2024年6月18日火曜日

薔薇戦争(Wars of the Roses)- その1

英国のロイヤルメールから2021年に発行された「薔薇戦争」の記念切手の1枚で、
同戦争の契機となった「第1次セントオールバンズの戦い」(1455年5月22日)が
描かれている。

英国の推理作家であるジョセフィン・テイ(Josephine Tey:1896年ー1952年)が1951年に発表した「時の娘(The Daughter of Time → 2024年6月3日 / 6月6日 / 6月10日付ブログで紹介済)」に登場する英国の歴史上、「稀代の悪王」として悪名高いリチャード3世(Richard III:1452年ー1485年 在位期間:1483年ー1485年 / ヨーク朝(House of York)の第3代かつ最後のイングランド王 → 2024年6月14日付ブログで紹介済)は、1485年8月22日、ボズワースの戦い(Battle of Bosworth)において、ランカスター派のリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダー(Henry Tudor, Earl of Richmond:1457年ー1509年)軍と相まみえ、味方の裏切りもあって、孤軍奮戦するが、戦死。その結果、リッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーは、テューダー朝(House of Tudor)の初代イングランド王ヘンリー7世(Henry VII:在位期間:1485年ー1509年)として即位し、ヨーク家のエリザベス・オブ・ヨーク(Elizabeth of York:1466年ー1503年)を王妃として迎える。

ボズワースの戦いは、薔薇戦争(Wars of the Roses)の中に含まれており、英国のロイヤルメール(Royal Mail)から、2021年に8種類の記念切手が発行されているので、4回に分けて、紹介したい。


薔薇戦争は、百年戦争(Hundred Years’ War:1337年ー1453年)の終結後に発生したイングランド諸侯の内乱で、百年戦争の敗戦責任の押し付け合いが、最終的に、プランタジネット朝(House of Plantagenet)の第7代イングランド王であるエドワード3世(Edward III:1312年ー1377年 在位期間:1327年ー1377年)の血を引く家柄であるランカスター家(House of Lancaster)とヨーク家(House of York)の間の権力闘争へと発展したのである。

薔薇戦争は、1455年5月22日の「第1次セントオールバンズの戦い(First Battle of St. Albans)」から1485年8月22日の「ボズワースの戦い」までの30年間とする説の他に、1487年6月16日の「ストークフィールドの戦い(Battle of Stoke Field)」までの32年間とする見方もある。

ランカスター家が「赤薔薇」を、そして、ヨーク家が「白薔薇」を徽章としていたため、現在、「薔薇戦争」と呼ばれているが、この命名は、後世のことである。


百年戦争中に、プランタジネット朝が倒され、エドワード3世の孫に該るヘンリー4世(Henry IV:1367年ー1413年 在位期間:1399年ー1413年)が、ランカスター朝の初代イングランド王として即位。

ランカスター朝の第2代イングランド王であるヘンリー5世(Henry V:1387年ー1422年 在位期間:1413年ー1422年)が、百年戦争において、勝利を重ねていたが、1422年に死去したため、生後9ヶ月のヘンリー6世(Henry VI:1421年ー1471年 在位期間:1422年ー1461年)が、ランカスター朝の第3代イングランド王として即位する。

ヘンリー6世が幼少だったこともあり、1430年代以降、大陸での戦況が次第に不利になると、フランスから嫁いだ王妃を初めとする国王側近の和平派(ランカスター派)と第3代ヨーク公リチャード・プランタジネット(Richard Plantagenet, 3rd Duke of York:1411年ー1460年)を中心とする主戦派(ヨーク派)が、権力闘争を繰り広げるようになった。

百年戦争において、最終的に、イングランドは、フランスに敗北した上に、ヘンリー6世は、精神錯乱を起こしたため、ランカスター派とヨーク派の間の権力闘争を収拾することができなかった。


プランタジネット朝の第7代イングランド王であるエドワード3世の血を引く家柄である
ランカスター家とヨーク家の系図 -
英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2023年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

ジョセフィン・テイ作「時の娘」から抜粋。

ランカスター派とヨーク派は、更に対立を深め、百年戦争末期に軍司令官として、また、ヘンリー6世の精神錯乱期に護国卿(Lord Protector)として、ランカスター朝に仕えた第3代ヨーク公リチャード・プランタジネットは、ヘンリー6世に対して、遂に反旗を翻した。

1455年5月、大評議会開催のために、ロンドンからレスター(Leicester)へと向かっていたヘンリー6世の軍勢と、ロンドンへと南下していた第3代ヨーク公リチャード・プランタジネットの軍勢は、対峙することになり、同年5月22日、ロンドン北方のセントオールバンズ(St. Albans)において、両軍勢は衝突して、「薔薇戦争」の火蓋が切って、落とされた。これが、「第1次セントオールバンズの戦い」である。


「第1次セントオールバンズの戦い」は、比較的小規模な会戦で、ランカスター派であるヘンリー6世軍の敗北 / ヨーク派である第3代ヨーク公リチャード・プランタジネットの勝利に終わった。

「第1次セントオールバンズの戦い」が契機となり、以後30年間にわたって、ランカスター家とヨーク家の間の内戦が、イングランド各地で繰り広げられるのである。


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