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| 若きモーツァルト像を正面から見たところ <筆者撮影> |
義兄のジェイムズ(James)から
*「自分の最近の作品が洗練され過ぎて、貧血症気味になってきた。」と言う指摘を受けたこと
*「もっと血にまみれて、思い切り凶暴な殺人を読みたい。」と言う要望があったこと
に応えて、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)は、1938年に「ポワロのクリスマス(Hercule Poirot's Christmas)」を発表した。
「ポワロのクリスマス」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第24作目に、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第17作目に該っている。
なお、「ポワロのクリスマス」の場合、1939年に出版された米国版のタイトルは、「Murder for Christmas」が使用されている。その後、1947年には、「A Holiday for Murder」へと改題された。
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英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた アガサ・クリスティー作「ポワロのクリスマス」のペーパーバック版の表紙 -ゴーストンホールの2階の「密室」状態の自室において、 喉を切り裂かれて惨殺された当主のシメオン・リーを暗示するように、 彼の部屋のドアが表紙に描かれている。 |
アドルスフィールドのロングデイルにある屋敷ゴーストンホールの当主シメオン・リー( Simeon Lee)は、英国上流階級に属する大富豪の老人で、若い頃、南アフリカでダイヤモンドを採掘して、ひと財産を築いた。そして、今でも、自室の金庫に保管しているダイヤモンドの原石を取り出して、手に取っては、過去を懐かしんでいた。
シメオン・リーは若い頃から残酷な仕打ちと絶え間無い女遊びを続けたため、彼の妻は心を病んだ結果、既に亡くなっており、現在は寡暮らしだった。そのため、シドニー・ホーベリー(Sydney Horbury)と言う従者 / 付き人が、彼の身の回りの世話を行っていた。
シメオン・リーは、冷酷で横暴な性格で、弱さを非常に嫌悪していた。また、彼は、力と勇気を讃え、金銭的には気前がよかったものの、彼が好んで発するユーモアには、サディスティックな傾向が強かった。更に、他人の貪欲さや欲望等につけ込んで、人の感情を掻き回すことが大好きだったのである。
クリスマスが間近に迫る中、シメオン・リーは、最も新しい気晴らしをを思い付いた。
それは、クリスマスに、方々に住んでいる自分の家族全員をゴーストンホールに呼び集めた上、彼らを色々と動揺させて楽しむと言う遊びだった。
シメオン・リーの四男で芸術家のデイヴィッド・リー(David Lee)は、妻のヒルダ・リー(Hilda Lee)を連れて、クリスマスイヴ(12月24日)の前日12月23日、久し振りにゴーストンホールを訪れる。
デイヴィッド・リーは、亡くなった母の部屋にあったピアノでメンデルスゾーンの「無言歌集」の中の一曲を弾き始めた。
妻のヒルダは、モーツァルトの曲をリクエストしたが、デイヴィッド・リーは、首を振ると、メンデルスゾーンの別の曲を弾き始める。
デイヴィッド・リーが母親の部屋のピアノで弾き始めた曲を作曲したのは、ドイツ・ロマン派の作曲家/指揮者であるヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(Jacob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy:1809年ー1847年 → 2016年12月4日付ブログで紹介済)、通称フェリックス・メンデルスゾーンで、幼少期から神童として優れた音楽の才能を発揮して、終生、ドイツ音楽界の重鎮として君臨し続けた。
| フェリックス・メンデルスゾーンがロンドンでの滞在時に宿泊していたホウバートプレイス4番地の建物 <筆者撮影> |
フェリックス・メンデルスゾーンは、1829年に英国を初訪問している。彼は生涯で英国を10回訪問しており、彼の英国滞在期間は約20ヶ月にものぼり、ドイツだけではなく、英国でも熱烈な支持者を獲得している。
彼の滞在先の一つに、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のベルグラヴィア地区(Belgravia)内にあるホウバートプレイス4番地(4 Hobart Place, Belgravia, London SW1W 0HU)があり、彼がここに滞在したことを示すブループラークが建物の外壁に掲げられている。
| ホウバートプレイス4番地にフェリックス・メンデルスゾーンが滞在していたことを示す ブループラーク(English Heritage が管理)が建物外壁に掲げられている。 <筆者撮影> |
フェリックス・メンデルスゾーンは、ハノーヴァー朝(House of Hanover)の第6代女王で、かつ、初代インド女帝であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年 → 2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)に謁見する機会を得て、ドイツ音楽にも造詣が深い夫君であるアルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)からの称賛を受けている。1847年には、ヴィクトリア女王とアルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)の御前で、自作の「スコットランド交響曲」を指揮している。
ヒルダ・リーが夫のデイヴィッド・リーにリクエストした曲の作曲者は、主にオーストリアを活動拠点とした音楽家のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart:1756年ー1791年)である。
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| 若きモーツァルト像が建つオレンジスクエアを遠方から眺めたところ <筆者撮影> |
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| 若きモーツァルト像が建つオレンジスクエアへ近付いたところ <筆者撮影> |
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、8歳の時(1764年)、父親のヨーハン・ゲオルク・レオポルト・モーツァルト(Johann Georg Leopold Mozart:1719年ー1787年)と一緒に、ロンドンを訪れて、約15ヶ月間滞在している。
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| オレンジスクエアの案内板(その1) <筆者撮影> |
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| オレンジスクエアの案内板(その2)- ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのロンドン滞在のことが説明されている。 <筆者撮影> |
ロンドンに着いて、僅か4日後に、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、5歳年上の姉マリア・アンナ・モーツァルト(Maria Anna Walburga Ignatia Mozart:1751年ー1829年 - 愛称:ナンネル(Nannerl))と共に、ハノーヴァー朝の第3代国王であるジョージ3世(George III:1683年ー1820年 在位期間:1760年ー1820年)の前で演奏を披露している。
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| 若きモーツァルト像の正面アップ <筆者撮影> |
また、姉マリア・アンナ・モーツァルトの日記によると、父ヨーハン・ゲオルク・レオポルト・モーツァルトが病気の間、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、暇潰しのために、交響曲の作曲を始めて、「交響曲第1番」を完成させている。
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| 若きモーツァルト像を横から見たところ <筆者撮影> |
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが「交響曲第1番」を作曲した際に、モーツァルト一家が滞在していたシティー・オブ・ウェストミンスター区のベルグラヴィア地区内のエバリーストリート(Ebury Street)の近くにあるオレンジスクエア(Orange Square)に、若きモーツァルト像(The Young Mozart)が設置されている。
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| 若きモーツァルト像を後ろから見たところ <筆者撮影> |
なお、若きモーツァルト像は、彼の没後200周年を記念して、スコットランドの彫刻家であるフィリップ・ヘンリー・クリストファー・ジャクスン(Philip Henry Christopher Jackson:1944年ー)が製作して、ウィンザー朝(House of Windsor)の第4代女王であるエリザベス2世(Elizabeth II:1926年ー2022年 在位期間:1952年ー2022年)の妹スノードン伯爵夫人マーガレット王女(Princess Margaret, Countess of Snowdon:1930年ー2002年)が1994年に除幕式を行なっている。










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