2026年6月19日金曜日

ロンドン フィッツロイスクエア(Fitzroy Square)

フィッツロイスクエアの中央にある庭園の入口を北側から見たところ -
奥に見えるのが、BT タワーで、今後、ホテルに改装される予定。
<筆者撮影>


アイルランド出身の文学者 / 脚本家 / 劇作家 / 評論家 / 政治家 / 教育家 / ジャーナリストであるジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw:1856年ー1950年)が、1887年から1898年まで住み、その後、英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)が、1907年から1911年まで住んだフィッツロイスクエア29番地(29 Fitzroy Square → 2026年6月6日 / 6月11日付ブログで紹介済)や英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシル(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury:1830年ー1903年)が住んでいたフィッツロイスクエア21番地(21 Fitzroy Square → 2026年6月12日付ブログで紹介済)が建つフィッツロイスクエア(Fitzroy Square)は、フィッツロヴィア地区(Fitzrovia)内に所在しており、東側はロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)に、そして、西側はロンドン中心部のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)に属している


アイルランド出身の文学者 / 脚本家 / 劇作家 / 評論家 / 政治家 / 教育家 / ジャーナリストである
ジョージ・バーナード・ショーと
英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフが住んでいた
フィッツロイスクエア29番地の建物全景
<筆者撮影>


英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵
ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルが住んでいた

フィッツロイスクエア21番地の建物全景
<筆者撮影>


なお、フィッツロイスクエア21番地とフィッツロイスクエア29番地は、フィッツロイスクエアの西側に建っているため、シティー・オブ・ウェストミンスター区内に入っている。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
フィッツロヴィア地区 / ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。


この辺りは、英国の貴族 / 政治家である第2代グラフトン伯爵チャールズ・フィッツロイ(Charles FitzRoy, 2nd Duke of Grafton:1683年ー1757年)が所有していたため、彼の名前に因んで、付近の広場、通りやパブ等が、フィッツロイスクエア、フィッツロイストリート(Fitzroy Street)やフィッツロイタヴァーン(Fitzroy Tavern)等と名付けられた。



フィッツロイスクエアの中央にある庭園を北側から見たところ
<筆者撮影>


彼の孫で、軍人(将軍)/ 政治家になった初代サザンプトン男爵チャールズ・フィッツロイ(Charles FitzRoy, 1st Baron Southampton:1737年ー1797年)が、18世紀末から19世紀前半にかけて、当該地区内を開発。


フィッツロイスクエアの南側に建つフィッツロイスクエア36−38番地の建物である
ボストンハウス(Boston House)の全景
<筆者撮影>

フィッツロイスクエア36−38番地の建物入口
<筆者撮影>

フィッツロイスクエア36−38番地の建物外壁には、
建物を設計したロバート・アダムのプラークが掛けられている。

<筆者撮影>


フィッツロイスクエア内の東側と南側の建物棟は、スコットランド出身の建築家ウィリアム・アダム(William Adam:1689年ー1748年)の次男ロバート・アダム(Robert Adam:1728年ー1792年)が設計。工事は1792年に認可され、1794年に建設が始まり、1798年に竣工。建物の外壁には、ドーセット州(Dorset)から運ばれてきたポートランド石(Portland stone)が使用されている。


フィッツロイスクエアの東側に建つフィッツロイスクエア7番地の建物全景
<筆者撮影>

フィッツロイスクエア7番地の建物入口
<筆者撮影>

フィッツロイスクエア7番地の建物には、
英国の画家で、ナショナルギャラリー(National Gallery)の初代館長になった
サー・チャールズ・ロック・イーストレイク
(Sir Charles Lock Eastlake:1793年ー1865年)が住んでいた。
<筆者撮影>


フィッツロイスクエア内の北側と西側の建物棟は、それぞれ、1827年-1829年、1832年ー1835年に建設された。


フィッツロイスクエアの東側に建つフィッツロイスクエア9番地の建物入口
<筆者撮影>

フィッツロイスクエア9番地の建物外壁
<筆者撮影>


フィッツロイスクエア9番地の建物には、
ドイツ人の化学者であるアウグスト・ウィルヘルム・フォン・ホフマン
(August Wilhelm von Hofmann:1818年ー1892年)が住んでいた。
<筆者撮影>


フィッツロイスクエア内の南側の建物棟は、第二次世界大戦中(1939年ー1945年)、ドイツ軍の爆撃を受けたが、戦後、

ポートランド石を使って再建。


フィッツロイスクエアの南側に建つフィッツロイスクエア40番地の建物の角(南東)には、
フランシスコ・デ・ミランダ将軍
(General Francisco de Miranda:1750年−1816年)のブロンズ像が設置されている。

<筆者撮影>

フランシスコ・デ・ミランダ将軍ブロンズ像は、
ヴェネズエラの彫刻家であるラファエル・デ・ラ・コーヴァ
(Rafael de la Cova:1850年ー1896年)が制作。
<筆者撮影>

フランシスコ・デ・ミランダ将軍ブロンズ像は、
米国独立戦争(American Revolutionary War:1775年−1783年)、
フランス革命(French Revolution:1789年ー1799年)や
ラテンアメリカ独立戦争(Spanish American wars of independence:1808年−1833年)等に参戦。
<筆者撮影>

フランシスコ・デ・ミランダ将軍ブロンズ像は、
フィッツロイスクエア近くのグラフトンウェイ58番地(58 Grafton Way)に、
1802年から1810年までの間、住んでいた。
<筆者撮影>


1970年代に、環境対策の観点から、英国の建築家 / 都市計画家であるサー・ジェフリー・アラン・ジェリコ(Sir Geoffrey Alan Jellico:1900年ー1996年)によって、フィッツロイスクエア内の大部分が歩道化され、車両の乗り入れができないようになっている。 


          

2026年6月18日木曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その34B

英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作「ホロー荘の殺人」ペーパーバック版の表紙 -
ホロー荘の庭園に植えられた植物が、
女優のヴェロニカ・クレイがホロー荘へ借りに来たマッチ箱の形に切り取られている。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1946年に発表した「ホロー荘の殺人(The Hollow)」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第37作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第22作目に該っている。


ある年の9月末の週末、行政官だったサー・ヘンリー・アンカテル(Sir Henry Angkatell)と夫人のルーシー・アンカテル(Lucy Angkatell)が、友人のクリストウ夫妻をロンドン近くの自宅ホロー荘(The Hollow)へ招待して、彼らをもてなす計画をするところから、物語が始まる。


夫のジョン・クリストウ(John Christow)はハーリーストリート(Harley Street →  2015年4月11日付ブログで紹介済)で成功をおさめた外科医で、夫人のガーダ・クリストウ(Gerda Christow)は純真かつ無邪気な性格で、夫のジョンに対して崇拝に近い位の愛情を捧げていた。ただ、ガーダは簡単な室内ゲームも満足にできないのが、ルーシー・アンカテルにとって頭の痛い点だった。


ホロー荘には、クリストウ夫妻の他に、以下の人物が招待されていた。


(1)ミッジ・ハードキャッスル(Midge Hardcastle):ルーシー・アンカテルの従妹で、服飾関係の店員として働いている。

(2)エドワード・アンカテル(Edward Angkatell):サー・ヘンリー・アンカテルの従弟で、アンカテル家の領地エインズウィック(Ainswick)の法廷相続人。

(3)ヘンリエッタ・サヴァナク(Henrietta Savernake):彫刻家

(4)デイヴィッド・アンカテル(David Angkatell):ルーシー・アンカテルの従兄弟で、学生。


更に、ルーシー・アンカテルがバグダッドで出会ったエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)が偶然ホロー荘の近くに別荘を借りていたため、彼女は彼を日曜日の昼食に招いていた。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


招待客が到着して、週末が始まると、ルーシー・アンカテルの心配が的中することになった。

ミッジ・ハードキャッスルはエドワード・アンカテルのことを愛していたが、当人のエドワード・アンカテルはヘンリエッタ・サヴァナクにエインズウィックの女主人になってほしいと思っている。ところが、ヘンリエッタ・サヴァナクはジョン・クリストウと不倫関係にあったのだ。そして、デイヴィッド・アンカテルはそんな彼らを嫌っていた。


ポワロの向かいの別荘を借りている女優のヴェロニカ・クレイ(Veronica Clay)がきらしたマッチを借りようとホロー荘へとやって来たことが契機となり、状況は更に緊迫度を増した。

ヴェロニカ・クレイは以前ジョン・クリストウと交際しており、彼に外科医の仕事を捨てて、自分と一緒にハリウッドへ来るように誘ったが、彼は彼女の要請を断り、彼女としては、それを良しとはしていなかった。そして、これが15年振りの再会であった。

ジョン・クリストウは、以前のようにヴェロニカ・クレイの魅力に抗いできず、結局、彼女を別荘まで送って行くことになった。ジョン・クリストウが、午前3時にヴェロニカ・クレイの別荘からホロー荘へと戻って来た際、誰かに見られているように感じた。ところが、誰の姿も見当たらず、妻のガーダが寝室で寝ていることを確認すると、ジョン・クリストウは安心して、床に就くのであった。


翌日の日曜日、ルーシー・アンカテルに昼食へ招かれたポワロは、ホロー荘を訪れた。執事のガジョン(Gudgeon)に案内されて、昼食前の一杯のため、プールの側の東屋(あずまや)へ向かったポワロであったが、プールのところにホロー荘の主夫妻や招待客達が集まっているのを目にする。そして、彼らが囲んでいたのは、銃で撃たれ、血を流して倒れているジョン・クリストウと、銃を手にして傍らに立つガーダ・クリストウという芝居染みた光景であった。

当初、ポワロは、名探偵である自分を歓迎するための余興だと考えたが、直ぐに冗談事ではないことが判る。正に、ポワロの目の前で、本物の殺人事件が発生したのであった。そして、銃で撃たれたジョン・クリストウは、最後に「ヘンリエッタ」と呟くと、息絶える。


ジョン・クリストウを銃で撃ったのは、目前で展開している通り、妻のガーダ・クリストウなのか?

ヘンリエッタ・サヴァナクが、ガーダ・クリストウの手から銃を取ろうとして、前に進み出るものの、誤って銃をプールに落としてしまう。水中に落ちたため、この銃から指紋を検出することが、非常に困難になった。

ところが、プール内から回収した銃を調べたところ、この銃がジョン・クリストウを撃ったものではないことが判明する。

後に、ジョン・クリストウを撃った本物の銃が、ポワロが借りている別荘の生け垣から発見されるに至る。その凶器には、指紋が付いていたが、ホロー荘に滞在していた誰とも一致しないと言う不可解な事実が更に明らかになった。


それでは、ジョン・クリストウが今際の際に呟いた「ヘンリエッタ」と言うのは、一体何を意味しているのか?

ジョン・クリストウを銃で撃った真犯人は、ヘンリエッタ・サヴァナクなのか?そして、その動機は、何なのか?


(77)馬の粘土細工(clay horse)



ジョン・クリストウが今際の際に「ヘンリエッタ」と呟いたのを聞いたヘンリエッタ・サヴァナクは、「彼(ジョン・クリストウ)は、自分を撃った犯人を助けてほしいのだ。」と即座に理解。

そこで、ヘンリエッタ・サヴァナクは、ガーダ・クリストウの手から銃を取ろうとして、実際には意図的ではあるが、誤って銃をプールに落としてしまう動きをとった。

更に、彼女は、ジョン・クリストウを撃った本物の凶器(銃)を取りに行き、一時的に、それを自分の工房にある馬の粘土細工の中に隠す。その後、馬の粘土細工の中から本物の凶器(銃)を取り出した彼女は、盲目のマッチ売りを使って、ポワロが借りている別荘の生け垣に置かせたのである。


(78)樹木の悪戯書き(doodle of a tree)



ホロー荘のプールサイドにおいて、ジョン・クリストウが銃で撃たれた時間帯に、ヘンリエッタ・サヴァナクは、パヴィリオンに変わった落書き(樹木の悪戯書き)を残していた。


2026年6月17日水曜日

ロンドン ホーリーブッシュヒル通り5番地(5 Holly Bush Hill)

ジョージ・ロムニーがキャヴェンディッシュスクエア32番地から転居した
ホーリーブッシュヒル通り5番地の建物全景(その1)
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


1775年7月、イタリア旅行からロンドンに戻って、仕事を再開したジョージ・ロムニーは、英国の肖像画家であるフランシス・コーツ(Francis Cotes:1726年ー1770年)が所有していたキャヴェンディッシュスクエア32番地(32 Cavendish Square → 2026年6月16日付ブログで紹介済)の邸宅を取得の上、新たな本拠地として、最先端の肖像画家に上り詰めた。

その後、彼は、1797年にキャヴェンディッシュスクエア32番地を離れ、ホーリーブッシュヒル通り5番地(5 Holly Bush Hill)へ転居。


ジョージ・ロムニーがキャヴェンディッシュスクエア32番地から転居した
ホーリーブッシュヒル通り5番地の建物全景(その2)
<筆者撮影>


ジョージ・ロムニーがキャヴェンディッシュスクエア32番地から転居したホーリーブッシュヒル通り5番地は、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)ハムステッド地区(Hampstead → 2018年8月26日付ブログで紹介済)内に所在している。


ホーリーブッシュヒル通り5番地の建物入口
<筆者撮影>


ハムステッドヒース(Hampstead Heath → 2015年4月25日付ブログで紹介済)へと向かうヒースストリート(Heath Street)を、進行方向右手にノーザンライン(Northern Line)が停まる地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)が見えたところで左折して、ホーリーヒル通り(Holly Hill)に入る。


ホーリーヒル通り(南側)の坂の麓から
ホーリーヒル通りを見上げたところ
<筆者撮影>


ホーリーヒル通り(南側)の坂から
坂下を見たところ -
地下鉄ハムステッド駅は、画面中央奥に見える車がある場所を
左へ曲がった位置に所在している。
<筆者撮影>


ホーリーヒル通りの坂を登りきったところで、ホーリーブッシュヒル通り(Holly Bush Hill)が右手に延びており、ホーリーブッシュヒル通り5番地は、進行方向右手に建っている。


ホーリーブッシュヒル通り5番地の建物外壁に掛けられている
London City Council のプラーク
<筆者撮影>


ホーリーブッシュヒル通り5番地の建物は「ロムニーズハウス(Romneys House)」と呼ばれており、建物1階(GF)の外壁に、「画家であるジョージ・ロムニーが、ここに住んでいた」ことを示す London City Council (LCC) のプラークが掛けられている。


2026年6月16日火曜日

ロンドン キャヴェンディッシュスクエア32番地(32 Cavendish Square)

イタリア旅行から戻ったジョージ・ロムニーが
新たな本拠地を構えたキャヴェンディッシュスクエア32番地は、
現在の住所表記上、
キャヴェンディッシュスクエア33番地に建つオフィスビルに含まれていると思われる。
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャー(通称:マイク)と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ジョージ・ロムニーは、1734年12月26日、家具職人(cabinet maker)の父ジョン・ロムニー(John Romney)と母アン・シンプスン(Anne Simpson)の三男として、ランカシャー州(Lancashire - 現在のカンブリア州(Cumbria))ダルトン・イン・ファーネス(Dalton-in-Furness)のベックサイド(Beckside)に出生したジョージ・ロムニーは、21歳の時(1755年)にケンダル(Kendal)へ行き、地元の肖像画家であるクリストファー・スティール(Christopher Steele)の弟子となり、絵画を正式に学び始めるが、2年後の1757年に、クリストファー・スティールとの師弟関係を解消。その頃には、彼は、地元ケンダルの後援者の間で、肖像画家 / 風景画家 / 歴史画家として有名になりつつあった。



ジョージ・ロムニーは、見習い期間中に病気に罹り、女家主の娘であるメアリー・アボット(Mary Abbot)に手厚く看護されたことが縁となり、1756年に2人は結婚し、同年に長男ジョンが生まれている。

1760年には、2人目の子供で、長女のアンが生まれたが、1762年3月、彼は、歴史画家として成功することを夢見て、妻メアリー・アボットと2人の子供(ジョン+アン)を地元ケンダルに残し、単身ロンドンへと向かった。

ロンドンにやって来たジョージ・ロムニーは、歴史画家としての生活が困窮したため、2度、地元のケンダルへと戻らざるを得なかった。

ちなみに、その後、深刻な体調不良に陥り、肖像画の仕事を縮小して、1799年の夏に地元ケンダルへ戻るまで、彼は、家族とは一度も会わないままだった。ただし、家族との連絡を絶やすことはなく、また、家族への仕送りも続けた。


キャヴェンディッシュスクエアの南西の角から
キャヴェンディッシュスクエア32番地方面を眺めたところ -
画面右側に建っているいるのは、ジョン・ルイスデパート(John Lewis Department)。
<筆者撮影>


1763年と1765年の2回、王立芸術協会(Royal Society of Arts)のコンペにおいて、第2位の賞を獲得すると、肖像画家として売れっ子になっていく。


キャヴェンディッシュスクエアの南東の角から
キャヴェンディッシュスクエア31番地(サンドウィッチ店の「Pret A Manger」)と
キャヴェンディッシュスクエア32番地
キャヴェンディッシュスクエア33番地に建つオフィスビルの右側半分)方面を眺めたところ
<筆者撮影>


古典への造詣の欠如を自覚したジョージ・ロムニーは、1773年3月に、仲間で、英国の肖像画家であるオージアス・ハンフリー(Ozias Humphry:1742年ー1810年)と一緒に、イタリア旅行へ出発。

彼らは、パリ(Paris)、リヨン(Lyon)、マルセイユ(Marseille)、ニース(Nice)、ジェノヴァ(Genoa)、リヴォルノ(Livorno)、フィレンシェ(Florence)、そして、ピサ(Pisa)を巡り、同年6月、ローマ(Roma)に到着。ジョージ・ロムニーは、第249代ローマ教皇であるクレメンス14世(Clemens XIV:1705年ー1774年 在位期間:1769年ー1774年)に謁見の上、許可を得て、ヴァチカン宮殿(Palazzi Apostolici / Palazzi Vaticani - ローマ教皇の住居)のラファエロの間(Stanze di Raffaello)に脚立を組み、フレスコ画の研究に務めた。

ローマで18ヶ月を過ごしたジョージ・ロムニーは、フィレンシェ、ボローニャ(Bologna)、ヴェネチア(Venice)、パルマやトリノ(Turin)等を経由して、1775年7月、ロンドンに戻り、仕事を再開。

彼は、英国の肖像画家であるフランシス・コーツ(Francis Cotes:1726年ー1770年)が所有していたキャヴェンディッシュスクエア32番地(32 Cavendish Square)の邸宅を取得の上、新たな本拠地として、最先端の肖像画家に上り詰めた。


サンドウィッチ店「Pret A Manger」の住所は、
キャヴェンディッシュスクエア31番地。
<筆者撮影>


イタリア旅行から戻ったジョージ・ロムニーが新たな本拠地を構えたキャヴェンディッシュスクエア32番地は、ロンドン中心部のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)マリルボーン地区(Marylebone)内にあるキャヴェンディッシュスクエア(Cavendish Square → 2015年4月5日付ブログで紹介済)に面している。

具体的には、オックスフォードストリート(Oxford Street → 2016年5月28日付ブログで紹介済)から北へ延びるホールズストリート(Holles Street)がキャヴェンディッシュスクエアに突き当たった南東の角近くに、キャヴェンディッシュスクエア32番地は所在している。


キャヴェンディッシュスクエア33番地に建つオフィスビルの入口 -
イタリア旅行から戻ったジョージ・ロムニーが
新たな本拠地を構えたキャヴェンディッシュスクエア32番地は、
キャヴェンディッシュスクエア33番地に建つオフィスビルの右側半分だと考えられる。
<筆者撮影>


厳密に言うと、キャヴェンディッシュスクエアに面しているサンドウィッチ店「Pret A Manger」の住所は「キャヴェンディッシュスクエア31番地」で、左隣りに建つオフィスビルの住所は「キャヴェンディッシュスクエア33番地」なので、現在の住所表記上、「キャヴェンディッシュスクエア32番地」は存在していない。

現状、「キャヴェンディッシュスクエア32番地」は、「キャヴェンディッシュスクエア33番地」のオフィスビルの右側半分になっていると考えられる。


                                    

2026年6月15日月曜日

フィリップ・パーサー=ハラード作「シャーロック・ホームズ / 人間消失」(Sherlock Holmes / The Vanishing Man by Philip Purser-Hallard) - その2

リッチモンドにあるサー・ニューナム・スペイトの自宅 Parapluvium House 内で行われた
実験における見張りのスケジュール / 組み合わせ -
Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から

2019年に出版された
フィリップ・パーサー=ハラード作
「シャーロック・ホームズ:人間消失」から抜粋。


英国のファンタジー / SF / 推理作家であるフィリップ・パーサー=ハラード(Philip Purser-Hallard:1971年ー)が、Titan Publishing Group Ltd. から2019年に発表した「シャーロック・ホームズ:人間消失(Sherlock Holmes: The Vanishing Man)」の場合、1896年9月14日(火)の午後5時半頃、シャーロック・ホームズが、1時間程の散歩を終えて、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)に戻って来たところから、その物語が始まる。


すると、ハドスン夫人(Mrs. Hudson)が、ホームズと散歩に出かけなかったジョン・H・ワトスンの元に、


*サー・ニューナム・スペイト(Sir Newham Speight / 60歳位)- The Society for the Scientific Investigation of Psychical Phenomena の会長(Chairman)

*タルボット・ライヌ(Talbot Rhyne)- サー・ニューナム・スペイトの助手


と言う2人の男性を案内して来た。


サー・ニューナム・スペイトは、ホームズとワトスンに対して、


*実験や観察を通して、心霊現象を調査することが、協会の目的。

*「協会のメンバーに対して、自分の心霊力を正当に証明できた場合、1万ポンドの賞金を出す。」と広告したところ、2ヶ月前に、トマス・ケルウェイ(Thomas Kellway)と名乗る人物から協会に申し出があった。

*トマス・ケルウェイは、ヨークシャー州(Yorkshire)出身の50歳位の男性で、不思議なことに、髪の毛だけではなく、眉毛や腕毛等も全くなく、自分のことを「進化人間(Evolved Man)」と呼び、「テレキネシス(Telekinesis)」を使って、物体を移動させることができると豪語した。


と説明。


リッチモンドにあるサー・ニューナム・スペイトの自宅 Parapluvium House 内に設けられた
実験室の見取り図 - 
Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から

2019年に出版された
フィリップ・パーサー=ハラード作
「シャーロック・ホームズ:人間消失」から抜粋。


トマス・ケルウェイからの申し出に応じて、リッチモンド(Richmond)にあるサー・ニューナム・スペイトの自宅 Parapluvium House 内に設けれらた実験室で、9月14日(月)から9月15日(火)にかけ、実験が行われた。

実験室内に3つある部屋を入念にチェックした後、


*ルーム A : トマス・ケルウェイを室内に閉じ込めた後、入口のドアを施錠。「室内が明るいと、精神を集中できない。」と言う彼の要請に応じて、室内の灯りを点けず、薄暗いままの状態。

*ルーム B : トマス・ケルウェイがテレキネシスで移動させるものを箱に入れて、テーブルの上に設置。また、入口のドアを施錠。室内の灯りを点けて、ドアのガラス越しに監視できる状態。

*ルーム C : 今回の実験には使用しないため、入口のドアは施錠したまま。また、室内の灯りを点けないまま。


と言う段取りを整えた。


そして、The Society for the Scientific Investigation of Psychical Phenomena のメンバー達は、以下のスケジュール / 組み合わせに基づき、2時間ずつ、ルーム A 内に閉じ込めたトマス・ケルウェイとルーム B 内のテーブルの上に置いた箱を、控えの間(Anteroom)から見張ることとなったのである。


<9月14日(月)午後8時ー午後10時>

*ピーター・キングスリー医師(Dr. Peter Kingsley - サー・ニューナム・スペイトの隣人)

*イライアス・スカヴァースン教授(Professor Elias Scaverson)


<9月14日(月)午後10時ー午後12時>

*クレメント・ブラッドブリー少佐(Major Clement Bradbury)

*タルボット・ライヌ


<9月15日(火)午前0時ー午前2時>

*ヴォーティゲルン・スモール(Reverend Vortigern Small)

*ギディオン・ビーチ(Gideon Beech - 有名な論客(controversialist))


<9月15日(火)午前2時ー午前4時>

*ジャーメイン卿(Lord Jermaine)

*マックイネリー氏(Mr. McInnery)


<9月15日(火)午前4時ー午前6時>

*フレデリック・ガーフォース(Frederick Garforth - 芸術家)

*ウィリアム・アンダートン(William Anderson - サー・ニューナム・スペイトの執事)


<9月15日(火)午前6時ー午前8時>

*サー・ニューナム・スペイト

*ジェラルド・フローク閣下(Honourable Gerld Floke)

なお、「閣下(Honourable)」は、「伯爵の次男以下の男子 / 子爵・男爵の全ての子」を指す。


控えの間からのルーム A / ルーム B の見張りは、当初、滞りなく進んだが、サー・ニューナム・スペイトは、ホームズとワトスンの2人に向かって、「明け方、実験中に、トマス・ケルウェイが隔離された室内から姿を消してしまい、今現在も、戻って来ていない。よって、彼が単に行方不明になっているのか、それとも、既になくなっているのか、全く判らない。」と告げた。

一方で、サー・ニューナム・スペイトは、「これは、壮大な悪戯 / 悪ふざけで、自分達はかつがれているのではないか?」と心配していた。


2026年6月14日日曜日

ジョン・ディクスン・カー作「ヴァンパイアの塔」(Vampire Tower by John Dickson Carr)

東京創元社から、創元推理文庫の一冊として出版されている
ジョン・ディクスン・カー作
「カー短編全集6 ヴァンパイアの塔」の表紙
カバー イラスト: 志村 敏子
カバーデザイン:東京創元社装幀室


「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家である。彼は、シャーロック・ホームズシリーズで有名なサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)の伝記を執筆するとともに、コナン・ドイルの息子であるエイドリアン・コナン・ドイル(Adrian Conan Doyle:1910年ー1970年)と一緒に、ホームズシリーズにおける「語られざる事件」をテーマにした短編集「シャーロック・ホームズの功績(The Exploits of Sherlock Holmes)」(1954年)を発表している。


ジョン・ディクスン・カーは、1944年に、「男性は、どこまで自分の妻 / 婚約者を信用しているか?」をテーマにして、英国の BBC 用にラジオドラマ「ヴァンパイアの塔(Vampire Tower)」を執筆している。

彼は、プロットの展開は同じであるが、米国の CBS 用にラジオドラマ「Will You Walk into My Parlor?」を執筆している。ただし、登場人物の名前は、前述の「ヴァンパイアの塔」とは異なっている上に、台詞のほとんどが書き直されている。


ラジオドラマ「ヴァンパイアの塔」の舞台として、


年代:1930年代(第二次世界大戦前)のとある夏の午後

場所:英国ケント州(Kent)


に設定されている。


当主サー・ハーヴィ・ドレイクが住むレントンホールの敷地内では、慈善バザーが開催されており、売店やテントが並んでいた。ただ、空には黒雲が立ち込めて、夏の嵐の到来を告げる風がテントをはためかせているせいか、人の姿はほとんど見当たらなかった。

そんな中、サー・ハーヴィ・ドレイク自らが主宰する射撃場の方へ向かって歩む人物が2人居た。一人は、サー・ハーヴィ・ドレイクの甥であるアラン・ドレイクで、もう一人は、アランの婚約者であるバーバラ・モレルだった。

サー・ハーヴィ・ドレイクとアラン・ドレイクの2人は、射撃を嫌がるバーバラ・モレルにライフル(ウィンチェスター61 / 32口径)を撃たせたが、残念ながら、動揺する彼女が発射したライフルの銃弾は、屋根の電球を撃ち抜き、ガラスが粉々に砕け散っただけだった。


破れかぶれになったバーバラ・モレルを宥めようとするサー・ハーヴィ・ドレイクとアラン・ドレイクの2人は、彼女が当初向かおうとしていた運勢占いのテントへ一人で行かせた。

運勢占いのテントに居たのは、内務省所属の病理学者であるジョージ・グリモー博士で、警察長であるジョン・セルデン少佐の元を訪れた際に、サー・ハーヴィ・ドレイクがジョージ・グリモー博士に占い師になってくれるように依頼したのだった。


運勢占いのテント内には灯がついており、テーブルを間に挟んで、ジョージ・グリモー博士とバーバラ・モレルの2人が向かい合う姿が、影絵芝居を見ているようだった。

少しすると、ジョージ・グリモー博士から何かを言われたバーバラ・モレルが、突然、飛び上がり、後ずさると、彼に向かって指を突き付けた。そして、彼女はテントから逃げ出そうとした。


テントから駆け出してきたバーバラ・モレルのことを心配したアラン・ドレイクだったが、彼女は怯えた様子を取り繕った。そこで、アラン・ドレイクは、持っていたライフルを彼女に預けると、運勢占いのテントへ一人で赴いた。

テント内のジョージ・グリモー博士を問い詰めるアラン・ドレイクに対して、ジョージ・グリモー博士は、「君は、バーバラ・モレルなる女性の正体を判っていない。」と告げた。ジョージ・グリモー博士が、更に、「彼女の正体は…」と続けた時、ライフルの発射音がして、銃弾がテントを貫いた。そして、テーブルがひっくり返り、ジョージ・グリモー博士が地面に倒れた。

テントの外では、ライフルを持ったバーバラ・モレルが、「アランは私にライフルを持たせるべきじゃなかった。うっかり、引き金に触ってしまった。」と、大声を上げていた。


運勢占いのテント内で、ジョージ・グリモー博士は、バーバラ・モレルに対して、どういったことを告げて、怯えさせたのか?

また、ジョージ・グリモー博士が、アラン・ドレイクに対して、彼女の正体を話そうとした際、テント越しにライフルでジョージ・グリモー博士を撃ったバーバラ・モレルの行為は、単なる事故なのか、それとも、殺意を持った故意なのだろうか?


ジョン・ディクスン・カーは、ラジオドラマ「ヴァンパイアの塔」をベースに、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの長編第15作目として、「死が二人をわかつまで / 毒殺魔(Till Death Do Us Part)」を1944年に発表している。

なお、ギディオン・フェル博士シリーズの長編第15作目「死が二人をわかつまで / 毒殺魔」については、今後、御紹介する予定。