2024年12月3日火曜日

ケンブリッジ大学創立800周年記念 / ジェイムズ・クラーク・マクスウェル(800th Anniversary of the University of Cambridge / James Clark Maxwell)- その2

ケンブリッジ大学創立800周年を記念して、
英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイクが描いた
スコットランド出身の理論物理学者である
ジェイムズ・クラーク・マクスウェルの絵葉書
<筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum
→ 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入>


ジェイムズ・クラーク・マクスウェル(James Clark Maxwell:1831年ー1879年)は、ケンブリッジ大学(University of Cambridge)のトリニティーカレッジ(Trinity College)を卒業した後も、教授の資格を得るため、1855年10月11日に同カレッジのフェロー(Fellow)として残り、研究や学生の指導を行った。1856年4月30日には、同カレッジの研究員へ昇格。


ジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、1856年10月15日に、故郷スコットランドのアバディーン(Aberdeen)にあるマリシャルカレッジ(Marischal College)科学哲学の教授に就任。彼が教授に就任したのは、25歳の時で、同カレッジにおける他の教授達よりも、15歳以上若かった。

実は、彼に同カレッジの教授職を進めたのは、弁護士である父ジョン・クラーク(John Clerk:1790年ー1856年)であったが、彼の教授就任前の同年4月2日に亡くなっていた。


マリシャルカレッジの教授に就任したジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、ケンブリッジ大学のアダムズ賞(Adams Prize)に取り組み、1857年度の課題「土星の環(Saturn’s rings)の構造と安定性」に関する論文を1856年12月16日に提出し、翌年の1857年5月30日に受賞。


ジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、1858年2月にマリシャルカレッジの学長ダニエル・デュワー(Daniel Dewar)の娘であるキャサリン・マリー・デュワー(Katherine Mary Dewar:1824年ー1886年)と婚約し、同年6月2日に結婚。


マリシャルカレッジの教授就任(1856年)、アダムズ賞受賞(1857年)と結婚(1858年)と良いことが続いたジェイムズ・クラーク・マクスウェルであったが、1860年にマリシャルカレッジがアバディーン近郊のキングスカレッジ(King’s College)と統合して、アバディーン大学(University of Aberdeen)となることに伴い、マリシャルカレッジの教授職を失ってしまう。

そのため、彼は、1860年10月にロンドンのキングスカレッジ(King’s College)応用科学の教授職を得て、妻のキャサリンと一緒に、ロンドンへと移った。


ロンドンのキングスカレッジへと移ったジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、同年、王立協会(Royal Society)のランフォードメダル(Rumford Medal)を受賞。

翌年の1861年には、光の三原色それぞれのフィルターを着けて撮影した3枚の写真を重ね、史上初めてのカラー写真の撮影に成功し、これにより、同年、王立協会のフェローに選出。


英国の化学者 / 物理学者で、電磁気学や電気化学の分野での貢献でも知られているマイケル・ファラデー(Michael Faraday:1791年ー1867年)による電磁場理論を元に、ジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、1864年に「マクスウェルの方程式(Maxwell’s equations)」を導き、王立協会で発表。更に、電磁波の存在を理論的に予想した上で、その伝播速度が光の速度と同じであること、また、横波であることを示した。


論文執筆等で多忙となったジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、1865年4月、キングスカレッジを退職して、ロンドンから故郷であるスコットランド南西部のミドルビー(Middlebie)へと戻った。

彼は、1865年以降、故郷の自宅において研究を続けたが、ケンブリッジ大学に実験物理学講座が開設されることに伴い、同大学からの要請を受け、同大学実験物理学の初代教授に就任。

更に、総長である第7代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ(William Cavendish, 7th Duke of Devonshire:1808年ー1891年)の基金に基づくキャヴェンディッシュ研究所(Cavendish Laboratory)を設立し、1874年6月16日の開所に伴い、初代所長にも就任。


1879年の夏にケンブリッジから故郷のミドルビーへ帰省したジェイムズ・クラーク・マクスウェルであったが、2年前から患っていた腹部の癌が悪化。ケンブリッジで治療を受けたが、同年11月5日に逝去。


ジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、これまでの業績から、電磁気学における最も偉大な学者の一人とされている。


                                           

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