2026年8月25日火曜日

ロンドン ケンサルグリーン墓地(Kensal Green Cemetery)- その3

ケンサルグリーン墓地内にある
英国の小説家 / 推理作家 / 劇作家ウィリアム・ウィルキー・コリンズの墓(その1)
<筆者撮影>

ケンサルグリーン墓地(Kensal Green Cemetery → 2023年12月15日付ブログで紹介済)の場合、その大部分がロンドンの特別区の一つであるケンジント&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のノースケンジントン地区(North Kensington)の北端ケンサルグリーン(Kensal Green)内にあり、西側の一部がロンドンの特別区の一つであるハマースミス&フラム区(London Borough of Hammersmith and Fulham)内にある。

ケンサルグリーン墓地は、北側のハーロウロード(Harrow Road)と南側のグランドユニオンカナル(Grand Union Canal)と言う運河に挟まれたエリア内にある広大な共同墓地(約29ヘクタール)である。


ケンサルグリーン墓地内にある
英国の小説家 / 推理作家 / 劇作家ウィリアム・ウィルキー・コリンズの墓(その2)
<筆者撮影>


ケンサルグリーン墓地は、英国の弁護士、雑誌編集者で、実業家でもあったジョージ・フレデリック・カーデン(George Frederick Carden:1798年ー1874年)が出資者となり、1833年にオープンした。


ケンサルグリーン墓地内にある
英国の小説家 / 推理作家 / 劇作家ウィリアム・ウィルキー・コリンズの墓(その3)
<筆者撮影>


ケンサルグリーン墓地は、ハイゲイト墓地(Highgate Cemetery → 2018年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)やブロンプトン墓地(Brompton Cemetery → 2015年9月6日付ブログで紹介済)と同じように、ロンドンの「7大墓地(Magnificent Seven)」の一つであるが、7大墓地の中で、一番最初に出来た共同墓地である。


英国の The Orion Publishing Group Ltd. より2021年に発売された
ジグソーパズル「
チャールズ・ディケンズの世界(The World of Charles Dickens)」における
画面中央の男性(右手に原稿の束を、左手に羽根ペンを持った男性)が、
英国の小説家 / 推理作家 / 劇作家であるウィリアム・ウィルキー・コリンズである。
<筆者撮影>


推理小説「月長石(The Monnstone → 2022年9月30日付ブログで紹介済)」(1868年)の作者として有名なウィリアム・ウィルキー・コリンズ(William Wilkie Collins:1824年ー1889年)は、ヴィクトリア朝時代(1837年-1901年)に活躍した英国の小説家 / 推理作家 / 劇作家で、ケンサルグリーン墓地内に彼の墓もある。

「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ケンサルグリーン墓地周辺の地図を抜粋。-
英国の小説家 / 推理作家 / 劇作家ウィリアム・ウィルキー・コリンズの墓は、
画面左上の ⚫️ マークの辺りにある。


彼は、1824年にロイヤルアカデミー(Royal Academy)に所属する高名な風景画家であるウィリアム・コリンズ(William Collins)の長男としてロンドン(ニューキャヴェンディッシュストリート11番地(11 New Cavendish Street)→ 2022年9月7日付ブログで紹介済)に出生し、父親の名前に因んで、ウィリアム・ウィルキー・コリンズと名付けられるが、名付け親(godfather)であるデイヴィッド・ウィルキー(David Wilkie)からもらったミドルネームを用いて、ウィルキー・コリンズと呼ばれるようになった。


ウィリアム・ウィルキーコリンズが生まれた
ニューキャヴェンディッシュストリート11番地に該当する建物 -
地上界には、マリルボーン図書館(Marylebone Library)が入居しており、
上階は、フラットになっている。
<筆者撮影>


彼の出生後、彼の両親がロンドン市内で何度も引っ越しをしたため、1828年に生まれた4歳下の弟チャールズ・オールストン・コリンズ(Charles Allston Collins)と一緒に、彼らの母親から自宅で初期教育を受けた。また、彼の両親は宗教的に厳格だったため、自分達の子供達に教会への参列を強制したが、彼自身は嫌だったようである。

1836年から1838年に架けて、彼は、家族とともに、イタリア、そして、フランスに移住し、そこでイタリア語とフランス語を学ぶ。

欧州から英国に戻ったウィルキー・コリンズは、私立学校に入学するが、そこでいじめに遭う。就寝前に、いじめっ子から必ず一つ物語を話すように強制された彼は、次第に物語を創作することに喜びを見出していく。


Alma Books Ltd. から
Alma Classics シリーズの一つとして2018年に出版されている
ウィルキー・コリンズ作「フローズンディープ」の表紙
(Cover design by nathanburtondesign.com) 


1840年、17歳の時、彼は父親の友人が営む紅茶商へ見習いとして入る。彼は見習いの仕事を嫌っていたが、最終的に、そこで5年間働き通した。

父親は彼を牧師にしようとしたが、父親の宗教的な几帳面さや保守的な考えに反発する彼が全く興味を示さないため、諦める。そして、1846年、安定的な収入を願った父親のために、彼はリンカーン法曹院(Lincoln’s Inn → 2017年3月19日付ブログで紹介済)に入り、法学を学び始めた。

しかしながら、彼は紅茶商の見習いとして働いているときも、また、リンカーン法曹院で法学を学んでいる時も、残りの大部分の時間を小説の執筆に費やしていたのである。

1847年に父親が死去すると、ウィルキー・コリンズは「父ウィリアム・コリンズの回想録(Memoirs of the Life of William Collins, Esq., R.A.)」を出版する。これが、彼の処女作に該る。

途中、画家を目指したこともあったが、1850年に彼は処女小説「アントニナ(Antonina)」を発表して、本格的に作家としての道を歩み始める。

その後、彼は法学を修めたものの、実際に法律家として活動したことはないが、後に発表する小説の中で、彼はその時に学んだ法律の知識を活かすことになる。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)で販売されている
チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズの写真の葉書
(by George Herbert Watkins / albumen print, arched top / 1858年 / 190 mm x 152 mm) -
チャールズ・ディケンズは、英国のヴィクトリア朝時代を代表する小説家で、
「クリスマスキャロル」、「大いなる遺産」、「オリヴァーツイスト」や
「二都物語」等で有名。


1851年3月、ウィルキー・コリンズは、共通の友人(画家)の紹介で、彼と同じくヴィクトリア朝時代(1837年-1901年)を代表する英国の小説家であるチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens:1812年ー1870年)と知り合う。

彼は、チャールズ・ディケンズが出版する雑誌「暮らしの言葉(Household Works)」に定期的に寄稿したり、また、チャールズ・ディケンズや共通の友人達と一緒に、フランス、スイスやイタリアを旅行したりして、親交を深め、二人は生涯にわたる親友かつ協力者となった。

ちょうど、この頃、痛風(関節炎)の最初の発作がウィルキー・コリンズを襲い、鎮痛剤として服用した阿片チンキに次第に耽溺するようになり、この悪癖が彼の晩年を苦しめることになる。


Penguin Random House の
Vintage Classics シリーズの一つとして、
2015年に出版されている
ウィルキー・コリンズ作「呪われたホテル(The Haunted Hotel)」の表紙
(Cover design : Telegramme)-
物語の舞台として、前半は英国で、
後半はイタリアのヴェネツィア(Venice)である。


1860年代に入ると、ウィルキー・コリンズは、最盛期を迎える。彼の代表作と言われる以下の4作品は、この年代に集中している。


(1)「白衣の女(The Woman in White)」(1860年) → 1859年11月から1860年8月まで雑誌に連載され、連載後直ぐに出版されて、1860年11月までに第8版まで重ね、大ヒットとなった。

(2)「ノーネーム(No Name)」(1862年) → 1862年から1863年にかけて、雑誌に連載。

(3)「アーマデイル(Armadale)」(1866年) → 1864年から1866年にかけて、雑誌に連載。

(4)「月長石(→ 2022年9月30日 / 10月13日付ブログで紹介済)」(1868年) → 1868年1月から同年8月にかけて、雑誌に連載。英国の詩人 / 劇作家 / 文芸評論家であるトマス・スターンズ・エリオット(Thomas Stearns Eliot:1888年-1965年)は、この作品を「最初の最大にして最良の推理小説」と絶賛している。


ただし、その名声の裏で、彼の阿片チンキへの傾斜は、遥かに悪化の状況を辿っていたのである。


Penguin Books Ltd. から
Penguin Classics シリーズの一つとして1998年に出版されている
ウィルキー・コリンズ作「月長石」の表紙
(Cover design : Detail from Moonrise by the Sea (1822)
by Caspar David Friedrich
in the Nationalgalerie Berlin
Photo : Staatliche Museen zu Berlin Preussischer Kulturbesitz /
Jorg P. Anders ) 


ウィルキー・コリンズは、結婚という形態に批判的であり、生涯結婚はしなかったが、1850年代に出会ったキャロライン・グレーヴス(Caroline Graves)という未亡人の女性と、(彼が全く結婚に同意しないため、彼女が別の男性と結婚していた2年間(1868年ー1870年)を除いて、)彼が1889年に亡くなるまで同居して、彼女の連れ子(ハリエット(Harriet))を自分の娘として育てた。ウィルキー・コリンズがキャロライン・グレーヴス達と一緒に同居していた家が、グロースタープレイス65番地(65 Gloucester Place → 2022年9月14日付ブログで紹介済)にある。


ウィリアム・ウィルキーコリンズが、
キャロライン・グレーヴスや彼女の連れ子と一緒に同居していた
グロースタープレイス65番地の建物を正面から見たところ
<筆者撮影>


その一方で、彼は、1868年に知り合った19歳年下の女性マーサ・ルッド(Martha Rudd)との間に、3人の私生児(娘2人+息子1人)を設け、自分の家の近くに住まわせ、援助を行った。

こういった二重生活を亡くなるまでの20年間近く続けたため、晩年、彼は当時の社交界から追放されるという憂き目に会った。


ウィリアム・ウィルキー・コリンズが亡くなった
ウィンポールストリート82番地
の建物を正面から見たところ
<筆者撮影>


そして、1889年9月23日、ウィンポールストリート82番地(82 Wimpole Street → 2022年9月16日付ブログで紹介済)において、ウィルキー・コリンズは65歳で亡くなり、ケンサルグリーン墓地に葬られた。キャロライン・グレーヴスは、1895年に亡くなり、彼と一緒の墓に入った。また、マーサ・ルッドは、1919年に亡くなっている。


アルマプレイスにあるウェストゲイト(その1)
<筆者撮影>


ケンサルグリーン墓地には、2つの出入口があり、東側は、ハーロウロードとラドブロークグローヴ通り(Ladbroke Grove)が交差する辺りにあり、こちらがメインゲイト(Main (East) Gate)となっている。


アルマプレイスにあるウェストゲイト(その2)
<筆者撮影>


一方、西側は、ケンサルグリーン駅(Kensal Green Station)を出て、ハーロウロード沿いに少し西へ進んだところにあるアルマプレイス(Alma Place)から、墓地内へ入ることができ、こちらがウェストゲイト(West Gate)となっている。


ケンサルグリーン墓地の中央に建つ英国国教徒用の礼拝堂 -
地下にカタコンベがあるが、第二次世界大戦(1939年−1945年)中に空爆を受ける等、
老朽化が激しく、現在は立ち入り禁止となっている。
<筆者撮影>

ウィリアム・ウィルキー・コリンズの墓の前から北方面を見たところ
<筆者撮影>

ウィリアム・ウィルキー・コリンズの墓の前から南方面を見たところ
<筆者撮影>


ウィルキー・コリンズの墓は、ウェストゲイト側からケンサルグリーン墓地へと入り、真っ直ぐに南下して、ウェストセンターアヴェニュー(West Center Avenue)に至ったところで左折。ケンサルグリーン墓地の中央に建つ英国国教徒用の礼拝堂(Anglican Chapel)へと向かって、ウェストセンターアヴェニューを東進。英国国教徒用の礼拝堂の手間で左折して、小道へ入り。北進した左手側に、ウィルキー・コリンズの墓がある。


2026年8月24日月曜日

ロンドン市内にあるヘンリー・スペンサー・ムーア彫刻作品(Sculptures by Henry Spencer Moore in London)- その2

ハムステッドヒース内に設置されている
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Two Piece Reclining Figure No. 5」を正面から見たところ
<筆者撮影>

ロンドンの特別区の一つであるワンズワース区(London Borough of Wandsworth)バタシー地区(Battersea)のバタシーパーク(Battersea Park → 2016年7月10日付ブログで紹介済)内には、英国の芸術家 / 彫刻家で、英国コンウォール州(Cornwall)にあるセントアイヴス(St. Ives)に住む芸術家のコミュニティーにおいて、主導的な役割を果たした人物であるジョスリン・バーバラ・ヘップワース(JocelynBarbara Hepworth:1903年ー1975年 → 2024年10月1日 / 10月31日 / 11月2日付ブログで紹介済)による彫刻作品「Single Form(→ 2026年5月5日付ブログで紹介済)」(1961年−1962年)の他に、20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーア(Henry Spencer Moore:1898年ー1986年)による彫刻作品「Three Standing Figures(→ 2026年5月11日付ブログで紹介済)」(1948年)も設置されている。

バタシーパーク内に設置されている
バーバラ・ヘップワース作「Single Form」を正面から見たところ
<筆者撮影>

バーバラ・ヘップワース作「Single Form」の右下に設置された説明板
<筆者撮影>

バタシーパーク内に設置されている
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Three Standing Figures」を正面から見たところ
<筆者撮影>

ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Three Standing Figures」の台座部分
<筆者撮影>

ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)ハムステッド地区(Hampstead → 2018年8月26日付ブログで紹介済)のハムステッドヒース(Hampstead Heath → 2015年4月25日付ブログで紹介済)内にも、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースによる彫刻作品「天空の石柱(Monolith-Empyrean = Heavenly Stone(→ 2024年11月11日付ブログで紹介済)」(1953年)に加えて、ヘンリー・スペンサー・ムーアによる彫刻作品が設置されているので、今回、紹介したい。

ハムステッドヒース内に設置されている
バーバラ・ヘップワース作「天空の石柱」を正面から見たところ
<筆者撮影>

ーバラ・ヘップワース作「天空の石柱の背後に設置された説明板
<筆者撮影>

地下鉄ノーザンライン(Northern Line)が通る地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)の前を通り、ヒースストリート(Heath Street)を北上。

ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Two Piece Reclining Figure No. 5」の台座部分
<筆者撮影>

ハムステッドヒース内に設置されている
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Two Piece Reclining Figure No. 5」を右斜め前から見たところ
<筆者撮影>

ハムステッドヒース内に設置されている
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Two Piece Reclining Figure No. 5」を左斜め前から見たところ
<筆者撮影>

ヒースストリートは、地下鉄ゴルダースグリーン駅(Golders Green Tube Station)方面へと向かうノースエンドウェイ(North End Way)とハムステッドヒース(Hampstead Heath → 2015年4月25日付ブログで紹介済)沿いを通るスパニアーズロード(Spaniards Road)の2つに分岐する。

ハムステッドヒースの周辺地図(Google Maps から抜粋)-
画面中央から少し下の部分に、
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Two Piece Reclining Figure No. 5」が建っている。

ケンウッドハウス前の芝生は、
(1)ロンドン内の猛暑により、また、
(2)水節制のための芝生への水撒き禁止により、
ほとんど枯れてしまっている。
<筆者撮影>

ウッド池周辺の植物は、
ロンドン内の猛暑による影響もなく、
緑を保っている。
<筆者撮影>

ハムステッドレーン(Hampstead Lane)へと名前を変えるスパニアーズロードを右折して、ケンウッドハウス駐車場(Kenwood Hose Car Park)を通り、ケンウッドハウス(Kenwood House → 2018年9月23日付ブログで紹介済)へと向かうと、ケンウッドハウスが建つ場所の横の芝生の上に、ジョスリン・バーバラ・ヘップワース作「天空の石柱」が設置されている。

ハムステッドヒース内に設置されている
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Two Piece Reclining Figure No. 5」を右斜め後ろから見たところ
<筆者撮影>

ハムステッドヒース内に設置されている
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Two Piece Reclining Figure No. 5」を左斜め後ろから見たところ
<筆者撮影>

ジョスリン・バーバラ・ヘップワース作「天空の石柱」からウッド池(Wood Pond)へと向かって、ハムステッドヒースをを下って行くと、そこにヘンリー・スペンサー・ムーアによる彫刻作品「Two Piece Reclining Figure No. 5」(1963年−1964年)が設置されていて、眼下に見えるハムステッドヒースの眺望を独り占めしている。

          

2026年8月23日日曜日

ロンドン 地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station)- その2

ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)の地下にある
地下鉄ピカデリーサーカス駅の円形コンコースへ降りて行く階段

<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の長編第2作目で、かつ、トマス・ベレズフォード(Thomas Beresford - 愛称:トミー(Tommy))とプルーデンス・カウリー(Prudence Cowley - 愛称:タペンス(Tuppence))の記念すべきシリーズ第1作目に該る「秘密機関(The Secret Adversary → 2025年7月20日 / 10月1日付ブログで紹介済)」(1922年)は、英国の海運会社であるキュナードライン(Cunard Line)が所有する当時世界最大の旅客船で、米国ニューヨーク(New York)から英国リヴァプール(Liverpool)へと向かっていたルシタニア号(RMS Lusitania → 2025年7月22日 / 7月23日付ブログで紹介済)が、1915年5月7日の午後2時、アイルランド(Ireland)沖15㎞ の地点で、ドイツ帝国海軍(Imperial Germany Navy)の潜水艦 Uボート(U-boat)から2発の魚雷攻撃を受けて、沈没したところから、その物語が始まる。


2015年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「秘密機関」の
ペーパーバック版の表紙
(Cover design : 
HarperCollinsPublishers Ltd. /
Agatha Christie Ltd. 2015
)


第一次世界大戦(1914年ー1918年)が終わり、世界が復興へと向かう中、ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅(Dover Street Tube Station → 2025年7月30日 / 8月5日付ブログで紹介済)のドーヴァーストリート(Dover Street → 2025年7月28日 / 7月29日付ブログで紹介済)出口において、昔馴染みのトミーとタペンスは、偶然出くわした。


HarperCollins Publishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「秘密機関」のグラフィックノベル版
(→ 2023年8月1日 / 8月14日 / 8月16日 / 8月21日付ブログで紹介済)
-
第一次世界大戦後、タペンスこと、プルーデンス・カウリーと
トミーこと、トマス・ベレズフォードの2人は、
ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅のドーヴァーストリート出口において、数年ぶりに再会する。


ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅のドーヴァーストリート出口があった
ドーヴァーストリート5−7番地(5-7 Dover Street
→ 2025年8月5日付ブログで紹介済)の建物外観
<筆者撮影>


二人は、お互いに戦後の就職難に悩まされていた。トミーの方は、大戦中の1916年に負傷しており、一方、タペンスの方は、大戦中ずーっと、ボランティアとして、様々な形で働いていたのである。

久々の再会を果たしたトミーとタペンスの2人は、自分達で「青年冒険家商会(The Young Adventurers, Ltd.)」を設立して、報酬を獲得するべく、話し合った。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ソーホー地区の地図を抜粋。



そして、トミーとタペンスの2人が翌日の昼12時に会う約束をした地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station)は、ロンドンの中心部にあるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)内のソーホー地区(Soho)とセントジェイムズ地区(St. James’s)の境界線近辺に所在する駅で、ベイカールーライン(Bakerloo Line)とピカデリーライン(Piccadilly Line)の2線が乗り入れている。


地下鉄ピカデリーサーカス駅の
ベイカールーラインが停まるプラットフォームの壁にある駅表示
<筆者撮影>


地下鉄ピカデリーサーカス駅の場合、ロンドン内の地下鉄の駅を数多く設計した英国の建築家であるレスリー・ウィリアム・グリーン(Leslie William Green:1875年ー1908年)による設計に基づき、オックスブラッド色(oxblood)のタイルが象徴的な地上駅舎が建設され、1906年3月10日にオープンし、現在のベイカールーラインに該る Baker Street and Waterloo Railway の運行が開始。

現在のピカデリーラインに該る Great Northern, Piccadilly and Brompton Railway の運行は、それに遅れること、約9ヶ月後の同年12月15日に始まった。


地下鉄ピカデリーサーカス駅のベイカールーラインが停まるプラットフォーム
<筆者撮影>

地下鉄ピカデリーサーカス駅の利用客数は、第一次世界大戦前の1907年の場合、年間150万人だったが、第一次世界大戦後の1922年には、1800万人まで急増。

利用客数の急増に対応すべく、英国の建築家であるチャールズ・ヘンリー・ホールデン(Charles Henry Holden:1875年ー1960年)による設計に基づく大規模な地下改築が1925年2月に始まり、1928年に竣工、現在のアール・デコ様式の円形地下コンコースが完成した。オープン当初の低速エレベーターは、11機の最新式エスカレーターへ置き換えられた。

なお、チャールズ・ヘンリー・ホールデンは、ロンドン大学(University of London)内に建つセナトハウス(Senate House → 2017年1月15日付ブログで紹介済)を設計したことでも有名である。


ピカデリーサーカスの地下にある
地下鉄ピカデリーサーカス駅の改札口

<筆者撮影>


チャールズ・ヘンリー・ホールデン設計による円形地下コンコースが完成したことに伴い、レスリー・ウィリアム・グリーン設計による地上駅舎は不要となり、1929年7月21日に閉鎖。その後、周辺ビルの再開発に合わせて、1980年代に取り壊された。


地下鉄ピカデリーサーカス駅は、1984年に「二級建築文化財(Grade II listed buildings)」に指定されている。 


2026年8月22日土曜日

ロンドン ケンサルグリーン墓地(Kensal Green Cemetery)- その2

ケンサルグリーン墓地内にある
英国の画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの墓(その1)
<筆者撮影>

ケンサルグリーン墓地(Kensal Green Cemetery → 2023年12月15日付ブログで紹介済)の場合、その大部分がロンドンの特別区の一つであるケンジント&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のノースケンジントン地区(North Kensington)の北端ケンサルグリーン(Kensal Green)内にあり、西側の一部がロンドンの特別区の一つであるハマースミス&フラム区(London Borough of Hammersmith and Fulham)内にある。

ケンサルグリーン墓地は、北側のハーロウロード(Harrow Road)と南側のグランドユニオンカナル(Grand Union Canal)と言う運河に挟まれたエリア内にある広大な共同墓地(約29ヘクタール)である。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ケンサルグリーン墓地周辺の地図を抜粋。-
英国の画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの墓は、
画面左下の▲マークの辺りにある。


ケンサルグリーン墓地は、英国の弁護士、雑誌編集者で、実業家でもあったジョージ・フレデリック・カーデン(George Frederick Carden:1798年ー1874年)が出資者となり、1833年にオープンした。

ケンサルグリーン墓地は、ハイゲイト墓地(Highgate Cemetery → 2018年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)やブロンプトン墓地(Brompton Cemetery → 2015年9月6日付ブログで紹介済)と同じように、ロンドンの「7大墓地(Magnificent Seven)」の一つであるが、7大墓地の中で、一番最初に出来た共同墓地である。


英国の Harper Collins Publishers 社から出版されている
アガサ・クリスティー作ミス・マープルシリーズ
「鏡は横にひび割れて」のペーパーバック版の表紙
<イラスト:ビル・ブラッグ氏(Mr. Bill Bragg)>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1962年に発表したミス・マープルシリーズ作品の長編第8作目「鏡は横にひび割れて(Mirror Crack’d from Side to Side)」の題名は、ヴィクトリア朝時代に活躍した英国の詩人である初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson:1809年ー1892年)による詩「シャロット姫(The Lady of Shalott → 2024年9月27日付ブログで紹介済)」をベースにしている。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)で展示されている
アルフレッド・テニスンの肖像画
(By George Frederic Watts / Oil on canvas / 1863年ー1864年頃
<筆者撮影>


Out flew the web and floated wide -

The mirror crack’d from side to side;

“The curse is come upon me,” cried

The Lady of Shalott.


織物はとびちり、ひろがれり

鏡は横にひび割れぬ

「ああ、呪いがわが身に」と、

シャロット姫は叫べり。

(橋本福夫訳)


横にひび割れた鏡 -
ジグソーパズル「アガサ・クリスティーの世界(The World of Agatha Christie)」の一部
<筆者撮影>


英国の画家であるジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse:1849年ー1917年)が、初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンによる詩「シャロット姫」におけるクライマックスの場面を、1888年に「シャロット姫(The Lady of Shalott → 2024年9月28日付ブログで紹介済)」として描いている。


テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)で購入した
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作「シャロット姫」(1888年)の絵葉書
(Oil paint on canvas / 153 cm x 200 cm / Presented by Sir Henry Tate in 1894)


ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、1849年4月6日、画家の両親であるウィリアム・ウォーターハウス(William Waterhouse)とイザベラ・ウォーターハウス(Isabella Waterhouse)の子として、ローマ(Rome)に出生。

彼が5歳の時(1854年)、ウォーターハウス一家は、英国へと戻り、当時設立されて間もないヴィクトリア&アルバート美術館(Victoria and Albert Museum)に近い、ロンドンのサウスケンジントン地区(South Kensington)に住む。

少年期、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、画家である父ウィリアムの元で絵画を学び、1871年に英国王立美術院(Royal Academy)に入学した後、彫刻、その後、絵画を学んだ。


ケンサルグリーン墓地内にある
英国の画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの墓(その2)
<筆者撮影>


1874年、25歳になったジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、寓意画「眠りと異母兄弟の死(Sleep and his Half-brother Death)」を英国王立美術院の夏の展示会において発表して、好評を得る。

これにより、彼は、以降、1890年と1915年の2回を除き、1917年に死去するまでの毎年、英国王立美術院の展示会へ招かれた。


ケンサルグリーン墓地内にある
英国の画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの墓(その3)
<筆者撮影>


1883年、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、ロンドンのイーリング(Ealing)に住む美術教師の娘であるエステル・ケンワージー(Esther Kenworthy:1857年ー1944年)と結婚。エステル・ケンワージー自身も、絵画を英国王立美術院の展覧会等に出品している。

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスが、初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンによる詩「シャロット姫」におけるクライマックスの場面を、「シャロット姫」として描いていたのは、1888年である。


ケンサルグリーン墓地内にある
英国の画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの墓(その4)
<筆者撮影>


1895年に、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、英国王立美術院の最高芸術院会員(full Academician)へと選出される。

彼は、セントジョンズウッド美術学校(St. John’s Wood Art School)で教鞭を執り、セントジョンズウッド芸術クラブ(St. John’s Wood Arts Club)にも参加。

その後、彼は、英国王立美術院評議会(Royal Academy Council)にも所属。


ケンサルグリーン墓地内にある
英国の画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの墓(その5)
<筆者撮影>


ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、1915年頃には癌に侵され、それでも絵を描き続けたが、2年後の1917年2月10日に死去、享年67歳だった。

彼の遺体は、ケンサルグリーン墓地に葬られた。 


アルマプレイスにあるウェストゲイト(その1)
<筆者撮影>


ケンサルグリーン墓地には、2つの出入口があり、東側は、ハーロウロードとラドブロークグローヴ通り(Ladbroke Grove)が交差する辺りにあり、こちらがメインゲイト(Main (East) Gate)となっている。

一方、西側は、ケンサルグリーン駅(Kensal Green Station)を出て、ハーロウロード沿いに少し西へ進んだところにあるアルマプレイス(Alma Place)から、墓地内へ入ることができ、こちらがウェストゲイト(West Gate)となっている。


アルマプレイスにあるウェストゲイト(その2)
<筆者撮影>


ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの墓は、ウェストゲイト側からケンサルグリーン墓地へと入り、真っ直ぐに南下して、グランドユニオンカナルの近くまで近付いた辺りに所在している。