2026年9月26日土曜日

ロンドン キューガーデンズ / ヘンリー・ムーア展(Kew Gardens / Henry Moore)- その5

   


ロンドンの特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のリッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)のリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)内に所在するキューガーデンズ(Kew Gardens)において、20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーア(Henry Spencer Moore:1898年ー1986年)の展覧会「Henry Moore : Monumental Nature」が、2027年1月31日まで開催されている。


ヘンリー・スペンサー・ムーアによる彫刻作品30点が、キューガーデンズ内の野外(正確に言うと、2点だけは屋内)に展示されている。



今回は4回目で、21番目から25番目までの彫刻を紹介したい。


(21)「Family Group」




制作年:1948年ー1949年

LH 269 / Cast 00

Bronze 

Henry Moore Foundation : Acquired in 1992


(22)「Large Totem Head」




制作年:1968年

LH 577 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Acquired in 1987


(23)「Figure in a Shelter」




制作年:1983年

LH 652a / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Acquired in 1986


(24)「Large Spindle Piece」




制作年:1968年

LH 593 / Cast 0

Bronze

Henry Moore Foundation : Acquired in 1986


(25)「Upright Motive No. 7」




制作年:1955年ー1956年

LH 368 / Cast 5

Bronze

Henry Moore Foundation : Gift of the artist in 1977


2026年9月25日金曜日

ロンドン ハイゲイト墓地(Highgate Cemetery)- その5

アガサ・クリスティー作「鏡は横にひび割れて」の題名のベースになっている
詩「シャロット姫」の作者である初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンの
母エリザベス・テニスンと兄(長男)フレデリック・テニスンの2人は、
ハイゲイト墓地の西区画に埋葬されている。
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1962年に発表したミス・マープルシリーズ作品の長編第8作目「鏡は横にひび割れて(Mirror Crack’d from Side to Side)」では、「ゴシントンホール(Gossington Hall - ミス・マープルの親友であるドリー・バントリー(Dolly Bantry → 2024年8月14日付ブログで紹介済)が所有していた邸宅)」を購入して、最近、セントメアリーミード村(St. Mary Mead)に引っ越して来た米国の映画女優であるマリーナ・グレッグ(Marina Gregg)と彼女の夫で、映画監督であるジェイスン・ラッド(Jason Rudd)が開催したセントジョン野戦病院協会(St. John Ambulance)支援パーティーの席上、マリーナ・グレッグを捕まえて、長い昔話を始めた同協会の幹事を務めるヘザー・バドコック(Mrs. Heather Badcock)が、突然倒れて、死亡してしまう事件が発生する。

スコットランドヤードのダーモット・クラドック主任警部(Chief Inspector Dermot Craddock)が捜査を担当し、検死解剖の結果、ヘザー・バドコックの死因は、推奨量の6倍もの精神安定剤を摂取したことによるもので、その精神安定剤は、マリーナ・グレッグが持っていたダイキリ(daiquiri)のグラス内に混入されており、自分の飲み物をこぼしたヘザー・バドコックに対して、マリーナ・グレッグがそのグラスを手渡したのであった。


英国の Harper Collins Publishers 社から出版されている
アガサ・クリスティー作ミス・マープルシリーズ
「鏡は横にひび割れて」のペーパーバック版の表紙
<イラスト:ビル・ブラッグ氏(Mr. Bill Bragg)>


ヘザー・バドコックとマリーナ・グレッグの会話を近くで聞いていたドリー・バントリーは、ヘザー・バドコックが長話をしている間、マリーナ・グレッグが非常に奇妙な表情を浮かべていたことに気付いた。

その違和感について、ドリー・バントリーは、セントジョン野戦病院協会支援パーティーに参加できなかったミス・マープルに対して、説明を行う。


「そうではなくて、マリーナ・グレッグの顔をよ。バドコックという女の話なんか、ひとことも聞いていなかったみたいな顔つきをしていたわ。相手の肩ごしに正面の壁を見つめているのよ。その見つめかたがねえ - どうにもわたしには説明できそうにないわ」

「そんなことを言わないで、なんとか努力してみてよ」とミス・マープルは言った。「そこのところが重要な点かもしれないのだから」

「一種の凍りついたような表情だったわ」と彼女は言葉をさがしさがし説明しようとした。「まるで、なにかを見たみたいな - 情景を描写するなんてむずかしいものなのねえ。ああ、そうだわ、『レディ・オブ・シャロット』をおぼえていない?鏡は横にひび割れぬ。”ああ、わが命運もつきたり”と、シャロット姫は叫べり。マリーナもそういった表情をしていたのよ。近頃の人はテニスンなんて古臭いというけれど、わたしは若いときには心をときめかせて『レディ・オブ・シャロット』を読んだものだし、いまだってそうなのよ」

「凍りついたような表情をしていたのね」ミス・マープルは考えこんだ。

(橋本福夫訳)


横にひび割れた鏡 -
ジグソーパズル「アガサ・クリスティーの世界(The World of Agatha Christie)」の一部


アガサ・クリスティー作「鏡は横にひび割れて」の題名は、初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson:1809年ー1892年)による詩「シャロット姫(The Lady of Shalott)」をベースにしている。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)で展示されている
アルフレッド・テニスンの肖像画
(By George Frederic Watts / Oil on canvas / 1863年ー1864年頃) 
<筆者撮影>


Out flew the web and floated wide -

The mirror crack’d from side to side;

“The curse is come upon me,” cried

The Lady of Shalott.


織物はとびちり、ひろがれり

鏡は横にひび割れぬ

「ああ、呪いがわが身に」と、

シャロット姫は叫べり。

(橋本福夫訳)


テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)で購入した
英国の画家であるジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
(John William Waterhouse:1849年ー1917年)
作
「シャロット姫(The Lady of Shalott → 2024年9月28日付ブログで紹介済)」
(1888年)の絵葉書
Oil paint on canvas
153 cm x 200 cm
Presented by Sir Henry Tate in 1894


アルフレッド・テニスンは、1809年8月6日、英国国教会の牧師である父ジョージ・クレイトン・テニスン(George Clayton Tennyson)と母エリザベス(Elizabeth - 旧姓:Fytche)の三男として、リンカンシャー州(Lincolnshire)サマズビー(Somersby)に出生。

アルフレッド・テニスンの兄には、フレデリック・テニスン(長男 / Frederick Tennyson:1807年ー1898年)とチャールズ・テニスン・ターナー(次男 / Charles Tennyson Turner:1808年ー1879年)が居た。

アルフレッド・テニスンは、1827年、兄のフレデリック・テニスン / チャールズ・テニスン・ターナーと一緒に、最初の詩集「Poems by Two Brothers」を出版している。


アルフレッド・テニスンの
母エリザベス・テニスンと兄(長男)フレデリック・テニスンの墓のアップ
<筆者撮影>


アルフレッド・テニスンの母エリザベス・テニスンと兄(長男)フレデリック・テニスンの2人は、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のハイゲイト地区(Highgate)内にあるハイゲイト墓地(Highgate Cemetery → 2018年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)の西区画(West Cemetery)に埋葬されている。


ハイゲイト墓地入場時に受け取った西区画の地図から抜粋。


ハイゲイト墓地の東区画(East Cemetery)の場合、入場料を支払えば、区画内を自由に見学できるが、西区画の場合、以前は、ツアー(入場料が必要)による見学のみが可能だった。

現在、西区画も、東区画と同様に、入場料を支払えば、区画内を自由に見学できる扱いに変更されている。


アルフレッド・テニスンの母エリザベス・テニスンの墓は手前にあり、
と兄(長男)フレデリック・テニスンの墓は、その後ろに建っている。
<筆者撮影>


アルフレッド・テニスンの母エリザベス・テニスンと兄(長男)フレデリック・テニスンの墓は、西区画内の見学が終わった出口近くにあり、手前の十字架の形をしたのが、アルフレッド・テニスンの母エリザベス・テニスンの墓で、その後ろに建っているのが、アルフレッド・テニスンの兄(長男)フレデリック・テニスンの墓である。


2026年9月24日木曜日

ロンドン メクレンバーグスクエア37番地(37 Mecklenburgh Square)- その2

ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が住んでいた
メクレンバーグスクエア37番地の建物は、画面左側の棟に該る。
<筆者撮影>


1912年8月10日に結婚した英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)と英国の作家 / 出版業者 / 公務員であるレナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年)の2人は、1914年の秋から約10年間を過ごしたリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)を離れ、ロンドンの中心部へと戻り、1924年3月、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にあるタヴィストックスクエア52番地(52 Tavistock Square → 2026年8月11日 / 8月17日付ブログで紹介済)に居を構えた。


レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人が、
リッチモンドから引っ越した
タヴィストックスクエア52番地の跡地に建つ
タヴィストックホテル
<筆者撮影>


タヴィストックホテルの玄関左側の外壁に掛けられている
英国ヴァージニア・ウルフ協会のプラークには、
ヴァージニア・ウルフとレナード・ウルフの2人が、1924年から1939年までの間、
タヴィストックスクエア52番地の建物に住んでいたことが記されている。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人がロンドンの中心部へと戻って来た1924年3月当時は、第一次世界大戦(1914年ー1918年)を経て、戦勝国である英国の経済が急速に回復し、好景気に沸いている頃だった。

残念ながら、この好景気は一時的なものにすぎず、1929年の米国ニューヨーク株式市場における大暴落を皮切りに始まった世界恐慌(The Great Depression)は、全世界へと拡大して、各地に失業と貧困を引き起こした。その結果、ナチズムとファシズムが台頭、再び戦争の足音が聞こえ始めるのだった。

レナード・シドニー・ウルフはユダヤ人だったため、2人は反ユダヤ主義を伴ったファシズムを非常に恐れていた。こうして、ヴァージニア・ウルフの精神状態は、またもや悪化の一途を辿っていくのである。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が恐れていたことが、やがて現実となった。1939年、英国がドイツに対して宣戦布告したため、第二次世界大戦(1939年ー1945年)が勃発。

ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフが住んでいたタヴィストックスクエア52番地の建物は、ドイツ軍によるロンドン爆撃を受けて、損壊。

そのため、同年、ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人は、比較的安全な地域と考えられたカムデン区のセントパンクラス地区(St. Pancras)内にあるメクレンバーグスクエア37番地(37 Mecklenburgh Square)の最上階へと引っ越したのである。


メクレンバーグスクエア37番地に引っ越したのも束の間、1940年9月から始まったドイツ軍によるロンドン大空襲(The Blitz)により被害を受け、ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人は、1919年に購入したイーストサセックス州(East Sussex)にある別荘モンクスハウス(Monk’s House)へと移動せざるを得なかった。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
セントパンクラス地区近辺の地図を抜粋。



ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフが1939年から1940年まで住んでいたメクレンバーグスクエア37番地の家は、メクレンバーグスクエアガーデンズ(Mecklenburgh Square Gardens)に面している。


画面左側に見える庭園が
メクレンバーグスクエアガーデンズ。
<筆者撮影>


メクレンバーグスクエアガーデンズは、西側に隣接するブランズウィックスクエアガーデンズ(Brunswick Square Gardens → 2026年6月28日付ブログで紹介済)と同じく、元々、英国の船長(sea captain)から慈善家(philanthropist)へ転じたトマス・コラム(Thomas Coram:1668年-1751年)が1739年に設立した孤児院(Foundling Hospital)に属する土地だった。


ブランズウィックスクエアガーデンズ内の案内板
<筆者撮影>


ブランズウィックスクエアガーデンズの園内
<筆者撮影>


孤児院運営用の資金調達のため、英国の不動産開発業者(property developer)であるジェイムズ・バートン(James Burton:1761年ー1837年)が、1795年から1802年にかけて、後にブランズウィックスクエアとなる周辺の住宅街を建設。続いて、1804年から1825年にかけ、後にメクレンバーグスクエアとなる周辺の住宅街が建設された。


ナショナルポートレイトギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ハノーヴァー朝の第4代英国王であるジョージ4世の肖像画
(By Sir Thomas Lawrence / Oil on canvas / 1814年頃)
<筆者撮影>


西側の区画は、ハノーヴァー朝(House of Hanover)第4代英国王のジョージ4世(George IV:1762年ー1830年 在位期間:1820年ー1830年)の王妃であるキャロライン・アメリア・エリザベス・オブ・ブランズウィック=ウォルフェンビュッテル(Caroline Amelia Elizabeth of Brunswick-Wolfenbuttel:1768年ー1821年)に因んで、「ブランズウィックスクエア(Brunswick Square)」と、また、東側の区画は、ハノーヴァー朝の第3代国王であるジョージ3世(George III:1683年ー1820年 在位期間:1760年ー1820年)の王妃であるソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ(Sophia Charlotte of Mecklenburg- Strelitz:1744年ー1818年)に因んで、「メクレンバーグスクエア(Mecklenburgh Square)」と名付けられた。


ナショナルポートレイトギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ハノーヴァー朝の第3代英国王であるジョージ3世の肖像画
(By the studio of Allan Ramsay / Oil on canvas /
based on a portrait of 1761 - 1762)
<筆者撮影>


ナショナルポートレイトギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ジョージ3世の王妃である
ソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ
(1744年ー1818年)の肖像画

(By the studio of Allan Ramsay / Oil on canvas /
based on a portrait of 1761 - 1762)
<筆者撮影>


現在、「ブランズウィックスクエア」の北側には、孤児院の歴史を紹介する孤児院博物館(Foundling Museum)や孤児院を設立したトマス・コラムのブロンズ像が建っている。


ブランズウィックスクエアの北東の角に建つ孤児院博物館
<筆者撮影>


ブランズウィックスクエアの北東の角に設置されている
慈善家で、1739年に孤児院を設立した
トマス・コラムのブロンズ像
<筆者撮影>


慈善家で、1739年に孤児院を設立した
トマス・コラムの説明プレート
<筆者撮影>


ブランズウィックスクエアの東側には、サッカー競技場と「コラムフィールズ(Coram’s Fields - 大人は、子供を伴っている場合のみ、入園可能)」が広がっている。


メクレンバーグスクエアの北側から東方面を見たところ -
画面中央奥に見える建物が、
メクレンバーグスクエア26番地の NYU Byron Court(学生寮)。
<筆者撮影>


更に、その東側には、メクレンバーグスクエアガーデンズが所在している。

メクレンバーグスクエアガーデンズ自体は、1809年から1810年にかけて、造園された。

ブランズウィックスクエアガーデンズは、一般に開放されているが、一方、メクレンバーグスクエアガーデンズの場合、周辺の住民のみがアクセス可能。


メクレンバーグスクエアの北東の角から北方面を見たところ -
画面奥へ延びる通りは、メクレンバーグストリート(Mecklenburgh Street)。
<筆者撮影>


「メクレンバーグスクエア」は、「ブランズウィックスクエア」や「コラムフィールズ」と一緒に、歴史がある公園 / 庭園(Historic Parks and Gardens)として、Grade II listed に指定されている。


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が住んでいた
メクレンバーグスクエア37番地の跡地に建てられた William Goodenough House -
現在、四つ星ホテルが入って、営業中。
<筆者撮影>


なお、ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフが1939年から1940年までの間住んでいたメクレンバーグスクエア37番地の家は、1940年9月から始まったドイツ軍によるロンドン大空襲により被害を受けたため、1957年に Goodenough College の William Goodenough House として建て替えられている。

現在、Goodenough Accommodation と言う四つ星ホテルが入って、営業している。



2026年9月23日水曜日

ロンドン ハックニーエンパイア劇場(Hackney Empire Theatre)- その1

メアストリートの対岸から
ハックニーエンパイア劇場の正面を見たところ
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「スペイン櫃の謎(The Mystery of the Spanish Chest)」(1960年)は、1932年に発表された短編「バグダッドの大櫃の謎(The Mystery of the Baghdad Chest)」を改稿した中編で、短編集「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)に収録されている。


英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」の TV ドラマ版が、英国の TV 会社 ITV 社による制作の下、「Agatha Christie’s Poirot」の第27話(第3シリーズ)として、1991年2月17日に放映されている。英国の俳優であるサー・デヴィッド・スーシェ(Sir David Suchet:1946年ー)が、名探偵エルキュール・ポワロを演じている。


第27話「スペイン櫃の謎」が収録された
エルキュール・ポワロシリーズの DVD コレクション No. 3 の表紙


第27話「スペイン櫃の謎」が収録された
エルキュール・ポワロシリーズの DVD コレクション No. 3 の裏表紙


アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」の TV ドラマ版の場合、原作対比、以下のような差異が見受けられる。


<原作>

ある日の朝、エルキュール・ポワロが秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)にその日の仕事を指示する際、持参した朝刊の見出しにある記事「スペイン櫃の謎(SPANISH CHEST MYSTERY)」に興味を持ち、彼女に対して、事件の詳細を調べるよう、頼むところから、物語が始まる。つまり、物語の冒頭、事件は発生しており、ポワロは事後に事件に関与する形を採っている。


<英国 TV ドラマ版>

英国 TV ドラマ版の場合、原作とは異なり、ポワロは事件の発生前から関係者達に出会い、物語の中盤に事件が発生して、ポワロが事件の調査を行うと言う形へ変更されている。


メアストリートの対岸から
ハックニーエンパイア劇場の正面上部を見たところ
<筆者撮影>


(1)

10年前、エドワード・クレイトン(Edward Clayton - 原作のアーノルド・クレイトン(Arnold Clayton)に相当)とカーティス(陸軍)大佐(Colonel Curtiss - 原作のジョック・マクラーレン(海軍)中佐(Commander Jock McLaren)に相当)の2人が、マーガリート・クレイトン(Marguerite Clayton - 原作のマーガリータ・クレイトン(Margharita Clayton)に相当)との結婚を賭けて、フェンシングによる決闘を行う場面が描かれる。

日本における武士の果たし合いのように、命を賭ける訳ではなく、相手の身体に傷を負わせた時点で、勝敗が決するルールだったと思われる。

実際、エドワード・クレイトンが振るったフェンシングの剣先が、カーティス大佐の頬を傷付けたところで勝敗が決して、エドワード・クレイトンがマーガリートを妻にしたのである。


(2)

上記(1)から10年後、ポワロは、アーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings)と一緒に、劇場において、オペラ「リゴレット(Rigoletto - ヴィクトル・ユーゴーの戯曲「王様はお楽しみ」を原作にしたヴェルディ(Verdi)による歌劇)」を観劇。

インターバル時に、ポワロは、レディー・キャロライン・チャタートン(Lady Caroline Chatterton - 原作のレディー・アビー・チャタートン(Lady Abbie Chatterton)に相当)から声を掛けられる。

レディー・キャロライン・チャタートンによると、彼女はポワロの知人で、ポワロが Chalfont diamond case(ダイヤモンドの盗難事件?)を解決した際、彼女も容疑者の一人だった、とのこと。

レディー・キャロライン・チャタートンは、ポワロに対して、「友人のマーガリート・クレイトンの件で、相談したいことがある。」と話す。

その際、ポワロは、遠方でマーガリート・クレイトンとジョン・リッチ(陸軍)少佐(Major John Rich - 原作のチャールズ・リッチ少佐(Major Charles Rich)に相当)が歓談しているのを見かける。


(3)

レディー・キャロライン・チャタートンから相談を受けたポワロは、翌日の午前11時、ヘイスティングス大尉を伴って、彼女の自宅を訪問の上、更に詳しい説明を受ける。

レディー・キャロライン・チャタートン曰く、


*10年前に、マーガリート・クレイトンとの結婚をめぐって、2人の男性(エドワード・クレイトンとカーティス大佐)が、フェンシングで対決。


*エドワード・クレイトンは、妻のマーガリート・クレイトンとジョン・リッチ少佐の関係を疑っていて、そのため、彼女を殺害しようとしているのではないか?


とのことだった。


ハックニーエンパイア劇場の側面を見たところ
<筆者撮影>

ハックニーエンパイア劇場の裏側を見たところ
<筆者撮影>


上記(2)において、ポワロが、ヘイスティングス大尉と一緒に、オペラ「リゴレット」を観劇した劇場として、ハックニーエンパイア劇場(Hackney Empire Theatre)の内部が撮影に使用されている。


ハックニーエンパイア劇場の周辺地図(Google Maps から抜粋)


ハックニーエンパイア劇場は、ロンドンの特別区の一つであるハックニー区(London Borough of Hackney)ハックニー地区(Hackney)内に所在しており、南北に延びるメアストリート(Mare Street)の西側に建っている。


ライルストリート(Lisle Street)の対岸から
ヒッポドローム劇場を見たところ
<筆者撮影>



ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のソーホー地区(Soho)内に所在するヒッポドローム劇場(The Hippodrome → 2015年10月17日付ブログで紹介済)やロンドンの特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のリッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)のリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)内に所在するリッチモンド劇場(Richmond Theatre → 2026年7月25日 / 7月27日付ブログで紹介済)と同じく、ハックニーエンパイア劇場も、劇場の建設やデザインを専門とする英国の建築家であるフランク・マッチャム(Frank Matcham:1854年ー1920年)による設計に基づいて、1901年にミュージックホールとして建てられた。


リトルグリーン通り(Little Green)の対岸から
リッチモンド劇場を見たところ
<筆者撮影>