2017年2月18日土曜日

エティエンヌ・エミール・ガボリオ(Etienne Emile Gaboriau)

1979年に旺文社文庫として出版された
エティエンヌ・エミール・ガボリオ作「ルコック探偵」―
カバー絵は桑原伸之氏

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)は、元軍医局のジョン・H・ワトスン医学博士の回想録で、物語の幕を開ける。

1878年に、ワトスンはロンドン大学(University of Londonー2016年8月6日付ブログで紹介済)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospitalー2016年8月13日付ブログで紹介済)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍する。戦場において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負い、英国へと送還される。
英国に戻ったワトスンは、親類縁者が居ないため、ロンドンのストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)にあるホテルに滞在して、無意味な生活を送っていた。そんな最中、ワトスンは、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospitalー2014年6月14日付ブログで紹介済)勤務時に外科助手をしていたスタンフォード(Stamford)青年に出会う。ワトスンがスタンフォード青年に「そこそこの家賃で住むことができる部屋を捜している。」という話をすると、同病院の化学実験室で働いているシャーロック・ホームズという一風変わった人物を紹介される。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰って来たことを、ホームズは一目で言い当てて、ワトスンを驚かせた。
こうして、ベーカーストリート221B(221B Baker Streetー2014年6月22日/6月29日付ブログで紹介済)において、ホームズとワトスンの共同生活が始まるのであった。

ホームズとワトスンが共同生活を始めてしばらくした頃、ホームズはワトスンに対して、初対面にもかかわらず、何故、ワトスンがアフガニスタンから戻って来たことが判ったのか、その種明かしをする。それを聞いたワトスンが、ホームズを(米国の小説家/詩人/雑誌編集者である)エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe:1809年ー1949年→2017年1月28日付ブログで紹介済)の作品に登場するC・オーギュスト・デュパン(C. Auguste Dupinー2017年2月4日付ブログで紹介済)になぞらえると、ホームズは非常に不満顔であった。しかし、ワトスンは更に話を続けるのだった。

「君はガボリオの作品を読んだことがあるかい?」と、私は尋ねた。「ルコックは、探偵として君の御眼鏡に適うかい?」
シャーロック・ホームズは、皮肉っぽく鼻であしらって言った。「ルコックは惨めな不器用者だ。」と、彼は怒った口調で言った。「彼には、たった一つだけ誉められる点がある。それは、彼の行動力だ。ただ、彼の本を読むと、僕の気分は非常に悪くなるよ。問題は、どのように犯人を見つけ出すということだったが、僕であれば、24時間で解決できたさ。生憎と、ルコックの場合、事件を解決するのに、6ヶ月も要したが、彼の本は、してはならないことを教える探偵用教科書として書かれたのかもしれない。」
私は、自分が称賛していた二人が、こんな風に悪し様に言われるのを聞いて、少しばかり憤りを覚えた。私は、窓の側まで歩いて行って、そこから往来の激しい通りを立ったまま見つめた。「彼(ホームズ)は、非常に賢いのかもしれない。」と、私は自分で言った。「だが、彼の場合、明らかに自惚れが強過ぎる。」

'Have you read Gaboriau's works?' I asked. 'Does Lecoq come up to your idea of a detective?'
Sherlock Holmes sniffed sardonically. 'Lecoq was a miserable bungler,' he said, in an angry voice; 'he had only one thing to recommend him, and that was his energy. That book made me positively ill. The question was how to identify an unknown prisoner. I could have done it in twenty-four hours. Lecoq took six months or so. It might be made a text-book for detectives to teach them what to avoid.'
I felt rather indignant at having two characters whom I had admired treated in this cavalier style. I walked over to the window, and stood looking out into the busy street. 'This fellow may be very clever,' I said to myself, 'but he is certainly very conceited.'

ルコック(Lecoq)を創造したのは、フランスの大衆小説家エティエンヌ・エミール・ガボリオ(Etienne Emile Gaboriau:1832年ー1873年)である。
彼はフランス南西部の地方(ソージョン)に公証人の息子として生まれ、公証人の見習い→騎兵隊→仲買人という経歴を辿った後、25歳の時に週刊誌「ジャン・ディアブル紙」に入社。その後、当時フランスの大衆小説の大家であったポール=アンリ=コランタン・フェヴァル(Paul-Henri-Corentin Feval:1816年ー1887年)の秘書として代作をするようになった。そして、自分の名前で新聞や新聞付き文芸誌等に小説を連載するようになり、名声を高めて、長編小説を精力的に発表したが、1873年、肺出血のために41歳の若さでパリで急逝した。

ガボリオは、フェヴァルの代作を行っていた頃、その材料を仕入れるために、警察やモルグ(遺体置き場)等を訪ね歩いており、その時の経験が後に推理小説を執筆する際の知識として役立つことになる。

フランスの詩人/評論家であるシャルル=ビエール・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire:1821年ー1867年)が仏訳したエドガー・アラン・ポーが執筆した推理小説(短編)を読んで、その影響を受けたガボリオは、1866年、世界初の長編推理小説である「ルルージュ事件(L'Affaire Lerouge)」を新聞連載小説として発表した。同作品によって、ガボリオは一躍脚光を浴びる。同作品において、主人公は素人探偵のタバレ老人で、パリ警視庁の若手警官であるルコックは、脇役扱いであった。ルコックが主人公として活躍するのは、次作の「書類百十三(Le Dossier 113)」(1867年)以降である。

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