2026年6月2日火曜日

ロンドン リージェンツパーク野外劇場(Regent’s Park Open Air Theatre)

リージェンツパーク野外劇場の入口
<筆者撮影>


英国の劇作家であるジョエル・ホーウッド(Joel Horwood)作の舞台劇「シャーロック・ホームズ(Sherlock Holmes → 2026年5月24日 / 5月29日付ブログで紹介済)」が、5月2日(土)から6月6日(日)までの1ヶ月強の間、ロンドンのリージェンツパーク(Regent’s Park → 2016年11月19日付ブログで紹介済)内にある庭園「メアリー女王の庭園(Queen Mary’s Gardens → 2026年5月4日 / 5月10日 / 5月15日付ブログで紹介済)」内に所在する野外劇場(Open Air Theatre)において上演されている。


リージェンツパーク野外劇場において販売されている
舞台劇「シャーロック・ホームズ」の絵葉書


リージェンツパークの案内板 -
円形の「メアリー女王の庭園」は、
リージェンツパークの南端近くで、
ボート遊び用湖(Boating Lake → 2025年7月12日付ブログで紹介済)の東側に位置している。
<筆者撮影>

「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
リージェンツパークとその周辺の地図を抜粋。


リージェンツパーク野外劇場は1932年に開設され、イングランドの劇作家 / 詩人であるウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare:1564年ー1616年 → 2023年5月19日付ブログで紹介済)作の喜劇「十二夜(Twelfth Night, or What You Will → 2023年6月9日付ブログで紹介済)」(1601年 / 1602年頃)が上演された。



ジグソーパズル「シェイクスピアの世界(The World of Shakespeare)」において、
グローブ座(Globe Theatre → 2023年5月8日付ブログで紹介済)の

右側に建っている居酒屋(tavern)の前で、
オリヴィアの叔父であるサー・トビー・ベルチ(Sir Toby Belch:画面右側の人物)と
彼の友人であるサー・アンドリュー・エイギュチーク(Sir Andrew Aguecheek:画面左側の人物)の2人が
酒を飲み交わしている。
なお、彼らの背後には、悲劇「オセロ(Othello → 2023年6月3日付ブログで紹介済)」に登場する
イアーゴー(Iago)、オセロー(Othello)、キャシオー(Cassio)、
そして、デズデモーナ(Desdemona)の4人が、画面左側から並んで立っている。
<筆者撮影>


ジグソーパズル「シェイクスピアの世界」において、
テムズ河(River Thames)に架かるロンドン橋(London Bridge)の
南岸側にある入口の左脇に置かれた樽の上に、
オリヴィア(Olivia)の執事であるマルヴォーリオ(Malvolio)が座っている。
<筆者撮影>


1933年から、リージェンツパーク野外劇場におけるフルシーズン上演が始まり、前年の「十二夜」が再演された他、ウィリアム・シェイクスピア作の喜劇「真夏の夜の夢(A Midsummer Night’s Dream → 2023年5月9日 / 5月11日付ブログで紹介済)」(1595年ー1596年)が初演された。


ジグソーパズル「シェイクスピアの世界」 の左上の部分にある森深くに、
2組のカップルが描かれている。
おそらく、左側のカップルがハーミア(Hermia:左側の女性)とライサンダー(Lysander:右側の男性)で、
右側のカップルがディミートリアス(Demetrius:左側の男性)とヘレナ(Helena:右側の女性)と思われる。
<筆者撮影>


ジグソーパズル「シェイクスピアの世界」の左上の部分にある森深くに、
2組のカップル
(ハーミアとライサンダー、そして、ディミートリアス
とヘレナ)が居るが、
彼らの頭上に生えている樹木の上に、
悪戯好きの妖精であるパック(Puck)が描かれている。
<筆者撮影>


ジグソーパズル「シェイクスピアの世界」の左下の部分に、「グローブ座(The Globe)」が描かれているが、
その舞台上に、「真夏の夜の夢」の登場人物が、姿を見せている。
上段の右側の人物が、妖精の王であるオーベロン(Oberon)で、
上段の左側の人物が、妖精の女王であるティターニア(Titania)。
また、下段の真ん中の人物が、頭を驢馬に変えられた職工のニック・ボトム(Nick Bottom)で、
ニック・ボトムの両側に居るのは、妖精達。
<筆者撮影>


イングランドの劇作家 / 詩人であるウィリアム・シェイクスピア作の喜劇
「真夏の夜の夢」(1595年ー1596年)を題材にして、
英国の詩人、画家で、銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイク
(William Blake:1757年ー1827年 → 2023年5月15日付ブログで紹介済)
が描いた
水彩画「オーベロン、ティターニア、パックと妖精の踊り
(Oberon, Titania and Puck with Fairies Dancing)」(1786年頃)-
画面左側から、「妖精の王オーベロン」、

「妖精の女王ティターニア」と「悪戯好きの妖精パック」が居て、

「蛾の羽(Moth)の妖精」、「芥子の種(Mustardseed)の妖精」、

「蜘蛛の巣(Cobweb)の妖精」、そして、「豆の花(Peaseblossom)の妖精」の4人は、

両手を繋ぎ、輪になって踊っている

この水彩画を所蔵しているテイト・ブリテン美術館

(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)で購入した絵葉書から抜粋。


現在の野外劇場は1974年に建設され、約1,300の座席数があり、ロンドンにおける最大収容人数を誇る劇場の一つになっている。


リージェンツパーク野外劇場の外周部(その1)
<筆者撮影>

リージェンツパーク野外劇場の外周部(その2)
<筆者撮影>


リージェンツパーク野外劇場は、野外劇場である関係上、例年、春から秋にかけての18週間のみ、オープンしている。


リージェンツパーク野外劇場の外周部(その3)
<筆者撮影>

リージェンツパーク野外劇場内の回転舞台
<筆者撮影>


リージェンツパーク野外劇場は、2017年に「London Theatre of the Year」にノミネートされ、2021年には「Highly Commended Award for London Theatre of the Year」を受賞。


エリザベス2世の在位50周年を記念して、
2002年2月6日に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から記念切手5種類のうちの1枚


英国のウィンザー朝(House of Windsor)第4代女王であるエリザベス2世(Elizabeth II:1926年ー2022年 在位期間:1952年–2022年)が在位50周年(The Golden Jubilee / The Fiftieth Anniversary)を迎えた2002年、リージェンツパーク野外劇場において記念公演が行われた際、エリザベス2世とエディンバラ公爵フィリップ(Prince Philip, Duke of Edinburgh:1921年 –2021年)が列席している。


リージェンツパーク野外劇場内の案内ポール
<筆者撮影>

リージェンツパーク野外劇場内の庭園
<筆者撮影>


リージェンツパーク野外劇場の場合、ウィリアム・シェイクスピア作の舞台劇上演から始まったが、現在は、ミュージカル、オペラや子供用の舞台劇等も上演されている。


2026年6月1日月曜日

ロンドン ゴードンスクエアガーデン(Gordon Square Garden)

ゴードンスクエアガーデンの沿革を示す立て看板
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)は、1882年1月25日、英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴン(Leslie Stephen:1832年ー1904年)と初代准男爵サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones, 1st Baronet:1833年ー1898年 → 2018年6月3日 / 6月10日 / 6月17日付ブログで紹介済)等の「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)のモデルとして知られている母ジュリア・プリンセップ・ジャクスン(Julia Prinsep Jackson:1846年ー1895年)の次女として、ロンドンの中心部にあるケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のブロンプトン地区(Brompton)内の高級住宅街に所在するハイドパークゲイト通り22番地(22 Hyde Park Gate → 2026年5月12日 / 5月17日付ブログで紹介済)に出生。


ヴァージニア・ウルフが生まれた
ハイドパークゲイト通り22番地の建物全景
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが13歳になった1895年に、母親のジュリアが48歳で急死し、ヴァージニア・ウルフが15歳になった1897年に、異父姉ステラ(Stella:1869年ー1897年)が亡くなったことに伴い、彼女は神経衰弱を発病した。

更に、不幸は続き、父親のレスリーが1904年に72歳で亡くなり、ヴァージニア・ウルフは、2度目の神経衰弱に陥った。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


父親の死去に伴い、姉のヴァネッサ(Vanessa Bell:1879年ー1961年 → 後に英国の画家 / インテリアデザイナーとなる)、長男のトビー(Thoby:1880年ー1906年)と次男のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)は、ハイドパークゲイト通り22番地の家を売却して、ゴードンスクエア46番地(46 Gordon Square → 2026年5月22日 / 5月27日付ブログで紹介済)に家を購入した。


英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴンが
1904年2月22日に亡くなった後、
ハイドパークゲイト通り22番地の家を売却して、
ヴァージニア・ウルフ達が引っ越したゴードンスクエア46番地の建物全景
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが神経衰弱の療養からゴードンスクエア46番地の家へ戻り、落ち着いた翌年の1905年3月頃から、長男のトビーがケンブリッジ大学(University of Cambridge)において知り合った才気溢れる青年達が、ゴードンスクエア46番地の家に集まるようになった。


ゴードンスクエアガーデンの南側入口から西方面を見たところ
<筆者撮影>


ゴードンスクエア46番地の家に集まるようになった青年達の中には、


*ロジャー・エリオット・フライ(Roger Eliot Fry:1866年ー1934年)- 英国の画家 / 芸術批評家

*エドワード・モーガン・フォースター(Edward Morgan Forster:1879年ー1970年)- 英国の作家

*リットン・ストレイチー(Lytton Strachey:1880年-1932年)- 英国の伝記作家 / 批評家

*サクソン・アーノル・シドニー=ターナー(Saxon Arnoll Sydney-Turner:1880年ー1962年)- 英国の公務員

*レナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年)- 英国の作家 / 出版業者 / 公務員

*アーサー・クライヴ・へワード・ベル(Arthur Clive Heward Bell:1881年-1964年)- 英国の芸術批評家

*初代ケインズ男爵ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes, 1st Baron Keynes:1883年ー1946年)- 英国の経済学者

*ダンカン・ジェイムズ・コロウ・グラント(Duncan James Corrowr Grant:1885年ー1978年)- 英国の画家 / 織物・陶芸・舞台美術・服飾デザイナー

*ルパート・ショーナー・ブルック(Rupert Chawner Brooke:1887年ー1915年)- 英国の詩人

*デイヴィッド・ガーネット(David Garnett:1892年ー1981年)- 英国の作家 / 出版業者


等が居た。


ゴードンスクエアガーデンの南側入口から北方面を見たところ
<筆者撮影>


彼らの集まりは、当初、「Thursday evenings」と呼ばれていたが、後に「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury Group)」と言う著述家や芸術家の知的サークルへとなる。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。


ゴードンスクエア46番地は、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在している。

位置的には、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London → 2015年8月16日付ブログで紹介済)の東側で、ロンドン大学(University of London → 2016年8月6日付ブログで紹介済)の北側に該り、タヴィトンストリート(Taviton Street)とゴードンストリート(Gordon Street)に東西を挟まれている。



シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の
ピムリコ地区内の Denbigh Street 沿いに設置されている
トマス・キュービット像
<筆者撮影>


ゴードンスクエア46番地が建つゴードンスクエア(Gordon Square)は、隣接するタヴィストックスクエア(Tavistock Square)と一緒に、建設業者/不動産開発業者であるトマス・キュービット(Thomas Cubitt:1788年ー1855年)によって、1820年代に開発された。

なお、トマス・キュービットは、ベルグレーヴィア地区(Belgravia)やピムリコ地区(Pimlico)等を開発したことで有名である。


ゴードンスクエアガーデンの南側入口から東方面を見たところ -
画面右手奥に、飲み物や軽食の売店がある。
<筆者撮影>


開発後、第4代ゴードン公爵アレクサンダー・ゴードン(Alexander Gordon, 4th Duke of Gordon:1743年ー1827年)の娘で、第6代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセル(John Russell, 6th Duke of Bedford:1766年ー1839年)の2番目の夫人であるレディー・ジョージアーナ・ゴードン(Lady Georgiana Gordon)の名前を採って、ゴードンスクエアと名付けられた。


ゴードンスクエアガーデンの北東の角にある
Noor Inayat Khan(1914年ー1944年)のメモリアル像 -
第二次世界大戦中、彼女は英国軍に入隊して、
パリでのスパイ活動中にナチス・ドイツ軍に逮捕され、1944年に処刑された。
彼女の死後(1949年)、彼女にはジョージクロス勲章が授与されている。
幼少期、彼女はブルームズベリー地区に住んでいたため、
ここにメモリアル像が設置されたものと思われる。
<筆者撮影>


ゴードンスクエアガーデンの西側にあるラビンドラナート・タゴール
(Rabindranath Tagore:1861年―1941年)のメモリアル像 -
インドの詩人・思想家で、1913年にノーベル文学賞を受賞(アジア人初のノーベル賞)。
すぐ近くに王立哲学協会が入居している建物があるため、ここに設置されたものと思われる。
<筆者撮影>


ロンドン市内の他のスクエアと同様に、ゴードンスクエアの真ん中にある中庭ゴードンスクエアガーデンは、当初、スクエアを囲む建物の住民のみが使用可能であったが、現在はロンドン大学の所有下にあり、一般に開放されている。


ゴードンスクエアガーデンの沿革を示す立て看板には、
「ブルームズベリーグループ」を立ち上げた
ヴァージニア・ウルフ達の写真が使用されている。
<筆者撮影>


ブルームズベリーグループ」と言う著述家や芸術家の知的サークルがゴードンスクエアにおいて創設されたため、ゴードンスクエアガーデン内には、同グループにかかる説明板が設置されている。


                                            

2026年5月31日日曜日

ジョージ・ロムニー(George Romney)- その4

ケンウッドハウス(Kenwood House → 2018年9月23日付ブログで紹介済)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作「Miss Martindale」(1781年ー1782年)
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャー(通称:マイク)と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ジョージ・ロムニーは、1734年12月26日、家具職人(cabinet maker)の父ジョン・ロムニー(John Romney)と母アン・シンプスン(Anne Simpson)の三男として、ランカシャー州(Lancashire - 現在のカンブリア州(Cumbria))ダルトン・イン・ファーネス(Dalton-in-Furness)のベックサイド(Beckside)に出生したジョージ・ロムニーは、21歳の時(1755年)にケンダル(Kendal)へ行き、地元の肖像画家であるクリストファー・スティール(Christopher Steele)の弟子となり、絵画を正式に学び始めるが、2年後の1757年に、クリストファー・スティールとの師弟関係を解消。その頃には、彼は、地元ケンダルの後援者の間で、肖像画家 / 風景画家 / 歴史画家として有名になりつつあった。


ジョージ・ロムニーは、見習い期間中に病気に罹り、女家主の娘であるメアリー・アボット(Mary Abbot)に手厚く看護されたことが縁となり、1756年に2人は結婚し、同年に長男ジョンが生まれている。

1760年には、2人目の子供で、長女のアンが生まれたが、1762年3月、彼は、歴史画家として成功することを夢見て、妻メアリー・アボットと2人の子供(ジョン+アン)を地元ケンダルに残し、単身ロンドンへと向かった。

ロンドンにやって来たジョージ・ロムニーは、歴史画家としての生活が困窮したため、2度、地元のケンダルへと戻らざるを得なかった。

ちなみに、その後、深刻な体調不良に陥り、肖像画の仕事を縮小して、1799年の夏に地元ケンダルへ戻るまで、彼は、家族とは一度も会わないままだった。ただし、家族との連絡を絶やすことはなく、また、家族への仕送りも続けた。


1763年と1765年の2回、王立芸術協会(Royal Society of Arts)のコンペにおいて、第2位の賞を獲得すると、肖像画家として売れっ子になっていく。


1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手6枚のうちの1枚


古典への造詣の欠如を自覚したジョージ・ロムニーは、1773年3月に、仲間で、英国の肖像画家であるオージアス・ハンフリー(Ozias Humphry:1742年ー1810年)と一緒に、イタリア旅行へ出発。

彼らは、パリ(Paris)、リヨン(Lyon)、マルセイユ(Marseille)、ニース(Nice)、ジェノヴァ(Genoa)、リヴォルノ(Livorno)、フィレンシェ(Florence)、そして、ピサ(Pisa)を巡り、同年6月、ローマ(Roma)に到着。ジョージ・ロムニーは、第249代ローマ教皇であるクレメンス14世(Clemens XIV:1705年ー1774年 在位期間:1769年ー1774年)に謁見の上、許可を得て、ヴァチカン宮殿(Palazzi Apostolici / Palazzi Vaticani - ローマ教皇の住居)のラファエロの間(Stanze di Raffaello)に脚立を組み、フレスコ画の研究に務めた。

ローマで18ヶ月を過ごしたジョージ・ロムニーは、フィレンシェ、ボローニャ(Bologna)、ヴェネチア(Venice)、パルマやトリノ(Turin)等を経由して、1775年7月、ロンドンに戻り、仕事を再開。


キャヴェンディッシュスクエアガーデンズの入口
<筆者撮影>


キャヴェンディッシュスクエアガーデンズ内では、多くの市民や観光客等が憩いをとっている。
<筆者撮影>


彼は、英国の肖像画家であるフランシス・コーツ(Francis Cotes:1726年ー1770年)が所有していたキャヴェンディッシュスクエア32番地(32 Cavendish Square)の邸宅を取得の上、新たな本拠地として、最先端の肖像画家に上り詰めた。


キャヴェンディッシュスクエアガーデンズ内に建つ
ウィリアム・ジョージ・フレデリック・キャヴェンディッシュ・ベンティンク卿
(Lord William George Frederick Cavendish Bentinck:1802年ー1848年)のブロンズ像 -
彼は、英国北東部にあるノーフォーク州(Norfolk)キングスリン(King's Lynn)選出の議員だった。
<筆者撮影>


ジョージ・ロムニーは、1797年にキャヴェンディッシュスクエア32番地を離れ、ハムステッド地区(Hampstead → 2018年8月26日付ブログで紹介済)のホーリーブッシュヒル5番地(5 Holly Bush Hill)へ転居。


その後、ジョージ・ロムニーは、1794年に深刻な体調不良に陥ったため、肖像画の仕事受注を縮小。

体調不良が回復しない彼は、1799年夏、地元ケンダルの家族の元へ戻り、同地を終焉の地と決めた。地元ケンダルに家族を残したまま、単身ロンドンへと向かった1762年3月以来、35年以上ぶりの帰還だった。


忠実で献身的な妻メアリーに快く迎え入れられたジョージ・ロムニーであったが、1802年11月15日、ケンダルで息を引き取った。享年67歳で、彼の遺体は、出生地であるダルトン・イン・ファーネスのセントメアリー教会(St. Mary’s Church, Dalton-in-Furness)に葬られた。

なお、彼の妻メアリーは、97歳と言う長寿を全うして、1823年に亡くなっている。


2026年5月30日土曜日

ジョージ・エリオット(George Eliot)- その4

ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)が
1871年ー1872年に発表した長編小説第6作目
「ミドルマーチ」
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が執筆した長編としては、第6作目に、そして、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)シリーズの長編としては、第3作目に該る「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd → 2023年9月25日 / 10月2日付ブログで紹介済)」において、事件の記録者となる「わたし」こと、キングスアボット村(King's Abbot)に住むジェイムズ・シェパード医師(Dr. James Sheppard)が、村の富豪であるロジャー・アクロイド(Roger Ackroyd)から夕食に招待され、9月17日(金)の午後7時半に、ロジャー・アクロイドが住むフェルンリーパーク館(Fernly Park)を訪れる。会席者を待つ間、ジェイムズ・シェパード医師は、応接間において、ロジャー・アクロイドによる蒐集品の数々を眺めていると、そこへフローラ・アクロイド(Flora Ackroyd - ロジャー・アクロイドの義理の妹で、未亡人のセシル・アクロイド夫人(Mrs. Cecil Ackroyd)の娘)が姿を見せる。


2022年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design by Holly Macdonald /
Illustrations by Shutterstock.com) 


その際に交わされたジェイムズ・シェパード医師とフローラ・アクロイドの会話に出てくる「フロス河の水車場(The Mill on the Floss)」の作者であるジョージ・エリオット(George Eliot)は、英国の作家である。実は、「ジョージ・エリオット」はペンネームで、本名はメアリー・アン・エヴァンズ(Mary Anne Evans:1819年ー1880年)。


ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)が
1860年に発表した長編小説第2作目
「フロス河の水車場」
<筆者撮影>


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery内で
所蔵 / 展示されているジョージ・エリオット
(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)の肖像画
(By Sir Frederic William Burton / chalk / 1865年 /
514 mm x 381 mm)


1819年11月22日、土地差配人である父ロバート・エヴァンズ(Robert Evans:1773年ー1849年)と母クリスティアナ・エヴァンズ(Christiana Evans:1788年ー1836年 / 旧姓:ピアスン(Pearson))の下、ウォーリック州(Warwickshire)ヌニートン(Nuneaton)に出生したメアリー・アン・エヴァンズは、1850年、作家を志して、ロンドンへと移った。

彼女は、ダーフィト・フリードリヒ・シュトラウス(David Friedrich Strauss:1808年ー1874年)作「イエス伝」の英語翻訳版を刊行してくれた英国の出版業者であるジョン・チャップマン(John Chapman:1821年ー1894年)の家に寄宿。彼女は、ジョン・チャップマンが買収した左派系の雑誌「ザ・ウェストミンスター・レヴュー(The Westminster Review)」に、マリアン・エヴァンズ(Marian Evans)と言うペンネームを使い、同年から寄稿。1851年には、副主筆(assistant editor)へ昇格。


1857年、メアリー・アン・エヴァンズは、ブラックウッズマガジン(Blackwood’s Magazine)誌上に、彼女と不倫関係にあった英国の哲学者 / 文芸批評家ジョージ・ヘンリー・ルイス(George Henry Lewes:1817年ー1878年)の名を借りた「ジョージ・エリオット(George Eliot)」のペンネームを用いて、


*「エイモス・バートン牧師の悲運(The Sad Fortunes of the Reverend Amos Barton)」

*「ギルフィル氏の恋物語(Mr. Gilfil’s Love Story)」

*「ジャネットの改悛(Janet’s Repentance)」


の短編小説を順次発表。

1858年1月に、「牧師館物語(Scenes of Clerical Life)」として纏められ、出版された。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手6枚のうちの1枚


そして、スコットランド出身で、ヴィクトリア朝時代の大英帝国を代表する歴史家で、評論家でもあるトマス・カーライル(Thomas Carlyle:1795年ー1881年 → 2016年10月15日付ブログで紹介済)の影響を大きく受けたメアリー・アン・エヴァンズは、1859年には、最初の長編小説となる「アダム・ビード(Adam Bede)」を発表する。

彼女の最初の長編小説「アダム・ビード」は大変な評判を呼び、読者は作者の正体に興味を示したため、メアリー・アン・エヴァンズは、「ジョージ・エリオット」が自分のペンネームであることを認めるに至った。


ロンドンのチェルシー地区チェイニーウォーク(Cheyne Walk)沿いの
広場内に設置されているトマス・カーライル像
<筆者撮影>


以降、メアリー・アン・エヴァンズは、


*長編小説第2作目「フロス河の水車場(The Mill on the Floss)」(1860年)

*長編小説第3作目「サイラス・マーナー(Silas Marner)」(1861年)

*長編小説第4作目「ロモラ(Romola)」(182年ー1863年)

*長編小説第5作目「急進主義者フェリックス・ホルト(Felix Holt, the Radical)」(1866年)

*長編小説第6作目「ミドルマーチ(Middlemarch)」(1871年ー1872年)

*長編小説第7作目「ダニエル・デロンダ(Daniel Deronda)」(1876年)


と精力的に発表して、次第に文名を高めていった。

特に、複数の家庭のドラマを錯綜させて、地方都市の生態を描き出した大作「ミドルマーチ」は、後世の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf:1882年ー1941年)によって賞賛されている。


ナショナルポートレイトギャラリーで販売されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


長編小説第7作目「ダニエル・デロンダ」を発表した後、メアリー・アン・エヴァンズとジョージ・ヘンリー・ルイスの2人は、ロンドンからサリー州(Surrey)ウィトリー(Witley)へ引っ越すが、その頃から、ジョージ・ヘンリー・ルイスの健康状態は不調に陥る。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメールから2019年に発行された切手6枚のうちの1枚


メアリー・アン・エヴァンズとジョージ・ヘンリー・ルイスの2人は、長らく不倫関係にあったが、1877年にハノーヴァー朝(House of Hanover)の第6代女王であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年 → 2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)の息女ルイーズ王女(Princess Louise:1848年ー1939年)に紹介されたことにより、2人の関係は公に認められるようになった。

母親のヴィクトリア女王は、メアリー・アン・エヴァンズの著作の熱心な読者で、特に、長編小説第1作目「アダム・ビード」に感銘を受けたと伝えられている。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメールから2019年に発行された切手6枚のうちの1枚


ジョージ・ヘンリー・ルイスが1878年11月30日に亡くなった後、メアリー・アン・エヴァンズは、彼が途中でやり残した仕事の編集を行っていたが、長らく友人だった青年実業家のジョン・ウォルター・クロス(John Walter Cross:1840年ー1924年)との間で、親密度合いを深めていく。

ジョージ・ヘンリー・ルイスが亡くなってから約18ヶ月後の1880年5月16日に、メアリー・アン・エヴァンズは、ジョン・ウォルター・クロスと結婚して、知人達を騒然とさせる。なお、ジョン・ウォルター・クロスは、メアリー・アン・エヴァンズよりも20歳以上年下だった。ジョン・ウォルター・クロスと結婚したメアリー・アン・エヴァンズは、メアリー・アン・クロス(Mary Ann Cross)と改名。


新婚旅行から戻って来たメアリー・アン・クロスとジョン・ウォルター・クロスの2人は、ロンドンのチェルシー地区(Chelsea)に住み始めたが、メアリー・アン・クロスは、喉の痛みを訴えて、体調不良となり、数年前から患っていた腎臓病も併発したため、結婚から僅か7ヶ月後の1880年12月22日にロンドンで死去した。享年61歳だった。