2026年7月20日月曜日

ロンドン リッチモンド宮殿(Richmond Palace)- その2

緑地帯「リッチモンドグリーン(Richmond Green)」に面して建つ
リッチモンド宮殿の楼門「ゲイトハウス(Gatehouse)」を下から見上げたところ
<筆者撮影>

英国のファンタジー / SF / 推理作家であるフィリップ・パーサー=ハラード(Philip Purser-Hallard:1971年ー)が、Titan Publishing Group Ltd. から、「シャーロック・ホームズの更なる冒険(The further adventures of Sherlock Holmes)」シリーズとは別シリーズの「シャーロック・ホームズ(Sherlock Holmes)」シリーズの一つとして、2019年に発表した「人間消失(The Vanishing Man → 2026年6月7日 / 6月15日 / 6月21日 / 7月3日付ブログで紹介済)」の場合、1896年9月14日(月)から9月15日(火)にかけて、トマス・ケルウェイ(Thomas Kellway)と名乗る人物が「テレキネシス(Telekinesis)」を使って、物体を移動する実験を、リッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)にあるサー・ニューナム・スペイト(Sir Newham Speight - The Society for the Scientific Investigation of Psychical Phenomena の会長(Chairman))の自宅 Parapluvium House 内に設けれらた実験室で実施した際、衆人環視の中、トマス・ケルウェイが隔離された室内から姿を消してしまうと言う非常に不可思議な事件が発生したため、サー・ニューナム・スペイトは、シャーロック・ホームズに対して、助けを求める。


英国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2019年に出版された
フィリップ・パーサー=ハラード作
「シャーロック・ホームズ:人間消失」の表紙
(Images : Shutterstock)


サー・ニューナム・スペイトの自宅である Parapluvium House が所在したリッチモンドは、ロンドンの特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のリッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)内にあり、テムズ河の中流域に位置して、テムズ河の東岸に広がる高級住宅地である。


リッチモンドの周辺地図 -
Google Maps から抜粋。


リッチモンド に嘗てあったリッチモンド宮殿(Richmond Palace)は、薔薇戦争(Wars of the Roses → 2024年6月18日 / 6月24日 / 6月28日 / 7月2日付ブログで紹介済)の第三次内乱(1485年)に該り、1485年8月22日に行われたボズワースの戦い(Battle of Bosworth)において、ヨーク朝(House of York)の第3代イングランド王であるリチャード3世(Richard III:1452年-1485年 在位期間 1483年ー1485年 → 2023年10月9日 / 2024年6月14日付ブログで紹介済)を破り、テューダー朝(House of Tudor)の初代イングランド王として即位したヘンリー7世(Henry VII:1457年ー1509年 在位期間:1485年ー1509年 → 2024年7月5日付ブログで紹介済)が、同地にあった宮殿(大半が木造建築)が1497年12月23日の火災により焼失したため、翌年の1498年から1501年にかけて建設。

ヘンリー7世は、王位継承前、リッチモンド伯(Earl of Richmond)として知られていたので、それに因んで、新宮殿を「リッチモンド宮殿」と名付けられた。


セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital
→ 2014年6月14日付ブログで紹介済)の
北翼(North Wing → 2025年12月15日 / 12月19日 /
12月21日 / 12月22日付ブログで紹介済)
大広間の最奥の壁に掲げられている
ヘンリー8世の肖像画のアップ
<筆者撮影>


ヘンリー7世が、1509年4月21日、結核のため、リッチモンド 宮殿において、52歳で崩御した後、ヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年 → 2024年7月26日付ブログで紹介済)が、テューダー朝の第2代イングランド王として、後を継いだ。


ケンブリッジ大学創立800周年を記念して、
英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイクが描いた
ヘンリー8世とキングスカレッジ合唱団の絵葉書
<筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum
→ 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入>


ヘンリー8世は、1509年にキャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon:1487年ー1536年 / カスティーリャ女王イザベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の娘)と結婚し、同妃と一緒に、同年のクリスマスから十二夜までの12日間を、リッチモンド宮殿において過ごしている。

キャサリン王妃は、死産、王子を産んだが夭折、そして、流産を繰り返した後、後にテューダー朝の第4代イングランド王メアリー1世(Mary I:1516年ー1558年 在位期間:1553年-1558年)として即位するメアリー王女を1516年に出産するものの、世継ぎとなる嫡出の王子には恵まれなかった。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)で販売されている
メアリー1世の肖像画の葉書
(Master John / 1544年 / Oil on panel
711 mm x 508 mm) 


ヘンリー8世がメアリー王女と母のキャサリン王妃を別居させた後、1531年8月から、リッチモンド 宮殿は、メアリー王女の主な住まいとなる。


現在も残る
リッチモンド宮殿の楼門「ゲイトハウス」を正面から見たところ
<筆者撮影>


メアリー王女は、1533年12月までリッチモンド宮殿に住み続けたが、ヘンリー8世の次女で、生まれたばかりのエリザベス王女(Princess Elizabeth - 後にテューダー朝(House of Tudor)の第5代かつ最後のイングランド王エリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年 → 2023年6月24日 / 7月2日付ブログで紹介済)))の侍女になるよう、ヘンリー8世に命じられて、ハートフォードシャー州(Hertfordshire)のハットフィールドハウス(Hatfield Hose → 2023年6月25日付ブログで紹介済)へと移った。


ナショナルポートレイトギャラリーで販売されている
エリザベス1世の肖像画の葉書
(Unknown English artist / 1600年頃 / Oil on panel
1273 mm x 997 mm) -
エリザベス1世は、王族しか着れない
イタチ科オコジョの毛皮をその身に纏っている。
オコジョの白い冬毛は、「純血」を意味しており、
実際、エリザベス1世は、英国の安定のために、
生涯、誰とも結婚しなかったので、「処女女王」と呼ばれた。
エリザベス1世の」赤毛」と「白塗りの化粧」は、
当時流行したものである。


Hatfield House and gardens by Marcus May (1995年頃)
庭園歴史博物館(Museum of Garden History)で購入した絵葉書 -
中央に建つ建物が、17世紀初めに
初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシルが建設した主館で、
左後方に建つ建物が、
15世紀末に高位聖職者の邸宅として建設されたビショップ館、
そして、両方の館を取り巻く広大な庭園が描かれている。


その後、ヘンリー8世は、1540年に、4番目の妻であるアン・オブ・クレーヴズ(Anne of Cleves)に対して、婚姻無効の合意の一環として、リッチモンド宮殿を与える。


現在、リッチモンド宮殿の楼門「ゲイトハウス」に隣接する部分は、
住居に改装の上、使用されている。
<筆者撮影>


そして、アン・オブ・クレーヴズは、1546年に、ディヴィッド・ヴィンセント(David Vincent:?ー1565年)をリッチモンド宮殿の管理人に指名。なお、ディヴィッド・ヴィンセントは、廷臣として、ヘンリー8世、テューダー朝の第3代イングランド王エドワード6世(Edward VI:1537年ー1553年 在位期間:1547年ー1553年)、メアリー1世、そして、エリザベス1世の4代にわたって仕えた。


2026年7月19日日曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その39A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「ヒッコリーロードの殺人」ペーパーバック版の表紙 -
エルキュール・ポワロの有能な秘書フェリシティー・レモンの姉で、
未亡人のハバード夫人が寮母を務めている
ヒッコリーロード26番地にある学生寮の内部が、表紙に使用されている。
今回は、この学生寮が、事件の舞台になる。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(90)リュックサックの底に隠されて密輸された宝石等(valuables smuggled in rucksacks)



ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)から右真横へ移動した位置に居る執事のジョージ(George → 2025年10月23日付ブログで紹介済)の左足の先の床の上に、リュックサックの底に隠されて密輸された宝石等が落ちている。


(91)ダイヤモンドの指輪が入ったスープ皿(bowl of soup with a ring in it)



ジグソーパズルの下段のやや右側にあるテーブルの右端に、ダイヤモンドの指輪が入ったスープ皿が置かれている。


(92)ルシェルンのライオンの形をした大理石の文鎮(Lion of Lucerne paperweight)



エルキュール・ポワロの執事ジョージの右側にあるテーブルの左端に、ルシェルンのライオンの形をした大理石の文鎮が置かれている。


これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1955年に発表した「ヒッコリーロードの殺人(Hickory Dickory Dock)」である。

「ヒッコリーロードの殺人」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第47作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第26作目に該っている。

なお、「ヒッコリーロードの殺人」の場合、米国版のタイトルは、「Hickory, Dickory, Death」が使用されている。


ミス・フェリシティー・レモンは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立つ
エルキュール・ポワロの左斜め下に居る。

<筆者撮影>


「ヒッコリーロードの殺人」の場合、有能な秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon → 2025年10月15日付ブログで紹介済)がタイプした手紙に、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)が誤字を3つも見つけるところから、その物語が始まる。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


ポワロがミス・レモンに尋ねると、彼女のタイプミスの原因が、彼女の姉で、今はヒッコリーロード26番地(26 Hickory Road)にある学生寮で寮母をしている未亡人のハバード夫人(Mrs. Hubbard)から彼女が相談を受けていたたためであることが判明する。


ミス・レモンによると、姉のハバード夫人が寮母を務めている学生寮では、非常に奇妙なことが連続して発生していたのである。

夜会靴、ブレスレット、聴診器、電球、古いフランネルのズボン、チョコレートが入った箱、硼酸の粉末、浴用塩、料理の本やダイヤモンドの指輪(後に、食事中のスープ皿の中から見つかった)等、全く関連性がないものが次々と紛失していた。更に、それに加えて、ズタズタに切り裂かれた絹のスカーフ、切り刻まれたリュックサック、そして、緑のインクで台無しになった学校のノート等が見つかり、盗難行為だけではなく、野蛮かつ不可解な行為も横行していたのだ。


2026年7月18日土曜日

ロンドン ハイゲイト墓地(Highgate Cemetery)- その4

ハイゲイト墓地東区画にある
英国の著名な批評家 / 歴史家で、英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフの父である
サー・レスリー・スティーヴン
の墓(その1)
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が執筆した長編としては、第6作目に、そして、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)シリーズの長編としては、第3作目に該る「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd → 2023年9月25日 / 10月2日付ブログで紹介済)」において、事件の記録者となる「わたし」こと、キングスアボット村(King's Abbot)に住むジェイムズ・シェパード医師(Dr. James Sheppard)が、村の富豪であるロジャー・アクロイド(Roger Ackroyd)から夕食に招待され、9月17日(金)の午後7時半に、ロジャー・アクロイドが住むフェルンリーパーク館(Fernly Park)を訪れる。会席者を待つ間、ジェイムズ・シェパード医師は、応接間において、ロジャー・アクロイドによる蒐集品の数々を眺めていると、そこへフローラ・アクロイド(Flora Ackroyd - ロジャー・アクロイドの義理の妹で、未亡人のセシル・アクロイド夫人(Mrs. Cecil Ackroyd)の娘)が姿を見せる。


2022年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design by Holly Macdonald /
Illustrations by Shutterstock.com) 


その際に交わされたジェイムズ・シェパード医師とフローラ・アクロイドの会話に出てくる「フロス河の水車場(The Mill on the Floss)」の作者であるジョージ・エリオット(George Eliot → 2025年11月13日+2026年5月20日 / 5月25日 / 5月30日付ブログで紹介済)は、英国の作家である。実は、「ジョージ・エリオット」はペンネームで、本名はメアリー・アン・エヴァンズ(Mary Anne Evans:1819年ー1880年)。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery内で
所蔵 / 展示されているジョージ・エリオット
(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)の肖像画
(By Sir Frederic William Burton / chalk / 1865年 /
514 mm x 381 mm)


メアリー・アン・エヴァンズは、彼女と不倫関係にあった英国の哲学者 / 文芸批評家ジョージ・ヘンリー・ルイス(George Henry Lewes:1817年ー1878年)の名を借りた「ジョージ・エリオット」のペンネームを用いて、1859年に、最初の長編小説となる「アダム・ビード(Adam Bede)」を発表し、1876年には、長編小説第7作目となる「ダニエル・デロンダ(Daniel Deronda)」を出版。

なお、アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」において言及される「フロス河の水車場」は、1860年に発表された長編小説第2作目に該る。


ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)が
1860年に発表した長編小説第2作目
「フロス河の水車場」
<筆者撮影>


ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスは、キリスト教を信仰していなかったことに加えて、ジョージ・ヘンリー・ルイスと長らく不倫関係にあったこともあり、彼女の遺体はウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)に埋葬されず、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のハイゲイト地区(Highgate)内にあるハイゲイト墓地(Highgate Cemetery → 2018年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)の東区画(East Cemetery)に埋葬された。


ハイゲイト墓地東区画にある
ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスの墓(その1)
<筆者撮影>


ハイゲイト墓地東区画にある
ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスの墓(その2)
<筆者撮影>


また、ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスに英国の哲学者 / 文芸批評家であるジョージ・ヘンリー・ルイスを紹介して、恋愛関係になるキッカケを提供した英国の哲学者 / 社会学者 / 倫理学者であるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer:1820年ー1903年 → 2026年6月13日 / 7月8日 / 7月15日付ブログで紹介済)も、ハイゲイト墓地の東区画に埋葬されており、彼の墓はジョージ・エリオットの墓(→ 2026年6月8日付ブログで紹介済)の近くにある。


ハイゲイト墓地東区画にある
ハーバート・スペンサーの墓(その1)-
墓の左側面に、ハーバート・スペンサーが、
1820年4月27日に生まれたことが記されている。

<筆者撮影>


ハイゲイト墓地東区画にある
ハーバート・スペンサーの墓(その2)-
墓の右側面に、ハーバート・スペンサーが、
1903年12月8日に死去したことが記されている。

<筆者撮影>


なお、当時、ジョージ・ヘンリー・ルイスは、アグネス・ジャーヴィス(Agnes Jervis)と結婚して、3人の子供が居る身だったが、メアリー・アン・エヴァンズとジョージ・ヘンリー・ルイスの恋愛関係は、彼が1878年11月30日に亡くなるまで、25年以上続いた。


ハイゲイト墓地東区画にある
英国の著名な批評家 / 歴史家で、英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフの父である
サー・レスリー・スティーヴン
の墓(その2)
<筆者撮影>


奇しくも、英国の著名な批評家 / 歴史家で、英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)の父であるサー・レスリー・スティーヴン(Sir Leslie Stephen:1832年ー1904年)も、ハイゲイト墓地の東区画に埋葬されている。


ハイゲイト墓地東区画にある
英国の著名な批評家 / 歴史家で、英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフの父である
サー・レスリー・スティーヴン
の墓(その3)
<筆者撮影>


サー・レスリー・スティーヴンが埋葬されているのは、ハイゲイト丘を南北に延びるスワインズレーン(Swain’s Lane)の東側に1865年に追加された「東区画」の北端近く(別添の地図で言うと、左下の箇所)である。


ハイゲイト墓地入場時に受け取った東区画の地図から抜粋。


ハイゲイト墓地を拡大するため、1865年にスワインズレーンを間に挟んだ東側が追加で購入され、現在「東区画」と呼ばれる部分が追加された。


ウォーターロウ公園の入口に設置されている案内板
<筆者撮影>

ウォーターロウ公園内の庭園(その1)
<筆者撮影>

ウォーターロウ公園内の庭園(その2)
<筆者撮影>


以前ダートマス公園だった敷地のうち、残った部分は、現在、ウォーターロウ公園(Waterlow Park)となっていて、サー・レスリー・スティーヴンが埋葬されている墓の背後にある境界線の向こう側は、ウォーターロウ公園が広がっている。


2026年7月17日金曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その38B

英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作「葬儀を終えて」の
ペーパーバック版の表紙 -
大富豪で、アバネシー家の当主であるリチャード・アバネシーの葬儀に出席するために、
彼の邸宅「エンダビーホール」に親族が一堂に会した場面が、
棺桶の形に切り取られている。
なお、葬儀の参列者達が髑髏(ドクロ)の形を成している。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1953年に発表した「葬儀を終えて(After the Funeral)」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第44作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第25作目に該っている。


大富豪で、アバネシー家の当主であるリチャード・アバネシー(Richard Abernethie)の葬儀に出席するために、彼の邸宅「エンダビーホール(Enderby Hall)」において、親族が一堂に会した。

リチャード・アバネシーの弟の1人であるレオ(Leo)は、第二次世界大戦(1939年-1945年)中に戦死していた。また、リチャード・アバネシーの妻は早くに亡くなっており、息子のモーティマー(Mortimer)も6ヶ月前に既に死去していた。


リチャード・アバネシーの葬儀に参列したのは、


(1)ティモシー・アバネシー(Timothy Abernethie):リチャードの弟

(2)モード・アバネシー(Maude Abernethie):ティモシーの妻 / リチャードの義妹


(3)ヘレン・アバネシー(Helen Abernethie):第二次世界大戦中に戦死したリチャードの弟レオの妻 / リチャードの義妹


(4)スーザン・バンクス(Susan Banks):リチャードの弟ゴードン(Gordon)の娘 / リチャードの姪

(5)グレゴリー・バンクス(Gregory Banks):スーザンの夫 / 薬剤師


(6)ローラ・クロスフィールド(Laura Crossfield):リチャードの妹

(7)ジョージ・クロスフィールド(George Crossfield):ローラの息子 / リチャードの甥 / 事務弁護士


(8)ロザムンド・シェーン(Rosamund Shane):リチャードの妹ジェラルディン(Geraldine)の娘 / リチャードの姪 / 女優

(9)マイケル・シェーン(Michael Shane):ロザムンドの夫 / 俳優


(10)コーラ・ランスケネ(Cora Lansquenet):リチャードの末妹


の面々だった。


2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
「アガサ・クリスティー 2026年オフィシャルカレンダー」のうち、
2026年6月のカレンダーに描かれている
エルキュール・ポワロシリーズの長編第25作目「葬儀を終えて」(1953年)-
大富豪で、アバネシー家の当主であるリチャード・アバネシーの葬儀が行われた
教会が描かれているものと思われる。
兄リチャード・アバネシーの墓の前に佇んでいるのは、
末妹のコーラ・ランスケネだろうか?
<筆者撮影>


アバネシー家の弁護士であるエントウィッスル氏(Mr. Entwhistle)が、リチャード・アバネシーの遺言執行者として、その内容を読み上げた。

リチャード・アバネシーの遺産の大部分は、彼の弟ティモシー・アバネシー、彼の亡き弟の妻ヘレン・アバネシー、彼の末妹コーラ・ランスケネ、彼の甥ジョージ・クロスフィールド、そして、彼の2人の姪スーザン・バンクスとロザムンド・シェーンの6人に当分されると言う極めて妥当な内容だった。


エントウィッスル氏が読み上げたリチャード・アバネシーの遺言書の内容を聞き、自分の相続分を素直に喜んだ末妹コーラ・ランスケネは、小首を傾げると、無邪気な一言を言い放った。

「だって、リチャードは殺されたんでしょう?」と。


末妹コーラ・ランスケネは、子供の頃から、少し頭が弱く、思い付いたことを何でも直ぐに口にする性格で、アバネシー家の皆は、彼女は無邪気過ぎて困ると感じていた。それ故に、リチャード・アバネシーの葬儀に参列した面々は、彼女の発言をまともには取り合わず、受け流してしまった。

その一方で、末妹コーラ・ランスケネの発言は昔から真実を突いていたため、リチャード・アバネシーの葬儀から帰途に就く人達の心に、拭いきれない疑惑が痼りのように残った。リチャード・アバネシーの遺言執行者であるエントウィッスル氏も、その例外ではなかった。


彼らの疑惑が的中したかのように、その翌日、末妹のコーラ・ランスケネが、自宅において、斧で惨殺されているのが発見される。


コーラ・ランスケネの家政婦だったギルクリスト(Miss Gilchrist)によると、「リチャード・アバネシーは、亡くなる3週間ほど前に、コーラ・ランスケネを訪ねて来ると、彼女と話をしていた。」とのことだった。

つまり、コーラ・ランスケネは、兄リチャード・アバネシーの死の原因について、何か知っており、彼の葬儀の場において、そのことを口にしたために、殺害されたのか?


末妹のコーラ・ランスケネが殺されたことを受けて、彼女の相続分はリチャード・アバネシーの遺産に戻り、最終的には、スーザン・バンクスの取り分となった。

また、家政婦のギルクリストには、コーラ・ランスケネが趣味で描いていた絵画が送られることになった。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


リチャード・アバネシーの遺言執行者であるエントウィッスル氏は、真相を知るべく、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)に対して、事件の調査を依頼するのであった。


(87)埠頭を描いた絵(painting of a pier)



大富豪で、アバネシー家の当主であるリチャード・アバネシーの末妹のコーラ・ランスケネが殺害された後、家政婦のギルクリストには、コーラ・ランスケネが趣味で描いていた絵画(埠頭を描いた絵)が送られることになったが、その絵画には、驚くべき謎が隠されていたのである。


(88)手斧(hatchet)



アバネシー家の弁護士であるエントウィッスル氏が読み上げたリチャード・アバネシーの遺言書の内容を聞いて、自分の相続分を素直に喜んだ後、「だって、リチャードは殺されたんでしょう?」と無邪気な一言を言い放った末妹コーラ・ランスケネは、その翌日、自宅において、斧で惨殺されているのが発見される。


(89)ウェディングケーキが乗った皿(slice of wedding cake)



自宅において斧で惨殺された末妹コーラ・ランスケネの葬儀が行われた翌日の晩、家政婦のギルクリストは、郵便で送られてきたウェディングケーキを食べて、危うく死にかける。彼女が食べたウェディングケーキには、ヒ素が入っていたのである。


2026年7月16日木曜日

ロンドン コートールドギャラリー(Courtauld Gallery)- その4

'A Bar at the Folies-Bergere(フォリー=ベルジェールのバー)' by Edouard Manet
1882年 / Oil paint on canvas
コートールドギャラリーが所蔵 / 展示する作品の中で、一番有名な絵画だと言える。
<筆者撮影> 

前回に引き続き、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)にあり、テムズ河(River Thames)を見下ろす絶好のロケーションに建つサマセットハウス(Somerset House → 2016年7月17日)内に設けられているコートールドギャラリー(Courtauld Gallery)に所蔵 / 展示されている主な絵画について、御紹介致したい。

今回が、2回目の後半です。


コートールドギャラリーの
4階(Floor 3)のレイアウト図


(1)カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro:1830年ー1903年)- フランスの印象派の画家


'Lordship Lane Station, Dulwich' by Camille Pissaro
1871年 / Oil paint on canvas
<筆者撮影>


(2)エドゥアール・マネ(Edouard Manet:1832年ー1883年)- フランスの画家


'Study for 'Le Dejeuner sur l'herbe (Luncheon on the Grass)' by Edouard Manet
1863年頃 / Oil paint on canvas
<筆者撮影>


(3)エドガー・ジェルマン・イレール・ドガ(Edgar Germain Hilaire Degas:1834年ー1917年)- フランスの印象派の画家 /  彫刻家


'Two Dancers on a Stage' by Edgar Germain Hilaire Degas
1874年 / Oil paint on canvas
<筆者撮影>


(4)ポール・セザンヌ(Paul Cezanne:1839年-1906年)- フランスの画家


'Pot of Flowers and Fruit' by Paul Cezanne
1888年ー1890年頃 / Oil paint on canvas
<筆者撮影>


(5)クロード・モネ(Claude Monet:1840年ー1926年)- フランスの印象派を代表する画家


'Autumn Effect at Argenteuil' by Claude Monet
1873年 / Oil paint on canvas
<筆者撮影>

'Vase of Flowers' by Claude Monet
Begun in 1881 / Oil paint on canvas
<筆者撮影>


(6)ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir:1841年ー1919年)- フランスの印象派の画家


'La loge (The Theatre Box / 桟敷席)' by Pierre-Auguste Renior
1874年 / Oil paint on canvas
<筆者撮影>


(7)フィンセント・ヴィルム・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh:1853年ー1890年)- オランダのポスト印象派の画家


'Self-Portrait with Bandaged Ear(耳を切った自画像)' by Vincent van Gogh
1889年 / Oil paint on canvas
<筆者撮影> 

(8)アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファ(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa:1864年ー1901年)- フランスの画家


(9)アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani:1884年ー1920年)- イタリアの画家 / 彫刻家


画面中央と右側の絵画が'トゥールーズ=ロートレックによる作品で、
左側の絵画がモディリアーニによる作品。
<筆者撮影>


これらの絵画は、英国の軍人 / 外交官 / 政治家 / 慈善家である初代/リー・オブ・フェアラム子爵アーサー・ハミルトン・リー(Arthur Hamilton Lee, 1st Viscount Lee of Fareham:1868年ー1947年)と英国の美術史家であるサー・ロバート・クレルモン・ウィット(Sir Robert Clermont Witt:1872年ー1952年)の2人と一緒に、コートールドギャラリーを共同設立した英国の実業家であるサミュエル・コートールド(Samuel Courtauld:1876年ー1947年)が寄贈したものである。


コートールドギャラリーの中でも、サミュエル・コートールドによる印象派や後期印象派のコレクションが、そのメインとなっている。

サミュエル・コートールドが印象派や後期印象派の作品を中心に収集を始めた当時、英国における印象派や後期印象派の評価はまだ低く、サミュエル・コートールドは、印象派や後期印象派の優れた作品を紹介することにより、この低評価を改善することを目指していた。