2020年4月4日土曜日

ロンドン 西インドドック(West India Docks)–その2

シティー・オブ・ロンドンに対抗する金融センターとして、
カナリーワーフ(Canary Wharf)が再開発された西インドドック(その1)

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)において、シャーロック・ホームズ、ジョン・H・ワトスンとスコットランドヤードのアセルニー・ジョーンズ警部(Inspector Athelney Jones)達が乗った巡視艇が、アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷に住むバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)を殺害した犯人達が乗ったオーロラ号を追跡して通り過ぎた西インドドック(West India Docks)は、ロンドンの経済活動の中心地シティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の東隣りの特別区の一つであるロンドン・タワー・ハムレッツ区(London Borough of Tower Hamlets)内に所在し、テムズ河(River Thames)に西側、南側と東側を囲まれた半島のようなドッグ島(Isle of Dogs)内に三つある造船所 / 修理ドックの一つである。  

シティー・オブ・ロンドンに対抗する金融センターとして、
カナリーワーフ(Canary Wharf)が再開発された西インドドック(その2)
南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海域にある群島である西インド諸島(West Indies)の富裕な商人で、船主でもあるロバート・ミリガン(Robert Milligan:1746年ー1809年)がジャマイカの砂糖農園からロンドンに戻ったところ、テムズ河沿いの船着き場での盗難や遅延等に激怒し、西インド農園 / 商人ロンドン協会(London Society of West India Planters and Merchants)の会長であるジョージ・ヒバート(George Hibert)等の有力者に働きかけ、造船所 / 修理ドックの建設を英国議会に願い出た。ロバート・ミリガンは、西インドドック会社(West India Dock Company)を設立し、副会長、そして、会長として、造船所 / 修理ドックの建設計画を推進した。
1799年に英国議会の承認が得られると、1800年に建設工事が始まった。西インドドックの建設は、二段階に分けて行われ、北ドック(North Dock)と中央ドック(Middle Dock)の二つは1802年に完成し、同年8月27日、正式にオープンした。そして、残りの南ドック(South Dock)は1860年代に建設された。「四つの署名」事件が発生したのは、1888年なので、西インドドックは、既に三つとも完成して、20年程が経過したころである。

シティー・オブ・ロンドンに対抗する金融センターとして、
カナリーワーフ(Canary Wharf)が再開発された
西インドドック(その3)

1829年にシティー・オブ・ロンドン自治体(City of London Corporation)が西インドドック会社から、そして、1909年にはロンドン港湾局(Port of London Authority)がシティー・オブ・ロンドン自治体から、西インドドックの管理を引き継いだ。
19世紀に入って、諸事情(詳細については、来週の「デットフォード水域(Deptford Reach)」で説明する予定)により、テムズ河を挟んで、ドッグ島の対岸にあるデットフォード(Deptford)における造船業が次第に衰退し、1869年には王立造船所 / 修理ドック(Royal Navy Dockyard)が閉鎖されており、残念ながら、西インドドック、特に、南ドックの建設は、時代の流れに逆行するものであった。

第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、ドイツ空軍による重度の空襲を受け、造船所 / 修理ドックや倉庫群は破壊され、甚大な被害を受ける。
第二次世界大戦後に復興するものの、港湾産業自体が既に衰退し始めていた。当時、海運業では、コンテナ輸送が中心となっており、ロンドン中心部に近い港湾施設の重要度が下がっていたのである。その結果、ドック島内における造船所 / 修理ドックは1970年代に次々と閉鎖され、残った西インドドックとミルウォールドック(Millwall Dock)についても、1980年代に遂に閉鎖されてしまった。
その後に関しては、再来週の「ロンドン ドッグ島(Isle of Dogs)」で説明する予定。


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