2026年9月19日土曜日

ロンドン アッパーベルグレイヴストリート9番地(9 Upper Belgrave Street)

初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンが住んでいた
アッパーベルグレイヴストリート9番地の建物を
正面から見たところ
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1962年に発表したミス・マープルシリーズ作品の長編第8作目「鏡は横にひび割れて(Mirror Crack’d from Side to Side)」では、「ゴシントンホール(Gossington Hall - ミス・マープルの親友であるドリー・バントリー(Dolly Bantry → 2024年8月14日付ブログで紹介済)が所有していた邸宅)」を購入して、最近、セントメアリーミード村(St. Mary Mead)に引っ越して来た米国の映画女優であるマリーナ・グレッグ(Marina Gregg)と彼女の夫で、映画監督であるジェイスン・ラッド(Jason Rudd)が開催したセントジョン野戦病院協会(St. John Ambulance)支援パーティーの席上、マリーナ・グレッグを捕まえて、長い昔話を始めた同協会の幹事を務めるヘザー・バドコック(Mrs. Heather Badcock)が、突然倒れて、死亡してしまう事件が発生する。

スコットランドヤードのダーモット・クラドック主任警部(Chief Inspector Dermot Craddock)が捜査を担当し、検死解剖の結果、ヘザー・バドコックの死因は、推奨量の6倍もの精神安定剤を摂取したことによるもので、その精神安定剤は、マリーナ・グレッグが持っていたダイキリ(daiquiri)のグラス内に混入されており、自分の飲み物をこぼしたヘザー・バドコックに対して、マリーナ・グレッグがそのグラスを手渡したのであった。


英国の Harper Collins Publishers 社から出版されている
アガサ・クリスティー作ミス・マープルシリーズ
「鏡は横にひび割れて」のペーパーバック版の表紙
<イラスト:ビル・ブラッグ氏(Mr. Bill Bragg)>


ヘザー・バドコックとマリーナ・グレッグの会話を近くで聞いていたドリー・バントリーは、ヘザー・バドコックが長話をしている間、マリーナ・グレッグが非常に奇妙な表情を浮かべていたことに気付いた。

その違和感について、ドリー・バントリーは、セントジョン野戦病院協会支援パーティーに参加できなかったミス・マープルに対して、説明を行う。


初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンが住んでいた
アッパーベルグレイヴストリート9番地の建物を
右側(東側)から見たところ
<筆者撮影>


「そうではなくて、マリーナ・グレッグの顔をよ。バドコックという女の話なんか、ひとことも聞いていなかったみたいな顔つきをしていたわ。相手の肩ごしに正面の壁を見つめているのよ。その見つめかたがねえ - どうにもわたしには説明できそうにないわ」

「そんなことを言わないで、なんとか努力してみてよ」とミス・マープルは言った。「そこのところが重要な点かもしれないのだから」

「一種の凍りついたような表情だったわ」と彼女は言葉をさがしさがし説明しようとした。「まるで、なにかを見たみたいな - 情景を描写するなんてむずかしいものなのねえ。ああ、そうだわ、『レディ・オブ・シャロット』をおぼえていない?鏡は横にひび割れぬ。”ああ、わが命運もつきたり”と、シャロット姫は叫べり。マリーナもそういった表情をしていたのよ。近頃の人はテニスンなんて古臭いというけれど、わたしは若いときには心をときめかせて『レディ・オブ・シャロット』を読んだものだし、いまだってそうなのよ」

「凍りついたような表情をしていたのね」ミス・マープルは考えこんだ。

(橋本福夫訳)


横にひび割れた鏡 -
ジグソーパズル「アガサ・クリスティーの世界(The World of Agatha Christie)」の一部


アガサ・クリスティー作「鏡は横にひび割れて」の題名は、初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson:1809年ー1892年)による詩「シャロット姫(The Lady of Shalott)」をベースにしている。


テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)で購入した
英国の画家であるジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
(John William Waterhouse:1849年ー1917年)

「シャロット姫(The Lady of Shalott → 2024年9月28日付ブログで紹介済)」
(1888年)の絵葉書
Oil paint on canvas
153 cm x 200 cm
Presented by Sir Henry Tate in 1894


Out flew the web and floated wide -

The mirror crack’d from side to side;

“The curse is come upon me,” cried

The Lady of Shalott.


織物はとびちり、ひろがれり

鏡は横にひび割れぬ

「ああ、呪いがわが身に」と、

シャロット姫は叫べり。

(橋本福夫訳)


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)で展示されている
アルフレッド・テニスンの肖像画
(By George Frederic Watts / Oil on canvas / 1863年ー1864年頃


アルフレッド・テニスンは、ヴィクトリア朝時代に活躍した英国の詩人で、1830年に単独の詩集となる「Poems Chiefly Lyrical」を発表した後、1832年に詩「シャロット姫」を発表するも、酷評の憂き目に遭い、以降、約10年間沈黙してしまう。

1842年に発表した詩集「Poems by Alfred Tennyson」で復活したアルフレッド・テニスンは、1847年に叙事詩「The Princess」を発表すると、1850年には、英国の代表的なロマン派詩人であるウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth:1770年ー1850年 → 2024年12月10日 / 12月11日および2025年2月14日 / 3月17日付ブログで紹介済)の後継者として、「桂冠詩人(宮廷職で、優れた詩人に与えられる称号)」となる。


ナショナルポートレイトギャラリーで販売されている
ウィリアム・ワーズワースの肖像画の葉書
(by Benjamin Robert Haydon / chalk / 1818年 / 546 mm x 419 mm) -
ウィリアム・ワーズワースは、英国の代表的なロマン派詩人で、
湖水地方をこよなく愛した。


2016年に英国の Faber & Faber 社から出版された
ウィリアム・ワーズワース詩集の表紙
<Poems selected by Seamus Heaney>
(Series design by Faber
 / Illustration : Glenn Tomkinson
) 


020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
ウィリアム・ワーズワースが選ばれている。


その後も各種の詩の発表を行った彼は、1884年にテニスン男爵(Baron Tennyson)に叙せられた。


初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンが住んでいた
アッパーベルグレイヴストリート9番地の GF(1階)の建物外壁
<筆者撮影>


アガサ・クリスティーの長編第2作目で、かつ、トマス・ベレズフォード(Thomas Beresford - 愛称:トミー(Tommy))とプルーデンス・カウリー(Prudence Cowley - 愛称:タペンス(Tuppence))の記念すべきシリーズ第1作目に該る「秘密機関(The Secret Adversary → 2025年7月20日 / 10月1日付ブログで紹介済)」(1922年)において、タペンスが住む寄宿寮(hostel)が所在したサザンベルグレイヴィア(Southern Belgravia)は、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街ベルグレイヴィア地区(Belgravia)の南側に該る。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ベルグレイヴィア地区近辺の地図を抜粋。



アルフレッド・テニスンが晩年に住んでいた家が、ベルグレイヴィア地区内にある。

それは、アッパーベルグレイヴストリート9番地(9 Upper Belgrave Street)で、ベルグレイヴスクエア(Belgrave Square)の東の角から南東の方面へと延びるアッパーベルグレイヴストリート(Upper Belgrave Street)沿いに建っている。


ベルグレイヴスクエアから南東方向へ延びる
アッパーベルグレイヴストリート(Upper Belgrave Street)沿いの建物(その1)-
画面奥に見えるのが、
ベルグレイヴスクエア。
<筆者撮影>

ベルグレイヴスクエアから南東方向へ延びる
アッパーベルグレイヴストリート沿いの建物(その2)-
画面奥に見えるのが、ホウバートプレイス(Hobart Place)。
<筆者撮影>


具体的には、西側のチェスターストリート(Chester Street)と東側のウィルトンストリート(Wilton Street)に挟まれたアッパーベルグレイヴストリートの北側に所在している。


アッパーベルグレイヴストリート9番地の GF(1階)の建物外壁には、
「初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンが、1880年と1881年の間、
此処に住んでいた」ことを示す English Heritage のプラークが掛けられている。

<筆者撮影>


アッパーベルグレイヴストリート9番地の GF(1階)の建物外壁には、「初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンが、1880年から1881年の間、此処に住んでいた」ことを示すイングリッシュヘリテージ(English Heritage)のプラークが掛けられている。

アルフレッド・テニスンは1892年になくなっているので、「1880年から1881年の間」というと、彼が70歳代前半の頃である。


2026年9月17日木曜日

ロンドン ニューボンドストリート103番地(103 New Bond Street)

ホレーショ・ネルソンが1798年に住んでいた
ニューボンドストリート103番地の建物正面を

左側(南側)から見たところ
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース
(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作の自画像(Self-portrait)(1784年)
<筆者撮影>


そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作のエマ・ハートの肖像画(1785年頃)
<筆者撮影>


英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人を経て、1791年9月6日の結婚後、彼の正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、1793年9月の初対面の5年後の1798年9月に再会した後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)と恋愛関係になる。

前述の通り、エマ・ハミルトンは、1791年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと結婚して、ナポリ公使夫人と言う立場にあり、また、ホレーショ・ネルソンも、1787年にフランシス・ハーバート・ウールワード(Frances Herbert Woolward:1758年ー1831年)と結婚していたため、2人とも不倫だった訳である。

2人の不倫関係は、何故か、周囲から寛大に見られており、エマ・ハミルトンの夫であるサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンも、そうであった。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとしては、ホレーショ・ネルソンを英国にとって必要不可欠な人物であると見做して、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を黙認する一方、ホレーショ・ネルソンとの友情関係も維持していた、とのこと。

ただ、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、ナポリから本国である英国へと伝わり、新聞報道を経て、公となってしまった。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
Sir William Beechey 作のホレーショ・ネルソンの肖像画(1800年)
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンの英国への召喚と時を同じくして、ナポリ公使の任を解かれたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと一緒に、英国に帰国したエマ・ハミルトンは、1801年1月29日、ピカデリー通り23番地(23 Piccadilly → 2026年8月26日付ブログで紹介済)の家において、ホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソン(Horatia Nelson:1801年ー1881年)を出産した。


ピカデリー通りの対岸からホテル「ザ・ディリー(The Dilly)」(画面左側の建物)を見たところ -
エマ・ハミルトンがホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソンを出産したピカデリー通り23番地は、
画面左下にあるバス停留所の背後の店舗部分に該る。
<筆者撮影>


なお、ホレーショ・ネルソンは、エマ・ハミルトンがホレイシア・ネルソンを出産する前の1801年1月1日に、青色艦隊中将(Vice-admiral of the Blue)へ昇進し、新たな任務を帯びて、航海へ出た後だった。


ホレーショ・ネルソンが1797年に住んでいた
ニューボンドストリート147番地の建物正面を

右側(北側)から見たところ
<筆者撮影>


ニューボンドストリート(New Bond Street)沿いには、ホレーショ・ネルソンが1797年に住んでいたニューボンドストリート147番地(147 New Bond Street → 2026年9月13日付ブログで紹介済)以外に、もう1件、彼が住んでいた建物が存在している。


ホレーショ・ネルソンが1798年に住んでいた
ニューボンドストリート103番地の建物正面を

右側(北側)から見たところ
<筆者撮影>


それはニューボンドストリート103番地(103 New Bond Street)で、ニューボンドストリート147番地と同じく、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街メイフェア地区(Mayfair)内に所在している。

「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
メイフェア地区の地図を抜粋。



彼が住んでいたニューボンドストリート103番地と同147番地は、トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar → 2022年4月18日 / 4月22日付ブログで紹介済)において、1805年10月21日、ホレーショ・ネルソンが戦死した後、借金地獄に陥ったエマ・ハミルトンが引っ越したニューボンドストリート136番地(136 New Bond Street → 2026年9月10日付ブログで紹介済)の安い家と、奇しくも、同じボンドストリート(Bond Street → 2017年5月21日付ブログで紹介済)沿いに所在しており、同136番地を間に挟むように建っている。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)の近くにある
地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)のプラットフォームに描かれている壁画 -
「トラファルガーの海戦」における英国艦隊の勝利とネルソン提督の死を伝える新聞記事 +
ネルソン提督の肖像画
<筆者撮影>


ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から、地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station → 2025年7月30日付ブログで紹介済)の前を通って、地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)へと西に延びるピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)と地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)から、地下鉄ボンドストリート駅(Bond Street Tube Station)の前を通って、地下鉄マーブルアーチ駅(Marble Arch Tube Station)へと西に延びるオックスフォードストリート(Oxford Street → 2016年5月28日付ブログで紹介済)を、ボンドストリートは南北に結んでいる。

現在、南側のセクションを「オールドボンドストリート(Old Bond Street)」、そして、北側のセクションを「ニューボンドストリート(New Bond Street)」と呼び、区分けしている。


ニューボンドストリート103番地の建物の反対側から
ニューボンドストリートの南側から見たところ
<筆者撮影>

ニューボンドストリート103番地の建物の反対側から
ニューボンドストリートの北側から見たところ
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンが住んでいたニューボンドストリート103番地は、南側のブルックストリート(Brook Street → 2015年4月4日付ブログで紹介済)と北側のブレナムストリート(Blenheim Street)に挟まれたニューボンドストリートの西側に建っている。

ニューボンドストリート103番地の 1F(2階)と 2F(3階)の間の建物外壁には、
「ホレーショ・ネルソンが1798年に此処に住んでいた」ことを示す
London County Council のプラークが掛けられている。

<筆者撮影>


ニューボンドストリート103番地の 1F(2階)と 2F(3階)の間の建物外壁に、「ホレーショ・ネルソンが1798年に此処に住んでいた」ことを示すプラークが掛けられている。
と言うことは、ホレーショ・ネルソンがニューボンドストリート103番地に住んでいた時期は、ニューボンドストリート147番地と同じく、彼がエマ・ハミルトンに初対面した1793年9月と再会した1798年9月の間に該っている。


ニューボンドストリート103番地の建物を下から見上げたところ
<筆者撮影>


ニューボンドストリート103番地には、ニューボンドストリート147番地と同様に、現在、アートギャラリー系のテナントが入居して、営業している。


 

2026年9月16日水曜日

ロンドン キューガーデンズ / ヘンリー・ムーア展(Kew Gardens / Henry Moore)- その4

Kew Gardens - Waterlily Bond
<筆者撮影>

ロンドンの特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のリッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)のリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)内に所在するキューガーデンズ(Kew Gardens)において、20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーア(Henry Spencer Moore:1898年ー1986年)の展覧会「Henry Moore : Monumental Nature」が、2027年1月31日まで開催されている。


ヘンリー・スペンサー・ムーアによる彫刻作品30点が、キューガーデンズ内の野外(正確に言うと、2点だけは屋内)に展示されている。



今回は3回目で、16番目から20番目までの彫刻を紹介したい。


(16)「Large Two Forms」




制作年:1969年

LH 556 / Cast 0

Bronze 

Henry Moore Foundation : Acquired in 1992


(17)「Sheep Piece」




制作年:1971年ー1972年

LH 627 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Gift of the artist in 1977


(18)「Oval with Points」




制作年:1968年ー1970年

LH 596 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Gift of the artist in 1977


(19)「Double Oval」




制作年:1966年

LH 560 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Acquired in 1992


(20)「Goslar Warrior」




制作年:1973年ー1974年

LH 641 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Gift of the artist in 1977


2026年9月15日火曜日

ヴァネッサ・ベル作「ヴァージニア・ウルフの肖像画」(Portrait of Virginia Woolf by Vanessa Bell)

ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
ヴァネッサ・ベル作「ヴァージニア・ウルフの肖像画」
<筆者撮影>

英国の画家 / インテリアデザイナーであるヴァネッサ・ベル(Vanessa Bell:1879年ー1961年)が描いた英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーヴン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)の肖像画がナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されているので、今回紹介したい。


ナショナルポートレイトギャラリーの建物正面
<筆者撮影>

ナショナルポートレイトギャラリーの入口
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフの肖像画を描いたヴァネッサ・ベルは、ヴァージニア・ウルフの実姉である。


ナショナルポートレイトギャラリーで販売されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


ヴァージニア・ウルフは、1882年1月25日、英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴン(Leslie Stephen:1832年ー1904年)と初代准男爵サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones, 1st Baronet:1833年ー1898年 → 2018年6月3日 / 6月10日 / 6月17日付ブログで紹介済)等の「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)のモデルとして知られている母ジュリア・プリンセップ・ジャクスン(Julia Prinsep Jackson:1846年ー1895年)の次女として、ハイドパークゲイト通り22番地(22 Hyde Park Gate → 2026年5月12日 / 5月17日付ブログで紹介済)に出生。


ヴァージニア・ウルフが生まれた
ハイドパークゲイト通り22番地の建物全景
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフの両親は共に再婚で、スティーヴン一家には、3つの婚姻による8人の子供が居た。


<サー・レスリー・スティーヴンと前妻ハリエット・マリアン・サッカレー(Harriet Marian Thackeray:1840年ー1875年)の子供>

(1)ローラ・メイクピース・スティーヴン(Laura Makepeace Stephen:1870年ー1945年)


<ジュリア・プリンセップ・ジャクスンと前夫ハーバート・ダックワース(Herbert Duckworth:?ー1870年)の子供>

(2)ジョージ(George:1868年ー1934年)

(3)ステラ(Stella:1869年ー1897年)

(4)ジェラルド(Gerald:1870年-1937年)


<サー・レスリー・スティーヴンとジュリア・プリンセップ・ジャクスンの子供>

(5)ヴァネッサ(1879年ー1961年)

(6)トビー(Thoby:1880年ー1906年)

(7)ヴァージニア(1882年ー1941年)

(8)エイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)


上記の通り、サー・レスリー・スティーヴンには、1875年に亡くなった前妻との間に、娘1人が、また、ジュリア・プリンセップ・ジャクスンには、1870年に亡くなった前夫との間に、息子2人と娘1人が居た。

そして、サー・レスリー・スティーヴンとジュリア・プリンセップ・ジャクスンの間に、娘2人と息子2人が生まれた。5番目の子供で、夫妻にとって長女となるヴァネッサは、後に英国の画家 / インテリアデザイナーとなり、7番目の子供で、夫妻にとっては次女となるヴァージニアと一緒に、1905年に「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury Group)」と呼ばれる著述家や芸術家の知的サークルを結成することになる。


Portrait of Virginia Woolf by Vanessa Bell
Oil on board / 1912
Purchased in 1987 with help from the Artist Fund
<筆者撮影>

姉のヴァネッサは、肘掛け椅子に座って編み物をする妹のヴァージニアを描いている。


この肖像画が描かれたのは、1912年であり、姉のヴァネッサは、「ブルームズベリーグループ」のメンバーで、英国の芸術批評家であるアーサー・クライヴ・へワード・ベル(Arthur Clive Heward Bell:1881年-1964年)と1907年に結婚しているので、ヴァネッサ・スティーヴンとしてではなく、ヴァネッサ・ベルとして、妹のヴァージニアの肖像画を描いていることになる。


一方、妹のヴァージニアは、同じく「ブルームズベリーグループ」のメンバーで、英国の作家 / 出版業者 / 公務員であるレナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年)と1912年8月10日に結婚しているが、姉のヴァネッサが妹のヴァージニアの肖像画を描いた時期が、ヴァージニアの結婚前なのか、それとも、結婚後なのかは不明。