2026年6月16日火曜日

ロンドン キャヴェンディッシュスクエア32番地(32 Cavendish Square)

イタリア旅行から戻ったジョージ・ロムニーが
新たな本拠地を構えたキャヴェンディッシュスクエア32番地は、
現在の住所表記上、
キャヴェンディッシュスクエア33番地に建つオフィスビルに含まれていると思われる。
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャー(通称:マイク)と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ジョージ・ロムニーは、1734年12月26日、家具職人(cabinet maker)の父ジョン・ロムニー(John Romney)と母アン・シンプスン(Anne Simpson)の三男として、ランカシャー州(Lancashire - 現在のカンブリア州(Cumbria))ダルトン・イン・ファーネス(Dalton-in-Furness)のベックサイド(Beckside)に出生したジョージ・ロムニーは、21歳の時(1755年)にケンダル(Kendal)へ行き、地元の肖像画家であるクリストファー・スティール(Christopher Steele)の弟子となり、絵画を正式に学び始めるが、2年後の1757年に、クリストファー・スティールとの師弟関係を解消。その頃には、彼は、地元ケンダルの後援者の間で、肖像画家 / 風景画家 / 歴史画家として有名になりつつあった。



ジョージ・ロムニーは、見習い期間中に病気に罹り、女家主の娘であるメアリー・アボット(Mary Abbot)に手厚く看護されたことが縁となり、1756年に2人は結婚し、同年に長男ジョンが生まれている。

1760年には、2人目の子供で、長女のアンが生まれたが、1762年3月、彼は、歴史画家として成功することを夢見て、妻メアリー・アボットと2人の子供(ジョン+アン)を地元ケンダルに残し、単身ロンドンへと向かった。

ロンドンにやって来たジョージ・ロムニーは、歴史画家としての生活が困窮したため、2度、地元のケンダルへと戻らざるを得なかった。

ちなみに、その後、深刻な体調不良に陥り、肖像画の仕事を縮小して、1799年の夏に地元ケンダルへ戻るまで、彼は、家族とは一度も会わないままだった。ただし、家族との連絡を絶やすことはなく、また、家族への仕送りも続けた。


キャヴェンディッシュスクエアの南西の角から
キャヴェンディッシュスクエア32番地方面を眺めたところ -
画面右側に建っているいるのは、ジョン・ルイスデパート(John Lewis Department)。
<筆者撮影>


1763年と1765年の2回、王立芸術協会(Royal Society of Arts)のコンペにおいて、第2位の賞を獲得すると、肖像画家として売れっ子になっていく。


キャヴェンディッシュスクエアの南東の角から
キャヴェンディッシュスクエア31番地(サンドウィッチ店の「Pret A Manger」)と
キャヴェンディッシュスクエア32番地
キャヴェンディッシュスクエア33番地に建つオフィスビルの右側半分)方面を眺めたところ
<筆者撮影>


古典への造詣の欠如を自覚したジョージ・ロムニーは、1773年3月に、仲間で、英国の肖像画家であるオージアス・ハンフリー(Ozias Humphry:1742年ー1810年)と一緒に、イタリア旅行へ出発。

彼らは、パリ(Paris)、リヨン(Lyon)、マルセイユ(Marseille)、ニース(Nice)、ジェノヴァ(Genoa)、リヴォルノ(Livorno)、フィレンシェ(Florence)、そして、ピサ(Pisa)を巡り、同年6月、ローマ(Roma)に到着。ジョージ・ロムニーは、第249代ローマ教皇であるクレメンス14世(Clemens XIV:1705年ー1774年 在位期間:1769年ー1774年)に謁見の上、許可を得て、ヴァチカン宮殿(Palazzi Apostolici / Palazzi Vaticani - ローマ教皇の住居)のラファエロの間(Stanze di Raffaello)に脚立を組み、フレスコ画の研究に務めた。

ローマで18ヶ月を過ごしたジョージ・ロムニーは、フィレンシェ、ボローニャ(Bologna)、ヴェネチア(Venice)、パルマやトリノ(Turin)等を経由して、1775年7月、ロンドンに戻り、仕事を再開。

彼は、英国の肖像画家であるフランシス・コーツ(Francis Cotes:1726年ー1770年)が所有していたキャヴェンディッシュスクエア32番地(32 Cavendish Square)の邸宅を取得の上、新たな本拠地として、最先端の肖像画家に上り詰めた。


サンドウィッチ店「Pret A Manger」の住所は、
キャヴェンディッシュスクエア31番地。
<筆者撮影>


イタリア旅行から戻ったジョージ・ロムニーが新たな本拠地を構えたキャヴェンディッシュスクエア32番地は、キャヴェンディッシュスクエア(Cavendish Square → 2015年4月5日付ブログで紹介済)に面している。

具体的には、オックスフォードストリート(Oxford Street → 2016年5月28日付ブログで紹介済)から北へ延びるホールズストリート(Holles Street)がキャヴェンディッシュスクエアに突き当たった南東の角近くに、キャヴェンディッシュスクエア32番地は所在している。


キャヴェンディッシュスクエア33番地に建つオフィスビルの入口 -
イタリア旅行から戻ったジョージ・ロムニーが
新たな本拠地を構えたキャヴェンディッシュスクエア32番地は、
キャヴェンディッシュスクエア33番地に建つオフィスビルの右側半分だと考えられる。
<筆者撮影>


厳密に言うと、キャヴェンディッシュスクエアに面しているサンドウィッチ店「Pret A Manger」の住所は「キャヴェンディッシュスクエア31番地」で、左隣りに建つオフィスビルの住所は「キャヴェンディッシュスクエア33番地」なので、現在の住所表記上、「キャヴェンディッシュスクエア32番地」は存在していない。

現状、「キャヴェンディッシュスクエア32番地」は、「キャヴェンディッシュスクエア33番地」のオフィスビルの右側半分になっていると考えられる。


                                    

2026年6月15日月曜日

フィリップ・パーサー=ハラード作「シャーロック・ホームズ / 人間消失」(Sherlock Holmes / The Vanishing Man by Philip Purser-Hallard) - その2

リッチモンドにあるサー・ニューナム・スペイトの自宅 Parapluvium House 内で行われた
実験における見張りのスケジュール / 組み合わせ -
Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から

2019年に出版された
フィリップ・パーサー=ハラード作
「シャーロック・ホームズ:人間消失」から抜粋。


英国のファンタジー / SF / 推理作家であるフィリップ・パーサー=ハラード(Philip Purser-Hallard:1971年ー)が、Titan Publishing Group Ltd. から2019年に発表した「シャーロック・ホームズ:人間消失(Sherlock Holmes: The Vanishing Man)」の場合、1896年9月14日(火)の午後5時半頃、シャーロック・ホームズが、1時間程の散歩を終えて、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)に戻って来たところから、その物語が始まる。


すると、ハドスン夫人(Mrs. Hudson)が、ホームズと散歩に出かけなかったジョン・H・ワトスンの元に、


*サー・ニューナム・スペイト(Sir Newham Speight / 60歳位)- The Society for the Scientific Investigation of Psychical Phenomena の会長(Chairman)

*タルボット・ライヌ(Talbot Rhyne)- サー・ニューナム・スペイトの助手


と言う2人の男性を案内して来た。


サー・ニューナム・スペイトは、ホームズとワトスンに対して、


*実験や観察を通して、心霊現象を調査することが、協会の目的。

*「協会のメンバーに対して、自分の心霊力を正当に証明できた場合、1万ポンドの賞金を出す。」と広告したところ、2ヶ月前に、トマス・ケルウェイ(Thomas Kellway)と名乗る人物から協会に申し出があった。

*トマス・ケルウェイは、ヨークシャー州(Yorkshire)出身の50歳位の男性で、不思議なことに、髪の毛だけではなく、眉毛や腕毛等も全くなく、自分のことを「進化人間(Evolved Man)」と呼び、「テレキネシス(Telekinesis)」を使って、物体を移動させることができると豪語した。


と説明。


リッチモンドにあるサー・ニューナム・スペイトの自宅 Parapluvium House 内に設けられた
実験室の見取り図 - 
Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から

2019年に出版された
フィリップ・パーサー=ハラード作
「シャーロック・ホームズ:人間消失」から抜粋。


トマス・ケルウェイからの申し出に応じて、リッチモンド(Richmond)にあるサー・ニューナム・スペイトの自宅 Parapluvium House 内に設けれらた実験室で、9月14日(月)から9月15日(火)にかけ、実験が行われた。

実験室内に3つある部屋を入念にチェックした後、


*ルーム A : トマス・ケルウェイを室内に閉じ込めた後、入口のドアを施錠。「室内が明るいと、精神を集中できない。」と言う彼の要請に応じて、室内の灯りを点けず、薄暗いままの状態。

*ルーム B : トマス・ケルウェイがテレキネシスで移動させるものを箱に入れて、テーブルの上に設置。また、入口のドアを施錠。室内の灯りを点けて、ドアのガラス越しに監視できる状態。

*ルーム C : 今回の実験には使用しないため、入口のドアは施錠したまま。また、室内の灯りを点けないまま。


と言う段取りを整えた。


そして、The Society for the Scientific Investigation of Psychical Phenomena のメンバー達は、以下のスケジュール / 組み合わせに基づき、2時間ずつ、ルーム A 内に閉じ込めたトマス・ケルウェイとルーム B 内のテーブルの上に置いた箱を、控えの間(Anteroom)から見張ることとなったのである。


<9月14日(月)午後8時ー午後10時>

*ピーター・キングスリー医師(Dr. Peter Kingsley - サー・ニューナム・スペイトの隣人)

*イライアス・スカヴァースン教授(Professor Elias Scaverson)


<9月14日(月)午後10時ー午後12時>

*クレメント・ブラッドブリー少佐(Major Clement Bradbury)

*タルボット・ライヌ


<9月15日(火)午前0時ー午前2時>

*ヴォーティゲルン・スモール(Reverend Vortigern Small)

*ギディオン・ビーチ(Gideon Beech - 有名な論客(controversialist))


<9月15日(火)午前2時ー午前4時>

*ジャーメイン卿(Lord Jermaine)

*マックイネリー氏(Mr. McInnery)


<9月15日(火)午前4時ー午前6時>

*フレデリック・ガーフォース(Frederick Garforth - 芸術家)

*ウィリアム・アンダートン(William Anderson - サー・ニューナム・スペイトの執事)


<9月15日(火)午前6時ー午前8時>

*サー・ニューナム・スペイト

*ジェラルド・フローク閣下(Honourable Gerld Floke)

なお、「閣下(Honourable)」は、「伯爵の次男以下の男子 / 子爵・男爵の全ての子」を指す。


控えの間からのルーム A / ルーム B の見張りは、当初、滞りなく進んだが、サー・ニューナム・スペイトは、ホームズとワトスンの2人に向かって、「明け方、実験中に、トマス・ケルウェイが隔離された室内から姿を消してしまい、今現在も、戻って来ていない。よって、彼が単に行方不明になっているのか、それとも、既になくなっているのか、全く判らない。」と告げた。

一方で、サー・ニューナム・スペイトは、「これは、壮大な悪戯 / 悪ふざけで、自分達はかつがれているのではないか?」と心配していた。


2026年6月14日日曜日

ジョン・ディクスン・カー作「ヴァンパイアの塔」(Vampire Tower by John Dickson Carr)

東京創元社から、創元推理文庫の一冊として出版されている
ジョン・ディクスン・カー作
「カー短編全集6 ヴァンパイアの塔」の表紙
カバー イラスト: 志村 敏子
カバーデザイン:東京創元社装幀室


「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家である。彼は、シャーロック・ホームズシリーズで有名なサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)の伝記を執筆するとともに、コナン・ドイルの息子であるエイドリアン・コナン・ドイル(Adrian Conan Doyle:1910年ー1970年)と一緒に、ホームズシリーズにおける「語られざる事件」をテーマにした短編集「シャーロック・ホームズの功績(The Exploits of Sherlock Holmes)」(1954年)を発表している。


ジョン・ディクスン・カーは、1944年に、「男性は、どこまで自分の妻 / 婚約者を信用しているか?」をテーマにして、英国の BBC 用にラジオドラマ「ヴァンパイアの塔(Vampire Tower)」を執筆している。

彼は、プロットの展開は同じであるが、米国の CBS 用にラジオドラマ「Will You Walk into My Parlor?」を執筆している。ただし、登場人物の名前は、前述の「ヴァンパイアの塔」とは異なっている上に、台詞のほとんどが書き直されている。


ラジオドラマ「ヴァンパイアの塔」の舞台として、


年代:1930年代(第二次世界大戦前)のとある夏の午後

場所:英国ケント州(Kent)


に設定されている。


当主サー・ハーヴィ・ドレイクが住むレントンホールの敷地内では、慈善バザーが開催されており、売店やテントが並んでいた。ただ、空には黒雲が立ち込めて、夏の嵐の到来を告げる風がテントをはためかせているせいか、人の姿はほとんど見当たらなかった。

そんな中、サー・ハーヴィ・ドレイク自らが主宰する射撃場の方へ向かって歩む人物が2人居た。一人は、サー・ハーヴィ・ドレイクの甥であるアラン・ドレイクで、もう一人は、アランの婚約者であるバーバラ・モレルだった。

サー・ハーヴィ・ドレイクとアラン・ドレイクの2人は、射撃を嫌がるバーバラ・モレルにライフル(ウィンチェスター61 / 32口径)を撃たせたが、残念ながら、動揺する彼女が発射したライフルの銃弾は、屋根の電球を撃ち抜き、ガラスが粉々に砕け散っただけだった。


破れかぶれになったバーバラ・モレルを宥めようとするサー・ハーヴィ・ドレイクとアラン・ドレイクの2人は、彼女が当初向かおうとしていた運勢占いのテントへ一人で行かせた。

運勢占いのテントに居たのは、内務省所属の病理学者であるジョージ・グリモー博士で、警察長であるジョン・セルデン少佐の元を訪れた際に、サー・ハーヴィ・ドレイクがジョージ・グリモー博士に占い師になってくれるように依頼したのだった。


運勢占いのテント内には灯がついており、テーブルを間に挟んで、ジョージ・グリモー博士とバーバラ・モレルの2人が向かい合う姿が、影絵芝居を見ているようだった。

少しすると、ジョージ・グリモー博士から何かを言われたバーバラ・モレルが、突然、飛び上がり、後ずさると、彼に向かって指を突き付けた。そして、彼女はテントから逃げ出そうとした。


テントから駆け出してきたバーバラ・モレルのことを心配したアラン・ドレイクだったが、彼女は怯えた様子を取り繕った。そこで、アラン・ドレイクは、持っていたライフルを彼女に預けると、運勢占いのテントへ一人で赴いた。

テント内のジョージ・グリモー博士を問い詰めるアラン・ドレイクに対して、ジョージ・グリモー博士は、「君は、バーバラ・モレルなる女性の正体を判っていない。」と告げた。ジョージ・グリモー博士が、更に、「彼女の正体は…」と続けた時、ライフルの発射音がして、銃弾がテントを貫いた。そして、テーブルがひっくり返り、ジョージ・グリモー博士が地面に倒れた。

テントの外では、ライフルを持ったバーバラ・モレルが、「アランは私にライフルを持たせるべきじゃなかった。うっかり、引き金に触ってしまった。」と、大声を上げていた。


運勢占いのテント内で、ジョージ・グリモー博士は、バーバラ・モレルに対して、どういったことを告げて、怯えさせたのか?

また、ジョージ・グリモー博士が、アラン・ドレイクに対して、彼女の正体を話そうとした際、テント越しにライフルでジョージ・グリモー博士を撃ったバーバラ・モレルの行為は、単なる事故なのか、それとも、殺意を持った故意なのだろうか?


ジョン・ディクスン・カーは、ラジオドラマ「ヴァンパイアの塔」をベースに、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第15作目として、「死が二人をわかつまで / 毒殺魔(Till Death Do Us Part)」を1944年に発表している。

なお、ギディオン・フェル博士シリーズの長編第15作目「死が二人をわかつまで / 毒殺魔」については、今後、御紹介する予定。 


2026年6月13日土曜日

ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)- その1

ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)の
ハイゲイト地区(Highgate)内にあるハイゲイト墓地
(Highgate Cemetery → 2018年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)の
東区画(East Cemetery)にある
ハーバート・スペンサーの墓(その1)
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が執筆した長編としては、第6作目に、そして、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)シリーズの長編としては、第3作目に該る「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd → 2023年9月25日 / 10月2日付ブログで紹介済)」において、事件の記録者となる「わたし」こと、キングスアボット村(King's Abbot)に住むジェイムズ・シェパード医師(Dr. James Sheppard)が、村の富豪であるロジャー・アクロイド(Roger Ackroyd)から夕食に招待され、9月17日(金)の午後7時半に、ロジャー・アクロイドが住むフェルンリーパーク館(Fernly Park)を訪れる。会席者を待つ間、ジェイムズ・シェパード医師は、応接間において、ロジャー・アクロイドによる蒐集品の数々を眺めていると、そこへフローラ・アクロイド(Flora Ackroyd - ロジャー・アクロイドの義理の妹で、未亡人のセシル・アクロイド夫人(Mrs. Cecil Ackroyd)の娘)が姿を見せる。


2022年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design by Holly Macdonald /
Illustrations by Shutterstock.com) 


その際に交わされたジェイムズ・シェパード医師とフローラ・アクロイドの会話に出てくる「フロス河の水車場(The Mill on the Floss)」の作者であるジョージ・エリオット(George Eliot)は、英国の作家である。実は、「ジョージ・エリオット」はペンネームで、本名はメアリー・アン・エヴァンズ(Mary Anne Evans:1819年ー1880年)。


ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)が
1860年に発表した長編小説第2作目
「フロス河の水車場」
<筆者撮影>


1819年11月22日、土地差配人である父ロバート・エヴァンズ(Robert Evans:1773年ー1849年)と母クリスティアナ・エヴァンズ(Christiana Evans:1788年ー1836年 / 旧姓:ピアスン(Pearson))の下、ウォーリック州(Warwickshire)ヌニートン(Nuneaton)に出生したメアリー・アン・エヴァンズは、1850年、作家を志して、ロンドンへと移った。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery内で
所蔵 / 展示されているジョージ・エリオット
(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)の肖像画
(By Sir Frederic William Burton / chalk / 1865年 /
514 mm x 381 mm)


英国の哲学者 / 社会学者 / 倫理学者であるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer:1820年ー1903年)の紹介により、メアリー・アン・エヴァンズは、1851年に英国の哲学者 / 文芸批評家であるジョージ・ヘンリー・ルイス(George Henry Lewes:1817年ー1878年)と知り合い、恋愛関係になる。当時、ジョージ・ヘンリー・ルイスは、アグネス・ジャーヴィス(Agnes Jervis)と結婚して、3人の子供が入る身だったが、メアリー・アン・エヴァンズとジョージ・ヘンリー・ルイスの恋愛関係は、彼が1878年11月30日に亡くなるまで、25年以上続いた。


ハイゲイト墓地東区画(East Cemetery)にある
ハーバート・スペンサーの墓(その2)-
墓の左側面に、ハーバート・スペンサーが、
1820年4月27日に生まれたことが記されている。

<筆者撮影>


後に作家「ジョージ・エリオット」とデビューするメアリー・アン・エヴァンズにジョージ・ヘンリー・ルイスを紹介したハーバート・スペンサーは、1820年4月27日、イングランド北部のダービーシャー州(Derbyshire)ダービー(Derby)に出生。

父親のウィリアム・ジョージ・スペンサー(William George Spencer:1790年ー1866年)は、教師で、学校も経営していた。

ハーバート・スペンサーは、当初、父親の方針により、学校教育を受けず、家庭で教育を受けたが、その後、叔父のトマス・スペンサー牧師(Reverend Thomas Spencer)が経営する寄宿学校において、ラテン語、数学や物理学等を学んだ。


ハーバート・スペンサーは、1837年(17歳)、ロンドン ・バーミンガム鉄道の技師として働き始め、空いた時間を使って、著作活動を行った。その間、地質学に関心を持ったり、骨相学に傾倒したりした。

彼は、1843年、最初の著作「政府の適正領域(Proper Sphere of Government)」を刊行。

また、1848年から1853年までの間、経済誌「エコノミスト(The Economist)」の副編集長(sub-editor)を務めている。 


2026年6月12日金曜日

ロンドン フィッツロイスクエア21番地(21 Fitzroy Square)

英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵
ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルが住んでいた

フィッツロイスクエア21番地の建物全景
<筆者撮影>


アイルランド出身の文学者 / 脚本家 / 劇作家 / 評論家 / 政治家 / 教育家 / ジャーナリストであるジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw:1856年ー1950年)が、1887年から1898年まで住み、その後、英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)が、1907年から1911年まで住んだフィッツロイスクエア29番地(29 Fitzroy Square → 2026年6月6日 / 6月11日付ブログで紹介済)の北側に建つフィッツロイスクエア21番地(21 Fitzroy Square)には、英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシル(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury:1830年ー1903年)が住んでいた。



第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルは、1830年2月3日、枢密院議長等を歴任した第2代ソールズベリー侯爵ジェイムズ・ブラウンロウ・ウィリアム・ガスコイン=セシル(James Brownlow William Gascoyne-Cecil, 2nd Marquess of Salisbury:1791年ー1868年)とフランセス・メアリー・ガスコイン(Frances Mary Gascoyne)の三男として、ハートフォードシャー州(Hertfordshire)ハットフィールド(Hatfield)にあるソールズベリー侯爵家の別宅ハットフィールドハウス(Hatfield Hose → 2023年6月25日付ブログで紹介済)に出生。


Hatfield House and gardens by Marcus May (1995年頃)
庭園歴史博物館(Museum of Garden History)で購入した絵葉書 -
中央に建つ建物が、17世紀初めに
初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシルが建設した主館で、
左後方に建つ建物が、
15世紀末に高位聖職者の邸宅として建設されたビショップ館、
そして、両方の館を取り巻く広大な庭園が描かれている。


第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルは、1853年に庶民院議員として政界入りした後、1868年に爵位継承を経て、貴族院議員へと転じた。


パーラメントスクエアガーデン(Parliament Square Garden)内に建つ
初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリの銅像
<筆者撮影>


彼は、保守党政権下において、閣僚職を歴任し、英国の政治家 / 小説家で、ヴィクトリア朝の中期に、保守党の党首として、英国首相を2回(第1次内閣:1868年 / 第2次内閣:1874年ー1880年)務めた初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield:1804年-1881年)亡き後、保守党の党首に就任。


テムズ河(River Thames)に架かる
ブラックフライアーズ橋(Blackfriars Bridge
→ 2024年8月6日 / 8月11日付ブログで紹介済)の北岸に設置されている
ヴィクトリア女王のブロンズ像
<筆者撮影>


そして、ハノーヴァー朝(House of Hanover)の第6代女王で、かつ、初代インド女帝であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年 → 2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)とザクセン=コーブルク&ゴータ朝(House of Saxe-Coburg and Gotha)の初代英国国王 / インド皇帝であるエドワード7世(Edward VII:1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年 → 2025年5月10日 / 5月26日 / 5月31日 / 6月8日 / 6月15日付ブログで紹介済 )の治世下、英国首相を3回(第1次内閣:1885年ー1886年 / 第2次内閣:1886年ー1892年 / 第3次内閣:1895年ー1902年)務めた。


ウォーターループレイス(Waterloo Place)内に建つ
エドワード7世の騎馬ブロンズ像
<筆者撮影>


第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルは、典型的な貴族主義者かつ保守主義者で、民主主義や選挙権の拡大には強く反対したが、一方で、漸進的な内政改革を行った。

外交面において、彼は帝国主義を推し進め、大英帝国の更なる拡張を果たした。特に、

南アフリカ南部に対して、植民地大臣(Colonial Secretary)を務めていたジョーゼフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain:1836年ー1914年)と南アフリカ高等弁務官(High Commissioner for South Africa) / ケープ植民地総督(Governor - General of Cape Colony)に任命された初代ミルナー子爵アルフレッド・ミルナー(Alfred Milner, 1st Viscount Milner:1854年ー1925年 → 2022年8月29日 / 9月1日付ブログで紹介済)と一緒に、第二次ボーア戦争(1899年10月12日ー1902年5月31日 → 2022年8月8日付ブログで紹介済)を仕掛けた。


大英英国軍に応戦するボーア軍
(Dorling Kindersley Limited から発行されている
「The Sherlock Holmes Book」から抜粋)


増大する戦死者を目にして、大英帝国内において、インド人等の英領植民地人を代わりに戦地へ送り、英国人の人的損害を減らすべきであるという意見が、各方面で強まった。

そこに、シャーロック・ホームズシリーズの作者であるアーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年-1930年)が登場する。彼は、当時、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1893年12月号に「最後の事件(The Final Problem 2022年5月1日 / 5月8日 / 5月11日付ブログで紹介済)」を発表して、ホームズを、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)と一緒に、スイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝壺(Reichenbach Falls)に葬り去った後で、「ストランドマガジン」の1901年8月号から1902年4月号にかけて、「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」の連載を開始するまでの約7年半に及ぶ空白の期間であった。

コナン・ドイルは、「タイムズ」紙において、「英国人が一人も戦地へ赴かないで、その代わりを英領植民地の人達に穴埋めさせるのは、名誉にかかわるのではないか?」という主張を展開するとともに、自分自身も英国軍に従軍する決意を固めた。ただ、彼は既に40歳を超えていたため、英国陸軍の兵役検査をパスできなかった。そこで、彼は、従軍を諦めたが、その代わりに、戦地へ派遣される50人の医療奉仕団(コナン・ドイルの友人であるジョン・ラングマンが提唱)に医師の一人として参加することに決めたのである。


アーサー・コナン・ドイルは、
既に40歳を超えていたため、英国陸軍の兵役検査をパスできず、
従軍を諦めたが、その代わりに、戦地の南アフリカへ派遣される医療医師団に
参加することに決め、現地入りした。

(Dorling Kindersley Limited から発行されている
「The Sherlock Holmes Book」から抜粋)


コナン・ドイルを含む医療奉仕団を乗せたPO・ラインのオリエンタル号は、1900年3月に英領ケープ植民地の首都ケープランドに到着し、英国軍司令官である初代ロバーツ伯爵フレデリック・ロバーツ(Frederick Roberts, 1st Earl of Roberts:1832年ー1914年)が率いる英国軍の進軍路を辿りつつ、野戦病院において負傷者等の治療に従事した。傷病兵の数は収容しきれない程に増えていき、医療奉仕団の各人は尽力したものの、十分な治療もままならず、多くの兵士が亡くなった。その上、腸チフスが発生した関係で、現地における状況は、更に絶望的になっていったのであった。


英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵
ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルが住んでいた

フィッツロイスクエア21番地の建物入口
<筆者撮影>


ちょうどその頃、増援部隊が大英帝国の本国から到着すると、ロバーツ卿率いる英国軍はボーア軍を遂に打ち破って、反撃に転じ、同年3月13日にオレンジ自由国(Orange Free State)の首都ブルームフォンテーン(Bloemfontein)を、続いて、同年6月5日にトランスヴァール共和国の首都プレトリア(Pretoria)を陥落させた。

コナン・ドイルは、プレトリアにおいて、ロバーツ卿と会見して、医療奉仕団の活躍を報告した後、プレトリア陥落により、第二次ボーア戦争の大勢は決したと思われたため、当戦争を総括する執筆を行うべく、同年7月に本国への帰国の途に就いたのである。


英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵
ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルが住んでいた

フィッツロイスクエア21番地の建物1階(GF)外壁
<筆者撮影>


第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルは、1902年7月11日、病を理由に退任して、後任の保守党党首 / 首相に、甥である初代バルフォア伯爵アーサー・ジェイムズ・バルフォア(Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour:1848年ー1930年)を就任させた。

そして、翌年の1903年8月22日に死去。


フィッツロイスクエア21番地の建物1階(GF)外壁には、
英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵
ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルがここに住んでいたことを示す
London City Council のプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


なお、フィッツロイスクエア21番地の建物は、現在、モザンビーク大使館(Mozambique High Commission)として使用されている。


2026年6月11日木曜日

ロンドン フィッツロイスクエア29番地(29 Fitzroy Square)- その2

兄トビーの急死(1906年)と姉ヴァネッサの結婚(1907年)に伴い、
ヴァージニア・ウルフが弟エイドリアンと一緒に引っ越した先の
フィッツロイスクエア29番地の建物全景(その2)
<筆者撮影>


英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴン(Leslie Stephen:1832年ー1904年)が1904年2月22日に72歳で死去したことに伴い、2度目の神経衰弱に陥ったヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)は、姉のヴァネッサ(Vanessa Bell:1879年ー1961年 → 後に英国の画家 / インテリアデザイナーとなる)、長男のトビー(Thoby:1880年ー1906年)と次男のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)と一緒に、それまで住んでいたハイドパークゲイト通り22番地(22 Hyde Park Gate → 2026年5月12日 / 5月17日付ブログで紹介済)の家を売却して、ゴードンスクエア46番地(46 Gordon Square → 2026年5月22日 / 5月27日付ブログで紹介済)に家を購入した。


ヴァージニア・ウルフが生まれた
ハイドパークゲイト通り22番地の建物全景
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが神経衰弱の療養からゴードンスクエア46番地の家へ戻り、落ち着いた翌年の1905年3月頃から、兄のトビーがケンブリッジ大学(University of Cambridge)において知り合った才気溢れる青年達が、ゴードンスクエア46番地の家に集まるようになった。彼らの集まりは、後に「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury Group)」と言う著述家や芸術家の知的サークルへとなる。


英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴンが
1904年2月22日に亡くなった後、
ハイドパークゲイト通り22番地の家を売却して、
ヴァージニア・ウルフ達が引っ越したゴードンスクエア46番地の建物全景
<筆者撮影>


1906年の秋、兄のトビー達がギリシア / トルコ旅行へ出かけた際、トビーが腸チフス(typhoid fever)に罹患し、同年11月20日に、26歳の若さで急死してしまう。

また、トビーが亡くなった2日後、姉のヴァネッサがアーサー・クライヴ・へワード・ベル(Arthur Clive Heward Bell:1881年-1964年 → 後に英国の芸術批評家となる)からの求婚を受け、2人は1907年に結婚。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


上記の結果、2人となったヴァージニア・ウルフと弟のエイドリアンは、1907年8月、ゴードンスクエア46番地の家から、フィッツロヴィア(Fitzrovia)の端正なフィッツロイスクエア29番地(29 Fitzroy Square)の家へ引っ越した。

ヴァージニア・ウルフ達が引っ越したフィッツロイスクエア29番地には、アイルランド出身の文学者 / 脚本家 / 劇作家 / 評論家 / 政治家 / 教育家 / ジャーナリストであるジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw:1856年ー1950年)が、1887年から1898年までの間、住んでいた。



姉のヴァネッサが結婚したアーサー・クライヴ・へワード・ベルの父親は、ウェールズ(Wales)の鉱山業で巨万の富を築いており、姉のヴァネッサは、アーサー・クライヴ・へワード・ベルとの結婚により、裕福な一族への仲間入りを果たしていた。

ヴァージニア・ウルフとしては、姉のヴァネッサが結婚により富を得たこと自体、公正ではないと憤っており、彼女と弟のエイドリアンは、フィッツロイスクエア29番地の家で、倹しく生活を送った。


フィッツロイスクエア29番地の建物入口
<筆者撮影>


また、ヴァージニア・ウルフは、フィッツロイスクエア29番地の家で、彼女の処女作(小説)となる「船出(The Voyage Out)」の執筆に取り掛かっている。

「船出」が実際に出版されるのは、1915年である。


ヴァージニア・ウルフが、1907年から1911年までの間、
フィッツロイスクエア29番地に住んでいたことを示すプラーク
<筆者撮影>


フィッツロイスクエア29番地の建物入口の右側の外壁に、「ヴァージニア・ウルフ(旧姓:ヴァージニア・スティーブン)が、1907年から1911年までの間、ここに住んでいた」ことを示す Greater London Council のプラークが掛けられている。


ジョージ・バーナード・ショーが、1887年から1898年までの間、
フィッツロイスクエア29番地に住んでいたことを示すプラーク
<筆者撮影>


更に、そのプラークの上に、「ジョージ・バーナード・ショーが、1887年から1898年までの間、住んでいた」ことを示すプラークも掛けられている。