テイト・ブリテン美術館の建物を南東の角から見上げたところ |
国立監獄としてパノプティコン刑務所を建設するため、1799年に、英国の哲学者、経済学者で、かつ法学者でもあるジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham:1748年ー1832年)が、英国王代理として、ソールズベリー侯爵(Marquess of Salisbury)からテムズ河(River Thames)沿いの土地を購入。ちなみに、「パノプティコン(Panopticon)」とは、収容者の個室を円形に配置して、中央にある多層式看守塔からパノラマ的に監視できる設計(=全展望監視システム)のことを意味し、ジェレミー・ベンサムが考案した概念である。
テイト・ブリテン美術館の裏側(その1) |
ところが、ジェレミー・ベンサムが提唱したパノプティコン案は最終的には廃案となり、1812年に設計案が募集され、集まった応募者43名の中から、サンドハースト王立陸軍士官学校(Royal Military College, Sandhurst)のウィリアム・ウィリアムズ(William Williams)による案が基本デザインとして採用された。ウィリアム・ウィリアムズによる基本デザインに基づいて、英国の建築家トマス・ハードウィック(Thomas Hardwick:1752年ー1829年)が設計を進め、同年に建設工事が開始。途中、トマス・ハードウィックは職を辞してしまうが、1815年に着任した英国の建築家ロバート・スマーク(Robert Smirke:1780年ー1867年)が工事を遂行して、1821年に無事竣工を迎えた。
テイト・ブリテン美術館の裏側(その2) |
竣工に先立つ1816年6月26日、女性の囚人が到着し、翌年の1817年1月に男性の囚人が到着。
1817年末時点で、被収容者数 212人(男性:103人+女性:109人)
1822年後半時点で、被収容者数 778人(男性:452人+女性:326人)
と、囚人が増加している。
この過程で、(1)刑務所の廊下が迷路のようになっていて、簡単に迷ってしまうこと、(2)刑務所内の換気システムを通して、囚人同士が連絡をとり合うことができること、更に、(3)刑務所の運営に莫大な費用がかかること等、当初の設計に関する問題点がいろいろと出てきた。
1842年に、ジェレミー・ベンサムが提唱したパノプティコン概念の影響を受けて建設されたペントンヴィル刑務所(Pentonville Prison)が開所したことに伴い、国立監獄の役割はミルバンク刑務所からペントンヴィル刑務所へと移行した。そのため、ミルバンク刑務所のステータスは下がり、オーストラリア等への流罪者を一時的に収容する監獄として再出発した。
テイト・ブリテン美術館の西側には、現在、university of the arts London (ual) が開校している |
オーストラリアへの流罪が1850年代以降減少すると、1870年には軍事収容所(military prison)として使用されたが、最終的には、1890年に閉鎖され、1892年に解体工事が始まり、1903年まで続いた。
ual は、当初(2005年)、Chelsea College of Art and Design として開校した |
解体工事が進む途中の1897年、英国の砂糖精製業者(特に、角砂糖の特許買収および製造で財を成した)で慈善家でもある初代準男爵サー・ヘンリー・テイト(Sir Henry Tate, 1st Baronet:1819年ー1899年)が、ミルバンク刑務所の跡地に、現在のテイト・ブリテン美術館(Tate Britain)の前身となるナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート(National Gallery of British Art)を設立した。
2005年に Chelsea College of Arts and Design が開校する前、 これらの建物は、Royal Army Medical College が使用していた |
また、ミルバンク刑務所の煉瓦を再利用して、テイト・ブリテン美術館の西側の跡地には、1907年に Royal Army Medical College が建てられ、2005年には同地に Chelsea College of Art and Design (現在の university of the arts London (ual))が入り、開校している。
0 件のコメント:
コメントを投稿