2017年6月24日土曜日

ロンドン キャンバーウェルロード129番地(129 Camberwell Road)

キャンバーウェルニューロード(Camberwell New Road)沿いに建ち並ぶ住居

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、1878年にジョン・H・ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。

英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。


こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。彼らが共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランドヤードのグレッグスン警部(Inspector Gregson)から事件発生を告げる手紙が届く。ホームズに誘われたワトスンは、ホームズと一緒に、ブリクストンロード(Brixton Roadー2017年5月20日付ブログで紹介済)近くの現場ローリストンガーデンズ3番地(3 Lauriston Gardensー2017年3月4日付ブログで紹介済)へと向かった。ホームズ達が到着した現場には、グレッグスン警部とレストレード警部(Inspector Lestrade)が二人を待っていた。現場で死亡していたのは、イーノック・J・ドレッバー(Enoch J. Drebber)の名刺を持つ、立派な服装をした中年の男性だった。

イーノック・J・ドレッバーの死体を発見したのは、ジョン・ランス巡査(Constable John Rance)であるという話をレストレード警部から聞くと、ホームズとワトスンの二人は、早速、彼が住むケニントンパークゲート(Kennington Park Gate)のオードリーコート46番地(46 Audley Courtー2017年3月25日付ブログで紹介済)へと向かう。そこで、ジョン・ランス巡査から死体発見の経緯を聞いたホームズは、ワトスンに対して、「彼は犯人を捕まえられる絶好のチャンスをみすみすとふいにしたのさ。」と嘆くのであった。


イーノック・J・ドレッバーの死体を持ち上げた際、床に落ちた女性の結婚指輪に気付いたホームズは、この指輪が犯人に繋がるものだと考え、朝刊全紙に広告を掲載して、
(1)金の結婚指輪がブリクストンロード近くのパブ「ホワイトハート(White Hart)」とホーランドグローヴ通り(Holland Grove)の間の道路で見つかったこと
(2)落とし主は、今晩8時から9時までの間に、ベーカーストリート221Bのワトスン博士を訪ねること
と告げるのであった。

そして、ホームズの予想通り、午後8時を過ぎた頃、彼らの部屋を訪ねて来た人が居たが、ホームズの予想に反して、指輪を引き取りにやって来たのは、はハウンズディッチ(Houndsditchー2017年6月3日付ブログで紹介済)のダンカンストリート13番地(13 Duncan Street)に住むソーヤー(Sawyer)と名乗る老婆だった。犯人に頼まれて、老婆が代わりに指輪を引き取りに来たと考えたホームズは、ワトスンを部屋に残して、彼女の後を尾行すべく、出かけて行った。ところが、敵側の方が一枚上手で、残念ながら、ホームズは尾行をまかれてしまった。そして、翌朝の新聞には、「ブリクストンの謎」という記事であふれていた。その最中、グレッグスン警部がホームズの元を訪れる。


「どうやって手掛かりをつかんだのかい?」
「ええ、全部お話します。ワトスン先生、もちろん、これは本当に内密でお願いしますよ。まず難しかったのは、この米国人の経歴をどうやって調べるかでした。こちらが出した広告に対して、問い合わせがあったり、あるいは、関係者が名乗り出て、自発的に情報を提供してくれるまで待つという人も居るでしょうが、それは、トビアス・グレッグスンのやり方じゃありません。あなたは、死んだ男の側に落ちていた帽子を覚えていますか?」
「ああ。」と、ホームズは言った。「キャンバーウェルロード129番地の帽子屋ジョン・アンダーウッド&サンズ製だね。」
グレッグスンがかなりがっかりしたように見えた。
「あなたも気付いていたとは思ってもいませんでした。」と、彼は言った。「あなたは、その帽子屋へもう行かれたんですか?」
「いいや。」
「そうですか!」と、グレッグスンはホッとしたような声で叫んだ。「例えどんなに小さく見えても、チャンスを逃すべきではないですね。」
「偉大な心にとって、小さなもの等、決してない。」と、ホームズは教訓めいたように話した。
「ええ、私は帽子屋のアンダーウッドのところへ行ってきました。そして、このサイズと種類の帽子屋を売ったことがあるかどうか、彼に尋ねました。彼はその帽子をトーキーテラスにあるシャーペンティエ夫人の下宿屋に住むドレッバーという男に配達していました。そうして、私は彼の住所を探し当てたのです。」
「見事だ。ー実に見事だ!」と、シャーロック・ホームズは呟いた。

キャンバーウェルニューロードと
バサルロード(Vassall Road)が交差する角

“And how did you get your clue?”
“Ah, I’ll tell you all about it. Of course, Doctor Watson, this is strictly between ourselves. The first difficulty which we had to contend with was the finding of this American’s antecedents. Some people would have waited until their advertisements were answered, or until parties came forward and volunteered information. That is not Tobias Gregson’s way of going to work. You remember the hat beside the dead man?”
“Yes,” said Holmes; “by John Underwood and Sons, 129 Camberwell Road.”
Gregson looked quite crest-fallen.
“I had no idea that you noticed that,” he said. “Have you been there?”
“No.”
“Ha!” Cried Gregson, in a relieved voice; “you should never neglect a chance, however small it may seem.”
“To a great mind, nothing is little,” remarked Holmes, sententiously.
“Well, I went to Underwood, and asked him if he had sold a hat of that size and description. He looked over his books, and came on it at once. He had sent the hat to a Mr. Drebber, residing at Charpentier’s Boarding Establishment, Torquay Terrace. Thus I got at his address.”
“Smart - very smart!” Murmured Sherlock Holmes.

キャンバーウェルニューロード沿いに建つパブ「The Kennington」

テムズ河(River Thames)の南岸にあり、地下鉄ベーカールーライン(Bakerloo Line)の南側の終着駅である地下鉄エレファント&キャッスル駅(Elephant & Castle Tube Station)の辺りからウォルワースロード(Walworth Road)がほぼ南へと延びているが、キャンバーウェル地区(Camberwell)内に入ると、キャンバーウェルロード(Camberwell Road)へと名前を変える。このキャンバーウェルロードがキャンバーウェル地区のほぼ中央を南北に縦断して、地区を東側と西側に分けている。そして、キャンバーウェルグリーン(Camberwell Green)と呼ばれる緑地帯の角で、東西に延びるキャンバーウェル ニューロード / 西側(Camberwell New Road)とペッカムロード / 東側(Peckam Road)に交差すると、デンマークヒル通り(Denmark Hill)へと再度名前が変わる。

ホームズとワトスンが活躍したヴィクトリア朝時代、特に1850年代以降、キャンバーウェルロード沿いにはミュージックホールが数多く建ち並び、非常に栄えたが、映画館やTVの登場により、次第に数が減っていき、最後のミュージックホールも1956年にその姿を消してしまった。

キャンバーウェルニューロード沿いに建つ
St. Mark's Church (その1)

イーノック・J・ドレッバーに帽子を配達した帽子屋ジョン・アンダーウッド&サンズの店があったとされるキャンバーウェルロード129番地は、キャンバーウェルロードとアディントンスクエア通り(Addington Square)が交差する北東の角に建っており、現在は住居になっている。

キャンバーウェルニューロード沿いに建つ
St. Mark's Church (その2)

ロンドン交通局(Transport for London)は、当初、地下鉄ベーカールーラインをキャンバーウェルロードの辺りまで延ばす計画であったが、第二次世界大戦(1939年ー1945年)のため、計画が頓挫。1950年代と1970年代にも延伸工事が一旦始まったものの、これらも途中で中止となっている。ロンドン交通局は未だに延伸を計画しているものの、具体的な日程は決まっていない、とのこと。

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