2026年8月9日日曜日

アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」<英国 TV ドラマ版>(The Mystery of the Spanish Chest by Agatha Christie )- その1

第27話「スペイン櫃の謎」が収録された
エルキュール・ポワロシリーズの DVD コレクション No. 3 の表紙


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「スペイン櫃の謎(The Mystery of the Spanish Chest)」(1960年)の TV ドラマ版が、英国の TV 会社 ITV 社による制作の下、「Agatha Christie’s Poirot」の第27話(第3シリーズ)として、1991年2月17日に放映されている。英国の俳優であるサー・デヴィッド・スーシェ(Sir David Suchet:1946年ー)が、名探偵エルキュール・ポワロを演じている。ちなみに、日本における最初の放映日は、1992年4月2日である。


アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」は、1932年に発表された短編「バグダッドの大櫃の謎(The Mystery of the Baghdad Chest)」を改稿した中編で、短編集「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)に収録されている。


英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


英国 TV ドラマ版における主な登場人物(エルキュール・ポワロを除く)と出演者は、以下の通り。


(1)アーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings):Hugh Fraser

(2)ジェイムズ・ジャップ主任警部(Chief Inspector James Japp):Philip Jackson


(3)マーガリート・クレイトン(Marguerite Clayton - 美貌の女性): Caroline Langrishe

(4)エドワード・クレイトン(Edward Clayton - マーガリートの夫):Malcolm Sinclair

(5)ジョン・リッチ少佐(Major John Rich - 陸軍少佐 / マーガリートの友人):Pip Torrens

(6)カーティス大佐(Colonel Curtiss - 陸軍大佐 / マーガリートの旧友):John McEnery

(7)レディー・キャロライン・チャタートン(Lady Caroline Chatterton - マーガリートの友人 / ポワロの知人):Antonia Pemberton

(8)バーゴイン(Burgoyne - ジョン・リッチ少佐の執事):Peter Copley


アガサ・クリスティーの原作に比べると、英国 TV ドラマ版における登場人物には、以下の違いが見受けられる。


(1)

<原作> ポワロがアーサー・ヘイスティングス大尉のことを言及する場面はあるものの、本人は登場しない。代わりに、ポワロの秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)と執事ジョージ(George)が登場する。

<英国 TV ドラマ版> アーサー・ヘイスティングス大尉が登場して、ポワロの秘書フェリシティー・レモンと執事ジョージは登場しない。


(2)

<原作> ジェイムズ・ジャップ主任警部は登場しないで、ミラー警部(Inspector Miller)が登場する。

<英国 TV ドラマ版> ジェイムズ・ジャップ主任警部が登場して、ミラー警部は登場しない。


(3)

<原作> 名前は、「マーガリータ・クレイトン(Margharita Clayton - 年齢:夫よりも数歳若い40代後半)」となっている。

<英国 TV ドラマ版> 名前が「マーガリート・クレイトン(Marguerite Clayton)」へ変更されている。原作よりも年齢が若い女優が演じている。


(4)

<原作> 名前は、「アーノルド・クレイトン(Arnold Clayton - 年齢:55歳)」となっている。

<英国 TV ドラマ版> 名前が「エドワード・クレイトン(Edward Clayton)」へ変更されている。原作よりも年齢が若い俳優が演じている。


(5)

<原作> 名前は、「チャールズ・リッチ(Charles Rich - 年齢:48歳)」となっている。また、引退した軍人で、裕福な独身者と言う設定になっている。

<英国 TV ドラマ版> 名前が「ジョン・リッチ(John Rich)」へ変更されている。また、2ー3ヶ月前に、妻メアリー(Mary)を亡くした設定になっている。原作よりも年齢が若い俳優が演じている。


(6)

<原作> 名前は、「ジョック・マクラーレン(Jock McLaren - 年齢:46歳)」となっている。また、階級は「海軍中佐(Commander)」となっている。

<英国 TV ドラマ版> 名前が「カーティス(Curtiss)」へ変更されている。また、階級が「陸軍大佐(Colonel)」へ変更されている。原作よりも年齢がかなり上の俳優が演じている。


(7)

<原作> 名前は、「レディー・アビー・チャタートン(Lady Abbie Chatterton)」となっている。

<英国 TV ドラマ版> 名前が「レディー・キャロライン・チャタートン(Lady Caroline Chatterton)」へ変更されている。


(8)

<原作> 名前は、「ウィリアム・バージェス(William Burgess - 年齢:37-38歳)」となっている。

<英国 TV ドラマ版> 名前が「バーゴイン(Burgoyne)」へ変更されている。原作よりも年齢がかなり上の俳優が演じている。


アガサ・クリスティーの原作の場合、他にジェレミー・スペンス(Jeremy Spence - 年齢:37歳)とリンダ・スペンス(Linda Spence - 年齢:30代前半)と言う若い夫婦が登場するが、英国 TV ドラマ版の場合、2人とも割愛されている。 


        

2026年8月8日土曜日

ロンドン タスカーロード / モールステュディオズ(Mall Studios / Tasker Road)

英国の芸術家 / 彫刻家であるジョスリン・バーバラ・ヘップワースと
英国の抽象画家であるベンジャミン・ローダー・ニコルスンの2人が使用していた
モールステュディオズ」のうち、7番目のアトリエは、
画面奥の右手に建っている。
<筆者撮影>

ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)にあり、テムズ河(River Thames)を見下ろす絶好のロケーションに建つサマセットハウス(Somerset House → 2016年7月17日)内に設けられているコートールドギャラリー(Courtauld Gallery)の3階(Floor 2)にある「Project Space」において、2026年6月日から同年10月4日まで、「Hepworth and Nicholson / The Hampstead Studio Photographs→ 2026年8月3日付ブログで紹介済)」と言う英国の芸術家 / 彫刻家であるジョスリン・バーバラ・ヘップワース(JocelynBarbara Hepworth:1903年ー1975年 → 2024年10月1日 / 10月31日 / 11月2日付ブログで紹介済)の特別展が行われているので、今回紹介したい。


コートールドギャラリーの
3階(Floor 2)のレイアウト図



Portrait of Barbara Hepworth by Paul Laib (1869 - 1958)
1933年 / Vintage gelation silver print


Portrait of Ben Nicholson by Paul Laib (1869 - 1958)
1933年 / Vintage gelation silver print










ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、1925年に英国の彫刻家であるジョン・ラッテンベリー・スキーピング(John Rattenbury Skeaping:1901年ー1980年)と結婚していたが、1931年に英国の抽象画家であるベンジャミン・ローダー・ニコルスン(Benjamin Lauder Nicholson:1894年ー1982年)と出会い、不倫関係となるが、ジョン・ラッテンベリー・スキーピングとの婚姻関係はそのまま維持。

その2年後の1933年に、彼女は、ジョン・ラッテンベリー・スキーピングに対して、離婚を申し出て、同年3月に離婚。

当時、ベンジャミン・ローダー・ニコルスンは、英国の画家であるローザ・ウィニフレッド・ニコルスン(Rosa Winifred Nicholson:1893年ー1981年)と婚姻関係にあったが、1938年に離婚が成立。

その結果、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、1938年11月17日、ロンドンの北西部にあるハムステッド登記所(Hampstead Register Office)において、ベンジャミン・ローダー・ニコルスンと結婚した。




コートールドギャラリーにおいて開催されている特別展「Hepworth and Nicholson / The Hampstead Studio Photographs」は、
ジョスリン・バーバラ・ヘップワースとベンジャミン・ローダー・ニコルスンの2人がハムステッド地区(Hampstead → 2018年8月26日付ブログで紹介済)内に保有していた「モールステュディオズ(Mall Studios)」と呼ばれるアトリエにおいて撮影された写真である。


地下鉄ベルサイズパーク駅の周辺地図(Google Maps から抜粋)-
画面右上の赤い矢印部分に、モールステュディオズ」が所在している。



モールステュディオズ(Mall Studios)」へ行くには、ノーザンライン(Northern Line)が停車する地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)から東方面へ向かう。

地下鉄ハムステッド駅前から始まるハムステッドハイストリート(Hampstead High Street)が、ロスリンヒル通り(Rosslyn Hill)、そして、ヘイヴァーストックヒル通り(Haverstock Hill)へと名前を変えて、同じく、ノーザンラインが停車する地下鉄ベルサイズパーク駅(Belsize Park Tube Station)の前を通過。

ヘイヴァーストックヒル通りを更に東方面へと向かい、進行方向左手にパークヒルロード(Parkhill Road)が見えた時点で、パークヒルロードへと左折。

パークヒルロードを北進し、前方にパークヒルロードを横切るタスカーロード(Tasker Road)が見え得た時点で、タスカーロードへと右折。

モールステュディオズ」と呼ばれるアトリエは、タスカーロードの北側に延びる小道沿いに立っている。




モールステュディオズ」は、建築家トマス・バッターベリー(Thomas Batterberry)によって1872年に建設された歴史的な芸術家向けアトリエ群で、彫刻家や画家にとって理想的な天窓や高い天井を備えた構造となっている。
ジョスリン・バーバラ・ヘップワースとベンジャミン・ローダー・ニコルスンの2人は、「モールステュディオズ」のうち、7番目のアトリエを使用していた、とのこと。


2026年8月7日金曜日

ロンドン キングストリート18番地(18 King Street)- その1

キングストリート18番地に建つ「オークハウス」(その1)
<筆者撮影>


アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎(The Mystery of the Spanish Chest)」は、短編集「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)に収録されている一編である。


英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


裕福な独り者であるチャールズ・リッチ少佐(Major Charles Rich)が、クレイトン夫妻(Mr and Mrs Clayton)、スペンス夫妻(Mr and Mrs Spence)とマクラーレン中佐(Commander McLaren)という長年来の友人5人を、自宅のフラットへ食事に招く。

ところが、直前になって、招待客の一人であるクレイトン氏に、急な商用でスコットランドへ出かける必要が生じて、食事会に参加できなくなった。マクラーレン中佐と一緒にクラブで一杯飲んだ後、クレイトン氏は、駅へ向かう途中、事情を説明するために、リッチ少佐のフラットに立ち寄ったが、生憎と、リッチ少佐は外出していた。

そこで、クレイトン氏は、リッチ少佐への伝言を残すべく、リッチ少佐の執事バージェス(Burgess)に居間へ案内してもらう。バージェスは、キッチンでの準備のため、クレイトン氏を居間に残したまま、その場を後にするが、リッチ少佐への伝言をしたためた後、クレイトン氏が立ち去るところを見かけていなかった。10分程して、リッチ少佐が帰宅し、バージェスを使い走りに外出させた。


その後、クレイトン氏を除いた残り5人で、食事会は滞りなく終わったのであるが、翌朝、居間の掃除をしていたバージェスは、部屋の角に置いてあるスペイン櫃の蓋を開けると、櫃の内には首を刺し貫かれたクレイトン氏の死体が入っていたのである。スコットランドに居る筈のクレイトン氏が、スペイン櫃の内に居たのか?そして、彼は櫃の内で何をしていたのか?


キングストリート18番地に建つ「オークハウス」(その2)
<筆者撮影>


リッチ少佐は、クレイトン氏殺害の容疑で、警察に逮捕される。リッチ少佐はクレイトン夫人に魅かれており、リッチ少佐にとって、クレイトン氏は邪魔な存在だったと、警察は推測する。そして、食事会の直前、帰宅したリッチ少佐は、居間で彼への伝言をしたためているクレイトン氏に出会い、口論の末、クレイトン氏を刺し殺して、スペイン櫃内に押し込んだ単純明快な事件だと、警察は考えたのである。


クレイトン夫人と共通の友人経由、クレイトン夫人から依頼を受けたエルキュール・ポワロは首をひねった。刺し殺されたクレイトン氏の死体をスペイン櫃内に押し込んだまま、リッチ少佐は、その櫃がある居間で残りの招待客4人と一緒に食事会を行い、翌朝、執事のバージェスがクレイトン氏の死体を発見するまで、そのまま死体を放置していたことになる。リッチ少佐は、それ程までに愚かなのだろうか?ポワロの灰色の脳細胞が動き出す。




英国のTV会社 ITV1 で放映されたエルキュール・ポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の第3シリーズ / 第27話「スペイン櫃の謎」(放送日:1991年2月17日)において、クレイトン夫妻の家はルーメインガーデンズ(Roumaine Gardens)にあると言う設定になっているが、実際には、ロンドンの特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のリッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)のリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)内に所在するリッチモンドグリーン(Richmond Green → 2026年7月24日付ブログで紹介済)と呼ばれる大きな緑地帯の南側、南北に延びるオールドパレステラス通り(Old Palace Terrace)と東西に延びるキングストリート(King Street)が交差する場所に建つキングストリート18番地(18 King Street)の「オークハウス(Oak House)」が、撮影に使用されている。


リッチモンド内のリッチモンドグリーン南側の地図(Google Maps から抜粋)-
ピンク色の蛍光ペンで囲った建物が、キングストリート18番地に建つ「オークハウス」。


なお、アガサ・クリスティーの原作上、クレイトン夫妻の家は、スローンストリート(Sloane Street)近くのカーディガンガーデンズ(Cardigan Gardens)にあると言及されている。 


2026年8月6日木曜日

エマ・ハミルトン(Emma, Lady Hamilton)- その5

(右側)ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作のエマ・ハートの肖像画(1785年頃)
(左側)同じく、ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
Sir William Beechey 作のホレーシ・ネルソンの肖像画(1800年)
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース
(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作の自画像(Self-portrait)(1784年)
<筆者撮影>


英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人を経て、1791年9月6日の結婚後、彼の正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、1793年9月の初対面の5年後の1798年9月に再会した後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)と恋愛関係になる。

前述の通り、エマ・ハミルトンは、1791年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと結婚して、ナポリ公使夫人と言う立場にあり、また、ホレーショ・ネルソンも、1787年にフランシス・ハーバート・ウールワード(Frances Herbert Woolward:1758年ー1831年)と結婚していたため、2人とも不倫だった訳である。

2人の不倫関係は、何故か、周囲から寛大に見られており、エマ・ハミルトンの夫であるサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンも、そうであった。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとしては、ホレーショ・ネルソンを英国にとって必要不可欠な人物であると見做して、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を黙認する一方、ホレーショ・ネルソンとの友情関係も維持していた、とのこと。

ただ、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、ナポリから本国である英国へと伝わり、新聞報道を経て、公となってしまった。


ホレーショ・ネルソンの英国への召喚と時を同じくして、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンもナポリ公使の任を解かれた。

エマ・ハミルトンは、少なくとも、1800年4月の時点で、ホレーショ・ネルソンの子を懐妊していたと推測される。

エマ・ハミルトンは、母メアリー・キッド(Mary Kidd)、夫サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンや愛人ホレーショ・ネルソンと一緒に、中央ヨーロッパ経由で、1800年11月6日に英国へ帰国。

妊娠しているエマ・ハミルトンを見たホレーショ・ネルソンの妻フランシス・ハーバート・ウールワードは、不快な表情を見せたため、これがまた新聞の恰好なネタとなり、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、再度世間を騒がせた。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとは異なり、フランシス・ハーバート・ウールワードは、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を最後まで認めなかった。


英国への帰国後、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとエマ・ハミルトンは、グローヴナースクエア22番地(22 Grosvenor Square)にある英国の作家 / 政治家であるウィリアム・トマス・ベックフォード(William Thomas Beckford:1760年ー1844年)の邸宅へ一旦入居。

一方、ホレーショ・ネルソンとフランシス・ハーバート・ウールワードは、グローヴナースクエア22番地から徒歩圏内にあるドーヴァーストリート17番地(17 Dover Street)に入居した。

1800年12月に、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとエマ・ハミルトンは、ピカデリー通り23番地(23 Piccadilly)の家を賃借して、グローヴナースクエア22番地から転居。


1801年1月1日、ホレーショ・ネルソンは、青色艦隊中将(Vice-admiral of the Blue)へ昇進し、新たな任務を帯びる。

航海中、ホレーショ・ネルソンは、妻フランシス・ハーバート・ウールワード宛に、短く、かつ、冷淡な手紙を送り、以降、彼女に会うことは二度となかった。一方、彼は、エマ・ハミルトンとは、何度も書簡を交わし、彼女の健康状態を気にかけていた。

エマ・ハミルトンは、1780年(15歳)に産んだ娘エマ・カルー(Emma Carew - 愛人だった第2代準男爵サー・ヘンリー・フェザーストノー(Sir Henry Fetherstonhaugh, 2nd Baronet:1754年ー1846年)の子供)の存在を、ホレーショ・ネルソンから隠し続けた。


そして、1801年1月29日、エマ・ハミルトンは、夫サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとエマ・ハミルトンは、ピカデリー通り23番地の家において、ホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソン(Horatia Nelson:1801年ー1881年)を出産したのである。


         

2026年8月5日水曜日

ロンドン パラダイスロード34番地 / ホガースハウス(Hogarth House, 34 Paradise Road)- その2

パラダイスロード沿いの歩道から
パラダイスロード34番地「ホガースハウス」を見たところ
<筆者撮影>


1912年8月10日に結婚した英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年 / 英国の小説家 / 評論家)レナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年 / 英国の作家 / 出版業者 / 公務員の2人は、シティー・オブ・ロンドン(City of London → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の西端に所在しているクリフォーズイン(Clifford’s Inn → 2026年7月9日 / 7月10日付ブログで紹介済)と言うフラットへ移り住んだ。


1912年8月10日に結婚した
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
移り住んだフラット「クリフォーズイン」の玄関を北側から見たところ
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフは、1912年12月から1913年3月にかけて行った彼女の最初の長編小説となる「船出(The Voyage Out)」の大幅な改稿作業の結果、肉体的にも、精神的にも、極度の消耗状態になった。その後、彼女は何度も神経衰弱に陥り、1913年9月9日には、睡眠薬のヴェロナール(veronal)の過剰摂取により、自殺を試みたが、なんとか一命をとりとめた。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


重度の精神疾患に苦しむヴァージニア・ウルフのことを心配したレナード・シドニー・ウルフは、1914年の秋、彼女を連れて、ロンドン市内を離れ、緑豊かなリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)にあるリッチモンドグリーン(Richmond Green → 2026年7月24日付ブログで紹介済)へと引っ越した。


リッチモンドグリーンの緑地帯を
南西側から北東方面へと進むところ
<筆者撮影>


テムズ河(River Thames)の上流にあるリッチモンドは、ロンドンの特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のリッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)内にあり、テムズ河の中流域に位置して、テムズ河の東岸に広がる高級住宅地である。


リッチモンドの周辺地図(Google Maps から抜粋)-
画面中央から左側にある大きな緑地帯が「リッチモンドグリーン」で、
画面右下の赤い矢印部分に、パラダイスロード34番地のホガースハウスが所在している。


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人がリッチモンドグリーンへ引っ越した1914年の秋頃、彼女の精神状態は落ち着いていたが、引越後の1915年2月には、精神疾患が再発、彼女の容体は悪くなってしまう。


パラダイスロード沿いの歩道から
パラダイスロード34番地「ホガースハウス」の入口を見たところ
<筆者撮影>


そこで、1915年3月、彼らは、リッチモンドグリーン近くのパラダイスロード34番地(34 Paradise Road)の家へ再度引っ越して、その家を「ホガースハウス(Hogarth House)」と名付けた。

リッチモンドグリーンからパラダイスロード34番地の「ホガースハウス」へ引っ越したものの、ヴァージニア・ウルフの精神疾患は、1917年まで続いた。

レナード・シドニー・ウルフは、彼女が興味を持てそうな趣味や活動をなんとか見つけて、執筆による精神的ストレスから彼女を解放しようと努めた。幸いにして、2人が興味を持っていた印刷技術に注目したレナード・シドニー・ウルフは、1917年3月、「ホガースプレス(Hogarth Press)」と言う出版社を、「ホガースハウス」の居間に設立したのである。


パラダイスロード34番地「ホガースハウス」の外壁には、
Greater London Council のプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


レナード・シドニー・ウルフは、小さな手動印刷機、古い活字、道具や材料等を購入。
レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人は、活字を一字一字拾い、自分達で印刷と製本を行った。

2人が「ホガースプレス」として出版した最初の本は、「Two Stories」で、1917年7月のことであった。「Two Stories」は、レナード・シドニー・ウルフの随筆とヴァージニア・ウルフの短編「壁の染み(The Mark on the Wall)」が収録された32ページの小冊子だった。


パラダイスロード34番地「ホガースハウス」の外壁に掛けられている
Greater London Council のプラークには、
レナード・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人が、1915年から1924年までの間、
パラダイスロード34番地の建物に住んでおり、
また、1917年にここで出版社「ホガースプレス」を設立したことが記されている。
<筆者撮影>


「ホガースプレス」は、当初、レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフによる手作業だったので、150部止まりの出版が多かった。

そのため、アイルランド出身の小説家 / 詩人であるジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce:1882年ー1941年)が長編小説「ユリシーズ(Ulysses)」を持ち込んだ際には、大作のため、印刷を断らざるを得なかった。


トマス・スターンズ・エリオットが住んでいたフラットが、
ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)内の
ケンジントンコートプレイス通り(Kensington Court Place)沿いに建っている。
このフラットは、現在、
「ケンジントンコートガーデンズ(Kensington Court Gardens)」と呼ばれている。
<筆者撮影>


トマス・スターンズ・エリオットは、1965年にこのフラットで死去した。
<筆者撮影>

その後、「ホガースプレス」に追加の設備が導入され、事業が拡大した結果、一部の印刷作業は、外部の会社に委託されるようになった。

「ホガースプレス」は、当初、レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人が属する著述家や芸術家の知的サークルである「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury Group)」による著作の出版が中心であったが、米国出身の英国の詩人 / 文芸批評家であるトマス・スターンズ・エリオット(Thomas Stearns Eliot:1888年ー1965年 → 2017年6月25日付ブログで紹介済)作「荒地(The Waste Land)」(1923年)やオーストリアの心理学者 / 精神科医であるジークムント・フロイト(Sigmund Freud:1856年ー1939年)の著作等も発行している。


ハムステッド地区(Hampstead → 2018年8月26日付ブログで紹介済)内に所在する
タヴィストック クリニック(Tavistock Clinic)前に設置されている
ジークムント・フロイト像
<筆者撮影>


1938年にヴァージニア・ウルフが「ホガースプレス」による出版事業から離れた後、夫のレナード・シドニー・ウルフは、英国の出版業者 / 詩人であるルドルフ・ジョン・フレデリック・レーマン(Rudolf John Frederick Lehmann:1907年ー1987年)と共同で「ホガースプレス」を経営。

レナード・シドニー・ウルフの出版業への熱意は生涯にわたるもので、第二次世界大戦(1939年ー1945年)後、そして、ヴァージニア・ウルフの死(1941年)後も続いたが、最終的には、1946年に現在のペンギンランダムハウス(Penguin Random House)に統合された。

「ホガースプレス」は、1917年の設立以降、1946年のペンギンランダムハウスへの統合までの間に、527冊のタイトルに及ぶ本を出版したのである。