2026年7月11日土曜日

ロンドン コートールドギャラリー(Courtauld Gallery)- その3

'The Trinity with Saints Mary Magdalen and John the Baptist'
by Sandro Botticelli
Around 1491 - 1494 / Egg tempera on wood
<筆者撮影>

今回から2回に分けて、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)にあり、テムズ河(River Thames)を見下ろす絶好のロケーションに建つサマセットハウス(Somerset House → 2016年7月17日)内に設けられているコートールドギャラリー(Courtauld Gallery)に所蔵 / 展示されている主な絵画について、御紹介致したい。


コートールドギャラリーの地階(Lower Ground Floor)と
1階(Ground Floor)のレイアウト図


コートールドギャラリーの地階(Lower Ground Floor)と
2階(Floor 1)のレイアウト図


コートールドギャラリーの地階(Lower Ground Floor)と
3階(Floor 2)のレイアウト図


(1)サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Bottivelli:1445年頃ー1510年 - ルネサンス期のイタリアの画家)


(2)ルーカス・クラナッハ(父)(Lucas Cranach the Elder:1472年ー1553年)- ルネサンス期のドイツの画家


(3)ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577年ー1640年)- バロック期のフランドルの画家 / 外交官


'Moses and the Brazen Serpent' by Peter Paul Rubens
1609 - 1610 / Oil paint on wood
<筆者撮影>

'Studies for an Altarpiece in Antwerp Cathedral' by Peter Paul Rubens
<筆者撮影>


(4)アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck:1599年ー1641年 → 2025年9月27日 / 10月4日 / 10月8日 / 10月13日付ブログで紹介済)- バロック期のフランドルの画家


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画の葉書
(Sir 
Anthony van Dyck / 1640年頃 / Oil on panel
560 mm x 460 mm) 


'Ecce Homo' by Anthony van Dyck
Around 1625 - 1626 / Oil paint on canvas
<筆者撮影> 


これらの絵画は、英国の実業家であるサミュエル・コートールド(Samuel Courtauld:1876年ー1947年)とコートールドギャラリーを共同設立した英国の軍人 / 外交官 / 政治家 / 慈善家である初代/リー・オブ・フェアラム子爵アーサー・ハミルトン・リー(Arthur Hamilton Lee, 1st Viscount Lee of Fareham:1868年ー1947年)が寄贈したものである。


(5)サー・ジョシュア・レイノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)- 英国の画家 / 王立芸術協会(Royal Society of Arts)の初代会長を務めた。


'Portrait of Maria Marow Gideon and her brother, William'
by Joshua Reynolds
1786 - 1787 / Oil paint on canvas
<筆者撮影> 

'Cupid and Psyche' by Joshua Reynolds
Around 1789 / Oil paint on canvas
<筆者撮影>


(6)トマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)- 英国の画家


'Portrait of Thomas Gainsborough'
by Thomas Gainsborough
Completed by Gainsborough Dupont (1754 - 1797)
Late 1760s / Completed 1788
Oil paint on canvas
<筆者撮影>

(7)ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)- 英国の肖像画家


'Portrait of Georgiana, Lady Grenville' by George Romney
Around 1771 - 1772 / Oil paint on canvas
<筆者撮影>


これらの絵画は、英国の実業家であるサミュエル・コートールド(Samuel Courtauld:1876年ー1947年)とコートールドギャラリーを共同設立した英国の美術史家であるサー・ロバート・クレルモン・ウィット(Sir Robert Clermont Witt:1872年ー1952年)が寄贈したものである。


2026年7月10日金曜日

ロンドン クリフォーズイン(Clifford’s Inn)- その2

1912年に結婚したヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
移り住んだフラット「クリフォーズイン」の玄関を北側から見たところ
<筆者撮影>

1912年8月10日に結婚した英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年 / 英国の小説家 / 評論家)レナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年 / 英国の作家 / 出版業者 / 公務員の2人は、南フランス / スペイン / イタリアへの新婚旅行から戻って来た後、クリフォーズイン(Clifford’s Inn)と言うフラットへ移り住んだ。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


妻となったヴァージニア・ウルフは、子供を欲しがったが、夫のレナード・シドニー・ウルフは、以下の理由から、2人の間い子供を持つことを良しとはしなかった。


1912年に結婚したヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
移り住んだフラット「クリフォーズイン」の建物を南側から見上げたところ
<筆者撮影>


<理由(その1)>

1895年(ヴァージニア・ウルフが13歳の時)に、母親で、初代准男爵サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones, 1st Baronet:1833年ー1898年 → 2018年6月3日 / 6月10日 / 6月17日付ブログで紹介済)等の「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)のモデルとして知られている母ジュリア・プリンセップ・ジャクスン(Julia Prinsep Jackson:1846年ー1895年)が48歳で急死し、1897年(ヴァージニア・ウルフが15歳の時)に、異父姉ステラ(Stella:1869年ー1897年)が亡くなったことに伴い、彼女は最初の神経衰弱を発病。

1904年(ヴァージニア・ウルフが22歳の時)に、父親で、英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴン(Leslie Stephen:1832年ー1904年)が72歳で亡くなり、彼女は2度目の神経衰弱に陥った。

1906年(ヴァージニア・ウルフが24歳の時)の秋、兄(長男)のトビー(Thoby:1880年ー1906年)がギリシア / トルコ旅行へ出かけた際、腸チフス(typhoid fever)に罹患し、同年11月20日に、26歳の若さで急死したため、彼女の精神状態はまた不安定になり、そう言った状況が続いている。


1912年に結婚したヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
移り住んだフラット「クリフォーズイン」の玄関を南側から見たところ
<筆者撮影>


<理由(その2)>

ヴァージニア・ウルフは、母親になる(=子供を産んで育てる)には、精神的に強くなく、子供を持った場合、彼女の精神状態は更に悪化すると懸念。


1912年に結婚したヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
移り住んだフラット「クリフォーズイン」の建物を北側から見上げたところ
<筆者撮影>


一方、ヴァージニア・ウルフは、レナード・シドニー・ウルフと結婚する前に、彼女の最初の長編小説となる「船出(The Voyage Out)」を概ね完成させていたが、結婚後の1912年12月から1913年3月にかけて、大幅な改稿を行った。

同作品は、彼女の異父兄であるジェラルド・ダックワース(Gerald Duckworth:1870年-1937年)が興した出版社(Gerald Duckworth and Company Ltd. - 1898年設立)から1915年3月26日に刊行されることになるが、上記の大幅な改稿が、肉体的にも、精神的にも、彼女を極度の消耗状態へと追い込んだ。

その結果、彼女は何度も神経衰弱に陥り、1913年9月9日には、睡眠薬のヴェロナール(veronal)の過剰摂取により、自殺を試みたが、なんとか一命をとりとめた。


フラット「クリフォーズイン」の玄関左側の壁には、
「ヴァージニア・ウルフとレナード・ウルフの2人が、1912年から1913年までの間、
この建物に住んでいた」ことを示すプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


フラット「クリフォーズイン」の玄関左側の壁に、「ヴァージニア・ウルフ(1882年ー1941年)とレナード・ウルフ(1880年ー1969年)の2人が、1912年から1913年までの間、この建物に住んでいた」ことを示す Virginia Woolf Society of Great Britain のプラークが掛けられている。


                                       

2026年7月9日木曜日

<第2200回> ロンドン クリフォーズイン(Clifford’s Inn)- その1

1912年に結婚したヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が移り住んだ
フラット「クリフォーズイン」へと至る門
<筆者撮影>

英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)と弟のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)の2人は、1911年11月、より広い家を求めて、ロンドンの中心部にあるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のフィッツロヴィア地区(Fitzrovia)内に所在するフィッツロヴィア(Fitzrovia)の端正なフィッツロイスクエア29番地(29 Fitzroy Square → 2026年6月6日 / 6月11日付ブログで紹介済)からロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camdenブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在するブランズウィックスクエア(Brunswick Square → 2026年6月23日付ブログで紹介済)の家へ引っ越した。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


引越後、ヴァージニア・ウルフと弟のエイドリアンの2人は、著述家や芸術家の知的サークルである「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury Group)」のメンバーのうち、


*ダンカン・ジェイムズ・コロウ・グラント(Duncan James Corrowr Grant:1885年ー1978年)- 英国の画家 / 織物・陶芸・舞台美術・服飾デザイナー

*レナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年)- 英国の作家 / 出版業者 / 公務員

*初代ケインズ男爵ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes, 1st Baron Keynes:1883年ー1946年)- 英国の経済学者


の3人を下宿人 / 間借り人として招き、同居している。


ヴァージニア・ウルフが住んでいた家は、
ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎の非常口の辺りに建っていたと思われる。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフは、レナード・シドニー・ウルフと結婚する1912年までの間、ブランズウィックスクエアの家に住んでいた。


ヴァージニア・ウルフが住んでいた家の跡地には、現在、
ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎が立っている。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが住んでいたブランズウィックスクエアの家は現存せず、現在は、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London → 2015年8月16日付ブログで紹介済)薬学部(School of Pharmacy - 住所:ブランズウィックスクエア29-39番地)の校舎が、その場所に建っている。


1912年8月10日に結婚したヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人は、南フランス / スペイン / イタリアへの新婚旅行から戻って来た後、クリフォーズイン(Clifford’s Inn)と言うフラットへ移り住んだ。


1912年に結婚したヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が移り住んだ
フラット「クリフォーズイン」の周辺地図 -
Google Maps から抜粋。


クリフォーズインは、シティー・オブ・ロンドン(City of London → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の東端に所在している。


フリートストリートの南側から
シティー・オブ・ロンドンに属するフェッターレーン方面を見たところ
<筆者撮影>

フリートストリートの南側から
シティー・オブ・ウェストミンスター区に属するチャンセリーレーン方面を見たところ
<筆者撮影>

フリートストリートの南側から
クリフォーズインパッセージを見たところ
<筆者撮影>


シティー・オブ・ロンドンからトラファルガースクエア(Trafalgar Square)方面へとフリートストリート(Fleet Street → 2014年9月21日付ブログで紹介済)を西へ進む。

シティー・オブ・ロンドンに属するフェッターレーン(Fetter Lane)とロンドン中心部のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)に属するチャンセリーレーン(Chancery Lane)に東西を挟まれたフリートストリートの北側の歩道から、クリフォーズインパッセージ(Clifford’s Inn Passage)と言う小道が北へと延びている。



フリートストリートの北側の歩道から
クリフォーズインパッセージへ入ったところ
<筆者撮影>

フリートストリートの北側の歩道から
クリフォーズインパッセージを中程まで進んだところ
<筆者撮影>


クリフォーズインパッセージを北進して、「クリフォーズイン」と刻まれた門を潜ると、進行方向右手にフラット「クリフォーズイン」が建っている。


2026年7月8日水曜日

ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)- その2

ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)の
ハイゲイト地区(Highgate)内にあるハイゲイト墓地
(Highgate Cemetery → 2018年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)の
東区画(East Cemetery)にある
ハーバート・スペンサーの墓(その3)
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が執筆した長編としては、第6作目に、そして、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)シリーズの長編としては、第3作目に該る「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd → 2023年9月25日 / 10月2日付ブログで紹介済)」において、事件の記録者で、キングスアボット村(King's Abbot)の富豪であるロジャー・アクロイド(Roger Ackroyd)から夕食に招待され、9月17日(金)の午後7時半に、ロジャー・アクロイドが住むフェルンリーパーク館(Fernly Park)を訪れたジェイムズ・シェパード医師(Dr. James Sheppard)とフローラ・アクロイド(Flora Ackroyd - ロジャー・アクロイドの義理の妹で、未亡人のセシル・アクロイド夫人(Mrs. Cecil Ackroyd)の娘)の間で交わされた会話に出てくる「フロス河の水車場(The Mill on the Floss)」の作者であるジョージ・エリオット(George Eliot → 2025年11月13日+2026年5月20日 / 5月25日 / 5月30日付ブログで紹介済)は、英国の作家である。実は、「ジョージ・エリオット」はペンネームで、本名はメアリー・アン・エヴァンズ(Mary Anne Evans:1819年ー1880年)。

2022年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design by Holly Macdonald /
Illustrations by Shutterstock.com) 

1819年11月22日、土地差配人である父ロバート・エヴァンズ(Robert Evans:1773年ー1849年)と母クリスティアナ・エヴァンズ(Christiana Evans:1788年ー1836年 / 旧姓:ピアスン(Pearson))の下、ウォーリック州(Warwickshire)ヌニートン(Nuneaton)に出生したメアリー・アン・エヴァンズは、1850年、作家を志して、ロンドンへと移った。

ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)が
1860年に発表した長編小説第2作目
「フロス河の水車場」
<筆者撮影>

ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery内で
所蔵 / 展示されているジョージ・エリオット
(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)の肖像画
(By Sir Frederic William Burton / chalk / 1865年 /
514 mm x 381 mm)

英国の哲学者 / 社会学者 / 倫理学者であるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer:1820年ー1903年)の紹介により、作家を志して、1850年に故郷のウォーリック州(Warwickshire)ヌニートン(Nuneaton)からロンドンへと移ったメアリー・アン・エヴァンズは、1851年に英国の哲学者 / 文芸批評家であるジョージ・ヘンリー・ルイス(George Henry Lewes:1817年ー1878年)と知り合い、恋愛関係になる。当時、ジョージ・ヘンリー・ルイスは、アグネス・ジャーヴィス(Agnes Jervis)と結婚して、3人の子供が居る身だったが、メアリー・アン・エヴァンズとジョージ・ヘンリー・ルイスの恋愛関係は、彼が1878年11月30日に亡くなるまで、25年以上続いた。

1820年4月27日、イングランド北部のダービーシャー州(Derbyshire)ダービー(Derby)に出生したハーバート・スペンサーは、1837年(17歳)、ロンドン ・バーミンガム鉄道の技師として働き始め、空いた時間を使って、著作活動を行い、1843年、最初の著作「政府の適正領域(Proper Sphere of Government)」を発表。

また、1848年から1853年までの間、経済誌「エコノミスト(The Economist)」の副編集長(sub-editor)を務めた。

「エコノミスト」の副編集長を務める傍ら、1851年に最初の本「社会静学(Social Statics)」を刊行し、「人間性が社会生活の要求に応えるようになると、必然的に、国家は衰退するだろう。(Humanity would eventually become completely adapted to the requirements of living in society with the consequential withering away of the state.)」と予見。


丁度この頃、ハーバート・スペンサーは、彼の最初の本「社会静学」を出版し、一方で、買収した左派系の雑誌「ザ・ウェストミンスター・レヴュー(The Westminster Review)」の主筆(editor)を務めていた英国の出版業者であるジョン・チャップマン(John Chapman:1821年ー1894年)のサロンに招待され、そこで、


*英国の哲学者であるジョン・ステュアート・ミル(John Stuart Mill:1806年-1873年)

*英国の社会理論家であるハリエット・マーティノー(Harriet Martineau:1802年ー1876年)


を初めとするロンドンの急進的な思想家やジャーナリストと知遇を得る。

その中に、ジョージ・ヘンリー・ルイスと「マリアン・エヴァンズ(Marian Evans)」と言うペンネームを使い、「ザ・ウェストミンスター・レヴュー」に寄稿し、1851年から副主筆(assistant editor)を務めていたメアリー・アン・エヴァンズも居たのである。


ハイゲイト墓地東区画にある
ハーバート・スペンサーの墓(その4)
<筆者撮影>


1853年に叔父の遺産を相続したハーバート・スペンサーは、「エコノミスト」の副編集長の職を辞し、在野の研究者として著述に専念。

1855年に2番目の本「心理学原理(Principles of Psychology)」を刊行。

また、1862年から「総合哲学体系(Synthetic Philosophy)」シリーズを順次刊行。「第一原理(First Principles)」、「生物学原理(Principles of Biology)」、「心理学原理(Principles of Psychology)」、「社会学原理(Principles of Sociology)」、そして、「倫理学原理(Principles of Ethics)」を刊行して、1896年に完結させ、自然、生物や人間社会を貫く原理として、「進化」を掲げた。


1870年代に入ると、ハーバート・スペンサーは、最も有名な哲学者となり、それまでに出版した本や連載による収入で生活ができるようになり、彼の著作は、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、フランス語、ロシア語、日本語や中国語等、多くの言語に翻訳され、欧州や北米において、称賛を受けた。


2026年7月7日火曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その37A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「マギンティー夫人は死んだ」ペーパーバック版の表紙 -
スペンス警視の依頼に応じて、事件の再調査を始めたエルキュール・ポワロは、
マギンティー夫人が、殺される3日前に、
タブロイド紙に掲載された昔の事件に関係した女性達の写真を切り取っていたこと、
また、そのうちの誰かが村に居ると手紙に記して
新聞社宛に送っていたことを知る。
マギンティー夫人がタブロイド紙に掲載された昔の事件に関係した女性達の写真を
切り取るのに使われた鋏が、表紙に使用されたものと思われる。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(84)砂糖ハンマー(sugar hammer)



ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)の左斜め後ろで、両腕を胸の前で組んだアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings → 2025年10月12日付ブログで紹介済)が凭れ掛かっているのが、大理石の暖炉(marble fireplace → 2026年6月25日付ブログで紹介済)である。この暖炉の上の中央辺りに、砂糖ハンマーが置かれている。


(85)写真(photograph)



ジョン・レイス大佐(Colonel John Race → 2025年10月25日付ブログで紹介済)が、ジグソーパズルの左下近くに居て、ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロの方を見つめている。背広を着て、右手には、帽子を持っている。なお、背広の右ポケットから、メモ用紙なのか、紙のようなものがはみ出ている。ジョン・レイス大佐の足下に、女性の写真が落ちている。


(86)口紅が付いた紅茶茶碗(teacup with a lipstick stain)



ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロの前にあるテーブルの上に、口紅が付いた紅茶茶碗がおかれている。


これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1952年に発表した「マギンティー夫人は死んだ(Mrs. McGinty’s Dead)」である。

マギンティー夫人は死んだ」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第42作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第24作目に該っている。


なお、当初、米国のシカゴトリビューン紙(Chicago Tribune)の日曜日版に、1951年10月7日から同年12月30日にかけて、13回の掲載が行われた際、「Blood Will Tell」と言うタイトルが使用されている。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


「マギンティー夫人は死んだ」の場合、キルチェスター警察に勤務し、間もなく定年を迎えるスペンス警視(Superintendent Spence)は、友人であるエルキュール・ポワロの元を訪れるところから、その物語が始まる。

スペンス警視は、ポワロに対して、「僅か30ポンドのために、家主であるマギンティー夫人(Mrs. McGinty)を殺害した罪状により、死刑判決を受けた間借り人のジェイムズ・ゴードン・ベントリー(James Gordon Bentley)が真犯人だと思えないので、事件の再調査をしてほしい。」と依頼するのであった。


スペンス警視は、事件の詳細について、ポワロに説明する。


雑役婦 / 掃除婦(charwoman)として、いくつもの家に通っていたマギンティー夫人は、自宅の客間の床の上で死んでいるのを発見された。マギンティー夫人の家内は、家探しされており、寝室の床板の下に隠してあった30ポンドの現金が紛失していた。マギンティー夫人を殺害した凶器は見つかっておらず、押し入れられた形跡もなかった。


マギンティー夫人の間借り人であるジェイムズ・ベントリーは、上着の袖口に血がついていたにもかかわらず、マギンティー夫人が殺害された前夜以来、彼女の顔を見ていないと主張した。

また、マギンティー夫人の寝室の床板の下から紛失した30ポンドの現金は、後に家の外に隠してあるのが見つかる。


当然のことのように、間借り人のジェイムズ・ベントリーは、マギンティー夫人殺害の罪で逮捕され、事件が公判に付されると、彼はあっさりと有罪となり、死刑が確定し、死刑を待つ身となった。

あらゆる証拠がジェイムズ・ベントリーを指しているものの、スペンス警視は「事件があまりにも単純過ぎる。」と懸念を示すと、スペンス警視の話を聞いていたポワロも、彼のコメントに同意するのであった。


2026年7月6日月曜日

ロンドン コートールドギャラリー(Courtauld Gallery)- その2

コートールドギャラリーが入るサマセットハウスの北ウィング部分を
ストランド通り側から見たところ
<筆者撮影>

ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)にあり、テムズ河(River Thames)を見下ろす絶好のロケーションに建つサマセットハウス(Somerset House → 2016年7月17日)内に設けられているコートールドギャラリー(Courtauld Gallery)は、


(1)英国の実業家であるサミュエル・コートールド(Samuel Courtauld:1876年ー1947年)

(2)英国の軍人 / 外交官 / 政治家 / 慈善家である初代/リー・オブ・フェアラム子爵アーサー・ハミルトン・リー(Arthur Hamilton Lee, 1st Viscount Lee of Fareham:1868年ー1947年)

(3)英国の美術史家であるサー・ロバート・クレルモン・ウィット(Sir Robert Clermont Witt:1872年ー1952年)


によるコレクションをベースにして、1932年に設立された。


その中でも、サミュエル・コートールドによる印象派や後期印象派のコレクションが、そのメインとなっている。

サミュエル・コートールドが印象派や後期印象派の作品を中心に収集を始めた当時、英国における印象派や後期印象派の評価はまだ低く、サミュエル・コートールドは、印象派や後期印象派の優れた作品を紹介することにより、この低評価を改善することを目指していた。


コートールドギャラリーが入るサマセットハウスの北ウィング部分を
中庭側から見たところ(その1)
<筆者撮影>


1958年から1989年にかけて、コートールド美術研究所(Courtauld Institute of Art)は、シティー・オブ・ウェストミンスター区のマリルボーン地区(Marylebone)内にあるポートマンスクエア(Portman Square)に所在する一方、コレクションは、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にあるウォバーンスクエア(Woburn Square)に置かれ、分離された扱いとなっていたが、コートールド美術研究所とコレクションの両方は、英国の建築家で、ロイヤルアカデミー(Royal Academy)の創設メンバーの一人でもあるサー・ウィリアム・チェンバーズ(Sir William Chambers:1723年ー1796年)が完成させたストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)に面した新サマセットハウスの北ウィング部分へと、1989年に集約された。

コートールドギャラリーが入るサマセットハウスの北ウィング部分を
中庭側から見たところ(その2)
<筆者撮影>


コートールドギャラリーは、大改修工事のため、2018年9月3日に一旦閉鎖し、竣工後、2021年11月19日に再オープン。


コートールドギャラリーが入るサマセットハウスの北ウィング部分を
中庭側から見たところ(その3)
<筆者撮影>


コートールドギャラリーは、現在、ロンドン大学(University of London → 2016年8月6日付ブログで紹介済)附属コートールド美術研究所(Courtauld Institute of Art)の美術館で、500枚を超える絵画と26000枚を超える素描等を所蔵。比較的小規模であるものの、特に印象派や後期印象派のコレクションで非常に有名である。