2019年1月12日土曜日

ロンドン テンプルバー(Temple Bar)ーその2

セントポール大聖堂側から見たテンプルバーゲート

テンプルバー(Temple Bar)自体は、1666年に発生したロンドン大火(Great Fire of London→2018年9月8日 / 9月15日 / 9月22日 / 9月29日付ブログで紹介済)による被害を免れたが、大被害を蒙ったシティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の再生計画の一環として、建替えが計画され、旧セントポール大聖堂(Old St. Paul’s Cathedral)を現在のセントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral → 2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)を再建した英国の建築家で、天文学者や数学者としての顔も有していたサー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren:1632年ー1723年)が、王政復古期ステュアート朝の国王チャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年ー1685年)による指示の下、新しいテンプルバーゲート(Temple Bar Gate)を設計した。

チャールズ1世像(左側)とチャールズ2世像(右側)が
セントポール大聖堂を見つめている

サー・クリストファー・マイケル・レンによる設計に従って、1669年から1672年にかけて、新しいテンプルバーゲートが、石工の Thomas Knight や Joshua Marshall 等によって、ポートランド石を使い、建設された。また、ゲートの上部には、英国の彫刻家である John Bushnell(ー1701年)により、(1)新しいテンプルバーゲートの建設を命じたチャールズ2世、(2)彼の父親で、ステュアート朝第2代国王のチャールズ1世(Charles I:1600年ー1649年 在位期間:1625年ー1649年)、そして、(3)彼の祖父で、ステュアート朝初代国王のジェイムズ1世(James I:1566年ー1625年 在位期間:1603年ー1625年)と(4)ジェイムズ1世妃のアン・オブ・デンマーク(Anne of Denmark:1574年ー1619年)の像が制作された。

パタノスタースクエア(Paternoster Square)側から見たテンプルバーゲート

新しいテンプルバーゲートは、3つのアーチから成り、中央の大きなアーチが、馬車等が通るメインで、左右にある2つの小さなアーチが、歩行者専用であった。

テンプルバーゲートを下から見上げたところ

シティー・オブ・ロンドンへと至る他の7つの関所門については、1860年までに取り壊されてしまったが、テンプルバーゲートに関しては、次第に増大する交通量に対処できなくなりつつも、取り壊されないまま、残っていたが、1874年に入ると、各所に老朽化部分が見つかった。1878年、シティー・オブ・ロンドン自治体(City of London Corporation)は、増大する交通量に対処するため、テンプルバーゲートの取り壊しを決定したものの、歴史あるゲートを廃棄することは、本意ではなかった。

ジェイムズ1世像(右側)とアン・オブ・デンマーク(左側)が
パタノスタースクエアを見下ろしている

そこに、ビールの醸造業者である Henry Meux が登場し、1880年にテンプルバーゲートを購入の上、ハートフォードシャー州(Hertfordshire)にある彼の邸宅セオバルズパーク(Theobalds Park)の庭園の門として移設したのである。

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