2026年9月12日土曜日

ロンドン キューガーデンズ / ヘンリー・ムーア展(Kew Gardens / Henry Moore)- その3



ロンドンの特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のリッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)のリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)内に所在するキューガーデンズ(Kew Gardens)において、20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーア(Henry Spencer Moore:1898年ー1986年)の展覧会「Henry Moore : Monumental Nature」が、2027年1月31日まで開催されている。


ヘンリー・スペンサー・ムーアによる彫刻作品30点が、キューガーデンズ内の野外(正確に言うと、2点だけは屋内)に展示されている。



今回は3回目で、11番目から15番目までの彫刻を紹介したい。


(11)「Working Model for Spindle Piece」




制作年:1968年-1969年

LH 592 / Cast 0

Mediumbronze 


(12)「Two Piece Reclining Figure : Points」




制作年:1969年

LH 606 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Gift of the artist in 1977


(13)「Large Reclining Figure」




制作年:1983年

LH 192b

Fibreglass

Henry Moore Foundation : Acquired in 1987


(14)「Two Piece Reclining Figure : No. 2」




制作年:1960年

LH 458 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Gift of the artist in 1977


(15)「Reclining Figure : Bunched」




制作年:1969年

LH 489a / Cast a

Bronze

Henry Moore Foundation : Gift of the Lord Rayne in 1986


2026年9月11日金曜日

ロンドン タヴィストックスクエア(Tavistock Square)- その4

タヴィストックスクエアガーデンズの中央に設置されている
マハトマ・ガンディーのブロンズ像を正面から見たところ
<筆者撮影>

1912年8月10日に結婚した英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)英国の作家 / 出版業者 / 公務員であるレナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年の2人は、1914年の秋から約10年間を過ごしたリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)を離れ、ロンドンの中心部へと戻り、1924年3月、タヴィストックスクエア52番地(52 Tavistock Square → 2026年8月11日 / 8月17日付ブログで紹介済)に居を構えた。

2人がパラダイスロード34番地 / ホガースハウス(Hogarth House, 34 Paradise Road → 2026年7月31日 / 8月5日付ブログで紹介済)の居間に設立した出版社「ホガースプレス(Hogarth Press)」は、タヴィストックスクエア52番地の建物の地下に設置された。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人は、1924年から第二次世界大戦(1939年-1945年)が始まった1939年までの間、タヴィストックスクエア52番地に住むことになる。

現在、タヴィストックスクエア52番地の跡地には、タヴィストックホテル(Tavistock Hotel)が建っている。


画面奥に見える建物は、
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
約10年間を過ごしたリッチモンドを離れ、ロンドンの中心部へと戻り、
1924年3月に移った
タヴィストックスクエア52番地の跡地に建つタヴィストックホテル -
手前に見える庭園は、タヴィストックスクエアガーデンズ。
<筆者撮影>


タヴィストックホテルの玄関左側の外壁に掛けられている
英国ヴァージニア・ウルフ協会のプラークには、
ヴァージニア・ウルフとレナード・ウルフの2人が、1924年から1939年までの間、
タヴィストックスクエア52番地の建物に住んでいたことが記されている。
<筆者撮影>


タヴィストックスクエア52番地の建物が面するタヴィストックスクエア(Tavistock Square)の中央に設けられたタヴィストックスクエアガーデンズ(Tavistock Square Gardens)の南西の角に、英国ヴァージニア・ウルフ協会(Virginia Woolf Society of Great Britain)により、ヴァージニア・ウルフのブロンズ胸像が設置されている。


タヴィストックスクエアガーデンズの南西の角に設置されている
ヴァージニア・ウルフのブロンズ胸像のアップ
<筆者撮影>


タヴィストックスクエアガーデンズ内には、ヴァージニア・ウルフのブロンズ胸像以外に、以下のブロンズ像が設置されている。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。



側の入口近くに設置されている
タヴィストックスクエアガーデンズの沿革に関する説明板

<筆者撮影>

(1)マハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi:1869年ー1948年)


タヴィストックスクエアガーデンズの中央に設置されている
マハトマ・ガンディーのブロンズ像を背面から見たところ
<筆者撮影>


マハトマ・ガンディーは、インドの宗教家 / 政治指導者で、本名はモーハンダース・カラムチャンど・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi)。

彼は、1869年10月2日、英国領インド帝国、現在のグジャラート州の港町ポールバンダルに、当時のポールバンダル藩王国の宰相であるカラムチャンド・ガンディーと夫人のプラリーバーイーの四男として出生。

南アフリカにおいて、弁護士として働く一方で、公民権運動に参加。

帰国後、民衆暴動やゲリラ戦ではなく、「非暴力不服従」を提唱の上、インドの英国からの独立運動を指揮して、1947年8月、独立を勝ち取ったことにより、「インド独立の父」として知られている。

その半年後の1948年1月30日、民族義勇団(RSS)の活動家によって暗殺された。


マハトマ・ガンディーのブロンズ像は、ポーランドの彫刻家 / 女優であるフレッダ・ブリリアント(Fredda Brilliant:1903年ー1999年)によって制作され、1968年にタヴィストックスクエアガーデンズの中央に設置された。


ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンの入口から見た
主要校舎ウィルキンスビル(Wilkins Building)
<筆者撮影>


マハトマ・ガンディーは、18歳の時、ロンドンへ来て、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London → 2015年8月16日付ブログで紹介済)で学んでおり、タヴィストックスクエアガーデンズがユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンの近くにあることから、同ガーデンズが設置場所として選定されたものと思われる。


(2)ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイク(Louisa Brandreth Aldrich-Blake:1865年ー1925年)


タヴィストックスクエアガーデンズの南東の角に設置されている
ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイクのブロンズ胸像の全体
<筆者撮影>


ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイクは、英国の外科医で、英国において、直腸癌(rectal cancer) / 子宮頸管部癌(cervical cancer)の外科手術を行った女性の一人である。


タヴィストックスクエアガーデンズの南東の角に設置されている
ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイクのブロンズ胸像のアップ
<筆者撮影>


ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイクのブロンズ像の場合、胸像は、英国の彫刻家 / 画家であるアーサー・ジョージ・ウォーカー(Arthur George Walker :1861年ー1939年)によって制作され、また、台座は、英国の建築家であるサー・エドウィン・ランドシーア・ルトイェンツ(Sir Edwin Landseer Lutyens :1869年ー1944年)によって制作され、1927年にタヴィストックスクエアガーデンズの南東の角に設置された。


ロンドン大学の本部が置かれているセナトハウス
(Senate House → 2017年1月15日付ブログで紹介済)
<筆者撮影>


ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイクは、ロンドン大学(University of London → 2016年8月6日付ブログで紹介済)で学んでおり、タヴィストックスクエアガーデンズがロンドン大学の近くにあることから、同ガーデンズが設置場所として選定されたものと思われる。 


2026年9月10日木曜日

ロンドン ボンドストリート136番地(136 Bond Street)

トラファルガーの海戦において、ホレーショ・ネルソンが戦死した後、
エマ・ハミルトンが引っ越したボンドストリート136番地だと思われる
ニューボンドストリート136番地のの建物正面を

左側(南側)から見たところ
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース
(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作の自画像(Self-portrait)(1784年)
<筆者撮影>


そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作のエマ・ハートの肖像画(1785年頃)
<筆者撮影>


英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人を経て、1791年9月6日の結婚後、彼の正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、1793年9月の初対面の5年後の1798年9月に再会した後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)と恋愛関係になる。

前述の通り、エマ・ハミルトンは、1791年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと結婚して、ナポリ公使夫人と言う立場にあり、また、ホレーショ・ネルソンも、1787年にフランシス・ハーバート・ウールワード(Frances Herbert Woolward:1758年ー1831年)と結婚していたため、2人とも不倫だった訳である。

2人の不倫関係は、何故か、周囲から寛大に見られており、エマ・ハミルトンの夫であるサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンも、そうであった。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとしては、ホレーショ・ネルソンを英国にとって必要不可欠な人物であると見做して、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を黙認する一方、ホレーショ・ネルソンとの友情関係も維持していた、とのこと。

ただ、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、ナポリから本国である英国へと伝わり、新聞報道を経て、公となってしまった。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
Sir William Beechey 作のホレーショ・ネルソンの肖像画(1800年)
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンの英国への召喚と時を同じくして、ナポリ公使の任を解かれたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと一緒に、英国に帰国したエマ・ハミルトンは、1801年1月29日、ピカデリー通り23番地(23 Piccadilly → 2026年8月26日付ブログで紹介済)の家において、ホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソン(Horatia Nelson:1801年ー1881年)を出産した。

なお、ホレーショ・ネルソンは、エマ・ハミルトンがホレイシア・ネルソンを出産する前の1801年1月1日に、青色艦隊中将(Vice-admiral of the Blue)へ昇進し、新たな任務を帯びて、航海へ出た後だった。


ピカデリー通りの対岸からホテル「ザ・ディリー(The Dilly)」(画面左側の建物)を見たところ -
エマ・ハミルトンがホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソンを出産したピカデリー通り23番地は、
画面左下にあるバス停留所の背後の店舗部分に該る。
<筆者撮影>


1803年4月6日に、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンが、ピカデリー通り23番地の家において亡くなった後、世間的な体裁を保つため(=ホレーショ・ネルソンとは異なる住所を確保するため)、エマ・ハミルトンは、ピカデリー通り23番地の家から、あまり離れていないクラルジズストリート11番地(11 Clarges Street → 2026年9月4日付ブログで紹介済)の家へ引っ越した。


クラルジズストリート11番地の建物正面を
左側(北側)から見たところ
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンは、同年、地中海艦隊司令長官(Commander-in-Chief of the Mediterranean Fleet)へ昇進して、また新たな任務を帯び、海へ戻る。

第2子を妊娠中だったエマ・ハミルトンは、一人残された孤独の中、ホレーショ・ネルソンの帰還をひたすら待ち続けた。

エマ・ハミルトンが生んだ第2子(次女)は、残念ながら、数週間しか生きられず、第2子を亡くした彼女は、空虚な心を埋めるために、ギャンブルや浪費生活を送った。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)の近くにある
地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)のプラットフォームに描かれている壁画 -
「トラファルガーの海戦」における英国艦隊の勝利とネルソン提督の死を伝える新聞記事 +
ネルソン提督の肖像画
<筆者撮影>


トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar → 2022年4月18日 / 4月22日付ブログで紹介済)において、1805年10月21日、ホレーショ・ネルソンが戦死した後、エマ・ハミルトンは、借金地獄に陥った。

ホレーショ・ネルソンは、兄のウィリアム・ネルソン(Wiiliam Nelson:1757年ー1835年 → 後の初代ネルソン伯爵(1st Earl Nelson))に対して、自分の遺産を遺贈していたことに因る。

エマ・ハミルトンには、マートンプレイスの家のみが残されたが、1803年に亡くなった夫サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの年金も食い潰していたため、マートンプレイスの家も抵当に入ってしまった。

ホレーショ・ネルソンは、エマ・ハミルトンと娘のホレイシア・ネルソンの扶養を命じていたが、何故か、彼女達の存在は無視されてしまい、富も名誉も、相続人である兄ウィリアム・ネルソンのものとなった。


トラファルガーの海戦において、ホレーショ・ネルソンが戦死した後、
エマ・ハミルトンが引っ越したボンドストリート136番地だと思われる
ニューボンドストリート136番地のの建物正面を

右側(北側)から見たところ
<筆者撮影>


エマ・ハミルトンは、クラルジズストリート11番地の家からボンドストリート136番地(136 Bond Street)の安い家へと引っ越したものの、焼け石に水で、1811年から1812年にかけて、債務者監獄(debtors’ prison)に入れられた。娘のホレイシア・ネルソンも、一時期、母親と一緒に、債務者監獄に居た。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
メイフェア地区の地図を抜粋。



エマ・ハミルトンがクラルジズストリート11番地の家から引っ越したボンドストリート136番地は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街メイフェア地区(Mayfair)内に所在している。


ニューボンドストリート136番地のの建物を下から見上げたところ
<筆者撮影>


ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から、地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station → 2025年7月30日付ブログで紹介済)の前を通って、地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)へと西に延びるピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)と地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)から、地下鉄ボンドストリート駅(Bond Street Tube Station)の前を通って、地下鉄マーブルアーチ駅(Marble Arch Tube Station)へと西に延びるオックスフォードストリート(Oxford Street → 2016年5月28日付ブログで紹介済)を、ボンドストリート(Bond Street → 2017年5月21日付ブログで紹介済)は南北に結んでいる。


ニューボンドストリートとオールドボンドストリートを繫ぐ歩道には、
第二次世界大戦時に両国を指揮した英首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill:右側)と
米大統領フランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Roosevelt:左側)のブロンズ像が設置されている。
(Sculptor : Lawrence Holofcener / Bronze / 1995)
<筆者撮影>


現在、南側のセクションを「オールドボンドストリート(Old Bond Street)」、そして、北側のセクションを「ニューボンドストリート(New Bond Street)」と呼び、区分けしている。


現在の住所表記上、オールドボンドストリート側(南側)には、136番地はなく、
ニューボンドストリート側(北側)には、136番地は存在する。
<筆者撮影>


現在の住所表記上、オールドボンドストリート側に136番地は存在しないので、エマ・ハミルトンが引っ越したボンドストリート136番地は、ニューボンドストリート側にあったものと考える。


ニューボンドストリート136番地の建物外壁にある番地表示
<筆者撮影>


エマ・ハミルトンが引っ越したボンドストリート136番地がニューボンドストリート136番地(136 New Bond Street)だとすると、その建物は、南側のブルートンプレイス(Bruton Place)と北側のグローヴナーストリート(Grosvenor Street)に挟まれたニューボンドストリートの西側に建っている。


現在、ニューボンドストリート136番地の建物には、
ファッションブランドが入居している。
<筆者撮影>


当該建物の場合、ニューボンドストリート135番地 / 136番地 / 137番地が一緒になっており、現在、服飾系のテナントが入居して、営業している。


2026年9月9日水曜日

ロンドン ケンサルグリーン墓地(Kensal Green Cemetery)- その5

ケンサルグリーン墓地内にある
英国の技師イザムバード・キングダム・ブルネルの墓(その1)
<筆者撮影>


ケンサルグリーン墓地(Kensal Green Cemetery → 2023年12月15日付ブログで紹介済)の場合、その大部分がロンドンの特別区の一つであるケンジント&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のノースケンジントン地区(North Kensington)の北端ケンサルグリーン(Kensal Green)内にあり、西側の一部がロンドンの特別区の一つであるハマースミス&フラム区(London Borough of Hammersmith and Fulham)内にある。

ケンサルグリーン墓地は、北側のハーロウロード(Harrow Road)と南側のグランドユニオンカナル(Grand Union Canal)と言う運河に挟まれたエリア内にある広大な共同墓地(約29ヘクタール)である。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ケンサルグリーン墓地周辺の地図を抜粋。-
英国の技師イザムバード・キングダム・ブルネルの墓は、
画面右下の四角マークの辺りにある。


ケンサルグリーン墓地は、英国の弁護士、雑誌編集者で、実業家でもあったジョージ・フレデリック・カーデン(George Frederick Carden:1798年ー1874年)が出資者となり、1833年にオープンした。


ケンサルグリーン墓地は、ハイゲイト墓地(Highgate Cemetery:1839年にオープン → 2018年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)やブロンプトン墓地(Brompton Cemetery :1840年にオープン → 2015年9月6日付ブログで紹介済)と同じように、ロンドンの「7大墓地(Magnificent Seven)」の一つであるが、7大墓地の中で、一番最初に出来た共同墓地である。


初代サセックス公爵オーガスタス・フレデリック王子の墓を
センターアヴェニューから見たところ

<筆者撮影>


ケンサルグリーン墓地内に埋葬されている故人の中で、最も地位が高い人物は、ハノーヴァー朝の第3代国王であるジョージ3世(George III:1683年ー1820年 在位期間:1760年ー1820年)と王妃であるソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ(Sophia Charlotte of Mecklenburg- Strelitz:1744年ー1818年)の第6王子で、ケンジントン宮殿(Kensington Palace)において逝去した初代サセックス公爵オーガスタス・フレデリック王子(Prince Augustus Frederick, 1st Duke of Sussex:1773年ー1843年 → 2026年8月31日付ブログで紹介済)であるが、最も有名な人物は、英国の技師イザムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel:1806年ー1859年)である。


テムズ河北岸のヴィクトリアエンバンクメント通り
(Victoria Embankment → 2018年12月9日付ブログで紹介済)沿いに設置されている
英国の技師であるイザムバード・キングダム・ブルネルのブロンズ像
(Sculptor : Baron Carlo Marochetti + Pedestal & Surround : Norman Shaw /
Bronze / 1877)
<筆者撮影>


イザムバード・キングダム・ブルネルは、
パディントン駅を初めとするグレイトウェスタン鉄道の施設や車輌等を設計したことで有名である。
<筆者撮影>


イザムバード・キングダム・ブルネルは、1806年4月9日、フランス生まれの技術者であるサー・マーク・イザムバード・ブルネル(Marc Isambard Brunel:1769年ー1849年)の長男として、英国のハンプシャー州(Hampshire)ポーツマス(Portsmouth → 2016年9月17日付ブログで紹介済)に出生。彼は第3子で、上に姉が2人居た。


ブルネル博物館内に展示されている
サー・マーク・
イザムバード・ブルネルの肖像画
<筆者撮影>


フランスで教育を受けたイザムバード・キングダム・ブルネルは、1823年、父サー・マーク・イザムバード・ブルネルが計画したテムズ河(River Thames)を横断する河底トンネルである「テムズトンネル(Thames Tunnell)」の建設プロジェクトに参加して、1827年1月に、僅か20歳の若さで建設プロジェクトの Resident Engineer に任命された。


サー・マーク・イザムバード・ブルネル自身が描いた
「テムズトンネル(The Thames Tunnel)」(1835年)
<筆者撮影>


当時、トンネルを建設する場合、「開削工法(地面から溝のような穴を掘り、その底にトンネルを建設した後に、埋め戻す工法)」が採られていた。

「テムズトンネル」の建設プロジェクトの場合、イザムバード・キングダム・ブルネルは、「シールド工法」を考案した。


ブルネル博物館内の壁に描かれている
「ブルネルエンジンハウス」と「立杭(シャフト)」の構造図
<筆者撮影>


「シールド工法」とは、「シールド」と呼ばれる筒で切羽(トンネル掘削の最前線)を支え、掘り進めながら、後方でトンネルの壁を構築していく工法で、イメージとしては、モグラのように地下を掘り進めつつ、その後方にトンネルの壁を造っていく方法と言える。

「シールド工法」の場合、地面から「立杭(シャフト)」と呼ばれる垂直の穴を掘り、そこから横方向へ掘り進めるため、「開削工法」に比べると、地表に与える影響が少ないと言う特徴があり、現在、都市部を通る鉄道、道路、上下水道や地下河川等のトンネルを建設する際、「シールドマシン」と呼ばれる機械を使用した「シールド工法」がよく使用されている。


テムズ河の河底に建設中の「テムズトンネル」の模型(その1)
<筆者撮影>


テムズ河の河底に建設中の「テムズトンネル」の模型(その2)
<筆者撮影>


しかしながら、当時、「シールドマシン」のような機械はなかったため、「テムズトンネル」の建設は、全て、人力で行われた。



「テムズトンネル」の建設作業を進める中、トンネル内にテムズ河の水が流入して、イザムバード・キングダム・ブルネルは命の危機に瀕する経験をし、負傷の上、「テムズトンネル」の建設プロジェクトから離れた。

イザムバード・キングダム・ブルネルが「テムズトンネル」の建設プロジェクトから離れた後、父サー・マーク・イザムバード・ブルネルが、世界で初めて「シールド工法」を使用して建設されたトンネルとして、「テムズトンネル」を完成し、1843年3月にオープンを迎えた。これにより、テムズ河の北岸にあるワッピング地区(Wapping)と南岸にあるロザーハイズ地区(Rotherhithe → 2025年8月31日 / 9月6日付ブログで紹介済)が接続されたのである。


「Rotherhithe - History, art and the Mayflower」の冊子から抜粋した
ロザーハイズ地区とその周辺地図




オープン当初は、人や馬車が通る歩道として使用されたが、今は地下鉄の一部として使われており、電車がテムズ河の河底を通っている。


レイルウェイアヴェニュー(Railway Avenue)から見た
「ブルネル博物館」の一部を成す「ブルネルエンジンハウス」
<筆者撮影>


「ブルネルエンジンハウス」に掛けられているプラーク
<筆者撮影>


ロザーハイズ駅(Rotherhithe Station)からブルネル博物館へと至る
レイルウェイアヴェニューに掛けられたブルネル博物館の案内垂れ幕
<筆者撮影>


世界最初の海底トンネルに該る「テムズ河トンネル」を完成させた
イザムバード・キングダム・ブルネルを称えるブループラークが、
ブルネル博物館の壁に掛けられている。
<筆者撮影>


サー・マーク・イザムバード・ブルネルがトンネルから水を吸い出すための蒸気駆動ポンプを設計の上、設置した「ブルネルエンジンハウス(Brunel Engine House)」は、現在、「ブルネル博物館(Brunel Museum → 2025年9月25日 / 10月16日 / 11月14日付ブログで紹介済)」としてオープンしている。 


パディントン駅コンコース上のガラス屋根
<筆者撮影>


パディントン駅コンコース上に設置されている
イザムバード・キングダム・ブルネルのブロンズ像
(Sculptor : John Doubleday /Bronze / 1982)
<筆者撮影>


「テムズトンネル」の建設プロジェクトから離れた後、イザムバード・キングダム・ブルネルは、パディントン駅(Paddington Station → 2014年8月3日付ブログで紹介済)を初めとして、ロンドンとブリストル(Bristol)を結ぶグレイトウェスタン鉄道(Great Western Railway)の橋梁、トンネル、駅舎や車輌等を設計 / 監督。

また、大西洋横断のために、1837年に当時世界最大の蒸気船「グレイトウェスタン(Great Western)」、1843年、に鋼製の船体の蒸気船「グレイトブリテン(Great Britain)」、更に1852年に2万トンを超える巨大な「グレイトイースタン(Great Eastern)」を建造している。


ケンサルグリーン墓地内にある
英国の技師イザムバード・キングダム・ブルネルの墓(その2)
<筆者撮影>

ケンサルグリーン墓地内にある
英国の技師イザムバード・キングダム・ブルネルの墓(その3)
<筆者撮影>

ケンサルグリーン墓地には、2つの出入口があり、東側は、ハーロウロードとラドブロークグローヴ通り(Ladbroke Grove)が交差する辺りにあり、こちらがメインゲイト(Main (East) Gate)となっている。

一方、西側は、ケンサルグリーン駅(Kensal Green Station)を出て、ハーロウロード沿いに少し西へ進んだところにあるアルマプレイス(Alma Place)から、墓地内へ入ることができ、こちらがウェストゲイト(West Gate)となっている。


ケンサルグリーン墓地内にある
英国の技師イザムバード・キングダム・ブルネルの墓(その4)
<筆者撮影>

イザムバード・キングダム・ブルネルの墓は、メインゲイト側からケンサルグリーン墓地へと入り、真っ直ぐに南下して、センターアヴェニュー(Centre Avenue)に至ったところで右折。ケンサルグリーン墓地の中央に建つ英国国教徒用の礼拝堂(Anglican Chapel)へと向かって、センターアヴェニューを西進。

センターアヴェニューがノースブランチアヴェニュー(North Branch Avenue)、センターアヴェニューとサウスブランチアヴェニュー(South Branch Avenue)の3本に枝分かれする手前で、小道へと左折。

センターアヴェニューとサウスアヴェニュー(South Avenue)の中間辺りの進行方向左手に、イザムバード・キングダム・ブルネルの墓は所在している。


ケンサルグリーン墓地内にある
英国の技師イザムバード・キングダム・ブルネルの墓(その5)
<筆者撮影>

ケンサルグリーン墓地内にある
英国の技師イザムバード・キングダム・ブルネルの墓(その6)
<筆者撮影>

イザムバード・キングダム・ブルネルの墓には、本人以外に、彼の両親、彼の妻と子供達も眠っている。

最近では、彼の孫娘が2009年に埋葬されている。