2026年9月7日月曜日

ロンドン サザンベルグレイヴィア(Southern Belgravia)- その2

ベルグレイヴィア地区を開発した
初代ウェストミンスター侯爵サー・ロバート・グローヴナーのブロンズ像(その1)-
現在、ベルグレイヴスクエアの北側に建っている。
<筆者撮影>

ベルグレイヴィア地区を開発した
初代ウェストミンスター侯爵サー・ロバート・グローヴナーのブロンズ像(その2)
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の長編第2作目で、かつ、トマス・ベレズフォード(Thomas Beresford - 愛称:トミー(Tommy))とプルーデンス・カウリー(Prudence Cowley - 愛称:タペンス(Tuppence))の記念すべきシリーズ第1作目に該る「秘密機関(The Secret Adversary → 2025年7月20日 / 10月1日付ブログで紹介済)」(1922年)は、英国の海運会社であるキュナードライン(Cunard Line)が所有する当時世界最大の旅客船で、米国ニューヨーク(New York)から英国リヴァプール(Liverpool)へと向かっていたルシタニア号(RMS Lusitania → 2025年7月22日 / 7月23日付ブログで紹介済)が、1915年5月7日の午後2時、アイルランド(Ireland)沖15㎞ の地点で、ドイツ帝国海軍(Imperial Germany Navy)の潜水艦 Uボート(U-boat)から2発の魚雷攻撃を受けて、沈没したところから、その物語が始まる。


2015年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「秘密機関」の
ペーパーバック版の表紙
(Cover design : 
HarperCollinsPublishers Ltd. /
Agatha Christie Ltd. 2015
)


第一次世界大戦(1914年ー1918年)が終わり、世界が復興へと向かう中、ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅(Dover Street Tube Station → 2025年7月30日 / 8月5日付ブログで紹介済)のドーヴァーストリート(Dover Street → 2025年7月28日 / 7月29日付ブログで紹介済)出口において、昔馴染みのトミーとタペンスは、偶然出くわした。


ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅のドーヴァーストリート出口があった
ドーヴァーストリート5−7番地(5-7 Dover Street
→ 2025年8月5日付ブログで紹介済)の建物外観
<筆者撮影>


二人は、お互いに戦後の就職難に悩まされていた。トミーの方は、大戦中の1916年に負傷しており、一方、タペンスの方は、大戦中ずーっと、ボランティアとして、様々な形で働いていたのである。


HarperCollins Publishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「秘密機関」のグラフィックノベル版
(→ 2023年8月1日 / 8月14日 / 8月16日 / 8月21日付ブログで紹介済)
-
第一次世界大戦後、タペンスこと、プルーデンス・カウリーと
トミーこと、トマス・ベレズフォードの2人は、
ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅のドーヴァーストリート出口において、数年ぶりに再会する。


久々の再会を果たしたトミーとタペンスは、ドーヴァーストリートを下って、ピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)へと向かう。


ピカデリー通り -
画面中央奥に見える建物が、ホテル「リッツ ロンドン」。
<筆者撮影>


カフェ「リオンズ(Lyons)」に腰を落ち着けた2人は、お互いの近況を語り合う。

日々のお金に困っていたトミーとタペンスは、「青年冒険家商会(The Young Adventurers, Ltd.)」を設立して、2人で報酬を獲得する術を話し合った。

その際、トミーは、タペンスに対して、「今日、通りで2人の男性がジェーン・フィン(Jane Finn)について話しているのを耳にした。」と言う少し変わったことを告げる。


地下鉄ピカデリーサーカス駅の
ベイカールーラインが停まるプラットフォームの壁にある駅表示
<筆者撮影>


翌日の昼12時に、地下鉄ピカデリー駅(Piccadilly Tube Station → 2026年8月12日 / 8月23日付ブログで紹介済)で待ち合わせて、「青年冒険家商会」の内容を更に詰めることを約束した2人は、カフェ「リオンズ」を出る。

トミーは、ホテル「リッツ ロンドン(The Ritz London → 2025年7月2日 / 7月14日付ブログで紹介済)」辺りまで、ブラブラと散策するつもりだった。一方、タペンスの方は、サザンベルグレイヴィア(Southern Belgravia)の寄宿寮(hostel)へ真っ直ぐに帰ることにした。


タペンスと別れた後、トミーが散策する予定だったホテル「リッツ ロンドン」 -
ピカデリー通りを間に挟んで、通りの反対側から見上げたところ。
<筆者撮影>


タペンスが住む寄宿寮が所在したサザンベルグレイヴィアは、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街ベルグレイヴィア地区(Belgravia)の南側に該る。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ベルグレイヴィア地区近辺の地図を抜粋。


ベルグレイヴィア地区は、中世(Middle Ages)時代、ファイヴフィールズ(Five Fields)と呼ばれており、日中は、市場等で賑わっていたが、夜間は、追い剥ぎや強盗が出没する非常に危険なエリアであった。また、貴族の決闘場所としても、よく知られていた。


初代ウェストミンスター侯爵サー・ロバート・グローヴナーのブロンズ像のアップ(その1)
<筆者撮影>

初代ウェストミンスター侯爵サー・ロバート・グローヴナーのブロンズ像のアップ(その2)
<筆者撮影>

初代ウェストミンスター侯爵サー・ロバート・グローヴナーのブロンズ像の台座正面
<筆者撮影>

1820年代、初代ウェストミンスター侯爵サー・ロバート・グローヴナー(Sir Robert Grosvenor, 1st Marquess of Westminster:1767年ー1845年)は、建設業者/不動産開発業者であるトマス・キュービット(Thomas Cubitt:1788年ー1855年)に対して、ウェストミンスター侯爵家が所有する同地区の開発を依頼。



シティー・オブ・ウェストミンスター区のピムリコ地区内の
Denbigh Street 沿いに設置されている
トマス・キュービット像
(Sculptor : William Fawkes / Bronze / 1995)
<筆者撮影>


トマス・キュービットは、30年以上の歳月をかけて、ベルグレイヴィア地区やピムリコ地区(Pimlico)等を開発。

依頼主である初代ウェストミンスター侯爵サー・ロバート・グローヴナーは、両地区の開発完了を目にすることができなかったが、彼の長男である第2代ウェストミンスター侯爵リチャード・グローヴナー(Richard Grosvenor, 2nd Marquess of Westminster:1795年ー1869年)が、父親の事業を引き継ぎ、両地区の開発完了まで漕ぎ着けた。


なお、トマス・キュービットは、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在するゴードンスクエア(Gordon Square → 2026年6月1日付ブログで紹介済)と隣接するタヴィストックスクエア(Tavistock Square → 2026年9月2日 / 9月6日付ブログで紹介済)を開発したことでも知られている。


初代ウェストミンスター侯爵サー・ロバート・グローヴナーのブロンズ像の台座側面(その1)
<筆者撮影>

初代ウェストミンスター侯爵サー・ロバート・グローヴナーのブロンズ像の台座側面(その2)
<筆者撮影>

初代ウェストミンスター侯爵サー・ロバート・グローヴナーのブロンズ像の台座側面(その3)
<筆者撮影>


トマス・キュービットにより開発された地区は、ウェストミンスター侯爵(現在は、公爵(Duke))家における別の称号であるベルグレイヴ子爵(Viscount Belgrave)に因んで、ベルグレイヴィア地区と命名された。

なお、ベルグレイヴ子爵の「ベルグレイヴ」は、ウェストミンスター侯爵家の本拠地であるイートンホール(Eaton Hall)の近くにあるチェシャー州(Cheshire)のベルグレイヴ村(Belgrave)に起因している。


ベルグレイヴィア地区のノーザングレイヴィアとサザングレイヴィアの境にある
イートンスクエアガーデンズ(Eaton Square Gardens)
<筆者撮影>


トマス・キュービットがテラスハウスを数多く建設したエリアは、ウェストミンスター侯爵家に因んで、「ベルグレイヴスクエア(Belgrave Square)」や「イートンスクエア(Eaton Square)」等と呼ばれるようになったのである。


2026年9月6日日曜日

ロンドン タヴィストックスクエア(Tavistock Square)- その2

タヴィストックスクエア内に所在する
タヴィストックスクエアガーデンズ(Tavistock Square Gardens)の内部(その1)
<筆者撮影>

タヴィストックスクエア内に所在するタヴィストックスクエアガーデンズの内部(その2)
<筆者撮影>

1912年8月10日に結婚した英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)英国の作家 / 出版業者 / 公務員であるレナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年の2人は、1914年の秋から約10年間を過ごしたリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)を離れ、ロンドンの中心部へと戻り、1924年3月、タヴィストックスクエア52番地(52 Tavistock Square → 2026年8月11日 / 8月17日付ブログで紹介済)に居を構えた。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


レナード・シドニー・ウルフが、1917年3月、パラダイスロード34番地 / ホガースハウス(Hogarth House, 34 Paradise Road → 2026年7月31日 / 8月5日付ブログで紹介済)に設立した出版社「ホガースプレス(Hogarth Press)」に参加したことにより、ヴァージニア・ウルフの精神状態が落ち着き、その結果、執筆にも脂がのってきたこと、また、ヴァージニア・ウルフ自身が若い頃から慣れ親しんできたロンドンの街の刺激が恋しくなったことが、彼らがロンドンの中心部へと戻った理由だった。

2人がパラダイスロード34番地 / ホガースハウスの居間に設立した「ホガースプレス」は、タヴィストックスクエア52番地の建物の地下に設置された。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。



ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人は、1924年から第二次世界大戦(1939年-1945年)が始まった1939年までの間、タヴィストックスクエア52番地に住むことになる。

現在、タヴィストックスクエア52番地の跡地には、タヴィストックホテル(Tavistock Hotel)が建っている。


タヴィストックスクエア内に所在するタヴィストックスクエアガーデンズの内部(その3)
<筆者撮影>

タヴィストックスクエア内に所在するタヴィストックスクエアガーデンズの内部(その4)
<筆者撮影>

タヴィストックスクエア内に所在するタヴィストックスクエアガーデンズの内部(その5)
<筆者撮影>


タヴィストックスクエア52番地の建物が面するタヴィストックスクエア(Tavistock Square)には、1920年、第一次世界大戦(1914年ー1918年)中に戦場での爆撃や砲撃(シェル)によって心的外傷を受けた心的外傷後ストレス障害(PTSD)を被った兵士達の治療を行うタヴィストッククリニック(Tavistock Clinic)が設立された。

タヴィストッククリニックは、1946年、タヴィストックスクエアが所在するロンドン中心部のブルームズベリー地区(Bloomsbury)からロンドン北西部のスイスコテージ地区(Swiss Cottage)へと移転。


タヴィストックスクエア内に所在するタヴィストックスクエアガーデンズの内部(その6)
<筆者撮影>

タヴィストックスクエア内に所在するタヴィストックスクエアガーデンズの内部(その7)
<筆者撮影>

タヴィストックスクエア内に所在するタヴィストックスクエアガーデンズの内部(その8)-
ロンドン爆弾テロ事件が発生したのは、画面左端の建物の前辺り。
<筆者撮影>


タヴィストックスクエアの名前を一躍有名にしたのは、2005年7月7日に発生したロンドン爆弾テロ事件である。

ロンドン市内で合計で4つの爆弾テロ事件がほぼ同時に発生し、そのうちの3件は地下鉄内で発生したが、残りの1件は、タヴィストックスクエアに面して建つ英国医師協会(British Medical Association)のビル前を通るバス内で発生。犯人を含む13人が亡くなった上に、多くの負傷者が出た。事件発生後、英国医師協会のスタッフが負傷者の手当を行なっている。


2026年9月5日土曜日

ロンドン キューガーデンズ / ヘンリー・ムーア展(Kew Gardens / Henry Moore)- その2



ロンドンの特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のリッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)のリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)内に所在するキューガーデンズ(Kew Gardens)において、20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーア(Henry Spencer Moore:1898年ー1986年)の展覧会「Henry Moore : Monumental Nature」が、2027年1月31日まで開催されている。


ヘンリー・スペンサー・ムーアによる彫刻作品30点が、キューガーデンズ内の野外(正確に言うと、2点だけは屋内)に展示されている。



今回は2回目で、6番目から10番目までの彫刻を紹介したい。


(6)「Draped Reclining Figure」




制作年:1952年-1953年

LH 336 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Gift of the artist in 1977 


(7)「Reclining Woman : Elbow」




制作年:1981年

LH 810 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Acquired in 1986


(8)「Knife Edge Two Piece」




制作年:1962年-1965年

LH 516 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Gift of the artist in 1977

(9)「Two Piece Reclining Figure : Cut」




制作年:1979年ー1981年

LH 758 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Acquired in 1986


(10)「Working Model for Locking Piece」




制作年:1962年

LH 514 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Gift of the artist in 1977


2026年9月4日金曜日

ロンドン クラルジズストリート11番地(11 Clarges Street)

クラルジズストリート11番地の建物正面を
左側(北側)から見たところ
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース
(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作の自画像(Self-portrait)(1784年)
<筆者撮影>


そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作のエマ・ハートの肖像画(1785年頃)
<筆者撮影>


英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人を経て、1791年9月6日の結婚後、彼の正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、1793年9月の初対面の5年後の1798年9月に再会した後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)と恋愛関係になる。

前述の通り、エマ・ハミルトンは、1791年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと結婚して、ナポリ公使夫人と言う立場にあり、また、ホレーショ・ネルソンも、1787年にフランシス・ハーバート・ウールワード(Frances Herbert Woolward:1758年ー1831年)と結婚していたため、2人とも不倫だった訳である。

2人の不倫関係は、何故か、周囲から寛大に見られており、エマ・ハミルトンの夫であるサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンも、そうであった。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとしては、ホレーショ・ネルソンを英国にとって必要不可欠な人物であると見做して、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を黙認する一方、ホレーショ・ネルソンとの友情関係も維持していた、とのこと。

ただ、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、ナポリから本国である英国へと伝わり、新聞報道を経て、公となってしまった。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
Sir William Beechey 作のホレーショ・ネルソンの肖像画(1800年)
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンの英国への召喚と時を同じくして、ナポリ公使の任を解かれたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと一緒に、英国に帰国したエマ・ハミルトンは、1801年1月29日、ピカデリー通り23番地(23 Piccadilly → 2026年8月26日付ブログで紹介済)の家において、ホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソン(Horatia Nelson:1801年ー1881年)を出産した。


ピカデリー通りの対岸からホテル「ザ・ディリー(The Dilly)」(画面左側の建物)を見たところ -
エマ・ハミルトンがホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソンを出産したピカデリー通り23番地は、
画面左下にあるバス停留所の背後の店舗部分に該る。
<筆者撮影>


1803年4月6日に、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンが、ピカデリー通り23番地の家において亡くなった後、世間的な体裁を保つため(=ホレーショ・ネルソンとは異なる住所を確保するため)、エマ・ハミルトンは、ピカデリー通り23番地の家から、あまり離れていないクラルジズストリート11番地(11 Clarges Street)の家へ引っ越した。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
メイフェア地区の地図を抜粋。


夫のサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンが亡くなった後、エマ・ハミルトンがピカデリー通り23番地の家から引っ越したクラルジズストリート11番地は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街メイフェア地区(Mayfair)内に所在している。


クラルジズストリート11番地の建物の前から
北方面(カーゾンストリート(Curzon Street))を見たところ
<筆者撮影>

クラルジズストリート11番地の建物の前から
南方面(ピカデリー通り)を見たところ
<筆者撮影>


クラルジズストリート(Clarges Street)は、ピカデリーライン(Piccadilly Line)とベイカールーライン(Bakerloo Line)の2線が乗り入れる地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station → 2026年8月12日付ブログで紹介済)とピカデリーラインが停まる地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)を東西に結ぶ約1マイルの幹線道路であるピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)から北北西へ延びる通りである。


クラルジズストリート11番地の建物正面を
右側(南側)から見たところ
<筆者撮影>


地下鉄ピカデリーサーカス駅から地下鉄ハイドパークコーナー駅へ向かって、ピカデリー通りを西方面に進む。

進行方向右手に地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station → 2025年7月30日付ブログで紹介済)の入口を見た後、1番目のストラットンストリート(Stratton Street)とボルトンストリート(Bolton Street)を過ぎて、3番目のクラルジズストリートへ右折。

クラルジズストリート11番地に該る建物は、クラルジズストリートの中間辺りに建っている。


クラルジズストリート11番地の建物入口
<筆者撮影>


クラルジズストリート11番地周辺は再開発されており、同建物には、現在、「ロイヤルケンネルクラブ(The Royal Kennel Club - 住所:10 Clarges St, London W1J 8AB)」等が入居している。

1873年に「ケンネルクラブ(The Kennel Club)」として設立され、150年を超える歴史を有するドッグショー等を管理する団体の本部で、バー、ラウンジや会食スペースを備えた会員制クラブ、応接室、会議室、アートギャラリーや図書館等も含まれている。


チャールズ3世の70歳の誕生日を記念して、
英国のロイヤルメールから2018年に発行された切手の1枚 -
ウェールズ公(Prince of Wales)時代のチャールズ3世


2023年5月6日、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)において行われた
チャールズ3世の戴冠式を記念して、
英国のロイヤルメールから2023年に発行された切手の1枚 -
The Coronation : representing the monarchy, continuity, longevity, heritage and tradition


設立150周年を迎えた2023年、ウィンザー朝の第5代国王であるチャールズ3世(Charles II:1948年ー 在位期間:2022年ー)が「ロイヤル」の称号を使用する許可を出したことを受けて、「ロイヤルケンネルクラブ」へと改名。


クラルジズストリート11番地の建物入口の右側の外壁に、
「ロイヤルケネルクラブ」のプレートが掛けられている。
<筆者撮影>