2026年9月23日水曜日

ロンドン ハックニーエンパイア劇場(Hackney Empire Theatre)- その1



アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「スペイン櫃の謎(The Mystery of the Spanish Chest)」(1960年)は、1932年に発表された短編「バグダッドの大櫃の謎(The Mystery of the Baghdad Chest)」を改稿した中編で、短編集「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)に収録されている。


英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」の TV ドラマ版が、英国の TV 会社 ITV 社による制作の下、「Agatha Christie’s Poirot」の第27話(第3シリーズ)として、1991年2月17日に放映されている。英国の俳優であるサー・デヴィッド・スーシェ(Sir David Suchet:1946年ー)が、名探偵エルキュール・ポワロを演じている。


第27話「スペイン櫃の謎」が収録された
エルキュール・ポワロシリーズの DVD コレクション No. 3 の表紙


第27話「スペイン櫃の謎」が収録された
エルキュール・ポワロシリーズの DVD コレクション No. 3 の裏表紙


アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」の TV ドラマ版の場合、原作対比、以下のような差異が見受けられる。


<原作>

ある日の朝、エルキュール・ポワロが秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)にその日の仕事を指示する際、持参した朝刊の見出しにある記事「スペイン櫃の謎(SPANISH CHEST MYSTERY)」に興味を持ち、彼女に対して、事件の詳細を調べるよう、頼むところから、物語が始まる。つまり、物語の冒頭、事件は発生しており、ポワロは事後に事件に関与する形を採っている。


<英国 TV ドラマ版>

英国 TV ドラマ版の場合、原作とは異なり、ポワロは事件の発生前から関係者達に出会い、物語の中盤に事件が発生して、ポワロが事件の調査を行うと言う形へ変更されている。


(1)

10年前、エドワード・クレイトン(Edward Clayton - 原作のアーノルド・クレイトン(Arnold Clayton)に相当)とカーティス(陸軍)大佐(Colonel Curtiss - 原作のジョック・マクラーレン(海軍)中佐(Commander Jock McLaren)に相当)の2人が、マーガリート・クレイトン(Marguerite Clayton - 原作のマーガリータ・クレイトン(Margharita Clayton)に相当)との結婚を賭けて、フェンシングによる決闘を行う場面が描かれる。

日本における武士の果たし合いのように、命を賭ける訳ではなく、相手の身体に傷を負わせた時点で、勝敗が決するルールだったと思われる。

実際、エドワード・クレイトンが振るったフェンシングの剣先が、カーティス大佐の頬を傷付けたところで勝敗が決して、エドワード・クレイトンがマーガリートを妻にしたのである。


(2)

上記(1)から10年後、ポワロは、アーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings)と一緒に、劇場において、オペラ「リゴレット(Rigoletto - ヴィクトル・ユーゴーの戯曲「王様はお楽しみ」を原作にしたヴェルディ(Verdi)による歌劇)」を観劇。

インターバル時に、ポワロは、レディー・キャロライン・チャタートン(Lady Caroline Chatterton - 原作のレディー・アビー・チャタートン(Lady Abbie Chatterton)に相当)から声を掛けられる。

レディー・キャロライン・チャタートンによると、彼女はポワロの知人で、ポワロが Chalfont diamond case(ダイヤモンドの盗難事件?)を解決した際、彼女も容疑者の一人だった、とのこと。

レディー・キャロライン・チャタートンは、ポワロに対して、「友人のマーガリート・クレイトンの件で、相談したいことがある。」と話す。

その際、ポワロは、遠方でマーガリート・クレイトンとジョン・リッチ(陸軍)少佐(Major John Rich - 原作のチャールズ・リッチ少佐(Major Charles Rich)に相当)が歓談しているのを見かける。


(3)

レディー・キャロライン・チャタートンから相談を受けたポワロは、翌日の午前11時、ヘイスティングス大尉を伴って、彼女の自宅を訪問の上、更に詳しい説明を受ける。

レディー・キャロライン・チャタートン曰く、


*10年前に、マーガリート・クレイトンとの結婚をめぐって、2人の男性(エドワード・クレイトンとカーティス大佐)が、フェンシングで対決。


*エドワード・クレイトンは、妻のマーガリート・クレイトンとジョン・リッチ少佐の関係を疑っていて、そのため、彼女を殺害しようとしているのではないか?


とのことだった。


上記(2)において、ポワロが、ヘイスティングス大尉と一緒に、オペラ「リゴレット」を観劇した劇場として、ハックニーエンパイア劇場(Hackney Empire Theatre)の内部が撮影に使用されている。


ハックニーエンパイア劇場は、ロンドンの特別区の一つであるハックニー区(London Borough of Hackney)ハックニー地区(Hackney)内に所在しており、南北に延びるメアストリート(Mare Street)の西側に建っている。


ライルストリート(Lisle Street)の対岸から
ヒッポドローム劇場を見たところ
<筆者撮影>



ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のソーホー地区(Soho)内に所在するヒッポドローム劇場(The Hippodrome → 2015年10月17日付ブログで紹介済)やロンドンの特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のリッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)のリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)内に所在するリッチモンド劇場(Richmond Theatre → 2026年7月25日 / 7月27日付ブログで紹介済)と同じく、ハックニーエンパイア劇場も、劇場の建設やデザインを専門とする英国の建築家であるフランク・マッチャム(Frank Matcham:1854年ー1920年)による設計に基づいて、1901年にミュージックホールとして建てられた。


リトルグリーン通り(Little Green)の対岸から
リッチモンド劇場を見たところ
<筆者撮影>


2026年9月22日火曜日

初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson)- その1

ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)で展示されている
アルフレッド・テニスンの肖像画
(By George Frederic Watts / Oil on canvas / 1863年ー1864年頃
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1962年に発表したミス・マープルシリーズ作品の長編第8作目「鏡は横にひび割れて(Mirror Crack’d from Side to Side)」では、「ゴシントンホール(Gossington Hall - ミス・マープルの親友であるドリー・バントリー(Dolly Bantry → 2024年8月14日付ブログで紹介済)が所有していた邸宅)」を購入して、最近、セントメアリーミード村(St. Mary Mead)に引っ越して来た米国の映画女優であるマリーナ・グレッグ(Marina Gregg)と彼女の夫で、映画監督であるジェイスン・ラッド(Jason Rudd)が開催したセントジョン野戦病院協会(St. John Ambulance)支援パーティーの席上、マリーナ・グレッグを捕まえて、長い昔話を始めた同協会の幹事を務めるヘザー・バドコック(Mrs. Heather Badcock)が、突然倒れて、死亡してしまう事件が発生する。

スコットランドヤードのダーモット・クラドック主任警部(Chief Inspector Dermot Craddock)が捜査を担当し、検死解剖の結果、ヘザー・バドコックの死因は、推奨量の6倍もの精神安定剤を摂取したことによるもので、その精神安定剤は、マリーナ・グレッグが持っていたダイキリ(daiquiri)のグラス内に混入されており、自分の飲み物をこぼしたヘザー・バドコックに対して、マリーナ・グレッグがそのグラスを手渡したのであった。


英国の Harper Collins Publishers 社から出版されている
アガサ・クリスティー作ミス・マープルシリーズ
「鏡は横にひび割れて」のペーパーバック版の表紙
<イラスト:ビル・ブラッグ氏(Mr. Bill Bragg)>


ヘザー・バドコックとマリーナ・グレッグの会話を近くで聞いていたドリー・バントリーは、ヘザー・バドコックが長話をしている間、マリーナ・グレッグが非常に奇妙な表情を浮かべていたことに気付いた。

その違和感について、ドリー・バントリーは、セントジョン野戦病院協会支援パーティーに参加できなかったミス・マープルに対して、説明を行う。


「そうではなくて、マリーナ・グレッグの顔をよ。バドコックという女の話なんか、ひとことも聞いていなかったみたいな顔つきをしていたわ。相手の肩ごしに正面の壁を見つめているのよ。その見つめかたがねえ - どうにもわたしには説明できそうにないわ」

「そんなことを言わないで、なんとか努力してみてよ」とミス・マープルは言った。「そこのところが重要な点かもしれないのだから」

「一種の凍りついたような表情だったわ」と彼女は言葉をさがしさがし説明しようとした。「まるで、なにかを見たみたいな - 情景を描写するなんてむずかしいものなのねえ。ああ、そうだわ、『レディ・オブ・シャロット』をおぼえていない?鏡は横にひび割れぬ。”ああ、わが命運もつきたり”と、シャロット姫は叫べり。マリーナもそういった表情をしていたのよ。近頃の人はテニスンなんて古臭いというけれど、わたしは若いときには心をときめかせて『レディ・オブ・シャロット』を読んだものだし、いまだってそうなのよ」

「凍りついたような表情をしていたのね」ミス・マープルは考えこんだ。

(橋本福夫訳)


横にひび割れた鏡 -
ジグソーパズル「アガサ・クリスティーの世界(The World of Agatha Christie)」の一部


アガサ・クリスティー作「鏡は横にひび割れて」の題名は、初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson:1809年ー1892年)による詩「シャロット姫(The Lady of Shalott)」をベースにしている。


Out flew the web and floated wide -

The mirror crack’d from side to side;

“The curse is come upon me,” cried

The Lady of Shalott.


織物はとびちり、ひろがれり

鏡は横にひび割れぬ

「ああ、呪いがわが身に」と、

シャロット姫は叫べり。

(橋本福夫訳)


テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)で購入した
英国の画家であるジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
(John William Waterhouse:1849年ー1917年)

「シャロット姫(The Lady of Shalott → 2024年9月28日付ブログで紹介済)」
(1888年)の絵葉書
Oil paint on canvas
153 cm x 200 cm
Presented by Sir Henry Tate in 1894


アルフレッド・テニスンは、1809年8月6日、英国国教会の牧師である父ジョージ・クレイトン・テニスン(George Clayton Tennyson)と母メアリー(Mary - 旧姓:ターナー(Turner))の三男として、リンカンシャー州(Lincolnshire)サマズビー(Somersby)に出生。

父ジョージ・クレイトン・テニスンは、建築、絵画、音楽や詩作等に造詣があり、弁護士 / 国会議員だった彼の父ジョージ・テニスン(George Tennyson)の長男で、彼の母エリザベス(Elizabeth - 旧姓:Fytche)から土地を相続したため、地方の牧師としては、かなり裕福だった。


ナショナルポートレイトギャラリーで販売されている
第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンの肖像画の葉書
(Richard Westall
 / 1813年 / Oil on canvas
914 mm x 711 mm) 


020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(=バイロン卿)が選ばれている。


少年時代のアルフレッド・テニスンは、英国のロマン派詩人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron:1788年ー1824年 → 2021年5月9日+2024年8月24日 / 8月30日付ブログで紹介済)の詩作に非常に魅了された。


パークレーン(Park Lane)に設置されていた
第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン像
(→ 2024年9月2日付ブログで紹介済)
<筆者撮影>


アルフレッド・テニスンは、1816年から1820年までの間、エドワード4世グラマースクール(King Edward VI Grammar School)に通い、1827年にケンブリッジ(Cambridge)のトリニティーカレッジ(Trinity College)に入学。


アルフレッド・テニスンは、1827年、兄であるフレデリック・テニスン(長男 / Frederick Tennyson:1807年ー1898年)やチャールズ・テニスン・ターナー(次男 / Charles Tennyson Turner:1808年ー1879年)と一緒に、最初の詩集「Poems by Two Brothers」を出版。

彼は、1829年、詩作「Timbuktu」で、ケンブリッジ大学において、学長 / 総長賞(Chancellor’s Gold Medal)を獲得。

続いて、彼は、1830年、単独の詩集となる「Poems Chiefly Lyrica」を出版した。


2026年9月21日月曜日

ロンドン セントジェイムズパーク(St. James’s Park)- その1

セントジェイムズパークの園内(その1)
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の長編第2作目で、かつ、トマス・ベレズフォード(Thomas Beresford - 愛称:トミー(Tommy))とプルーデンス・カウリー(Prudence Cowley - 愛称:タペンス(Tuppence))の記念すべきシリーズ第1作目に該る「秘密機関(The Secret Adversary → 2025年7月20日 / 10月1日付ブログで紹介済)」(1922年)は、英国の海運会社であるキュナードライン(Cunard Line)が所有する当時世界最大の旅客船で、米国ニューヨーク(New York)から英国リヴァプール(Liverpool)へと向かっていたルシタニア号(RMS Lusitania → 2025年7月22日 / 7月23日付ブログで紹介済)が、1915年5月7日の午後2時、アイルランド(Ireland)沖15㎞ の地点で、ドイツ帝国海軍(Imperial Germany Navy)の潜水艦 Uボート(U-boat)から2発の魚雷攻撃を受けて、沈没したところから、その物語が始まる。


2015年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「秘密機関」の
ペーパーバック版の表紙
(Cover design : 
HarperCollinsPublishers Ltd. /
Agatha Christie Ltd. 2015
)


第一次世界大戦(1914年ー1918年)が終わり、世界が復興へと向かう中、ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅(Dover Street Tube Station → 2025年7月30日 / 8月5日付ブログで紹介済)のドーヴァーストリート(Dover Street → 2025年7月28日 / 7月29日付ブログで紹介済)出口において、昔馴染みのトミーとタペンスは、偶然出くわした。


ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅のドーヴァーストリート出口があった
ドーヴァーストリート5−7番地(5-7 Dover Street
→ 2025年8月5日付ブログで紹介済)の建物外観
<筆者撮影>


二人は、お互いに戦後の就職難に悩まされていた。トミーの方は、大戦中の1916年に負傷しており、一方、タペンスの方は、大戦中ずーっと、ボランティアとして、様々な形で働いていたのである。


HarperCollins Publishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「秘密機関」のグラフィックノベル版
(→ 2023年8月1日 / 8月14日 / 8月16日 / 8月21日付ブログで紹介済)
-
第一次世界大戦後、タペンスこと、プルーデンス・カウリーと
トミーこと、トマス・ベレズフォードの2人は、
ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅のドーヴァーストリート出口において、数年ぶりに再会する。


久々の再会を果たしたトミーとタペンスは、ドーヴァーストリートを下って、ピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)へと向かう。


ドーヴァーストリート5−7番地の建物の右側には、現在、パブが建っている。
画面奥で左右に延びる通りが、ピカデリー通り。
<筆者撮影>


ピカデリー通り -
画面中央奥に見える建物が、ホテル「リッツ ロンドン」。
<筆者撮影>


カフェ「リオンズ(Lyons)」に腰を落ち着けた2人は、お互いの近況を語り合う。

日々のお金に困っていたトミーとタペンスは、「青年冒険家商会(The Young Adventurers, Ltd.)」を設立して、2人で報酬を獲得する術を話し合った。

その際、トミーは、タペンスに対して、「今日、通りで2人の男性がジェーン・フィン(Jane Finn)について話しているのを耳にした。」と言う少し変わったことを告げる。


地下鉄ピカデリーサーカス駅の
ベイカールーラインが停まるプラットフォームの壁にある駅表示
<筆者撮影>


翌日の昼12時に、地下鉄ピカデリー駅(Piccadilly Tube Station → 2026年8月12日 / 8月23日付ブログで紹介済)で待ち合わせて、「青年冒険家商会」の内容を更に詰めることを約束した2人は、カフェ「リオンズ」を出る。


タペンスと別れた後、トミーが散策する予定だったホテル「リッツ ロンドン」 -
ピカデリー通りを間に挟んで、通りの反対側から見上げたところ。
<筆者撮影>


トミーは、ホテル「リッツ ロンドン(The Ritz London → 2025年7月2日 / 7月14日付ブログで紹介済)」辺りまで、ブラブラと散策するつもりだった。一方、タペンスの方は、サザンベルグレイヴィア(Southern Belgravia → 2026年8月29日 / 9月7日 / 9月14日付ブログで紹介済)の寄宿寮(hostel)へ真っ直ぐに帰ることにした。


ベルグレイヴィア地区のノーザングレイヴィアとサザングレイヴィアの境にある
イートンスクエアガーデンズ(Eaton Square Gardens)
<筆者撮影>


She was half-way across St James’s Park, when a man’s voice behind her made her start.

‘Excuse me,’ it said. ‘But may I speak to you for a moment?’

Tuppence turned sharply, but the words hovering on the tip of her tongue remained unspoken for the man’s appearance and manner did not bear out her first and most natural assumption. She hesitated. As if he read her thoughts, the man said quickly:

‘I can assure you I mean no disrespect.’


セント・ジェームズ公園を途中まで横切ったとき、後ろから男性に呼びとめられた。

「すみませんが、ちょっといいですか?」

タペンスは驚いてふりかえったが、声をかけた男性の風貌や態度が予想とあまりに違ったので、舌の先まで出かかった言葉をのみこんだ。ためらっていると、まるでその心を読みとったかのように、その賛成はすかさず言った。

「ご心配なく。けっして失礼なことをするつもりはありません」

(嵯峨 静江訳)


セントジェイムズパークの案内板
<筆者撮影>


タペンスが謎の男性に呼び止められたセントジェイムズパーク(St. James’s Park)は、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James’s)の南端に位置する公園で、ロンドン最古の王立公園でもある。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
セントジェイムズパークの地図を抜粋。-
画面左側にバッキンガム宮殿が、画面左上にセントジェイムズ宮殿が、
そして、画面上には載っていないが、
右側にウェストミンスター宮殿(国会議事堂)があり、
セントジェイムズパークを3方から囲んでいる。


セントジェイムズパークは、ウェストミンスター宮殿(Palace of Westminster / 国会議事堂)、セントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace → 2025年9月17日 / 9月24日 / 9月29日 / 10月6日付ブログで紹介済)とバッキンガム宮殿(Buckingham Palace)と言う3大宮殿に囲まれている。


セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital
→ 2014年6月14日付ブログで紹介済)の
北翼(North Wing → 2025年12月15日 / 12月19日 /
12月21日 / 12月22日付ブログで紹介済)
大広間の最奥の壁に掲げられている
ヘンリー8世の肖像画
<筆者撮影>


テューダー朝の第2代イングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年 → 2024年7月26日付ブログで紹介済)は、1530年にウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)の北側にあるヨーク公館(York Palace)を接収した後、改築を行い、ホワイトホール宮殿(Palace of Whitehall)とした。

ヘンリー8世は、続いて、1532年にその北西部の土地を購入して、柵で囲み、開拓の上、狩猟場と整備。これが、セントジェイムズパークの始まりとなる。


セントジェイムズ宮殿の建物正面
<筆者撮影>


元々、この土地には、女性ハンセン病患者のためのセントジェイムズ病院(St. James’s Hospital)が建っていたが、ヘンリー8世は、同病院の跡地に、狩猟客用の宿泊施設である狩猟小屋を建設。これが、後にセントジェイムズ宮殿となる。


セントジェイムズパークの園内(その2)
<筆者撮影>

ヘンリー8世としては、残りの土地を鹿狩りの場としようとしたが、湿地帯だったため、子鹿の育成所とした。


2026年9月20日日曜日

ロンドン メクレンバーグスクエア37番地(37 Mecklenburgh Square)- その1

ドイツ軍による空襲を受けて、ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が、
1939年にタヴィストックスクエア 52番地から引っ越した
メクレンバーグスクエア37番地は、
画面中央奥にあり、現在は入口がないブロックの建物である。
<筆者撮影>


1912年8月10日に結婚した英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)英国の作家 / 出版業者 / 公務員であるレナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年の2人は、1914年の秋から約10年間を過ごしたリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)を離れ、ロンドンの中心部へと戻り、1924年3月、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にあるタヴィストックスクエア52番地(52 Tavistock Square → 2026年8月11日 / 8月17日付ブログで紹介済)に居を構えた。


レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人が、
リッチモンドから引っ越した
タヴィストックスクエア52番地の跡地に建つ
タヴィストックホテル
<筆者撮影>


タヴィストックホテルの玄関左側の外壁に掛けられている
英国ヴァージニア・ウルフ協会のプラークには、
ヴァージニア・ウルフとレナード・ウルフの2人が、1924年から1939年までの間、
タヴィストックスクエア52番地の建物に住んでいたことが記されている。
<筆者撮影>


タヴィストックスクエア52番地は、ヴァージニア・ウルフがリッチモンドへ引っ越す前に住み慣れた住居の直ぐ近くだった。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


レナード・シドニー・ウルフが、1917年3月、パラダイスロード34番地 / ホガースハウス(Hogarth House, 34 Paradise Road → 2026年7月31日 / 8月5日付ブログで紹介済)に設立した出版社「ホガースプレス(Hogarth Press)」に参加したことにより、ヴァージニア・ウルフの精神状態が落ち着き、その結果、執筆にも脂がのってきたこと、また、ヴァージニア・ウルフ自身が若い頃から慣れ親しんできたロンドンの街の刺激が恋しくなったことが、彼らがロンドンの中心部へと戻った理由だった。


1915年3月に
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
リッチモンドグリーンから移り住んだパラダイスロード34番地の建物
<筆者撮影>



パラダイスロード34番地「ホガースハウス」の外壁に掛けられている
Greater London Council のプラークには、
レナード・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人が、1915年から1924年までの間、
パラダイスロード34番地の建物に住んでおり、
また、1917年にここで出版社「ホガースプレス」を設立したことが記されている。
<筆者撮影>


2人がリッチモンドで経営した出版社「ホガースプレス」は、タヴィストックスクエア52番地の建物の地下に設置された。


画面奥に見える建物は、
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
約10年間を過ごしたリッチモンドを離れ、ロンドンの中心部へと戻り、
1924年3月に移った
タヴィストックスクエア52番地の跡地に建つタヴィストックホテル -
手前に見える庭園は、タヴィストックスクエアガーデンズ(Tavistock Square Gardens)。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフは、この頃、叔母からの遺言で、毎年500ポンド(現在価値で言うと、約500万円)の遺産を受け取るようになった。これにより、彼女には、金銭的な余裕ができて、小説等の執筆に専念することが可能となった。

ヴァージニア・ウルフは、1924年3月、タヴィストックスクエア52番地に移った後、


*長編第4作目「ダロウェイ夫人(Mrs Dalloway)」(1925年)

*長編第5作目「灯台へ(To the Lighthouse)」(1927年)

*長編第6作目「オーランドー(Orlando)」(1928年)

*長編第7作目「波(The Waves)」(1931年)

*長編第8作目「歳月(The Years)」(1937年)


を次々と意欲的に発表。


南側の入口近くに設置されている
タヴィストックスクエアガーデンズの沿革に関する説明板

<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人がロンドンの中心部へと戻って来た1924年3月当時は、第一次世界大戦(1914年ー1918年)を経て、戦勝国である英国の経済が急速に回復し、好景気に沸いている頃だった。

残念ながら、この好景気は一時的なものにすぎず、1929年の米国ニューヨーク株式市場における大暴落を皮切りに始まった世界恐慌(The Great Depression)は、全世界へと拡大して、各地に失業と貧困を引き起こした。その結果、ナチズムとファシズムが台頭、再び戦争の足音が聞こえ始めるのだった。

レナード・シドニー・ウルフはユダヤ人だったため、2人は反ユダヤ主義を伴ったファシズムを非常に恐れていた。こうして、ヴァージニア・ウルフの精神状態は、またもや悪化の一途を辿っていくのである。


タヴィストックスクエアガーデンズの南西の角に設置されている
ヴァージニア・ウルフのブロンズ胸像のアップ
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が恐れていたことが、やがて現実となった。1939年、英国がドイツに対して宣戦布告したため、第二次世界大戦(1939年ー1945年)が勃発。

ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフが住んでいたタヴィストックスクエア52番地の建物は、ドイツ軍によるロンドン爆撃を受けて、損壊。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
セントパンクラス地区近辺の地図を抜粋。



そのため、同年、ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人は、比較的安全な地域と考えられたカムデン区のセントパンクラス地区(St. Pancras)内にあるメクレンバーグスクエア37番地(37 Mecklenburgh Square)の最上階へと引っ越したのである。


画面右側から、メクレンバーグスクエア35番地(建物に入口あり)、
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が、
1939年にタヴィストックスクエア 52番地から引っ越した
メクレンバーグスクエア37番地(現在、建物に入口なし)、
そして、メクレンバーグスクエア39番地(建物に入口あり)と続いている。
<筆者撮影>


メクレンバーグスクエア37番地に引っ越したのも束の間、1940年9月から始まったドイツ軍によるロンドン大空襲(The Blitz)により被害を受け、ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人は、1919年に購入したイーストサセックス州(East Sussex)にある別荘モンクスハウス(Monk’s House)へと移動せざるを得なかった。

この頃、ヴァージニア・ウルフの精神状態は最悪の状況となっており、彼女にとって、モンクスハウスが終焉の地となるのであった。