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| ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)で展示されている アルフレッド・テニスンの肖像画 (By George Frederic Watts / Oil on canvas / 1863年ー1864年頃) <筆者撮影> |
アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1962年に発表したミス・マープルシリーズ作品の長編第8作目「鏡は横にひび割れて(Mirror Crack’d from Side to Side)」では、「ゴシントンホール(Gossington Hall - ミス・マープルの親友であるドリー・バントリー(Dolly Bantry → 2024年8月14日付ブログで紹介済)が所有していた邸宅)」を購入して、最近、セントメアリーミード村(St. Mary Mead)に引っ越して来た米国の映画女優であるマリーナ・グレッグ(Marina Gregg)と彼女の夫で、映画監督であるジェイスン・ラッド(Jason Rudd)が開催したセントジョン野戦病院協会(St. John Ambulance)支援パーティーの席上、マリーナ・グレッグを捕まえて、長い昔話を始めた同協会の幹事を務めるヘザー・バドコック(Mrs. Heather Badcock)が、突然倒れて、死亡してしまう事件が発生する。
スコットランドヤードのダーモット・クラドック主任警部(Chief Inspector Dermot Craddock)が捜査を担当し、検死解剖の結果、ヘザー・バドコックの死因は、推奨量の6倍もの精神安定剤を摂取したことによるもので、その精神安定剤は、マリーナ・グレッグが持っていたダイキリ(daiquiri)のグラス内に混入されており、自分の飲み物をこぼしたヘザー・バドコックに対して、マリーナ・グレッグがそのグラスを手渡したのであった。
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| 英国の Harper Collins Publishers 社から出版されている アガサ・クリスティー作ミス・マープルシリーズ 「鏡は横にひび割れて」のペーパーバック版の表紙 <イラスト:ビル・ブラッグ氏(Mr. Bill Bragg)> |
ヘザー・バドコックとマリーナ・グレッグの会話を近くで聞いていたドリー・バントリーは、ヘザー・バドコックが長話をしている間、マリーナ・グレッグが非常に奇妙な表情を浮かべていたことに気付いた。
その違和感について、ドリー・バントリーは、セントジョン野戦病院協会支援パーティーに参加できなかったミス・マープルに対して、説明を行う。
「そうではなくて、マリーナ・グレッグの顔をよ。バドコックという女の話なんか、ひとことも聞いていなかったみたいな顔つきをしていたわ。相手の肩ごしに正面の壁を見つめているのよ。その見つめかたがねえ - どうにもわたしには説明できそうにないわ」
「そんなことを言わないで、なんとか努力してみてよ」とミス・マープルは言った。「そこのところが重要な点かもしれないのだから」
「一種の凍りついたような表情だったわ」と彼女は言葉をさがしさがし説明しようとした。「まるで、なにかを見たみたいな - 情景を描写するなんてむずかしいものなのねえ。ああ、そうだわ、『レディ・オブ・シャロット』をおぼえていない?鏡は横にひび割れぬ。”ああ、わが命運もつきたり”と、シャロット姫は叫べり。マリーナもそういった表情をしていたのよ。近頃の人はテニスンなんて古臭いというけれど、わたしは若いときには心をときめかせて『レディ・オブ・シャロット』を読んだものだし、いまだってそうなのよ」
「凍りついたような表情をしていたのね」ミス・マープルは考えこんだ。
(橋本福夫訳)
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| 横にひび割れた鏡 - ジグソーパズル「アガサ・クリスティーの世界(The World of Agatha Christie)」の一部 |
アガサ・クリスティー作「鏡は横にひび割れて」の題名は、初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson:1809年ー1892年)による詩「シャロット姫(The Lady of Shalott)」をベースにしている。
Out flew the web and floated wide -
The mirror crack’d from side to side;
“The curse is come upon me,” cried
The Lady of Shalott.
織物はとびちり、ひろがれり
鏡は横にひび割れぬ
「ああ、呪いがわが身に」と、
シャロット姫は叫べり。
(橋本福夫訳)
アルフレッド・テニスンは、1809年8月6日、英国国教会の牧師である父ジョージ・クレイトン・テニスン(George Clayton Tennyson)と母メアリー(Mary - 旧姓:ターナー(Turner))の三男として、リンカンシャー州(Lincolnshire)サマズビー(Somersby)に出生。
父ジョージ・クレイトン・テニスンは、建築、絵画、音楽や詩作等に造詣があり、弁護士 / 国会議員だった彼の父ジョージ・テニスン(George Tennyson)の長男で、彼の母エリザベス(Elizabeth - 旧姓:Fytche)から土地を相続したため、地方の牧師としては、かなり裕福だった。
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| ナショナルポートレイトギャラリーで販売されている 第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンの肖像画の葉書 (Richard Westall / 1813年 / Oil on canvas 914 mm x 711 mm) |
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| 2020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された 英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、 第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(=バイロン卿)が選ばれている。 |
少年時代のアルフレッド・テニスンは、英国のロマン派詩人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron:1788年ー1824年 → 2021年5月9日+2024年8月24日 / 8月30日付ブログで紹介済)の詩作に非常に魅了された。
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| パークレーン(Park Lane)に設置されていた 第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン像 (→ 2024年9月2日付ブログで紹介済) <筆者撮影> |
アルフレッド・テニスンは、1816年から1820年までの間、エドワード4世グラマースクール(King Edward VI Grammar School)に通い、1827年にケンブリッジ(Cambridge)のトリニティーカレッジ(Trinity College)に入学。
アルフレッド・テニスンは、1827年、兄であるフレデリック・テニスン(長男 / Frederick Tennyson:1807年ー1898年)やチャールズ・テニスン・ターナー(次男 / Charles Tennyson Turner:1808年ー1879年)と一緒に、最初の詩集「Poems by Two Brothers」を出版。
彼は、1829年、詩作「Timbuktu」で、ケンブリッジ大学において、学長 / 総長賞(Chancellor’s Gold Medal)を獲得。
続いて、彼は、1830年、単独の詩集となる「Poems Chiefly Lyrica」を出版した。













































