米国の小説家/詩人で、かつ、雑誌編集者で、名探偵の C・オーギュスト・デュパン(C. Auguste Dupin → 2017年12月4日付ブログで紹介済)を生み出していたエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe:1809年ー1849年 → 2022年12月31日付ブログで紹介済)が米国の雑誌である「グラハムズ マガジン(Graham's Magazine)」の1842年5月号に発表した短編「赤死病の仮面(The Masque of the Red Death)」の場合、ある国において、「赤死病(Red Death - ひとたび罹患すると、まず最初に、胃に焼けるような痛みを感じ、続いて、眩暈が起こり、最後には、全身から血が吹き出して、死に至ると言う非常に恐ろしい疫病)」と呼ばれる疫病が至るところで蔓延している状況から、その物語が始まる。
仮面舞踏会の会場は、城砦内でも、非常に奇妙なつくりになっていて、7つの部屋が続きの間として不規則に繋がっていた。更に、7つの部屋のそれぞれが、壁一面、一色に塗られており、窓に嵌め込まれたステンドグラスも、同じ色になっていた。
*1番目の部屋:青色
*2番目の部屋:紫色
*3番目の部屋:緑色
*4番目の部屋:オレンジ色
*5番目の部屋:白色
*6番目の部屋:黄色
ところが、最も奥にある部屋だけは例外で、壁の色は黒色に塗られているが、窓のステンドグラスは、血のような赤色だった。そのため、その不気味な奥の部屋まで足を踏み入れようとする者は、誰も居なかったのである。
国王プロスペロウが開催した仮面舞踏会は、深夜まで続き、最も奥にある黒い部屋に吸えられた黒壇の時計が12時を告げた時、仮面舞踏会の参加者達は、奇妙な仮装をした人物が自分達の中に紛れ込んでいることに気付く。
その人物は、なんと、全身に死装束を纏い、顔には不気味な死者の仮面を付けていた。更に、「赤死病」の症状を模す化のように、仮面にも、衣装にも、赤い斑点がいくつも散っていたのである。
その仮装を見て、激怒した国王プロスペロウは、謎の人物を追いかけ、6つの部屋を通り抜けて、最も奥にある黒い部屋まで追い詰めると、謎の人物に短剣を突き立てようとした。ところが、その謎の人物が振り返り、国王プロスペロウと対峙した途端、国王プロスペロウは、絨毯の上に倒れ込んで、急死してしまう。
そこで、仮面舞踏会の参加者達が勇気を振り絞って、謎の人物の仮装を剥ぎ取ってみると、驚いたことに、その下には、何も実体がなかったのである。
この時、誰もが、「赤死病」が城砦内に入り込んでいることが判った。(Everyone understood that the Red Death was among them.)
そして、仮面舞踏会の参加者達は、次々と「赤死病」に罹患して、死を迎える。
最後の一人が倒れ込むと、ランプの灯りが消え、時計も止まってしまい、そして、静寂と暗闇が城砦内を満たしたのだった。(And everything was silence and darkness.)
エドガー・アラン・ポー作「赤死病の仮面」に出てくる「赤死病」は、ペストである「黒死病」を想起させるが、エドガー・アラン・ポーは、1832年にコレラが流行した際に、フランスのパリにおいて開催された舞踏会から着想を得たと言われている。
それに加えて、エドガー・アラン・ポーの義母であるフランセス・アラン、実兄のウィリアム・ヘンリー・レオナルド・ポー(William Henry Leonard Poe:1807年ー1831年)、そして、妻のヴァージニア・エリザ・クレム(Virginia Eliza Clemm:1822年-1847年)が結核のために亡くなっていることも、影響を与えているものと思われる。
「赤死病の仮面」が「グラハムズ マガジン(Graham's Magazine)」の1842年5月号に発表された際、タイトルは「The Mask of the Red Death: A Fantasy」であったが、その後、「ブロードウェイ ジャーナル(Broadway Journal)」の1845年7月号に改訂版が掲載された際に、タイトルが「The Masque of the Red Death」へ変更されている。
このタイトル変更(Mask → Masque)に伴い、立て籠もった城砦内で国王プロスペロウが開催した「仮面舞踏会」がより強調されている。


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