2017年1月21日土曜日

ロンドン ローフォードロード50番地(50 Lawford Road)

英国の作家/ジャーナリストであるジョージ・オーウェルが住んでいた
ローフォードロード50番地の建物

英国の TV 会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「二重の手がかり」(1991年)の回では、宝石コレクターであるマルカス・ハードマンより彼の自宅から盗難された宝石の捜索依頼を受けたものの、何故か、ポワロは気乗りしない様子を見せる。そこで、アーサー・ヘイスティングス大尉とミス・フェリシティ・レモンの二人が、ポワロに代わって、マーカス・ハードマンがパーティーに招待した客の中から、宝石を盗んだ犯人を見つけ出そうと、独自に捜査を開始する。一方、ポワロはパーティーの招待客の一人であるヴェラ・ロサコフ伯爵夫人と一緒に美術館でマルク・シャガール(Marc Chagall:1887年ー1985年)の絵画等を鑑賞していた。ポワロとヴェラ・ロサコフ伯爵夫人が居た美術館として、ロンドン大学(University of London)内に建つセナトハウス(Senate House)のクラッシュホール(Crush Hall)が撮影に使用されている。

第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、セナトハウスは英国の情報省(Ministry of Informations)によって使用されている。英国の作家/ジャーナリストであるジョージ・オーウェル(George Orwell:1903年ー1950年)の妻エイリーン(Eileen)が第二次世界大戦中に情報省検閲局(Censorship Department)に勤務して、セナトハウスで働いていた。彼女の勤務経験を踏まえ、「1984年(Nineteen Eighty-Four)」(1949年)において、ジョージ・オーウェルは、全体主義的近未来の「ビッグブラザー(Big Brother)」が率いる真理省(Ministry of Truth)の記録局(Records Department)を創作している。

ジョージ・オーウェル作「1984年」が上演されていた
劇場の看板(その1)

ジョージ・オーウェル作「1984年」は、1950年代に発生した第三次世界大戦(核戦争)を経た1984年の世界をその物語の舞台としている。世界は、(1)オセアニア(Oceaniaー旧アメリカ合衆国を元にして、南北アメリカ大陸、旧英国、アフリカ南部やオーストラリアを領有)、(2)ユーラシア(Eurasiaー旧ソビエト連邦を元にして、欧州大陸からロシア極東にかけての地域を領有)、そして、(3)イースタシア(Eastasiaー旧中国や旧日本を中心にして、東アジアを領有)という3つの超大国によって分割統治されていた。そして、これらの3大国は、同盟と敵対を絶えず繰り返しながら、間にある紛争地域をめぐって、戦争を行っていた。

オセアニアにおいて、ユーラシアに対峙するエアストリップ・ワン(Airstrip (緊急用滑走路) One)の最大都市であるロンドン市内にh、政府省庁が入った4つのピラミッド状の建築物が聳え建っており、主人公のウィンストン・スミス(Winston Smith)は真理省記録局に勤務する党員で、歴史記録の改竄作業を担当していた。
オセアニアは、「ビッグブラザー」が指導する党が支配する全体主義的な国家で、思想や言語等、あらゆる市民生活に対して、党の統制が加えられていた。更に、「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビに加え、市内中に仕掛けられた隠しマイクによって、屋内屋外を問わず、市民の全ての行動が監視されていたのである。

以前より、完璧な服従を強いる党の支配体制に不満を抱いていたウィンストン・スミスは、古道具屋で偶然見つけて購入したノートに自分の考えを書き留めていくという党によって禁止された行為に手を染めていく。真理省創作局に勤務し、党の方針に疑問を抱くジューリア(Julia)と知り合い、逢瀬を重ねるにつれて、ウィンストン・スミスは反革命活動へと転じて、現在「人民の敵」として指名手配を受けている伝説的な裏切り者エマニュエル・ゴールドスタイン(Emmanuel Goldstein)が指揮する反政府地下組織「兄弟同盟」に惹かれていくのであった。

ジョージ・オーウェル作「1984年」が上演されていた
劇場の看板(その2)

「1984年」を執筆したジョージ・オーウェルの本名はエリック・アーサー・ブレア(Eric Arthur Blair)で、インドの高等文官であった父リチャードと母アイダの下、英国植民地時代のインドに出生した。彼が1歳の時、母、姉や妹と一緒に英国へ帰国。
イートンカレッジ(Eton College)を出たジョージ・オーウェルは1922年に英国を離れ、インド警察の訓練所に入所した後、5年間ビルマ各地で勤務するものの、警察官として帝国主義の片棒を担ぐことが嫌になり、1927年に休暇で英国へ帰国した際、辞表を提出すると、二度とビルマへは戻らなかった。このビルマ時代の経験が、彼の最初の小説「ビルマの日々(Burmese Days)」(1934年)の基になっている。


英国に戻ったジョージ・オーウェルは、最底辺生活者のルポルタージュ作品を執筆しようと考え、1928年から1929年にかけて、皿洗いとして働きながらパリで暮らし、1930年から1931年にかけて、ロンドンとロンドン周辺を放浪する。そして、その経験をベースに、1933年、彼は最初の著作「パリ・ロンドン放浪記(Down and Out in Paris and London)」を刊行する。


その後、スペイン内戦に義憤を感じたジョージ・オーウェルは1937年1月にマルクス主義統一労働党アラゴン戦線分隊に伍長として参戦し、フランコのファシズム軍に対抗したが、同年5月、前線で咽喉部に貫通銃創を受け、危うく命を落とすところであった。そして、1938年、彼はスペイン内戦体験をベースに「カタロニア讃歌(Homage to Catalonia)」を刊行した。

ジョージ・オーウェルがここに住んでいたことを示す
ブループラーク

第二次世界大戦中、ジョージ・オーウェルは英国陸軍へ志願するも断られ、内地で軍曹として勤務する。その後、BBC に入社して、東南アジア向け宣伝番組の制作に従事する。
第二次世界大戦後の1947年に、彼は結核に罹患し、療養と「1984年」の執筆を兼ねて、父祖の地スコットランドの孤島ジュラにある荒れた農場に引き蘢る。同地は結核の治療には適した場所ではなく、1949年に彼は「1984年」を刊行するも、彼の健康状態は悪化の一途を辿るのであった。
そして、1950年、彼はロンドンにおいて46歳で死去した。

ローフォードロード50番地の建物外壁に
手前の薔薇の赤色が映える

ジョージ・オーウェルがロンドンで住んでいた家は、ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のケンティッシュタウン地区(Kentish Town)内にあるローフォードロード50番地(50 Lawford Road)である。
ケンティッシュタウン地区は、リージェンツパーク(Regent's Parkー2016年11月19日付ブログで紹介済)の北側にあるカムデンタウン地区(Camden Town)の更に北側に位置している。ケンティッシュタウン地区の西側には、ハムステッドヒース(Hampstead Heathー2015年4月25日付ブログで紹介済)やパーラメントヒル(Parliament Hill)等の広大なヒースが所在するハムステッド地区(Hampstead)がある。


ローフォードロードは、ユーストン駅(Euston Stationー2015年10月31日付ブログで紹介済)から北上するケンティッシュタウンロード(Kentish Town Road)の東側にあり、平行して走るバーソロミューロード(Bartholomew Road)とパトシャルロード(Patshull Road)に南北に挟まれている。

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