2026年9月13日日曜日

ロンドン ニューボンドストリート147番地(147 New Bond Street)

ホレーショ・ネルソンが1797年に住んでいた
ニューボンドストリート147番地のの建物正面を

右側(北側)から見たところ
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース
(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作の自画像(Self-portrait)(1784年)
<筆者撮影>


そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作のエマ・ハートの肖像画(1785年頃)
<筆者撮影>


英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人を経て、1791年9月6日の結婚後、彼の正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、1793年9月の初対面の5年後の1798年9月に再会した後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)と恋愛関係になる。

前述の通り、エマ・ハミルトンは、1791年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと結婚して、ナポリ公使夫人と言う立場にあり、また、ホレーショ・ネルソンも、1787年にフランシス・ハーバート・ウールワード(Frances Herbert Woolward:1758年ー1831年)と結婚していたため、2人とも不倫だった訳である。

2人の不倫関係は、何故か、周囲から寛大に見られており、エマ・ハミルトンの夫であるサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンも、そうであった。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとしては、ホレーショ・ネルソンを英国にとって必要不可欠な人物であると見做して、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を黙認する一方、ホレーショ・ネルソンとの友情関係も維持していた、とのこと。

ただ、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、ナポリから本国である英国へと伝わり、新聞報道を経て、公となってしまった。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
Sir William Beechey 作のホレーショ・ネルソンの肖像画(1800年)
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンの英国への召喚と時を同じくして、ナポリ公使の任を解かれたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと一緒に、英国に帰国したエマ・ハミルトンは、1801年1月29日、ピカデリー通り23番地(23 Piccadilly → 2026年8月26日付ブログで紹介済)の家において、ホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソン(Horatia Nelson:1801年ー1881年)を出産した。


ピカデリー通りの対岸からホテル「ザ・ディリー(The Dilly)」(画面左側の建物)を見たところ -
エマ・ハミルトンがホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソンを出産したピカデリー通り23番地は、
画面左下にあるバス停留所の背後の店舗部分に該る。
<筆者撮影>


なお、ホレーショ・ネルソンは、エマ・ハミルトンがホレイシア・ネルソンを出産する前の1801年1月1日に、青色艦隊中将(Vice-admiral of the Blue)へ昇進し、新たな任務を帯びて、航海へ出た後だった。


ホレーショ・ネルソンが1797年に住んでいた
ニューボンドストリート147番地のの建物正面を

左側(南側)から見たところ
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンが住んでいたニューボンドストリート147番地(147 New Bond Street)が、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街メイフェア地区(Mayfair)内に所在している。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
メイフェア地区の地図を抜粋。



彼が住んでいたニューボンドストリート147番地は、トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar → 2022年4月18日 / 4月22日付ブログで紹介済)において、1805年10月21日、ホレーショ・ネルソンが戦死した後、借金地獄に陥ったエマ・ハミルトンが引っ越したニューボンドストリート136番地(136 New Bond Street → 2026年9月10日付ブログで紹介済)の安い家と、奇しくも、同じボンドストリート(Bond Street → 2017年5月21日付ブログで紹介済)沿いに所在している。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)の近くにある
地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)のプラットフォームに描かれている壁画 -
「トラファルガーの海戦」における英国艦隊の勝利とネルソン提督の死を伝える新聞記事 +
ネルソン提督の肖像画
<筆者撮影>


トラファルガーの海戦において、ホレーショ・ネルソンが戦死した後、
エマ・ハミルトンが引っ越したボンドストリート136番地だと思われる
ニューボンドストリート136番地のの建物正面を

左側(南側)から見たところ
<筆者撮影>


ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から、地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station → 2025年7月30日付ブログで紹介済)の前を通って、地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)へと西に延びるピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)と地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)から、地下鉄ボンドストリート駅(Bond Street Tube Station)の前を通って、地下鉄マーブルアーチ駅(Marble Arch Tube Station)へと西に延びるオックスフォードストリート(Oxford Street → 2016年5月28日付ブログで紹介済)を、ボンドストリートは南北に結んでいる。

現在、南側のセクションを「オールドボンドストリート(Old Bond Street)」、そして、北側のセクションを「ニューボンドストリート(New Bond Street)」と呼び、区分けしている。



ホレーショ・ネルソンが住んでいたニューボンドストリート147番地は、南側のブルートンプレイス(Bruton Place)と北側のグローヴナーストリート(Grosvenor Street)に挟まれたニューボンドストリートの西側に建っている。

より具体的に言うと、ブルートンプレイスを東方面へ進み、ニューボンドストリートへと左折した直ぐ近くに、ニューボンドストリート147番地は所在している。


ニューボンドストリート147番地の 1F(2階)と 2F(3階)の間の建物外壁には、
「ホレーショ・ネルソンが1797年に此処に住んでいた」ことを示すプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


ニューボンドストリート147番地の 1F(2階)と 2F(3階)の間の建物外壁に、「ホレーショ・ネルソンが1797年に此処に住んでいた」ことを示すプラークが掛けられている。

と言うことは、ホレーショ・ネルソンがニューボンドストリート147番地に住んでいた時期は、彼がエマ・ハミルトンに初対面した1793年9月と再会した1798年9月の間に該っている。



ニューボンドストリート147番地には、現在、アートギャラリー系のテナントが入居して、営業している。


        

2026年9月12日土曜日

ロンドン キューガーデンズ / ヘンリー・ムーア展(Kew Gardens / Henry Moore)- その3



ロンドンの特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のリッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)のリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)内に所在するキューガーデンズ(Kew Gardens)において、20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーア(Henry Spencer Moore:1898年ー1986年)の展覧会「Henry Moore : Monumental Nature」が、2027年1月31日まで開催されている。


ヘンリー・スペンサー・ムーアによる彫刻作品30点が、キューガーデンズ内の野外(正確に言うと、2点だけは屋内)に展示されている。



今回は3回目で、11番目から15番目までの彫刻を紹介したい。


(11)「Working Model for Spindle Piece」




制作年:1968年-1969年

LH 592 / Cast 0

Mediumbronze 


(12)「Two Piece Reclining Figure : Points」




制作年:1969年

LH 606 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Gift of the artist in 1977


(13)「Large Reclining Figure」




制作年:1983年

LH 192b

Fibreglass

Henry Moore Foundation : Acquired in 1987


(14)「Two Piece Reclining Figure : No. 2」




制作年:1960年

LH 458 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Gift of the artist in 1977


(15)「Reclining Figure : Bunched」




制作年:1969年

LH 489a / Cast a

Bronze

Henry Moore Foundation : Gift of the Lord Rayne in 1986


2026年9月11日金曜日

ロンドン タヴィストックスクエア(Tavistock Square)- その4

タヴィストックスクエアガーデンズの中央に設置されている
マハトマ・ガンディーのブロンズ像を正面から見たところ
<筆者撮影>

1912年8月10日に結婚した英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)英国の作家 / 出版業者 / 公務員であるレナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年の2人は、1914年の秋から約10年間を過ごしたリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)を離れ、ロンドンの中心部へと戻り、1924年3月、タヴィストックスクエア52番地(52 Tavistock Square → 2026年8月11日 / 8月17日付ブログで紹介済)に居を構えた。

2人がパラダイスロード34番地 / ホガースハウス(Hogarth House, 34 Paradise Road → 2026年7月31日 / 8月5日付ブログで紹介済)の居間に設立した出版社「ホガースプレス(Hogarth Press)」は、タヴィストックスクエア52番地の建物の地下に設置された。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人は、1924年から第二次世界大戦(1939年-1945年)が始まった1939年までの間、タヴィストックスクエア52番地に住むことになる。

現在、タヴィストックスクエア52番地の跡地には、タヴィストックホテル(Tavistock Hotel)が建っている。


画面奥に見える建物は、
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
約10年間を過ごしたリッチモンドを離れ、ロンドンの中心部へと戻り、
1924年3月に移った
タヴィストックスクエア52番地の跡地に建つタヴィストックホテル -
手前に見える庭園は、タヴィストックスクエアガーデンズ。
<筆者撮影>


タヴィストックホテルの玄関左側の外壁に掛けられている
英国ヴァージニア・ウルフ協会のプラークには、
ヴァージニア・ウルフとレナード・ウルフの2人が、1924年から1939年までの間、
タヴィストックスクエア52番地の建物に住んでいたことが記されている。
<筆者撮影>


タヴィストックスクエア52番地の建物が面するタヴィストックスクエア(Tavistock Square)の中央に設けられたタヴィストックスクエアガーデンズ(Tavistock Square Gardens)の南西の角に、英国ヴァージニア・ウルフ協会(Virginia Woolf Society of Great Britain)により、ヴァージニア・ウルフのブロンズ胸像が設置されている。


タヴィストックスクエアガーデンズの南西の角に設置されている
ヴァージニア・ウルフのブロンズ胸像のアップ
<筆者撮影>


タヴィストックスクエアガーデンズ内には、ヴァージニア・ウルフのブロンズ胸像以外に、以下のブロンズ像が設置されている。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。



側の入口近くに設置されている
タヴィストックスクエアガーデンズの沿革に関する説明板

<筆者撮影>

(1)マハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi:1869年ー1948年)


タヴィストックスクエアガーデンズの中央に設置されている
マハトマ・ガンディーのブロンズ像を背面から見たところ
<筆者撮影>


マハトマ・ガンディーは、インドの宗教家 / 政治指導者で、本名はモーハンダース・カラムチャンど・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi)。

彼は、1869年10月2日、英国領インド帝国、現在のグジャラート州の港町ポールバンダルに、当時のポールバンダル藩王国の宰相であるカラムチャンド・ガンディーと夫人のプラリーバーイーの四男として出生。

南アフリカにおいて、弁護士として働く一方で、公民権運動に参加。

帰国後、民衆暴動やゲリラ戦ではなく、「非暴力不服従」を提唱の上、インドの英国からの独立運動を指揮して、1947年8月、独立を勝ち取ったことにより、「インド独立の父」として知られている。

その半年後の1948年1月30日、民族義勇団(RSS)の活動家によって暗殺された。


マハトマ・ガンディーのブロンズ像は、ポーランドの彫刻家 / 女優であるフレッダ・ブリリアント(Fredda Brilliant:1903年ー1999年)によって制作され、1968年にタヴィストックスクエアガーデンズの中央に設置された。


ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンの入口から見た
主要校舎ウィルキンスビル(Wilkins Building)
<筆者撮影>


マハトマ・ガンディーは、18歳の時、ロンドンへ来て、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London → 2015年8月16日付ブログで紹介済)で学んでおり、タヴィストックスクエアガーデンズがユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンの近くにあることから、同ガーデンズが設置場所として選定されたものと思われる。


(2)ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイク(Louisa Brandreth Aldrich-Blake:1865年ー1925年)


タヴィストックスクエアガーデンズの南東の角に設置されている
ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイクのブロンズ胸像の全体
<筆者撮影>


ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイクは、英国の外科医で、英国において、直腸癌(rectal cancer) / 子宮頸管部癌(cervical cancer)の外科手術を行った女性の一人である。


タヴィストックスクエアガーデンズの南東の角に設置されている
ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイクのブロンズ胸像のアップ
<筆者撮影>


ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイクのブロンズ像の場合、胸像は、英国の彫刻家 / 画家であるアーサー・ジョージ・ウォーカー(Arthur George Walker :1861年ー1939年)によって制作され、また、台座は、英国の建築家であるサー・エドウィン・ランドシーア・ルトイェンツ(Sir Edwin Landseer Lutyens :1869年ー1944年)によって制作され、1927年にタヴィストックスクエアガーデンズの南東の角に設置された。


ロンドン大学の本部が置かれているセナトハウス
(Senate House → 2017年1月15日付ブログで紹介済)
<筆者撮影>


ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイクは、ロンドン大学(University of London → 2016年8月6日付ブログで紹介済)で学んでおり、タヴィストックスクエアガーデンズがロンドン大学の近くにあることから、同ガーデンズが設置場所として選定されたものと思われる。 


2026年9月10日木曜日

ロンドン ボンドストリート136番地(136 Bond Street)

トラファルガーの海戦において、ホレーショ・ネルソンが戦死した後、
エマ・ハミルトンが引っ越したボンドストリート136番地だと思われる
ニューボンドストリート136番地のの建物正面を

左側(南側)から見たところ
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース
(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作の自画像(Self-portrait)(1784年)
<筆者撮影>


そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作のエマ・ハートの肖像画(1785年頃)
<筆者撮影>


英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人を経て、1791年9月6日の結婚後、彼の正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、1793年9月の初対面の5年後の1798年9月に再会した後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)と恋愛関係になる。

前述の通り、エマ・ハミルトンは、1791年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと結婚して、ナポリ公使夫人と言う立場にあり、また、ホレーショ・ネルソンも、1787年にフランシス・ハーバート・ウールワード(Frances Herbert Woolward:1758年ー1831年)と結婚していたため、2人とも不倫だった訳である。

2人の不倫関係は、何故か、周囲から寛大に見られており、エマ・ハミルトンの夫であるサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンも、そうであった。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとしては、ホレーショ・ネルソンを英国にとって必要不可欠な人物であると見做して、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を黙認する一方、ホレーショ・ネルソンとの友情関係も維持していた、とのこと。

ただ、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、ナポリから本国である英国へと伝わり、新聞報道を経て、公となってしまった。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
Sir William Beechey 作のホレーショ・ネルソンの肖像画(1800年)
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンの英国への召喚と時を同じくして、ナポリ公使の任を解かれたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと一緒に、英国に帰国したエマ・ハミルトンは、1801年1月29日、ピカデリー通り23番地(23 Piccadilly → 2026年8月26日付ブログで紹介済)の家において、ホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソン(Horatia Nelson:1801年ー1881年)を出産した。

なお、ホレーショ・ネルソンは、エマ・ハミルトンがホレイシア・ネルソンを出産する前の1801年1月1日に、青色艦隊中将(Vice-admiral of the Blue)へ昇進し、新たな任務を帯びて、航海へ出た後だった。


ピカデリー通りの対岸からホテル「ザ・ディリー(The Dilly)」(画面左側の建物)を見たところ -
エマ・ハミルトンがホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソンを出産したピカデリー通り23番地は、
画面左下にあるバス停留所の背後の店舗部分に該る。
<筆者撮影>


1803年4月6日に、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンが、ピカデリー通り23番地の家において亡くなった後、世間的な体裁を保つため(=ホレーショ・ネルソンとは異なる住所を確保するため)、エマ・ハミルトンは、ピカデリー通り23番地の家から、あまり離れていないクラルジズストリート11番地(11 Clarges Street → 2026年9月4日付ブログで紹介済)の家へ引っ越した。


クラルジズストリート11番地の建物正面を
左側(北側)から見たところ
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンは、同年、地中海艦隊司令長官(Commander-in-Chief of the Mediterranean Fleet)へ昇進して、また新たな任務を帯び、海へ戻る。

第2子を妊娠中だったエマ・ハミルトンは、一人残された孤独の中、ホレーショ・ネルソンの帰還をひたすら待ち続けた。

エマ・ハミルトンが生んだ第2子(次女)は、残念ながら、数週間しか生きられず、第2子を亡くした彼女は、空虚な心を埋めるために、ギャンブルや浪費生活を送った。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)の近くにある
地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)のプラットフォームに描かれている壁画 -
「トラファルガーの海戦」における英国艦隊の勝利とネルソン提督の死を伝える新聞記事 +
ネルソン提督の肖像画
<筆者撮影>


トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar → 2022年4月18日 / 4月22日付ブログで紹介済)において、1805年10月21日、ホレーショ・ネルソンが戦死した後、エマ・ハミルトンは、借金地獄に陥った。

ホレーショ・ネルソンは、兄のウィリアム・ネルソン(Wiiliam Nelson:1757年ー1835年 → 後の初代ネルソン伯爵(1st Earl Nelson))に対して、自分の遺産を遺贈していたことに因る。

エマ・ハミルトンには、マートンプレイスの家のみが残されたが、1803年に亡くなった夫サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの年金も食い潰していたため、マートンプレイスの家も抵当に入ってしまった。

ホレーショ・ネルソンは、エマ・ハミルトンと娘のホレイシア・ネルソンの扶養を命じていたが、何故か、彼女達の存在は無視されてしまい、富も名誉も、相続人である兄ウィリアム・ネルソンのものとなった。


トラファルガーの海戦において、ホレーショ・ネルソンが戦死した後、
エマ・ハミルトンが引っ越したボンドストリート136番地だと思われる
ニューボンドストリート136番地のの建物正面を

右側(北側)から見たところ
<筆者撮影>


エマ・ハミルトンは、クラルジズストリート11番地の家からボンドストリート136番地(136 Bond Street)の安い家へと引っ越したものの、焼け石に水で、1811年から1812年にかけて、債務者監獄(debtors’ prison)に入れられた。娘のホレイシア・ネルソンも、一時期、母親と一緒に、債務者監獄に居た。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
メイフェア地区の地図を抜粋。



エマ・ハミルトンがクラルジズストリート11番地の家から引っ越したボンドストリート136番地は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街メイフェア地区(Mayfair)内に所在している。


ニューボンドストリート136番地のの建物を下から見上げたところ
<筆者撮影>


ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から、地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station → 2025年7月30日付ブログで紹介済)の前を通って、地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)へと西に延びるピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)と地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)から、地下鉄ボンドストリート駅(Bond Street Tube Station)の前を通って、地下鉄マーブルアーチ駅(Marble Arch Tube Station)へと西に延びるオックスフォードストリート(Oxford Street → 2016年5月28日付ブログで紹介済)を、ボンドストリート(Bond Street → 2017年5月21日付ブログで紹介済)は南北に結んでいる。


ニューボンドストリートとオールドボンドストリートを繫ぐ歩道には、
第二次世界大戦時に両国を指揮した英首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill:右側)と
米大統領フランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Roosevelt:左側)のブロンズ像が設置されている。
(Sculptor : Lawrence Holofcener / Bronze / 1995)
<筆者撮影>


現在、南側のセクションを「オールドボンドストリート(Old Bond Street)」、そして、北側のセクションを「ニューボンドストリート(New Bond Street)」と呼び、区分けしている。


現在の住所表記上、オールドボンドストリート側(南側)には、136番地はなく、
ニューボンドストリート側(北側)には、136番地は存在する。
<筆者撮影>


現在の住所表記上、オールドボンドストリート側に136番地は存在しないので、エマ・ハミルトンが引っ越したボンドストリート136番地は、ニューボンドストリート側にあったものと考える。


ニューボンドストリート136番地の建物外壁にある番地表示
<筆者撮影>


エマ・ハミルトンが引っ越したボンドストリート136番地がニューボンドストリート136番地(136 New Bond Street)だとすると、その建物は、南側のブルートンプレイス(Bruton Place)と北側のグローヴナーストリート(Grosvenor Street)に挟まれたニューボンドストリートの西側に建っている。


現在、ニューボンドストリート136番地の建物には、
ファッションブランドが入居している。
<筆者撮影>


当該建物の場合、ニューボンドストリート135番地 / 136番地 / 137番地が一緒になっており、現在、服飾系のテナントが入居して、営業している。