2026年5月1日金曜日

ロンドン バンヒルフィールズ(Bunhill Fields)- その1

シティーロードの反対側から見たバンヒルフィールズの入口
<筆者撮影>

今回は、英国の詩人、画家で、銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイク(William Blake:1757年ー1827年 → 2023年5月15日付ブログで紹介済)のお墓があるバンヒルフィールズ(Bunhill Fields)について、紹介したい。

バンヒルフィールズの入口の左門
<筆者撮影>

バンヒルフィールズの入口の右門
<筆者撮影>

バンヒルフィールズの案内板
<筆者撮影>

バンヒルフィールズは、ロンドンの特別区の一つであるイズリントン区(London Borough of Islington)のセントルークス地区(St. Luke’s)内に所在している。

シティー・オブ・ロンドン(City of London→2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)内に所在する地下鉄モーゲイト駅(Moorgate Tube Station - サークルライン(Circle Line)、ハマースミス&シティーライン(Hammersmith & City Line)およびメトロポリタンライン(Metropolitan Line)の3線が停車)の前を通るモーゲイト(Moorgate)を北上。モーゲイト通りは、フィンズベリーペーヴメント(Finsbury Pavement)、そして、シティーロード(City Road)へと名前を変え、シティー・オブ・ロンドンを出て、イズリントン区のセントルークス地区内へ入る。セントルークス地区内を少し北上した進行方向左手、地下鉄オールドストリート駅(Old Street Tube Station - ノーザンライン(Northern Line)が停車)の少し手前にあるのが、バンヒルフィールズである。

住所としては、「シティーロード38番地(38 City Road, London EC1Y 2BG)」となっている。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
セントルークス地区の地図を抜粋。


シティー・オブ・ロンドンの8割以上を焼き払ったロンドン大火(The Great Fire of London → 2018年9月8日 / 9月15日 / 9月22日 / 9月29日付ブログで紹介済)が発生した1666年の前年に該る1665年に、「The Great Plague」と呼ばれたペストが大流行して、ロンドン内で猛威を振るった。


ロンドン大火から350年後の2016年に
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した記念切手(その1)


ロンドン大火から350年後の2016年に
英国のロイヤルメールが発行した記念切手(その2)


ロンドン大火から350年後の2016年に
英国のロイヤルメールが発行した記念切手(その3)


ロンドン大火から350年後の2016年に
英国のロイヤルメールが発行した記念切手(その4)


ロンドン大火から350年後の2016年に
英国のロイヤルメールが発行した記念切手(その5)


ロンドン大火から350年後の2016年に
英国のロイヤルメールが発行した記念切手(その6)


ロンドン大火の後、何故か、ペストはロンドンから姿を消してしまうが、ペストにより数多くの死者が出たため、バンヒルフィールズは、その埋葬地として使用された。記録によると、1665年から1854年までの間に、バンヒルフィールズには、およそ12万3千人が埋葬された、とのこと。


バンヒルフィールズの墓地エリア(その1)
<筆者撮影>

バンヒルフィールズの墓地エリア(その2)
<筆者撮影>

バンヒルフィールズの墓地エリア(その3)
<筆者撮影>

バンヒルフィールズの墓地エリア(その4)
<筆者撮影>

バンヒルフィールズの墓地エリア(その5)
<筆者撮影>


あまりにも多くの死者が埋葬された結果、バンヒルフィールズに空き地がなくなってしまったため、1852年に法律が改定され、1853年12月にバンヒルフィールズ閉鎖の決定が下された。従って、最後の埋葬が行われたのは、1854年1月5日となった。


バンヒルフィールズの奥にある公園エリア(その1)
<筆者撮影>

バンヒルフィールズの奥にある公園エリア(その2)
<筆者撮影>

バンヒルフィールズの奥にある公園エリア(その3)
<筆者撮影>


バンヒルフィールズは、現在、グレード I(listed Grade I)の指定を受け、保全されている。


バンヒルフィールズ内に生息する昆虫や植物に関する案内板
<筆者撮影>

バンヒルフィールズの墓地エリア内に生息する昆虫や植物に関する案内板
<筆者撮影>

バンヒルフィールズの公園エリア内に生息する昆虫や植物に関する案内板
<筆者撮影>


バンヒルフィールズには、1827年8月12日に亡くなったウィリアム・ブレイクの他に、英国の著述家 / ジャーナリストで、小説「ロビンスン・クルーソー(Robinson Crusoe)」を執筆したことで知られているダニエル・デフォー(Daniel Defoe:1660年ー1731年)のお墓もある。


2026年4月30日木曜日

アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れつく」<小説版(愛蔵版)>(Endless Night by Agatha Christie )- その2

2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の裏表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャーと

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマンの2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックスに依頼して、

キングストンビショップ村にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night)」は、彼女が執筆した長編としては、第58作目に該り、エルキュール・ポワロやミス・ジェーン・マープル等が登場しないノンシリーズ作品である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の内扉


キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」は、海を臨むことができる美しい眺望の景勝地であったが、そこで以前に起こった不吉な事故によって、キングストンビショップ村の住民達からは、呪われた伝説を持つ土地として、非常に恐れられていた。

キングストンビショップ村にある「ジプシーが丘」において、
マイケル・ロジャース(マイク)とフェニラ・グットマン(エリー)の二人は出会い、恋に落ちる。
HarperCollinsPublishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れつく」のグラフィックノベル版
(→ 2020年10月18日付ブログで紹介済)から抜粋。>


ある日、皆に恐れられている「ジプシーが丘」において、


(1)ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))→ この物語の語り手



(2)米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))


は出会い、会った瞬間に、若い二人は恋に落ちた。

そして、「ジプシーが丘」こそ、自分達の生活のスタート地点として相応しいと考えたのである。


マイクとエリーの二人は、
キングストンビショップ村に住む占い師の老女エスター・リーから
「ジプシーが丘には近づいてはならない。」と警告を受けるが、無視してしまう。
HarperCollinsPublishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れつく」のグラフィックノベル版から抜粋。>

マイクとエリーの二人は、幸いにも、スカンディナヴィア出身で、エリーの世話係であるグレタ・アンダーセン(Greta Andersen)の助けを得て、短い交際期間を経た後、お互いの身分の違いを乗り越え、こっそりと結婚式を挙げた。

マイクとエリーの二人は、「ジプシーが丘」一帯の土地を購入すると、マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家であるルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に対して、荒れた屋敷を取り壊した跡地に二人の夢の邸宅を建ててもらうよう、依頼すると、欧州大陸への新婚旅行へと旅立った。

二人は、キングストンビショップ村に住む占い師の老女エスター・リー(Esther Lee)から、「ジプシーが丘には近づいてはならない。」と強く警告を受けていたが、それを無視してしまったのである。


マイクとエリーの二人は、知り合いの建築家であるルドルフ・サントニックスに依頼して、
「ジプシーが丘」に自分達の夢の邸宅を建ててもらった。
HarperCollinsPublishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れつく」のグラフィックノベル版から抜粋。>


不治の病を患っていて、余命いくばくもないルドルフであったが、マイクとエリーの期待に答えて、二人の夢の邸宅を無事に建て終えた。

新婚旅行から英国へと戻って来たマイクとエリーの二人は、「ジプシー丘」の夢の邸宅に住み始めるが、老女エスター・リーによる警告通り、二人の夢は悪夢へと変わるのであった。


何者かが、マイクとエリーの二人を「ジプシーが丘」から立ち去らせようとしていた。
HarperCollinsPublishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れつく」のグラフィックノベル版から抜粋。>


そして、衝撃のラストが待ち構えている。

ある悲劇が発生する9月17日の朝の場面 - 
画面左側から、グレタ・アンダーセン、マイク、そして、エリー。
HarperCollinsPublishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れつく」のグラフィックノベル版から抜粋。>

2026年4月29日水曜日

マザーグース「いち、にい、私の靴の留め金を締めて(Mother Goose ‘One, Two, Buckle My Shoe’)」

1940年11月に Collins Crime Club から出版された
アガサ・クリスティー作「いち、にい、私の靴の留め金を締めて」の
初版本の表紙 -
2024年に米国の Chronicle Books から出ている
「Agatha Christie - Classic Book Covers - 100 Postcards」の
絵葉書から抜粋。

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1940年に発表した「いち、にい、私の靴の留め金を締めて(One, Two, Buckle My Shoe)」の原題は、マザーグース(Mother Goose)の童謡(nursery rhyme)の一節が使用されており、また、その童謡の「20までの数え歌」の歌詞が、各章のタイトルにもなっている。

なお、「いち、にい、私の靴の留め金を締めて」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第28作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第19作目に該っている。

「いち、にい、私の靴の留め金を締めて」の場合、1941年に出版された米国版のタイトルは、「The Patriotic Murders(愛国殺人)」が使用されている。

米国版のタイトルは、1953年に、更に「An Overdose of Death」へと改題された。


2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
「アガサ・クリスティー 2026年オフィシャルカレンダー」のうち、
2026年9月のカレンダーに描かれている
エルキュール・ポワロシリーズの長編第19作目いち、にい、私の靴の留め金を締めて」(1940年)-
クイーンシャーロットストリート58番地にあるヘンリー・モーリー歯科医院での診療を終えて、
建物の外に出たエルキュール・ポワロは、そこでタクシーから降りて来た女性の患者とすれ違い、
その際、彼女が落とした靴の留め金(バックル)を拾って渡すが、
このことが、後々、事件解決のための重要な手掛かりとなる。
2026年9月のカレンダーには、この画面が描かれている。
<筆者撮影>


「いち、にい、私の靴の留め金を締めて」の原題として使用されているマザーグースの童謡は、以下の通り。


One, two, buckle my shoe;

Three, four, knock the door;

Five, six, pick up sticks;

Seven, eight, lay them straight;

Nine, ten, a big fat hen;


Elevem, twelve, dig and delve;

Thirteen, fouteen, maids a-courting;

Fifteen, sixteen, maids in the kitchen;

Seventeen, eighteen, maids in waiting;

Nineteen, twenty, my plate’s empty.


いち、にい、私の靴のバックルを締めて

さん、しい、そのドアを閉めて

ごお、ろく、薪木(たきぎ)をひろって

しち、はち、きちんと積みあげ

くう、じゅう、むっくり肥っためん鶏さん


じゅういち、じゅうに、男衆は掘りまわる

じゅうさん、じゅうし、女中たちはくどいている

じゅうご、じゅうろく、女中たちは台所にいて

じゅうしち、じゅうはち、女中たちは花嫁のお支度

じゅうく、にじゅう、私のお皿はからっぽだ …


(早川書房クリスティー文庫19 - 加島 祥造 訳)


1、2、私の靴の留め金を締めて

3、4、ドアをノックして

5、6、小枝を拾って

7、8、真っ直ぐに並べて

9、10、大きく太った雌鶏


11、12、地面を掘って、掘り下げて

13、14、メイド達が言い寄っている

15、16、メイド達が台所で

17、18、メイド達が待っている

19、20、私のお皿は空っぽだ


(筆者 訳)


この童謡の起源は、18世紀末の英国で、20を超える数え歌がある版や数え歌の歌詞が異なる版等があるが、英国の作家 / シェイクスピア研究家 / 古物研究家 / 童謡研究家であるジェイムズ・オーチャード・ハリウェル=フィリップス(James Orchard Halliwell-Phillipps:1820年ー1889年)が纏めた「Popular Phymes of England」(1842年)に、ほぼ現在の形で収録されている。

唯一異なる点は、2行目の「Three, four, knock the door;」が、「Three, four, shut the door」と記載されているところである。


上記の童謡は、「The Oxford Dictionary of Nursery Rhymes」に収録されている一般的な版である。


2026年4月28日火曜日

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley)- その5

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain

→ 2018年2月18日付ブログで紹介済)で所蔵 / 展示されている

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーのペン画

「Design for the Frontispiece to John Davidson's Play」

(1894年 / Ink and graphite on paper)

<筆者撮影>


オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)は、1896年1月に、英国の出版業者であるレナード・チャールズ・スミザーズ(Leonard Charles Smithers:1861年ー1907年)と英国の詩人 / 文芸評論家 / 雑誌編集者であるアーサー・ウィリアム・シモンズ(Arthur William Symons:1865年ー1945年)による招きを受けて、雑誌「サヴォイ(The Savoy)」の創刊に参加。アーサー・シモンズが文芸編集者を、そして、オーブリー・ビアズリーが美術編集者を務める体制で、文学と芸術の融合を目指した雑誌の定期刊行を進めた。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示
されている
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの肖像画
(by Jacques-Emile Blanche / 1895年 / Oil on canvas)
<筆者撮影>


雑誌「サヴォイ」の美術編集者を務める傍ら、オーブリー・ビアズリーは、1896年2月に、ロンドンのセントジェイムズプレイス10番地(10 St. James’s Place → 2026年4月24日付ブログで紹介済)からパリへ移転。同年3月下旬には、文芸編集者のアーサー・シモンズと一緒に、ブリュッセルへ出かけた際、同地において喀血。これが、後に彼の生命を奪うことになる結核(tuberculosis)の兆候だった。同年4月には、パリへ戻った。


雑誌「サヴォイ」については、鉄道駅構内を中心に展開する大手の本屋である W・H・スミス(W. H. Smith)が同誌の店頭販売を拒否する事態が発生した結果、全8巻を発行した後、1896年12月、廃刊に追い込まれてしまった。


テイト・ブリテン美術館で所蔵 / 展示されている

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーのペン画

「Cover Design for 'The Yellow Book' Volume 1」
(1894年 / Ink on paper)-
「イエローブック(The Yellow Book)」とは、
オーブリー・ビアズリーが1894年に創刊した挿絵入りの文芸誌で、
彼は同誌の美術担当編集主任を務めている。

<筆者撮影>


その後、結核のため、オーブリー・ビアズリーの健康状態は悪化の一途を辿り、経済的に困窮した結果、1897年以降、フランス出身の英国の詩人 / 作家であるマルク=アンドレ・ラファロヴィチ(Marc-Andre Raffalovich:1864年ー1934年)からの支援を受ける。

同年3月31日、オーブリー・ビアズリーは、マルク=アンドレ・ラファロヴィチや英国の詩人 / カトリック司祭であるジョン・ヘンリー・グレイ(John Henry Gray:1866年ー1934年)からの説得を受けて、カトリックに改宗した。


オーブリー・ビアズリーは、1897年7月、フランスのディエップ(Dieppe)において、出獄したアイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、戯曲「サロメ(Salome → 2026年3月11日 / 3月12日付ブログで紹介済)」の作者のオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)と再会。


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
オスカー・ワイルドの写真の葉書
(Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card
305 mm x 184 mm) 


その際、オスカー・ワイルドより、彼の詩「レディング牢獄の唄(The Ballad of Reading Gaol)」の装丁を依頼されたが、オーブリー・ビアズリーは、健康状態の悪化を理由にして、この依頼を拒絶した。オーブリー・ビアズリーとしては、オスカー・ワイルドの醜聞の巻き添えを食って、自分も英国社会から糾弾されたため、オスカー・ワイルドを敵視したと言われており、本当の拒絶の理由は、こちらにあったと思われる。


オーブリー・ビアズリーは、1897年末に南仏のマントン(Menton)へと転地するが、1898年1月には、結核の進行のため、右手が動かなくなり、1月末以降は、寝たきりとなり、カトリックの信仰にふける日々が続いた。

そして、同年3月16日、結核のため、彼はマントンで死去する。まだ25歳の若さだった。


オーブリー・ビアズリーが描く悪魔的な鋭さを持つ白黒(モノトーン)のペン画を描くオーブリー・ビアズリーは、耽美主義の鬼才と謳われ、多くの画家に影響を与えた。


2026年4月27日月曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その31A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「いち、にい、私の靴の留め金を締めて」ペーパーバック版の表紙 -

エルキュール・ポワロは、半年に一回の定期検診のために、

クイーンシャーロットストリート58番地にある歯科医ヘンリー・モーリーの元を訪れた。

診療を終えた後、フラットに戻ったポワロを待っていたのは、

ついさっき自分を診療したモーリー歯科医が診療室で拳銃自殺をしたとの

スコットランドヤードのジャップ主任警部からの連絡であった。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(72)留め金(バックル)付きの靴(buckled shoe)



ジグソーパズルの中段の一番左手にあるテーブルの前に、赤い着物を着た女性がこちらに背を向けて立っているが、彼女の足元に、留め金(バックル)付きの靴が落ちている。


これから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1940年に発表した「いち、にい、私の靴の留め金を締めて(One, Two, Buckle My Shoe)」である。

「いち、にい、私の靴の留め金を締めて」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第28作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第19作目に該っている。


「いち、にい、私の靴の留め金を締めて」の場合、1941年に出版された米国版のタイトルは、「The Patriotic Murders(愛国殺人)」が使用されている。

米国版のタイトルは、1953年に、更に「An Overdose of Death」へと改題された。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)がクイーンシャーロットストリート58番地(58 Queen Charlotte Street → 2016年5月29日付ブログで紹介済)にある歯科医ヘンリー・モーリー(Henry Morley)の待合室に居るところから、物語が始まる。


2026年4月26日日曜日

ロンドン ノースエンド / オールドワイルデス荘(North End / Old Wyldes)

英国の風景画家 / 肖像画家 / 銅版画職人のジョン・リネルが住み、
英国の詩人、画家で、銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイクが滞在していた
オールドワイルデス荘(その1)
<筆者撮影>


英国の詩人、画家で、銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイク(William Blake:1757年ー1827年 → 2023年5月15日付ブログで紹介済)は、1818年に知人から英国の風景画家 / 肖像画家 / 銅版画職人のジョン・リネル(John Linnell:1792年ー1882年)を紹介される。

ジョン・リネルは、1822年、17歳だった若い画家のサミュエル・パーマー(Samuel Palmer:1805年ー1881年)の才能を見抜き、彼の教育に務めた。サミュエル・パーマーは、後に英国の風景画家 / 肖像画家となり、ジョン・リネルの娘とも結婚する。

1824年、サミュエル・パーマーは、ジョン・リネルを通じて、ウィリアム・ブレイクと知り合い、彼から強い影響を受ける。ウィリアム・ブレイクを信奉するサミュエル・パーマーは、宗教的なテーマで幻想的な雰囲気の風景画を描くようになった。


英国の風景画家 / 肖像画家 / 銅版画職人のジョン・リネルが住み、
英国の詩人、画家で、銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイクが滞在していた
オールドワイルデス荘(その2)
<筆者撮影>


ジョン・リネルが住んでいた家「オールドワイルデス荘(Old Wyldes)」の外壁には、「ジョン・リネルが住んでいたこと」と「ウィリアム・ブレイクが滞在していたこと」を示す Greater London Council のプラークが掛けられている。


隣りに建つ家の前から、オールドワイルデス荘とブループラークを見たところ
<筆者撮影>


ジョン・リネルが住んでいた家「オールドワイルデス荘」は、ロンドンの特別区の一つであるバーネット区(London Borough of Barnet)内に所在している。


地下鉄のノーザンライン(Northern Line)が停まる地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)の前を通るヒースストリート(Heath Street)を北上すると、「ジャック・ストローの砦(Jack Straw’s Castle → 2018年8月27日付ブログで紹介済)」が建つ場所で、ハムステッドヒース(Hampstead Heath → 2015年4月25日付ブログで紹介済)へと向かうスパ二アーズロード(Spaniards Road:東側)と地下鉄ゴルダースグリーン駅(Golders Green Tube Station → 2024年12月20日付ブログで紹介済)へと向かうノースエンドウェイ(North End Way:西側)の二手に分かれる。


「ジャック・ストローの砦」の建物全景
<筆者撮影>


1381年にイングランドのケント州(Kent)やエセックス州(Essex)を中心にして全国的規模で起きた農民反乱(Peasant’s Revolt)の際、エセックス州の農民を率いてロンドンに入った指導者ジャック・ストロー(Jack Straw)がこの地に住んでいたと言われており、ここにパブが建てられた時、それに因んで、「ジャック・ストローの砦」と呼ばれるようになった。パブが閉店した後、高級フラットへ改装され、現在はオフィスとして使用されているようである。



地下鉄ゴルダースグリーン駅方面へと至るノースエンドウェイ –
画面左手に「ジャック・ストローの砦」の建物外壁一部が見える。
<筆者撮影>


ノースエンドウェイを地下鉄ゴルダースグリーン駅方面へと向かう途中、ノースエンドウェイは、ノースエンドロード(North End Road)へと名前を変える。

その時点で、右側にあるノースエンド(North End)と言う脇道へと入る。



ノースエンドの北側に建つ家並み -
画面左奥に、地下鉄ゴルダースグリーン駅方面へと至るノースエンドウェイが延びている。
<筆者撮影>

ノースエンドのほぼ突き当たりの場所 -
画面右奥に伸びているのは、ノースエンドアベニュー(North End Avenue)で、
オールドワイルデス荘へ向かうワイルドウッドテラスは、画面左奥にある。
<筆者撮影>

ノースエンドを進み、左手にあるワイルドウッドテラス(Wildwood Terrace)と言う更なる脇道へ入る。


ノースエンドから枝分かれしたワイルドウッドテラスの入口
<筆者撮影>


ワイルドウッドテラスを奥に進む(その1)
<筆者撮影>

ワイルドウッドテラスを奥に進む(その2)
<筆者撮影>

ワイルドウッドテラスを奥に進む(その3)-
画面中央左手に、オールドワイルデス荘への入口が見える。
<筆者撮影>

オールドワイルデス荘の入口に辿り着いたところ
<筆者撮影>


ワイルドウッドテラスを奥まで進むと、進行方向左手に「オールドワイルデス荘」が建っており、これがジョン・リネルが住んでいた家で、ウィリアム・ブレイクが滞在していた家でもある。


オールドワイルデス荘の外壁には、
「ジョン・リネルがここに住み、そして、ウィリアム・ブレイクがここに滞在していた」ことを示す
Greater London Council のブループラークが掛けられている。

<筆者撮影>


Greater London Council のプラークは、「オールドワイルデス荘」の建物正面の外壁に掛けられているが、ワイルドウッドテラスと「オールドワイルデス荘」の間に、広い庭がある上に、植栽が茂っているため、ワイルドウッドテラスからはかなり見辛いと言うのが、正直な感想である。