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| 英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵 ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルが住んでいた フィッツロイスクエア21番地の建物全景 <筆者撮影> |
アイルランド出身の文学者 / 脚本家 / 劇作家 / 評論家 / 政治家 / 教育家 / ジャーナリストであるジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw:1856年ー1950年)が、1887年から1898年まで住み、その後、英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)が、1907年から1911年まで住んだフィッツロイスクエア29番地(29 Fitzroy Square → 2026年6月6日 / 6月11日付ブログで紹介済)の北側に建つフィッツロイスクエア21番地(21 Fitzroy Square)には、英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシル(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury:1830年ー1903年)が住んでいた。
第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルは、1830年2月3日、枢密院議長等を歴任した第2代ソールズベリー侯爵ジェイムズ・ブラウンロウ・ウィリアム・ガスコイン=セシル(James Brownlow William Gascoyne-Cecil, 2nd Marquess of Salisbury:1791年ー1868年)とフランセス・メアリー・ガスコイン(Frances Mary Gascoyne)の三男として、ハートフォードシャー州(Hertfordshire)ハットフィールド(Hatfield)にあるソールズベリー侯爵家の別宅ハットフィールドハウス(Hatfield Hose → 2023年6月25日付ブログで紹介済)に出生。
第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルは、1853年に庶民院議員として政界入りした後、1868年に爵位継承を経て、貴族院議員へと転じた。
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| パーラメントスクエアガーデン(Parliament Square Garden)内に建つ 初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリの銅像 <筆者撮影> |
彼は、保守党政権下において、閣僚職を歴任し、英国の政治家 / 小説家で、ヴィクトリア朝の中期に、保守党の党首として、英国首相を2回(第1次内閣:1868年 / 第2次内閣:1874年ー1880年)務めた初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield:1804年-1881年)亡き後、保守党の党首に就任。
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| テムズ河(River Thames)に架かる ブラックフライアーズ橋(Blackfriars Bridge → 2024年8月6日 / 8月11日付ブログで紹介済)の北岸に設置されている ヴィクトリア女王のブロンズ像 <筆者撮影> |
そして、ハノーヴァー朝(House of Hanover)の第6代女王で、かつ、初代インド女帝であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年 → 2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)とザクセン=コーブルク&ゴータ朝(House of Saxe-Coburg and Gotha)の初代英国国王 / インド皇帝であるエドワード7世(Edward VII:1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年 → 2025年5月10日 / 5月26日 / 5月31日 / 6月8日 / 6月15日付ブログで紹介済 )の治世下、英国首相を3回(第1次内閣:1885年ー1886年 / 第2次内閣:1886年ー1892年 / 第3次内閣:1895年ー1902年)務めた。
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| ウォーターループレイス(Waterloo Place)内に建つ エドワード7世の騎馬ブロンズ像 <筆者撮影> |
第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルは、典型的な貴族主義者かつ保守主義者で、民主主義や選挙権の拡大には強く反対したが、一方で、漸進的な内政改革を行った。
外交面において、彼は帝国主義を推し進め、大英帝国の更なる拡張を果たした。特に、
南アフリカ南部に対して、植民地大臣(Colonial Secretary)を務めていたジョーゼフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain:1836年ー1914年)と南アフリカ高等弁務官(High Commissioner for South Africa) / ケープ植民地総督(Governor - General of Cape Colony)に任命された初代ミルナー子爵アルフレッド・ミルナー(Alfred Milner, 1st Viscount Milner:1854年ー1925年 → 2022年8月29日 / 9月1日付ブログで紹介済)と一緒に、第二次ボーア戦争(1899年10月12日ー1902年5月31日 → 2022年8月8日付ブログで紹介済)を仕掛けた。
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| 大英英国軍に応戦するボーア軍 (Dorling Kindersley Limited から発行されている 「The Sherlock Holmes Book」から抜粋) |
増大する戦死者を目にして、大英帝国内において、インド人等の英領植民地人を代わりに戦地へ送り、英国人の人的損害を減らすべきであるという意見が、各方面で強まった。
そこに、シャーロック・ホームズシリーズの作者であるアーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年-1930年)が登場する。彼は、当時、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1893年12月号に「最後の事件(The Final Problem → 2022年5月1日 / 5月8日 / 5月11日付ブログで紹介済)」を発表して、ホームズを、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)と一緒に、スイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝壺(Reichenbach Falls)に葬り去った後で、「ストランドマガジン」の1901年8月号から1902年4月号にかけて、「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」の連載を開始するまでの約7年半に及ぶ空白の期間であった。
コナン・ドイルは、「タイムズ」紙において、「英国人が一人も戦地へ赴かないで、その代わりを英領植民地の人達に穴埋めさせるのは、名誉にかかわるのではないか?」という主張を展開するとともに、自分自身も英国軍に従軍する決意を固めた。ただ、彼は既に40歳を超えていたため、英国陸軍の兵役検査をパスできなかった。そこで、彼は、従軍を諦めたが、その代わりに、戦地へ派遣される50人の医療奉仕団(コナン・ドイルの友人であるジョン・ラングマンが提唱)に医師の一人として参加することに決めたのである。
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| アーサー・コナン・ドイルは、 既に40歳を超えていたため、英国陸軍の兵役検査をパスできず、 従軍を諦めたが、その代わりに、戦地の南アフリカへ派遣される医療医師団に 参加することに決め、現地入りした。 (Dorling Kindersley Limited から発行されている 「The Sherlock Holmes Book」から抜粋) |
コナン・ドイルを含む医療奉仕団を乗せたP・O・ラインのオリエンタル号は、1900年3月に英領ケープ植民地の首都ケープランドに到着し、英国軍司令官である初代ロバーツ伯爵フレデリック・ロバーツ(Frederick Roberts, 1st Earl of Roberts:1832年ー1914年)が率いる英国軍の進軍路を辿りつつ、野戦病院において負傷者等の治療に従事した。傷病兵の数は収容しきれない程に増えていき、医療奉仕団の各人は尽力したものの、十分な治療もままならず、多くの兵士が亡くなった。その上、腸チフスが発生した関係で、現地における状況は、更に絶望的になっていったのであった。
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| 英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵 ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルが住んでいた フィッツロイスクエア21番地の建物入口 <筆者撮影> |
ちょうどその頃、増援部隊が大英帝国の本国から到着すると、ロバーツ卿率いる英国軍はボーア軍を遂に打ち破って、反撃に転じ、同年3月13日にオレンジ自由国(Orange Free State)の首都ブルームフォンテーン(Bloemfontein)を、続いて、同年6月5日にトランスヴァール共和国の首都プレトリア(Pretoria)を陥落させた。
コナン・ドイルは、プレトリアにおいて、ロバーツ卿と会見して、医療奉仕団の活躍を報告した後、プレトリア陥落により、第二次ボーア戦争の大勢は決したと思われたため、当戦争を総括する執筆を行うべく、同年7月に本国への帰国の途に就いたのである。
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| 英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵 ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルが住んでいた フィッツロイスクエア21番地の建物1階(GF)外壁 <筆者撮影> |
第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルは、1902年7月11日、病を理由に退任して、後任の保守党党首 / 首相に、甥である初代バルフォア伯爵アーサー・ジェイムズ・バルフォア(Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour:1848年ー1930年)を就任させた。
そして、翌年の1903年8月22日に死去。
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| フィッツロイスクエア21番地の建物1階(GF)外壁には、 英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵 ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルがここに住んでいたことを示す London City Council のプラークが掛けられている。 <筆者撮影> |
なお、フィッツロイスクエア21番地の建物は、現在、モザンビーク大使館(Mozambique High Commission)として使用されている。




































