南部海岸沿いのボーンマスであった。
彼は、コカインを飲んだ後、まるで別人になったかのように原稿が進んだ自分の体験に基づいて、「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件」を執筆したのである。現在では、コカインの恐ろしい依存性が一般的に知られていて、世界中で麻薬として規制されているが、当時はコカインが有害だという情報が英国にはまだ届いておらず、強壮剤、あるいは、興奮剤としてもてはやされていたため、誰でもコカインを簡単に入手することができた。ロバート・スティーヴンソンはコカインを飲んで、最初の原稿を三日三晩で仕上げたが、妻に「人物が書けていない。」と批判されたので、その原稿を暖炉に放り込んで焼き捨ててしまった。彼はもう一度コカインを飲んで、再度三日間で書き直したのが、現在も出版されている版となっている。この「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件」は、シャーロック・ホームズシリーズの作者で、同じスコットランド出身のサー・アーサー・コナン・ドイルにも高く評価されている。

ある日曜日の昼下がり—起伏に富むマウントヴァーノン通り

1887年に父親が死去したのを機に、彼は妻子とともに米国へ移住する。その後、出版社の依頼で取材した南太平洋の島々の環境が自分の健康に適していると考え、1890年サモア諸島のウポル島に移り住み、残りの生涯をそこで過ごした。そして、1894年12月3日、ワインを飲んでいる際、突然発作を起こして、ウポル島で44歳の生涯を終えた。原因は脳溢血とされている。

マウントヴァーノン通り(左側)と
ホーリーウォーク(Holy Walk—右側)が交差する角に、
ロバート・スティーヴンソンが住んでいた7番地がある

ロバート・スティーヴンソンが住んでいた家が、ハムステッド(Hampstead)内にある。ハムステッドはロンドン北部の閑静な高級住宅地で、地下鉄ノーザンライン(Northern Line)が通るハムステッド駅(Hampstead Tube Station)を中心として、何本もの通りが起伏を描いて広がるとともに、それらの通り沿いに18世紀のタウンハウスが整然と並んでいる。
ハムステッド駅の前を南北に延びるヒースストリート(Heath Street)に交差するホーリーヒル通り(Holy Hill)を上って行くと、直ぐ左手に歩行者専用道が現れる。ホーリーヒル通りを離れて、この急勾配の歩行者専用道を進むと、その突き当たりがマウントヴァーノン通り(Mount Vernon)である。マウントヴァーノン通り7番地(7 Mount Vernon)に、ロバート・スティーヴンソンは住んでいた。ホーリーヒル通りもかなり道幅が狭いが、マウントヴァーノン通りは更に狭く、車一台が通るので精一杯な位である。この辺りは、通りが非常に入り組んでいる上に、道幅が狭いため、車を含めて、付近の住民しか通らないので、ハムステッドの中でも、夜間になると寂しい位に静かである。

急勾配のホーリーウォーク
—画面奥にマウントヴァーノン通りがある

マウントヴァーノン通りを南に下って行くと、チャーチロウ(Church Row)に突き当たる。この通りは、コナン・ドイル作「サー・チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン(Sir Charles Augustus Milverton)」において、ハムステッドにある彼の屋敷に侵入すべく、ホームズとジョン・ワトスンがオックスフォードストリート(Oxford Street)から乗って来た馬車を降りた場所である。

ホーリーウォークの途中にある教会

0 件のコメント:

コメントを投稿