2026年4月12日日曜日

ロンドン エバリーストリート180番地(180 Ebury Street)

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトを含むモーツァルト一家がロンドン訪問時に滞在していた
エバリーストリート180番地の建物全景
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1938年に発表した「ポワロのクリスマス(Hercule Poirot’s Christmas)」において、アドルスフィールドのロングデイルにある屋敷ゴーストンホールの当主シメオン・リー( Simeon Lee)がクリスマスに呼び集められた彼の四男で芸術家のデイヴィッド・リー(David Lee)に対して、妻のヒルダ・リー(Hilda Lee)がリクエストしたピアノ曲の作曲者は、主にオーストリアを活動拠点とした音楽家のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart:1756年ー1791年)である。


英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「ポワロのクリスマス」ペーパーバック版の表紙 -
ゴーストンホールの2階の「密室」状態の自室において、
喉を切り裂かれて惨殺された当主のシメオン・リーを暗示するように、
彼の部屋のドアが表紙に描かれている。


ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、8歳の時(1764年)、父親のヨーハン・ゲオルク・レオポルト・モーツァルト(Johann Georg Leopold Mozart:1719年ー1787年)と一緒に、ロンドンを訪れて、約15ヶ月間滞在している。


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)内で所蔵 / 展示されている
ハノーヴァー朝の第3代英国王であるジョージ3世の肖像画
(By the studio of Allan Ramsay / Oil on canvas /
based on a portrait of 1761 - 1762)
<筆者撮影>


ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ジョージ3世の王妃である
ソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ
(1744年ー1818年)の肖像画

(By the studio of Allan Ramsay / Oil on canvas /
based on a portrait of 1761 - 1762)
<筆者撮影>


ロンドンに着いて、僅か4日後に、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、5歳年上の姉マリア・アンナ・モーツァルト(Maria Anna Walburga Ignatia Mozart:1751年ー1829年 - 愛称:ナンネル(Nannerl))と共に、ハノーヴァー朝の第3代国王であるジョージ3世(George III:1683年ー1820年 在位期間:1760年ー1820年)の前で演奏を披露している。


オレンジスクエア内に建つ「若きモーツァルト像」を正面から見たところ -
「若きモーツァルト像」の背後で左右に延びる通りが、エバリーストリート。
<筆者撮影>


オレンジスクエアの案内板 -
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのロンドン滞在のことが説明されている。
<筆者撮影>


彼の没後200周年を記念して、スコットランドの彫刻家であるフィリップ・ヘンリー・クリストファー・ジャクスン(Philip Henry Christopher Jackson:1944年ー)が制作して、ウィンザー朝(House of Windsor)の第4代女王であるエリザベス2世(Elizabeth II:1926年ー2022年 在位期間:1952年ー2022年)の妹スノードン伯爵夫人マーガレット王女(Princess Margaret, Countess of Snowdon:1930年ー2002年)が1994年に除幕式を行なった「若きモーツァルト像(The Young Mozart)」が設置されているオレンジスクエア(Orange Square)については、2026年4月8日付ブログで紹介済である。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ベルグラヴィア地区の地図を抜粋。-
ピムリコロード近くの「WC」表示がある場所に、オレンジスクエアが所在している。


モーツァルト一家が滞在していた家は、オレンジスクエアのすぐ近くにあるエバリーストリート(Ebury Street)沿いに建っている。

エバリーストリートは、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のベルグラヴィア地区(Belgravia)内にある。なお、ベルグラヴィア地区は、西側の地下鉄スローンスクエア駅(Sloane Square Tube Station)と東側のヴィクトリア駅(Victoria Station → 2015年6月13日付ブログで紹介済)/ 地下鉄ヴィクトリア駅(Victoria Tube Station → 2017年7月2日付ブログで紹介済)に挟まれた地域である。

エバリーストリートは、オレンジスクエアがある場所で、ピムリコロード(Pimlico Road)から枝分かれして北上し、ヴィクトリア駅 / 地下鉄ヴィクトリア駅の前を通るグローヴナーガーデンズ通り(Grosvenor Gardens)に突き当たって終わるかなり長い通りである。



エバリーストリート180番地の反対側(東側)から北方面を見たところ
<筆者撮影>

エバリーストリート180番地の反対側(東側)から北方面を見たところ -
画面左奥にオレンジスクエアが所在している。
<筆者撮影>


ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトを含むモーツァルト一家が滞在していたエバリーストリート180番地は、北側のイートンテラス(Eaton Terrace)と南側のボーンストリート(Bourne Street)に挟まれたエバリーストリートの西側の中間辺りに建っている。


エバリーストリート180番地の1階(Ground Floor)のアップ
<筆者撮影>


姉マリア・アンナ・モーツァルトの日記によると、父ヨーハン・ゲオルク・レオポルト・モーツァルトが病気の間、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、暇潰しのために、交響曲の作曲を始めて、「交響曲第1番」を完成させている。


エバリーストリート180番地の1階の外壁には、
「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが、1764年にここで最初の交響曲を作曲した」ことを示す
プラークが掛けられている。
<筆者撮影>


エバリーストリート180番地の外壁には、「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが、1764年にここで最初の交響曲を作曲した(Wolfgang Amadeus Mozart (1756 - 1791) composed his first symphony here in 1764)」ことを示す London City Council のプラークが掛けられている。 


2026年4月11日土曜日

ロンドン ラッセルスクエア(Russell Square)- その2

南東の入口近くに設置されている
ラッセルスクエアの沿革に関する説明板
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1931年に発表した「シタフォードの謎(東京創元社)/ シタフォードの秘密(早川書房)(The Sittaford Mystery → 2026年3月19日 / 3月22日 / 3月30日付ブログで紹介済)」は、彼女が執筆した長編としては、第11作目に該り、エルキュール・ポワロやミス・ジェーン・マープル等が登場しないノンシリーズ作品である。


2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「シタフォードの謎」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Toby James / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
南アフリカから英国へとやって来たウィレット夫人と
娘のヴァイオレット・ウィレットが借りている
シタフォード荘において催され降霊術会で
霊が「
トリヴェリアン大佐が死んだ」と告げたため、
大佐の友人で、彼の安否を気遣った
ジョン・エドワード・バーナビー少佐が、
吹雪の中、大佐が住む
シタフォード村から6マイル離れたエクスハンプトン村の
ヘイゼルムーア荘を訪れる場面が描かれている。


海軍のジョーゼフ・アーサー・トリヴェリアン大佐(Captain Joseph Arthur Trevelyan)は、10年前に退役した後、デヴォン州(Devon)ダートムーア(Dartmoor)の周辺部に所在するシタフォード(Sittaford)と言う小さな村に退き、シタフォード荘(Sittaford House)と言う屋敷を建てて、そこに住んでいたが、ある年の10月の終わり頃、不動産エージェント経由、冬の間、シタフォード荘を借りたいと言う依頼があり、先方が提示した家賃の額も非常に良かったため、彼はシタフォード村から6マイル離れたエクスハンプトン(Exhampton)と言う村に所在するヘイゼルムーア荘(Hazelmoor)を借りて、転居した。


そして、南アフリカから英国へとやって来たウィレット夫人(Mrs. Willett)と娘のヴァイオレット・ウィレット(Miss Violet Willett)の2人がシタフォード荘に入居して、約2ヶ月が経過した12月のある金曜日の午後、ウィレット母娘の2人やお茶会に招待されたシタフォード荘の周りに住む4人が行ったテーブルターニング(table-turning / 降霊術会)での霊のお告げ通り、ジョーゼフ・トリヴェリアン大佐の安否を気遣ったジョン・バーナビー少佐(Major John Edward Burnaby)が、2時間半後(午後8時前)、吹雪の中、ジョーゼフ・トリヴェリアン大佐が住むヘイゼルムーア荘に到着したところ、ジョーゼフ・トリヴェリアン大佐は、砂が入った緑色の袋で頭部を殴打されて、殺害されていたのである。


2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「シタフォードの謎」の愛蔵版(ハードカバー版)の内扉 
-
南アフリカから英国へとやって来たウィレット夫人と
娘のヴァイオレット・ウィレットが借りている
シタフォード荘において催され降霊術会で
霊が「
トリヴェリアン大佐が死んだ」と告げたため、
大佐の友人で、彼の安否を気遣った
ジョン・エドワード・バーナビー少佐が、
吹雪の中、大佐が住む
エクスハンプトン村(シタフォード村から6マイル離れている)の
ヘイゼルムーア荘を訪れるが、
地面に降り積もった雪の上に残された
ジョン・エドワード・バーナビー少佐の足跡が、
内扉にデザインされているものと思われる。


ジョーゼフ・トリヴェリアン大佐の遺産の相続人の一人で、彼の妹メアリー・ピアスン(Mary Pearson - 故人)の次男ブライアン・ピアスン(Brian Pearson)は、オーストラリア(Australia)のニューサウスウェールズ(New South Wales)に在住しているとのことだったが、実際には、英国に居て、その上、ヴァイオレット・ウィレットと恋仲であることも判明した。

そして、ブライアン・ピアスンは、ロンドン市内のラッセルスクエア(Russell Square)にある Ormsby Hotel に宿泊していたのだった。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区の地図を抜粋。


ブライアン・ピアスンが滞在していたホテルが所在するラッセルスクエアは、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にある正方形の広場で、ロンドンで2番目に大きい。


ラッセルスクエアの南東の入口近くから北方面を見たところ
<筆者撮影>

ラッセルスクエアの南東の入口近くから東方面を見たところ
<筆者撮影>

ラッセルスクエアの南東の入口近くから南方面を見たところ
<筆者撮影>


現在のラッセルスクエアとブルームズベリースクエア(Bloomsbury Square → 2025年2月24日 / 2月26日付ブログで紹介済)の間に、ベッドフォード公爵(Duke of Bedord)が所有するベッドフォードハウス(Bedford House)が建っていた。


ラッセルスクエア内で見かけることができる野鳥に関する説明板
<筆者撮影>

英国の貴族で、ホイッグ党(Whig)の政治家でもあった第5代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセル(Francis Russell, 5th Duke of Bedford:1765年ー1802年)は、1800年にベッドフォードハウスを取り壊すと、英国の不動産開発業者であるジェイムズ・バートン(James Burton:1761年ー1837年)に依頼して、住宅の建設を進めた。

また、英国の造園師であるハンフリー・レプトン(Humphry Repton:1752年ー1818年)に依頼して、ラッセルスクエアの設計を行った。


ラッセルスクエア内の案内図
<筆者撮影>

ラッセルスクエアは、1801年から1805年までの建設期間を経て、完成。生憎と、第5代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセルは、ラッセルスクエアの完成を見ないまま、1802年に亡くなった。

開発以前は、近隣のサザンプトンロウ(Southampton Row)に因んで、「サザンプトンフィールズ(Southampton Fields)」、あるいは、「ロングフィールズ(Long Fields)」と呼ばれていたが、完成後、ベッドフォード公爵家の姓に因んで、「ラッセルスクエア」と命名された。



その後、英国の彫刻家であるサー・リチャード・ウェストマコット(Sir Richard Westmacott:1775年ー1856年)により、第5代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセル像が制作され、1809年にラッセルスクエアの南側に設置された。


ラッセルスクエアの南側に建つ
第5代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセル像の全景
<筆者撮影>

ラッセルスクエアの南側に建つ
第5代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセル像のアップ
<筆者撮影>

ラッセルスクエアの南側に建つ
第5代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセル像の台座 -
「MDCCCIX」は、像が設置された「1809年」を示す。
『M」は「1000年」、「D」は「500年」、「C」は「100年」、
そして、「IX」は「9年」を意味している。
<筆者撮影>

なお、第5代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセル像は、ラッセルスクエアには背を向けて、以前、ベッドフォードハウスが建っていた方向を見つめている。


2026年4月10日金曜日

ミス・マープルの世界<ジグソーパズル>(The World of Miss Marple )- その23B

ビル・ブラッグ氏(Mr. Bill Bragg)が描く
ミス・マープルシリーズの短編集「ミス・マープル最後の事件簿」の一場面


ビル・ブラッグ氏によるイラストには、

「ミス・マープルの思い出話 / ミス・マープルは語る」における

一場面が描かれている。

ベッドの上で刺殺されているのは、

バーンチェスター村(Barnchester)のクラウンホテル(Crown Hotel)に宿泊していた

ローズ夫人(Mrs. Rhodes)である。

Harper Collins Publishers 社から出版されている

「ミス・マープル最後の事件簿」のペーパーバック版の表紙には、

ビル・ブラッグ氏によるイラストが、

ジグソーパズルの形に切り取られているものが使用されている。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が亡くなった後の1979年に英国で出版された短編集「ミス・マープル最後の事件簿(Miss Marple’s Final Cases)」には、ミス・ジェーン・マープルが登場する短編6作とその他の短編2作の合計8作が収録された。

なお、米国において、本短編集に収録された作品のほとんどが雑誌に掲載済だったこともあり、当初、本短編集は、米国では出版されなかった。


短編集「ミス・マープル最後の事件簿」には、以下の8編が収録されている。


・「教会で死んだ男(Sanctuary)」

・「奇妙な冗談 / 風変わりないたずら(Strange Jest)」→ 米国(1941年)と英国(1944年)の雑誌に掲載された際の原題は、「The Case of the Buried Treasure」

・「昔ながらの殺人事件 / 巻尺殺人事件(Tape-Measure Murder)」→ 英国(1942年)の雑誌に掲載された際の原題は、「The Case of the Retired Jeweller」

・「管理人事件 / 管理人の老婆(The Case of the Caretaker)」

・「申し分のないメイド / 申し分のない女中(The Case of the Perfect Maid)」→ 英国(1942年)の雑誌に掲載された際の原題は、「The Perfect Maid」

・「ミス・マープルの思い出話 / ミス・マープルは語る(Miss Marple Tells a Story)」→ 英国(1935年)の雑誌に掲載された際の原題は、「Behind Closed Doors」

・「仄暗い鏡の中に / 暗い鏡のなかに(In a Glass Darkly)」

・「洋裁店の人形(The Dressmaker’s Doll)」


なお、「仄暗い鏡の中に / 暗い鏡のなかに」と「洋裁店の人形」については、ミス・マープルシリーズに属する作品ではない。


2014年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された
「エルキュール・ポワロとグリーンショア屋敷の阿房宮」のハードカバー版のカバー画
(By Mr. Tom Adams)
-
物語の舞台となるグリーンショア屋敷、重要な役割を果たす阿房宮、
レディー・ハティー・スタッブス(Lady Hattie Stubbs)、
事件の舞台となるボート小屋等が描かれている。
また、左下には、フォリアット夫人(Mrs. Folliat)、もしくは、
作者のアガサ・クリスティー本人が描かれている。


1954年11月、アガサ・クリスティーは、自分の生まれ故郷であるデヴォン州(Devon)のチャーストン フェラーズ(Churston Ferrers)にあるセントメアリー聖母教会(St. Mary the Virgin Church)に寄付をするため、ある中編を執筆して、その印税収入を充てようとした。そこで、彼女は自分の住まいがあるグリーンウェイ(Greenway)を小説の舞台にした。それが「エルキュール・ポワロとグリーンショア屋敷の阿房宮(Hercule Poirot and the Greenshore Folly → 2014年9月27日付ブログで紹介済)」で、60年の歳月を経て、2014年に初めて出版された。殺人事件が発生する小説の舞台に実在の場所である「グリーンウェイ」をそのまま使用できないので、「グリーンショア」と変更したものと思われる。なお、この中編は、雑誌掲載には難しい長さであったため、残念ながら、未発表のままに終わっている。

上記の中編の代わりに、アガサ・クリスティーは、ミス・マープルを主人公とした短編「グリーンショウ氏の阿房宮(Greenshaw's Folly)」を教会に寄付している。

アガサ・クリスティーは、この中編を長編にして、2年後の1956年に「死者のあやまち(Dead Man's Folly)」を発表している。


2014年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された
「エルキュール・ポワロとグリーンショア屋敷の阿房宮」のハードカバー版本体の見開き画
(By Mr. Tom Adams)


上記を受けて、現在、「ミス・マープル最後の事件簿」には、エルキュール・ポワロを探偵役とした中編 / 長編からミス・マープルを主人公に変更した短編「グリーンショウ氏の阿房宮」を含めた9編が収録されている。


(66)ベーコン用豚肉(gammon)



「奇妙な冗談 / 風変わりないたずら」において、人気の舞台女優ジェーン・ヘリアー(Jane Helier)が、あるカップルに対して、ミス・マープルを紹介する。

ジェーン・ヘリアーの友人であるチャーミアン・ストラウド(Charmian Stroud)は、エドワード・ロシター(Edward Rossiter)と婚約中。2人の大伯父に該るマシュー・ストラウド(Matthew Stroud)が最近亡くなった。彼は、死の直前に謎の言葉を残していた。大伯父の遺産が屋敷の何処かに隠されているようだが、2人が大伯父の隠し財産を見つけるべく、屋敷中を探したものの、何も見つからなかった。

そこで、2人は、ジェーン・ヘリアーを通じて、ミス・マープルに助けを求めたのである。

物語中、ミス・マープルが、焼きハム(baked ham)のレジピを読む場面が出てくる。食材として、ベーコン用豚肉とほうれん草等が必要だった。


(67)巻尺(tape measure)



「昔ながらの殺人事件 / 巻尺殺人事件」の場合、ミス・マープルが住むセントメアリーミード村(St. Mary Mead)において、殺人事件が発生する。

宝石商アーサー・スペンロウ(Arthur Spenlow)の妻スペンロウ夫人(Mrs. Spenlow)が、夫妻の自宅の居間の床の上に倒れているのが発見された。首を何かベルトのようなもので絞められて殺されていたのである。

彼女の絞殺死体を見つけたのは、彼女の家を訪ねて来た仕立て女のポリット(Miss Politt)と戸口で声を掛けたアマンダ・ハートネル(Miss Amanda Hartnell → 2024年8月16日付ブログで紹介済)の2人だった。

被害者の夫アーサー・スペンロウが冷静過ぎる態度を示したため、疑いの目が彼に向けられる。アーサー・スペンロウは、「午後、ミス・マープルに電話で呼ばれた。」と言って、アリバイを訴えるが、ミス・マープルには、彼に電話をした覚えがなかった。

警察はアーサー・スペンロウを疑っているが、彼のことを気に入っているミス・マープルは、事件の真相を調べ始める。

ミス・マープルが調べた結果、スペンロウ夫人の絞殺に使用された凶器は、巻尺だった。となると、彼女を殺害した犯人は、自ずと明らかだった。


(68)ハッカ入りキャンディー棒(peppermint stick)



「申し分のないメイド / 申し分のない女中」の場合、ミス・マープルのメイドであるエドナ(Edna)が、彼女の従姉妹で、同じようにメイドをしているグラディス(Gladys)のことで、ミス・マープルに相談する。

グラディスは、オールドホール(Old Hall)に住むラヴィニア・スキナー(Lavinia Skinner:姉)とエミリー・スキナー(Emily Skinner)のところで奉公していたが、宝石を盗んだと疑われて、暇を出されてしまった。それが更に悪い評判を呼んで、グラディスは、新しい奉公先を見つけられない、とのことだった。

エドナから相談を受けたミス・マープルは、早速、手助けを始めるが、スキナー姉妹は、グラディスよりも優秀で、申し分のないメイドを既に雇っていたのである。

ミス・マープルは、ある人物の指紋を採取するために、ハッカ入りキャンディー棒を使用している。


         

2026年4月9日木曜日

ロンドン チェスターテラス(Chester Terrace)

チェスターゲート通り(南側)から見たチェスターテラスの入口
<筆者撮影>


後に英国のイラストレーター / 詩人 / 小説家となるオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)は、アイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、シャーロック・ホームズシリーズの作者サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)の友人でもあったオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)による一幕物の悲劇である戯曲「サロメ(Salome → 2026年3月11日 / 3月12日付ブログで紹介済)」に挿画を提供する契約を締結。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示
されている
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの肖像画
(by Jacques-Emile Blanche / oil on canvas / 1895年)
<筆者撮影>


戯曲「サロメ」は、1891年にオスカー・ワイルドによりフランス語で執筆されて、1893年にパリで出版された。

同戯曲の英訳版は、1894年に出版されているが、当時、オスカー・ワイルドの同性の恋人だった第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ショルト・ダグラス(John Sholto Douglas, 9th Marquess of Queensberry:1844年ー1900年)の三男で、作家 / 詩人 / 翻訳家のアルフレッド・ブルース・ダグラス卿(Lord Alfred Bruce Douglas:1870年ー1945年)が英訳を行ったものの、出来が悪かったため、オスカー・ワイルド自身が、その英訳を修正している。

当初、オーブリー・ビアズリーは、戯曲「サロメ」の英訳者となることを望んでいたものの、残念ながら、彼の希望は叶えられなかった。


オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」の英訳版に付されている
オードリー・ビアズリーによる挿画 - タイトルページ


戯曲「サロメ」の英訳版への挿絵提供を依頼したのは、作者であるオスカー・ワイルド自身であったが、彼は、出来上がったオーブリー・ビアズリーについて、「自分の劇はビザンティン的なのに対して、ビアズリーの挿絵はあまりにも、日本的だ。」とコメントしており、お気に召さなかったようである。


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
オスカー・ワイルドの写真の葉書
(Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card
305 mm x 184 mm) 


1895年4月5日、オスカー・ワイルドがアルフレッド・ブルース・ダグラスとの男色の罪状で逮捕される。

オーブリー・ビアズリー自身は男色家ではなかったものの、戯曲「サロメ」の英訳版への挿絵提供以降、彼はオスカー・ワイルドと同一視されていたため、当時の世論から猛攻撃を受けてしまい、同年4月20日、追われるようにロンドンからパリへと渡る。

同年5月5日にパリから帰国したオーブリー・ビアズリーは、同年7月に、1歳上の姉メイベル・ビアズリー(Mable Beardsley:1871年ー1916年)と同居していたケンブリッジストリート114番地(114 Cambridge Street → 2026年4月1日付ブログで紹介済)からリージェンツパーク(Regent’s Park → 2016年11月19日付ブログで紹介済)近くのチェスターテラス(Chester Terrace)の借家へ転居する。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
リージェンツパーク地区の地図を抜粋。


チェスターテラスは、リージェンツパークの東側にあり、リージェンツパークを周回するアウターサークル(Outer Circle - 外周道路)に並行して南北に延びる通りで、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のリージェンツパーク地区(Regent's Park)内に位置している。



リージェンツパークを周回するアウターサークルとその外側のアルバニーストリート(Albany Street)を東西に結ぶチェスターゲート通り(Chester Gate → 2016年11月12日付ブログで紹介済)の南側から北へ向かい、約300mにわたって、チェスターテラスが延びており、通りの東側には、スタッコ塗りの白いテラス式ハウスが42棟並んでいる。


チェスターテラスの東側に建ち並ぶ42棟の白いテラス式ハウス -
左(西)の庭園側は、現在、改修工事中。
<筆者撮影>

チェスターテラスは、リージェントストリート(Regent Street)やリージェンツパーク等の開発を行った建築家で、かつ都市計画家のジョン・ナッシュ(John Nash:1752年ー1835年)により設計され、ブルームズベリー地区(Bloomsbury)の整備に尽力したジェイムズ・バートン(James Burton:1761年ー1837年)が建設した。


セントジェイムズスクエアガーデンズ(St. James's Square Gardens
→ 2015年10月25日付ブログで紹介済)の内に設置されているジョン・ナッシュ像
<筆者撮影>


チェスターゲート通りやチェスターテラスの「チェスター(Chester)」は、ハノーヴァー朝の第4代国王であるジョージ4世(George IV:1762年ー1830年 在位期間:1820年ー1830年)が即位前に有していた爵位の「チェスター伯爵(Earl of Chester)」に因んでいる。


ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ハノーヴァー朝の第4代英国王であるジョージ4世の肖像画
(By Sir Thomas Lawrence / Oil on canvas / 1814年頃)
<筆者撮影>


チェスターテラス沿いのテラス式ハウス群は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、ドイツ軍による爆撃で甚大な被害を受けた。

1950年代に入ると、復旧工事が行われ、当初は、英国政府機関が使用するも、1950年代後半には、民間の住居用に戻された。


チェスターゲート通り側チェスターテラス入口の右側に建つ住居部分(その1)
<筆者撮影>

チェスターゲート通り側チェスターテラス入口の右側に建つ住居部分(その2)
<筆者撮影>


チェスターテラスは、現在、Grade I listed building に指定され、保存対象となっている。