2015年7月25日土曜日

ロンドン ベイズウォーターロード100番地(100 Bayswater Road)

レンスターテラスの入口から見たベイズウォーターロード100番地

「ピーターパン(Peter Pan)」シリーズ等の作者として有名なサー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie:1860年ー1937年)は、スコットランドのキリミュア(Kirriemuir)生まれの劇作家/童話作家である。シャーロック・ホームズシリーズの作者であるサー・アーサー・コナン・ドイルと同じスコットランドの出身で、彼の友人であった。
1860年、織工の父と石工の娘の母の下、彼は10人兄弟の9番目として出生(なお、そのうちの2人は、彼が生まれる前に既に死亡)。
彼の家族は彼に聖職者になってほしいと願ったが、彼は作家になりたいという希望が強く、エディンバラ大学(University of Edinburgh)に入学し、文学を専攻。1882年に大学を卒業した後は、ノッティンガムの新聞社(Nottingham Journal)に勤めながら、雑誌への寄稿等を行った。そして、1885年に彼はロンドンへ行き、文筆業に専念した。

ベイズウォーターロード100番地の入口は、
レンスターテラス側に面している

1888年に発表した「オールドリヒト物語(Auld Licht Idylls)」で成功をおさめ、一躍有名となった彼は劇作家としても活動するようになる。1891年、彼にとって3作目の劇で知り合った女優メアリー・アンセル(Mary Ansell)と1894年7月9日に彼の出生地であるキリミュアで結婚する。1893年から1894年にかけて、彼は体調が優れず、メアリーは彼の家族と一緒に彼の看病を行い、彼の体調が回復したことに伴い、結婚式が行われたのである。

ベイズウォーターロード100番地の入口

1895年にバリー夫妻はサウスケンジントン地区(South Kensington)内にあるグロースターロード(Gloucester Road)沿いに家を購入したが、彼がよく散歩に出かけるケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)からかなり距離があった。そのため、1900年にバリー夫妻はケンジントンガーデンズの北側のベイズウォーターロード(Bayswater Road)沿いの家を購入して、移り住んだ。

サー・ジェイムズ・バリーがここに住んでいたことを示す
ブループラーク

この家がベイズウォーターロード100番地(100 Bayswater Road)の建物で、東西に延びるベイズウォーターロードと南北に延びるレンスターテラス(Leinster Terrace)が交差する北西の角に建っている。ジェイムズ・バリーの希望通り、ベイズウォーターロード100番地の家からケンジントンガーデンズを一望することが可能な上、ベイズウォーターロードを横切れば、ケンジントンガーデンズは目と鼻の先という立地条件であった。
元々、この家は1820年に建てられて、バリー夫妻が購入するまでの間、庭師が住んでいた。1900年に彼らが購入した後、インテリアデザインに興味を持っていた妻のメアリーが家の大改装を行い、地下階に大きな応接室を2つ、また、ロンドン最初と言われる(家に付属する)温室を設置している。

ベイズウォーターロード100番地の側面

ジェイムズ・バリーは、このベイズウォーターロード100番地をベースにして、以下の有名な作新を執筆している。
・「小さな白い鳥(The Little White Bird)」(1902年)ー第13章から第18章にピーターパンが初めて登場。
・戯曲「ピーターパンー大人になりたがらない少年(Peter Pan, or The Boy Who Wouldn't Grow Up)」(1904年)
・「ケンジントン公園のピーターパン(Peter Pan in Kensington Gardens)」(1906年)
・「ピーターパンとウェンディー(Peter and Wendy)」(1911年)
これらの作品は、彼がよく散歩していたケンジントンガーデンズで1897年に知り合ったディヴィス夫妻とその息子達(5人兄弟)のうち、ディヴィス夫人のシルヴィア・ルウェリン・ディヴィス(Sylvia Llewelyn Davies:1866年ー1910年)と彼女の長男ジョージ・ディヴィス(George Davies:1893年ー1915年)がモデルとなっていると一般に言われている。

ケンジントンガーデンズ内にあるイタリアンガーデンズ(その1)

1908年に妻メアリーは夫の友人であるギルバート・キャナン(Gilbert Cannan)と不倫関係になり、これが1909年7月にジェイムズ・バリーの知るところとなる。当初、彼は妻メアリーに不倫関係を止めるよう説得するが、彼女はこれを拒否したため、最終的には、妻の不貞行為を理由にして、1909年10月に彼は妻と離婚する。
上記の離婚後、彼はベイズウォーターロード100番地を彼の友人で南極探検家だったロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott:1868年ー1912年)の未亡人キャスリーン・ブルース(Kathleen Bruce:彫刻家)に売却してしまう。

ケンジントンガーデンズ内にあるイタリアンガーデンズ(その2)

仲が良かったディヴィス夫妻の死亡(夫アーサー:1907年+夫人シルヴィア:1910年)に伴い、ジェイムズ・バリーは、ディヴィス夫妻の子供2人を養子にする。アーサーの死亡後から、彼はシルヴィア夫人への財政的な援助を始めている(ピーターパン関係の著作による収入が充分にあり、シルヴィア夫人への財政的な援助には全く問題なかった)が、こういった彼の行動が妻メアリーの不貞行為につながった要因の一つではないかと個人的には思う。

イタリアンガーデンズの南側にあるザ・ロング・ウォーター

1912年5月に彼はケンジントンガーデンズ内イタリアンガーデンズ(Italian Gardens)の南側にある湖ザ・ロング・ウォーター(The Long Water)の西岸に養子マイケル(Michael Davies:1900年ー1921年 ディヴィス夫妻の四男)をモデルにしたピーターパンの像(Peter Pan Statue)を建てた。実際には、彫刻家サー・ジョージ・フランプトン(Sir George Frampton)は別の子供をモデルにして、ピーターパンの像を制作したため、ジェイムズ・バリーを大いに失望させた。彼によると、「ピーターパンの中に悪魔が表現されていない。(It doesn't show the devil in Peter.)」とのこと。

ピーターパンの像(その1)

悪いことは続き、ディヴィス夫妻の長男ジョージは、1915年に第一次世界大戦(1914年ー1918年)において死亡した上、四男のマイケルは、1921年に21歳の誕生日まであと1ヶ月を控えた20歳の若さで、オックスフォード(Oxford)の近くにある湖で友人(同性愛の相手と思われる)と一緒に溺死したため、ジェイムズ・バリーを非常に悲しませた。

ピーターパンの像(その2)

現在、ザ・ロング・ウォーターの畔に設置されたピーターパンの像は、そういった事情も知らずに訪れる観光客に囲まれつつ、静かに湖面を見つめている。

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