2026年6月28日日曜日

ロンドン ブランズウィックスクエアガーデンズ(Brunswick Square Gardens)

ブランズウィックスクエアガーデンズ内の案内板
<筆者撮影>

英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)と弟のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)の2人は、1911年11月、より広い家を求めて、ロンドンの中心部にあるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のフィッツロヴィア地区(Fitzrovia)内に所在するフィッツロヴィア(Fitzrovia)の端正なフィッツロイスクエア29番地(29 Fitzroy Square → 2026年6月6日 / 6月11日付ブログで紹介済)からロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camdenブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在するブランズウィックスクエア(Brunswick Square → 2026年6月23日付ブログで紹介済)の家へ引っ越した。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


引越後、ヴァージニア・ウルフと弟のエイドリアンの2人は、著述家や芸術家の知的サークルである「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury Group)」のメンバーのうち、


*ダンカン・ジェイムズ・コロウ・グラント(Duncan James Corrowr Grant:1885年ー1978年)- 英国の画家 / 織物・陶芸・舞台美術・服飾デザイナー

*レナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年)- 英国の作家 / 出版業者 / 公務員

*初代ケインズ男爵ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes, 1st Baron Keynes:1883年ー1946年)- 英国の経済学者


の3人を下宿人 / 間借り人として招き、同居している。


ヴァージニア・ウルフが住んでいた家は、
ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎の非常口の辺りに建っていたと思われる。
<筆者撮影>


ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎の非常口の右側の外壁に、
1911年から1912年にかけて、ヴァージニア・ウルフ達がここに住んでいたことを示す
プラークが掛けられている。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフは、レナード・シドニー・ウルフと結婚する1912年までの間、ブランズウィックスクエアの家に住んでいた。

ヴァージニア・ウルフが住んでいたブランズウィックスクエアの家は現存せず、現在は、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London → 2015年8月16日付ブログで紹介済)薬学部(School of Pharmacy - 住所:ブランズウィックスクエア29-39番地)の校舎が、その場所に建っている。


ヴァージニア・ウルフが住んでいた家の跡地には、現在、
ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎が立っている。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが住んでいたブランズウィックスクエアの家は、ブランズウィックスクエアガーデンズ(Brunswick Square Gardens)に面している。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。



ブランズウィックスクエアガーデンズは、元々、英国の船長(sea captain)から慈善家(philanthropist)へ転じたトマス・コラム(Thomas Coram:1668年-1751年)が1739年に設立した孤児院(Foundling Hospital)に属する土地だった。


ブランズウィックスクエアの西側から
ブランズウィックスクエアガーデンズを見たところ(その1)
<筆者撮影>

ブランズウィックスクエアの西側から
ブランズウィックスクエアガーデンズを見たところ(その2)
<筆者撮影>


孤児院運営用の資金調達のため、後にブランズウィックスクエアガーデンズとメクレンバーグスクエア(Mecklenburgh Square - 東側に隣接)となる土地が1790年に貸し出され、英国の不動産開発業者(property developer)であるジェイムズ・バートン(James Burton:1761年ー1837年)が、1795年から1802年にかけて、周辺の住宅街を建設。


ナショナルポートレイトギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ハノーヴァー朝の第3代英国王であるジョージ3世の肖像画
(By the studio of Allan Ramsay / Oil on canvas /
based on a portrait of 1761 - 1762)
<筆者撮影>


ナショナルポートレイトギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ジョージ3世の王妃である
ソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ
(1744年ー1818年)の肖像画

(By the studio of Allan Ramsay / Oil on canvas /
based on a portrait of 1761 - 1762)
<筆者撮影>


西側の区画は、ハノーヴァー朝(House of Hanover)第4代英国王のジョージ4世(George IV:1762年ー1830年 在位期間:1820年ー1830年)の王妃であるキャロライン・アメリア・エリザベス・オブ・ブランズウィック=ウォルフェンビュッテル(Caroline Amelia Elizabeth of Brunswick-Wolfenbuttel:1768年ー1821年)に因んで、「ブランズウィックスクエア」と、また、東側の区画は、ハノーヴァー朝の第3代国王であるジョージ3世(George III:1683年ー1820年 在位期間:1760年ー1820年)の王妃であるソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ(Sophia Charlotte of Mecklenburg- Strelitz:1744年ー1818年)に因んで、「メクレンバーグスクエア」と名付けられた。


ナショナルポートレイトギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ハノーヴァー朝の第4代英国王であるジョージ4世の肖像画
(By Sir Thomas Lawrence / Oil on canvas / 1814年頃)
<筆者撮影>


なお、ジェイムズ・バートンが当時開発した住宅街は、残念ながら、一軒も現存していない。


ブランズウィックスクエアの北東の角に建つ孤児院博物館
<筆者撮影>


現在、「ブランズウィックスクエア」の北側には、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンの薬学部、孤児院の歴史を紹介する孤児院博物館(Foundling Museum)や孤児院を設立したトマス・コラムのブロンズ像が建っている。


ブランズウィックスクエアの北東の角に設置されている
慈善家で、1739年に孤児院を設立した
トマス・コラムのブロンズ像
<筆者撮影>

慈善家で、1739年に孤児院を設立した
トマス・コラムの説明プレート
<筆者撮影>


「ブランズウィックスクエア」の東側には、サッカー競技場と「コラムフィールズ(Coram’s Fields - 大人は、子供を伴っている場合のみ、入園可能)」が広がっている。


ブランズウィックスクエアガーデンズの内部(その1)
<筆者撮影>

ブランズウィックスクエアガーデンズの内部(その2)
<筆者撮影>


「ブランズウィックスクエア」の南側には、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンの学生寮(International Hall)が建っている。


ブランズウィックスクエアガーデンズの内部(その3)
<筆者撮影>

ブランズウィックスクエアガーデンズの内部(その4)
<筆者撮影>


最後に、「ブランズウィックスクエア」の西側には、「ブランズウィックセンター(Brunswick Centre)」と呼ばれるカムデン区が管理する低所得者用住居(カウンシルフラット)とショッピングセンターが入っている。


ブランズウィックスクエアガーデンズの内部(その5)
<筆者撮影>


「ブランズウィックスクエア」、「メクレンバーグスクエア」と「コラムフィールズ」は、歴史がある公園 / 庭園(Historic Parks and Gardens)として、listed Grade II 指定されている。


2026年6月27日土曜日

エマ・ハミルトン(Emma, Lady Hamilton)- その3

ケンウッドハウス(Kenwood House → 2018年9月23日付ブログで紹介済)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作「Emma Hart as 'The Spinstress'」(1784年ー1785年)
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。

そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャー(通称:マイク)と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


1765年4月26日、鍛治職人(blacksmith)の父ヘンリー・ライオン(Henry Lyon)と母メアリー・キッド(Mary Kidd)の下、チェシャー州(Cheshire)のネス(Ness)に出生したエイミー・ライオン(Amy Lyon)は、エマ・ハート(Emma Hart)へと名前を変え、1779年、もしくは、1780年初めに、ロンドンへ向かう。

1781年6月 / 7月頃、エマ・ハートは、初代ウォーリック伯爵フランシス・グレヴィル(Francis Greville, 1st Earl of Warwick:1719年ー1773年)の次男であるチャールズ・フランシス・グレヴィル(Charles Francis Greville:1749年ー1809年)と親しくなり、彼の愛人となる。

1782年4月、チャールズ・フランシス・グレヴィルが、新しい愛人である彼女を連れて、友人のジョージ・ロムニーの元を訪れた。目的は、ジョージ・ロムニーに彼女の肖像画を依頼するためだった。当時、ジョージ・ロムニーは47歳、彼女は17歳で、2人は30歳と言う年齢の開きがあったが、この出会いは、芸術家としてのジョージ・ロムニーにとって、非常に得難い邂逅となり、ジョージ・ロムニーは、彼女にすっかりと魅せられた。こうして、彼女は、ジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神とも言える存在となっていった。


1786年、エマ・ハートは、ナポリ(Naples)へと向かい、チャールズ・フランシス・グレヴィルの叔父で、英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人となる。当時、チャールズ・フランシス・グレヴィルは、裕福な妻を見つけて、正式な結婚をしようと考えており、彼女を叔父のサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの愛人とさせて、叔父の再婚を阻止するとともに、自分も彼女を厄介払いしようとしたのである。

エマ・ハートにすっかり魅了されたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンは、彼女と正式に結婚することを決める。英国に一時帰国した彼女(26歳)は、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとの結婚(1791年9月6日)後、ナポリへと戻る。


サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、ナポリ王妃のマリア・カロリーナ・ダスブルゴ(Maria Carolina d’Asburgo:1752年ー1814年)と親密な友人関係を結ぶ。

なお、マリア・カロリーナ・ダスブルゴは、後のルイ16世と結婚して、フランス王妃となるマリー=アントワネット=ジョセフ=ジャンヌ・ド・アプスブール=ロレーヌ(Marie-Antoinette- Josephe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine:1755年ー1793年)の姉である。


レディー・エマ・ハミルトンは、直ぐにフランス語やイタリア語を習得して、流暢に話すようになった。

また、彼女は、コヴェントガーデン(Covent Garden)のドルリーレーン劇場(Drury Lane Theatre)で女優業を始め、絵画モデルや舞踏家としても働いた経験があったことに加えて、アマチュアながら歌が非常に上手かったので、ナポリ公使邸において、多くの王族、貴族、芸術家や作家達を楽しませた。彼女のゲストの中には、ドイツを代表する文豪であるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johan Wolfgang von Goethe:1749年ー1832年 → 2017年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)も含まれる。彼女の歌唱力は素晴らしかったため、一時、マドリッド(Madrid)のオペラハウスから出演を要請される位だった。


フランクフルトのゲーテ博物館(Goethe Haus / Goethe Museum
→ 2017年11月18日 / 11月25日付ブログで紹介済)内に展示されている
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの肖像画アップ
<筆者撮影>


そして、1793年に入り、レディー・エマ・ハミルトンの運命は、動き出す。


1793年9月10日、後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)が、ナポリを訪れる。トゥーロン攻囲戦(Siege of Toulon:1793年9月18日ー同年12月18日)でフランス共和国軍を攻撃するため、特使として援軍を求めて、ナポリへやって来たのである。

レディー・エマ・ハミルトンは、ナポリ公使夫人として、ホレーショ・ネルソンを歓迎。ホレーショ・ネルソンは、5日後の1793年9月15日にナポリを離れるが、この時点で、彼は彼女に対して恋愛感情を既に抱いていたようである。


トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar → 2022年4月18日 / 4月24日付ブログで紹介済)における
英国勝利を伝える新聞(タイムズ紙)とホレーショ・ネルソン提督 -
地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の
ベイカールーライン(Bakerloo Line)のプラットフォームの壁に描かれている。
<筆者撮影>


レディー・エマ・ハミルトンは、1786年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの愛人となり、1791年に正式な妻となっていたが、2人の間には、まだ子供が居なかった。

子供を熱望をしていたレディー・エマ・ハミルトンは、夫のサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンに対して、彼女が1780年(15歳)に第2代準男爵サー・ヘンリー・フェザーストノー(Sir Henry Fetherstonhaugh, 2nd Baronet:1754年ー1846年)の愛人として産んだ娘エマ・カルー(Emma Carew)を、自分の母親の姪として、ナポリへ呼び寄せることを要望するが、残念ながら、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンは、これを認めなかった。


その結果、5年後の1798年9月22日、ホレーショ・ネルソンがナポリを再訪した際、事態は大きく動き出したのである。


         

2026年6月26日金曜日

メアリー女王の庭園 - 薔薇園(Queen Mary's Gardens - Rose Gardens)- その2

Rosa - Keep on Smiling(その1)
<筆者撮影>

メアリー女王の庭園(Queen Mary's Gardens → 2026年5月4日 / 5月10日 / 5月15日付ブログで紹介済)内にある薔薇園(Rose Gardens)において、主だった薔薇の写真を撮ってきたので、3回に分けて、御紹介したい。今回は、その2つ目です。なお、品種によっては、最盛期を過ぎている薔薇があるが、御容赦願います。

Rosa - Emily Bronte
<筆者撮影>

Rosa - Eternity
<筆者撮影>

Rosa - Free Spirit
<筆者撮影>

Rosa - Garden Glory
<筆者撮影>

Rosa - Happy Birthday
<筆者撮影>

Rosa - Heartfelt Thanks
<筆者撮影>

Rosa - Iceberg
<筆者撮影>

Rosa - Keep on Smiling(その2)
<筆者撮影>

Rosa - Lucky
<筆者撮影>

2026年6月25日木曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その36A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「満潮に乗って」ペーパーバック版の表紙 -
第二次世界大戦(1939年ー1945年)中の1944年春、
ドイツ軍によるロンドン大空襲により破壊された
大富豪ゴードン・クロードの屋敷の窓ガラスを
イメージしているものと思われる。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(82)宿屋「スタッグ」(The Stag Inn)



ジグソーパズルの右下に設置されているガラスケース内の後列左端に、宿屋「スタッグ」の模型が置かれている。


(83)大理石の暖炉(marble fireplace)



ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)の左斜め後ろで、両腕を胸の前で組んだアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings → 2025年10月12日付ブログで紹介済)が凭れ掛かっているのが、大理石の暖炉である。


これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1948年に発表した「満潮に乗って(Taken at the Flood)」である。

「満潮に乗って」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第38作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第23作目に該っている。


なお、「満潮に乗って」の場合、1948年3月に米国で出版された際、「There Is a Tide」と言うタイトルが使用されたが、同年11月に英国で出版された際には、「Taken at the Flood」と言うオリジナルのタイトルへ戻された。


随分前に妻を亡くし、子供も居ない大富豪ゴードン・クロード(Gordon Cloade)は、クロード一族の生活を支えており、一族全員が彼の庇護下にあった。

そんなゴードン・クロードであったが、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中の1944年春、ニューヨークへ向かう船上で出会った若い未亡人であるロザリーン・アンダーヘイ(Rosaleen Underhay)と突然再婚する。

再婚したロザリーンを伴い、ゴードン・クロードがロンドンに戻って来たが、その数日後、ドイツ軍によるロンドン大空襲を受けて、ゴードン・クロードは死亡。再婚相手のロザリーンと彼女の兄であるディヴィッド・ハンター(David Hunter)の2人は、辛くも難を逃れた。

ゴードン・クロードは、ロンドンに戻って来た時点で、新たな遺言書を作成していなかったものの、再婚により、以前に作成した彼の遺言書は無効となり、彼の財産は、全て、またもや未亡人となったロザリーン・クロード(Rosaleen Cloade)が相続することになった。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


その数日後、ドイツ軍によるロンドン大空襲が再度あり、エルキュール・ポワロは、クラブに居た面々と一緒に、地下シェルターへと避難する。

その地下シェルターにおいて、ポワロは、ポーター少佐(Major Porter)から、アフリカに居る友人のロバート・アンダーヘイ(Robert Underhay)の話を聞く。

ポーター少佐は、ポワロに対して、


*ロバート・アンダーヘイは、不幸な結婚をしたこと

*ロバート・アンダーヘイの妻であるロザリーンは、その後、大富豪であるゴードン・クロードと再婚したが、先日のロンドン大空襲の際、ゴードン・クロードが亡くなったこと

*ロザリーンの最初の夫であるロバート・アンダーヘイは、まだ死んでいないかもしれないこと


等を語った。


          

2026年6月24日水曜日

メアリー女王の庭園 - 薔薇園(Queen Mary's Gardens - Rose Gardens)- その1

メアリー女王の庭園(Queen Mary's Gardens → 2026年5月4日 / 5月10日 / 5月15日付ブログで紹介済)内にある薔薇園(Rose Gardens)において、主だった薔薇の写真を撮ってきたので、3回に分けて、御紹介したい。なお、品種によっては、最盛期を過ぎている薔薇があるが、御容赦願います。 


Rosa - All My Loving
<筆者撮影>

Rosa - Big Purple
<筆者撮影>

Rosa - Celebration
<筆者撮影>

Rosa - Celsiana
<筆者撮影>

Rosa - Champagne Moments
<筆者撮影>

Rosa - Claret
<筆者撮影>

Rosa - Desdemona
<筆者撮影>

Rosa - Doris Day
<筆者撮影>

Rosa - Ebb Tide
<筆者撮影>

Rosa - Elizabeth
<筆者撮影>