2026年8月26日水曜日

ロンドン ピカデリー通り23番地(23 Piccadilly)

ピカデリー通りの対岸からホテル「ザ・ディリー」(画面左側の建物)を見たところ -
エマ・ハミルトンがホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソンを出産したピカデリー通り23番地は、
画面左下にあるバス停留所の背後の店舗部分に該る。
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース
(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作の自画像(Self-portrait)(1784年)
<筆者撮影>


そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作のエマ・ハートの肖像画(1785年頃)
<筆者撮影>


英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人を経て、1791年9月6日の結婚後、彼の正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、1793年9月の初対面の5年後の1798年9月に再会した後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)と恋愛関係になる。

前述の通り、エマ・ハミルトンは、1791年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと結婚して、ナポリ公使夫人と言う立場にあり、また、ホレーショ・ネルソンも、1787年にフランシス・ハーバート・ウールワード(Frances Herbert Woolward:1758年ー1831年)と結婚していたため、2人とも不倫だった訳である。

2人の不倫関係は、何故か、周囲から寛大に見られており、エマ・ハミルトンの夫であるサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンも、そうであった。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとしては、ホレーショ・ネルソンを英国にとって必要不可欠な人物であると見做して、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を黙認する一方、ホレーショ・ネルソンとの友情関係も維持していた、とのこと。

ただ、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、ナポリから本国である英国へと伝わり、新聞報道を経て、公となってしまった。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
Sir William Beechey 作のホレーショ・ネルソンの肖像画(1800年)
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンの英国への召喚と時を同じくして、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンもナポリ公使の任を解かれた。

エマ・ハミルトンは、少なくとも、1800年4月の時点で、ホレーショ・ネルソンの子を懐妊していたと推測される。

エマ・ハミルトンは、母メアリー・キッド(Mary Kidd)、夫サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンや愛人ホレーショ・ネルソンと一緒に、中央ヨーロッパ経由で、1800年11月6日に英国へ帰国。

妊娠しているエマ・ハミルトンを見たホレーショ・ネルソンの妻フランシス・ハーバート・ウールワードは、不快な表情を見せたため、これがまた新聞の恰好なネタとなり、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、再度世間を騒がせた。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとは異なり、フランシス・ハーバート・ウールワードは、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を最後まで認めなかった。


グローヴナースクエアグローヴナースクエア
(Grosvenor Square → 2015年2月22日付ブログで紹介済)
から北へ延びる
ノースオードリーストリート(North Audley Street)の対岸から見た
グローヴナースクエア22番地の建物全景
<筆者撮影>


英国への帰国後、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとエマ・ハミルトンは、グローヴナースクエア22番地(22 Grosvenor Square → 2026年8月15日付ブログで紹介済)にある英国の作家 / 政治家であるウィリアム・トマス・ベックフォード(William Thomas Beckford:1760年ー1844年)の邸宅へ一旦入居。

1800年12月に、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとエマ・ハミルトンは、ピカデリー通り23番地(23 Piccadilly)の家を賃借して、グローヴナースクエア22番地から転居。


画面右側が、ホテル「ザ・ディリー」(ピカデリー通り21番地)の入口で、
画面左側が、
エマ・ハミルトンがホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソンを出産したピカデリー通り23番地。
<筆者撮影>


1801年1月1日、ホレーショ・ネルソンは、青色艦隊中将(Vice-admiral of the Blue)へ昇進し、新たな任務を帯びる。

航海中、ホレーショ・ネルソンは、妻フランシス・ハーバート・ウールワード宛に、短く、かつ、冷淡な手紙を送り、以降、彼女に会うことは二度となかった。一方、彼は、エマ・ハミルトンとは、何度も書簡を交わし、彼女の健康状態を気にかけていた。

エマ・ハミルトンは、1780年(15歳)に産んだ娘エマ・カルー(Emma Carew - 愛人だった第2代準男爵サー・ヘンリー・フェザーストノー(Sir Henry Fetherstonhaugh, 2nd Baronet:1754年ー1846年)の子供)の存在を、ホレーショ・ネルソンから隠し続けた。


バス停留所の背後にある店舗部分が、
エマ・ハミルトンがホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソンを出産したピカデリー通り23番地。

<筆者撮影>


そして、1801年1月29日、エマ・ハミルトンは、ピカデリー通り23番地の家において、ホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソン(Horatia Nelson:1801年ー1881年)を出産したのである。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ソーホー地区の地図を抜粋。-
エマ・ハミルトンがホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソンを出産したピカデリー通り23番地は、
画面中央下部にある「
Le Meridien」と言う表示辺りに位置している。


エマ・ハミルトンがホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソンを出産したピカデリー通り23番地は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街メイフェア地区(Mayfair)内に所在している。



ピカデリー通り23番地は、ベイカールーライン(Bakerloo Line)とピカデリーライン(Piccadilly Line)の2線が乗り入れる地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station → 2026年8月12日 / 8月23日付ブログで紹介済)とピカデリーラインが停まる地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)を東西に結ぶ約1マイルの幹線道路であるピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)の北側に位置している。


英国で出版された「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」
1891年8月号に掲載された挿絵 -

シャーロック・ホームズは、昼食後、
ジョン・H・ワトスンと一緒に、
セントジェイムズホールにおいて、
サラサーテのヴァイオリン演奏会を楽しむ。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(Sidney Edward Paget 1860年 - 1908年)


サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)の「赤毛組合(The Red-Headed League → 2022年9月25日 / 10月9日 / 10月11日 / 10月16日付ブログで紹介済)」の中で、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)に相談に訪れた質屋(pawnbroker)のジェイベス・ウィルスン(Jabez Wilson)が帰った後、シャーロック・ホームズはジョン・H・ワトスンをセントジェイムズホール(St. James's Hall → 2014年10月4日付ブログで紹介済)へ誘う。

ホームズによると、その日の午後、セントジェイムズホールで、スペイン出身の作曲家兼ヴァイオリン奏者であるパブロ・マルティン・メリトン・デ・サラサーテ・イ・ナバスクエス(Pablo Martin Meliton de Sarasate y Navascuez:1844年ー1908年)の演奏会がある、とのことだった。

ホームズとワトスンは、ジェイベス・ウィルスンの質屋の様子を見に行った後、昼食をとってから、セントジェイムズホールへ向かう。


昼間のル・メリディアン・ピカデリー・ホテル(2014年10月時点)の建物正面
<筆者撮影>


夕闇に浮かぶル・メリディアン・ピカデリー・ホテル(2014年10月時点)
<筆者撮影>


残念ながら、セントジェイムズホールは現存しておらず、ホテルに様変わりしており、2014年10月時点では、「ル・メリディアン・ピカデリー・ホテル(Le Meridien Piccadilly Hotel)」と言うホテルだったが、現在(2026年8月時点)、「ザ・ディリー(The Dilly)」と言う5つ星のホテルが営業している。

当該ホテルの住所は、「ピカデリー通り21番地(21 Piccadilly, Mayfair, London W1J 0BH)」となっているので、エマ・ハミルトンがホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソンを出産したピカデリー通り23番地の場合、ホテル「ザ・ディリー」の入口の左隣りにある店舗部分が、それに該る。


、エマ・ハミルトンがホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソンを出産したピカデリー通り23番地は、
現在、空き店舗となっている。

<筆者撮影>


ピカデリー通り23番地に該る店舗部分の前は、現在、バスの停留所が置かれている。

最近、ピカデリー通り23番地を含めた店舗部分の入れ替わりが頻繁にあり、現状、ピカデリー通り23番地に該る店舗部分は、空き店舗となっている。 


2026年8月25日火曜日

ロンドン ケンサルグリーン墓地(Kensal Green Cemetery)- その3

ケンサルグリーン墓地内にある
英国の小説家 / 推理作家 / 劇作家ウィリアム・ウィルキー・コリンズの墓(その1)
<筆者撮影>

ケンサルグリーン墓地(Kensal Green Cemetery → 2023年12月15日付ブログで紹介済)の場合、その大部分がロンドンの特別区の一つであるケンジント&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のノースケンジントン地区(North Kensington)の北端ケンサルグリーン(Kensal Green)内にあり、西側の一部がロンドンの特別区の一つであるハマースミス&フラム区(London Borough of Hammersmith and Fulham)内にある。

ケンサルグリーン墓地は、北側のハーロウロード(Harrow Road)と南側のグランドユニオンカナル(Grand Union Canal)と言う運河に挟まれたエリア内にある広大な共同墓地(約29ヘクタール)である。


ケンサルグリーン墓地内にある
英国の小説家 / 推理作家 / 劇作家ウィリアム・ウィルキー・コリンズの墓(その2)
<筆者撮影>


ケンサルグリーン墓地は、英国の弁護士、雑誌編集者で、実業家でもあったジョージ・フレデリック・カーデン(George Frederick Carden:1798年ー1874年)が出資者となり、1833年にオープンした。


ケンサルグリーン墓地内にある
英国の小説家 / 推理作家 / 劇作家ウィリアム・ウィルキー・コリンズの墓(その3)
<筆者撮影>


ケンサルグリーン墓地は、ハイゲイト墓地(Highgate Cemetery → 2018年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)やブロンプトン墓地(Brompton Cemetery → 2015年9月6日付ブログで紹介済)と同じように、ロンドンの「7大墓地(Magnificent Seven)」の一つであるが、7大墓地の中で、一番最初に出来た共同墓地である。


英国の The Orion Publishing Group Ltd. より2021年に発売された
ジグソーパズル「
チャールズ・ディケンズの世界(The World of Charles Dickens)」における
画面中央の男性(右手に原稿の束を、左手に羽根ペンを持った男性)が、
英国の小説家 / 推理作家 / 劇作家であるウィリアム・ウィルキー・コリンズである。
<筆者撮影>


推理小説「月長石(The Monnstone → 2022年9月30日付ブログで紹介済)」(1868年)の作者として有名なウィリアム・ウィルキー・コリンズ(William Wilkie Collins:1824年ー1889年)は、ヴィクトリア朝時代(1837年-1901年)に活躍した英国の小説家 / 推理作家 / 劇作家で、ケンサルグリーン墓地内に彼の墓もある。

「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ケンサルグリーン墓地周辺の地図を抜粋。-
英国の小説家 / 推理作家 / 劇作家ウィリアム・ウィルキー・コリンズの墓は、
画面左上の ⚫️ マークの辺りにある。


彼は、1824年にロイヤルアカデミー(Royal Academy)に所属する高名な風景画家であるウィリアム・コリンズ(William Collins)の長男としてロンドン(ニューキャヴェンディッシュストリート11番地(11 New Cavendish Street)→ 2022年9月7日付ブログで紹介済)に出生し、父親の名前に因んで、ウィリアム・ウィルキー・コリンズと名付けられるが、名付け親(godfather)であるデイヴィッド・ウィルキー(David Wilkie)からもらったミドルネームを用いて、ウィルキー・コリンズと呼ばれるようになった。


ウィリアム・ウィルキーコリンズが生まれた
ニューキャヴェンディッシュストリート11番地に該当する建物 -
地上界には、マリルボーン図書館(Marylebone Library)が入居しており、
上階は、フラットになっている。
<筆者撮影>


彼の出生後、彼の両親がロンドン市内で何度も引っ越しをしたため、1828年に生まれた4歳下の弟チャールズ・オールストン・コリンズ(Charles Allston Collins)と一緒に、彼らの母親から自宅で初期教育を受けた。また、彼の両親は宗教的に厳格だったため、自分達の子供達に教会への参列を強制したが、彼自身は嫌だったようである。

1836年から1838年に架けて、彼は、家族とともに、イタリア、そして、フランスに移住し、そこでイタリア語とフランス語を学ぶ。

欧州から英国に戻ったウィルキー・コリンズは、私立学校に入学するが、そこでいじめに遭う。就寝前に、いじめっ子から必ず一つ物語を話すように強制された彼は、次第に物語を創作することに喜びを見出していく。


Alma Books Ltd. から
Alma Classics シリーズの一つとして2018年に出版されている
ウィルキー・コリンズ作「フローズンディープ」の表紙
(Cover design by nathanburtondesign.com) 


1840年、17歳の時、彼は父親の友人が営む紅茶商へ見習いとして入る。彼は見習いの仕事を嫌っていたが、最終的に、そこで5年間働き通した。

父親は彼を牧師にしようとしたが、父親の宗教的な几帳面さや保守的な考えに反発する彼が全く興味を示さないため、諦める。そして、1846年、安定的な収入を願った父親のために、彼はリンカーン法曹院(Lincoln’s Inn → 2017年3月19日付ブログで紹介済)に入り、法学を学び始めた。

しかしながら、彼は紅茶商の見習いとして働いているときも、また、リンカーン法曹院で法学を学んでいる時も、残りの大部分の時間を小説の執筆に費やしていたのである。

1847年に父親が死去すると、ウィルキー・コリンズは「父ウィリアム・コリンズの回想録(Memoirs of the Life of William Collins, Esq., R.A.)」を出版する。これが、彼の処女作に該る。

途中、画家を目指したこともあったが、1850年に彼は処女小説「アントニナ(Antonina)」を発表して、本格的に作家としての道を歩み始める。

その後、彼は法学を修めたものの、実際に法律家として活動したことはないが、後に発表する小説の中で、彼はその時に学んだ法律の知識を活かすことになる。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)で販売されている
チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズの写真の葉書
(by George Herbert Watkins / albumen print, arched top / 1858年 / 190 mm x 152 mm) -
チャールズ・ディケンズは、英国のヴィクトリア朝時代を代表する小説家で、
「クリスマスキャロル」、「大いなる遺産」、「オリヴァーツイスト」や
「二都物語」等で有名。


1851年3月、ウィルキー・コリンズは、共通の友人(画家)の紹介で、彼と同じくヴィクトリア朝時代(1837年-1901年)を代表する英国の小説家であるチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens:1812年ー1870年)と知り合う。

彼は、チャールズ・ディケンズが出版する雑誌「暮らしの言葉(Household Works)」に定期的に寄稿したり、また、チャールズ・ディケンズや共通の友人達と一緒に、フランス、スイスやイタリアを旅行したりして、親交を深め、二人は生涯にわたる親友かつ協力者となった。

ちょうど、この頃、痛風(関節炎)の最初の発作がウィルキー・コリンズを襲い、鎮痛剤として服用した阿片チンキに次第に耽溺するようになり、この悪癖が彼の晩年を苦しめることになる。


Penguin Random House の
Vintage Classics シリーズの一つとして、
2015年に出版されている
ウィルキー・コリンズ作「呪われたホテル(The Haunted Hotel)」の表紙
(Cover design : Telegramme)-
物語の舞台として、前半は英国で、
後半はイタリアのヴェネツィア(Venice)である。


1860年代に入ると、ウィルキー・コリンズは、最盛期を迎える。彼の代表作と言われる以下の4作品は、この年代に集中している。


(1)「白衣の女(The Woman in White)」(1860年) → 1859年11月から1860年8月まで雑誌に連載され、連載後直ぐに出版されて、1860年11月までに第8版まで重ね、大ヒットとなった。

(2)「ノーネーム(No Name)」(1862年) → 1862年から1863年にかけて、雑誌に連載。

(3)「アーマデイル(Armadale)」(1866年) → 1864年から1866年にかけて、雑誌に連載。

(4)「月長石(→ 2022年9月30日 / 10月13日付ブログで紹介済)」(1868年) → 1868年1月から同年8月にかけて、雑誌に連載。英国の詩人 / 劇作家 / 文芸評論家であるトマス・スターンズ・エリオット(Thomas Stearns Eliot:1888年-1965年)は、この作品を「最初の最大にして最良の推理小説」と絶賛している。


ただし、その名声の裏で、彼の阿片チンキへの傾斜は、遥かに悪化の状況を辿っていたのである。


Penguin Books Ltd. から
Penguin Classics シリーズの一つとして1998年に出版されている
ウィルキー・コリンズ作「月長石」の表紙
(Cover design : Detail from Moonrise by the Sea (1822)
by Caspar David Friedrich
in the Nationalgalerie Berlin
Photo : Staatliche Museen zu Berlin Preussischer Kulturbesitz /
Jorg P. Anders ) 


ウィルキー・コリンズは、結婚という形態に批判的であり、生涯結婚はしなかったが、1850年代に出会ったキャロライン・グレーヴス(Caroline Graves)という未亡人の女性と、(彼が全く結婚に同意しないため、彼女が別の男性と結婚していた2年間(1868年ー1870年)を除いて、)彼が1889年に亡くなるまで同居して、彼女の連れ子(ハリエット(Harriet))を自分の娘として育てた。ウィルキー・コリンズがキャロライン・グレーヴス達と一緒に同居していた家が、グロースタープレイス65番地(65 Gloucester Place → 2022年9月14日付ブログで紹介済)にある。


ウィリアム・ウィルキーコリンズが、
キャロライン・グレーヴスや彼女の連れ子と一緒に同居していた
グロースタープレイス65番地の建物を正面から見たところ
<筆者撮影>


その一方で、彼は、1868年に知り合った19歳年下の女性マーサ・ルッド(Martha Rudd)との間に、3人の私生児(娘2人+息子1人)を設け、自分の家の近くに住まわせ、援助を行った。

こういった二重生活を亡くなるまでの20年間近く続けたため、晩年、彼は当時の社交界から追放されるという憂き目に会った。


ウィリアム・ウィルキー・コリンズが亡くなった
ウィンポールストリート82番地
の建物を正面から見たところ
<筆者撮影>


そして、1889年9月23日、ウィンポールストリート82番地(82 Wimpole Street → 2022年9月16日付ブログで紹介済)において、ウィルキー・コリンズは65歳で亡くなり、ケンサルグリーン墓地に葬られた。キャロライン・グレーヴスは、1895年に亡くなり、彼と一緒の墓に入った。また、マーサ・ルッドは、1919年に亡くなっている。


アルマプレイスにあるウェストゲイト(その1)
<筆者撮影>


ケンサルグリーン墓地には、2つの出入口があり、東側は、ハーロウロードとラドブロークグローヴ通り(Ladbroke Grove)が交差する辺りにあり、こちらがメインゲイト(Main (East) Gate)となっている。


アルマプレイスにあるウェストゲイト(その2)
<筆者撮影>


一方、西側は、ケンサルグリーン駅(Kensal Green Station)を出て、ハーロウロード沿いに少し西へ進んだところにあるアルマプレイス(Alma Place)から、墓地内へ入ることができ、こちらがウェストゲイト(West Gate)となっている。


ケンサルグリーン墓地の中央に建つ英国国教徒用の礼拝堂 -
地下にカタコンベがあるが、第二次世界大戦(1939年−1945年)中に空爆を受ける等、
老朽化が激しく、現在は立ち入り禁止となっている。
<筆者撮影>

ウィリアム・ウィルキー・コリンズの墓の前から北方面を見たところ
<筆者撮影>

ウィリアム・ウィルキー・コリンズの墓の前から南方面を見たところ
<筆者撮影>


ウィルキー・コリンズの墓は、ウェストゲイト側からケンサルグリーン墓地へと入り、真っ直ぐに南下して、ウェストセンターアヴェニュー(West Center Avenue)に至ったところで左折。ケンサルグリーン墓地の中央に建つ英国国教徒用の礼拝堂(Anglican Chapel)へと向かって、ウェストセンターアヴェニューを東進。英国国教徒用の礼拝堂の手間で左折して、小道へ入り。北進した左手側に、ウィルキー・コリンズの墓がある。


2026年8月24日月曜日

ロンドン市内にあるヘンリー・スペンサー・ムーア彫刻作品(Sculptures by Henry Spencer Moore in London)- その2

ハムステッドヒース内に設置されている
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Two Piece Reclining Figure No. 5」を正面から見たところ
<筆者撮影>

ロンドンの特別区の一つであるワンズワース区(London Borough of Wandsworth)バタシー地区(Battersea)のバタシーパーク(Battersea Park → 2016年7月10日付ブログで紹介済)内には、英国の芸術家 / 彫刻家で、英国コンウォール州(Cornwall)にあるセントアイヴス(St. Ives)に住む芸術家のコミュニティーにおいて、主導的な役割を果たした人物であるジョスリン・バーバラ・ヘップワース(JocelynBarbara Hepworth:1903年ー1975年 → 2024年10月1日 / 10月31日 / 11月2日付ブログで紹介済)による彫刻作品「Single Form(→ 2026年5月5日付ブログで紹介済)」(1961年−1962年)の他に、20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーア(Henry Spencer Moore:1898年ー1986年)による彫刻作品「Three Standing Figures(→ 2026年5月11日付ブログで紹介済)」(1948年)も設置されている。

バタシーパーク内に設置されている
バーバラ・ヘップワース作「Single Form」を正面から見たところ
<筆者撮影>

バーバラ・ヘップワース作「Single Form」の右下に設置された説明板
<筆者撮影>

バタシーパーク内に設置されている
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Three Standing Figures」を正面から見たところ
<筆者撮影>

ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Three Standing Figures」の台座部分
<筆者撮影>

ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)ハムステッド地区(Hampstead → 2018年8月26日付ブログで紹介済)のハムステッドヒース(Hampstead Heath → 2015年4月25日付ブログで紹介済)内にも、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースによる彫刻作品「天空の石柱(Monolith-Empyrean = Heavenly Stone(→ 2024年11月11日付ブログで紹介済)」(1953年)に加えて、ヘンリー・スペンサー・ムーアによる彫刻作品が設置されているので、今回、紹介したい。

ハムステッドヒース内に設置されている
バーバラ・ヘップワース作「天空の石柱」を正面から見たところ
<筆者撮影>

ーバラ・ヘップワース作「天空の石柱の背後に設置された説明板
<筆者撮影>

地下鉄ノーザンライン(Northern Line)が通る地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)の前を通り、ヒースストリート(Heath Street)を北上。

ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Two Piece Reclining Figure No. 5」の台座部分
<筆者撮影>

ハムステッドヒース内に設置されている
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Two Piece Reclining Figure No. 5」を右斜め前から見たところ
<筆者撮影>

ハムステッドヒース内に設置されている
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Two Piece Reclining Figure No. 5」を左斜め前から見たところ
<筆者撮影>

ヒースストリートは、地下鉄ゴルダースグリーン駅(Golders Green Tube Station)方面へと向かうノースエンドウェイ(North End Way)とハムステッドヒース(Hampstead Heath → 2015年4月25日付ブログで紹介済)沿いを通るスパニアーズロード(Spaniards Road)の2つに分岐する。

ハムステッドヒースの周辺地図(Google Maps から抜粋)-
画面中央から少し下の部分に、
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Two Piece Reclining Figure No. 5」が建っている。

ケンウッドハウス前の芝生は、
(1)ロンドン内の猛暑により、また、
(2)水節制のための芝生への水撒き禁止により、
ほとんど枯れてしまっている。
<筆者撮影>

ウッド池周辺の植物は、
ロンドン内の猛暑による影響もなく、
緑を保っている。
<筆者撮影>

ハムステッドレーン(Hampstead Lane)へと名前を変えるスパニアーズロードを右折して、ケンウッドハウス駐車場(Kenwood Hose Car Park)を通り、ケンウッドハウス(Kenwood House → 2018年9月23日付ブログで紹介済)へと向かうと、ケンウッドハウスが建つ場所の横の芝生の上に、ジョスリン・バーバラ・ヘップワース作「天空の石柱」が設置されている。

ハムステッドヒース内に設置されている
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Two Piece Reclining Figure No. 5」を右斜め後ろから見たところ
<筆者撮影>

ハムステッドヒース内に設置されている
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻「Two Piece Reclining Figure No. 5」を左斜め後ろから見たところ
<筆者撮影>

ジョスリン・バーバラ・ヘップワース作「天空の石柱」からウッド池(Wood Pond)へと向かって、ハムステッドヒースをを下って行くと、そこにヘンリー・スペンサー・ムーアによる彫刻作品「Two Piece Reclining Figure No. 5」(1963年−1964年)が設置されていて、眼下に見えるハムステッドヒースの眺望を独り占めしている。