2026年6月29日月曜日

ロンドン グレンヴィルストリート / ダウニングコート(Downing Court, Grenville Street)

バーナードストリート側からダウニングコートを見上げたところ
<筆者撮影>


英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)と弟のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)の2人は、1911年11月、より広い家を求めて、ロンドンの中心部にあるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のフィッツロヴィア地区(Fitzrovia)内に所在するフィッツロヴィア(Fitzrovia)の端正なフィッツロイスクエア29番地(29 Fitzroy Square → 2026年6月6日 / 6月11日付ブログで紹介済)からロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camdenブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在するブランズウィックスクエア(Brunswick Square → 2026年6月23日付ブログで紹介済)の家へ引っ越した。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


引越後、ヴァージニア・ウルフと弟のエイドリアンの2人は、著述家や芸術家の知的サークルである「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury Group)」のメンバーのうち、


*ダンカン・ジェイムズ・コロウ・グラント(Duncan James Corrowr Grant:1885年ー1978年)- 英国の画家 / 織物・陶芸・舞台美術・服飾デザイナー

*レナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年)- 英国の作家 / 出版業者 / 公務員

*初代ケインズ男爵ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes, 1st Baron Keynes:1883年ー1946年)- 英国の経済学者


の3人を下宿人 / 間借り人として招き、同居している。


ヴァージニア・ウルフが住んでいた家は、
ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎の非常口の辺りに建っていたと思われる。
<筆者撮影>


ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎の非常口の右側の外壁に、
1911年から1912年にかけて、ヴァージニア・ウルフ達がここに住んでいたことを示す
プラークが掛けられている。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフは、レナード・シドニー・ウルフと結婚する1912年までの間、ブランズウィックスクエアの家に住んでいた。


ヴァージニア・ウルフが住んでいた家の跡地には、現在、
ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎が立っている。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが住んでいたブランズウィックスクエアの家は現存せず、現在は、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London → 2015年8月16日付ブログで紹介済)薬学部(School of Pharmacy - 住所:ブランズウィックスクエア29-39番地)の校舎が、その場所に建っている。


ブランズウィックスクエアガーデンズ内の案内板
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが住んでいたブランズウィックスクエアの家は、ブランズウィックスクエアガーデンズ(Brunswick Square Gardens → 2026年6月28日付ブログで紹介済)に面しているが、同ガーデンズを挟んだ反対側に、サー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie:1860年ー1937年)が住んでいた。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。


サー・ジェイムズ・マシュー・バリーは、スコットランドのキリミュア(Kirriemuir)生まれの劇作家/童話作家で、「ピーターパン(Peter Pan)」シリーズ等の作者として有名である。


バーナードストリート側からダウニングコートを見たところ
<筆者撮影>


シャーロック・ホームズシリーズの作者であるサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)と同じスコットランドの出身で、彼の友人であった。その関係で、ジェイムズ・バリーが創設したアマチュアのクリケットチーム(Allahakbarries)に、コナン・ドイルも所属していた。


グレンヴィルストリート側からダウニングコートを見上げたところ
<筆者撮影>


1860年、織工の父と石工の娘の母の下、彼は10人兄弟の9番目として出生(なお、そのうちの2人は、彼が生まれる前に既に死亡)。

彼の家族は彼に聖職者になってほしいと願ったが、彼は作家になりたいという希望が強く、エディンバラ大学(University of Edinburgh)に入学し、文学を専攻。

1882年に大学を卒業した後は、ノッティンガムの新聞社(Nottingham Journal)に勤めながら、雑誌への寄稿等を行った。そして、1885年に彼はロンドンへ行き、文筆業に専念した。


グレンヴィルストリート側からダウニングコートを見たところ
<筆者撮影>


その際、ジェイムズ・バリーは、ブランズウィックスクエアガーデンズの南西の角、東西に延びるバーナードストリート(Bernard Street)と南北に延びるグレンヴィルストリート(Grenville Street)が交差する場所に、1885年から1888年までの間、住んでいた。


バーナードストリート側にある
ダウニングコートの1階外壁に、プラークが掛けられている。

<筆者撮影>


現在、この場所には、「ダウニングコート(Downing Court)」と言うフラットが建っており、バーナードストリートに面した建物の1階外壁に、「サー・ジェイムズ・マシュー・バリーが、1885年から1888年までの間、ここに住んでいた」ことを示す Marchmont Association のプラークが掛けられている。


バーナードストリート側にあるダウニングコートの1階外壁に掛けられているプラークには、
「ピーターパン」の作者であるサー・ジェイムズ・マシュー・バリーが、
1885年から1888年までの間、ここに住んでいたと記されている。
<筆者撮影>


つまり、ジェイムズ・バリーは、作家として成功をおさめる前の雌伏の時代に、ブランズウィックスクエアガーデンズ近くに住んでいたことになる。

サー・ジェイムズ・マシュー・バリーが、1885年から1888年までの間、住んでいた場所には、
現在、「ダウニングコート」と言うフラットが建っており、
入口はグレンヴィルストリート側に面している。
<筆者撮影>


1888年に発表した「オールドリヒト物語(Auld Licht Idylls)」で成功をおさめ、一躍有名となった彼は劇作家としても活動するようになる。

1891年、彼にとって3作目の劇で知り合った女優メアリー・アンセル(Mary Ansell)と1894年7月9日に彼の出生地であるキリミュアで結婚する。1893年から1894年にかけて、彼は体調が優れず、メアリーは彼の家族と一緒に彼の看病を行い、彼の体調が回復したことに伴い、結婚式が行われたのである。


1895年に、バリー夫妻はサウスケンジントン地区(South Kensington)内にあるグロースターロード(Gloucester Road)沿いに家を購入したが、彼がよく散歩に出かけるケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens → 2026年1月31日付ブログで紹介済)からかなり距離があった。


ケンジントンガーデンズ内に設置されている案内板 -
ウェストキャレッジドライブ(West Carriage Drive
→ 2024年11月5日付ブログで紹介済)が、
ハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)と
ケンジントガーデンズを東西に分ける境界線となっている。
<筆者撮影>


そのため、1900年に、バリー夫妻はケンジントンガーデンズの北側のベイズウォーターロード(Bayswater Road → 2026年1月30日付ブログで紹介済)沿いの家を購入して、移り住んだ。この家がベイズウォーターロード100番地(100 Bayswater Road → 2015年7月25日付ブログで紹介済)の建物で、東西に延びるベイズウォーターロードと南北に延びるレンスターテラス(Leinster Terrace)が交差する北西の角に建っている。ジェイムズ・バリーの希望通り、ベイズウォーターロード100番地の家からケンジントンガーデンズを一望することが可能な上、ベイズウォーターロードを横切れば、ケンジントンガーデンズは目と鼻の先という立地条件であった。


レンスターテラスの入口から見たベイズウォーターロード100番地の建物
<筆者撮影>


ジェイムズ・バリーは、このベイズウォーターロード100番地をベースにして、以下の有名な作新を執筆している。


*「小さな白い鳥(The Little White Bird)」(1902年)- 第13章から第18章にピーターパンが初めて登場。

*戯曲「ピーターパンー大人になりたがらない少年(Peter Pan, or The Boy Who Wouldn't Grow Up)」(1904年)

*「ケンジントン公園のピーターパン(Peter Pan in Kensington Gardens)」(1906年)

*「ピーターパンとウェンディー(Peter and Wendy)」(1911年)


ベイズウォーターロード100番地の建物には、
サー・ジェイムズ・バリーがここに住んでいたことを示す
London City Council のプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


これらの作品は、彼がよく散歩していたケンジントンガーデンズで1897年に知り合ったディヴィス夫妻とその息子達(5人兄弟)のうち、ディヴィス夫人のシルヴィア(Sylvia Davies:1866年ー1910年)と彼女の長男ジョージ・ディヴィス(George Davies:1893年ー1915年)がモデルとなっていると一般に言われている。


1908年に、妻メアリーは夫の友人であるギルバート・キャナン(Gilbert Cannan)と不倫関係になり、これが1909年7月にジェイムズ・バリーの知るところとなる。当初、彼は妻メアリーに不倫関係を止めるよう説得するが、彼女はこれを拒否したため、最終的には、妻の不貞行為を理由にして、1909年10月に、彼は妻と離婚する。

上記の離婚後、彼はベイズウォーターロード100番地を彼の友人で南極探検家だったロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott:1868年ー1912年)の未亡人キャスリーン・ブルース(Kathleen Bruce:彫刻家)に売却してしまう。


仲が良かったディヴィス夫妻の死亡(夫アーサー:1907年+夫人シルヴィア:1910年)に伴い、ジェイムズ・バリーは、ディヴィス夫妻の子供2人を養子にする。アーサーの死亡後から、彼はシルヴィア夫人への財政的な援助を始めている(ピーターパン関係の著作による収入が充分にあり、シルヴィア夫人への財政的な援助には全く問題なかった)が、こういった彼の行動が妻メアリーの不貞行為につながった要因の一つではないかと、個人的には思う。


ケンジントンガーデンズ内にあるイタリアンガーデンズ(その1)
<筆者撮影>


ケンジントンガーデンズ内にあるイタリアンガーデンズ(その2)
<筆者撮影>


1912年5月に、ジェイムズ・バリーは、ケンジントンガーデンズ内イタリアンガーデンズ(Italian Gardens)の南側にある湖ザ・ロング・ウォーター(The Long Water)の西岸に、養子マイケル(Michael Davies:1900年ー1921年 ディヴィス夫妻の四男)をモデルにしたピーターパンの像(Peter Pan Statue)を建てた。

実際には、彫刻家サー・ジョージ・フランプトン(Sir George Frampton)は別の子供をモデルにして、ピーターパンの像を制作したため、ジェイムズ・バリーを大いに失望させた。彼によると、「ピーターパンの中に悪魔が表現されていない。(It doesn't show the devil in Peter.)」とのこと。


ケンジントンガーデンズ内イタリアンガーデンズの南側にあるザ・ロング・ウォーター
<筆者撮影>


ケンジントンガーデンズ内イタリアンガーデンズの南側にある
湖ザ・ロング・ウォーターの西岸に建つ
ピーターパンの像
<筆者撮影>


悪いことは続き、ディヴィス夫妻の長男ジョージは、1915年に第一次世界大戦(1914年ー1918年)において死亡した上、四男のマイケルは、1921年に21歳の誕生日まであと1ヶ月を控えた20歳の若さで、オックスフォード(Oxford)の近くにある湖で友人(同性愛の相手と思われる)と一緒に溺死したため、ジェイムズ・バリーを非常に悲しませたのである。 


                                         

2026年6月28日日曜日

ロンドン ブランズウィックスクエアガーデンズ(Brunswick Square Gardens)

ブランズウィックスクエアガーデンズ内の案内板
<筆者撮影>

英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)と弟のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)の2人は、1911年11月、より広い家を求めて、ロンドンの中心部にあるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のフィッツロヴィア地区(Fitzrovia)内に所在するフィッツロヴィア(Fitzrovia)の端正なフィッツロイスクエア29番地(29 Fitzroy Square → 2026年6月6日 / 6月11日付ブログで紹介済)からロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camdenブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在するブランズウィックスクエア(Brunswick Square → 2026年6月23日付ブログで紹介済)の家へ引っ越した。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


引越後、ヴァージニア・ウルフと弟のエイドリアンの2人は、著述家や芸術家の知的サークルである「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury Group)」のメンバーのうち、


*ダンカン・ジェイムズ・コロウ・グラント(Duncan James Corrowr Grant:1885年ー1978年)- 英国の画家 / 織物・陶芸・舞台美術・服飾デザイナー

*レナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年)- 英国の作家 / 出版業者 / 公務員

*初代ケインズ男爵ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes, 1st Baron Keynes:1883年ー1946年)- 英国の経済学者


の3人を下宿人 / 間借り人として招き、同居している。


ヴァージニア・ウルフが住んでいた家は、
ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎の非常口の辺りに建っていたと思われる。
<筆者撮影>


ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎の非常口の右側の外壁に、
1911年から1912年にかけて、ヴァージニア・ウルフ達がここに住んでいたことを示す
プラークが掛けられている。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフは、レナード・シドニー・ウルフと結婚する1912年までの間、ブランズウィックスクエアの家に住んでいた。

ヴァージニア・ウルフが住んでいたブランズウィックスクエアの家は現存せず、現在は、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London → 2015年8月16日付ブログで紹介済)薬学部(School of Pharmacy - 住所:ブランズウィックスクエア29-39番地)の校舎が、その場所に建っている。


ヴァージニア・ウルフが住んでいた家の跡地には、現在、
ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎が立っている。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが住んでいたブランズウィックスクエアの家は、ブランズウィックスクエアガーデンズ(Brunswick Square Gardens)に面している。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。



ブランズウィックスクエアガーデンズは、元々、英国の船長(sea captain)から慈善家(philanthropist)へ転じたトマス・コラム(Thomas Coram:1668年-1751年)が1739年に設立した孤児院(Foundling Hospital)に属する土地だった。


ブランズウィックスクエアの西側から
ブランズウィックスクエアガーデンズを見たところ(その1)
<筆者撮影>

ブランズウィックスクエアの西側から
ブランズウィックスクエアガーデンズを見たところ(その2)
<筆者撮影>


孤児院運営用の資金調達のため、後にブランズウィックスクエアガーデンズとメクレンバーグスクエア(Mecklenburgh Square - 東側に隣接)となる土地が1790年に貸し出され、英国の不動産開発業者(property developer)であるジェイムズ・バートン(James Burton:1761年ー1837年)が、1795年から1802年にかけて、周辺の住宅街を建設。


ナショナルポートレイトギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ハノーヴァー朝の第3代英国王であるジョージ3世の肖像画
(By the studio of Allan Ramsay / Oil on canvas /
based on a portrait of 1761 - 1762)
<筆者撮影>


ナショナルポートレイトギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ジョージ3世の王妃である
ソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ
(1744年ー1818年)の肖像画

(By the studio of Allan Ramsay / Oil on canvas /
based on a portrait of 1761 - 1762)
<筆者撮影>


西側の区画は、ハノーヴァー朝(House of Hanover)第4代英国王のジョージ4世(George IV:1762年ー1830年 在位期間:1820年ー1830年)の王妃であるキャロライン・アメリア・エリザベス・オブ・ブランズウィック=ウォルフェンビュッテル(Caroline Amelia Elizabeth of Brunswick-Wolfenbuttel:1768年ー1821年)に因んで、「ブランズウィックスクエア」と、また、東側の区画は、ハノーヴァー朝の第3代国王であるジョージ3世(George III:1683年ー1820年 在位期間:1760年ー1820年)の王妃であるソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ(Sophia Charlotte of Mecklenburg- Strelitz:1744年ー1818年)に因んで、「メクレンバーグスクエア」と名付けられた。


ナショナルポートレイトギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ハノーヴァー朝の第4代英国王であるジョージ4世の肖像画
(By Sir Thomas Lawrence / Oil on canvas / 1814年頃)
<筆者撮影>


なお、ジェイムズ・バートンが当時開発した住宅街は、残念ながら、一軒も現存していない。


ブランズウィックスクエアの北東の角に建つ孤児院博物館
<筆者撮影>


現在、「ブランズウィックスクエア」の北側には、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンの薬学部、孤児院の歴史を紹介する孤児院博物館(Foundling Museum)や孤児院を設立したトマス・コラムのブロンズ像が建っている。


ブランズウィックスクエアの北東の角に設置されている
慈善家で、1739年に孤児院を設立した
トマス・コラムのブロンズ像
<筆者撮影>

慈善家で、1739年に孤児院を設立した
トマス・コラムの説明プレート
<筆者撮影>


「ブランズウィックスクエア」の東側には、サッカー競技場と「コラムフィールズ(Coram’s Fields - 大人は、子供を伴っている場合のみ、入園可能)」が広がっている。


ブランズウィックスクエアガーデンズの内部(その1)
<筆者撮影>

ブランズウィックスクエアガーデンズの内部(その2)
<筆者撮影>


「ブランズウィックスクエア」の南側には、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンの学生寮(International Hall)が建っている。


ブランズウィックスクエアガーデンズの内部(その3)
<筆者撮影>

ブランズウィックスクエアガーデンズの内部(その4)
<筆者撮影>


最後に、「ブランズウィックスクエア」の西側には、「ブランズウィックセンター(Brunswick Centre)」と呼ばれるカムデン区が管理する低所得者用住居(カウンシルフラット)とショッピングセンターが入っている。


ブランズウィックスクエアガーデンズの内部(その5)
<筆者撮影>


「ブランズウィックスクエア」、「メクレンバーグスクエア」と「コラムフィールズ」は、歴史がある公園 / 庭園(Historic Parks and Gardens)として、listed Grade II 指定されている。


2026年6月27日土曜日

エマ・ハミルトン(Emma, Lady Hamilton)- その3

ケンウッドハウス(Kenwood House → 2018年9月23日付ブログで紹介済)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作「Emma Hart as 'The Spinstress'」(1784年ー1785年)
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。

そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャー(通称:マイク)と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


1765年4月26日、鍛治職人(blacksmith)の父ヘンリー・ライオン(Henry Lyon)と母メアリー・キッド(Mary Kidd)の下、チェシャー州(Cheshire)のネス(Ness)に出生したエイミー・ライオン(Amy Lyon)は、エマ・ハート(Emma Hart)へと名前を変え、1779年、もしくは、1780年初めに、ロンドンへ向かう。

1781年6月 / 7月頃、エマ・ハートは、初代ウォーリック伯爵フランシス・グレヴィル(Francis Greville, 1st Earl of Warwick:1719年ー1773年)の次男であるチャールズ・フランシス・グレヴィル(Charles Francis Greville:1749年ー1809年)と親しくなり、彼の愛人となる。

1782年4月、チャールズ・フランシス・グレヴィルが、新しい愛人である彼女を連れて、友人のジョージ・ロムニーの元を訪れた。目的は、ジョージ・ロムニーに彼女の肖像画を依頼するためだった。当時、ジョージ・ロムニーは47歳、彼女は17歳で、2人は30歳と言う年齢の開きがあったが、この出会いは、芸術家としてのジョージ・ロムニーにとって、非常に得難い邂逅となり、ジョージ・ロムニーは、彼女にすっかりと魅せられた。こうして、彼女は、ジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神とも言える存在となっていった。


1786年、エマ・ハートは、ナポリ(Naples)へと向かい、チャールズ・フランシス・グレヴィルの叔父で、英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人となる。当時、チャールズ・フランシス・グレヴィルは、裕福な妻を見つけて、正式な結婚をしようと考えており、彼女を叔父のサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの愛人とさせて、叔父の再婚を阻止するとともに、自分も彼女を厄介払いしようとしたのである。

エマ・ハートにすっかり魅了されたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンは、彼女と正式に結婚することを決める。英国に一時帰国した彼女(26歳)は、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとの結婚(1791年9月6日)後、ナポリへと戻る。


サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、ナポリ王妃のマリア・カロリーナ・ダスブルゴ(Maria Carolina d’Asburgo:1752年ー1814年)と親密な友人関係を結ぶ。

なお、マリア・カロリーナ・ダスブルゴは、後のルイ16世と結婚して、フランス王妃となるマリー=アントワネット=ジョセフ=ジャンヌ・ド・アプスブール=ロレーヌ(Marie-Antoinette- Josephe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine:1755年ー1793年)の姉である。


レディー・エマ・ハミルトンは、直ぐにフランス語やイタリア語を習得して、流暢に話すようになった。

また、彼女は、コヴェントガーデン(Covent Garden)のドルリーレーン劇場(Drury Lane Theatre)で女優業を始め、絵画モデルや舞踏家としても働いた経験があったことに加えて、アマチュアながら歌が非常に上手かったので、ナポリ公使邸において、多くの王族、貴族、芸術家や作家達を楽しませた。彼女のゲストの中には、ドイツを代表する文豪であるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johan Wolfgang von Goethe:1749年ー1832年 → 2017年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)も含まれる。彼女の歌唱力は素晴らしかったため、一時、マドリッド(Madrid)のオペラハウスから出演を要請される位だった。


フランクフルトのゲーテ博物館(Goethe Haus / Goethe Museum
→ 2017年11月18日 / 11月25日付ブログで紹介済)内に展示されている
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの肖像画アップ
<筆者撮影>


そして、1793年に入り、レディー・エマ・ハミルトンの運命は、動き出す。


1793年9月10日、後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)が、ナポリを訪れる。トゥーロン攻囲戦(Siege of Toulon:1793年9月18日ー同年12月18日)でフランス共和国軍を攻撃するため、特使として援軍を求めて、ナポリへやって来たのである。

レディー・エマ・ハミルトンは、ナポリ公使夫人として、ホレーショ・ネルソンを歓迎。ホレーショ・ネルソンは、5日後の1793年9月15日にナポリを離れるが、この時点で、彼は彼女に対して恋愛感情を既に抱いていたようである。


トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar → 2022年4月18日 / 4月24日付ブログで紹介済)における
英国勝利を伝える新聞(タイムズ紙)とホレーショ・ネルソン提督 -
地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の
ベイカールーライン(Bakerloo Line)のプラットフォームの壁に描かれている。
<筆者撮影>


レディー・エマ・ハミルトンは、1786年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの愛人となり、1791年に正式な妻となっていたが、2人の間には、まだ子供が居なかった。

子供を熱望をしていたレディー・エマ・ハミルトンは、夫のサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンに対して、彼女が1780年(15歳)に第2代準男爵サー・ヘンリー・フェザーストノー(Sir Henry Fetherstonhaugh, 2nd Baronet:1754年ー1846年)の愛人として産んだ娘エマ・カルー(Emma Carew)を、自分の母親の姪として、ナポリへ呼び寄せることを要望するが、残念ながら、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンは、これを認めなかった。


その結果、5年後の1798年9月22日、ホレーショ・ネルソンがナポリを再訪した際、事態は大きく動き出したのである。