2016年5月29日日曜日

ロンドン ハーリーストリート84番地/クイーンシャーロットストリート58番地(84 Harley Street / 58 Queen Charlotte Street)

歯科医ヘンリー・モーリーの診療室として撮影に使用されたハーリーストリート84番地の入口

アガサ・クリスティー作「愛国殺人(→英国での原題は、「One, Two, Buckle My Shoe」(いち、にい、私の靴の留め金を締めて)であるが、日本でのタイトルは米国版「The Patriotic Murders」をベースにしている)」(1940年)は、エルキュール・ポワロがクイーンシャーロットストリート58番地(58 Queen Charlotte Street)にある歯科医ヘンリー・モーリー(Henry Morley)の待合室に居るところから、物語が始まる。
流石の名探偵ポワロであっても、半年に一回の定期検診のために、歯科医の待合室で診療を待つのは、自分の自尊心を大いに傷つけられるのであった。ようやく診療を終えて、建物の外に出たポワロは、そこで女性の患者とすれ違った際、彼女が落とした靴の留め金(バックル)を拾って渡した。そして、フラットに戻ったポワロを待っていたのは、ついさっき自分を診療したモーリー歯科医が診療室で拳銃自殺をしたとのスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp)からの連絡であった。


ポワロの後に、モーリー歯科医の待合室にやって来た患者は、以下の3名であることが判る。
(1)マーティン・アリステア・ブラント(Martin Alistair Blunt)/銀行頭取
(2)アムバライオティス氏(Mr Amberiotis)/インドから帰国したばかりのギリシア人→モーリー歯科医の患者で、元内務省官僚のレジナルド・バーンズ(Reginald Barnes)は、アムバライオティスがスパイである上に、恐喝者だとポワロに告げる。
(3)メイベル・セインズベリー・シール(Mabelle Sainsbury Seale)/アムバライオティス氏と同じく、インド帰りの元女優

ハーリーストリート84番地の建物全景

モーリー歯科医の死が自殺ではなく、他殺の可能性もあると考えて、捜査を開始したポワロであったが、その後、アムバライオティス氏が歯科医が使用する麻酔剤の過剰投与により死亡しているのが発見される。モーリー歯科医は、アムバライオティス氏の診療ミス(=注射する薬品量の間違い)を苦にして、拳銃自殺を遂げたのだろうか?
続いて、メイベル・セインズベリー・シールが行方不明となり、アルバート・チャップマン夫人(Mrs Albert Chapman)という女性のフラットにおいて、彼女の死体が発見される、しかも、彼女の顔は見分けがつかない程の有り様だった。チャップマン夫人がメイベル・セインズベリー・シールを殺害の上、逃亡したのだろうか?ところが、モーリー歯科医の診療記録によると、発見された死体はメイベル・セインズベリー・シールではなく、チャップマン夫人であることが判明する。
ポワロが診療を終えて去った後、モーリー歯科医の診療室において、一体何があったのであろうか?ポワロの灰色の脳細胞がフル回転し始める。

ハーリーストリートを南側から北側へ見たところ―
右側中央にある白い建物がハーリーストリート84番地

英国のTV会社 ITV1 が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「愛国殺人」(1992年)の回において、モーリー歯科医の診療室の住所は、原作通りのクイーンシャーロットストリート58番地ではなく、ハーリーストリート168番地(168 Harley Street)として設定されているが、実際には、ハーリーストリート84番地(84 Harley Street)の建物が撮影に使用されている。なお、ロンドン市内には、クイーンシャーロットストリートは存在しておらず、スコットランドのエディンバラ(Edinburgh)や英国西部のブリストル(Bristol)等にはある。

ハーリーストリート84番地の1階(日本でいう2階)ベランダに設置されている植栽

ハーリーストリート(Harley Street→2015年4月11日付ブログで紹介済)の場合、南側はキャヴェンディッシュスクエア(Cavendish Squareーデパートのジョン・ルイス(John Lewis)の裏手に該る→2015年4月5日付ブログで紹介済)から始まり、北側は地下鉄ベーカーストリート駅(Baker Street Tube Station)の前を通るマリルボーンロード(Marylebone Road)へと至る約800mの通りで、18世紀前半にこの一帯を開発した第2代オックスフォード伯爵エドワード・ハーリー(Edward Harley, 2nd Earl of Oxford:1689年ー1741年)の名前に因んでいる。
19世紀以降、ハーリーストリート沿い、および、その周辺に医院、病院や医療機関等が集まるようになり、その数は1860年の20箇所から1914年の200箇所へと劇的に増加した。元々、医者は大きな駅の近くに開業する傾向があり、最初はパディントン駅(Paddinton Station)、キングスクロス駅(King's Cross Station)、セントパンクラス駅(St. Pancras Station)やユーストン駅(Euston Station)近辺が主流であったが、その後、マリルボーン駅(Marylebone Station)に比較的近いハーリーストリートが人気になったものと思われる。今は、ハーリーストリート沿い、および、その周辺には、フラットがかなり増えているものの、相変わらず、医療機関が入居している建物が非常に多い。

ハーリーストリート84番地の反対側に建つ建物―
右側から2つ目の建物がハーリーストリート87番地

ドラマの撮影時、建物(ハーリーストリート84番地)の玄関ドアの右脇にある番地表示の「84」の上に「Mr. H. Morley」の表札をかぶせたり、玄関ドア自体に番地表示の「168」を追加したりと、配慮が行われている。ただ、ポワロや他の患者がモーリー歯科医を訪ねて来る場面で、通りの反対側に85番地や87番地の表示が見えるため、ハーリーストリート84番地が撮影に使用されていることが判る。なお、ハーリーストリート168番地は、現在の住所表記上、存在していない。
なお、玄関ドアの脇に何も表示がないため、現在、ハーリーストリート84番地の建物が医療機関として使用されているのか、あるいは、フラットとして使用されているのか、外観からは窺い知ることはできないものの、ドラマの撮影時に比べると、建物外壁は白く綺麗に清掃されている。

ハーリーストリート84番地の建物全景(その2)

英国での原題「いち、にい、私の靴の留め金を締めて」は、米国版の「愛国殺人」とともに、アガサ・クリスティーの原作の重要な部分を良く捉えているが、ポワロが真犯人を突き止めるための非常に大事な手掛かりとなった点を考えると、個人的には、英国での原題の方に軍配を挙げたいと思う。元々、原題はマザーグース童謡の一節であり、日本ではあまり馴染みがなかったこと、また、日本語訳上、タイトルがやや長くなる上に、推理小説だとは判ってもらえない可能性があったこと等を考慮すると、米国版の「愛国殺人」が日本語版のタイトルとなったのはやむを得ないところである。

2016年5月28日土曜日

ロンドン オックスフォードストリート(Oxford Street)

オックスフォードサーカスからマーブルアーチへ向かうオックスフォードストリート(画面奥)を望む

サー・アーサー・コナン・ドイル作「ギリシア語通訳(The Greek Interpreter)」において、ある水曜日の夕刻、シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンの二人は、パル・マル通り(Pall Mallー2016年4月30日付ブログで紹介済)にある「ディオゲネスクラブ(Diogenes Club)」を訪れる。そこで兄のマイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)に会ったシャーロックは、兄の隣人で、主にギリシア語通訳を生活の糧にしているメラス氏(Mr Melas)を紹介された。メラス氏によると、2日前、つまり、月曜日の夜に非常に恐ろしい体験をして、その件でシャーロックに捜査をお願いしたいと言う。


メラス氏の説明によると、当夜、彼は上流階級風の身なりをした青年ラティマー氏(Mr Latimer)から通訳の依頼を受け、ラティマー氏が戸口に待たせていた辻馬車に一緒に乗って、パル・マル通りからケンジントン(Kensington)へと出発した。ところが、辻馬車はチャリングクロス交差点(Charing Crossー2016年5月25日付ブログで紹介済)を抜けて、シャフツベリーアベニュー(Shaftesbury Avenueー2016年5月15日付ブログで紹介済)経由、オックスフォードストリート(Oxford Street)へと達する。これでは、ロンドンの西部に位置するケンジントンとは反対方向へ、辻馬車は進んでいることになってしまう。メラス氏の胸の内では、ラティマー氏に対する疑念が生じ始めていた。

「ジョン・ルイス」デパートの外壁(通常時)
「ジョン・ルイス」デパートの外壁(クリスマス期間中)

「辻馬車がオックスフォードストリートまで来ました。私がラティマー氏に対して、「ケンジントンへ行くには、遠回りの道になるのでは?」と思い切って尋ねたところ、彼のとんでもない態度に私は言葉を失いました。」
「彼は鉛が入った物凄く恐ろしげな様子の棍棒をポケットから引っ張り出して、重さと強さを試すように数回前後に振りました。それから、彼は何も言わないまま、棍棒を自分の横の座席の上に置きました。その後、彼は辻馬車の両側の窓を引き上げました。驚いたことには、私が外を見ることができないように、両側の窓は紙で覆われていたのです。」

「ジョン・ルイス」デパート前のオックスフォードストリートは
買物客や観光客等でいつも賑わっている
「ジョン・ルイス」デパートの外壁には、英国の芸術家/彫刻家である
バーバラ・ヘップワース(Barbara Hepworth:1903年―1975年)による
作品「翼のある形(Winged Figure)」が設置されている

'We had come out upon Oxford Street and I had returned some remark as to this being a roundabout way to Kensington, when my words were arrested by the extraordinary conduct of my companion.
'He began by drawing a most formidable-looking bludgeon loaded with lead from his pocket, and switching it backward and forward several times, as if to test its weight and strength. Then he placed it without a word upon the seat beside him. Having done this, he drew up the windows on each side, and I found to my astonishment that they were covered with papers so as to prevent my seeing through them!'

リージェントストリート(Regent Street)から見た
オックスフォードサーカス

オックスフォードストリートはロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)内にあり、東側はトッテナムコートロード(Tottenham Corut Road)から始まり、西側はマーブルアーチ(Marble Arch)に至る約 2.5 kmの長い通りである。オックスフォードストリートの下には地下鉄セントラルライン(Central Line)が走っていて、東側から順番にトッテナムコートロード駅(Tottenham Court Road Tube Station)、オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)、ボンドストリート駅(Bond Street Tube Station)、そして、マーブルアーチ駅(Marble Arch Tube Station)の4駅が同ストリート沿いに位置している。

「ハウス・オブ・フレイザー」デパートの外壁(クリスマス期間中)

オックスフォードストリートの起源はローマ時代にまで遡る。それ以降、ストリートの南側にタイバーン川(River Tyburn)が流れていたことからタイバーンロード(Tyburn Road)と呼ばれたり、あるいは、オックスフォードロード(Oxford Road)と呼ばれたりしていたが、1729年にはオックスフォードストリートとしての名前が定着し始めた。
18世紀後半、ストリート一帯はオックスフォード伯爵(Earl of Oxford)によって購入された後、開発されて、19世紀に入ると、多くの店舗で賑わうようになった。第二次世界大戦(1939年ー1945年)時の1940年9月17日の夜から同年9月18日の未明にかけて、ドイツ軍による爆撃を受けて、オックスフォードストリート沿いも大打撃を被ったが、その後復興し、現在に至っている。

オックスフォードサーカスにある
地下鉄オックスフォードサーカス駅の出入口

メラス氏が乗った辻馬車がシャフツベリーアベニューを抜けて至ったオックスフォードストリートは、同ストリートの東端に該るトッテナムコートロードに接する辺りかと思われるが、そこからマーブルアーチに至る通りの両側には各種店舗やデパート等が建ち並び、いつも買物客や観光客等で一杯である。特に、オックスフォードストリートの中間点にある地下鉄オックスフォードサーカス駅周辺(渋谷のスクランブル交差点を取り入れた十字路)の人混みは物凄く、時間帯によっては、地下鉄の駅に入れない時があったりする位である。

「デベナムス」デパートの外壁(クリスマス期間中)
「デベナムス」デパートの外壁(通常時)―
奥に見えるのが、オックスフォードストリート

ちなみに、地下鉄オックスフォードサーカス駅からマーブルアーチにかけて、
(1)ジョン・ルイス(John Lewis)ー英国内では、3番目に大きいデパート
(2)ハウス・オブ・フレイザー(House of Fraser)
(3)デベナムス(Debenhams)
(4)セルフリッジズ(Selfridges)ー英国内では、2番目に大きいデパート
(5)マークス・アンド・スペンサー(Marks and Spencer)
といった有名なデパートが軒を並べるように建っている。

2016年5月25日水曜日

ロンドン チャリングクロス交差点(Charing Cross)

チャリングクロス交差点内に建つチャールズ1世の騎馬像―
奥に見えるのが、トラファルガースクエア内に建つ
ネルソン記念柱(Nelson's Column)とナショナルギャラリー(National Gallery)

サー・アーサー・コナン・ドイル作「ギリシア語通訳(The Greek Interpreter)」において、ある水曜日の夕刻、シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンの二人は、パル・マル通り(Pall Mallー2016年4月30日付ブログで紹介済)にある「ディオゲネスクラブ(Diogenes Club)」を訪れる。そこで兄のマイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)に会ったシャーロックは、兄の隣人で、主にギリシア語通訳を生活の糧にしているメラス氏(Mr Melas)を紹介された。メラス氏によると、2日前、つまり、月曜日の夜に非常に恐ろしい体験をして、その件でシャーロックに捜査をお願いしたいと言う。

地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の
ベーカールーラインのホーム壁に架けられている地図―
チャリングクロス交差点はトラファルガースクエアのすぐ南側にある

メラス氏の説明によると、当夜、彼は上流階級風の身なりをした青年ラティマー氏(Mr Latimer)から通訳の依頼を受け、ラティマー氏が戸口に待たせていた辻馬車に一緒に乗って、パル・マル通りからケンジントン(Kensington)へと出発した。ところが、辻馬車はチャリングクロス交差点(Charing Cross)を抜けて、シャフツベリーアベニュー(Shaftesbury Avenueー2016年5月15日付ブログで紹介済)経由、オックスフォードストリート(Oxford Street)へと向かったのである。これでは、ロンドンの西部に位置するケンジントンとは反対方向へ、辻馬車は進んでいることになってしまう。

ハムハウス(Ham House)内に架けられている
チャールズ1世の肖像画

メラス氏とラティマー氏が乗った辻馬車がパル・マル通りからシャフツベリーアベニューへ向かう際に走り抜けたチャリングクロス交差点は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内にあり、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)の南側に位置しているにある。なお、古英語で「チャリング(Charing)」とは、「川が曲がった部分」を意味するとのこと。

地下鉄チャリングクロス駅へ向かう
地下通路の壁に描かれているチャールズ1世の騎馬像

ロンドンにおける距離は、清教徒革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)時の1647年に破壊された「ホワイトホール宮殿の十字架(Whitehall Cross)」があった場所を起点にして、公式に測定されることになっており、現在のそれは、チャリングクロス交差点内にあるチャールズ1世(Charles I:1600年ー1649年 在位期間:1625年ー1649年)の騎馬像である。

地下鉄チャリングクロス駅へ向かう地下通路の壁には、
「ホワイトホール王宮の十字架」が破壊される場面も描かれている

騎馬像が片足を上げている場合、「不慮の死」を表すとのこと。
チャールズ1世はカトリック信徒を王妃に迎えた後、国教統一に乗り出し、ピューリタンを弾圧する一方、王権神授説を信奉して、議会を対立した。1642年1月、チャールズ1世は反国王派の議員5名を逮捕しようとして失敗し、王党派と議会派の内戦となるピューリタン革命(Puritan Revolution:1642年ー1649年)を引き起こすこととなった。最終的には、1648年11月、チャールズ1世は議会派軍に投降し、そして、1649年1月30日、フランドルの画家で外交官でもあったピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577年ー1640年)に天井画や内装を自ら依頼したホワイトホール宮殿(Palace of Whitehall)のバンケティングハウス(Banqueting Houseー2015年10月3日付ブログ「ホワイトホール通り」で紹介済)前で公開処刑(斬首)されたため、「不慮の死」に該ると言える。なお、英国の歴史上、公開処刑された国王は、チャールズ1世ただ一人である。

ルーベンスによって描かれたバンケティングハウスの天井画

バンケティングハウスの入口外壁には、
チャールズ1世のレリーフが架けられている

チャリングクロス駅(Charing Cross Stationー2014年9月20日付ブログで紹介済)は、サー・ジョン・ホークショー(Sir John Hawkshaw:1811年ー1891年)による設計に基づき、サウスイースタン鉄道(South Eastern Railway)が建設して、1864年1月11日に開業した。駅の開業から約1年4ヶ月後の1865年5月15日に、エドワード・ミドルトン・バリー(Edward Middleton Barry:1830年ー1880年)が設計したチャリングクロスホテル(Charing Cross Hotelー2016年4月23日付ブログで紹介済)が開業し、現在も見られるフレンチ・ルネサンス様式の華麗な駅正面が完成した。

チャリングクロス駅/チャリングクロスホテル前に建つ
「エレアノールの十字架」

チャリングクロスホテルの開業に合わせて、「ホワイトホール宮殿の十字架」をモデルにして、「エレアノールの十字架(Eleanor Cross)」(これについても、エドワード・ミドルトン・バリーが設計)がチャリングクロス駅正面に設置されたが、ロンドンにおける距離測定の起点が「エレアノールの十字架」に変わった訳ではない。

2016年5月20日金曜日

ロンドン バーリントンアーケード(Burlington Arcade)

ピカデリー通り側のバーリントンアーケードの出入口

アガサ・クリスティー作「エッジウェア卿の死(Lord Edgware Dies)」(1933年)は、エルキュール・ポワロとアルゼンチンから一時帰国したヘイスティングス大尉が、米国からロンドン/パリ公演ツアーに来ている女芸人カーロッタ・アダムズ(Carlotta Adams)の舞台を観たところから、その物語が始まる。背景や衣装等を必要としない彼女の「人物模写演技」は完璧で、一瞬で顔つきや声音等を変えて、その人自身になりきるのであった。男爵であるエッジウェア卿(Lord Edgware)と結婚している米国出身の舞台女優ジェーン・ウィルキンソン(Jane Wilkinson)の物真似に関しても見事の一言で、ポワロは深く感銘を受ける。

バーリントンアーケード内に太陽光が降り注ぐ

その夜、ポワロの元をジェーン・ウィルキンソン本人が訪れる。彼女から「離婚話に応じない夫を説得してもらいたい。」という依頼を受けたポワロがエッジウェア卿を訪問したところ、彼は「6ヶ月も前に、離婚に同意する旨を彼女宛に手紙で既に伝えた。」と答えるのであった。話のくい違いに納得がいかないポワロであったが、そのまま帰宅せざるを得なかった。

夕方のバーリントンアーケード内

その後、エッジウェア卿が自宅において何者かに鋭利な刃物で刺され、他殺体となって発見される。事件当夜、犯行現場の屋敷で姿を目撃されたジェーン・ウィルキンソンが有力な容疑者となるが、その犯行時刻、彼女は離れた場所で行われていた晩餐会に出席しており、犯行現場に行く時間がないという鉄壁のアリバイがあった。非常に難解な謎に、ポワロの灰色の脳細胞が挑む。

バーリントンガーデンズ側のバーリントンアーケードの出入口

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「エッジウェア卿の死」(2000年)の回において、ポワロの秘書を務めるミス・フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)が、ポワロの指示にに基づき、物語の途中で死亡し、エッジウェア卿を殺害した犯人と目されているカーロッタ・アダムズが所持していた宝石の出所を調べるため、ロンドン市内の宝石店を訪れる場面が、バーリントンアーケード(Burlington Arcade)で撮影されている。アガサ・クリスティーの原作では、ミス・レモンは登場しないが、TV版では、登場人物として迎えられている。

イースターシーズンには、
著名人がペイントしたイースターエッグが
バーリントンアーケードを含むロンドン市内に
展示される

バーリントンアーケードは、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級地区メイフェア(Mayfair)内にあるショッピングアーケードで、南側はピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)の前を通って、ハイドパークコーナー(Hyde Park Corner)へと西に延びるピカデリー通り(Piccadilly)に、そして、北側はバーリントンガーデンズ(Burlington Gardens)に挟まれている。

現在、王立芸術院が入居しているバーリントンハウス

バーリントンアーケードは、初代バーリントン伯爵ジョージ・オーガスタス・ヘンリー・キャヴェンディッシュ(George Augustus Henry Cavendish, 1st Earl of Burlington:1754年ー1834年)の命に基づき、英国の建築家サミュエル・ウェア(Samuel Ware:1781年ー1860年)によって建設された。初代バーリントン伯爵ジョージ・オーガスタス・ヘンリー・キャヴェンディッシュは、第4代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ(William Cavendish, 4th Duke of Devonshire:1720年ー1764年)の三男で、現在、王立芸術院(Royal Academy of Arts)が入居しているバーリントンハウス(Burlington House)を相続したのであるが、屋敷の横を通る一般人が壁越しに牡蠣の貝殻やゴミ等を屋敷内に投げ込むことに閉口していた。そこで、屋敷の横にあった庭園部分にショッピングアーケードを建設することで、彼は一般人が自分の屋敷内にゴミを投げ込むことを防ごうとしたのである。

バーリントンアーケード内の左右には、
2階建ての店舗ユニットが並んでいる

バーリントンアーケードは、1819年にオープンした。オープン当初は、全面ガラス張りの屋根の下、アーケードの左右に合計で72個に及ぶ2階建ての店舗ユニットが並び、「バーリントンアーケード廷士(Burlington Arcade Beadles)」と呼ばれる警備員がアーケードの両側の出入口に立つとともに、アーケード内を巡回している。警備員はトップハットを冠り、フロックコートを着た伝統的な服装をしており、初代バーリントン伯爵ジョージ・オーガスタス・ヘンリー・キャヴェンディッシュが率いた連隊に所属していた兵士から採用された。その後、店舗ユニットがいくつか統合された結果、その数は40近くまで減っている。また、ピカデリー通り側に面したアーケードで入口の外観は、20世紀初めに追加された。

バーリントンアーケード内の天井に吊り下げられている装飾

現在、バーリントンアーケードのテナントとして、仕立、服飾、靴、アクセサリー、宝飾、絵画、アンティークや銀製品等を取り扱う店舗が入っていて、変化に富んでいる。快晴の日には、全面ガラス張りの屋根を通じて、太陽光が通路まで降り注ぎ、アーケード内が明るさに満たされる。そんな時は、バーリントンアーケード内を、買い物のためではなく、単に近道のために通るだけであっても、楽しい気分になる。

クリスマスシーズンのバーリントンアーケード内

バーリントンアーケードは、ショッピングアーケードの中では、非常に成功した例で、後にベルギー(ブリュッセル)、ロシア(セントペテルスブルグ)やイタリア(ナポリやミラノ)等のアーケードにも大きな影響を与えた、とのこと。

2016年5月15日日曜日

ロンドン シャフツベリーアベニュー(Shaftesbury Avenue)

シャフツベリーアベニューは、常時、タクシーやバス等で混雑している
奥に見るのが、ピカデリーサーカス

サー・アーサー・コナン・ドイル作「ギリシア語通訳(The Greek Interpreter)」において、ある水曜日の夕刻、シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンの二人は、パル・マル通り(Pall Mall)にある「ディオゲネスクラブ(Diogenes Club)」を訪れる。そこで兄のマイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)に会ったシャーロックは、兄の隣人で、主にギリシア語通訳を生活の糧にしているメラス氏(Mr Melas)を紹介された。メラス氏によると、2日前、つまり、月曜日の夜に非常に恐ろしい体験をして、その件でシャーロックに捜査をお願いしたいと言う。


「問題を抱えた(=自国語しか話せない)外国人や夜遅く到着して私の通訳を必要とする旅行者から、変な時間に呼び出されるのは、それ程珍しいことではありません。ですので、月曜日の夜、上流階級風の身なりをした青年ラティマー氏が(パル・マル通りにある)私の部屋へやって来て、戸口に待たせている辻馬車に乗り、彼と一緒に来てほしい
と依頼した時も、私は特に驚きませんでした。ラティマー氏によると、ギリシア人の友人が商用で彼に会いに来ているが、その友人は母国語(=ギリシア語)以外全く話せないので、私の通訳が必要だとのことでした。ラティマー氏は私に自分の家は少し離れたケンジントンにあると言い、非常に慌てている様子で、私達が通りへ出ると、彼は急いで私を辻馬車の内に押し込みました。」
「今、私は辻馬車に乗ったと言いましたが、私が乗ったのが辻馬車なのかどうか、直ぐに疑問を抱きました。何故ならば、ロンドンの面汚しとも言える普通の四輪馬車よりも、明らかにその馬車の室内の方が広かったからです。そして、ややすり切れていましたが、車内の調度品は高級でした。ラティマー氏が私の真正面に座ると、馬車は出発し、チャリングクロス交差点を抜けて、シャフツベリーアベニューまで来ました。」

シャフツベリーアベニューの南側から北側を見たところ

'It happens not unfrequently that I am sent for at strange hours by foreigners who get into difficulties, or b travelers who arrive late and wish my services. I was not surprised, therefore, on Monday night when a Mr Latimer, a very fashionably dressed young man, came up to my rooms and asked me to accompany him in a cab which was waiting at the door. A Greek friend had come to see him upon business, he said, and as he could speak nothing but his own tongue, the services of an interpreter were indispensable. He gave me to understand that his house was some little distance off, in Kensington, and he seemed to be in a great hurry, bustling me rapidly into the cab when we had descended to the street.
'I say into the cab, but I soon became doubtful as to whether it was not a carriage in which I found myself. It was certainly more roomy than the ordinary four-wheeled disgrace to London, and the fittings, though frayed, were of rich quality. Mr Latimer seated himself opposite to me and we started off through Charing Cross and up the Shaftesbury Avenue.'

シャフツベリーアベニューの北側から南側を見たところ

シャフツベリーアベニュー(Shaftesbury Avenue)は、ロンドンのソーホー地区(Soho)内にあり、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)からニューオックスフォードストリート(New Oxford Streetー地下鉄トッテナムコートロード駅(Tottenham Court Road Tube Station)と地下鉄ホルボーン駅(Holborn Tube Station)を結ぶ通り)へ向かって北東に延びる通りである。シャフツベリーアベニューは、途中チャリングクロスロード(Charing Cross Road)を横切るが、ピカデリーサーカスからチャリングクロスロードまでがシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)に属し、チャリングクロスロードからニューオックスフォードストリートまでがロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)に属する。

シャフツベリーアベニューから左手奥に入ると、
チャイナタウンがある

シャフツベリーアベニューは、19世紀後半(1877年ー1886年)に建築家の George Vulliamy と技術者の Sir Joseph Bazalgette によって開発された。シャフツベリーアベニューが開発されたのは、(1)ソーホー地区内の交通渋滞を解消することと(2)同地区内のスラム街を一掃することが目的であった。

「レ・ミゼラブル」がロングランを続けている
クイーンズ劇場

シャフツベリーアベニュー沿いには、映画館が多く軒を連ねていたが、映画産業が衰退するに従い、映画館はシャフツベリーアベニューからレスタースクエア(Leicester Square)近辺に集中するようになった。その代わりに、劇場がシャフツベリーアベニューに進出するようになる。その中には、ロングランを続ける「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」を上演するクイーンズ劇場(Queen's Theatre)がある。同ミュージカルが以前上演されていたパレス劇場(Palace Theatre)も、シャフツベリーアベニュー沿いに建っている。

クイーンズ劇場横の Wardour Street の壁に架けられている
「レ・ミゼラブル」の看板ー
主要登場人物であるコゼット(Cosette)が描かれている 

シャフツベリーアベニューが開発されたことに伴い、その南側一帯にチャイナタウン(Chinatown)が出来上がり、今でもヨーロッパ最大規模まで大きくなった。具体的には、シャフツベリーアベニューと並行して走るジェラードストリート(Gerrard Street)とライルストリート(Lisle Street)の2本の通りに挟まれた一帯に、中華料理店が数多く軒を連ねている。最近は、この一帯に限らず、チャイナタウンはその拡大を続けている。

2016年5月8日日曜日

ロンドン デュークスロード(Duke's Road)

女芸人カーロッタ・アダムズの友人であるペニー・ドライヴァーの帽子店の撮影に使用された
デュークスロードの西側に建つ棟

アガサ・クリスティー作「エッジウェア卿の死(Lord Edgware Dies)」(1933年)は、エルキュール・ポワロとアルゼンチンから一時帰国したヘイスティングス大尉が、米国からロンドン/パリ公演ツアーに来ている女芸人カーロッタ・アダムズ(Carlotta Adams)の舞台を観たところから、その物語が始まる。背景や衣装等を必要としない彼女の「人物模写演技」は完璧で、一瞬で顔つきや声音等を変えて、その人自身になりきるのであった。男爵であるエッジウェア卿(Lord Edgware)と結婚している米国出身の舞台女優ジェーン・ウィルキンソン(Jane Wilkinson)の物真似に関しても見事の一言で、ポワロは深く感銘を受ける。


その夜、ポワロの元をジェーン・ウィルキンソン本人が訪れる。彼女から「離婚話に応じない夫を説得してもらいたい。」という依頼を受けたポワロがエッジウェア卿を訪問したところ、彼は「6ヶ月も前に、離婚に同意する旨を彼女宛に手紙で既に伝えた。」と答えるのであった。話のくい違いに納得がいかないポワロであったが、そのまま帰宅せざるを得なかった。

デュークスロードの中間辺りから南側を見たところ

その後、エッジウェア卿が自宅において何者かに鋭利な刃物で刺され、他殺体となって発見される。事件当夜、犯行現場の屋敷で姿を目撃されたジェーン・ウィルキンソンが有力な容疑者となるが、その犯行時刻、彼女は離れた場所で行われていた晩餐会に出席しており、犯行現場に行く時間がないという鉄壁のアリバイがあった。非常に難解な謎に、ポワロの灰色の脳細胞が挑む。

デュークスロードの中間辺りから北側を見たところ

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「エッジウェア卿の死」(2000年)の回において、カーロッタ・アダムズの友人であるペニー・ドライヴァー(Penny Driver)が営む帽子店の撮影が、デュークスロード(Duke's Road)で行われている。
アガサ・クリスティーの原作では、カーロッタ・アダムズの友人の名前は、ジュヌヴィエーヴ・ドライヴァー(Genevieve Driver)/通称ジュニー・ドライヴァー(Jenny Driver)となっていたが、TV版では、何故か、ペニー・ドライヴァーに変更されている。

ポワロシリーズの撮影に使用された棟は、現在、
オフィスや住居(上階)等に使用されている模様

デュークスロードは、ロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のセントパンクラス地区(St. Pancras)内にあり、キングスクロス駅(King's Cross Station)/セントパンクラス駅(St. Pancras Station)の前を通って、ユーストン駅(Euston Station)へ向かって西に延びるユーストンロード(Euston Road)を、ユーストン駅の手前で左へ曲がったところにあるのが、デュークスロードで、それ程長い通りではない。

左手奥に見えるのがセントパンクラス協会で、
その奥で左右に延びる通りがユーストンロード

セントパンクラス教会(St. Pancras Church of England)、アンバサダーズ ブルームズベリーホテル(Ambassadors Bloomsbury Hotel)や英国医学協会(British Medical Association)等が面しているのは、地下鉄ホルボーン駅(Holborn Tube Station)からユーストン駅へ向かって北上するアッパーウォバーンプレイス(Upper Woburn Place)で、デュークスロードは一本東側に位置しており、オフィスやレストラン等はあるが、日中でもひっそりとした静かな通りである。