![]() |
テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)で所蔵 / 展示されている オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーのペン画 「Design for the Frontispiece to John Davidson's Play」 (1894年 / Ink and graphite on paper) <筆者撮影> |
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)は、1896年1月に、英国の出版業者であるレナード・チャールズ・スミザーズ(Leonard Charles Smithers:1861年ー1907年)と英国の詩人 / 文芸評論家 / 雑誌編集者であるアーサー・ウィリアム・シモンズ(Arthur William Symons:1865年ー1945年)による招きを受けて、雑誌「サヴォイ(The Savoy)」の創刊に参加。アーサー・シモンズが文芸編集者を、そして、オーブリー・ビアズリーが美術編集者を務める体制で、文学と芸術の融合を目指した雑誌の定期刊行を進めた。
![]() |
| ナショナルポートレートギャラリー (National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示されている オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの肖像画 (by Jacques-Emile Blanche / 1895年 / Oil on canvas) <筆者撮影> |
雑誌「サヴォイ」の美術編集者を務める傍ら、オーブリー・ビアズリーは、1896年2月に、ロンドンのセントジェイムズプレイス10番地(10 St. James’s Place → 2026年4月24日付ブログで紹介済)からパリへ移転。同年3月下旬には、文芸編集者のアーサー・シモンズと一緒に、ブリュッセルへ出かけた際、同地において喀血。これが、後に彼の生命を奪うことになる結核(tuberculosis)の兆候だった。同年4月には、パリへ戻った。
雑誌「サヴォイ」については、鉄道駅構内を中心に展開する大手の本屋である W・H・スミス(W. H. Smith)が同誌の店頭販売を拒否する事態が発生した結果、全8巻を発行した後、1896年12月、廃刊に追い込まれてしまった。
その後、結核のため、オーブリー・ビアズリーの健康状態は悪化の一途を辿り、経済的に困窮した結果、1897年以降、フランス出身の英国の詩人 / 作家であるマルク=アンドレ・ラファロヴィチ(Marc-Andre Raffalovich:1864年ー1934年)からの支援を受ける。
同年3月31日、オーブリー・ビアズリーは、マルク=アンドレ・ラファロヴィチや英国の詩人 / カトリック司祭であるジョン・ヘンリー・グレイ(John Henry Gray:1866年ー1934年)からの説得を受けて、カトリックに改宗した。
オーブリー・ビアズリーは、1897年7月、フランスのディエップ(Dieppe)において、出獄したアイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、戯曲「サロメ(Salome → 2026年3月11日 / 3月12日付ブログで紹介済)」の作者のオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)と再会。
![]() |
| ナショナルポートレートギャラリーで販売されている オスカー・ワイルドの写真の葉書 (Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card 305 mm x 184 mm) |
その際、オスカー・ワイルドより、彼の詩「レディング牢獄の唄(The Ballad of Reading Gaol)」の装丁を依頼されたが、オーブリー・ビアズリーは、健康状態の悪化を理由にして、この依頼を拒絶した。オーブリー・ビアズリーとしては、オスカー・ワイルドの醜聞の巻き添えを食って、自分も英国社会から糾弾されたため、オスカー・ワイルドを敵視したと言われており、本当の拒絶の理由は、こちらにあったと思われる。
オーブリー・ビアズリーは、1897年末に南仏のマントン(Menton)へと転地するが、1898年1月には、結核の進行のため、右手が動かなくなり、1月末以降は、寝たきりとなり、カトリックの信仰にふける日々が続いた。
そして、同年3月16日、結核のため、彼はマントンで死去する。まだ25歳の若さだった。
オーブリー・ビアズリーが描く悪魔的な鋭さを持つ白黒(モノトーン)のペン画を描くオーブリー・ビアズリーは、耽美主義の鬼才と謳われ、多くの画家に影響を与えた。








































