![]() |
| ホレーショ・ネルソンが1797年に住んでいた ニューボンドストリート147番地のの建物正面を 右側(北側)から見たところ <筆者撮影> |
アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。
![]() |
| ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている ジョージ・ロムニー作の自画像(Self-portrait)(1784年) <筆者撮影> |
そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。
![]() |
| ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている ジョージ・ロムニー作のエマ・ハートの肖像画(1785年頃) <筆者撮影> |
英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人を経て、1791年9月6日の結婚後、彼の正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、1793年9月の初対面の5年後の1798年9月に再会した後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)と恋愛関係になる。
前述の通り、エマ・ハミルトンは、1791年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと結婚して、ナポリ公使夫人と言う立場にあり、また、ホレーショ・ネルソンも、1787年にフランシス・ハーバート・ウールワード(Frances Herbert Woolward:1758年ー1831年)と結婚していたため、2人とも不倫だった訳である。
2人の不倫関係は、何故か、周囲から寛大に見られており、エマ・ハミルトンの夫であるサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンも、そうであった。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとしては、ホレーショ・ネルソンを英国にとって必要不可欠な人物であると見做して、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を黙認する一方、ホレーショ・ネルソンとの友情関係も維持していた、とのこと。
ただ、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、ナポリから本国である英国へと伝わり、新聞報道を経て、公となってしまった。
![]() |
| ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている Sir William Beechey 作のホレーショ・ネルソンの肖像画(1800年) <筆者撮影> |
ホレーショ・ネルソンの英国への召喚と時を同じくして、ナポリ公使の任を解かれたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと一緒に、英国に帰国したエマ・ハミルトンは、1801年1月29日、ピカデリー通り23番地(23 Piccadilly → 2026年8月26日付ブログで紹介済)の家において、ホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソン(Horatia Nelson:1801年ー1881年)を出産した。
![]() |
| ピカデリー通りの対岸からホテル「ザ・ディリー(The Dilly)」(画面左側の建物)を見たところ - エマ・ハミルトンがホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソンを出産したピカデリー通り23番地は、 画面左下にあるバス停留所の背後の店舗部分に該る。 <筆者撮影> |
なお、ホレーショ・ネルソンは、エマ・ハミルトンがホレイシア・ネルソンを出産する前の1801年1月1日に、青色艦隊中将(Vice-admiral of the Blue)へ昇進し、新たな任務を帯びて、航海へ出た後だった。
![]() |
| ホレーショ・ネルソンが1797年に住んでいた ニューボンドストリート147番地のの建物正面を 左側(南側)から見たところ <筆者撮影> |
ホレーショ・ネルソンが住んでいたニューボンドストリート147番地(147 New Bond Street)が、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街メイフェア地区(Mayfair)内に所在している。
![]() |
| 「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から メイフェア地区の地図を抜粋。 |
彼が住んでいたニューボンドストリート147番地は、トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar → 2022年4月18日 / 4月22日付ブログで紹介済)において、1805年10月21日、ホレーショ・ネルソンが戦死した後、借金地獄に陥ったエマ・ハミルトンが引っ越したニューボンドストリート136番地(136 New Bond Street → 2026年9月10日付ブログで紹介済)の安い家と、奇しくも、同じボンドストリート(Bond Street → 2017年5月21日付ブログで紹介済)沿いに所在している。
![]() |
| トラファルガースクエア(Trafalgar Square)の近くにある 地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)のプラットフォームに描かれている壁画 - 「トラファルガーの海戦」における英国艦隊の勝利とネルソン提督の死を伝える新聞記事 + ネルソン提督の肖像画 <筆者撮影> |
![]() |
| トラファルガーの海戦において、ホレーショ・ネルソンが戦死した後、 エマ・ハミルトンが引っ越したボンドストリート136番地だと思われる ニューボンドストリート136番地のの建物正面を 左側(南側)から見たところ <筆者撮影> |
ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から、地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station → 2025年7月30日付ブログで紹介済)の前を通って、地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)へと西に延びるピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)と地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)から、地下鉄ボンドストリート駅(Bond Street Tube Station)の前を通って、地下鉄マーブルアーチ駅(Marble Arch Tube Station)へと西に延びるオックスフォードストリート(Oxford Street → 2016年5月28日付ブログで紹介済)を、ボンドストリートは南北に結んでいる。
現在、南側のセクションを「オールドボンドストリート(Old Bond Street)」、そして、北側のセクションを「ニューボンドストリート(New Bond Street)」と呼び、区分けしている。
ホレーショ・ネルソンが住んでいたニューボンドストリート147番地は、南側のブルートンプレイス(Bruton Place)と北側のグローヴナーストリート(Grosvenor Street)に挟まれたニューボンドストリートの西側に建っている。
より具体的に言うと、ブルートンプレイスを東方面へ進み、ニューボンドストリートへと左折した直ぐ近くに、ニューボンドストリート147番地は所在している。
![]() |
| ニューボンドストリート147番地の 1F(2階)と 2F(3階)の間の建物外壁には、 「ホレーショ・ネルソンが1797年に此処に住んでいた」ことを示すプラークが掛けられている。 <筆者撮影> |
ニューボンドストリート147番地の 1F(2階)と 2F(3階)の間の建物外壁に、「ホレーショ・ネルソンが1797年に此処に住んでいた」ことを示すプラークが掛けられている。
と言うことは、ホレーショ・ネルソンがニューボンドストリート147番地に住んでいた時期は、彼がエマ・ハミルトンに初対面した1793年9月と再会した1798年9月の間に該っている。
ニューボンドストリート147番地には、現在、アートギャラリー系のテナントが入居して、営業している。














































