2017年9月16日土曜日

ロンドン ヴォクスホール橋(Vauxhall Bridge)

ヴォクスホール橋の中央辺りからテムズ河南岸を見たところー
中央奥に見えるのは、テムズ河南岸沿いに並ぶ高級フラット群

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。


元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。

テムズ河北岸のヴォクスホール橋入り口

奇妙な状況だった。私達は、知らない用件で知らない場所へと、馬車に乗って向かっていた。私達が受けたこの招待は、全くの悪ふざけかーこれはありえない仮説だがーそれとも、私達が向かう先に重要なことが待ち構えていると考えるに足る十分な根拠があるのだろうか。モースタン嬢の態度は、それまでと同じように、決意を固めた落ち着いたものだった。私はアフガニスタンへ従軍した思い出話をして、彼女を元気付けたり、そして楽しませようと努めたが、正直に言うと、私は自分自身がこの状況に非常に興奮して、私達の行き先に興味津々だったため、私の思い出話は少しばかり混乱していた。今でも、彼女は、私が動揺してこんな話をしたと言うのだ。ー真夜中に、マスケット銃(旧式歩兵銃)が私のテントの中を覗き込んだため、私がマスケット銃に向けて、二重銃身の虎の子を発砲した、と。最初は、私達が乗った馬車がどの方面へ向かっているのか、私もある程度判っていたが、馬車の速度、霧やロンドンの地理に不案内であることから、直ぐに私は方向を見失ってしまい、非常に長い距離を進んでいるようだということを除くと、全く何も判らなくなった。一方、シャーロック・ホームズは決して方向を見失っておらず、私達が乗った馬車が広場を走り抜け、曲がりくねった通りを出たり入ったりする度、彼は通りの名前を呟いたのである。
「ロチェスターロウだ。」と、彼は言った。「次は、ヴィンセントスクエアだ。ちょうど今、ヴォクスホールブリッジロードに出たな。見たところ、僕達はサリー州方面へ向かっているようだ。そうだ。そうだと思ったよ。今、ヴォクスホール橋を渡っている。少しばかり、テムズ河の川面が見えるぞ。」

ヴォクスホール橋からテムズ河南岸を望むー
右手奥に見えるのは、MI6 ビル

The situation was a curious one. We were driving to an unknown place, on an unknown errand. Yet our invitation was either a complete hoax - which was an inconceivable hypothesis - or else we had good reason to think that important issues might hang upon our journey. Miss Morstan’s demeanour was as resolute and collected as ever. I endeavoured to cheer and amuse her by reminiscences of my adventure in Afghanistan; but, to tell the truth, I was myself so excited at our situation, and so curious as to our destination, that my stories were slightly involved. To this day she declares that I told her one moving anecdote as to how a musket looked into my tent at the dead of night, and how I fired a double-barreled tiger cub at it. At first I had some idea as to the direction in which we were driving; but soon, what with our pace, the fog, and my own limited knowledge of London, I lost my bearings, and knew nothing, save that we seemed to be going a very long way. Sherlock Holmes never at fault, however, and he muttered the names as the cab rattled through squares and in and out by tortuous by-streets.
‘Rochester Row,’ said he. ‘Now Vincent Square. Now we come out on the Vauxhall Bridge Road. We are making for the Surrey side, apparently. Yes. I thought so. Now we are on the bridge. You can catch glimpses of the river.’

ヴォクスホール橋の中央辺りからテムズ河の下流を見たところー
生憎と、雨模様のお天気で、河が増水している

ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人を乗せた馬車が渡ったヴォクスホール橋(Vauxhall Bridge)は、テムズ河(River Thames)の北岸にあるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のピムリコ地区(Pimlico)とテムズ河の南岸にあるロンドン・ランベス区(London Borugh of Lambeth)のヴォクスホール地区(Vauxhall)を結ぶ橋である。

テムズ河で溺れている人を救助するのに使用する浮き輪

元々は、テムズ河北岸のハイドパークコーナー(Hyde Park Corner)からテムズ河南岸のケニントン(Kennington)まで幹線道路を敷設する目的で、1806年、英国の技師であるラルフ・ドッド(Ralph Dodd:1756年ー1822年)から橋の建設計画が提案された。そして、1809年に橋の建設が議会によって承認され、橋建設のための会社であるヴォクスホール橋会社(Vauxhall Bridge Company)が設立された。
ヴォクスホール橋会社に対して、ラルフ・ドッドは13のアーチを有する橋の設計案を提出するも、受け入れられず、逆に担当から外されてしまう。彼の代わりに、スコットランド出身の技師であるジョン・レニー(John Rennie:1761年ー1821年)が設計者として選ばれ、7つのアーチを持つ石橋の設計案が会社内で承認された。
ところが、橋を建設するための資金が予定通り集まらなかったため、ヴォクスホール橋会社は建設費用がより安く済む鉄橋へと方針を転換する。ジョン・レニーは11のアーチを有する鉄橋の設計案を会社に提出したが、承認されず、その代わりに、英国の技師であるサミュエル・ベンサム(Samuel Bentham:1757年ー1831年)が設計した9つのアーチを持つ鉄橋案に基づいて、橋の建設工事が始まったのである。
にもかかわらず、建設工事の途中で、サミュエル・ベンサム案も却下となり、最終的には、スコットランド出身の技師であるジェイムズ・ウォーカー(James Walker:1781年ー1862年)が設計した9つのアーチを持つ鉄橋案(+石の桟橋)に基づいて、建設工事が進められた。

テムズ河南岸が段々と近づいてくる

上記のように、かなりの紆余曲折はあったが、建設工事が始まってから約5年後の1816年6月4日に橋は開通を無事に迎えた。
当時、認知症となったハノーヴァー朝の国王ジョージ3世(George III:1738年ー1820年 在位期間:1760年ー1820年)の代わりに、摂政皇太子(Prince Regent:1811年ー1820年)となって政務を取り仕切った後の国王ジョージ4世(George IV:1762年ー1830年 在位期間:1820年ー1830年)に因んで、橋は当初「リージェント橋(Regent Bridge)」と名付けられたが、間も無く地名に基づいた「ヴォクスホール橋」へと変更されたのである。

ヴォクスホール橋袂のテムズ河南岸沿いに並ぶ高級フラット群

その後、19世紀後半(1880年代頃)になると、橋は老朽化のため、架け替えの必要性が出てきた。「四つの署名」事件が発生したのは、1888年なので、ホームズ、ワトスンとモースタン嬢を乗せた馬車がヴォクスホール橋を渡ったのは、橋の老朽化がかなり進んだ頃である。

ヴォクスホール橋を渡りきって、テムズ河南岸に着いたところ

1889年にヴォクスホール橋の所有権を引き継いだロンドン・カウンティー・カウンシル(London County Council)が橋の架け替えを決定して、1895年に議会の承認を取得。
1898年、古い橋の解体を始める前に、橋の横に木製の仮橋が建設された。そして、ロンドン・カウンティー・カウンシルの主席技師(Chief Engineer)であった英国の技師サー・アレクサンダー・ビニー(Sir Alexander Binnie:1839年ー1917年)と後(1901年)に主席技師となったアイルランド出身のサー・モーリス・フィッツモーリス(Sir Maurice Fitzmaurice:1861年ー1924年)による設計案に基づいて、新橋の建設が始まった。
当初の予定から遅れること、5年後の1906年5月26日、5つのアーチを持つ鋼鉄と花崗岩で出来た新橋が完成して、現在に至っている。
2008年にヴォクスホール橋はグレードⅡ(Grade II listed structure)に指定されている。

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