2026年10月6日火曜日

ロンドン ハックニーエンパイア劇場(Hackney Empire Theatre)- その3



アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「スペイン櫃の謎(The Mystery of the Spanish Chest)」(1960年)は、1932年に発表された短編「バグダッドの大櫃の謎(The Mystery of the Baghdad Chest)」を改稿した中編で、短編集「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)に収録されている。


英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」の TV ドラマ版が、英国の TV 会社 ITV 社による制作の下、1991年2月17日に放映された「Agatha Christie’s Poirot」の第27話(第3シリーズ)において、物語の冒頭、英国の俳優であるサー・デヴィッド・スーシェ(Sir David Suchet:1946年ー)が演じる名探偵エルキュール・ポワロが、アーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings)と一緒に、オペラ「リゴレット(Rigoletto - ヴィクトル・ユーゴーの戯曲「王様はお楽しみ」を原作にしたヴェルディ(Verdi)による歌劇)」を観劇した劇場として、ハックニーエンパイア劇場(Hackney Empire Theatre)の内部が撮影に使用されている。


第27話「スペイン櫃の謎」が収録された
エルキュール・ポワロシリーズの DVD コレクション No. 3 の表紙


ハックニーエンパイア劇場は、ロンドンの特別区の一つであるハックニー区(London Borough of Hackney)ハックニー地区(Hackney)内に所在しており、南北に延びるメアストリート(Mare Street)の西側に建っている。


ハックニーエンパイア劇場の周辺地図(Google Maps から抜粋)


劇場の建設やデザインを専門とする英国の建築家であるフランク・マッチャム(Frank Matcham:1854年ー1920年)による設計に基づいて、1901年にミュージックホールとして建てられたハックニーエンパイア劇場は、その後、TV スタジオ(1956年ー1962年)、そして、ビンゴホール(1963年ー1984年)と言う変遷を経る。


ビンゴホールの運営会社がハックニーエンパイア劇場の維持管理費用の捻出が困難となったため、1984年、ハックニーエンパイア劇場は、取り壊しの危機を迎えた。

その際、英国の俳優 / 劇作家であるローランド・マルドゥーン(Roland Muldoon:1941年ー)が主催する「Cartoon Archetypical Slogan Theatre (CAST)」に対して、ビンゴホールの運営会社から接触があった。「CAST」は、当時、英国の地方を巡業する劇団で、ロンドンにおける拠点を必要としていたのである。


そこで、ローランド・マルドゥーンがハックニーエンパイア劇場の支配人(theatre director)に就任し、改修工事を経て、85周年に該る1986年12月9日、ハックニーエンパイア劇場は、劇場として再オープン。


ハックニーエンパイア劇場の歴史を案内する説明板(その3)
<筆者撮影>


約1300席の収容人数を有する劇場として生まれ変わったハックニーエンパイア劇場は、英国における喜劇上演劇場として、次第に知名度を上げていった。


改修工事のため、ハックニーエンパイア劇場は、2001年に一旦クローズ。

Tim Ronalds Architects による増改築工事を経て、2004年に再オープン。

その際、「Marie Lloyd」と言うパブが、増改築部分の1階(GF)に入居。


ハックニーエンパイア劇場は、現在、演劇、オペラ、喜劇、ダンスや音楽等、多彩な演目を上演している。

同劇場は、ガーディアン紙(The Guardian)に「ロンドンで最も美しい劇場(the most beautiful theatre)」と評されている。


ハックニーエンパイア劇場は、「オープンハウスフェスティバル(Open House Festival)」と言う普段は立ち入ることができない歴史的建物やデザイン建築等を見学できるイベントにおいて、2026年9月19日(土)と9月20日(日)の両日、一般に開放され、舞台を含めた劇場内部を自由に巡ることができた。


2026年10月5日月曜日

スコットランド女王メアリー・ステュアート / メアリー1世(Mary Stuart / Mary I, Queen of Scots)- その1

ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示されている
スコットランド女王メアリー・ステュアート / メアリー1世の肖像画の葉書
(By an unknown artist after a portrait by Nicholas Hilliard /
1578年 / Oil on panel)
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「スペイン櫃の謎(The Mystery of the Spanish Chest)」(1960年)の TV ドラマ版が、英国の TV 会社 ITV 社による制作の下、「Agatha Christie’s Poirot」の第27話(第3シリーズ)として、1991年2月17日に放映されている。英国の俳優であるサー・デヴィッド・スーシェ(Sir David Suchet:1946年ー)が、名探偵エルキュール・ポワロを演じている。ちなみに、日本における最初の放映日は、1992年4月2日である。


英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」は、1932年に発表された短編「バグダッドの大櫃の謎(The Mystery of the Baghdad Chest)」を改稿した中編で、短編集「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)に収録されている。


第27話「スペイン櫃の謎」が収録された
エルキュール・ポワロシリーズの DVD コレクション No. 3 の表紙


第27話「スペイン櫃の謎」が収録された
エルキュール・ポワロシリーズの DVD コレクション No. 3 の裏表紙


事件の主要関係者について、アガサ・クリスティーの原作と英国 TV ドラマ版の間で、以下の差異がある。


(1)美貌の女性

<原作> 名前は、「マーガリータ・クレイトン(Margharita Clayton - 年齢:夫よりも数歳若い40代後半)」となっている。

<英国 TV ドラマ版> 名前が「マーガリート・クレイトン(Marguerite Clayton)」へ変更されている。原作よりも年齢が若い女優が演じている。


(2)上記(1)の夫

<原作> 名前は、「アーノルド・クレイトン(Arnold Clayton - 年齢:55歳)」となっている。英国の大蔵省(Treasury)に勤務。

<英国 TV ドラマ版> 名前が「エドワード・クレイトン(Edward Clayton)」へ変更されている。原作よりも年齢が若い俳優が演じている。職業については、明確に言及されていないが、物語におけるセリフから推測すると、弁護士のように思われる。


(3)上記(1)の友人

<原作> 名前は、「チャールズ・リッチ(Charles Rich - 年齢:48歳)」となっている。また、引退した軍人で、裕福な独身者と言う設定になっている。

<英国 TV ドラマ版> 名前が「ジョン・リッチ(John Rich)」へ変更されている。また、2ー3ヶ月前に、妻メアリー(Mary)を亡くした設定になっている。原作よりも年齢が若い俳優が演じている。


(4)上記(1)の旧友

<原作> 名前は、「ジョック・マクラーレン(Jock McLaren - 年齢:46歳)」となっている。また、階級は「海軍中佐(Commander)」となっている。

<英国 TV ドラマ版> 名前が「カーティス(Curtiss)」へ変更されている。また、階級が「陸軍大佐(Colonel)」へ変更されている。原作よりも年齢がかなり上の俳優が演じている。


アガサ・クリスティーの原作の場合、マーガリータ・クレイトンに面会したエルキュール・ポワロは、彼女について、次のような印象を抱いている。


That apparently childlike candour, that frank innocence - Was it just that? Or did it mask something else? There had been women like that in medieval days - women on whom history had not been able to agree. He thought of Mary Stuart, the Scottish Queen. Had she known, that night in Kirk o’ Fields, of the deed that was to be done? Or was she completely innocent? Had the conspirators told her nothing? Was she one of those childlike simple women who can say to themselves ‘I do not know’ and believe it? He felt the spell of Margharita Clayton. But he was not entirely sure about her …


マーガリータ・クレイトンに会って、エルキュール・ポワロの頭に浮かんだ「メアリー・ステュアート(Mary Stuart:1542年12月8日ー1587年2月8日)」とは、スコットランドの「メアリー1世(Mary I)」のことで、生後間もない1542年12月14日から1567年7月24日までの間、スコットランド女王の座に就いていた。


ナショナルポートレイトギャラリーで販売されている
エリザベス1世の肖像画の葉書
(Unknown English artist / 1600年頃 / Oil on panel
1273 mm x 997 mm) -
エリザベス1世は、王族しか着れない
イタチ科オコジョの毛皮をその身に纏っている。
オコジョの白い冬毛は、「純血」を意味しており、
実際、エリザベス1世は、英国の安定のために、
生涯、誰とも結婚しなかったので、「処女女王」と呼ばれた。
エリザベス1世の」赤毛」と「白塗りの化粧」は、
当時流行したものである。


メアリー・ステュアートは、テューダー朝(House of Tudor)の第5代かつ最後のイングランド王エリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年 → 2023年6月24日 / 7月2日付ブログで紹介済)と比較されることが多く、数多くの芸術作品の題材にもなっている。

また、メアリー・ステュアートは、親しみを込めて、「クイーン・オブ・スコッツ(Queen of Scots)」とも呼ばれている。


2026年10月4日日曜日

ジョシュア・レノルズ(Joshua Reynolds)- その2

Self-Portrait(自画像)by Sir Joshua Reynolds
1747年ー1749年頃
ナショナルポートレイトギャラリー(Naitional Portrait Gallery)が所蔵
<筆者撮影>

ナショナルポートレイトギャラリーの館内
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」は、彼女が執筆した長編としては、第58作目に該り、エルキュール・ポワロやミス・ジェーン・マープル等が登場しないノンシリーズ作品である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャー(通称:マイク)と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン(通称:エリー)の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックスに依頼して、

キングストンビショップ村にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」は、海を臨むことができる美しい眺望の景勝地であったが、そこで以前に起こった不吉な事故によって、キングストンビショップ村の住民達からは、呪われた伝説を持つ土地として、非常に恐れられていた。


Sir William Chambers (1722 - 1796) by Sir Joshua Reynolds
1756年頃
ナショナルポートレイトギャラリーが所蔵
<筆者撮影>

Horace Walpole (1717 - 1797) by Sir Joshua Reynolds
1756年−1757年頃
ナショナルポートレイトギャラリーが所蔵
<筆者撮影>


ある日、皆に恐れられている「ジプシーが丘」において、


(1)ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))→ この物語の語り手


と


(2)米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))


は出会い、会った瞬間に、若い二人は恋に落ちた。

そして、「ジプシーが丘」こそ、自分達の生活のスタート地点として相応しいと考えたのである。


エリーと結婚したマイクは、ドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、「ジプシーが丘」に自分達の夢の邸宅を建ててもらう。


「ジプシーが丘」に建った自分達の夢の邸宅に住み始めた二人だったが、まもなく悲劇的な事件が発生する。

ある日、マイクは、キングストンビショップ村の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に、オークションへ出かけ、エリーは、乗馬に出かけた。2人は、フィルポット少佐を交えて、昼食を一緒にする約束をしていたが、いつまで待っても、エリーは待ち合わせ場所に姿を見せなかった。

やがて、エリーが森の中で死んでいるのが発見される。


Sir Joseph Banks (1743 - 1820) by Sir Joshua Reynolds
1771年−1773年頃
ナショナルポートレイトギャラリーが所蔵
<筆者撮影>

David Garrick (1717 - 1779) and
Eva Maria Garrick (1724 - 1822) by Sir Joshua Reynolds

1772年ー1773年頃
ナショナルポートレイトギャラリーが所蔵
<筆者撮影>


I left the smaller car for Ellie as it was easier to park and took the big Chrysler myself. I got to Barrington Manor just before the sale began. Phillpot was there already and had kept a place for me.

’Some quite nice stuff here,’ he said. ‘One or two good pictures. A Romney and a Reynolds. I don’t know if you’re interested?’

I shook my head. My taste at the moment was entirely for modern artists.


僕は、エリー用に小型の車を残して、自分は大型のクライスラーを使った。小型車の方が、昼食の待ち合わせ場所に駐車し易いと思ったからだ。バリントンマナーハウスには、オークションが始まる直前に着いた。フィルポッツ少佐は、既に到着済で、僕のために席を確保しておいてくれた。

「いくつか良い掘り出し物があるんだ。」と、彼は言った。「素晴らしい絵画が1、2枚出品されている。(ジョージ・)ロムニーと(ジョシュア・)レノルズの絵画が1枚ずつ出ている。君が買いたいと思うかどうか、判らないが。」

僕は、関心がないことを示すために、首を横に振った。今のところ、僕の興味は、現代画家作品にしかなかったからだ。

<筆者 訳> 


John Stuart, 3rd Earl of Bute (1713 - 1792) /
Former Prime Minister (1762 - 1763) by Sir Joshua Reynolds

1773年頃
ナショナルポートレイトギャラリーが所蔵
<筆者撮影>

(上の肖像画)
James Boswell (1740 - 1795) by Sir Joshua Reynolds

1785年頃
ナショナルポートレイトギャラリーが所蔵
<筆者撮影>


バリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)は英国の画家で、同時代に活躍したジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


ジョシュア・レノルズは、1723年7月16日、サミュエル・レノルズ牧師(Reverend Samuel Reynolds)の三男(第7子)として、デヴォン州(Devon)プリンプトン(Plympton)に出生。

父親のサミュエル・レノルズ牧師は、地元のプリンプトンフリーグラマースクール(Plympton Free Grammar School)の校長を務めていたため、ジョシュア・レノルズは、父親から

教育を受けた。父親のサミュエル・レノルズ牧師は、オックスフォード(Oxford)のベリオルカレッジ(Balliol College)のフェロー(fellow:教官)でもあったが、彼は子供のジョシュア・レノルズを大学へ進学させることはなかった。


Georg Friedrich Handel (1685 - 1759) by Thomas Hudson
1756年
ナショナルポートレイトギャラリーが所蔵 -
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは、
ドイツ出身の作曲家 / オルガニスト。
<筆者撮影>


少年の頃から絵画に興味を抱いていたジョシュア・レノルズは、1740年、英国の肖像画家で、同じデヴォン州生まれのトマス・ハドスン(Thomas Hudson:1701年ー1779年)に弟子入りして、修行を始める。

トマス・ハドスンの元での修行は4年間の予定であったが、ジョシュア・レノルズは、1743年夏にトマス・ハドスンの元を離れ、デヴォンポート(Devonport)において、肖像画家として働く。

その後、ジョシュア・レノルズは、1744年の暮れ頃、ロンドンへと赴くが、1745年に父親のサミュエル・レノルズ牧師が亡くなったため、デヴォンポートへ戻り、姉妹達と同居。 


2026年10月3日土曜日

アガサ・クリスティー作「牧師館の殺人」<小説版(愛蔵版)>(The Murder at the Vicarage by Agatha Christie )- その2

2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「牧師館の殺人」の
愛蔵版(ハードカバー版)の裏表紙
(Cover design and 
illustration
by Poppy Loughtman / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ロンドン郊外のセントメアリーミード村にある教会が、
表紙に描かれている。
なお、レナード・クレメント牧師が、
司祭を務めている。

英国の HarperCollinsPublishers 社から今年(2026年)に愛蔵版(ハードバック版)が出版されたアガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「牧師館の殺人(The Murder at the Vicarage → 2022年10月30日 / 10月31日付ブログで紹介済)」(1930年)は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第10作目に該り、ミス・ジェーン・マープル(Miss Jane Marple)シリーズに属する長編のうち、第1作目に該っている。

ジグソーパズル「ミス・マープルの世界」の完成形
<筆者撮影>


レナード・クレメント牧師は、
ジズソーパズル中央のやや右側の位置に居て、
ミス・マープルの右隣りにあるテラス用の椅子に座り、
右手に帽子を持っている。
<筆者撮影>

本作品の語り手を務めるのは、ロンドン郊外のセントメアリーミード(St. Mary Mead)という小さな村にある教会の司祭(vicar)であるレナード・クレメント牧師(Reverend Leonard Clement → 2024年8月18日付ブログで紹介済)である。

事件の舞台となる牧師館の GF 平面図 -
2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「牧師館の殺人」の
愛蔵版(ハードカバー版)から抜粋。
なお、教会と牧師館は隣接しておらず、
離れた場所に建っている。

ある水曜日の午後、牧師館において、クレメント牧師は、若き妻のグリゼルダ(Griselda)と甥のデニス(Dennis)と一緒に、昼食をとっていたが、その際、彼らの話題は、ルシアス・プロセロウ大佐(Colonel Lucius Protheroe)のことでもちきりだった。プロセロウ大佐は、治安判事かつセントメアリーミード村の教区委員で、次の日の午後、牧師館にやって来て、教会の献金袋から盗まれた1ポンド紙幣の件について、クレメント牧師と話し合うことになっていた。なお、牧師補のホーズ(Hawes)が、問題の1ポンド紙幣を盗んだ犯人だと疑われていた。

プロセロウ大佐は、クレメント牧師を困らせることを何よりも至上の楽しみにしていたので、昼食の席上、クレメント牧師は、思わず、「誰でもいいから、プロセロウ大佐をあの世へ送ってくれたら、世の中は随分と良くなるだろう。」と口走ってしまう。


昼食後、クレメント牧師は、セントメアリーミードに滞在中の肖像画家であるローレンス・レディング(Lawrence Redding)のアトリエへと出向く。牧師館の庭の一画に小屋があり、彼は、この小屋をアトリエとして使用していた。

クレメント牧師は、このアトリエ内でローレンス・レディングとプロセロウ大佐の妻であるアン・プロセロウ(Anne Protheroe)の二人が情熱的なキスを交わしている現場を、偶然見かけてしまう。クレメント牧師の跡を追って、牧師館の書斎まで追いかけてきたアン・プロセロウに対して、クレメント牧師は、軽はずみな関係はできる限り早く終わらせるよう、諭すのであった。


その夜、ローレンス・レディングは、牧師館の夕食に招かれていた。

夕食後、牧師館の書斎において、クレメント牧師は、ローレンス・レディングに対して、厳しく叱責するとともに、できるだけ早く村を立ち去るよう、忠告する。ところが、ローレンス・レディングは、クレメント牧師の忠告を全く受け入れず、「プロセロウ大佐が死んでくれれば、いい厄介払いになる。」と嘯くと、「自分は、25口径のモーゼル銃を持っている。」と、恐ろしいことを口にする。


翌朝、セントメアリーミードのハイストリートにおいて、クレメント牧師は、プロセロウ大佐と偶然出会った際、耳が遠くなりかけている人にありがちで、自分以外の人間も耳が遠いと思い込んでいるプロセロウ大佐は、当日の午後の約束を大声で念押ししつつ、約束の時間も午後6時15分へと変更した。

クレメント牧師が牧師館に戻ると、ローレンス・レディングが立ち寄って、「(プロセロウ大佐の妻である)アンとの不倫関係を清算して、明日、村を去るつもりだ。」と、クレメント牧師に告げる。


その日の午後5時半頃、クレメント牧師は電話を受け、「ロウワーファーム(Lower Farm)のアボット氏(Mr. Abbott)が危篤状態なので、側に居てほしい。」と頼まれる。

クレメント牧師は、今からロウワーファームまで出かけると、プロセロウ大佐との約束の午後6時15分までに牧師館へ戻ることは難しいと判断して、プロセロウ大佐には書斎で待っていてもらうよう、メイドに頼むと、急いでロウワーファームへと徒歩で(→ クレメント牧師は自転車に乗れないため)向かった。


事件の舞台となる牧師館の書斎の平面図 -
2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「牧師館の殺人」の
愛蔵版(ハードカバー版)から抜粋。
なお、
拳銃で後頭部を撃たれたルシアス・プロセロウ大佐が突っ伏していた
牧師の書き物机は、画面の右上に位置している
。


クレメント牧師がロウワーファームのアボット氏の元を訪れると、驚くことに、本人は全くピンピンとしていて、先程の電話は悪戯であったことが判明する。

午後7時頃、クレメント牧師が牧師館に戻った際、非常に取り乱した様子のローレンス・レディングが大慌てで牧師館から立ち去るところだった。不思議に思ったクレメント牧師が書斎に入ると、プロセロウ大佐が拳銃で後頭部を撃たれて、牧師の書き物机の上に突っ伏してたまま、息絶えているのを発見したのである。


2022年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
「アガサ・クリスティー / 2023年カレンダー作
(ミス・ジェーン・マープルシリーズ版)」のうち、
ビル・ブラッグ氏(Mr. Bill Bragg)が描く
ミス・マープルシリーズの長編第1作目「牧師館の殺人」の一場面 -

カレンダーには、レナード・クレメント牧師が司祭を務める牧師館の書斎において、

何者かに後頭部を拳銃で撃たれて殺害されたルシアス・プロセロウ大佐から流れ出た血が、

クレメント牧師の机の上に広がり、そして、床へと滴り落ちる場面が描かれている。

背後の窓の右側の壁には、ミス・マープルと思われる人物の影が映っている。

それとも、プロセロウ大佐を殺害した真犯人の影であろうか?


HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている「牧師館の殺人」のペーパーバック版の表紙には、
ビル・ブラッグ氏によるイラストが、
プロセロウ大佐の殺害に使用された拳銃の形に切り取られているものが使用されている。


メルチェット大佐(Colonel Melchett)とスラック警部(Inspector Slack → 2024年8月20日付ブログで紹介済)が率いる地元警察が捜査を進める中、ローレンス・レディングとアン・プロセロウの二人がそれぞれに、プロセロウ大佐の殺害を自供した。


ジズソーパズルのやや右上の位置で、
右手を右頬に当てて、
ヘイドック医師(Dr. Haydock → 2024年8月18日付ブログで紹介済)と
話をしている背広姿の男性が、スラック警部である。
<筆者撮影>


ところが、ローレンス・レディングは、正確ではない犯行時刻を主張する一方、アン・プロセロウの場合、犯行時刻の頃、彼女が牧師館を訪れるのを、隣りに住むミス・ジェーン・マープル(→ 2024年8月8日付ブログで紹介済)が見かけており、アン・プロセロウは、その際、手ぶらで、拳銃のような大きさのものが入ったバッグ等を持っていなかったと、ミス・マープルは明言する。


ミス・ジェーン・マープルは、
ジズソーパズル中央のやや右側の位置に居て、
テラス用の椅子に座り、得意の編み物をしている。
<筆者撮影>


地元警察は、不倫関係のため、プロセロウ大佐の殺害動機があると疑われたローレンス・レディングとアン・プロセロウの二人が、お互いに庇い合っているものと考えて、一旦、二人を無罪放免とし、他に容疑者を求めることになった。


事件の舞台となる牧師館を含む
セントメアリーミード村の周辺地図 -

2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「牧師館の殺人」の
愛蔵版(ハードカバー版)から抜粋。


果たして、クレメント牧師の牧師館の書斎において、プロセロウ大佐の後頭部を拳銃で撃って、彼を殺害した犯人は、一体、誰なのか?


         

2026年10月2日金曜日

ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー作「トラファルガーの海戦」(The Battle of Trafalgar, as Seen from the Mizen Starboard Shrouds of the Victory by J. M. W. Turner)- その2

テイト・ブリテン美術館に所蔵 / 展示されている
ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー作「トラファルガーの海戦」(1806年ー1808年)
Oil paint on canvas / 縦 : 172.7 cm x 横 : 238.8 cm
<筆者撮影>

英国本土上陸作戦の中止を決断したフランス第一帝政の皇帝であるナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte:1769年ー1821年 在位期間:1804年-1814年+1815年)、すなわち、ナポレオン1世は、次の手として、オーストリアへの侵攻を計画し、その支援のため、スペインのフィニステレ岬(Cape Finisterre)の沖で行われたフィニステレ岬の海戦(Battle of Cape Finisterre - 1805年7月22日に、英国艦隊とフランス / スペイン連合艦隊の間で行われた海戦)から撤退して、スペインのカディス(Cadiz:スペイン南西部に位置し、大西洋に面する港湾都市)に入り、整備を行っていたフランス / スペイン連合艦隊を率いる提督(トゥーロン駐留艦隊司令官)のピエール=シャルル=ジャン=バティスト=シルヴェストル・ド・ヴィルヌーヴ伯爵(Pierre-Charles-Jean-Baptiste-Silvestre de Villeneuve:1763年ー1806年)に対して、命令を下した。ナポレオン1世からの命令を受けたド・ヴィルヌーヴ提督は、1805年10月19日から20日にかけて、フランス / スペイン連合艦隊をカディスから出撃させた。一方、地中海艦隊司令長官(Commander-in-Chief of the Mediterranean Fleet)であった初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)が率いる英国地中海艦隊は、出撃したフランス / スペイン連合艦隊をカディス沖で監視していた。


「トラファルガーの海戦」(1805年10月21日)の200周年を記念して、
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が、2005年10月18日に発行した
記念切手に付いている海戦図


そして、カディス沖に布陣していた英国地中海艦隊とカディスを出撃したフランス / スペイン連合艦隊は、翌日の1805年10月21日に、スペインのトラファルガー岬(Cape of Trafalgar)の沖において、相見えることになる。


トラファルガースクエア(Trafalgar Sqaure)の近くにある
地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の改札口へと向かう地下通路の壁に描かれている
タイル画(その1) -
「トラファルガーの海戦」を前にして、作戦を練るネルソン提督
<筆者撮影>


英国地中海艦隊とフランス / スペイン連合艦隊の指揮官と戦力は、以下の通り。


<英国艦隊>

(指揮官)

・ホレーショ・ネルソン(階級:1804年に白色艦隊中将(Vice-Admiral of the White)へ昇進) → 英国側の旗艦である「ビクトリー(HMS Victory → 2022年1月16日付ブログで紹介済)」に乗艦

・カスバート・コリングウッド(Cuthbert Collingwood:1748年ー1810年)(階級:1805年に赤色艦隊中将(Vice-Admiral of the Red)へ昇進) → 「ロイヤルソブリン(HMS Royal Sovereign)」に乗艦

(戦力)

・戦列艦: 27隻

・フリゲート艦: 4隻

・その他: 2隻


<フランス / スペイン連合艦隊>

(指揮官)

・フランス: ピエール=シャルル=ジャン=バティスト=シルヴェストル・ド・ヴィルヌーヴ伯爵(階級:海軍中将) → フランス側の旗艦である「ビューサントル(Bucentaure)」に乗艦

・スペイン: ドン・フェデリコ・カルロス・グラビーナ・イ・ナポリ(Don Federico Carlos Gravina y Napoli:1756年ー1806年)(階級:大将(Admiral)) → スペイン側の旗艦である「プリンシペ・デ・アストゥリアス(Principe de Asturias)」に乗艦

(戦力)

・戦列艦: 33隻(フランス:18隻+スペイン:15隻)

・フリゲート艦: 5隻

・その他: 2隻


トラファルガースクエアの近くにある
地下鉄チャリングクロス駅の改札口へと向かう地下通路の壁に描かれているタイル画(その2) -
三日月型の陣形を採るフランス / スペイン連合艦隊に対して、
2列の縦列で突っ込む英国艦隊
(風上の列は、ネルソン提督が乗艦する旗艦「ビクトリー」が先導し、
風下の列は、コリングウッド提督が乗艦する「ロイヤルソブリン」が先導)
<筆者撮影>


フランス / スペイン連合艦隊を率いるド・ヴィルヌーヴ提督は、当初、艦隊を三日月型の陣形にしていた。そこで、英国艦隊を率いるネルソン提督は、フランス / スペイン連合艦隊の隊列を分断するために、2列の縦列で相手に突っ込むネルソンタッチという戦法を使用する。


午前11時45分に、戦いの火蓋は切って落とされ、ネルソン提督は、各艦に対して、「英国は、各員が自身の義務を果たすことを期待する。(England expects that every man will do his duty.)」という有名な信号旗を送信した。


その際、フランス / スペイン連合艦隊は、北方向へカーブした陣形を採っていたが、ネルソン提督の戦法通り、ネルソン提督が乗艦する旗艦の「ビクトリー」が風上の縦列で、そして、コリングウッド提督が乗艦する「ロイヤルソブリン」が風下の縦列で、フランス / スペイン連合艦隊へと向かった。


フランス / スペイン連合艦隊は、英国艦隊よりも、数的には優位であったが、フランス海軍艦にスペイン海軍艦が混在していたため、指揮系統が複雑だったことに加え、士気や練度も低かった。一方、英国艦隊の方は、士気や練度も高かった。また、フランス / スペイン連合艦隊の艦載砲の射速(3分に1発)は、英国艦隊(1分30秒に1発)に比べると、かなり劣っていた。


大激戦の末、フランス / スペイン連合艦隊は、


大破: 1隻

拿捕: 21隻

戦死: 約4,500名

戦傷: 約2,500名

捕虜: 約7,000名


という被害を受けた上に、フランス / スペイン連合艦隊を率いるド・ヴィルヌーヴ提督も捕虜となった。ドン・フェデリコ・カルロス・グラビーナ・イ・ナポリ提督は負傷し、スペインへと戻った後も、負傷が癒えず、数ヶ月後に世を去った。


一方、英国艦隊は、


大破: 0隻

拿捕: 0隻

戦死: 約450名

戦傷: 約1,200名


という被害で済んだが、英国艦隊を率いたネルソン提督が、フランス艦「ルドゥタブル(Redoutable)」の狙撃兵による銃弾に倒れ、「神に感謝する。私は、義務を果たした。(Thank God. I have done my duty.)」と言い残して、息を引き取ったのである。


トラファルガースクエアの近くにある
地下鉄チャリングクロス駅の改札口へと向かう地下通路の壁に描かれているタイル画(その3) -
英国艦隊を率いたネルソン提督は、フランス艦「ルドゥタブル」の狙撃兵による銃弾に倒れ、
息を引き取ってしまう。
<筆者撮影>


ネルソン提督が死亡したため、コリングウッド提督が、英国艦隊の最高指揮官となった。嵐の接近を予測したネルソン提督は、「錨を下ろせ。」と遺言したが、コリングウッド提督は、これを無視した。その結果、トラファルガー岬の沖合いに発生した嵐により、英国艦隊は、せっかく拿捕した艦の多くを失うことになったのである。


トラファルガースクエアの近くにある
地下鉄チャリングクロス駅のプラットフォームに描かれている壁画 -
「トラファルガーの海戦」における英国艦隊の勝利とネルソン提督の死を伝える新聞記事と
ネルソン提督の肖像画
<筆者撮影>


ネルソン提督の遺体は、腐敗を防ぐために、当時最高級のコニャックの樽に入れられ、旗艦「ビクトリー」が曳航された先のジブラルタルにおいて、ワインを蒸留したスピリッツで満たされた棺へと移された後、鉛で密封の上、英国本国まで運ばれた。


セントポールズチャーチヤード(St. Pau's Churchyard→2015年7月26日付ブログで紹介済)から見た
セントポールポール大聖堂の大ドームと側面
<筆者撮影>


そして、翌年の1806年、君主以外では初となる国葬として、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral → 2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)に葬られたのである。


テイト・ブリテン美術館に所蔵 / 展示されている
ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー作
「自画像(Self-Portrait)」(1799年頃)
<筆者撮影>


一般的には、「J・M・W・ターナー(J. M. W. Turner)」として知られている英国のロマン主義の画家であるジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner:1775年ー1851年 → 2018年7月1日 / 7月8日 / 7月15日付ブログで紹介済)は、「トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar → 2022年4月18日 / 4月22日付ブログで紹介済)」において、旗艦「ビクトリー」の船上で、英国海軍提督の初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソンが戦死する場面を描いた歴史画「トラファルガーの海戦(The Battle of Trafalgar, as Seen from the Mizen Starboard Shrouds of the Victory)」(1806年ー1808年)を描いている。


フランス艦「ルドゥタブル」の狙撃兵による銃弾に倒れたネルソン提督は、
画面中央に描かれている。
<筆者撮影>


なお、フランス艦「ルドゥタブル」の狙撃兵による銃弾に倒れたネルソン提督の姿は、同作品の左下の方に描かれている。


テイト・ブリテン美術館の建物正面を階段下から見上げたところ 
<筆者撮影>


ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーが1851年12月19日に亡くなった際、手元にあった主要作品の全てを英国政府に遺贈したため、同作品は、現在、テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)に所蔵 / 展示されている。