2026年8月21日金曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その42A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「複数の時計」ペーパーバック版の表紙 -

キャヴェンディッシュ秘書紹介所から派遣された速記タイピストのシーラ・ウェッブは、

派遣先のウィルブラームクレッセント通り19番地の居間において、

身なりの立派な男性の死体を発見する。

男性の死体の周囲には、6つの時計が置かれており、

そのうちの4つが何故か午後4時13分を指していた。

表紙には、その時計の内部にある歯車が描かれている。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(99)(午後)4時13分を指した4つの時計(four clocks set at 4:13)


(午後)4時13分を指した4つの時計が、ジグソーパズル内の各所に散りばめられている。


1つ目の時計は、ジグソーパズルの右上の角に見える回廊の手摺りに掛けられている。



2つ目の時計は、ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロの右斜め後ろの位置に立っているスコットランドヤードのジェイムズ・ハロルド・ジャップ警部(Inspector James Harold Japp / 後に主任警部(Chief Inspector)に昇進 → 2025年10月24日付ブログで紹介済)の足下に置かれている。



3つ目の時計は、ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロの左斜め後ろで、両腕を胸の前で組んだアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings → 2025年10月12日付ブログで紹介済)が凭れ掛かっている大理石の暖炉(marble fireplace → 2026年6月25日 / 6月30日付ブログで紹介済)の上に置かれている。3つ目の時計の右側には、砂糖ハンマー(sugar hammer  → 2026年7月7日 / 7月12日付ブログで紹介済)が置かれている。



4つ目の時計は、ジグソーパズルの下段中央の右手にあるテーブルの下段の中央辺りに置かれている。4つ目の時計の左側には、蓄音機(Dictaphone → 2025年11月11日 / 11月12日付ブログで紹介済)が置かれている。



(100)通り名を示す標識(street sign)


「ウィルブラームクレッセント通り(Wilbraham Crescent)」と言う通り名を示す標識が、ジグソーパズルの下段中央の右手にあるテーブルの下段の右端に置かれている。



これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1963年に発表した「複数の時計(The Clocks)」である。

「死者のあやまち」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第54作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第29作目に該っている。


キャサリン・マーティンデール(Miss Katherine Martindale)が所長を勤めるキャヴェンディッシュ秘書紹介所(Cavendish Secretarial Bureau)から派遣された速記タイピストのシーラ・ウェッブ(Sheila Webb)は、ウィルブラームクレッセント通り19番地(19 Wilbraham Crescent)へと急いでいた。

シーラ・ウェッブが電話で指示された部屋(居間)へ入ると、彼女はそこで身なりの立派な男性の死体を発見する。男性の死体の周囲には、6つの時計が置かれており、そのうちの4つが何故か午後4時13分を指していた。

鳩時計が午後3時を告げた時、ウィルブラームクレッセント19番地の住人で、目の不自由な女教師ミリセント・ペブマーシュ(Miss Millicent Pebmarsh)が帰宅する。自宅内の異変を感じたミリセント・ペブマーシュが男性の死体へと近づこうとした際、シーラ・ウェッブは悲鳴を上げながら、表へと飛び出した。そして、彼女は、ちょうどそこに通りかかった青年コリン・ラム(Colin Lamb)の腕の中に飛び込むことになった。

実は、コリン・ラム青年は、警察の公安部員(Special Branch agent)で、何者かに殺された同僚のポケット内にあったメモ用紙に書かれていた「M」という文字、「61」という数字、そして、「三日月」の絵から、ウィルブラームクレッセント19番地が何か関係して入るものと考え、付近を調査していたのである。「M」を逆さまにすると、「W」になり、「ウィルブラーム」の頭文字になる。「三日月」は「クレッセント」であり、「61」を逆さまにすると、「19」となる。3つを繋げると、「ウィルブラームクレッセント通り19番地」を意味するのだ。


2026年8月20日木曜日

ロンドン ドーヴァーストリート17番地(17 Dover Street)

ドーヴァーストリートの対岸から見た
ドーヴァー17番地の建物全景
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース
(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作の自画像(Self-portrait)(1784年)
<筆者撮影>


そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作のエマ・ハートの肖像画(1785年頃)
<筆者撮影>


英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人を経て、1791年9月6日の結婚後、彼の正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、1793年9月の初対面の5年後の1798年9月に再会した後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)と恋愛関係になる。

前述の通り、エマ・ハミルトンは、1791年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと結婚して、ナポリ公使夫人と言う立場にあり、また、ホレーショ・ネルソンも、1787年にフランシス・ハーバート・ウールワード(Frances Herbert Woolward:1758年ー1831年)と結婚していたため、2人とも不倫だった訳である。

2人の不倫関係は、何故か、周囲から寛大に見られており、エマ・ハミルトンの夫であるサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンも、そうであった。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとしては、ホレーショ・ネルソンを英国にとって必要不可欠な人物であると見做して、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を黙認する一方、ホレーショ・ネルソンとの友情関係も維持していた、とのこと。

ただ、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、ナポリから本国である英国へと伝わり、新聞報道を経て、公となってしまった。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
Sir William Beechey 作のホレーショ・ネルソンの肖像画(1800年)
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンの英国への召喚と時を同じくして、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンもナポリ公使の任を解かれた。

エマ・ハミルトンは、少なくとも、1800年4月の時点で、ホレーショ・ネルソンの子を懐妊していたと推測される。

エマ・ハミルトンは、母メアリー・キッド(Mary Kidd)、夫サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンや愛人ホレーショ・ネルソンと一緒に、中央ヨーロッパ経由で、1800年11月6日に英国へ帰国。

妊娠しているエマ・ハミルトンを見たホレーショ・ネルソンの妻フランシス・ハーバート・ウールワードは、不快な表情を見せたため、これがまた新聞の恰好なネタとなり、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、再度世間を騒がせた。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとは異なり、フランシス・ハーバート・ウールワードは、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を最後まで認めなかった。


グローヴナースクエアグローヴナースクエア
(Grosvenor Square → 2015年2月22日付ブログで紹介済)
から北へ延びる
ノースオードリーストリート(North Audley Street)の対岸から見た
グローヴナースクエア22番地の建物全景
<筆者撮影>


英国への帰国後、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとエマ・ハミルトンは、グローヴナースクエア22番地(22 Grosvenor Square → 2026年8月15日付ブログで紹介済)にある英国の作家 / 政治家であるウィリアム・トマス・ベックフォード(William Thomas Beckford:1760年ー1844年)の邸宅へ一旦入居。

一方、ホレーショ・ネルソンとフランシス・ハーバート・ウールワードは、グローヴナースクエア22番地から徒歩圏内にあるドーヴァーストリート17番地(17 Dover Street)に入居した。


ドーヴァーストリートの対岸から
ドーヴァー17番地の建物を見上げたところ
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンとフランシス・ハーバート・ウールワードが入居したドーヴァーストリート17番地は、グローヴナースクエア22番地と同じく、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街メイフェア地区(Mayfair)内に所在している。

「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
メイフェア地区の地図を抜粋。




ドーヴァーストリートは、ピカデリーライン(Piccadilly Line)とベイカールーライン(Bakerloo Line)の2線が乗り入れる地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station → 2026年8月12日付ブログで紹介済)とピカデリーラインが停まる地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)を東西に結ぶ約1マイルの幹線道路であるピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)から北北西へ延びる通りである。

ドーヴァーストリート17番地の反対側から、
ドーヴァーストリートの南側を見たところ -
画面左側から、ドーヴァーストリート17番地、
ドーヴァーストリート16番地、スタッフォードストリート6番地、
スタッフォードストリート、そして、ドーヴァーストリート15番地と続く。
<筆者撮影>

ドーヴァーストリート17番地の反対側から、
ドーヴァーストリートの北側を見たところ
<筆者撮影>

ドーヴァーストリートを北上すると、進行方向右手に、東西に延びるスタッフォードストリート(Stafford Street)が見えてくる。

ドーヴァーストリートとスタッフォードストリートが交差した北東の角の建物の場合、入口がスタッフォードストリート側にあるため、住所表記上、スタッフォードストリート6番地(6 Stafford Street)となっている。その左隣りがドーヴァーストリート16番地(16 Dover Street)で、更にその左隣りに、ドーヴァーストリート17番地が建っている。


ドーヴァー17番地の建物には、
現在、フィットネス系の医療施設が入っている。
<筆者撮影>


ドーヴァーストリート17番地の建物には、現在、「Lanserhof at The Arts Club」と言うフィットネス系の医療施設が入っている。

2026年8月19日水曜日

ロンドン パークヒルロード11A番地(11A Parkhill Road)- その2

20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーアが
1929年から住み始めた「
パークヒルロード11A番地」の建物(画面中央)を
パークヒルロードの対岸から見たところ
<筆者撮影>

英国の芸術家 / 彫刻家で、英国コンウォール州(Cornwall)にあるセントアイヴス(St. Ives)に住む芸術家のコミュニティーにおいて、主導的な役割を果たした人物であるジョスリン・バーバラ・ヘップワース(JocelynBarbara Hepworth:1903年ー1975年 → 2024年10月1日 / 10月31日 / 11月2日付ブログで紹介済)と並び、20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーア(Henry Spencer Moore:1898年ー1986年)が、1929年7月19日にポーランド系ロシア人のイリーナ・ラデツキー(Irina Radetsky)と結婚した後に住んでいた家が、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)ハムステッド地区(Hampstead → 2018年8月26日付ブログで紹介済)に所在している。


ロンドンの特別区の一つであるワンズワース区(London Borough of Wandsworth)
バタシー地区(Battersea)の
バタシーパーク(Battersea Park → 2016年7月10日付ブログで紹介済)
内に設置されている
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻
「Three Standing Figures(→ 2026年5月11日付ブログで紹介済)」を正面から見たところ
<筆者撮影>


ヘンリー・スペンサー・ムーアが、妻のイリーナ・ラデツキーと一緒に、1929年に移り住んだ家が「パークヒルロード11A番地(11A Parkhill Road)」で、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースと夫で、英国の抽象画家であるベンジャミン・ローダー・ニコルスン(Benjamin Lauder Nicholson:1894年ー1982年)がアトリエとして使用していた「モールステュディオズ(Mall Studios → 2026年8月8日付ブログで紹介済)」から徒歩で5分程度の範囲内に位置している。


地下鉄ベルサイズパーク駅の周辺地図(Google Maps から抜粋)-
画面右上の赤い矢印部分に、
ジョスリン・バーバラ・ヘップワース夫のベンジャミン・ローダー・ニコルスンがアトリエとして使用していたモールステュディオズ」が所在している。
また、画面右下の「Henry Moore Blue Plaque」と紫色で表示されている部分に、
ヘンリー・スペンサー・ムーアが、妻のイリーナ・ラデツキーと一緒に、1929年に移り住んだ
パークヒルロード11A番地」が所在している。
更に、画面右下の角にある緑色の四角部分で、
ハムステッド ファイン アーツ カレッジが開校している。


パークヒルロード11A番地」へ行くには、ノーザンライン(Northern Line)が停車する地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)から東方面へ向かう。

地下鉄ハムステッド駅前から始まるハムステッドハイストリート(Hampstead High Street)が、ロスリンヒル通り(Rosslyn Hill)、そして、ヘイヴァーストックヒル通り(Haverstock Hill)へと名前を変えて、同じく、ノーザンラインが停車する地下鉄ベルサイズパーク駅(Belsize Park Tube Station)の前を通過。

ヘイヴァーストックヒル通りを更に東方面へと向かい、進行方向左手にパークヒルロード(Parkhill Road)が見えた時点で、パークヒルロードへと左折。

パークヒルロードを北進し、前方にパークヒルロードを横切るタスカーロード(Tasker Road)が見える手前の左手に、パークヒルロード11A番地」の建物が建っている。


パークヒルロード11A番地」の建物2階(1F)の外壁には、
ヘンリー・スペンサー・ムーアがここに住み、作品の制作を行っていたことを記す
イングリッシュヘリテージのブループラークが掛けられている。
<筆者撮影>


パークヒルロード11A番地」の建物の2階(1F)の外壁に、イングリッシュヘリテージ(English Heritage)のブループラークが掛けられており、「彫刻家のヘンリー・ムーアが、1929年から1940年までの間、ここに住み、作品の制作も行っていた(HENRY MOORE 1898 - 1986 Sculptor lived and worked here 1929 - 1940)」と記されている。


パークヒルロード2番地に建つ
ハムステッド ファイン アーツ カレッジの建物(その1)
<筆者撮影>

パークヒルロード2番地に建つ
ハムステッド ファイン アーツ カレッジの建物(その2)
<筆者撮影>


20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーアとジョスリン・バーバラ・ヘップワースの2人が近くに住んでいたこともあり、パークヒルロード2番地(2 Parkhill Road)には、ハムステッド ファイン アーツ カレッジ(Hampstead Fine Arts College)と言う私立学校が開校している


2026年8月18日火曜日

アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」<英国 TV ドラマ版>(The Mystery of the Spanish Chest by Agatha Christie )- その2

第27話「スペイン櫃の謎」が収録された
エルキュール・ポワロシリーズの DVD コレクション No. 3 の裏表紙


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「スペイン櫃の謎(The Mystery of the Spanish Chest)」(1960年)は、1932年に発表された短編「バグダッドの大櫃の謎(The Mystery of the Baghdad Chest)」を改稿した中編で、短編集「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)に収録されている。


英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」の TV ドラマ版が、英国の TV 会社 ITV 社による制作の下、「Agatha Christie’s Poirot」の第27話(第3シリーズ)として、1991年2月17日に放映されている。英国の俳優であるサー・デヴィッド・スーシェ(Sir David Suchet:1946年ー)が、名探偵エルキュール・ポワロを演じている。


アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」の TV ドラマ版の場合、原作対比、以下のような差異が見受けられる。


<原作>

ある日の朝、エルキュール・ポワロが秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)にその日の仕事を指示する際、持参した朝刊の見出しにある記事「スペイン櫃の謎(SPANISH CHEST MYSTERY)」に興味を持ち、彼女に対して、事件の詳細を調べるよう、頼むところから、物語が始まる。つまり、物語の冒頭、事件は発生しており、ポワロは事後に事件に関与する形を採っている。


<英国 TV ドラマ版>

英国 TV ドラマ版の場合、原作とは異なり、ポワロは事件の発生前から関係者達に出会い、物語の中盤に事件が発生して、ポワロが事件の調査を行うと言う形へ変更されている。


(1)

10年前、エドワード・クレイトン(Edward Clayton - 原作のアーノルド・クレイトン(Arnold Clayton)に相当)とカーティス(陸軍)大佐(Colonel Curtiss - 原作のジョック・マクラーレン(海軍)中佐(Commander Jock McLaren)に相当)の2人が、マーガリート・クレイトン(Marguerite Clayton - 原作のマーガリータ・クレイトン(Margharita Clayton)に相当)との結婚を賭けて、フェンシングによる決闘を行う場面が描かれる。

日本における武士の果たし合いのように、命を賭ける訳ではなく、相手の身体に傷を負わせた時点で、勝敗が決するルールだったと思われる。

実際、エドワード・クレイトンが振るったフェンシングの剣先が、カーティス大佐の頬を傷付けたところで勝敗が決して、エドワード・クレイトンがマーガリートを妻にしたのである。


(2)

上記(1)から10年後、ポワロは、アーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings)と一緒に、劇場において、オペラ「リゴレット(Rigoletto - ヴィクトル・ユーゴーの戯曲「王様はお楽しみ」を原作にしたヴェルディ(Verdi)による歌劇)」を観劇。

インターバル時に、ポワロは、レディー・キャロライン・チャタートン(Lady Caroline Chatterton - 原作のレディー・アビー・チャタートン(Lady Abbie Chatterton)に相当)から声を掛けられる。

レディー・キャロライン・チャタートンによると、彼女はポワロの知人で、ポワロが Chalfont diamond case(ダイヤモンドの盗難事件?)を解決した際、彼女も容疑者の一人だった、とのこと。

レディー・キャロライン・チャタートンは、ポワロに対して、「友人のマーガリート・クレイトンの件で、相談したいことがある。」と話す。

その際、ポワロは、遠方でマーガリート・クレイトンとジョン・リッチ(陸軍)少佐(Major John Rich - 原作のチャールズ・リッチ少佐(Major Charles Rich)に相当)が歓談しているのを見かける。


(3)

レディー・キャロライン・チャタートンから相談を受けたポワロは、翌日の午前11時、ヘイスティングス大尉を伴って、彼女の自宅を訪問の上、更に詳しい説明を受ける。

レディー・キャロライン・チャタートン曰く、


*10年前に、マーガリート・クレイトンとの結婚をめぐって、2人の男性(エドワード・クレイトンとカーティス大佐)が、フェンシングで対決。


*エドワード・クレイトンは、妻のマーガリート・クレイトンとジョン・リッチ少佐の関係を疑っていて、そのため、彼女を殺害しようとしているのではないか?


とのことだった。


原作上、エドワード・クレイトンは、大人しい性格と言う設定だったが、英国 TV ドラマ版の場合、直ぐにカッとなりやすい質へと変更されている。


チジックモール沿いの家並み(その1)
<筆者撮影>


チジックモール沿いの家並み(その2)
<筆者撮影>


チジックモール沿いの家並み(その3)
<筆者撮影>


また、ポワロとヘイスティングス大尉の2人が訪れるレディー・キャロライン・チャタートンの自宅として、チジックモール(Chiswick Mall → 2019年2月3日付ブログで紹介済)にある家が撮影に使用されている。


チジックモール沿いの家並み(その4)
<筆者撮影>


チジックモール沿いの家並み(その5)
<筆者撮影>


チジックモールは、ロンドンの特別区の一つであるハウンズロー治区(London Borough of Hounslow)のチジック地区(Chiswick → 2016年7月23日付ブログで紹介済)内にあり、ハマースミス・アンド・フラム区(London Borough of Hammersmith and Fulham)のハマースミス地区(Hammersmith)を抜けて、ロンドンの中心部からヒースロー空港(Heathrow Airport)へと向かうグレイトウェストロード(Great West Road)とテムズ河(River Thames)に挟まれた場所にある。 


2026年8月17日月曜日

ロンドン タヴィストックスクエア52番地(52 Tavistock Square)- その2

ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が、
約10年間を過ごしたリッチモンドを離れ、ロンドンの中心部へと戻り、
1924年3月に移った
タヴィストックスクエア52番地の跡地に建つ
タヴィストックホテル(Tavistock Hotel)-
手前に見える庭園は、タヴィストックスクエアガーデンズ(Tavistock Square Gardens)。
<筆者撮影>

1912年8月10日に結婚した英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)英国の作家 / 出版業者 / 公務員であるレナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年の2人は、1914年の秋から約10年間を過ごしたリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)を離れ、ロンドンの中心部へと戻り、1924年3月、タヴィストックスクエア52番地(52 Tavistock Square)に居を構えた。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


レナード・シドニー・ウルフが、1917年3月、パラダイスロード34番地 / ホガースハウス(Hogarth House, 34 Paradise Road → 2026年7月31日 / 8月5日付ブログで紹介済)に設立した出版社「ホガースプレス(Hogarth Press)」に参加したことにより、ヴァージニア・ウルフの精神状態が落ち着き、その結果、執筆にも脂がのってきたこと、また、ヴァージニア・ウルフ自身が若い頃から慣れ親しんできたロンドンの街の刺激が恋しくなったことが、彼らがロンドンの中心部へと戻った理由だった。


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が、1915年3月に
リッチモンドグリーン(Richmond Green → 2026年7月24日付ブログで紹介済)から移り住んだ
パラダイスロード34番地の建物
<筆者撮影>


2人がリッチモンドで経営した出版社「ホガースプレス」は、タヴィストックスクエア52番地の建物の地下に設置された。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。



タヴィストックスクエア52番地は、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在しており、ヴァージニア・ウルフがリッチモンドへ引っ越す前に住み慣れた住居の直ぐ近くだった。


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
1924年3月に移った
タヴィストックスクエア52番地の跡地に建つ
タヴィストックホテル内には、
ヴァージニア・ウルフの名前を冠した「Woolf & Whistle」と言うレストランが営業している。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフは、この頃、叔母からの遺言で、毎年500ポンド(現在価値で言うと、約500万円)の遺産を受け取るようになった。これにより、彼女には、金銭的な余裕ができて、小説等の執筆に専念することが可能となった。

ヴァージニア・ウルフは、1924年3月、タヴィストックスクエア52番地に移った後、


*長編第4作目「ダロウェイ夫人(Mrs Dalloway)」(1925年)

*長編第5作目「灯台へ(To the Lighthouse)」(1927年)

*長編第6作目「オーランドー(Orlando)」(1928年)

*長編第7作目「波(The Waves)」(1931年)

*長編第8作目「歳月(The Years)」(1937年)


を次々と意欲的に発表。


タヴィストックホテルの玄関左側の外壁には、
Virginia Woolf Society of Great Britain のプラークが掛けられている。
<筆者撮影>

タヴィストックホテルの玄関左側の外壁に掛けられている
Virginia Woolf Society of Great Britain のプラークには、
ヴァージニア・ウルフとレナード・ウルフの2人が、1924年から1939年までの間、
タヴィストックスクエア52番地の建物に住んでいたことが記されている。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人がロンドンの中心部へと戻って来た1924年3月当時は、第一次世界大戦(1914年ー1918年)を経て、戦勝国である英国の経済が急速に回復し、好景気に沸いている頃だった。

残念ながら、この好景気は一時的なものにすぎず、1929年の米国ニューヨーク株式市場における大暴落を皮切りに始まった世界恐慌(The Great Depression)は、全世界へと拡大して、各地に失業と貧困を引き起こした。その結果、ナチズムとファシズムが台頭、再び戦争の足音が聞こえ始めるのだった。

レナード・シドニー・ウルフはユダヤ人だったため、2人は反ユダヤ主義を伴ったファシズムを非常に恐れていた。こうして、ヴァージニア・ウルフの精神状態は、またもや悪化の一途を辿っていくのである。