2026年2月3日火曜日

アガサ・クリスティー 2026年オフィシャルカレンダー(Agatha Christie Official Calendar 2026)- その8

2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
「アガサ・クリスティー 2026年オフィシャルカレンダー」のうち、
2026年6月のカレンダーに描かれている
エルキュール・ポワロシリーズの長編第25作目「葬儀を終えて」(1953年)-
大富豪で、アバネシー家の当主であるリチャード・アバネシーの葬儀が行われた
教会が描かれているものと思われる。
兄リチャード・アバネシーの墓の前に佇んでいるのは、
末妹のコーラ・ランスケネだろうか?


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の作品を出版している英国の HarperCollinsPublishers 社から、2026年オフィシャルカレンダーが出ているので、前回に引き続き、順番に紹介したい。


2026年カレンダーの場合、カレンダー用に新たに描き起こされたエルキュール・ポワロシリーズのイラストが使用されており、デザインについては、Diahann Sturge-Cambell が、また、イラストに関しては、Mr. Stephen Millership / Central Illustration Agency が担当している。


7番目は、2026年6月のカレンダーに該る「葬儀を終えて(After the Funeral)」(1953年)である。


アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第44作目に該り、エルキュール・ポワロシリーズの長編のうち、第25作目に該っている。


「葬儀を終えて」の場合、米国版のタイトルは、「Funerals Are Fatal」が使用されている。

1963年に本作品が英国映画として映像化された際、英国版のタイトルは、映画に合わせて、「Murder at the Gallop(寄宿舎の殺人)」へと改題された。なお、探偵役は、本来のエルキュール・ポワロではなく、ミス・ジェーン・マープルが務めている。


大富豪で、アバネシー家の当主であるリチャード・アバネシー(Richard Abernethie)の葬儀に出席するために、彼の邸宅「エンダビーホール(Enderby Hall)」において、親族が一堂に会した。

リチャード・アバネシーの弟の1人であるレオ(Leo)は、第二次世界大戦(1939年-1945年)中に戦死していた。また、リチャード・アバネシーの妻は早くに亡くなっており、息子とのモーティマー(Mortimer)も6ヶ月前に既に死去していた。


リチャード・アバネシーの葬儀に参列したのは、


(1)ティモシー・アバネシー(Timothy Abernethie):リチャードの弟

(2)モード・アバネシー(Maude Abernethie):ティモシーの妻 / リチャードの義妹


(3)ヘレン・アバネシー(Helen Abernethie):第二次世界大戦中に戦死したリチャードの弟レオの妻 / リチャードの義妹


(4)スーザン・バンクス(Susan Banks):リチャードの弟ゴードン(Gordon)の娘 / リチャードの姪

(5)グレゴリー・バンクス(Gregory Banks):スーザンの夫 / 薬剤師


(6)ローラ・クロスフィールド(Laura Crossfield):リチャードの妹

(7)ジョージ・クロスフィールド(George Crossfield):ローラの息子 / リチャードの甥 / 事務弁護士


(8)ロザムンド・シェーン(Rosamund Shane):リチャードの妹ジェラルディン(Geraldine)の娘 / リチャードの姪 / 女優

(9)マイケル・シェーン(Michael Shane):ロザムンドの夫 / 俳優


(10)コーラ・ランスケネ(Cora Lansquenet):リチャードの末妹


の面々だった。


アバネシー家の弁護士であるエントウィッスル氏(Mr. Entwhistle)が、リチャード・アバネシーの遺言執行者として、その内容を読み上げた。

リチャード・アバネシーの遺産の大部分は、彼の弟ティモシー・アバネシー、彼の亡き弟の妻ヘレン・アバネシー、彼の末妹コーラ・ランスケネ、彼の甥ジョージ・クロスフィールド、そして、彼の2人の姪スーザン・バンクスとロザムンド・シェーンの6人に当分されると言う極めて妥当な内容だった。


エントウィッスル氏が読み上げたリチャード・アバネシーの遺言書の内容を聞き、自分の相続分を素直に喜んこんだ末妹コーラ・ランスケネは、小首を傾げると、無邪気な一言を言い放った。

「だって、リチャードは殺されたんでしょう?」と。


末妹コーラ・ランスケネは、子供の頃から、少し頭が弱く、思い付いたことを何でも直ぐに口にする性格で、アバネシー家の皆は、彼女は無邪気過ぎて困ると感じていた。それ故に、リチャード・アバネシーの葬儀に参列した面々は、彼女の発言をまともには取り合わず、受け流してしまった。

その一方で、末妹コーラ・ランスケネの発言は昔から真実を突いていたため、リチャード・アバネシーの葬儀から帰途に就く人達の心に、拭いきれない疑惑が痼りのように残った。リチャード・アバネシーの遺言執行者であるエントウィッスル氏も、その例外ではなかった。


彼らの疑惑が的中したかのように、その翌日、末妹のコーラ・ランスケネが、自宅において、斧で惨殺されているのが発見される。


コーラ・ランスケネの家政婦だったギルクリスト(Miss Gilchrist)によると、「リチャード・アバネシーは、亡くなる3週間ほど前に、コーラ・ランスケネを訪ねて来ると、彼女と話をしていた。」とのことだった。

つまり、コーラ・ランスケネは、兄リチャード・アバネシーの死の原因について、何か知っており、彼の葬儀の場において、そのことを口にしたために、殺害されたのか?


末妹のコーラ・ランスケネが殺されたことを受けて、彼女の相続分はリチャード・アバネシーの遺産に戻り、最終的には、スーザン・バンクスの取り分となった。

また、家政婦のギルクリストには、コーラ・ランスケネが趣味で描いていた絵画が送られることになた。


エルキュール・ポワロは、
英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている
「エルキュール・ポワロの世界」と言うジグソーパズルの中央に立っている。
<筆者撮影>


リチャード・アバネシーの遺言執行者であるエントウィッスル氏は、真相を知るべく、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)に対して、事件の調査を依頼するのであった。


2026年2月1日日曜日

ロンドン ギルトスパーストリート(Giltspur Street)- その4

スミスフィールドマーケット側からギルトスパーストリートを望む –
ここからギルトスパーストリートの北側が始まる。
<筆者撮影>


米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、カーター・ディクスン(Carter Dickson)という別名義で1944年に発表した推理小説で、ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズの長編第14作目に該る「爬虫類館の殺人He Wouldn’t Kill Patience → 2025年11月17日 / 11月19日付ブログで紹介済)」の舞台は、第2次世界大戦(1939年-1945年)下の首都ロンドンである。


京創元社が発行する創元推理文庫「爬虫類館の殺人」の表紙
    カバーイラスト:ヤマモト マサアキ
カバーデザイン:折原 若緒
  カバーフォーマット:本山 木犀


ケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens → 2026年1月31日付ブログで紹介済)内にあるロイヤルアルバート動物園(Royal Albert Zoological Gardens)は、世界の蛇、蜥蜴や毒蜘蛛等を集めた爬虫類館で人気を集めていた。ところが、ドイツ軍の爆撃による空襲の脅威下、国家安全保証省(Department of Home Secuirty)からの要請により、閉園の危機を迎える。

園長のエドワード・ベントン(Edward Benton)は、なんとかして、ロイヤルアルバート動物園閉園の危機を乗り越えようといろいろと手を尽くしたものの、閉園の撤回は非常に難しい状況だった。

ロイヤルアルバート動物園閉園の危機を迎えて、気落ちする父エドワード・ベントンを元気づけるため、娘のルイーズ・ベントンは、曾祖父の代から対立している2つの奇術師一家の若き後継者であるケアリー・クイント(Carey Quint - 奇術師の青年)とマッジ・パリサー(Madge Palliser - 奇術師の女性)の2人に手品を披露してもらうべく、1940年9月6日(金)の夕食会に招待した。また、陸軍省の御意見番で、手品を得意とするヘンリー・メリヴェール卿も、同じく招待されたのである。


ギルトスパーストリートの北端にあるWest Smithfield Rotunda Garden -
画面中央奥に中央刑事裁判所が見える。
<筆者撮影>


空襲警報が鳴り響く中、ケアリー・クイント、マッジ・パリサーとヘンリー・メリヴェール卿の3人は、午後8時半頃、ロイヤルアルバート動物園内にある園長の家に到着。

玄関のドアには、鍵がかかっておらず、廊下の突き当たりにある園長エドワード・ベントンの書斎のドアには、「入室無用」の札が掛かっていた。また、ドアは閉じたままで、その下から光は漏れていなかった。

廊下の突き当たりにある園長の書斎を除くと、右の部屋も左の部屋も、ドアが開けっ放しで、夕食会の用意が為されていたものの、誰もいなかった。

ヘンリー・メリヴェール卿とマッジ・パリサーが、夕食を焦がしている臭いを嗅ぎつけると、3人は食堂へと急いだ。食堂内の閉じたオーブンの中では、ロースト料理が焦げていた。誰かが、全部のガスを全開にしていたのである。

慌ててオーブンのスイッチを切る3人であったが、何故か、食堂から廊下へ通じるドアに、鍵がかかっていた。3人以外に、園長の家内に居る誰かに、彼らは食堂内に閉じ込められてしまったのだ。


ギルトスパーストリートを南下する –
画面中央奥に見える建物が中央刑事裁判所。
<筆者撮影>


ケアリー・クイントが奇術用の小道具を使い、ドアの鍵を解錠して、廊下へ出ると、丁度、飼育員のマイク・パーソンズとセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)の医師で、ルイーズ・ベントンの恋人のジャック・リヴァーズが玄関のドアから入って来た。

ジャック・リヴァーズによると、午後7時に、園長のエドワード・ベントン本人から、「夕食会は中止になった」旨の電話連絡があった、とのこと。園長の声の様子に不自然さを感じたジャック・リヴァーズは、病院から駆け付けたのであった。


ヘンリー・メリヴェール卿を含めた5人は、廊下の突き当たりにある園長の書斎のドアを開けようとしたが、鍵がかかっていた。また、中から鍵穴に何かが貼り付けてあるようだった。


ギルトスパーストリートの中間辺り(西側)に建つオフィスビル
<筆者撮影>


廊下に面したドアは、全て、同じ鍵を使っていることを知っているジャック・リヴァーズは、食堂のドアから鍵を抜くと、ヘンリー・メリヴェール卿に手渡した。

ヘンリー・メリヴェール卿が書斎の鍵を解錠して、ドアを開けると、園長のエドワード・ベントンが、一匹の蛇と一緒に、ガス中毒により死亡しているのを発見する。

書斎のドアと窓の全てが内側から厳重に目張りされた「密室(sealed room)」状態で、状況的には、ロイヤルアルバート動物園の閉園を苦にしての自殺としか思えなかった。


そんな最中、園長の娘であるルイーズ・ベントンが戻って来る。



Bank of America Merrill Lynch が以前に入居していたオフィスビル
<筆者撮影>


「今夜、七時頃」彼女は続けた。「ローズマリーとわたし - ローズマリーはメイドです - は、夕食の支度を始めようとしていました。そこへ電話が鳴ったのです。男性の声で、わたしに話があるということでした。彼がいうには …」

(今では誰もが、張り詰め、研ぎ澄まされた注意力で聞いているのをケアリは感じた)

「ドクター・リヴァースが大怪我をしたというのです。ギルトスパー・ストリートで、車が大型トラックと衝突したと。すぐに来られないかといわれました。もちろん」彼女は口ごもった。「わたしは多少、気が動転していました」

「うむ」H・Mは何気ない口調でいった。「続けてくれ」

「わたしは少しも疑いませんでした。場所がとても離れていたことさえも。バート病院の近くだったので、ジャックはそこへ行く途中だと思ったのです。わたしはローズマリーに夕食の支度を続けるようにいい、父にはお客様に事情を話してくれるように頼んで、駆けつけました。

もちろん、電話で告げられたギルトスパーストリート二三一Bなどという住所はありませんでした。その住所を見つけようとあたりをさまよい、次第に絶望してきたところ、思いがけないことにローズマリーが現れたのです。彼女にも同じ声で電話が来て、わたしがドクター・リヴァースの看護をするのを手伝ってほしいといっているから、来てくれないかといったそうなのです」

(白須 清美訳)



ルイーズ・ベントンは、「ジャック・リヴァーズが乗った車が、大型トラックと衝突して、大怪我をした。」と言う謎の電話連絡を受けたのだが、その衝突現場であるギルトスパーストリート(Giltspur Street → 2018年6月9日 / 6月16日 / 6月23日付ブログで紹介済)は、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー・オブ・ロンドン(City of London → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)内に所在して、南北に延びる通りである。


画面左奥へ延びる通りがニューゲートストリート、
画面右奥へ延びる通りがオールドベイリー通り、
画面手前に延びる通りがホルボーン高架橋通りで、
画面左へと延びる通りがギルトスパーストリートである。
画面奥には、中央刑事裁判所が見える。
<筆者撮影>


ギルトスパーストリートの南側は、ニューゲートストリート(New Gate Street → 2018年5月19日付ブログで紹介済)<東側>、オールドベイリー通り(Old Bailey - 中央刑事裁判所(Central Criminal Court → 2016年1月17日付ブログで紹介済)が建っている通り)<南側>およびホルボーン高架橋通り(Holborn Viaduct)<西側>が交差する四つ角から始まり、サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Igantius Conan Doyle:1859年-1930年)作「緋色の研究(A Study in Scarlet → 2016年7月30日付ブログで紹介済)」において、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンが初めて出会ったセントバーソロミュー病院を右手(東側)に見て北上し、その北側は肉市場として有名なスミスフィールドマーケット(Smithfield Market)と呼ばれるロータリーに突き当たって終わっている。


ギルトスパーストリートに関連する歴史上の出来事は、以下の2つ。


1つ目は、「ワット・タイラーの乱(Wat Tyler’s Rebellion)」、または、「農民反乱(Peasant’s Revolt)」と呼ばれている反乱である。


プランタジネット朝最後のイングランド王であるリチャード2世(Richard II:1367年ー1400年 在位期間:1377年ー1399年)は、1378年と1380年の2回、百年戦争(Hundred Year’s War:1337年ー1453年 → フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国とプランタジネット朝 / ランカスター朝イングランド王国の戦い)でフランスに奪われた元イングランド地域の奪還を目指して、欧州大陸へと遠征したものの、目的を達することができなかった。2回にわたる大陸遠征により、膨大な戦費調達が必要となって、リチャード2世は人頭税の導入を図る。


ただし、この人頭税が、上層階級に対しては軽く、逆に下層階級に対しては重い税制だったため、1381年6月、増税に反対する下層階級の農民や労働者が反乱を起こす。屋根瓦職人のワット・タイラー(Wat Tyler:?ー1381年)が、神父のジョン・ボール(John Ball:1338年頃ー1381年)と共に、この反乱に指導者として加わると、勢いを得た反乱軍は、カンタベリー(Cantebury)を占拠した後、ロンドン郊外、続いて、ロンドン市内へと侵入し、カンタベリー大司教や政府の幹部だった財務長官のロバート・イルズと尚書部長官のサイモン・サドベリーを殺害したのである。


なお、ワット・タイラーの半生について、判っていることが非常に少なく、出生時の名前は「ウォルター(Walter)」とされているが、姓に関しては不明で、屋根瓦職人(roof tiler)であったことから、「Tyler」の姓が付けられたものと考えられている。


1381年6月15日に行われた2回目の交渉時、
ワット・タイラーに斬りつけたロンドン市長のウィリアム・ウォルワースの像 -
ホルボーン高架橋に設置されている。
<筆者撮影>


リチャード2世率いる国王軍は、今のギルトスパーストリートがある辺りで、ワット・タイラー達が率いる反乱軍を出迎え、同年6月14日、1回目の交渉が行われ、リチャード2世は、ワット・タイラー達に対して、農民や労働者の要求を保証すると回答した。

ところが、翌日の同年6月15日、2回目の交渉が行われている最中、当時のロンドン市長(Lord Mayor of the City of London / Lord Mayor of London)だったウィリアム・ウォルワース(William Walworth:?ー1385年)によって、ワット・タイラーは突然斬りつけられた。ワット・タイラーは近くにあるセントバーソロミュー教会(St. Bartholomew the Great Church)へ難を逃れようとしたものの、そのまま殺害されてしまったのである。

重要な指導者の一人を失った反乱軍自体も、国王軍によって鎮圧されてしまった。


2つ目は、1666年のロンドン大火(The Great Fire of London → 2018年9月8日 / 9月15日 / 9月22日 / 9月29日付ブログで紹介済)である。


ロンドン大火から350年後の2016年に
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した記念切手(その1)


ロンドン大火から350年後の2016年に
英国のロイヤルメールが発行した記念切手(その2)


ロンドン大火から350年後の2016年に
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した記念切手(その3)


ロンドン大火の最後の火が完全に鎮火した場所が、ギルトスパーストリートとコックレーン(Cock Lane→2018年6月30日 / 7月7日付ブログで紹介済)が交差する北西の角にあるパイコーナー(Pye Corner)である。


ロンドン大火から350年後の2016年に
英国のロイヤルメールが発行した記念切手(その4)


ロンドン大火から350年後の2016年に
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した記念切手(その5)


ロンドン大火から350年後の2016年に
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が発行した記念切手(その6)


1666年9月2日(日)に発生したロンドン大火は、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral → 2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)を含むシティー・オブ・ロンドン一帯を焼き払った後、4日目の同年9月5日(水)になって、火の勢いは漸く弱まり、完全に鎮火したのは、9月6日(木)だった。そして、ロンドン大火の最後の火が完全に鎮火したのが、このパイコーナーであった。


ギルトスパーストリートとコックレーンが交差する
北西の角にあるパイコーナー
<筆者撮影>


現在、パイコーナーには、金色の少年の姿をした記念碑がビルの外壁に設置され、「This Boy is in Memory Put up for the late FIRE of LONDON Occasion’d by the Sin of Gluttony 1666. (この少年の像は、大食という大罪によって引き起こされた先のロンドン大火を記念して設置された。)」という言葉が添えられている。


パイコーナーに建つオフィスビルの外壁に設置されている
The Golden Boy of Pye Corner
<筆者撮影>


パイコーナーに建つオフィスビルの外壁に設置されている
The Golden Boy of Pye Corner の説明板
<筆者撮影>

「大食(Gluttony)」とは、キリスト教における「七つの大罪(Seven Deadly Sins)」のうちの一つである。ロンドン大火は、プディングレーン(Pudding Lane)で出火して、パイコーナーで鎮火しており、「プディング」も「パイ」も食べ物に関連しているため、「大食」という大罪に結び付けられたものと、一説には言われている。



プディングレーン沿いに建つオフィスビルの外壁に設置されているロンドン大火の記念プレートで、
ロンドン大火が発生した王室御用達のパン屋であるトマス・ファリナーの店が
近くにあったことを示している。
<筆者撮影>


なお、「The Golden Boy of Pye Corner」と呼ばれるロンドン大火の記念碑は、元々、ここで営業していたパブ「The Fortune of War」の入口に設置されていたが、1910年にパブが取り壊されたため、現在は、その後に建てられたオフィスビルの 1st Floor(日本の2階)に該る外壁に設置されているのである。


2026年1月31日土曜日

ロンドン ケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)

ケンジントンガーデンズの北西の入口近くにある看板
<筆者撮影>

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、カーター・ディクスン(Carter Dickson)という別名義で1944年に発表した推理小説で、ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズの長編第14作目に該る「爬虫類館の殺人He Wouldn’t Kill Patience → 2025年11月17日 / 11月19日付ブログで紹介済)」の舞台は、第2次世界大戦(1939年-1945年)下の首都ロンドンである。


京創元社が発行する創元推理文庫「爬虫類館の殺人」の表紙
    カバーイラスト:ヤマモト マサアキ
カバーデザイン:折原 若緒
  カバーフォーマット:本山 木犀


ケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)内にあるロイヤルアルバート動物園(Royal Albert Zoological Gardens)は、園長であるエドワード・ベントン(Edward Benton)によって運営されていた。ロイヤルアルバート動物園の中でも、世界の蛇、蜥蜴や毒蜘蛛等を集めた爬虫類館は、その名物で、人気を集めていた。



そんなロイヤルアルバート動物園であったが、ドイツ軍の爆撃による空襲の脅威下、閉園の危機を迎える。ドイツ軍の爆撃による空襲により、毒蛇、毒蜥蜴や毒蜘蛛、更に、毒のある昆虫等が逃げ出して、サウスケンジントン中を這い回るリスクを抱えていたからである。



1940年9月6日(金)の午後、爬虫類館内において、長年にわたって反目している奇術師の両家に属するケアリー・クイント(Carey Quint - 奇術師の青年)とマッジ・パリサー(Madge Palliser - 奇術師の女性)の2人は、飼育員のマイク・パーソンズと一騒動を起こして、保管用のガラスケースを壊してしまい、大蜥蜴(ジャイアントグリーンアミーバ)とアメリカドクトカゲが逃げ出す要因をつくってしまった。そして、そこに偶々居合わせた陸軍省の御意見番であるヘンリー・メリヴェール卿は、危うく2匹の蜥蜴に噛まれるところだった。

こうして、「爬虫類館の殺人」の物語は始まる。



設定上、エドワード・ベントンが園長として運営するロイヤルアルバート動物園は、ケンジントンガーデンズ内にあることになっているが、あくまでも、これは架空の話であり、ロイヤルアルバート動物園がケンジントンガーデンズ内に存在したことはない。


1911年からある樹木の幹が保存されている。
<筆者撮影>


彼らのロマンス - ロマンスと呼べればの話だが - が始まったのは、ロイヤル・アルバート動物園の爬虫類館でのことだった。年老いたマイク・パーソンズはその始まりを見て仰天した。ケンジントン・ガーデンズにあるロイヤル・アルバート動物園の長い歴史でも、こんな騒ぎが起こったのは、一九〇四年の秋にジェゼベルが檻から脱走しかけたとき以来だ。

(白須 清美訳)



新たな空襲警報は、その夜八時二十分に鳴り響いた。ちょうどケアリ・クイントが、ピカデリーのセント・トマス・ホールを出たところだった。


(中略)


ケアリはタクシーに手を上げた。一九四〇年の九月初めのことだったので、うまくつかまえることができた。シートに深く座り、人生の複雑さに思いを馳せると、マッジ・パリサーの姿が、まるで目の前に座っているかのように鮮やかに思い出された。その姿が自分をにらみ返しているようにさえ、ケアリには感じられた。


(中略)


その問題を悲観し、現実離れした解決法を考えているうちに、タクシーはベイズウォーター・ロードの端で彼を降ろした。

(白須 清美訳)


ケンジントンガーデンズの北西の角の入口を公園内から見たところ -
この辺りに、ロイヤルアルバート動物園はあったものと思われる。
<筆者撮影>


上記の記述から、ロイヤルアルバート動物園は、ケンジントンガーデンズの北西の角に所在していることが判る。


ケンジントンガーデンズの北西の角の入口を
ベイズウォーターロード(Bayswater Road → 2026年1月30日付ブログで紹介済)側から見たところ -
画面奥の辺りに、ロイヤルアルバート動物園はあったものと思われる。
<筆者撮影>


ケンジントンガーデンズは、ハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)の西側に隣接する王立公園である。

ケンジントンガーデンズの大部分は、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)内にあるが、西側の一部がケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)内に属している。


画面奥に左右に植えられている生垣が、
ケンジントンガーデンズの西端と高級住宅街との境界線に該る。
<筆者撮影>

ハイドパーク一帯は、11世紀頃からウェストミンスター修道院(Westminster Abbey:現ウェストミンスター寺院)が所有していた。


ケンブリッジ大学(University of Cambridge)創立800周年を記念して、
英国の児童文学作家 / イラストレーターである
クェンティン・ブレイク(Quentin Blake:1932年ー)が描いた
ヘンリー8世とキングスカレッジ合唱団の絵葉書
<筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum
→ 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入>


そして、時代は、テューダー朝(House of Tudor)の第2代イングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年 → 2024年7月26日付ブログで紹介済)による統治時まで下る。


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)で販売されている
アン・ブーリンの肖像画の葉書
(Unknown artist / 1535 - 1536年頃 / Oil on panel
543 mm x 416 mm) 


ヘンリー8世は、男の世継ぎ(嫡子)が生まれていない王妃キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon:1487年ー1536年)との離婚とキャサリン王妃の侍女メアリー・ブーリン(Mary Boleyn:1499年 / 1500年頃ー1543年)の妹(諸説あり)であるアン・ブーリン(Anne Boleyn:1501年頃ー1536年)との結婚を画策して、ローマのカトリック教会と対立し、1534年に国王至上法(首長令)を発布の上、自らを英国国教会(Church of England)の長とするとともに、カトリック教会から英国国教会の分離を行った。

ヘンリー8世が宗教改革の一環として実施した修道院解散(Dissolution of the monasteries:1536年ー1539年)政策に基づき、ウェストミンスター修道院の土地を召し上げた以降、英国王家の狩猟場として使用された。


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
チャールズ1世の肖像画の葉書
(Daniel Mytens
 / 1631年 / Oil on canvas
2159 mm x 1346 mm) 


公園として一般に開放されるようになったのは、ステュアート朝(House of Stuart)のチャールズ1世(Charles Ⅰ:1600年ー1649年 → 2017年4月29日付ブログで紹介済)治世の1637年のことである。隣接するケンジントンガーデンズは、当時はまだハイドパークの一部であった。

ナショナルポートレートギャラリーで所蔵 / 展示されているアン女王の肖像画
(By Michael Dahl
 / Oil on canvas / 1702年)
<筆者撮影>


セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral
→ 2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)の西側正面前の広場には、
1666年のロンドン大火(The Great Fire of London →
2018年9月8日 / 9月15日 / 9月22日 / 9月29日付ブログで紹介済)後に
同大聖堂が再建された1710年当時の君主で、
最初のグレイトブリテン王国君主となったアン女王の像が設置されている。
<筆者撮影>


ステュアート朝の第6代国王であるアン(Anne Stuart:1665年-1714年 在位期間:1702年ー1714年)による指示に基づき、英国の造園家であるヘンリー・ワイズ(Henry Wise:1653年ー1738年)とチャールズ・ブリッジマン(1690年ー1738年)が、ハイドパークの造園化を進めた。この時に、ラウンド池(Round Pond)が設けられた。


ラウンド池を西側から眺めたところ
<筆者撮影>


ハノーヴァー朝(House of Hanover)のジョージ2世(George Ⅱ:1683年ー1760年)の妃のキャロライン王妃(Queen Caroline:1683年ー1737年)は、国情に疎く、思慮にも欠けると言われた国王の助言役となり、当時の首相ロバート・ウォルポール(Robert Walpole:1676年ー1745年)と連携して、国王に代わり、安定した統治を行ったことで知られている。

彼女は、学問や芸術に加えて、造園にも造詣が深く、彼女の指示で公園内にサーペンタイン湖(The Serpentine)が設けられた。サーペンタイン湖が完成したのは、1733年である。


北側からサーペンタイン湖を見たところ
<筆者撮影>


サーペンタイン湖が設けられたことに伴い、公園の東側はハイドパークに、そして、公園の西側はケンジントンガーデンズとして、正式に分けられることとなった。また、1826年に湖の途中に橋が架けられたことに伴い、北側の湖をザ・ロング・ウォーター(The Long Water)に、そして、南側の湖をサーペンタイン湖として分けて呼ばれるようになった。


イタリアンガーデンズの南側にあるザ・ロング・ウォーター
<筆者撮影


厳密に言うと、公園内を南北に延びるウェストキャリッジドライブ(West Carriage Drive → 2024年11月5日付ブログで紹介済 / The Ring とも呼ばれている)が、現在、ハイドパーク(公園の東側)とケンジントンガーデンズ(公園の西側)の境界線となっている。


手前にみえるのが、ハイドパークとケンジントガーデンズを東西に分けているウェストキャレッジドライブ。
<筆者撮影>


ケンジントンガーデンズ内に設置されている案内板 -
ウェストキャレッジドライブが、
ハイドパークとケンジントガーデンズを東西に分ける境界線となっている。
<筆者撮影>


1841年になって、ケンジントンガーデンズは、一般に開放された。


ケンジントンガーデンズ内には、現在、


*ケンジントン宮殿(Kensington Place)


ケンジントン宮殿の入口から、同宮殿を見たところ
<筆者撮影>


*ヴィクトリア女王像(Queen Victoria Statue)


ヴィクトリア女王像は、東の方角を向いて設置されている。
<筆者撮影>


*アルバート公記念碑(Albert Memorial → 2016年3月13日付ブログで紹介済)


アルバート公記念碑の全景
<筆者撮影>


金色に輝くアルバート公像
<筆者撮影>


*サーペンタインギャラリー(Serpentine Gallery)

*ラウンド池

*ザ・ロング・ウォーター

*イタリアンガーデンズ(Italian Gardens)


ケンジントンガーデンズ内にあるイタリアンガーデンズ(その1)
<筆者撮影>


ケンジントンガーデンズ内にあるイタリアンガーデンズ(その2)
<筆者撮影>


*ピーターパン像(Peter Pan Statue)


ザ・ロング・ウォーターの西岸に建つピーターパンの像 -
ジェイムズ・バリーは、1912年5月に、
養子マイケル(Michael Davies:1900年ー1921年 /
彼の親友であるディヴィス夫妻の四男)をモデルにしたピーターパンの像を建てた。
英国の彫刻家サー・ジョージ・フランプトン(Sir George Frampton:1860年ー1928年)は、
実際には、別の子供をモデルにして、ピーターパンの像を制作したため、
ジェイムズ・バリーを大いに失望させた。
ジェイムズ・バリーによると、
「ピーターパンの中に悪魔が表現されていない。(It doesn't show the devil in Peter.)」とのこと。

<筆者撮影>


等の見どころがある。


ケンジントンガーデンズへ北側からアクセスする場合、セントラルライン(Central Line)が停車する地下鉄ランカスターゲート駅(Lancaster Gate Tube Station)と地下鉄クイーンズウェイ駅(Queensway Tube Station)からが便利である。

また、南側からアクセスする場合は、サークルライン(Circle Line)とディストリクトライン(District Line)の2線が停車する地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station → 2016年6月25日付ブログで紹介済)からが近い。


ケンジントンハイストリート(Kensington High Street)の北側から見た
地下鉄ハイストリートケンジントン駅
<筆者撮影>


「ピーターパン(Peter Pan)」シリーズ等の作者として有名な劇作家/童話作家であるサー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie:1860年ー1937年)が、1902年から1909年にかけて、ケンジントンガーデンズの北側にあるベイズウォーターロード100番地(100 Bayswater Road → 2015年7月25日付ブログで紹介済)に住んでいた。


レンスターテラス(Leinster Terrace)の入口から見たベイズウォーターロード100番地
<筆者撮影>


サー・ジェイムズ・バリーがベイズウォーターロード100番地に住んでいたことを示すブループラーク
<筆者撮影>


ジェイムズ・バリーは、このベイズウォーターロード100番地をベースにして、以下の有名な作品を執筆している。


*「小さな白い鳥(The Little White Bird)」(1902年)- 第13章から第18章にピーターパンが初めて登場。

*戯曲「ピーターパンー大人になりたがらない少年(Peter Pan, or The Boy Who Wouldn't Grow Up)」(1904年)

*「ケンジントン公園のピーターパン(Peter Pan in Kensington Gardens)」(1906年)

*「ピーターパンとウェンディー(Peter and Wendy)」(1911年)


上記の「ケンジントン公園のピーターパン」において、ケンジントンガーデンズが物語の舞台として使用されていて、ピーターパンがネヴァーランド(Neverland)へ冒険に行く前日譚が描かれている。