2026年3月28日土曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その27B

英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作「ナイルに死す」の
ペーパーバック版の表紙 -

表紙が、スカラベ(甲虫類のコガネムシ科タマオシコガネ属の属名、

および、その語源となった古代エジプト語)の形に切り取られている。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1937年に発表した「ナイルに死す(Death on the Nile → 2020年10月4日付ブログで紹介済)」は、彼女が執筆した長編としては、第22作目に、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第15作目に該っている。


弱冠20歳のリネット・リッジウェイ(Linnet Ridgeway)は、英国で最も裕福な女性だった。ある日、学生時代の古い友人であるジャクリーン・ド・ベルフォール(Jacqueline De Bellefort)が彼女に電話を架けてきた。

ジャクリーン(通称:ジャッキー(Jackie))の家族が2年前に破産してしまい、それ以来、彼女は辛い日々を送っていた。それに加えて、今度は、彼女の婚約者であるサイモン・ドイル(Simon Doyle)が失業してしまったのである。

ジャッキーは、リネットに対して、サイモンをリネットが住む屋敷の管理人にしてほしいと頼み込んだ。「私、サイモンと結婚できなければ、死んでしまうわ!(If I don’t marry him, I’ll die!)」と。ジャッキーの懇願に根負けしたリネットは、ジャッキーに対して、「面接をするので、あなたの恋人(サイモン)を私の屋敷に連れて来て。」と答えた。

翌日、ジャッキーは、サイモンを連れて、リネットの屋敷へと向かった。ジャッキーによる紹介を受けて、リネットとサイモンはお互いに見つめ合い、リネットは、その場でサイモンを自分の屋敷の管理人として採用することを決める。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


そして、場面は変わり、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)は、エジプトで休暇を楽しんでいた。

彼が、アスワン(Aswan)で知り合った若い女性のロザリー・オッタボーン(Rosalie Otterbourne)と一緒に、ナイル河沿いを散歩していると、ルクソールから到着した大型汽船から、あるカップルが降りてくる。それは、リネット・リッジウェイとサイモン・ドイルの二人であった。ロザリーによると、二人が最近結婚したことが新聞に載っていた、とのこと。

ポワロは、リネットの目の下のくまと、そして、指の関節が白くなる程に、彼女が日傘を強く握りしめていたことから、彼女が何かに非常に困っているに違いないと感じるのであった。


夕闇が迫るホテルのテラスにおいて、リネットとサイモンが過ごしていると、回転ドアが廻り、ワインカラーのドレスを着た女性がゆっくりとテラスを横切って、リネットの視線の先に座る。それは、サイモンの元婚約者のジャッキーだった。

この出来事にひどく動揺したりネットは、その晩、ポワロに相談を持ちかける。リネットは、ジャッキーが、新婚の彼女とサイモンの二人が行くところ、ずーっとつきまとっているのだ、と言う。彼女によると、新婚旅行先のヴェネツィア(Venice)から始まり、ブリンジジ(Brindisi)、カイロ(Cairo)、そして、アスワンまで続いているらしい。


ジャッキーによるつきまといから逃れるために、リネットとサイモンの二人は、ある計画を立てた。自分達の周囲の人達には、アスワンにこのまま滞在する予定と話しておいて、実際には、二人は、ナイル河の遊覧に参加することにしたのである。ポワロも、リネットとサイモンの二人が乗る汽船で、ナイル河を遊覧することになった。


ナイル河の遊覧船への乗船を無事済ませ、ホッと安心して船室から出てきたリネットとサイモンの二人であったが、そこに笑い声が聞こえてくる。リネットが驚いて振り返ると、そこには、ジャッキーが立っていた。呆然自失となるリネットと怒りを隠せないサイモンの二人。


ナイル河の遊覧船がアブ・シンベル(Abu Simbel)に寄港した際、同神殿において、リネットに目掛け、大岩が落下する事故が発生するが、彼女は辛くも難を逃れる。彼女に向けて大岩を落としたのは、ジャッキーではないかと疑われたが、彼女にはアリバイがあったため、真相は有耶無耶となってしまう。

こうして、船内の緊張が限界まで高まり、ナイル河の遊覧船が折り返し地点である最奥の寄港地ワジ・ハルファ(Wadi Halfa)に着いた際、ある悲劇が発生するのであった。


(59)ナイル河の遊覧船(クルーズ船)(cruise down the Nile)



ナイル河の遊覧船の「カルナック号(Karnak)」が、本作品における事件の舞台となる。


(60)真珠のネックレス (pearl necklace)



船内のラウンジにおいて泥酔したジャッキーがサイモンに詰め寄り、その後、激した彼女が隠し持っていた拳銃で彼の脚を撃ってしまう事件が発生する。

その翌朝、リネットが自室で頭を撃たれて死んでいるのが発見された。リネットの殺害現場から、彼女が持っていた非常に高価な真珠のネックレスが盗まれていることが判明する。


(61)銃座に真珠の装飾が施された拳銃(pearl-handed pistol)



ナイル河から見つかったジャッキーの拳銃は、2発発射された痕があり、1発は、ジャッキーがサイモンの脚に向けて撃ち、もう1発は、何者かが自室で眠るリネットの頭に向けて撃ったものと考えられた。


(62)赤いマニキュア液(red nail varnish)



リネットを殺害した真犯人は、自分が本当に撃たれたように見せかけるために、赤いマニキュア液を使って、出血しているような演出を行った。


(63)ヴェルヴェット(ビロード)の肩掛け(velvet stole)



ナイル河から見つかったジャッキーの拳銃は、米国の大富豪の貴婦人であるマリー・ヴァン・スカイラー(Marie Van Schuyler)が「無くした。」と言っていたヴェルヴェットの肩掛けに包まれていた。


(64)アブ・シンベル神殿(Temple of Abu Simbel)



アブ・シンベル神殿の観光中、大岩がリネットに目掛けて落下する事故が起きたものの、幸いにして、彼女に怪我はなかった。他の皆は、ジャッキーの仕業だと疑ったが、彼女にはアリバイがあり、真相は分からず終いとなってしまう。


          

2026年3月27日金曜日

ワット・タイラーの乱(Wat Tyler’s Rebellion)

セントバーソロミュー病院の外壁に設置されている
ワット・タイラーの乱の慰霊碑(その1)
<筆者撮影>


ウェストスミスフィールド(West Smithfield)に面して建つセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)の外壁には、サー・ウィリアム・ウォレス(Sir William Wallace:1270年頃ー1305年 → 2026年3月24日付ブログで紹介済)の慰霊碑の他に、「農民反乱(Peasant’s Revolt)」を起こした後。同地で刺殺されたワット・タイラー(Wat Tyler:?ー1381年)の慰霊碑も設置されている。


セントバーソロミュー病院の外壁に設置されている
ワット・タイラーの乱の慰霊碑(その2)
<筆者撮影>


プランタジネット朝(House of Plantagenet)最後のイングランド王であるリチャード2世(Richard II:1367年ー1400年 在位期間:1377年ー1399年)は、1378年と1380年の2回、百年戦争(Hundred Year’s War:1337年ー1453年 → フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国とプランタジネット朝 / ランカスター朝イングランド王国の戦い)でフランスに奪われた元イングランド地域の奪還を目指して、欧州大陸へと遠征したものの、目的を達することができなかった。2回にわたる大陸遠征により、膨大な戦費調達が必要となったリチャード2世は人頭税の導入を図る。


セントバーソロミュー病院の外壁に設置されている
ワット・タイラーの乱の慰霊碑(その3)
<筆者撮影>


ただし、この人頭税が、上層階級に対しては軽く、逆に下層階級に対しては重い税制だったため、1381年6月、増税に反対する下層階級の農民や労働者が反乱を起こす。

屋根瓦職人のワット・タイラー(Wat Tyler:?ー1381年)が、神父のジョン・ボール(John Ball:1338年頃ー1381年)と共に、この反乱に指導者として加わると、勢いを得た反乱軍は、カンタベリー(Cantebury)を占拠した後、ロンドン郊外、続いて、ロンドン市内へと侵入し、カンタベリー大司教や政府の幹部だった財務長官のロバート・イルズと尚書部長官のサイモン・サドベリーを殺害したのである。


セントバーソロミュー病院の外壁に設置されている
ワット・タイラーの乱の慰霊碑(その4)
<筆者撮影>


これが、「ワット・タイラーの乱(Wat Tyler’s Rebellion)」、または、「農民反乱」と呼ばれている。


セントバーソロミュー病院の外壁に設置されている
ワット・タイラーの乱の慰霊碑(その5)
<筆者撮影>


なお、ワット・タイラーの半生について、判っていることが非常に少なく、出生時の名前は「ウォルター(Walter)」とされているが、姓に関しては不明で、屋根瓦職人(roof tiler)であったことから、「Tyler」の姓が付けられたものと考えられている。


スミスフィールドマーケット(Smithfield Market)側からギルトスパーストリートを望む –
ここからギルトスパーストリートの北側が始まる。
<筆者撮影>



リチャード2世率いる国王軍は、ウェストスミスフィールドへと至る今のギルトスパーストリート(Giltspur Street → 2018年6月9日 / 6月16日 / 6月23日+2026年2月1日付ブログで紹介済)がある辺りで、ワット・タイラー達が率いる反乱軍を出迎え、同年6月14日、1回目の交渉が行われ、リチャード2世は、ワット・タイラー達に対して、農民や労働者の要求を保証すると回答した。


1381年6月15日に行われた2回目の交渉時、
ワット・タイラーに斬りつけたロンドン市長のウィリアム・ウォルワースの像 -
ホルボーン高架橋(Holborn Viaduct
→ 2018年5月27日 / 6月2日付ブログで紹介済)に設置されている。
<筆者撮影>


ところが、翌日の同年6月15日、2回目の交渉が行われている最中、当時のロンドン市長(Lord Mayor of the City of London / Lord Mayor of London)だったウィリアム・ウォルワース(William Walworth:?ー1385年)によって、ワット・タイラーは突然斬り付けられた。ワット・タイラーは近くにあるセントバーソロミュー教会(St. Bartholomew the Great Church - 現在のセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great → 2026年2月15日 / 2月17日 / 2月22日付ブログで紹介済))へ難を逃れようとしたものの、そのまま殺害されてしまったのである。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の
建物正面(西側)を見たところ
<筆者撮影>


ワット・タイラーと言う重要な指導者の一人を失った農民反乱軍も、リチャード2世率いる国王軍によって鎮圧されてしまった。 


         

2026年3月26日木曜日

ロンドン ケンブリッジストリート32番地(32 Cambridge Street)

オーブリー・ビアズリーが1888年にブライトンの初等中学校を卒業した後、

ビアズリー一家が移り住んだケンブリッジストリート32番地の建物正面(その1)

<筆者撮影>


アイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、シャーロック・ホームズシリーズの作者サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)の友人でもあったオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)による一幕物の悲劇である戯曲「サロメ(Salome → 2026年3月11日 / 3月12日付ブログで紹介済)」は、1891年にフランス語で執筆されて、1893年にパリで出版された。

同戯曲の英訳版は、1894年に出版されているが、当時、オスカー・ワイルドの同性の恋人だった第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ショルト・ダグラス(John Sholto Douglas, 9th Marquess of Queensberry:1844年ー1900年)の三男で、作家 / 詩人 / 翻訳家のロード・アルフレッド・ブルース・ダグラス(Lord Alfred Bruce Douglas:1870年ー1945年)が英訳を行ったものの、出来が悪かったため、オスカー・ワイルド自身が、その英訳を修正している。

同戯曲の英訳版には、英国のイラストレーター / 詩人 / 小説家であるオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)による挿画が使用されている。



ヴィクトリア朝時代の世紀末美術を代表するオーブリー・ビアズリーは、1872年8月21日、父ヴィンセント・ポール・ビアズリー(Vincent Paul Beadsley:1839年-1909年)と母エレン・アグナス・ピット(Ellen Agnus Pitt:1846年ー1932年)の長男として、イングランド南部のサセックス州(Sussex)ブライトン(Brighton)に出生。

彼の1歳上には、後に女優となる姉のメイベル・ビアズリー(Mable Beardsley:1871年ー1916年)が居た。


ヒューストリート側(北側)からケンブリッジストリートを眺めたところ -

オーブリー・ビアズリーが1888年にブライトンの初等中学校を卒業した後、

ビアズリー一家が移り住んだケンブリッジストリート32番地の建物は、

画面右側に建っている。

<筆者撮影>


オーブリー・ビアズリーは、父方から工芸家としての器用さを受け継ぎ、また、母方から芸術に対する洗練された趣味を受け継いだ。

肺結核(tuberculosis)のため、稼ぎがなかった父ヴィンセントに代わり、母エレンが、音楽教師として働いて、オーブリー・ビアズリーに文学や音楽の本格的な教育を施した。


ケンブリッジストリート32番地の建物の反対側の歩道から

ヒューストリート方面(北西側)を眺めたところ

<筆者撮影>


オーブリー・ビアズリーは、1878年、ブライトン近郊の寄宿学校ハミルトンロッジ(Hamilton Lodge)に入学して、絵を描き始めるが、1879年に肺結核の兆候が出てきたため、1881年にハミルトンロッジを退学。

彼の治療のため、同年(1881年)、ビアズリー一家は、ロンドン 南郊のエプソム(Epsom)へ転居、更に、1883年にロンドンへ移住するが、1884年に、再びブライトンに戻る。


ケンブリッジストリート32番地の建物の反対側の歩道から

ウォーリックウェイ方面(南東側)を眺めたところ

<筆者撮影>


オーブリー・ビアズリーは、1885年1月に地元の初等中学校(Brighton, Hove and Sussex Grammar School)に入学し、母方の大伯母による学費援助を受けながら、4年間の勉学を修めて、1888年に同初等中学校を卒業。

その後、ビアズリー一家は、ロンドンへと移り住み、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)ピムリコ地区(Pimlico)内にあるケンブリッジストリート32番地(32 Cambridge Street)に居を構えた。


オーブリー・ビアズリーが1888年にブライトンの初等中学校を卒業した後、

ビアズリー一家が移り住んだケンブリッジストリート32番地の建物正面(その2)

<筆者撮影>


ケンブリッジストリート32番地は、地下鉄ヴィクトリアライン(Victoria Line)が停まる地下鉄ピムリコ駅(Pimlico Tube Station)とヴィクトリア駅(Victoria Station → 2015年6月13日付ブログで紹介済)の間に所在している。

ケンブリッジストリート(Cambridge Street)の南側は、地下鉄ピムリコ駅から西へ延びるルプスストリート(Lupus Street)から始まり、北西に延びて、その北側は、ヴィクトリア駅の東側を走るヒューストリート(Hugh Street)にぶつかって終わっている。

ヒューストリートの北側は、ヴィクトリア駅から南側に延びる線路となっている。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ピムリコ地区の地図を抜粋。

ケンブリッジストリート32番地は、北側のヒューストリートと南側のウォーリックウェイ(Warwick Way)に挟まれたケンブリッジストリートの丁度中間辺りの西側に建っている。

ヴィクトリア駅に近い関係上、通勤 / 通学や旅行等に非常に便利ではあるものの、生活環境としては、若干劣っていると言える。

ケンブリッジストリート沿いで言うと、ウォーリックウェイを越えて、更に南へ下った場所の方が、生活環境としては、かなり上だと思われる。


オーブリー・ビアズリーが1888年にブライトンの初等中学校を卒業した後、

ビアズリー一家が移り住んだケンブリッジストリート32番地の建物正面(その3)

<筆者撮影>


オーブリー・ビアズリーが後に自分で購入したケンブリッジストリート114番地(114 Cambridge Street)の建物の外壁に、ブループラークが掛けられている(ブループラークは、一個人一つに限定されている)ため、ケンブリッジストリート32番地の建物の外壁には、ブループラークが掛けられていない。


2026年3月25日水曜日

コナン・ドイル作「唇のねじれた男」<小説版>(The Man with the Twisted Lip by Conan Doyle )- その1

英国で出版された「ストランドマガジン」
1891年12月号に掲載された挿絵(その1) -

1889年6月のある夜、
妻の友人であるケイト・ホイットニーからの依頼を受けて、
彼女の夫アイザ・ホイットニーを連れ戻すために、
単身アヘン窟を訪れたジョン・H・ワトスンは、
首尾よくアイザ・ホイットニーを見つけた。
すると、そこには、老人に変装していたシャーロック・ホームズも居て、
ワトスンは、ホームズから、事件が起きていることを聞かされる。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、カーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で、1942年に発表したヘンリー・メルヴェール卿(Sir Henry Merrivale)を探偵役とするシリーズ長編第13作目に該る「仮面荘の怪事件(東京創元社)/ メッキの神像(早川書房)(The Gilded Man → 2026年2月23日 / 3月10日付ブログで紹介済)」の場合、1938年12月29日(木)、ケント州(Kent)のロイヤルタンブリッジウェルズ(Royal Tunbridge Wells → 2023年6月18日付ブログで紹介済)近くにある「仮面荘(Mask House)」と呼ばれるワルドミア荘(Waldemere)が、事件の舞台となる。


東京創元社から、創元推理文庫の一冊として出版されている
カーター・ディクスン作「仮面荘の怪事件」の表紙
(カバー : 村山 潤一) -
「仮面荘」と呼ばれる富豪ドワイト・スタンホープの
別邸ワルドミア荘内に陳列されている名画を盗むために
侵入した覆面の泥棒が描かれている。


「仮面荘」と呼ばれる広壮な屋敷ワルドミア荘は、美術評論家 / 名画蒐集家である富豪のドワイト・スタンホープ(Dwight Stanhope)の別邸で、後妻のクリスタベル(Christabel / 元女優)、先妻との娘であるエリナー(Eleanor)と後妻との娘であるベティー(Betty)と一緒に住んでいた。


屋敷内に、ドワイト・スタンホープは、


(a)エル・グレコ(El Greco:1541年ー1614年 / 現在のギリシア領クレタ島出身の画家で、スペインで活動)作「池」

(b)ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルヴァ・イ・ヴェラスケス(Diego Rodriguez de Silva y Velazquez:1599年ー1660年 / バロック期のスペインの画家)作「チャールズ4世」

(c)バルトロイ・エステバン・ペレス・ムリーリョ(Bartolome Esteban Perez Murillo:1617年ー1682年 / バロック期のスペインの画家)作「ゴルゴダの丘」

(d)フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco Jose de Goya y Lucientes:1746年ー1828年 / スペインの画家)作「若い魔女」


の絵画を所蔵しており、これら4枚は、莫大な値打ちを持つ名画だった。

ドワイト・スタンホープは、元々、これら4枚の名画を盗難避けの警報装置付きのギャラリーに保管していたが、何故か、階下の庭に面した食堂の壁に移動させたのである。食堂から、フランス窓経由、容易に庭へ出ることができた。

更に、不思議なことに、ドワイト・スタンホープは、これら4枚の名画に対して掛けていた保険をキャンセルしてしまった。

まるで、ドワイト・スタンホープは、盗みに入られることを待っているかのようだった。


にもかかわらず、ドワイト・スタンホープは、友人である副総監経由、スコットランドヤードに依頼して、内々で犯罪捜査部(C. I. D.)のニコラス・ウッド警部(Inspector Nicholas Wood) を派遣してもらい、新年パーティーの招待客の一人として、ワルドミア荘内に張り込ませていた。

上記の通り、ドワイト・スタンホープの行動には、全く一貫性がなかった。果たして、彼は何を考えているのか?


そして、12月30日(金))の真夜中、正確に言うと、12月31日(土)の午前3時過ぎ、夜盗が現れた。フランス窓のガラスを切り取り、開けると、食堂へと侵入。壁に掛かった額縁からエル・グレコ作「池」を外すと、持参したペンナイフでキャンバスからフレームを切り離しにかかった。その作業に熱中するあまり、夜盗は、室内にもう一人の人物が居ることに少しも気付かなかった。


金属製の物体が転げ落ちる音を聞いた皆が2階から階下の食堂へ駆け付けると、銀の食器類が散乱する中、食器棚(サイドボード)の側に、夜盗が仰向けに倒れていた。食器棚の中にあった果物鉢の果物ナイフで、胸の辺りを刺されて、瀕死の状態だった。凶器の果物ナイフは、夜盗の左足の近くの絨毯の上に放り出されていた。

ニコラス・ウッド警部が夜盗の側へ歩み寄り、鳥打ち帽を脱がせ、冠っていた黒布のマスクを外したところ、なんと、夜盗の正体は、ワルドミア荘の主人であるドワイト・スタンホープだった。彼自身の別邸に所蔵されている名画を盗み出す最中に、胸を刺されて瀕死の状態と言う奇怪な様相を呈していた。


物語中、ドワイト・スタンホープの後妻クリスタベルとヘンリー・メルヴェール卿の間で、以下のような会話が為される。


「ドワイト本人と話ができればいいんですが!」クリスタベルが無念そうにいった。「いつ、そうできるようになるかしら?」

H・Mは背をかがめた。「わからんな、マダム。明日かもしれん。目下、鎮静剤がきいているのでな。ドクター・クレメンツから話があっただろうが、こういう内出血の症状はむずかしい。検死解剖をちゃんとやれば、そのものずばりの診断ができるだろう。しかし、あの気の毒な男を生かしておきたければ、とてもそうするわけにはいかん」

「そして明日までには」とクリスタベルが皮肉った。「ドワイトがチャールズ・ピースかブロディー助祭(エディンバラの市会議員でもあったが、陰では盗賊団の首領だった)か<唇のねじれた男>かだという噂がそこらじゅうに広がるでしょう」

<厚木 淳 訳>


ドワイト・スタンホープの後妻クリスタベルが言及した「唇のねじれた男(The Man with the Twisted Lip)」は、サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)が発表したシャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、6番目に発表された作品で、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1891年12月号に掲載された。

同作品は、ホームズシリーズの第1短編集である「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1892年)に収録されている。


「唇のねじれた男」の場合、1889年6月のある夜、(結婚して、妻と暮らしている)ジョン・H・ワトスンの元を、妻の友人であるケイト・ホイットニー(Kate Whitney)が訪れるところから、その物語が始まる。

彼女は、ワトスンに対して、「夫のアイザ・ホイットニー(Isa Whitney)が、2日前にアヘン窟(opium den)へ行ったきり、戻って来ていない。彼をなんとか連れ帰ってほしい。」と懇願した。

悲嘆に暮れた彼女の依頼を応じて、アイザ・ホイットニーを連れ戻すべく、ワトスンは単身でアヘン窟へと向かうのであった。


2026年3月24日火曜日

サー・ウィリアム・ウォレス(Sir William Wallace)

セントバーソロミュー病院の外壁に設置されている
サー・ウィリアム・ウォレスの慰霊碑(その1)
<筆者撮影>

シティー・オブ・ロンドン(City of London → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)を防衛するために築かれたロンドンウォール(London Wall)にあった7つの門の一つで、ローマ時代に遡る6つの門の一つでもあるニューゲート(New Gate)の直ぐ外側にある広大な放牧地だったウェストスミスフィールド(West Smithfield)は、12世紀頃から、馬の販売所として知られていた。


12世紀に入ると、ニューゲートは、殺人や強盗等の重罪人を収容するニューゲート監獄(Newgate Prison)の一部として使用されたが、1666年9月に発生したロンドン大火(Great Fire of London → 2018年9月8日 / 9月15日 / 9月22日 / 9月29日付ブログで紹介済)によって焼失した。その後、再建されたものの、ニューゲートは1767年に、また、ニューゲート監獄は1777年に取り壊されてしまう。


中央刑事裁判所の建物上部全景
<筆者撮影>


ニューゲート監獄の跡地に建つ中央刑事裁判所(Central Criminal Court → 2016年1月17日付ブログで紹介済)のニューゲートストリート側に面している建物外壁には、「1777年に取り壊されたニューゲート監獄が建っていた場所である(Site of Newgate Demonlished 1777)」ことを示すブループラークが掛けられている。


中央刑事裁判所の建物外壁(北側)には、「ここに建っていたニューゲート監獄が
1777年に取り壊された」ことを示すプラークが設置されている。
<筆者撮影>


ニューゲートがニューゲート監獄の一部として使用された経緯もあり、ウェストスミスフィールドにおいて、騎士の決闘の他に、重罪人の公開処刑も頻繁に行われていた。


その関係で、ウェストスミスフィールドに面して建つセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)の外壁に、サー・ウィリアム・ウォレス(Sir William Wallace:1270年頃ー1305年)の慰霊碑が設置されている。


セントバーソロミュー病院の外壁に設置されている
サー・ウィリアム・ウォレスの慰霊碑(その2)
<筆者撮影>

サー・ウィリアム・ウォレスは、スコットランドの愛国者 / 騎士 / 軍事指導者であるが、彼の出自や前半生については、ほぼ不明で、伝承が多いため、確証できていない。


ウィリアム・ウォレスは、1290年代後半に、プランタジネット朝(House of Plantagenet)の第5代イングランド国王であるエドワード1世(1239年ー1307年 在位期間:1272年ー1307年)による過酷なスコットランド支配に対して、抵抗運動を始め、スコットランド民衆の国民感情を鼓舞した。

そして、彼は、1297年9月11日、スターリングブリッジの戦い(Battle of Stirling Bridge)において、スコットランド総督である第6代サリー伯爵ジョン・ド・ワーレン率いるイングランド軍と交戦して、勝利を収め、この戦功により、スコットランド守護官(Guardian of Scotland)に任じられる。

これ以降、彼は「サー・ウィリアム・ウォレス」と呼ばれるようになった。


しかし、サー・ウィリアム・ウォレスの破竹の勢いも長くは続かず、約1年後の1298年7月22日、フォルカークの戦い(Battle of Falkirk)において、エドワード1世率いるイングランド軍に敗れたことに伴い、スコットランド守護官の職を辞す。

その後も、彼はフランスやローマ教皇を訪問して、エドワード1世に対する抵抗運動への援助を求める交渉を行なったが、エドワード1世は、1300年以降、スコットランド侵攻を何度も行い、1303年5月、遂にスコットランド制圧に成功。


セントバーソロミュー病院の外壁に設置されている
サー・ウィリアム・ウォレスの慰霊碑(その3)
<筆者撮影>

スコットランドに帰国したサー・ウィリアム・ウォレスは、かつての部下だったダンバートン(Dumbarton)総督のサー・ジョン・ド・メンティス(Sir John Menteith:1275年ー1329年)の裏切りにあって、1305年8月5日、イングランド軍に引き渡される。

同年8月22日にロンドンへ護送されたサー・ウィリアム・ウォレスは、翌日の8月23日、ウェストミンスター宮殿(Palace of Westminster)のウェストミンスターホール(Westminster Hall)へ連行され、エドワード1世への大逆罪にかかる裁判に付された。

裁判において有罪判決が下ったサー・ウィリアム・ウォレスは、同日、ウェストスミスフィールドの処刑場までの約8㎞の道を引き摺られていき、到着後、首吊り / 内蔵抉り / 四つ裂きと言う残虐刑で処刑された。


彼の首はロンドン橋(London Bridge)に串刺しとなり、四つに引き裂かれたhあ、ニューカッスル・アポン・タイン(Newcastle upon Tyne)/ ベリック=アポン=ツィード(Berwick-pon-Tweed)/ パース(Perth)/ アバディーン(Aberdeen)で晒しものにされた。


英国のロイヤルメールから2002年9月10日に発行された
記念切手「ロンドンの橋」のうちの
1枚である「ロンドン橋」


イングランドのエドワード1世は、サー・ウィリアム・ウォレスを残虐刑に処すことで、スコットランドの抵抗運動を抑えつけようとした。

しかしながら、エドワード1世の計画は成功せず、逆にスコットランドの国民感情を駆り立てることになり、その結果、イングランドによるスコットランド支配は崩壊へと向かったのである。


当時、スコットランドに国家や国民と言った概念がほとんどない中、スコットランド人を愛国精神で導いたサー・ウィリアム・ウォレスは、スコットランドでは、今も英雄視されている。


2026年3月23日月曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その27A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「ナイルに死す」ペーパーバック版の表紙 -
本作品の事件の舞台となるカルナック号(Karnak)が、
ナイル河を遊覧する場面が描かれている。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(59)ナイル河の遊覧船(クルーズ船)(cruise down the Nile)



ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot 2025年10月11日付ブログで紹介済)から右真横へ移動した位置に居る執事のジョージ(George → 2025年10月23日付ブログで紹介済)の左側にある柱の一番上(回廊と同じ高さの場所)に、ナイル河の遊覧船(クルーズ船)の絵が掛けられている。


(60)真珠のネックレス (pearl necklace)



ジグソーパズルの下段のやや右手にあるテーブルの上段の真ん中辺り(花瓶の左側)に、真珠のネックレスが置かれている。


(61)銃座に真珠の装飾が施された拳銃(pearl-handed pistol)



ジグソーパズルの中央のやや左側にある暖炉の一番右側にある柱の上に、真珠が銃座に付いた拳銃が置かれている。


(62)赤いマニキュア液(red nail varnish)



ジグソーパズルの下段のやや右手にあるテーブルの上段の真ん中辺り(花瓶の右側)に、赤いマニキュア液が入った瓶が置かれている。


(63)ヴェルヴェット(ビロード)の肩掛け(velvet stole)



ジグソーパズルの下段の一番左手にあるテーブルに寄せられた椅子の背に、ヴェルヴェット(ビロード)の肩掛けが掛けられている。


(64)アブ・シンベル神殿(Temple of Abu Simbel)



ジグソーパズルの右下に設置されているガラスケース内の前列右端に、アブ・シンベル神殿の模型が置かれている。


これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1937年に発表した「ナイルに死す(Death on the Nile → 2020年10月4日付ブログで紹介済)」である。

「ナイルに死す」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第22作目に、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第15作目に該っている。


「ナイルに死す」は、「メソポタミアの殺人(Murder in Mesopotamia → 2020年11月8日付ブログで紹介済)」(1936年)に続く中近東を舞台にした長編第2作目で、中近東シリーズの最高峰でもある。

本作品の後、中近東を舞台にした長編第3作目として、「死との約束(Appointment with Death → 2021年3月13日付ブログで紹介済)」(1938年)が発表されている。


夫アーチボルド・クリスティー(Archibald Christie:1889年ー1962年)の不倫に端を発して、アガサ・クリスティーは、1928年に彼と離婚し、その後、1930年に考古学者で、14歳年下のマックス・エドガー・ルシアン・マローワン(Max Edgar Lucien Mallowan:1904年ー1978年)と再婚。

アガサ・クリスティーは、1933年にマックス・マローワンと一緒に、ナイル河のクルーズ船「スーダン号」に乗船した旅に触発されて、4年後に「ナイルに死す」を書き上げたのである。