2026年9月14日月曜日

ロンドン サザンベルグレイヴィア(Southern Belgravia)- その3

ベルグレイヴスクエアの東端に設置されている
イタリアのジェノヴァ出身の探検家 / 航海者 / 奴隷商人である
クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus:1446年−1506年)のブロンズ像 -
スペイン出身の彫刻家である
Tomas Banuelos(1958年ー)が1992年に制作。
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の長編第2作目で、かつ、トマス・ベレズフォード(Thomas Beresford - 愛称:トミー(Tommy))とプルーデンス・カウリー(Prudence Cowley - 愛称:タペンス(Tuppence))の記念すべきシリーズ第1作目に該る「秘密機関(The Secret Adversary → 2025年7月20日 / 10月1日付ブログで紹介済)」(1922年)は、英国の海運会社であるキュナードライン(Cunard Line)が所有する当時世界最大の旅客船で、米国ニューヨーク(New York)から英国リヴァプール(Liverpool)へと向かっていたルシタニア号(RMS Lusitania → 2025年7月22日 / 7月23日付ブログで紹介済)が、1915年5月7日の午後2時、アイルランド(Ireland)沖15㎞ の地点で、ドイツ帝国海軍(Imperial Germany Navy)の潜水艦 Uボート(U-boat)から2発の魚雷攻撃を受けて、沈没したところから、その物語が始まる。


2015年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「秘密機関」の
ペーパーバック版の表紙
(Cover design : 
HarperCollinsPublishers Ltd. /
Agatha Christie Ltd. 2015
)


第一次世界大戦(1914年ー1918年)が終わり、世界が復興へと向かう中、ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅(Dover Street Tube Station → 2025年7月30日 / 8月5日付ブログで紹介済)のドーヴァーストリート(Dover Street → 2025年7月28日 / 7月29日付ブログで紹介済)出口において、昔馴染みのトミーとタペンスは、久々の再会を果たした


ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅のドーヴァーストリート出口があった
ドーヴァーストリート5−7番地(5-7 Dover Street
→ 2025年8月5日付ブログで紹介済)の建物外観
<筆者撮影>


二人は、お互いに戦後の就職難に悩まされており、かつ、日々のお金に困っていた。トミーの方は、大戦中の1916年に負傷しており、一方、タペンスの方は、大戦中ずーっと、ボランティアとして、様々な形で働いていたのである。


HarperCollins Publishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「秘密機関」のグラフィックノベル版
(→ 2023年8月1日 / 8月14日 / 8月16日 / 8月21日付ブログで紹介済)
-
第一次世界大戦後、タペンスこと、プルーデンス・カウリーと
トミーこと、トマス・ベレズフォードの2人は、
ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅のドーヴァーストリート出口において、数年ぶりに再会する。


カフェ「リオンズ(Lyons)」に腰を落ち着けたトミーとタペンスの2人は、お互いの近況を語り合うとともに、「青年冒険家商会(The Young Adventurers, Ltd.)」を設立して、2人で報酬を獲得する術を話し合った。


地下鉄ピカデリーサーカス駅の
ベイカールーラインが停まるプラットフォームの壁にある駅表示
<筆者撮影>


翌日の昼12時に、地下鉄ピカデリー駅(Piccadilly Tube Station → 2026年8月12日 / 8月23日付ブログで紹介済)で待ち合わせて、「青年冒険家商会」の内容を更に詰めることを約束した2人は、カフェ「リオンズ」を出る。


タペンスと別れた後、トミーが散策する予定だったホテル「リッツ ロンドン」 -
ピカデリー通りを間に挟んで、通りの反対側から見上げたところ。
<筆者撮影>


トミーは、ホテル「リッツ ロンドン(The Ritz London → 2025年7月2日 / 7月14日付ブログで紹介済)」辺りまで、ブラブラと散策するつもりだった。一方、タペンスの方は、サザンベルグレイヴィア(Southern Belgravia)の寄宿寮(hostel)へ真っ直ぐに帰ることにした。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ベルグレイヴィア地区近辺の地図を抜粋。


タペンスが住む寄宿寮が所在したサザンベルグレイヴィアは、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街ベルグレイヴィア地区(Belgravia)の南側に該る。


ベルグレイヴィア地区を開発した
初代ウェストミンスター侯爵サー・ロバート・グローヴナーのブロンズ像 -
現在、ベルグレイヴスクエアの北側に建っている。
<筆者撮影>


1820年代、初代ウェストミンスター侯爵サー・ロバート・グローヴナー(Sir Robert Grosvenor, 1st Marquess of Westminster:1767年ー1845年)は、建設業者/不動産開発業者であるトマス・キュービット(Thomas Cubitt:1788年ー1855年)に対して、ウェストミンスター侯爵家が所有する同地区の開発を依頼。


シティー・オブ・ウェストミンスター区のピムリコ地区(Pimlico)内の
Denbigh Street 沿いに設置されている
トマス・キュービット像
(Sculptor : William Fawkes / Bronze / 1995)
<筆者撮影>


トマス・キュービットは、30年以上の歳月をかけて、ベルグレイヴィア地区やピムリコ地区(Pimlico)等を開発。

依頼主である初代ウェストミンスター侯爵サー・ロバート・グローヴナーは、両地区の開発完了を目にすることができなかったが、彼の長男である第2代ウェストミンスター侯爵リチャード・グローヴナー(Richard Grosvenor, 2nd Marquess of Westminster:1795年ー1869年)が、父親の事業を引き継ぎ、両地区の開発完了まで漕ぎ着けた。


ベルグレイヴスクエア内に設置されている
イタリア生まれの英国人彫刻家である
Enzo Plazzotta(1921年−1981年)作
「Homage to Leonardo, the Vitruvian Man」 -
1982年に完成の上、1984年に同地に設置。
<筆者撮影>


トマス・キュービットにより開発された地区は、ウェストミンスター侯爵(現在は、公爵(Duke))家における別の称号であるベルグレイヴ子爵(Viscount Belgrave)に因んで、ベルグレイヴィア地区と命名された。

なお、ベルグレイヴ子爵の「ベルグレイヴ」は、ウェストミンスター侯爵家の本拠地であるイートンホール(Eaton Hall)の近くにあるチェシャー州(Cheshire)のベルグレイヴ村(Belgrave)に起因している。


ベルグレイヴスクエアから南東方向へ延びる
アッパーベルグレイヴストリート(Upper Belgrave Street)沿いの建物(その1)-
画面奥に見えるのが、
ベルグレイヴスクエア。
<筆者撮影>


トマス・キュービットがテラスハウスを数多く建設したエリアは、ウェストミンスター侯爵家に因んで、「ベルグレイヴスクエア(Belgrave Square)」や「イートンスクエア(Eaton Square)」等と呼ばれるようになったのである。

トマス・キュービットがベルグレイヴスクエアやイートンスクエア等に建設したテラスハウスは、完成当初より、ロンドンにおける最も人気がある住宅街となり、貴族達や地方の地主達が挙って住み始めた。


ベルグレイヴスクエアから南東方向へ延びる
アッパーベルグレイヴストリート沿いの建物(その2)-
画面奥に見えるのが、ホウバートプレイス(Hobart Place)。
<筆者撮影>


第二次世界大戦(1939年-1945年)後、ベルグレイヴスクエアやイートンスクエア等の建物は、大使館 / 領事館、公的機関や慈善団体等に使用されるようになった。特に、ベルグレイヴスクエアには、数多くの大使館 / 領事館が集中した。

それに伴い、ベルグレイヴスクエアやイートンスクエア等の周辺に、近代的なオフィスビル、ホテルや高級店舗等が続々と建てられた。


ベルグレイヴスクエアから南東方向へ延びる
アッパーベルグレイヴストリートがホウバートプレイスと交差した辺り(その1)
<筆者撮影>


その結果、ベルグレイヴスクエアやイートンスクエア等を初めとするベルグレイヴィア地区は、ロンドンにおける高級住宅街の一つとなり、不動産価格は異常に高騰。


ベルグレイヴスクエアから南東方向へ延びる
アッパーベルグレイヴストリートがホウバートプレイスと交差した辺り(その2)
<筆者撮影>


現在、ベルグレイヴィア地区内の建物の多くは、海外に住む外国人の超富裕(スーパーリッチ)層に買い占められており、実際に住んで暮らしている人はほとんど居ないため、日中でも人気はあまりない。


2026年9月13日日曜日

ロンドン ニューボンドストリート147番地(147 New Bond Street)

ホレーショ・ネルソンが1797年に住んでいた
ニューボンドストリート147番地のの建物正面を

右側(北側)から見たところ
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース
(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作の自画像(Self-portrait)(1784年)
<筆者撮影>


そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作のエマ・ハートの肖像画(1785年頃)
<筆者撮影>


英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人を経て、1791年9月6日の結婚後、彼の正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、1793年9月の初対面の5年後の1798年9月に再会した後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)と恋愛関係になる。

前述の通り、エマ・ハミルトンは、1791年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと結婚して、ナポリ公使夫人と言う立場にあり、また、ホレーショ・ネルソンも、1787年にフランシス・ハーバート・ウールワード(Frances Herbert Woolward:1758年ー1831年)と結婚していたため、2人とも不倫だった訳である。

2人の不倫関係は、何故か、周囲から寛大に見られており、エマ・ハミルトンの夫であるサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンも、そうであった。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとしては、ホレーショ・ネルソンを英国にとって必要不可欠な人物であると見做して、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を黙認する一方、ホレーショ・ネルソンとの友情関係も維持していた、とのこと。

ただ、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、ナポリから本国である英国へと伝わり、新聞報道を経て、公となってしまった。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
Sir William Beechey 作のホレーショ・ネルソンの肖像画(1800年)
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンの英国への召喚と時を同じくして、ナポリ公使の任を解かれたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと一緒に、英国に帰国したエマ・ハミルトンは、1801年1月29日、ピカデリー通り23番地(23 Piccadilly → 2026年8月26日付ブログで紹介済)の家において、ホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソン(Horatia Nelson:1801年ー1881年)を出産した。


ピカデリー通りの対岸からホテル「ザ・ディリー(The Dilly)」(画面左側の建物)を見たところ -
エマ・ハミルトンがホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソンを出産したピカデリー通り23番地は、
画面左下にあるバス停留所の背後の店舗部分に該る。
<筆者撮影>


なお、ホレーショ・ネルソンは、エマ・ハミルトンがホレイシア・ネルソンを出産する前の1801年1月1日に、青色艦隊中将(Vice-admiral of the Blue)へ昇進し、新たな任務を帯びて、航海へ出た後だった。


ホレーショ・ネルソンが1797年に住んでいた
ニューボンドストリート147番地のの建物正面を

左側(南側)から見たところ
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンが住んでいたニューボンドストリート147番地(147 New Bond Street)が、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街メイフェア地区(Mayfair)内に所在している。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
メイフェア地区の地図を抜粋。



彼が住んでいたニューボンドストリート147番地は、トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar → 2022年4月18日 / 4月22日付ブログで紹介済)において、1805年10月21日、ホレーショ・ネルソンが戦死した後、借金地獄に陥ったエマ・ハミルトンが引っ越したニューボンドストリート136番地(136 New Bond Street → 2026年9月10日付ブログで紹介済)の安い家と、奇しくも、同じボンドストリート(Bond Street → 2017年5月21日付ブログで紹介済)沿いに所在している。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)の近くにある
地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)のプラットフォームに描かれている壁画 -
「トラファルガーの海戦」における英国艦隊の勝利とネルソン提督の死を伝える新聞記事 +
ネルソン提督の肖像画
<筆者撮影>


トラファルガーの海戦において、ホレーショ・ネルソンが戦死した後、
エマ・ハミルトンが引っ越したボンドストリート136番地だと思われる
ニューボンドストリート136番地のの建物正面を

左側(南側)から見たところ
<筆者撮影>


ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から、地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station → 2025年7月30日付ブログで紹介済)の前を通って、地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)へと西に延びるピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)と地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)から、地下鉄ボンドストリート駅(Bond Street Tube Station)の前を通って、地下鉄マーブルアーチ駅(Marble Arch Tube Station)へと西に延びるオックスフォードストリート(Oxford Street → 2016年5月28日付ブログで紹介済)を、ボンドストリートは南北に結んでいる。

現在、南側のセクションを「オールドボンドストリート(Old Bond Street)」、そして、北側のセクションを「ニューボンドストリート(New Bond Street)」と呼び、区分けしている。



ホレーショ・ネルソンが住んでいたニューボンドストリート147番地は、南側のブルートンプレイス(Bruton Place)と北側のグローヴナーストリート(Grosvenor Street)に挟まれたニューボンドストリートの西側に建っている。

より具体的に言うと、ブルートンプレイスを東方面へ進み、ニューボンドストリートへと左折した直ぐ近くに、ニューボンドストリート147番地は所在している。


ニューボンドストリート147番地の 1F(2階)と 2F(3階)の間の建物外壁には、
「ホレーショ・ネルソンが1797年に此処に住んでいた」ことを示すプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


ニューボンドストリート147番地の 1F(2階)と 2F(3階)の間の建物外壁に、「ホレーショ・ネルソンが1797年に此処に住んでいた」ことを示すプラークが掛けられている。

と言うことは、ホレーショ・ネルソンがニューボンドストリート147番地に住んでいた時期は、彼がエマ・ハミルトンに初対面した1793年9月と再会した1798年9月の間に該っている。



ニューボンドストリート147番地には、現在、アートギャラリー系のテナントが入居して、営業している。


        

2026年9月12日土曜日

ロンドン キューガーデンズ / ヘンリー・ムーア展(Kew Gardens / Henry Moore)- その3



ロンドンの特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のリッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)のリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)内に所在するキューガーデンズ(Kew Gardens)において、20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーア(Henry Spencer Moore:1898年ー1986年)の展覧会「Henry Moore : Monumental Nature」が、2027年1月31日まで開催されている。


ヘンリー・スペンサー・ムーアによる彫刻作品30点が、キューガーデンズ内の野外(正確に言うと、2点だけは屋内)に展示されている。



今回は3回目で、11番目から15番目までの彫刻を紹介したい。


(11)「Working Model for Spindle Piece」




制作年:1968年-1969年

LH 592 / Cast 0

Mediumbronze 


(12)「Two Piece Reclining Figure : Points」




制作年:1969年

LH 606 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Gift of the artist in 1977


(13)「Large Reclining Figure」




制作年:1983年

LH 192b

Fibreglass

Henry Moore Foundation : Acquired in 1987


(14)「Two Piece Reclining Figure : No. 2」




制作年:1960年

LH 458 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Gift of the artist in 1977


(15)「Reclining Figure : Bunched」




制作年:1969年

LH 489a / Cast a

Bronze

Henry Moore Foundation : Gift of the Lord Rayne in 1986


2026年9月11日金曜日

ロンドン タヴィストックスクエア(Tavistock Square)- その4

タヴィストックスクエアガーデンズの中央に設置されている
マハトマ・ガンディーのブロンズ像を正面から見たところ
<筆者撮影>

1912年8月10日に結婚した英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)英国の作家 / 出版業者 / 公務員であるレナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年の2人は、1914年の秋から約10年間を過ごしたリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)を離れ、ロンドンの中心部へと戻り、1924年3月、タヴィストックスクエア52番地(52 Tavistock Square → 2026年8月11日 / 8月17日付ブログで紹介済)に居を構えた。

2人がパラダイスロード34番地 / ホガースハウス(Hogarth House, 34 Paradise Road → 2026年7月31日 / 8月5日付ブログで紹介済)の居間に設立した出版社「ホガースプレス(Hogarth Press)」は、タヴィストックスクエア52番地の建物の地下に設置された。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人は、1924年から第二次世界大戦(1939年-1945年)が始まった1939年までの間、タヴィストックスクエア52番地に住むことになる。

現在、タヴィストックスクエア52番地の跡地には、タヴィストックホテル(Tavistock Hotel)が建っている。


画面奥に見える建物は、
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
約10年間を過ごしたリッチモンドを離れ、ロンドンの中心部へと戻り、
1924年3月に移った
タヴィストックスクエア52番地の跡地に建つタヴィストックホテル -
手前に見える庭園は、タヴィストックスクエアガーデンズ。
<筆者撮影>


タヴィストックホテルの玄関左側の外壁に掛けられている
英国ヴァージニア・ウルフ協会のプラークには、
ヴァージニア・ウルフとレナード・ウルフの2人が、1924年から1939年までの間、
タヴィストックスクエア52番地の建物に住んでいたことが記されている。
<筆者撮影>


タヴィストックスクエア52番地の建物が面するタヴィストックスクエア(Tavistock Square)の中央に設けられたタヴィストックスクエアガーデンズ(Tavistock Square Gardens)の南西の角に、英国ヴァージニア・ウルフ協会(Virginia Woolf Society of Great Britain)により、ヴァージニア・ウルフのブロンズ胸像が設置されている。


タヴィストックスクエアガーデンズの南西の角に設置されている
ヴァージニア・ウルフのブロンズ胸像のアップ
<筆者撮影>


タヴィストックスクエアガーデンズ内には、ヴァージニア・ウルフのブロンズ胸像以外に、以下のブロンズ像が設置されている。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。



側の入口近くに設置されている
タヴィストックスクエアガーデンズの沿革に関する説明板

<筆者撮影>

(1)マハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi:1869年ー1948年)


タヴィストックスクエアガーデンズの中央に設置されている
マハトマ・ガンディーのブロンズ像を背面から見たところ
<筆者撮影>


マハトマ・ガンディーは、インドの宗教家 / 政治指導者で、本名はモーハンダース・カラムチャンど・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi)。

彼は、1869年10月2日、英国領インド帝国、現在のグジャラート州の港町ポールバンダルに、当時のポールバンダル藩王国の宰相であるカラムチャンド・ガンディーと夫人のプラリーバーイーの四男として出生。

南アフリカにおいて、弁護士として働く一方で、公民権運動に参加。

帰国後、民衆暴動やゲリラ戦ではなく、「非暴力不服従」を提唱の上、インドの英国からの独立運動を指揮して、1947年8月、独立を勝ち取ったことにより、「インド独立の父」として知られている。

その半年後の1948年1月30日、民族義勇団(RSS)の活動家によって暗殺された。


マハトマ・ガンディーのブロンズ像は、ポーランドの彫刻家 / 女優であるフレッダ・ブリリアント(Fredda Brilliant:1903年ー1999年)によって制作され、1968年にタヴィストックスクエアガーデンズの中央に設置された。


ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンの入口から見た
主要校舎ウィルキンスビル(Wilkins Building)
<筆者撮影>


マハトマ・ガンディーは、18歳の時、ロンドンへ来て、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London → 2015年8月16日付ブログで紹介済)で学んでおり、タヴィストックスクエアガーデンズがユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンの近くにあることから、同ガーデンズが設置場所として選定されたものと思われる。


(2)ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイク(Louisa Brandreth Aldrich-Blake:1865年ー1925年)


タヴィストックスクエアガーデンズの南東の角に設置されている
ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイクのブロンズ胸像の全体
<筆者撮影>


ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイクは、英国の外科医で、英国において、直腸癌(rectal cancer) / 子宮頸管部癌(cervical cancer)の外科手術を行った女性の一人である。


タヴィストックスクエアガーデンズの南東の角に設置されている
ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイクのブロンズ胸像のアップ
<筆者撮影>


ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイクのブロンズ像の場合、胸像は、英国の彫刻家 / 画家であるアーサー・ジョージ・ウォーカー(Arthur George Walker :1861年ー1939年)によって制作され、また、台座は、英国の建築家であるサー・エドウィン・ランドシーア・ルトイェンツ(Sir Edwin Landseer Lutyens :1869年ー1944年)によって制作され、1927年にタヴィストックスクエアガーデンズの南東の角に設置された。


ロンドン大学の本部が置かれているセナトハウス
(Senate House → 2017年1月15日付ブログで紹介済)
<筆者撮影>


ルイーザ・ブランドレス・アルドリッヒ=ブレイクは、ロンドン大学(University of London → 2016年8月6日付ブログで紹介済)で学んでおり、タヴィストックスクエアガーデンズがロンドン大学の近くにあることから、同ガーデンズが設置場所として選定されたものと思われる。