2026年3月18日水曜日

ロンドン クレイヴンストリート25番地(25 Craven Street)

米国の作家 / 小説家であるハーマン・メルヴィルが住んでいた
クレイヴンストリート25番地の建物全景
<筆者撮影>


印刷業で成功を収めた後、政界へ進出したベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin:1706年ー1790年 / 米国の政治家 / 外交官 / 著述家 / 物理学者 / 気象学者 → 2026年2月20日 / 2月26日付ブログで紹介済)は、英国領北米植民地における待遇改善を要求するため、1757年に、ペンシルヴェニア植民地(Pennsylvania Assembly)により、英国へと派遣される。



彼は、1757年から1775年までの約20年間、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内にあるクレイヴンストリート36番地(36 Craven Street → 2026年2月27日付ブログで紹介済)に間借りしており、現在、この建物は、「ベンジャミン・フランクリンハウス(Benjamin Franklin House)」として、一般に公開されている。


クレイヴンストリート25番地の建物を見上げたところ
<筆者撮影>


チャリングクロス駅(Charing Cross Station → 2014年9月20日付ブログで紹介済)の前を通って東西に延びるストランド通り(Stand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)からテムズ河(River Thames)へ向かい、クレイヴンストリート(Craven Street → 2014年8月3日付ブログで紹介済)が南北に延びている。

クレイヴンストリート36番地の建物は、クレイヴンストリートの東側に、チャリングクロス駅に隣接するように建っている。


クレイヴンストリート25番地の建物入口(その1)
<筆者撮影>


クレイヴンストリートには、ベンジャミン・フランクリン以外にも、著名人が住んでいた建物がある。

ドイツの詩人 / 文芸評論家 / エッセイスト / ジャーナリストであるクリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Henrich Heine:1797年ー1856年)が一時住んでいたクレイヴンストリート32番地(32 Craven Streetについては、2026年3月2日付ブログで既に紹介済であるが、クレイヴンストリートには、著名人が住んでいた建物がもう1軒ある。

それは、クレイヴンストリート25番地(25 Craven Street)の建物で、ベンジャミン・フランクリンが住んでいたクレイヴンストリート36番地やクリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネが住んでいたクレイヴンストリート32番地と同じ側(=クレイヴンストリートの東側)に建っている。


クレイヴンストリート25番地の建物入口(その2)
<筆者撮影>


クレイヴンストリート25番地の建物には、米国の作家 / 小説家で、「白鯨(Moby-Dick or The Whale)」(1851年)等の作者として有名なハーマン・メルヴィル (Herman Melville:1819年ー1891年)が一時住んでいた。


日本の出版社である岩波書店から
岩波文庫として出版されている

ハーマン・メルヴィル作「白鯨(上)」の表紙
       カバーデザイン: 中野 達彦
 カバーカット: ロックウェル・ケント
(Rockwell Kent:1882年ー1971年 - 米国の画家 / イラストレーター)


1819年8月1日、米国ニューヨーク(New York)の裕福な食料品輸入商の三男として生まれたハーマン・メルヴィルだったが、家の経済状態が悪化し、父親が多額の借金を残して亡くなったため、已む無く、兄の紹介で船員となる。

船員として捕鯨船に乗ったもの、厳しい環境に嫌気が差したため、仲間と一緒に脱走し、各地に滞在した後、米国に戻ったハーマン・メルヴィルは、文筆業で身を立てようと考え、波乱万丈な航海を体験したことを踏まえて、当時流行していた海洋小説に手を染めた。


クレイヴンストリート25番地の建物外壁には、
ハーマン・メルヴィルがここに住んでいたことを示す
イングリッシュヘリテージ(English Heritage)のプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


ハーマン・メルヴィルは、マルケサス諸島(Marquesas Islands)のヌク・ヒヴァ島(Nuku Hiva)での体験をベースにした処女作「タイピー(Typee)」を1846年に発表し、タヒチ島(Tahiti)周辺でのベースにした第2作「オムー(Omoo)」を1847年に出版した。


クレイヴンストリート25番地の建物外壁に掛けられている
ハーマン・メルヴィルがここに住んでいたことを示すプラークのアップ
<筆者撮影>


その後、彼は、太平洋を舞台にした寓話的作品「マーディ(Mardi and a Voyage Thither)」を1849年に発表し、リヴァプール(Liverpool)への初航海に取材した「レッドバーン(Redburn, His First Voyaga)」を同年に出版した後、英国へ旅行した際、クレイヴンストリート25番地に短期滞在した。

英国に滞在した後、ハーマン・メルヴィルは、パリ、ブリュッセル、ケルンやラインラントを巡っている。


2026年3月17日火曜日

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley)- その1

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示
されている
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの肖像画
(by Jacques-Emile Blanche / oil on canvas / 1895年)


戯曲「サロメ(Salome → 2026年3月11日 / 3月12日付ブログで紹介済)」は、アイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、シャーロック・ホームズシリーズの作者サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)の友人でもあったオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)による一幕物の悲劇で、新約聖書を元にしている。


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
オスカー・ワイルドの写真の葉書
(Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card
305 mm x 184 mm) 


戯曲「サロメ」は、1891年にフランス語で執筆されて、1893年にパリで出版された。

同戯曲の英訳版は、1894年に出版されているが、当時、オスカー・ワイルドの同性の恋人だった第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ショルト・ダグラス(John Sholto Douglas, 9th Marquess of Queensberry:1844年ー1900年)の三男で、作家 / 詩人 / 翻訳家のロード・アルフレッド・ブルース・ダグラス(Lord Alfred Bruce Douglas:1870年ー1945年)が英訳を行ったものの、出来が悪かったため、オスカー・ワイルド自身が、その英訳を修正している。

同戯曲の英訳版には、英国のイラストレーター / 詩人 / 小説家であるオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)による挿画が使用されている。


オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」の英訳版に付されている
オードリー・ビアズリーによる挿画 - タイトルページ


ヴィクトリア朝時代の世紀末美術を代表するオーブリー・ビアズリーは、1872年8月21日、ビアズリー夫妻の長男として、イングランド南部のサセックス州(Sussex)ブライトン(Brighton)に出生。

父親のヴィンセント・ポール・ビアズリー(Vincent Paul Beadsley:1839年-1909年)は、金銀細工師の息子だったが、肺結核(tuberculosis)のため、特に職業には就いておらず、祖父から受け継いだ遺産で生活していた。

母親のエレン・アグナス・ピット(Ellen Agnus Pitt:1846年ー1932年)は、軍医(少佐)ウィリアム・ピット(William Pitt)の娘で、ブライトンでは著名かつ由緒ある家系だっため、結婚した二人の間には、社会的な格差があった。

オーブリー・ビアズリーの1歳上には、姉のメイベル・ビアズリー(Mable Beardsley:1871年ー1916年)が居り、後に女優となった。


オーブリー・ビアズリーは、父方から工芸家としての器用さを受け継ぎ、また、母方から芸術に対する洗練された趣味を受け継いだ。

肺結核のため、稼ぎがなかった父ヴィンセントに代わり、母エレンが、音楽教師として働いて、オーブリー・ビアズリーに文学や音楽の本格的な教育を施した。その甲斐もあって、オーブリー・ビアズリーは、学校に上がる前に、ピアノでショパンを弾きこなせるになり、周囲から音楽の天才と呼ばれる。


オーブリー・ビアズリーは、1878年、ブライトン近郊の寄宿学校ハミルトンロッジ(Hamilton Lodge)に入学し、絵を描き始めるが、1879年に肺結核の兆候が出てきたため、1881年にハミルトンロッジを退学。

オーブリー・ビアズリーの治療のため、同年(1881年)、ビアズリー一家は、ロンドン 南郊のエプソム(Epsom)へ転居、更に、1883年にロンドンへ移住する。

そして、1884年に、ビアズリー一家は、再びブライトンに戻った。 


オーブリー・ビアズリーは、1885年1月に地元の初等中学校(Brighton, Hove and Sussex Grammar School)に入学。学費については、母方の大伯母が援助した。

彼は、4年間の勉学を修めて、1888年に同初等中学校を卒業。


         

2026年3月14日土曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その26A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「もの言えぬ証人」ペーパーバック版の表紙 -
バークシャー州マーケットベイジングの小緑荘に住む
エミリー・ハリエット・ラヴァートン・アランデルの元を甥や姪達が訪れた日の夜、
エミリー・アランデルは階段から転落する。
彼女が亡くなった後、小緑荘に赴いたポワロは、
階段の上の両側にニスが塗られた釘が打たれているのを発見して、
そこに紐が張られていたのではないかと推理する。
つまり、エミリー・アランデルが階段から転落したのは、
単なる事故ではなく、階段の上に張られた紐に躓いて転落させれた疑いが強まった。
表紙には、階段の上に立つエミリー・アランデルが描かれていると思われる。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(56)テリア犬のボブ(Bob the dog)



ジグソーパズルの下段の一番左手にあるテーブルの近くの床の上に、テリア犬のボブが居る。


(57)燐光を発する煙に似たもの(phosphorescent smoke)



ジグソーパズルの上段の一番右手にある回廊のところに、燐光を発する煙に似たものが立ち上っている。


(58)階段(stairwell)



ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)の右斜め後ろの位置に立っているジェイムズ・ハロルド・ジャップ警部(Inspector James Harold Japp / 後に主任警部(Chief Inspector)に昇進 → 2025年10月24日付ブログで紹介済)の背後にある柱の右側の部分に、階段が描かれた絵が額縁に入って掛かっている。


これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1937年に発表したもの言えぬ証人(Dumb Witness)」(1937年)である。

「もの言えぬ証人」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第21作目に該り、エルキュール・ポワロシリーズの長編のうち、第14作目に該っている。


なお、「もの言えぬ証人」の場合、米国版のタイトルは、「Poirot Loses a Client(ポワロ、依頼人を失う)」が使用されている。

米国版のタイトルは、「Murder at Littlegreen House(小緑荘の殺人)」や「Mystery at Littlegreen House(小緑荘の謎)」へ改題されている。


1936年6月28日、エルキュール・ポワロは、エミリー・アランデル(Emily Arundell - なお、フルネームは、エミリー・ハリエット・ラヴァートン・アランデル(Emily Harriet Laverton Arundell))と名乗る老婦人から、自分の命に危険が迫っていることを示唆する内容の手紙を受け取る。奇妙なことに、手紙の日付は、その年の4月17日になっており、手紙が書かれてから2ヶ月後も経ってから投函されているのだった。


ポワロの相棒で、友人でもあるアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings → 2025年10月12日付ブログで紹介済)は、「老婦人のとりとめのない妄想ではないか?」と疑問を呈したが、手紙が差し出された経緯について興味を覚えたポワロは、ヘイスティングス大尉を伴って、事実を確かめるために、エミリー・アランデルが住むバークシャー州(Berkshire)のマーケットベイジング(Market Basing)へと赴くことにした。


ポワロとヘイスティングス大尉の二人が、エミリー・アランデルの住所である小緑荘(Littlegreen House)を訪れると、屋敷の前には、「売家」の札が掲げられていた。疑問を抱いた二人が地元で尋ねると、エミリー・アランデル本人は、1ヶ月以上も前の1936年5月1日に亡くなっていたのである。


2026年3月13日金曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その25B

英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作中編集「厩舎街の殺人」の
ペーパーバック版の表紙 -

ガイ・フォークス ナイトに該る11月5日、

ロンドンの夜空を照らす花火を背景にした表紙が、

アタッシュケースの形に切り取られている。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1937年に発表した中編集「厩舎街の殺人(Murder in the Mews)」には、以下の4編が収録されている。


なお、中編集「厩舎街の殺人」の米国版のタイトルは、「死人の鏡(Dead Man’s Mirror)」に変更された上、「謎の盗難事件」は含まれていないため、収録作品は3編のみである。


*「厩舎街の殺人(Murder in the Mews)」(1936年)


地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)内にある
ジュビリーライン(Jubilee Line)のプラットフォームの壁に描かれている
「火薬陰謀事件」の主なメンバー達
<筆者撮影>


ロンドンの秋深まる夜空を明るく彩るガイ・フォークス ナイトの打ち上げ花火
<筆者撮影>


ガイ・フォークス ナイト(Guy Fawkes Night → 2016年11月5日付ブログで紹介済)に該る11月5日、打ち上げられる花火がロンドンの夜空を照らす中、物語が始まる。

夕食を終えて、静かな脇道のバーズリーガーデンミューズ(Bardsley Garden Mews)を歩くスコットランドヤードのジャップ主任警部(Chief Inspector Japp → 2025年10月24日付ブログで紹介済)は、隣りを歩くエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)に向かって、次のように話しかける。「殺人を行うには、うってつけの晩だ。今夜なら、たとえピストルを撃ったとしても、誰にも聞こえやしない。」と...


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


ジェイムズ・ハロルド・ジャップ警部(後に、主任警部)は、
ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロの右斜め後ろの位置に立っている。

<筆者撮影>


全くの偶然ではあるが、彼らが歩いていたバーズリーガーデンミューズにおいて、事件が発生する。若い未亡人であるバーバラ・アレン夫人(Mrs. Barbara Allen)が拳銃自殺をしたのである。しかし、彼女には自殺する理由が見当たらない上に、現場には自殺と断定するには疑わしい点が多かった。何故ならば、ピストルは彼女の右手の中にあったものの、握られていた訳ではなかった。不自然なことに、ピストルの弾丸は、彼女の頭の右側からではなく、左側から入っていたのである。つまり、何者かが彼女を殺害した後で、自殺に見せかけようとしたのだ!これを他殺と考えたジャップ主任警部は、ポワロに事件の捜査協力を依頼する。


*「謎の盗難事件(The Incredible Theft)」(1937年)

大土木建築会社の元社長で、現在は英国兵器省の初代長官であるメイフィールド卿(Lord Mayfield)の屋敷でパーティーが開催され、


サー・ジョージ・キャリントン(Sir George Carrington - 英国空軍中将(Air Marshall))

レディー・ジュリア・キャリントン(Lady Julia Carrington - サー・ジョージ・キャリントンの妻)

レジー・キャリントン(Reggie Carrington - サー・ジョージ・キャリントンの息子)

ヴァンダリン夫人(Mrs. Vanderlyn - 米国人で、3回の結婚歴)

マキャッタ夫人(Mrs. Macatta - 英国下院議員)

カーライル氏(Mr. Carlile - メイフィールド卿の秘書)


が夕食会に参加した。

夕食会が終わり、メイフィールド卿とサー・ジョージ・キャリントンの2人になった際、彼らは新型爆撃機の設計図を使って、スパイと疑われるヴァンダリン夫人を罠に嵌める計画を立てる。

彼ら2人以外の招待客が寝静まった後、メイフィールド卿は、秘書のカーライルに対して、新型爆撃機の設計図を金庫から取り出しておくように指示したが、メイフィールド卿が確認すると、秘書のカーライルが「ここに置きました。」と言う机の上から、肝心な新型爆撃機の設計図がなくなっていたのである。

事態を恐れたメイフィールド卿は、直ぐにエルキュール・ポワロに助けを求めることに決めた。


*「死人の鏡(Dead Man’s Mirror)」(1937年)

1936年9月24日、エルキュール・ポワロは、ウェストシャー州(Westshire)ハムバラ セントメアリー(Hamborough St. Mary)のハムバラ荘(Hamborough Close)に住むサー・ジャーヴァス・フランシス・ザヴィア(Sir grease Francis Xavier - 本名:ジャーヴァス・シェヴニックス=ゴア(Gervase Chevenix-Gore))から電報を受け取る。極秘の相談をしたい、とのことだった。興味を持ったポワロは、セントパンクラス駅(St. Pancras Station)発午後4時半の一等車に乗り、現地へと向かう。


ポワロは、ロンドンを出る前に、サタースウェイト氏(Mr. Satterthwaite)に会い、ジャーヴァス・シェヴニックス=ゴアに関する情報収集を行なっている。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に出ている
「アガサ・クリスティーのトランプ」の1枚である
2 ♠️
サタースウェイト氏


午後8時過ぎに駅に着き、そこから出迎えの車に乗り、屋敷に到着したポワロであったが、パーティーの最中で、シェヴニックス=ゴア夫人(Lady Chevenix-Gore - ジャーヴァス・シェヴニックス=ゴアの妻)やルース・シェヴニックス=ゴア(Ruth Chevenix-Gore - ジャーヴァス・シェヴニックス=ゴアの娘)に出迎えられる。ただし、彼女たちは、ポワロが訪れることを知らなかった。

銅鑼が鳴り、執事が食事の用意が整ったことを告げたものの、いつも時間に正確な筈のジャーヴァス・シェヴニックス=ゴアが、いつまで待っても、姿を見せなかった。執事によると、ジャーヴァス・シェヴニックス=ゴアは、午後8時5分前に階下に降りて来て、書斎に入った、とのこと。また、銅鑼は書斎のドアの直ぐ外にあるため、銅鑼の音が聞こえないことはありえなかった。

ジャーヴァス・シェヴニックス=ゴアが姿を見せないことを不審に感じたポワロ達が書斎へ向かうと、ジャーヴァス・シェヴニックス=ゴアが死亡しているのを発見する。見たところ、拳銃で自殺した模様だった。

しかし、拳銃の銃弾が、ジャーヴァス・シェヴニックス=ゴアが死亡している机の向こうの壁に掛かっている円い鏡に当たった位置等、彼の死因をめぐって、不審な点が多々あったため、ポワロは、ジャーヴァス・シェヴニックス=ゴアは殺害されたものと判断したのである。


*「砂に書かれた三角形(Triangle at Rhodes)」(1936年)

10月の閑散期に、エルキュール・ポワロは、宿泊客の少ないロードス島(Rhodes)を訪れる。

島には、パメラ・ライアル(Pamela Lyall)、サラ・ブレイク(Sarah Blake)とヴァレンタイン・ダクレス・チャントリー(Valentine Dacres Chantry)が滞在して降り、自他共に美しさを認めるヴァレンタイン・チャントリーは、ダグラス・キャメロン・ゴールド(Douglas Cameron Gold)の気を引くそぶりを見せる。彼女のふるまいは、ダグラスの妻で、温和な風情のマージョリー・エマ・ゴールド(Marjorie Emma Gold)とヴァレンタインの夫であるトニー・チャントリー(Tony Chantry)の2人を苛立たせていた。

マージョリー・ゴールドから相談を受けたポワロは、彼女に対して、「手遅れにならないうちに、島を離れなさい。」と助言するが、彼女は、「夫(ダグラス)が一緒でなければ、島を離れることはできません。」と言って、首を振る。

そして、ある晩、ダグラス・ゴールドとトニー・チャントリーの2人が言い争いになったことを皮切りに、事件が発生する。マージョリー・ゴールドとヴァレンタイン・チャントリーの2人がドライブから戻った後、ヴァレンタイン・チャントリーが、夫のダグラス・ゴールドから手渡されたカクテルを飲んで、毒死したのである。


(53)新型爆撃機の設計図(aircraft blueprints)



「謎の盗難事件」において、英国兵器省の初代長官であるメイフィールド卿の屋敷から、新型爆撃機の設計図が盗まれる事件が発生して、ポワロが呼ばれる。


(54)粉微塵になった壁の鏡(broken wall mirror)



「死人の鏡」において、いつまで経っても、ジャーヴァス・シェヴニックス=ゴアが姿を見せないことを不審に思ったポワロ達が書斎へ向かうと、彼は既に死亡していた。一見、拳銃自殺のようだった。

ジャーヴァス・シェヴニックス=ゴアが死亡している机の向こうの壁に、円い鏡に掛かっていたが、粉微塵になっていた。彼が撃った拳銃の銃弾が当たったためだと思われた。


(55)食事の用意が整ったことを知らせるための銅鑼(dinner gong)



「死人の鏡」において、間を置き、銅鑼が二度鳴ったことを判ったポワロは、ジャーヴァス・シェヴニックス=ゴアがどのように殺害されたのかを導き出すのであった。


2026年3月12日木曜日

オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」(Salome by Oscar Wilde)- その2

オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」の英訳版に付されている
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)
による挿画(その3)

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、カーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で、1942年に発表したヘンリー・メルヴェール卿(Sir Henry Merrivale)を探偵役とするシリーズ長編第13作目に該る仮面荘の怪事件(東京創元社)/ メッキの神像(早川書房)(The Gilded Man → 2026年2月23日 / 3月10日付ブログで紹介済)」の場合、ケント州(Kent)のロイヤルタンブリッジウェルズ(Royal Tunbridge Wells → 2023年6月18日付ブログで紹介済)近くにある「仮面荘(Mask House)」と呼ばれるワルドミア荘(Waldemere - 美術評論家 / 名画蒐集家である富豪のドワイト・スタンホープ(Dwight Stanhope)の別邸)が、事件の舞台となる。

東京創元社から、創元推理文庫の一冊として出版されている
カーター・ディクスン作「仮面荘の怪事件」の表紙
(カバー : 村山 潤一) -
「仮面荘」と呼ばれる富豪ドワイト・スタンホープの
別邸ワルドミア荘内に陳列されている名画を盗むために
侵入した覆面の泥棒が描かれている。

ワルドミア荘は、元々、ヴィクトリア朝時代の女優であるフレヴィア・ヴェナー(Flavia Venner - 架空の人物)が建てたもので、屋敷内には小劇場が設けられていた。そして、その小劇場で、戯曲「サロメ(Salome)」の上演中に、彼女は急死していた。

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
オスカー・ワイルドの写真の葉書
(Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card
305 mm x 184 mm) 

戯曲「サロメ(Salome)」は、アイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、シャーロック・ホームズシリーズの作者サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)の友人でもあったオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)による一幕物の悲劇で、新約聖書を元にしている。

オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」の英訳版に付されている
オードリー・ビアズリーによる挿画(その4)

ユダヤの王(Tetrarch of Judea)であるヘロデ・アンティパス(Herod Antipas - 以下、ヘロデ王)は、自分の兄である前王を殺害の上、前王の妃であるヘロディアス(Herodias)を奪い、今の座に就いていた。その一方で、ヘロデ王は、前王とヘロディアスの娘(Daugther of Herodias)である王女(Princess of Judea)サロメ(Salome)に魅了されており、なんとか自分のものにしようとする。

ヘロデ王が自分に向けるいやらしい視線のため、サロメは、その場に居た堪れなくなり、宴の席を離れると、井戸へと向かう。井戸には、不吉な言葉を喚き散らす預言者(Prophet)であるヨカナーン(Jokanaan)が幽閉されていた。

エロドの命により、ヨカナーンとの接触は禁じられていたが、サロメは、ヨカナーンの見張り番をしていたシリアの青年(The Young Syrian, Captain of the Guard)を色仕掛けで籠絡して、ヨカナーンとの接触を果たす。

ヨカナーンの姿を見たサロメは、彼に対して恋心を抱くが、ヨカナーンの方は、彼女の忌まわしい生い立ちを詰るばかりで、彼女の愛を受け入れなかった。自分の求愛を拒まれてしまったサロメは、ヨカナーンに対して、「必ずあなたに口付けをする。」と固く誓ったのだった。


オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」の英訳版に付されている
オードリー・ビアズリーによる挿画(その5)

宴の席に戻ったサロメに対して、ヘロデ王は、踊りを披露するよう、しつこく求めた。更に、ヘロデ王はサロメに「踊りを披露すれば、望むものを何でも褒美として与える。」と約束する。

ヘロデ王の約束を得たサロメは、皆の前で「7つのヴェールの踊り(Dance of the Seven Veils)」の踊りを披露すると、ヘロデ王に対して、ヨカナーンの首を所望した。


預言者であるヨカナーンの力を恐るヘロデ王は、サロメの申し出を断るものの、残念がら、サロメは一切聞き入れなかった。

サロメの説得を諦めたヘロデ王は、ヨカナーンの首をサロメに与えることにする。ヨカナーンの首が銀の皿にのせられ運ばれてくると、サロメは、ヨカナーンの唇に接吻して、彼への愛を語り始めた。


そんなサロメを見たヘロデ王は、兵士に命じて、彼女を殺させるのであった。


オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」の英訳版に付されている
オードリー・ビアズリーによる挿画(その6

戯曲「サロメ」は、1891年にフランス語で執筆されて、1893年にパリで出版された後、1896年にパリで上演された。

同戯曲の英訳版は、1894年に出版されているが、英国では、内容の背徳性を踏まえて、上演禁止令が出されたため、1931年まで上演が叶わなかった。


2026年3月11日水曜日

オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」(Salome by Oscar Wilde)- その1

オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」の英訳版に付されている
オードリー・ビアズリーによる挿画(その1)- タイトルページ


米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、カーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で、1942年に発表したヘンリー・メルヴェール卿(Sir Henry Merrivale)を探偵役とするシリーズ長編第13作目に該る仮面荘の怪事件(東京創元社)/ メッキの神像(早川書房)(The Gilded Man → 2026年2月23日 / 3月10日付ブログで紹介済)」の場合、ケント州(Kent)のロイヤルタンブリッジウェルズ(Royal Tunbridge Wells → 2023年6月18日付ブログで紹介済)近くにある「仮面荘(Mask House)」と呼ばれるワルドミア荘(Waldemere - 美術評論家 / 名画蒐集家である富豪のドワイト・スタンホープ(Dwight Stanhope)の別邸)が、事件の舞台となる。


東京創元社から、創元推理文庫の一冊として出版されている
カーター・ディクスン作「仮面荘の怪事件」の表紙
(カバー : 村山 潤一) -
「仮面荘」と呼ばれる富豪ドワイト・スタンホープの
別邸ワルドミア荘内に陳列されている名画を盗むために
侵入した覆面の泥棒が描かれている。


ワルドミア荘は、元々、ヴィクトリア朝時代の女優であるフレヴィア・ヴェナー(Flavia Venner - 架空の人物)が建てたもので、屋敷内には小劇場が設けられていた。


オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」の英訳版のための
オードリー・ビアズリーによるカバーデザイン


彼女(ベティー・スタンホープ(Betty  Stanhope)- ドワイト・スタンホープと後妻のクリスタベル(Christabel / 元女優)の娘)はじみな黒の夜会服に宝石もつけていない姿で個人劇場の中央に立ち、すべてがきちんとしているのを見て満足したようにひとりでうなずいた。

「とにかく、バーがあるんですから、何かお飲みになりません?」ベティが微笑した。

「ありがとう」

ベティはカウンターのはね板をあげ、仕切りの中へ滑りこんだ。バーの上方にある円錐形の電灯はこの薄暗い部屋でいちばんあかるい照明だったが、その光が金色を帯びた褐色の髪を照らしだした。ニック(ニコラス・ウッド(Nicholas Wood - スコットランドヤード犯罪捜査部(C. I. D.)の警部)はカウンターの下の壁に彫り込んだ<F・V>という金色の頭文字をしげしげと眺めた。

「<フレヴィア・ヴェナー>か。彼女はここで死んだといわれるのですね?」 

「ええ。<サロメ>の上演中に急死しましたの」

「<サロメ>ですって?」

「そうですわ。あれは彼女のために特に書かれた劇で、作者は -」とベティはヴィクトリア時代のある詩人の名をあげた。その名前は、当人が埋葬されているウェストミンスター大寺院と同じように有名なものだった。

<厚木 淳訳>


米国ニューヨークに所在する
Hartsdale House Publishers から出版された
オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」の表紙


戯曲「サロメ(Salome)」は、アイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、シャーロック・ホームズシリーズの作者サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)の友人でもあったオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)による一幕物の悲劇で、新約聖書を元にしている。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
オスカー・ワイルドの写真の葉書
(Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card
305 mm x 184 mm) 


戯曲「サロメ」は、1891年にフランス語で執筆されて、1893年にパリで出版された。

同戯曲の英訳版は、1894年に出版されているが、当時、オスカー・ワイルドの同性の恋人だった第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ショルト・ダグラス(John Sholto Douglas, 9th Marquess of Queensberry:1844年ー1900年)の三男で、作家 / 詩人 / 翻訳家のロード・アルフレッド・ブルース・ダグラス(Lord Alfred Bruce Douglas:1870年ー1945年)が英訳を行ったものの、出来が悪かったため、オスカー・ワイルド自身が、その英訳を修正している。同戯曲の英訳版には、英国のイラストレーター / 詩人 / 小説家であるオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)による挿画が使用されている。


オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」の英訳版に付されている
オードリー・ビアズリーによる挿画(その2)


オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」は、1896年にパリで上演されたが、英国では、内容の背徳性を踏まえて、上演禁止令が出されたため、1931年まで上演が叶わなかった。