2026年5月22日金曜日

ロンドン ゴードンスクエア46番地(46 Gordon Square)- その1

英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴンが
1904年2月22日に亡くなった後、
ハイドパークゲイト通り22番地の家を売却して、
ヴァージニア・ウルフ達が引っ越したゴードンスクエア46番地の建物全景
<筆者撮影>

ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)は、1882年1月25日、英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴン(Leslie Stephen:1832年ー1904年)と初代准男爵サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones, 1st Baronet:1833年ー1898年 → 2018年6月3日 / 6月10日 / 6月17日付ブログで紹介済)等のラファエル前派(Pre-Raphaelite)のモデルとして知られている母ジュリア・プリンセップ・ジャクスン(Julia Prinsep Jackson:1846年ー1895年)の次女として、ロンドンの中心部にあるケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のブロンプトン地区(Brompton)内の高級住宅街に所在するハイドパークゲイト通り22番地(22 Hyde Park Gate → 2026年5月12日 / 5月17日付ブログで紹介済)に出生。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


ヴァージニア・ウルフは、文学に造詣が深く、豊かな人脈を知己に持つ両親の下で育った。更に、スティーヴン家の書斎には、膨大な蔵書があり、彼女は、姉のヴァネッサ(Vanessa Bell:1879年ー1961年 → 後に英国の画家 / インテリアデザイナーとなる)と一緒に、古典や英国文学を書物から学んだ。

一方、長男のトビー(Thoby:1880年ー1906年)と次男のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)は、正規の教育を受けて、ケンブリッジ大学(University of Cambridge)へ進学しており、ヴァージニア・ウルフは、当時の男女不平等な慣習に対して、非常に悔しい思いを抱いていた。



ヴァージニア・ウルフが13歳になった1895年に、母親のジュリアが48歳で急死し、ヴァージニア・ウルフが15歳になった1897年に、異父姉ステラ(Stella:1869年ー1897年)が亡くなったことに伴い、彼女は神経衰弱を発病した。

更に、不幸は続き、父親のレスリーが1904年2月22日に72歳でなくなり、ヴァージニア・ウルフは、2度目の神経衰弱に陥った。


ヴァージニア・ウルフが生まれた
ハイドパークゲイト通り22番地の建物全景
<筆者撮影>


姉のヴァネッサ、長男のトビーと次男のエイドリアンは、ハイドパークゲイト通り22番地の家を売却して、ゴードンスクエア46番地(46 Gordon Square)に家を購入した。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。


ゴードンスクエア46番地は、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在している。位置的には、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London → 2015年8月16日付ブログで紹介済)の東側で、ロンドン大学(University of London → 2016年8月6日付ブログで紹介済)の北側に該り、タヴィトンストリート(Taviton Street)とゴードンストリート(Gordon Street)に東西を挟まれている。


ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンの入口から見た
主要校舎ウィルキンスビル(Wilkins Building)
<筆者撮影>


ロンドン大学の本部が置かれている
セナトハウス(Senate House → 2017年1月15日付ブログで紹介済)
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフの両親は共に再婚で、スティーヴン一家には、3つの婚姻による8人の子供が居た。


<サー・レスリー・スティーヴンと前妻ハリエット・マリアン・サッカレー(Harriet Marian Thackeray:1840年ー1875年)の子供>

(1)ローラ・メイクピース・スティーヴン(Laura Makepeace Stephen:1870年ー1945年)


<ジュリア・プリンセップ・ジャクスンと前夫ハーバート・ダックワース(Herbert Duckworth:?ー1870年)の子供>

(2)ジョージ(George:1868年ー1934年)

(3)ステラ(Stella:1869年ー1897年)

(4)ジェラルド(Gerald:1870年-1937年)


<サー・レスリー・スティーヴンとジュリア・プリンセップ・ジャクスンの子供>

(5)ヴァネッサ(1879年ー1961年)

(6)トビー(1880年ー1906年)

(7)ヴァージニア(1882年ー1941年)

(8)エイドリアン(1883年ー1948年)


ゴードンスクエア46番地の建物前から南側を見たところ -
画面奥の建物の更に向こう側に、ロンドン大学がある。
<筆者撮影>


ローラ・メイクピース・スティーヴンは、精神障害と診断されて、1879年に施設へ既に入っていた。
ジョージは、ヴァネッサやヴァージニア達と一緒に、ゴードンスクエア46番地へ引っ越すことを好まなかった。ステラは、1897年に既に亡くなっていた。ジェラルドは、引越準備中に結婚して、別の場所へ移った。


ゴードンスクエア46番地の建物前から北側を見たところ
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフは、ゴードンスクエア46番地の家へ引っ越した1904年の秋、一時的に当地に住んだものの、神経衰弱の療養のため、ケンブリッジ(Cambridge)やヨークシャー州(Yorkshire)へ転地。彼女が、神経衰弱の療養からゴードンスクエア46番地の家へ戻って来たのは、1904年12月だった。


2026年5月21日木曜日

ジョージ・ロムニー(George Romney)- その2

ケンウッドハウス(Kenwood House → 2018年9月23日付ブログで紹介済)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作「Anne, Countess of Albermarle, and Her Son」(1779年)
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャー(通称:マイク)と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ジョージ・ロムニーは、1734年12月26日、家具職人(cabinet maker)の父ジョン・ロムニー(John Romney)と母アン・シンプスン(Anne Simpson)の三男として、ランカシャー州(Lancashire - 現在のカンブリア州(Cumbria))ダルトン・イン・ファーネス(Dalton-in-Furness)のベックサイド(Beckside)に出生。

彼は、デンドロン(Dendron)の学校へ通ったものの、学業に無関心だったため、11歳で勉学を止めて、父親の徒弟となった。彼は、製図や家具製作等に才能の片鱗を見せたので、15歳の時、地元の時計職人のジョン・ウィリアムスン(John Williamson)から絵画を非公式に習う。


1755年(21歳)に、ジョージ・ロムニーは、ケンダル(Kendal)へ行き、地元の肖像画家であるクリストファー・スティール(Christopher Steele)の弟子となり、絵画を正式に学び始める。費用は、彼の父ジョン・ロムニーが負担した。

彼は、見習い期間中に病気に罹り、女家主の娘であるメアリー・アボット(Mary Abbot)に手厚く看護されたことが縁となり、1756年に2人は結婚し、同年に長男ジョンが生まれている。

翌年の1757年に、ジョージ・ロムニーは、クリストファー・スティールとの師弟関係を解消。その頃には、彼は、地元ケンダルの後援者の間で、肖像画家 / 風景画家 / 歴史画家として有名になりつつあった。


1760年には、ジョージ・ロムニーと妻メアリー・アボットの間に、2人目の子供で、長女のアンが生まれたが、1762年3月、彼は、歴史画家として成功することを夢見て、妻メアリー・アボットと2人の子供(ジョン+アン)を地元ケンダルに残し、単身ロンドン へと向かった。

ちなみに、その後、深刻な体調不良に陥り、肖像画の仕事を縮小して、1799年の夏に地元ケンダルへ戻るまで、彼は、家族とは一度も会わないままだった。なお、長女のアンは、ジョージ・ロムニーが単身ロンドンへ向かった1762年の翌年(1763年)に、幼くして世を去っている。


2026年5月20日水曜日

ジョージ・エリオット(George Eliot)- その2

ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)が
1860年に発表した長編小説第2作目
「フロス河の水車場」
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が執筆した長編としては、第6作目に、そして、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)シリーズの長編としては、第3作目に該る「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd → 2023年9月25日 / 10月2日付ブログで紹介済)」において、事件の記録者となる「わたし」こと、キングスアボット村(King's Abbot)に住むジェイムズ・シェパード医師(Dr. James Sheppard)が、村の富豪であるロジャー・アクロイド(Roger Ackroyd)から夕食に招待され、9月17日(金)の午後7時半に、ロジャー・アクロイドが住むフェルンリーパーク館(Fernly Park)を訪れる。会席者を待つ間、ジェイムズ・シェパード医師は、応接間において、ロジャー・アクロイドによる蒐集品の数々を眺めていると、そこへフローラ・アクロイド(Flora Ackroyd - ロジャー・アクロイドの義理の妹で、未亡人のセシル・アクロイド夫人(Mrs. Cecil Ackroyd)の娘)が姿を見せる。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery内で
所蔵 / 展示されているジョージ・エリオット
(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)の肖像画
(By Sir Frederic William Burton / chalk / 1865年 /
514 mm x 381 mm)


その際に交わされたジェイムズ・シェパード医師とフローラ・アクロイドの会話に出てくる「フロス河の水車場(The Mill on the Floss)」の作者であるジョージ・エリオット(George Eliot)は、英国の作家である。実は、「ジョージ・エリオット」はペンネームで、本名はメアリー・アン・エヴァンズ(Mary Anne Evans:1819年ー1880年)。


英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の
ペーパーバック版の表紙 -
ロジャー・アクロイドが住む
フェルンリーパーク館へと向かう
ジェイムズ・シェパード医師が運転する車を
イメージしていると思われる。


1819年11月22日、土地差配人である父ロバート・エヴァンズ(Robert Evans:1773年ー1849年)と母クリスティアナ・エヴァンズ(Christiana Evans:1788年ー1836年 / 旧姓:ピアスン(Pearson))の下、ウォーリック州(Warwickshire)ヌニートン(Nuneaton)に出生したメアリー・アン・エヴァンズは、21歳の時、兄のアイザック・エヴァンズ(Isaac Evans:1816年ー1890年)が結婚して、エヴァンズ家の家を引き継いだため、父親と一緒に、コヴェントリー(Coventry)近郊へ移った。


英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の
ペーパーバック版の表紙 -
壁紙の絵が、物語の語り手である
ジェイムズ・シェパード医師が
事件を記録するために使用しているインク壺と羽根ペンの形に切り取られている。


そこで、彼女は、哲学者であるチャールズ・ブレイ(Charles Bray:1811年ー1884年)とカーラ・ブレイ(Cara Bray)の夫妻と知り合い、1846年(27歳)に、ドイツの神学者 / 哲学者であるダーフィト・フリードリヒ・シュトラウス(David Friedrich Strauss:1808年ー1874年)の「イエス伝」の英語翻訳版を刊行。

1849年(30歳)に父親が亡くなり、父の葬式を済ませた5日後に、メアリー・アン・エヴァンズは、ブレイ夫妻と一緒に、欧州大陸旅行へ出発。ブレイ夫妻とともに、スイスを訪れた後、彼女は、一人で残り、ジュネーヴに滞在した。


2022年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design by Holly Macdonald /
Illustrations by Shutterstock.com) 


1850年にジュネーヴから帰国したメアリー・アン・エヴァンズは、作家にを志して、ロンドンへと移った。彼女は、ダーフィト・フリードリヒ・シュトラウス作「イエス伝」の英語翻訳版を刊行してくれた英国の出版業者であるジョン・チャップマン(John Chapman:1821年ー1894年)の家に寄宿。

そして、ジョン・チャップマンが買収した左派系の雑誌「ザ・ウェストミンスター・レヴュー(The Westminster Review)」に、メアリー・アン・エヴァンズは、マリアン・エヴァンズ(Marian Evans)と言うペンネームを使い、同年から寄稿。1851年には、副主筆(assistant editor)へ昇格。なお、ジョン・チャップマン自身が主筆(editor)を務めた。


2026年5月19日火曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その33A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「五匹の子豚」ペーパーバック版の表紙 -
ビールの瓶の表面に残されたカロリン・クレイルの手の指紋が
描かれていると思われる。これが決め手となり、
裁判において、夫のアミアス・クレイルを毒殺した罪状により、
終身刑を宣告されたのである。

英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(75)美女の肖像画(painting of a beautiful woman)



ジグソーパズルの中央のやや左側に設置されている暖炉の左側の柱の中程辺りに、美女の肖像画が掛けられている。


(76)ビールの瓶(bottle of beer)



ジグソーパズルの右下に設置されているガラスケース内の上に、ビールの瓶とビールが入ったグラスが置かれている。


これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1942年に発表した「五匹の子豚(Five Little Pigs)」である。

「五匹の子豚」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第32作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第21作目に該っている。


「五匹の子豚」の場合、米国において1942年5月に出版された際、その内容に因んで、「回想の殺人(Murder in Retrospect)」と言うタイトルが使用されたが、英国において1943年1月に出版された際、物語内に使われているマザーグースの童謡(5匹の子豚が登場する数え歌 → 2023年6月2日付ブログで紹介済)に因んでおり、「五匹の子豚」と言うタイトルへ変更された。


物語の冒頭、カーラ・ルマルション嬢(Carla Lemarchant)が、ある事件の調査を依頼するために、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)の元を訪れる。彼女は、この世で望み得る最高の探偵を必要としていたのだ。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


21歳の誕生日を迎えるに際して、現在、カナダで暮らすカーラ・ルマルションこと、本名カロリン・クレイル(Caroline Crale)は、恐ろしい事実を突き付けられることになった。彼女は、英国の有名な画家であるアミアス・クレイル(Amyas Crale)の娘として、遺産を相続することになったが、16年前、その父親は、彼女と同名の母親カロリン・クレイル(Caroline Crale)によって毒殺されたと言うのだ。その時、彼女は、まだ5歳だった。彼女は、カナダに住む伯父夫妻へと送られ、名前もカロリン・クレイルから現在のカーラ・ルマルションへと変えられたのであった。彼女の母親は、裁判で有罪判決を受けて、終身刑を宣告され、1年後に獄中で死亡していた。


彼女の母親は、自分の娘(彼女)が21歳になった際に読むようにと、手紙を残していた。その手紙は、自分は無実であることを訴える内容だった。手紙を読んだ彼女は、母親が潔白であることに確信を抱いた。

彼女は、ジョン・ラッテリー(John Rattery)と婚約して、結婚を目前に控えていたが、婚約者であるジョンは、時々、自分をどこか疑うような目つきで見てることに気付く。彼女は、夫殺しの女の娘ではないか、と。

彼女としては、16年前の事件が、これからの自分の結婚生活に不吉な影を落とさないためにも、母親の無実をなんとか証明したいと望んでいたのである。


2026年5月18日月曜日

ロンドン チェルシーブリッジロード / チェルシーガーデンズ(Chelsea Bridge Road / Chelsea Gardens)

ジェローム・K・ジェロームが住んでいた
チェルシーガーデンズの建物全景(その1)
<筆者撮影>

ジェローム・クラップ・ジェローム(Jerome Klapka Jerome:1859年ー1927年)は、シャーロック・ホームズシリーズの作者であるサー・アーサー・イグナティス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)の友人で、英国の作家でもある。


英国の The Orion Publishing Group Ltd. から2020年に出ている
「シャーロック・ホームズの世界(The World of Sherlock Holmes)」と言うジグソーパズルの場合、
大英博物館(British Museum → 2014年5月26日付ブログで紹介済)の前に立つ人物が、
ユーモア旅行小説「ボートの三人男」等で有名な
英国の作家であるジェローム・クラップ・ジェロームである。
<筆者撮影>


ジェローム・K・ジェロームは、1859年に、信徒伝道者である父親ジェローム・クラップ(Jerome Clapp)と母親マーガリート・ジョーンズ(Marguerite Jones)の4番目の子供として、ウェストミッドランズ(West Midlands - 当時は、スタッフォード州(Staffordshire))のウォルソール(Walsall)に出生。彼の上には、兄(幼くして死去)が1人と姉が2人。彼は、父親の改名に従い、ジェローム・クラップ・ジェロームと命名された。


ジェローム・K・ジェロームの父親が地方鉱工業への投資に失敗したため、一家は貧窮して、彼は貧窮の中で育った。

彼は、政治か、あるいは、文学の道へ進むことを望んでいたが、彼が13歳の時に、父親が、更に、15歳の時に、母親が亡くなったため、学校を辞めて、働かざるを得なくなり、ロンドン&ノースウェスタン鉄道に職を得た。


1877年、姉の演劇熱の影響を受けて、ジェローム・K・ジェロームは、役者を志して、ある移動劇団に加わった。それから3年間、彼は役者を続けたものの、うだつの上がらず、次は、ジャーナリストになるべく、随筆、風刺文や短編小説を書いたが、不採用の日々が続いた。その後、彼は、教師、梱包業者や事務弁護士の秘書等の職を転々とした。


ジェローム・K・ジェロームが住んでいた
チェルシーガーデンズの建物全景(その2)
<筆者撮影>


最終的に、ジェローム・K・ジェロームは、1885年に「On the Stage - and Off」を発表して、作家としての道を切り開き、翌年の1886年には、ユーモア随筆集の「Idle Thought of an Idle Fellow」を刊行した。

1888年6月に、ジェローム・K・ジェロームは、離婚歴があり、娘が1人居るジョージーナ・エリザベス・ヘンリエッタ・スタンリー・マリス(Georgina Elizabeth Henrietta Stanley Marris)と結婚。

ジェローム・K・ジェロームは、テムズ河(Thames River)で過ごした新婚旅行をベースにして、ユーモア旅行小説「ボートの三人男(Three Men in a Boat)」を執筆し始め、登場人物としては、彼の妻の代わりに、彼の親友二人を使った。1889年に出版された「ボートの三人男」は、直ぐに大当たりをとり、その後、映画、テレビドラマ、ラジオドラマ、舞台劇やミュージカルとして採用されたのである。


経済的な安定を得たジェローム・K・ジェロームは、その後も、戯曲、随筆や小説を書き続けたものの、残念ながら、「ボートの三人男」の成功を超えることはできなかった。

1898年に、彼は、ドイツでの滞在経験をベースにして、「ボートの三人男」の続編に該る「Three Men on the Bummel」を執筆し、「ボートの三人男」と同じ登場人物で、外国での自転車旅行をテーマにしたが、あまり大きな成功とはならず、これらのことが、彼の気分を滅入らせた。


第一次世界大戦(1914年ー1918年)が勃発すると、56歳だったジェローム・K・ジェロームは、英国陸軍へ入隊しようとしたが、年齢を理由に拒否されたため、フランス陸軍の救急車運転手に志願した。ただ、この戦争体験と義理の娘の死去(1921年)が、彼を更に滅入らせることになった。


1926年に自伝「My Life and Times」を出版したジェローム・K・ジェロームは、1927年6月に、デヴォン州(Devon)からロンドン までの自動車旅行に出発したが、途中で麻痺的な発作と脳出血に襲われて、2週間後に死去したのである。


ジェローム・K・ジェロームが住んでいた
チェルシーガーデンズの「91号室ー104号室」用入口(その1)
<筆者撮影>


ジェローム・K・ジェロームが住んでいた家のうち、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のセントパンクラス地区(St. Pancras)内にあるタヴィストックプレイス通り32番地(32 Tavistock Place)の建物については、2026年4月18日付ブログで紹介済であるが、もう一軒あるので、今回紹介したい。


ジェローム・K・ジェロームが住んでいた
チェルシーガーデンズの「91号室ー104号室」用入口左脇の外壁に、
イングリッシュヘリテージのブループラークが掛けられている。

<筆者撮影>


ジェローム・K・ジェロームが住んでいたもう一軒の家は、チェルシーガーデンズ(Chelsea Gardens)と言うフラットで、ロンドン中心部のケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のチェルシー区(Chelsea)内に所在している。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
チェルシーブリッジロード近辺の地図を抜粋。


地下鉄スローンスクエア駅(Sloane Square Tube Station)があるスローンスクエア(Sloane Square → 2025年5月25日付ブログで紹介済)からテムズ河(River Thames)方面へと向かって、ロウワースローンロード(Lower Sloane Road)を南下。

ロウワースローンロードは、ピムリコロードと交差した後、チェルシーブリッジロード(Chelsea Bridge Road)へと名前を変える。

チェルシーブリッジロードを更に南下して、テムズ河へと至る直前、左側から延びてくるエバリーブリッジロード(Ebury Bridge Road)と交差した南東の角に、チェルシーガーデンズと言うフラットが建っている。

ジェローム・K・ジェロームは、チェルシーガーデンズの104号室に住んでいた。


ジェローム・K・ジェロームが住んでいた
チェルシーガーデンズの「91号室ー104号室」用入口(その2)
<筆者撮影>


チェルシーガーデンズの建物の「91号室ー104号室」用の入口左脇の外壁に、「ジェローム・K・ジェローム(1859年ー1927年)が、104号室に住んでいた時に、「ボートの三人男」を執筆した」ことを示すイングリッシュヘリテージ(English Heritage)のブループラークが掛けられている。


ジェローム・K・ジェロームがチェルシーガーデンズの104号室に住んでいた時に、
ユーモア旅行小説「ボートの三人男」を執筆した。
<筆者撮影>


イングリッシュヘリテージによるブループラークは、原則として、1個人1枚と定められているため、ジェローム・K・ジェロームが代表作である「ボートの三人男」を執筆したチェルシーガーデンズ104号室を選んだものと思われる。


2026年5月17日日曜日

ロンドン ハイドパークゲイト通り22番地(22 Hyde Park Gate)- その2

ヴァージニア・ウルフが生まれた
ハイドパークゲイト通り22番地の建物全景
<筆者撮影>

サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle::1859年ー1930年)作「マスグレイヴ家の儀式書(The Musgrave Ritual)」の冒頭、シャーロック・ホームズがジョン・H・ワトスンに対して語った通り、ホームズは、大学卒業後、ロンドンに移り、モンタギューストリート(Montague Street → 2014年5月25日付ブログで紹介済)に部屋を借りて、諮問探偵を開業したが、残念ながら、数ヶ月経過しても、1件の仕事依頼も持ち込まれなかった。そこで、ホームズは、この暇な時間を有効活用すべく、将来役に立ちそうな学問の勉強のために、近所にある大英博物館(British Museum → 2014年5月26日付ブログで紹介済)の「円形閲覧室(Round Reading Room → 2026年5月6日付ブログで紹介済)」へ足繁く通った。


「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の
1893年5月号「マスグレイヴ家の儀式書」に掲載された挿絵 -
ジョン・H・ワトスンが、
事件解決後の倦怠期に入ったシャーロック・ホームズに対して、
部屋の住み心地を良くするために、室内の整理を提案した。
すると、少し悲しそうな顔をしたホームズは、寝室へ姿を消すと、
大きなブリキの箱を引っ張り出して来た。
ホームズは、ブリキの箱を部屋の真ん中に置き、
丸椅子に座ると、箱の蓋を開けた。
ブリキの箱の中には、ホームズが解決した
初期の事件の記録が入っていたのである。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)


ホームズが足繁く通った「円形閲覧室」があった大英博物館周辺に住んだヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)は、1882年1月25日、英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴン(Leslie Stephen:1832年ー1904年)と初代准男爵サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones, 1st Baronet:1833年ー1898年 → 2018年6月3日 / 6月10日 / 6月17日付ブログで紹介済)等のラファエル前派(Pre-Raphaelite)のモデルとして知られている母ジュリア・プリンセップ・ジャクスン(Julia Prinsep Jackson:1846年ー1895年)の次女として、ハイドパークゲイト通り22番地(22 Hyde Park Gate)に出生。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


ヴァージニア・ウルフの両親は共に再婚で、サー・レスリー・スティーヴンには、1875年に亡くなった前妻との間に、娘1人が、また、ジュリア・プリンセップ・ジャクスンには、1870年に亡くなった前夫との間に、息子2人と娘1人が居た。

そして、サー・レスリー・スティーヴンとジュリア・プリンセップ・ジャクスンの間に、息子2人と娘2人が生まれた。5番目の子供で、夫妻にとって長女となるヴァネッサ・ベル(Vanessa Bell:1879年ー1961年)は、後に英国の画家 / インテリアデザイナーとなり、妹ヴァージニア・ウルフ達と一緒に、1905年に「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury )」と呼ばれる著述家や芸術家の知的サークルを結成することになる。ヴァージニア・ウルフは、7番目の子供で、夫妻にとっては次女となる。


ハイドパークゲイト通り22番地の建物前から
北側(ハイドパークゲイト通りの入口)を見たところ
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが生まれたハイドパークゲイト通り22番地は、ロンドンの中心部にあるケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のブロンプトン地区(Brompton)内の高級住宅街に所在している。


ハイドパークゲイト通り22番地の建物を見上げたところ
<筆者撮影>


父親のサー・レスリー・スティーヴンは、英国の著名な批評家 / 歴史家で、「英国人名辞典(Dictionary of National Biography)」の編集者として知られていることに加えて、前妻の父で、英国の小説家であるウィリアム・メイクピース・サッカレー(William Makepeace Thackeray:1811年ー1863年)との繋がりがあり、多くの著名な知識人や作家が家を訪れた。

また、母親のジュリア・プリンセップ・ジャクスンの一族から、ヴィクトリア朝社会に名を馳せた美女を輩出しており、本人も「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)の画家達や写真家達のモデルを務めた関係で、知己に恵まれていた。

その結果、ヴァージニア・ウルフは、文学に造詣が深く、豊かな人脈を知己に持つ両親の下で育った。


更に、スティーヴン家の書斎には、膨大な蔵書があり、ヴァージニア・ウルフは、姉のヴァネッサと一緒に、古典や英国文学を書物から学んだ。

一方、長男のトビー(Thoby:1880年ー1906年)と次男のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)は、正規の教育を受けて、ケンブリッジ大学(University of Cambridge)へ進学しており、ヴァージニア・ウルフは、当時の男女不平等な慣習に対して、非常に悔しい思いを抱いていた。


ヴァージニア・ウルフが13歳になった1895年に、母親のジュリアが48歳で急死し、ヴァージニア・ウルフが15歳になった1897年に、異父姉ステラ(Stella:1869年ー1897年)が亡くなったことに伴い、彼女は神経衰弱を発病した。

にもかかわらず、ヴァージニア・ウルフは、1897年から1901年にかけて、キングス カレッジ ロンドン(King’s College London)の女子学部で、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語と歴史を履修し、いくつかの課程で学位レベルまで修めた。姉のヴァネッサも、キングス カレッジ ロンドンの女子学部において、ラテン語、イタリア語と建築を学んだ。


ハイドパークゲイト通り22番地の建物外壁には、
(1)父サー・レスリー・スティーヴン、
(2)姉ヴァネッサ・ベルと
(3)妹ヴァージニア・ウルフの
3人分のブループラークが掛けられている。
<筆者撮影>


ハイドパークゲイト通り22番地の建物の1階(GF)の外壁には、


(1)サー・レスリー・スティーヴン(London City Council 制作)

(2)ヴァネッサ・ベル(非公認のものと思われる)

(3)ヴァージニア・ウルフ(非公認のものと思われる)


の3つのブループラークが掛けられている。


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示されている
ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチルの肖像画
(by Sir William Orpen / 1916年 / Oil on canvas)
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが生まれたハイドパークゲイト通り22番地の右斜め前にあるハイドパークゲイト通り28番地の建物には、英国の政治家、軍人、従軍記者、作家であるウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill:1874年ー1965年)が住んでおり、ここで亡くなっている。 


ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチルが亡くなった
ハイドパークゲイト通り28番地の建物全景
<筆者撮影>

ハイドパークゲイト通り28番地の建物外壁には、
ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチルが住み、
ここで亡くなったことを示すブループラークが掛けられている。
<筆者撮影>