2019年7月15日月曜日

ロンドン キャノンプレイス14番地 / キャノンホール(14 Cannon Place / Cannon Hall) - その1

英国の俳優兼劇場経営者であった
サー・ジェラルド・フバート・エドワード・ビュッソン・デュ・モーリエが住んでいた
キャノンプレイス14番地の「キャノンホール」

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1939年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第11作目に該る「テニスコートの殺人」(The Problem of the Wire Cage2018年8月12日 / 8月19日付ブログで紹介済)において、フランク・ドランス(Frank Dorrance)の絞殺死体が発見されたテニスコートがあるニコラス・ヤング邸は、ロンドン北西部郊外の高級住宅街ハムステッド地区(Hampstead2018年8月26日付ブログで紹介済)内にあるという設定になっているが、ハムステッド地区内には、英国の俳優で、劇場経営者でもあったサー・ジェラルド・フバート・エドワード・ビュッソン・デュ・モーリエ(Sir Gerald Hubert Edward Busson du Maurier:1873年ー1934年)が住んでいた家が所在している。


ノーザンライン(Northern Line)が停まる地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)の改札口を出ると、ジュビリーライン(Jubilee Line)が停まるスイスコテージ駅(Swiss Cottage Tube Station)からハムステッドヒース(Hampstead Heath→2015年4月25日付ブログで紹介済)へと北上してきたヒースストリート(Heath Street)が、目の前を通過している。このヒースストリートを北上し、進行方向右手に見える3つ目の通り(1つ目:バックレーン(Back Lane) / 2つ目:ニューエンド通り(New End))であるエルムロウ(Elm Row)、あるいは、4つ目の通りであるハムステッドスクエア通り(Hampstead Square)へと右折。エルムロウとハムステッドスクエア通りの二つの通りは、先でキャノンプレイス(Cannon Place)という一つの通りになる。そして、キャノンプレイスが、ハムステッドヒース(Hampstead Heath2015年4月25日付ブログで紹介済)の南側を東西に延びるイーストヒースロード(East Heath Road)から南下してくるスクワイアーズマウント通り(Squire’s Mount)に突き当たる手前の進行方向右手角に、キャノンプレイス14番地(14 Cannon Place)の建物であるキャノンホール(Cannon Hall)があり、サー・ジェラルド・デュ・モーリエは、1916年から亡くなる1934年までの間、ここに住んでいた。

キャノンプレイス14番地の門両脇に
「キャノンホール」のプレートが刻まれている

サー・ジェラルド・デュ・モーリエは、1873年3月26日、フランス生まれの英国の風刺漫画家で、小説家でもあったジョージ・ルイ・パルメラ・ビュッソン・デュ・モーリエ(George Louis Palmella Busson du Maurier:1834年ー1896年→2019年6月15日 / 6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)を父に、そして、エマ・ワイトウィック(Emma Wightwick)を母にして、ロンドンのハムステッド地区に出生。
彼はヒースマウント学校(Heath Mount School)に通学して、その後、ハーロー校(Harrow School)に進学した。
当初、彼はビジネスで身を立てたかったが、それは彼に合わなかったようで、俳優へと転身した。彼は、父ジョージ・デュ・モーリエの友人で、ガリック劇場(Garrick Theatre)を経営していた俳優兼劇場経営者サー・ジョン・ヘア(Sir John Hare:1844年ー1921年)の口利きにより、劇作家シドニー・グランディ(Sydney Grundy:1848年ー1914年)脚本の舞台劇「An Old Jew」の端役で、俳優としてのデビューを飾った。

俳優として正式にデビューしたサー・ジェラルド・デュ・モーリエは、父ジョージ・デュ・モーリエが1894年に出版したゴシックホラー小説「トリルビー(Trilby)」の舞台劇等で多くの端役を演じた後、英国の小説家であるサー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie:1860年ー1937年→2015年7月25日付ブログで紹介済)による戯曲である「あっぱれクライトン(The Admirable Crichton)」(1902年)のアーネスト(Ernest)役、そして、「パーターパン、あるいは、大人になりたがらない少年(Peter Pan, or The Boy Who Wouldn’t Grow Up)」(1904年12月27日に、デューク・オブ・ヨーク劇場(Duke of York’s Theatre)で初演)のジョージ・ダーリング(George Darling)とフック船長(Captain Hock)の二役等の大役を演じて、大きな賞賛を受け、人気を得たのである。

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