2026年4月23日木曜日

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley)- その4

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)で所蔵 / 展示されている

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの白黒(モノトーン)のペン画3点

<筆者撮影>

1895年8月に訪問先であるフランスのディエップ(Dieppe)からオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)は、リージェンツパーク(Regent’s Park → 2016年11月19日付ブログで紹介済)近くのチェスターテラス(Chester Terrace → 2026年4月9日付ブログで紹介済)の借家からセントジェイムズプレイス10番地(10 St. James’s Place)へと転居した。

チェスターゲート通り(南側)から見たチェスターテラスの入口
<筆者撮影>

セントジェイムズプレイス10番地は、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James’s)内にあり、アイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、戯曲「サロメ(Salome → 2026年3月11日 / 3月12日付ブログで紹介済)」の作者のオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)が一時期執筆に使用していた場所だった。


オーブリー・ビアズリーは、休む遑もなく、1895年8月後半、ドイツのケルン、ミュンヘンやベルリンを訪問した後、同年9月後半までフランスのディエップに再び滞在。同年10月にロンドンに戻ると、セントジェイムズプレイス10番地にやっと腰を落ち着けた。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示
されている
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの肖像画
(by Jacques-Emile Blanche / 1895年 / Oil on canvas)
<筆者撮影>


1896年1月に、オーブリー・ビアズリーは、英国の出版業者であるレナード・チャールズ・スミザーズ(Leonard Charles Smithers:1861年ー1907年)と英国の詩人 / 文芸評論家 / 雑誌編集者であるアーサー・ウィリアム・シモンズ(Arthur William Symons:1865年ー1945年)による招きを受けて、雑誌「サヴォイ(The Savoy)」の創刊に参加。アーサー・シモンズが文芸編集者を、そして、オーブリー・ビアズリーが美術編集者を務める体制で、文学と芸術の融合を目指した雑誌の定期刊行を進めた。

しかし、鉄道駅構内を中心に展開する大手の本屋である W・H・スミス(W. H. Smith)が同誌の店頭販売を拒否する事態が発生した結果、全8巻を発行した後、1896年12月、廃刊に追い込まれてしまった。


テイト・ブリテン美術館で所蔵 / 展示されている

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーのペン画「The Fat Woman」

(1894年 / Ink on paper)

<筆者撮影>


雑誌「サヴォイ」の美術編集者を務める傍ら、オーブリー・ビアズリーは、1896年2月にパリへ移転。同年3月下旬には、文芸編集者のアーサー・シモンズと一緒に、ブリュッセルへ出かけた際、同地において喀血。これが、後に彼の生命を奪うことになる結核(tuberculosis)の兆候だった。同年4月には、パリへ戻った。


出版人のレナード・スミザーズからの依頼に基づき、オーブリー・ビアズリーは、1896年6月後半から同年8月前半にかけて、古代アテナイの喜劇詩人 / 風刺詩人であるアリストパネス(Aristophanes)の喜劇「女の平和(Lysistrata)」の挿絵を制作したが、その後、結核のため、彼の健康状態は悪化の一途を辿るのであった。


2026年4月22日水曜日

綾辻行人作「時計館の殺人」<小説版>(The Clock House Murders by Yukito Ayatsuji ) - その4

英国のプーシキン出版から2025年に刊行されている
Pushkin Vertigo シリーズの一つである
綾辻行人作「時計館の殺人」の英訳版内に付されている
「時計館」旧館(Old Wing)の見取り図


1989年7月30日(日)の午後、JR 大船駅に集合した


大船観音寺にある大船観音像
<筆者撮影>


*小早川 茂郎(Shigeo Kobayakawa - 44歳 / 大手出版社である稀譚社(Kitansha)が発行する超常現象を取り扱うオカルト雑誌「CHAOS」(月刊紙)の副編集長(Deputy editor-in-chief)で、W大学のOB)

*江南 孝明(Takaaki Kawaminami - 24歳 / 「CHAOS」の新米編集者)

*内海 篤志(Atsushi Utsumi - 29歳 / 稀譚社写真部のカメラマン)


*瓜生 民佐男(Misao Uryu - 20歳 / W大学3年生で、超常現象研究会会長)

*樫 早希子(Sakiko Katagi - 20歳 / W大学3年生で、超常現象研究会の会員)

*河原崎 潤一(Junichi Kawarazaki - 21歳 / W大学3年生で、超常現象研究会の会員)

*渡辺 涼介(Ryosuke Watanabe - 20歳 / W大学2年生で、超常現象研究会の会員)

*新見 こずえ(Kozue Niimi - 19歳 / W大学2年生で、超常現象研究会の会員)


の取材メンバー8名は、3台の車(小早川 茂郎の車+タクシー2台)に分乗の上、建築家の中村青司(Seiji Nakamura)が設計した「時計館(Clock House)」(神奈川県(Kanagawa Prefecture)鎌倉市(Kamakura City))に到着した。


当初の予定では、新見 こずえではなく、福西 涼太(Ryota Fukunishi - 21歳 / W大学3年生で、超常現象研究会の会員)が参加する筈だったが、2日前に起きた親戚の不幸(従兄弟のオートバイ事故死)のため、取材に参加できなくなった関係上、急遽、新見 こずえが、彼の代わりに参加していた。


時計館は、白山神社(Hakusan Shrine)や散在ガ池(Sanzaigaike)等が所在する今泉地区(Imaizumi area)がある鎌倉市北東部にあった。

時計館に到着して、建物を見上げた江南 孝明は、驚いた。彼が見上げた時計塔の文字盤には、時間と分を示す2本の針が存在していなかったからである。


小早川 茂郎を初めとする取材メンバー達を、時計館の現在の管理者である伊波 紗代子(Sayoko Inami - 46歳)が出迎えた。

彼女によると、今日から3日間、時計館に泊り込むメンバーの一人である光明寺 美琴(Mikoto Komyoji - 32歳 / 霊能者(Spirit medium)で、江南 孝明の友人である島田 潔(Kiyoshi Shimada - 40歳)が住んでいるマンションの隣人)は、既に到着済、とのことだった。


光明寺 美琴を含めた取材メンバー達は、伊波 紗代子から時計館の現当主である古峨 由季弥(Yukiya Koga - 16歳)を紹介される。

時計館の先代当主は、古峨精計社(Koga Clocks)の前会長である古峨 倫典(Michinori Koga - 63歳 / 故人)だったが、妻の古峨 時代(Tokiyo Koga - 28歳 / 故人)と一人娘の古峨 永遠(Towa Koga - 14歳 / 故人)を早くに亡くしていた。

古峨 由季弥は、元々、古峨 倫典の従弟の息子だったが、両親が亡くなったため、古峨 倫典の養子となったのである。

伊波 紗代子曰く、「慕っていた古峨 永遠が亡くなった後、古峨 由季弥は、「夢の世界」で生きている。」とのことだった。

古峨 倫典が亡くなった後、彼の妹である足立 輝美(Terumi Adachi - 58歳)が、古峨 由季弥の後見人(legal guardian)となっていたが、現在、夫の仕事の関係でオーストラリアに住んでいるため、時計館の現在の管理者である伊波 紗代子が、日本に来られない足立 輝美の代わりを務め、古峨 由季弥の世話も担当していた。

伊波 紗代子も、夫の伊波 裕作(Yusaku Inami - 40歳 / 故人)と一人娘の伊波 今日子(Kyoko Inami - 9歳 / 故人)を既に亡くしていた。彼女は、現在、耳を悪くしているようで、補聴器を付けていたが、補聴器の調子が悪いのか、頻りに耳に手をあてていた。


古峨 永遠が亡くなった後、上記以外にも、


*馬渕 智(Satoru Mabuchi - 22歳 / 故人):古峨 永遠の許嫁

*長谷川 俊政(Toshimasa Hasegawa - 52歳 / 故人):古峨家の主治医

*寺井 明江(Akie Terai - 27歳 / 故人):看護師で、長谷川 俊政の紹介により、

古峨 永遠の看護を担当。

*服部 郁夫(Ikuo Hattori - 45歳 / 故人):古峨 倫典から信頼されていた部下


が次々と死去しており、古峨家が住む時計館は、まるで何かに呪われているみたいだった。

また、時計館に出没する霊は、早世した古峨 永遠の霊であると噂されていたのである。


一方、その頃、江南 孝明との2週間前の約束通り、島田 潔は、自分の車で時計館へと急いでいた。


英国のプーシキン出版から2020年に刊行されている
Pushkin Vertigo シリーズの一つである
綾辻行人作「十角館の殺人」の英訳版の表紙
(Cover design & illustration by Jo Walker)


大分県(Oita Prefecture)O市のK大学推理小説研究会の元会員である江南 孝明と島田 潔の2人は、「十角館の殺人(The Decagon House Murders → 2023年2月21日 / 2月25日 / 3月9日 / 3月18日付ブログで紹介済)」を通じて、知り合いになっていた。

上記の事件後、江南 孝明は、大手出版社である稀譚社に入り、新米の編集者となっていた。一方、島田 潔は、「鹿谷 門実(Kadomi Shishiya)」と言うペンネームで「迷路館の殺人(The Labyrinth House Murders → 2024年12月19日 / 2025年1月9日 / 1月18日 / 3月18日付ブログで紹介済)」を出版して、駆け出しの推理作家としてデビューを飾っていた。


英国のプーシキン出版から2024年に刊行されている
Pushkin Vertigo シリーズの一つである
綾辻行人作「迷路館の殺人」の英訳版の表紙
(Cover design by Jo Walker /
Cover image by Shutterstock)


親戚の不幸のため、時計館の取材メンバーを辞退した渡辺 涼介であったが、ある記憶が気になっており、島田 潔と同じように、時計館へと向かっていた。


生憎と、時計館へと向かう車が途中で故障してしまい、島田 潔は、立ち往生。

渡辺 涼介が、偶然、そこに行き合わせる。


光明寺 美琴を含めた取材メンバー達は、伊波 紗代子に案内されて、新館(New Wing)から旧館(Old Wing)へと進む。

その途中、江南 孝明は、エントランスホールの壁に掛けられていた仮面の一つが、行きはあったにもかかわらず、帰りは無くなっているのに気付く。

誰がその仮面を取り去ったのだろうか?それとも、江南 孝明の勘違いなのか?


取材メンバー達が入った「時計館」旧館内において、
霊能者である光明寺 美琴が謎の失踪を遂げた後、
W大学超常現象研究会の会員である樫 早希子と渡辺 涼介の2人が、
正体不明の何者かによって、次々に惨殺される。


光明寺 美琴を含めた取材メンバー達が旧館エリアへ入ると、新館と旧館の間の重厚な扉が閉ざされ、施錠される。

残念ながら、島田 潔と渡辺 涼介の2人は、取材メンバー達に合流することが叶わなかった。

そして、閉ざされた旧館エリアに入った取材メンバー達は、正体不明の何者かによって、一人ずつ惨殺されていくのであった。


2026年4月21日火曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その30A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「杉の柩」ペーパーバック版の表紙 -
ウェルマン家の門番の美しい娘であるメアリー・ジェラードに心を奪われて、
気持ちが離れていってしまったロデリック・ウェルマンのことを嘆く
エリノア・カーライルが描かれていると思われる。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(69)魚肉ペースト(練りもの)のサンドウィッチ(plate of fish-paste sandwiches)



ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)の手前に設置されているテーブルの左端奥に、魚肉ペースト(練りもの)のサンドウィッチがのった皿が置かれている。


(70)棘のない薔薇(thornless rose)



ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロから右真横へ移動した画面右端近くにある柱の側に、彼の執事であるジョージ(George → 2025年10月23日付ブログで紹介済)が立っている。ポワロの執事ジョージが立つ左側の柱に、飾り棚があるが、その上の左端近くに、花瓶に入った棘のない薔薇が飾られている。


(71)裁判官(judge)



ジグソーパズルの中央のやや左側に設置されている暖炉の左側の柱の上の方に、裁判官の肖像画が掛けられている。


これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1940年に発表した「杉の柩(Sad Cypress)」である。

「杉の柩」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第27作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第18作目に該っている。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
ウィリアム・シェイクスピアの肖像画の葉書
(Associated with John Taylor
 / 1610年頃 / Oil on panel
552 mm x 438 mm)


「杉の柩」の原題である「Sad Cypress」は、イングランドの劇作家 / 詩人であるウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare:1564年ー1616年 → 2023年5月19日付ブログで紹介済)作の喜劇「十二夜(Twelfth Night, or What You Will → 2023年6月9日付ブログで紹介済)」(1601年 / 1602年頃)の第2幕第4場に出てくる歌詞が、その由来となっている。

なお、「十二夜」の副題は、「御意のままに」となっている。


Come away, come away, death,

And in sad cypress let me be laid;

Fly away, fly away, breath;

I am slain by a fair cruel maid.

My shroud of white, stuck all with yew,

O, prepare it!

My part of death, no one so true

Did share it.


來をれ、最期《いまは》よ、來をるなら、來をれ、 

杉の柩に埋めてくりゃれ。 

絶えよ、此息、絶えるなら、絶えろ、 

むごいあの兒に殺されまする。 

縫うてたもれよ白かたびらを、 

縫ひ目~に水松《いちゐ》を挿して。 

又とあるまい此思ひ死。

(坪内逍遥訳)


アガサ・クリスティーの原作の場合、婚約中のエリノア・カーライル(Elinor Carlisle)とロデリック・ウェルマン(Roderick Welman)の2人が、見舞いのため、ハンターベリー(Hunterbury)の屋敷を訪れた際、エリノアの叔母で、金持ちの未亡人であるローラ・ウェルマン(Mrs. Laura Welman)が、寝たきりのベッドの中で、上記の歌詞を唱えている。


英国の The Orion Publishing Group Ltd. から2020年に出ている
「シェイクスピアの世界(The World of Shakespeare)」と言うジグソーパズルにおいて、
グローブ座(Globe Theatre → 2023年5月8日付ブログで紹介済)の

右側に建っている居酒屋(tavern)の前で、
イリリアの伯爵令嬢であるオリヴィア(Olivia)の叔父である
サー・トビー・ベルチ(Sir Toby Belch / 画面右側の人物)と
彼の友人であるサー・アンドリュー・エイギュチーク(Sir Andrew Aguecheek / 画面左側の人物)の2人が、
酒を飲み交わしている。
なお、彼らの背後には、
悲劇「オセロ(Othello → 2023年6月3日付ブログで紹介済)」に登場する
イアーゴー(Iago)、オセロー(Othello)、キャシオー(Cassio)、
そして、デズデモーナ(Desdemona)の4人が、画面左側から並んで立っている。
<筆者撮影>


「Sad Cypress」を直訳すると、「悲しいイトスギ / セイヨウヒノキ」となるが、日本の小説家 / 評論家 / 翻訳家 / 劇作家である坪内逍遥(1859年ー1935年)や日本の英文学者 / 演劇評論家である小田島雄志(1930年ー)が「杉の柩」と訳したため、アガサ・クリスティー作「Sad Cypress」の日本語タイトルについても、「杉の柩」で定着したものと言われている。


英国の The Orion Publishing Group Ltd. から2020年に出ている
「シェイクスピアの世界」と言うジグソーパズルにおいて、
テムズ河(River Thames)に架かるロンドン橋(London Bridge)の
南岸側にある入口の左脇に置かれた樽の上に、
オリヴィアの執事であるマルヴォーリオ(Malvolio)が座っている。
<筆者撮影>


ウィリアム・シェイクスピア作「十二夜」の歌詞は、届かない片想いへの嘆きを表しており、アガサ・クリスティー作「杉の柩」の場合、ウェルマン家の門番の美しい娘であるメアリー・ジェラード(Mary Gerrard)に心を奪われて、気持ちが離れていってしまったロデリック・ウェルマンに対するエリノア・カーライルの嘆きを重ね合わせているのではないかと思われる。


2026年4月20日月曜日

ロンドン ポーランドストリート15番地(15 Poland Street)

英国のロマン派詩人であるパーシー・ビッシュ・シェリーが住んでいた
ポーランドストリート15番地の建物全景
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表したノンシリーズ作品である長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night)」のタイトルは、英国の詩人、画家で、銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイク(William Blake:1757年ー1827年 → 2023年5月15日付ブログで紹介済)による詩「無垢の予兆(Auguries of Innocence → 2026年4月16日付ブログで紹介済)」の一節である「Some are born to Endless Night.」から採られている。


2020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
ウィリアム・ブレイクが作詞した「無垢の予兆」が選ばれた。
132行に及ぶ「無垢の予兆」のうち、最初の2行が抜粋されている。
「To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower」
「一粒の砂にも、世界を見
一輪の野の花にも、天国を見」(筆者訳)


ウィリアム・ブレイクは、1757年11月28日、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)ソーホー地区(Soho)内に所在するブロードウィックストリート28番地(28 Broadwick Street → 2026年4月19日付ブログで紹介済)で生まれているが、パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley:1792年ー1822年)が住んでいた家が近くに所在している。


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示されている
パーシー・ビッシュ・シェリーの肖像画
(By Alfred Clint, after Amelia Curran, and Edward Ellerker Williams /
Oil on canvas / about 1829, based on a work of 1819)
<筆者撮影>

パーシー・ビッシュ・シェリーは、英国のロマン派詩人で、ゴシック小説「フランケンシュタイン、或いは、現代のプロメテウス(Frankenstein; or, the Modern Prometheus. → 2021年3月24日付ブログで紹介済)」(1818年)を執筆し、フランケンシュタインの怪物を創造して、SF の先駆者と見做される英国の小説家メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー(Mary Wollstonecraft Godwin Shelley:1797年ー1851年 → 2021年3月9日 / 3月16日付ブログで紹介済)の夫である。


2020年に英国のロイヤルメールから発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
パーシー・ビッシュ・シェリーが選ばれている。


パーシー・シェリーは、1792年8月4日、ウェストサセックス州(West Sussex)ホルシャム(Horsham)近くのフィールドプレイス(Field Place)に、富裕な貴族の長男として出生。父親は、サー・ティモシー・シェリー(Timonthy Shelley:1753年ー1844年)で、母親は、エリザベス・ピルフォルド(Elizabeth Pilfold:1763年ー1846年)。


イートン校(Eton College)を経て、1810年10月にオックスフォード大学(University College, Oxford → 2015年11月21日付ブログで紹介済)に入学するも、1811年に「無神論の必要(Necessity of Atheism)」というパンフレットを書いて、オックスフォードの書店で売り出すという暴挙に出たため、同年3月に大学から放校となった。


オックスフォード大学から放校となる前の1810年12月、彼は、妹の学友であるハリエット・ウェストブルック(Harriet Westbrook:1795年ー1816年)と出会い、彼女の学校での不遇に同情して、翌年の1811年8月に、彼女と結婚する。その後、彼は、アイルランドやウェールズを放浪する。


1814年、妻ハリエットやその姉と不和になったパーシー・シェリーは、幼い頃に読んだ「政治的正義」を執筆した無政府主義の先駆者でもある英国の政治評論家 / 著述家のウィリアム・ゴドウィン(William Godwin:1756年ー1836年)の邸に足しげく通うようになる。

そして、そこで、彼は、ウィリアム・ゴドウィンの娘であるメアリー(当時の名前は、まだメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン)と出会い、付き合うようになる。ただ、当時、パーシー・シェリーは、妻帯者だったため、彼との恋愛に父親であるウィリアム・ゴドウィンは大反対をし、その結果、同年、メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンは、パーシー・シェリーと一緒に、欧州大陸へ駆け落ちをするのであった。


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンの肖像画の葉書
(Richard Westall
 / 1813年 / Oil on canvas
914 mm x 711 mm) 


一旦、欧州大陸から英国に帰国するものの、パーシー・シェリーの友人で、英国のロマン派詩人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron:1788年ー1824年 → 2021年5月9日+2024年8月24日 / 8月30日付ブログで紹介済)に誘われて、1816年5月、バイロン卿、彼の愛人であるクレア・クレモント(Claire Clairmont:1798年ー1879年 / メアリー・シェリーの義姉妹)、パーシー・シェリーとメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンの4人は、スイス / ジュネーヴ近郊のレマン湖畔にあるディオダディ荘(Villa Diodati)に滞在した。


020年に英国のロイヤルメールから発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(=バイロン卿)が選ばれている。


同年7月、長く降り続く雨のため、屋内に閉じ込められていた折、バイロン卿は、「皆で一つずつ怪奇譚を書こう。(We will write a ghost story.)」と、他の3人に提案した。このディオダディ荘での怪奇談議を切っ掛けに、メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンは、フランケンシュタインの怪物の着想を得て、小説の執筆に取りかかった。


英国の The Orion Publishing Group Ltd. より2022年に出ている
ジグソーパズル「フランケンシュタインの世界(The World of Frankenstein)」における
スイス / ジュネーヴ近郊のレマン湖畔にある
ディオダディ荘での怪奇談議 -
画面左側から、
英国のロマン派詩人であるパーシー・ビッシュ・シェリー、
メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー
(当時は、まだ
メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン)、
そして、
英国のロマン派詩人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンだと思われる。
<筆者撮影>


同年9月、彼ら4人が英国に帰国した後、同年12月10日に、ハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)のサーペンタイン湖(Serpentine → 2015年3月15日付ブログで紹介済)から入水自殺したパーシー・シェリーの妻ハリエット・シェリーの遺体が発見される。検死によると、ハリエット・シェリーは、パーシー・シェリー以外の男の子供を身籠っていた、とのこと。

その20日後の同年12月30日、パーシー・シェリーは、ロンドンの教会でメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンと正式に結婚して、彼女は、メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリーとなった。


ナショナルポートレートギャラリーで所蔵 / 展示されている
メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリーの肖像画
(By Richard Rothwell / 
Oil on canvas / about 1830 - 1840)
<筆者撮影>


メアリー・シェリーは、スイス / ジュネーヴ近郊のレマン湖畔にあるディオダディ荘での怪奇談議を切っ掛けに着想を得たフランケンシュタインの怪物の話を1817年5月に脱稿し、翌年の1818年1月に匿名で出版した。このゴシック小説の正式なタイトルが、「フランケンシュタイン、或いは、現代のプロメテウス」である。当作品の出版により、後に、彼女は SF の先駆者と見做されるようになる。

1818年3月に、彼女は、夫であるパーシー・シェリーの序文を付けて、再度、匿名で同作品を出版した。

現在、一般に流布している版は、1831年に出版された第3版(改訂版)がベースとなっている。


東京創元社から刊行されている
メアリー・シェリー作「フランケンシュタイン」(創元推理文庫)の表紙
(表紙デザイン:松野光洋)-
レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci:1452年 - 1519年)が
1485年 - 1490年頃に描いた「ウィトルウィウス的人体図(Uomo vitruviano)」が、
デザインのベースになっていると思われる。


パーシー・シェリーとメアリー・シェリーの間には、1815年に長女を生後間もなくして亡くした後、長男のウィリアム(1816年ー1819年)と次女のクレアラ(1817年ー1818年)が生まれているが、1818年9月にクレアラを赤痢で、そして、1819年6月にウィリアムをマラリアで、幼少期に亡くしまうという波瀾の人生を送っている。


1822年7月8日、パーシー・シェリーは、ジェノヴァ(Genoa)の造船業者に特注で建造させた帆船に乗り、イタリアのリヴォルノ(Livorno)からレーリチ(Lerici)への帰途についた数時間後、突然の暴風雨に襲われ、ヴィアレッジョ(Viareggio)沖で帆船は沈没。

10日後、パーシー・シェリーの遺体がヴィアレッジョ郊外の海岸に漂着したが、身元確認も困難な程に、無残な水死体となっていた。疫病の蔓延を恐れた当局の指示により、彼の遺体は、海岸で火葬された。その際、彼の友人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンは立ち会ったが、妻のメアリー・シェリーは、当時の英国の慣習を守り、火葬には参列しなかった。


パーシー・シェリーの遺骨は、ローマのプロテスタント墓地に葬られ、墓石の表面には、「Cor Cordium(ラテン語で「心の心」の意味)」と彼が生前愛誦した句が刻まれた。

「Nothing of him that doth fade / But doth suffer a sea-change / Into something rich and strange」

(ウィリアム・シェイクスピア「テンペスト」)


また、パーシー・シェリーの心臓は、妻のメアリー・シェリーとともに、英国南部ボーンマス(Bournemouth)にあるセントピーター教区教会(The Parish Church of St. Peter)敷地内の墓に安置されている。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ソーホー地区の地図を抜粋。



パーシー・シェリーが住んでいた家は、ウィリアム・ブレイクは、1757年11月28日が生まれたブロードウィックストリート28番地の西側を南北に延びるポーランドストリート(Poland Street)沿いにある。ブロードウィックストリート(Broadwick Street)から北へ延びるポーランドストリートが、グレイトマルボローストリート(Great Marborough Street)/ ノエルストリート(Noel Street)と交差した南東の角に建つポーランドストリート15番地(15 Poland Street)の建物が、それである。


ポーランドストリート15番地の2階(1F)の外壁には、
「詩人のパーシー・ビッシュ・シェリーが1811年にここに住んでいた」ことを示す
プラークが掛けられている。
<筆者撮影>


ポーランドストリート15番地の2階(1F)の外壁には、「詩人のパーシー・ビッシュ・シェリー(1792年ー1822年)が1811年にここに住んでいた」ことを示すイングリッシュヘリテージ(English Heritage)のプラークが掛けられている。

1881年と言うと、パーシー・シェリーが、オックスフォード大学から放校となった後、妹の学友であるハリエット・ウェストブルックと結婚した頃に該る。


ポーランドストリートの西側から
ポーランドストリート15番地の建物を見上げたところ(その1)
<筆者撮影>

ポーランドストリートの西側から
ポーランドストリート15番地の建物を見上げたところ(その2)
<筆者撮影>


ポーランドストリート15番地の建物の地上階(GF)には、現在、「Bubala Soho」と言う中華料理店が入居して営業している。


2026年4月19日日曜日

ロンドン ブロードウィックストリート28番地(28 Broadwick Street)

ウィリアム・ブレイクが出生した
ブロードウィックストリート(当時:ブロードストリート)28番地の建物全景
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表したノンシリーズ作品である長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night)」のタイトルは、英国の詩人、画家で、銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイク(William Blake:1757年ー1827年 → 2023年5月15日付ブログで紹介済)による詩「無垢の予兆(Auguries of Innocence → 2026年4月16日付ブログで紹介済)」の一節である「Some are born to Endless Night.」から採られている。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース
(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


2020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
ウィリアム・ブレイクが作詞した「無垢の予兆」が選ばれた。
132行に及ぶ「無垢の予兆」のうち、最初の2行が抜粋されている。
「To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower」
「一粒の砂にも、世界を見
一輪の野の花にも、天国を見」(筆者訳)


ウィリアム・ブレイクは、1757年11月28日、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)ソーホー地区(Soho)内に所在するブロードウィックストリート28番地(28 Broadwick Street)に、靴下商人である父ジェイムズ・ブレイク(James Blake)と母キャサリン・ブレイク(Catherine Blake)の第3子として出生。

ブロードウィックストリートは、当時、ブロードストリート(Broad Street)と呼ばれていた。


ピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)の北側から見た
セントジェイムズ教会
<筆者撮影>


そして、彼は、同年12月11日に、ピカデリー地区(Piccadilly)内に所在するセントジェイムズ教会(St. James’s Church → 2018年10月13日付ブログで紹介済)において、洗礼を受けた。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ソーホー地区の地図を抜粋。


ブロードウィックストリートは、地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station)と地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)を南北に結ぶリージェントストリート(Regent Street)、それと並行して延びるキングリーストリート(Kingly Street → 2024年7月9日付ブログで紹介済)やカーナビーストリート(Carnaby Street)の東側にあり、西側はカーナビーストリートから始まり、東側はウォーダーストリート(Wardour Street)に突き当たって終わる通りである。



ブロードウィックストリートの西側から
ブロードウィックストリート28番地(画面中央)の建物を見たところ
<筆者撮影>


ウィリアム・ブレイクがブロードウィックストリート28番地は、南北に延びるポーランドストリート(Poland Street:西側)とバーウィックストリート(Berwick Street:東側)に挟まれたブロードウィックストリートの北側の中間辺りに所在している。


ブロードウィックストリート26 / 28番地の地上階(GF)では、
現在、
「The Ivy Soho Brasserie」と言う英国料理のレストランが営業している。
<筆者撮影>

ブロードウィックストリート26 / 28番地の上階(1F / 2F / 3F / 4F)は、
現在、オフィスとして使用されているものと思われる
<筆者撮影>


ブロードウィックストリート26 / 28番地の建物の地上階(GF)には、現在、「The Ivy Soho Brasserie」と言う英国料理のレストランが入居して営業しており、26番地側が入口として使用されている。

また、ブロードウィックストリート26 / 28番地の建物の上階(1F / 2F / 3F / 4F)は、オフィスとして使用されていると思われる。