2018年2月18日日曜日

ロンドン テイト・ブリテン美術館(Tate Britain)


ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のピムリコ地区(Pimlico)内のテムズ河(River Thames)畔に建つテイト・ブリテン美術館(Tate Britain)は、ミルバンク刑務所(Millbank Penitentiaryー1816年から1890年まで使用された → 2018年1月11日 / 17日付ブログで紹介済)の跡地に建設された国立美術館で、テイト・モダン美術館(Tate Modern)、テイト・リヴァプール美術館(Tate Liverpool)やテイト・セントアイヴス美術館(Tate St. Ives)と共に、国立美術館ネットワーク「テイト(Tate)」の一部を成しており、同ネットワーク内では最古の美術館である。


テイト・ブリテン美術館の前身は、「ナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート(National Gallery of British Art)」というナショナル・ギャラリー(National Gallery)の英国美術専門の分館で、英国の砂糖精製業者(特に角砂糖の特許買収および製造で財を成した)で、慈善家でもあった初代準男爵サー・ヘンリー・テイト(Sir Henry Tate, 1st Baronet:1819年ー1899年)によって設立された。



1890年にミルバンク刑務所が閉鎖された後、1892年より同所の解体工事が始まり、1903年まで続いた。同所の解体工事に並行して、1893年に美術館の建設工事が開始して、1897年(7月21日)にオープンを迎えている。



オープン当初の正式名は、前述の通り、「ナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート」であったが、設立者である初代準男爵サー・ヘンリー・テイトの名前に因んで、当初より「テイト・ギャラリー(Tate Gallery)」と一般に呼ばれており、1932年に「テイト・ギャラリー」が美術館の正式名として採用された。



その後、テイト・ギャラリーは、英国美術の他に、世界の近代・現代美術を扱うようになり、ナショナル・ギャラリーの分館ではなく、独立した美術館となった。
英国美術に加えて、世界の近代・現代美術を取り扱うようになって、所蔵作品が多くなったテイト・ギャラリーは、テムズ河南岸のサウスバンク地区(South Bank)に近代・現代美術専門の分館となる「テイト・モダン美術館」を2000年にオープンした後、英国美術専門の美術館に戻り、2000年(3月)に「テイト・ブリテン美術館」に名称を変更。大改修工事を経て、2001年に再開館し、現在に至っている。



テイト・ブリテン美術館は、現在、1500年代のテューダー朝から現代に至るまでの絵画を中心とした英国美術を時代順に展示している。特に、19世紀中頃のヴィクトリア朝で活躍した美術家や批評家から成るグループの「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」の作品が揃っている。また、専門のウィング(翼)であるクロアギャラリー(Clore Gallery)において、英国ロマン主義の画家であるジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner:1775年ー1851年)が寄贈した初期から晩年に至るまでの作品群が常設展示されている。



なお、テイト・ブリテン美術館の建物は、1970年に「グレードⅡ(Grade II listed)」の指定を受けている。



本筋からは外れるものの、テイト・ブリテン美術館に所蔵されている作品については、シャーロック・ホームズやジョン・H・ワトスンの二人が活躍していた頃のものが多く、主要な作品とそれらを描いた画家達を、次回以降、順次紹介していきたい。

2018年2月17日土曜日

ロンドン ミルバンク刑務所(Millbank Penitentiary)-その2

テイト・ブリテン美術館の建物を南東の角から見上げたところ

国立監獄としてパノプティコン刑務所を建設するため、1799年に、英国の哲学者、経済学者で、かつ法学者でもあるジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham:1748年ー1832年)が、英国王代理として、ソールズベリー侯爵(Marquess of Salisbury)からテムズ河(River Thames)沿いの土地を購入。ちなみに、「パノプティコン(Panopticon)」とは、収容者の個室を円形に配置して、中央にある多層式看守塔からパノラマ的に監視できる設計(=全展望監視システム)のことを意味し、ジェレミー・ベンサムが考案した概念である。

テイト・ブリテン美術館の裏側(その1)

ところが、ジェレミー・ベンサムが提唱したパノプティコン案は最終的には廃案となり、1812年に設計案が募集され、集まった応募者43名の中から、サンドハースト王立陸軍士官学校(Royal Military College, Sandhurst)のウィリアム・ウィリアムズ(William Williams)による案が基本デザインとして採用された。ウィリアム・ウィリアムズによる基本デザインに基づいて、英国の建築家トーマス・ハードウィック(Thomas Hardwick:1752年ー1829年)が設計を進め、同年に建設工事が開始。途中、トーマス・ハードウィックは職を辞してしまうが、1815年に着任した英国の建築家ロバート・スマーク(Robert Smirke:1780年ー1867年)が工事を遂行して、1821年に無事竣工を迎えた。

テイト・ブリテン美術館の裏側(その2)

竣工に先立つ1816年6月26日、女性の囚人が到着し、翌年の1817年1月に男性の囚人が到着。
1817年末時点で、被収容者数 212人(男性:103人+女性:109人)
1822年後半時点で、被収容者数 778人(男性:452人+女性:326人)
と、囚人が増加している。
この過程で、(1)刑務所の廊下が迷路のようになっていて、簡単に迷ってしまうこと、(2)刑務所内の換気システムを通して、囚人同士が連絡をとり合うことができること、更に、(3)刑務所の運営に莫大な費用がかかること等、当初の設計に関する問題点がいろいろと出てきた。


1842年に、ジェレミー・ベンサムが提唱したパノプティコン概念の影響を受けて建設されたペントンヴィル刑務所(Pentonville Prison)が開所したことに伴い、国立監獄の役割はミルバンク刑務所からペントンヴィル刑務所へと移行した。そのため、ミルバンク刑務所のステータスは下がり、オーストラリア等への流罪者を一時的に収容する監獄として再出発した。

テイト・ブリテン美術館の西側には、現在、university of the arts London (ual) が開校している

オーストラリアへの流罪が1850年代以降減少すると、1870年には軍事収容所(military prison)として使用されたが、最終的には、1890年に閉鎖され、1892年に解体工事が始まり、1903年まで続いた。

ual は、当初(2005年)、Chelsea College of Art and Design として開校した

解体工事が進む途中の1897年、英国の砂糖精製業者(特に、角砂糖の特許買収および製造で財を成した)で慈善家でもある初代準男爵サー・ヘンリー・テイト(Sir Henry Tate, 1st Baronet:1819年ー1899年)が、ミルバンク刑務所の跡地に、現在のテイト・ブリテン美術館(Tate Britain)の前身となるナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート(National Gallery of British Art)を設立した。

2005年に Chelsea College of Arts and Design が開校する前、
これらの建物は、Royal Army Medical College が使用していた

また、ミルバンク刑務所の煉瓦を再利用して、テイト・ブリテン美術館の西側の跡地には、1907年に Royal Army Medical College が建てられ、2005年には同地に Chelsea College of Art and Design (現在の university of the arts London (ual))が入り、開校している。

2018年2月11日日曜日

ロンドン ミルバンク刑務所(Millbank Penitentiary)-その1

ミルバンク刑務所の跡地に建つテイト・ブリテン美術館(Tate Britain)

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。

元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。
彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。


ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。

テイト・ブリテン美術館前のミルバンク通り(Millbank)(その1)

しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。
ホームズの依頼に応じて、ワトスンは、ランベス地区(Lambeth)の水辺近くにあるピンチンレーン3番地(No. 3 Pinchin Lane→2017年10月28日付ブログで紹介済)に住む鳥の剥製屋シャーマン(Sherman)から、犬のトビー(Toby)を借り出す。そして、ホームズとワトスンの二人は、バーソロミュー・ショルトの殺害現場に残っていたクレオソートの臭いを手掛かりにして、トビーと一緒に、現場からロンドン市内を通り、犯人の逃走経路を追跡して行く。

テイト・ブリテン美術館前のミルバンク通り(その2)

ホームズとワトスンの二人が、犬のトビーと一緒に、ストリーサム地区(Streatham→2017年12月2日付ブログで紹介済)、ブリクストン地区(Brixton→2017年12月3日付ブログで紹介済)、キャンバーウェル地区(Camberwell→2017年12月9日付ブログで紹介済)、オヴァールクリケット場(Oval)を抜けて、ケニントンレーン(Kennington Lane→2017年12月16日付ブログで紹介済)へと達した。そして、彼らは更にボンドストリート(Bond Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)、マイルズストリート(Miles Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)やナイツプレイス(Knight’s Place→2017年12月23日付ブログで紹介済)を通って、ナインエルムズ地区(Nine Elms→2017年12月30日付ブログと2018年1月6日付ブログで紹介済)までやって来たが、ブロデリック&ネルソンの材木置き場という間違った場所に辿り着いてしまった。どうやら、犬のトビーは、どこかの地点から違うクレオソートの臭いを辿ってしまったようだ。


二人はトビーをクレオソートの臭いの跡が二つの方向に分かれていたナイツプレイスへと戻し、犯人達の跡を再度辿らせた。そして、彼らはベルモントプレイス(Belmon Place→2018年1月13日付ブログで紹介済)とプリンスズストリート(Prince’s Street→2018年1月13日付ブログで紹介済)を抜けて、ブロードストリート(Broad Street→2018年1月13日付ブログで紹介済)の終点で、テムズ河岸に出るが、そこは船着き場で、どうやら犯人達はここで船に乗って、警察の追跡をまこうとしたようだ。

ミルバンク通り沿いに建つあるフラットの角に設置されている
バレエダンサーをモデルにしたブロンズ像(その1)

「新聞に広告を出して、(オーロラ号が停泊している)波止場主に関する情報を尋ねようか?」
「それは良くないな!犯人達は追っ手が迫っていることに気付いて、国外へ逃亡してしまう。現状でも、彼らは十分逃げ出しかねないが、自分達が完全に安全だと思っている限りは、決して急がないだろう。アセルニー・ジョーンズの馬力は、僕達にとって非常に好都合だ。というのも、この事件に対する彼の見解は、間違いなく新聞に載るからさ。そして、犯人達は、誰もが皆、間違った手掛かりを追っていると考えるからね。」
「それじゃ、私達はどうするんだい?」と、ミルバンク刑務所近くに上陸した時、私はホームズに尋ねた。


‘Could we advertise, then, asking for information from wharfingers?’
‘Worse and worse! Our men would know that the chase was hot at their heels, and they would be off out of the country. As it is, they are likely enough to leave, but as long as they think they are perfectly safe. They will be in no hurry. Jones’s energy will be of use to us there, for his view of the case is sure to push itself into the daily press, and the runaways will think that everyone is off on the wrong scent.’
‘What are we to do, then?’ I asked, as we landed near Millbank Penitentiary.

ミルバンク通り沿いに建つあるフラットの角に設置されている
バレエダンサーをモデルにしたブロンズ像(その2)

ホームズとワトスンの二人がテムズ河(River Thames)南岸から北岸へと渡し船で渡り、上陸した近くに建っていたミルバンク刑務所(Millbank Penitentiary)は、現在の住所表記上、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のピムリコ地区(Pimlico)内にあった監獄で、1816年から1890年まで運営された。元々は、英国の国立監獄(National Penitentiary)として始まったが、後にオーストラリア等への流刑者が一時的に収容される監獄として機能した。

2018年2月10日土曜日

イアン・ランカスター・フレミング(Ian Lancaster Fleming)−その2

イアン・ランカスター・フレミングが住んでいた家が、
シティー・オブ・ウェストミンスター区のベルグラヴィア地区内にある

第二次世界大戦(1939年ー1945年)の終戦に伴い退役したイアン・ランカスター・フレミング(Ian Lancaster Fleming:1908年ー1964年)は、ジャマイカに移住して、第二次世界大戦中に指揮を執った「ゴールデンアイ作戦(Operation Goldeneye)」(1941年ー1942年)に因んで名付けた別荘「ゴールデンアイ(Goldeneye)」に居住。


彼は、第二次世界大戦中、英国海軍情報部(Naval Intelligence Division)の諜報員として活動した経験を基に、1952年2月からジェイムズ・ボンド(James Bond → 2018年1月28日付ブログで紹介済)を主人公としたスパイ小説の執筆を始め、1953年4月にシリーズ第1作となる長編「カジノ・ロワイヤル(Casino Royale)」を発表した。以降、ジェイムズ・ボンドシリーズを11作発表し、第12作目となる「黄金の銃を持つ男(The Man With the Golden Gun)」の校正中の1964年8月に、彼は心臓麻痺で死去、56歳だった。「黄金の銃を持つ男」は、1965年に発表され、これが彼の遺作となったのである。

イーバリーストレート22番地の建物の外壁(左側)に、
ジェイムズ・ボンドを創出した
イアン・ランカスター・フレミングがここに住んでいたことを示す
ブループラークが架けられている

ジェイムズ・ボンド像には、作者であるイアン・フレミングが相当投影されている。
イアン・フレミングはスコットランド系の家系であり、ジェイムズ・ボンドの父親はスコットランド人である。また、イアン・フレミングは大変な美食家出、若い頃から心臓血管の疾患を抱えていて、ジェイムズ・ボンドも、美食家のため、不健康という設定で、尿酸値過多、肝疾患、リウマチ、高血圧や頭痛等を患っており、医者からは「長生きできない」と忠告される等、共通点は多い。
ただし、イアン・フレミングがジェイムズ・ボンドと大きく違うところは、イアン・フレミングの場合、英国海軍情報部勤務ではあったものの、デスクワークが彼の仕事の主体であって、ジェイムズ・ボンドのように、秘密の任務を帯びて、海外の敵地に潜入するような立場にはなかったのである。

ブループラークが架けられている
イーバリーストリート22番地の建物外壁(左側)を
下から見上げたところ

イアン・フレミングが住んでいたロンドン市内の自宅がシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のベルグラヴィア地区(Belgravia)内にあり、イーバリーストリート(Ebury Street)の22番地の建物が、それである。正確な住所は、「22 Ebury Street, Belgravia, London SW1W 8LW」である。

2018年2月4日日曜日

ロンドン ランベス橋(Lambeth Bridge)

テムズ河に架かるランベス橋−
右側がテムズ河北岸(シティー・オブ・ウェストミンスター区のウェストミンスター地区)で、
左側がテムズ河南岸(ロンドン・ランベス区のランベス地区)

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名(The Sign of the Four)」(1890年)では、若い女性メアリー・モースタン(Mary Morstan)がベーカーストリート221Bのシャーロック・ホームズの元を訪れて、風変わりな事件の調査依頼をする。


元英国陸軍インド派遣軍の大尉だった彼女の父親アーサー・モースタン(Captain Arthur Morstan)は、インドから英国に戻った10年前に、謎の失踪を遂げていた。彼はロンドンのランガムホテル(Langham Hotel→2014年7月6日付ブログで紹介済)に滞在していたが、娘のモースタン嬢が彼を訪ねると、身の回り品や荷物等を残したまま、姿を消しており、その後の消息が判らなかった。そして、6年前から年に1回、「未知の友」を名乗る正体不明の人物から彼女宛に大粒の真珠が送られてくるようになり、今回、その人物から面会を求める手紙が届いたのである。

生憎と、雨模様の天気のため、テムズ河は増水している

彼女の依頼に応じて、ホームズとジョン・H・ワトスンの二人は彼女に同行して、待ち合わせ場所のライシアム劇場(Lyceum Theatreー2014年7月12日付ブログで紹介済)へ向かった。そして、ホームズ達一行は、そこで正体不明の人物によって手配された馬車に乗り込むのであった。

テムズ河の増水のため、
ランベス橋の下を通過できない船舶は、テムズ河上に停泊している

ホームズ、ワトスンとモースタン嬢の三人は、ロンドン郊外のある邸宅へと連れて行かれ、そこでサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)という小男に出迎えられる。彼が手紙の差出人で、ホームズ達一行は、彼からモースタン嬢の父親であるアーサー・モースタン大尉と彼の父親であるジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)との間に起きたインド駐留時代の因縁話を聞かされるのであった。
サディアス・ショルトによると、父親のジョン・ショルト少佐が亡くなる際、上記の事情を聞いて責任を感じた兄のバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)と彼が、モースタン嬢宛に毎年真珠を送っていたのである。アッパーノーウッド(Upper Norwood)にある屋敷の屋根裏部屋にジョン・ショルト少佐が隠していた財宝を発見した彼ら兄弟は、モースタン嬢に財宝を分配しようと決めた。


しかし、ホームズ一行がサディアス・ショルトに連れられて、バーソロミュー・ショルトの屋敷を訪れると、バーソロミュー・ショルトはインド洋のアンダマン諸島の土着民が使う毒矢によって殺されているのを発見した。そして、問題の財宝は何者かによって奪い去られていたのである。

テムズ河の増水のため、
小振りな船舶のみがランベス橋の下を通過できる

ホームズの依頼に応じて、ワトスンは、ランベス地区(Lambeth)の水辺近くにあるピンチンレーン3番地(No. 3 Pinchin Lane→2017年10月28日付ブログで紹介済)に住む鳥の剥製屋シャーマン(Sherman)から、犬のトビー(Toby)を借り出す。そして、ホームズとワトスンの二人は、バーソロミュー・ショルトの殺害現場に残っていたクレオソートの臭いを手掛かりにして、トビーと一緒に、現場からロンドン市内を通り、犯人の逃走経路を追跡して行く。


ホームズとワトスンの二人が、犬のトビーと一緒に、ストリーサム地区(Streatham→2017年12月2日付ブログで紹介済)、ブリクストン地区(Brixton→2017年12月3日付ブログで紹介済)、キャンバーウェル地区(Camberwell→2017年12月9日付ブログで紹介済)、オヴァールクリケット場(Oval)を抜けて、ケニントンレーン(Kennington Lane→2017年12月16日付ブログで紹介済)へと達した。そして、彼らは更にボンドストリート(Bond Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)、マイルズストリート(Miles Street→2017年12月23日付ブログで紹介済)やナイツプレイス(Knight’s Place→2017年12月23日付ブログで紹介済)を通って、ナインエルムズ地区(Nine Elms→2017年12月30日付ブログと2018年1月6日付ブログで紹介済)までやって来たが、ブロデリック&ネルソンの材木置き場という間違った場所に辿り着いてしまった。どうやら、犬のトビーは、どこかの地点から違うクレオソートの臭いを辿ってしまったようだ。


二人はトビーをクレオソートの臭いの跡が二つの方向に分かれていたナイツプレイスへと戻し、犯人達の跡を再度辿らせた。そして、彼らはベルモントプレイス(Belmon Place→2018年1月13日付ブログで紹介済)とプリンスズストリート(Prince’s Street→2018年1月13日付ブログで紹介済)を抜けて、ブロードストリート(Broad Street→2018年1月13日付ブログで紹介済)の終点で、テムズ河岸に出るが、そこは船着き場で、どうやら犯人達はここで船に乗って、警察の追跡をまこうとしたようだ。

ランベス橋のテムズ河北岸部分(その1)

私達が渡し船の座席に座る際、「あの手の人達に関して大事なことは、」と、ホームズは言った。「彼らの情報がほんのちょっとでも重要かもしれないと、決して思わせないことだ。もしそう思わせたら、彼らは直ぐに牡蠣のように口をつぐんでしまう。彼らが言うことをしぶしぶ聞いてあげるふりをすれば、必要な情報は大抵聞き出せるのさ。」
「よく判ったよ。」と、私は言った。
「それでは、これからどうすれば良いと思うかい?」
「私なら、これから船を調達して、オーロラ号の跡を追って、テムズ河を下るな。」
「ワトスン、それは途方もなく大変な仕事になるぞ。オーロラ号が、こことグリニッジの間で、テムズ河の両側のどの船着き場に停泊しておるのか判らない。あの橋から下流には、浮き桟橋の迷路が何マイルにも渡っている。もし君一人でオーロラ号を捜そうとしたら、何日かかるのか判らないよ。」
「それじゃ、スコットランドヤードに頼もう。」
「駄目だ。最終局面になるまでは、アセルニー・ジョーンズをおそらく呼ばない。彼は悪い奴ではないから、立場上、彼の評判が悪くなるようなことはしたくないな。しかし、ここまで来た以上は、僕は自分自身でやり遂げたいという気持ちなんだ。」

ランベス橋のテムズ河北岸部分(その2)

’The main thing with people of that sort,’ said Holmes, as we sat in the sheet of the wherry. ’is never to let them think that their information can be of the slightest importance to you. If you do, they will instantly shut up like an oyster. If you listen to them under protest, as it were, you are very likely to get what you want.’
‘Our course now seems pretty clear,’ said I.
‘What would you do, then?’
‘I would engage a launch and go down the river on the track of the Aurora.’
‘My dear fellow, it would be a colossal task. She may have touched at any wharf on either side of the stream here and Greenwich. Below the bridge there is a perfect labyrinth of landing-places for miles. It would take you days and days to exhaust them, if you set about it alone!’
‘Employ the police, then.’
‘No, I shall probably call Athelney Jones at the last moment. He is not a bad fellow, and I should not like to do anything which would injure him professionally. But I have a fancy for working it out myself, now that we have gone so far.’

テムズ河北岸から、テムズ河下流を望む
テムズ河北岸から、ランベス橋を見たところ

テムズ河(River Thames)を横切る渡し船の上で、ワトスンと話すホームズが「あの橋の下流には、(Below the bridge)…」と言及した「あの橋」とは、ランベス橋(Lambeth Bridge)のことかと思われる。
ランベス橋は、テムズ河(River Thames)の北岸にあるロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のウェストミンスター地区(Westminster)とテムズ河南岸にあるロンドン・ランベス区(London Boorugh of Lambeth)のランベス地区(Lambeth)を繋ぐ橋である。

ランベス橋から、テムズ河上流方面(南岸)のビル群を望む
ランベス橋から、テムズ河下流方面(南岸)を望む−
画面奥に、ロンドン・アイが見える

ランベス橋の上流には、ヴォクスホール橋(Vauxhall Bridge→2017年9月16日付ブログで紹介済)が、また、ランベス橋の下流には、ウェストミンスター橋(Westminster Bridge)がテムズ河に架かっている。
テムズ河の南岸から渡し船で川を渡った後、ホームズとワトスンの二人は、テムズ河北岸にあるミルバンク刑務所(Millbank Penitentiary→来週紹介予定)の近くに上陸したと、コナン・ドイルの原作上、記されている。ミルバンク刑務所は現在残っていないが、ホームズ達が活躍したヴィクトリア朝時代、同建物はヴォクスホール橋とランベス橋に挟まれたテムズ河の北岸に建っていた。ということは、渡し船でテムズ河を渡るホームズがワトスンに対して発した「あの橋」とは、当然、自分達が乗っている渡し船よりも下流に架かっている橋、即ち、ランベス橋のことを指していることになる。

2012年のロンドンオリンピック / パラリンピック時に
ランベス橋のテムズ河北岸側に設置されたマスコットのウェンロック像の一つ
A - Z Map Wenlock (その1)

最初のランベス橋は、英国の技師ピーター・ウィリアム・バーロー(Peter William Barlow:1809年ー1885年)によって設計され、1860年の国会承認を経て、建設が開始。1862年11月10日に、ランベス橋は有料橋(toll bridge)として開通を迎えた。
1879年には有料橋ではなくなったものの、橋の腐食が進み、1910年に閉鎖されてしまった。
「四つの署名」事件が発生したのは1888年なので、テムズ河を渡る渡し船の上でホームズ達が見たランベス橋は、初代のものである。

2012年のロンドンオリンピック / パラリンピック時に
ランベス橋のテムズ河北岸側に設置されたマスコットのウェンロック像の一つ
A - Z Map Wenlock (その2)−
右腰部分にランベス橋が描かれている

今もテムズ河に架かる2代目の橋は、英国の技師サー・ジョージ・ウィリアム・ハンフリーズ(Sir George William Humphreys:1863年ー1945年)、英国の建築家サー・レジナルド・セオドア・ブルームフィールド(Sir Reginald Theodore Blomfield:1856年ー1942年)、同じく英国の建築家ジョージ・トッパム・フォレスト(George Topham Forrest:1872年ー1945年)によって設計され、建設工事が開始。そして、1932年7月19日、英国王のジョージ5世(George V:1865年ー1936年 在位期間:1910年ー1936年)の出席の下、開通を迎えている。

お天気が良い時のテムズ河

2008年に、ランベス橋はグレードⅡ(Grade II listed)の指定を受け、保存対象の建造物となっている。