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シティー・オブ・ロンドン(City of London → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)内の ギルドホールアートギャラリー(Guildhall Art Gallery → 2025年5月13日 / 5月18日 / 5月23日 / 5月28日付ブログで紹介済)に 所蔵 / 展示されている初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンの胸像(その1) <筆者撮影> |
アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1962年に発表したミス・マープルシリーズ作品の長編第8作目「鏡は横にひび割れて(Mirror Crack’d from Side to Side)」の題名は、初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson:1809年ー1892年)による詩「シャロット姫(The Lady of Shalott)」(1833年)をベースにしている。
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英国の Harper Collins Publishers 社から出版されている アガサ・クリスティー作ミス・マープルシリーズ 「鏡は横にひび割れて」のペーパーバック版の表紙 <イラスト:ビル・ブラッグ氏(Mr. Bill Bragg)>
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Out flew the web and floated wide -
The mirror crack’d from side to side;
“The curse is come upon me,” cried
The Lady of Shalott.
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横にひび割れた鏡 - ジグソーパズル「アガサ・クリスティーの世界(The World of Agatha Christie)」の一部 <筆者撮影>
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織物はとびちり、ひろがれり
鏡は横にひび割れぬ
「ああ、呪いがわが身に」と、
シャロット姫は叫べり。
(橋本福夫訳)
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テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)で購入した 英国の画家であるジョン・ウィリアム・ウォーターハウス (John William Waterhouse:1849年ー1917年)作 「シャロット姫(The Lady of Shalott → 2024年9月28日付ブログで紹介済)」(1888年)の絵葉書 Oil paint on canvas 153 cm x 200 cm Presented by Sir Henry Tate in 1894
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1809年8月6日、英国国教会の牧師である父ジョージ・クレイトン・テニスン(George Clayton Tennyson)と母エリザベス(Elizabeth - 旧姓:Fytche)の三男として、リンカンシャー州(Lincolnshire)サマズビー(Somersby)に出生したアルフレッド・テニスンは、かなり裕福な家で育ち、ケンブリッジ(Cambridge)のトリニティーカレッジ(Trinity College)に入学した1827年に、兄であるフレデリック・テニスン(長男 / Frederick Tennyson:1807年ー1898年)やチャールズ・テニスン・ターナー(次男 / Charles Tennyson Turner:1808年ー1879年)と一緒に、最初の詩集「Poems by Two Brothers」を出版。
続いて、彼は、1830年、単独の詩集となる「Poems Chiefly Lyrica」を出版した。
アルフレッド・テニスンは、1833年に詩「シャロット姫」を発表するも、酷評の憂き目に遭い、以降、約10年間沈黙してしまう。
アルフレッド・テニスンは、1842年に詩集「Poems by Alfred Tennyson」を発表。同詩集は2冊に分かれており、1冊目は今までの作品を収録し、2冊目には新作が含まれていた。同詩集の発表で復活したアルフレッド・テニスンは、1845年に年金を授与された。
1847年に叙事詩「The Princess」を発表。
1849年には、1833年9月にウィーン(Vienna)で急死したケンブリッジ時代の学友で、英国の詩人であるアーサー・ヘンリー・ハーラム(Arthur Henry Hallam:1811年ー1833年)を弔う長詩「イン・メモリアム(In Memoriam A.H.H.)」を完成。なお、アーサー・ヘンリー・ハーラムは、アルフレッド・テニスンの妹エミリア・テニスン(Emilia Tennyson:1811年ー1887年)と婚約していた。
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ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)内で所蔵 / 展示されている アルバート公の肖像画 (By Franz Xaver Winterhalter / Oil on canvas / 1867年 / based on a portrait of 1859) <筆者撮影>
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アルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)の推薦を受けて、アルフレッド・テニスンは、1850年に、英国の代表的なロマン派詩人であるウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth:1770年ー1850年 → 2024年12月10日 / 12月11日および2025年2月14日 / 3月17日付ブログで紹介済)の後継者として、「桂冠詩人(Poet Laureate:宮廷職で、優れた詩人に与えられる称号)」となる。
彼は、1892年に亡くなるまで、「桂冠詩人」の称号を保持した。
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ナショナルポートレイトギャラリーで販売されている ウィリアム・ワーズワースの肖像画の葉書 (by Benjamin Robert Haydon / chalk / 1818年 / 546 mm x 419 mm) - ウィリアム・ワーズワースは、英国の代表的なロマン派詩人で、 湖水地方をこよなく愛した。 |
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シティー・オブ・ロンドン内の ギルドホールアートギャラリーに所蔵 / 展示されている 初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンの胸像(その2) <筆者撮影> |
アルフレッド・テニスンは、同年6月に、子供の頃から知り合いであるエミリー・セルウッド(Emily Sellwood:1813年ー1896年)と結婚して、長男ハーラム(Hallam:1852年ー1928年)と次男ライオネル(Lionel:1854年ー1886年)を設けた。なお、長男の名前は、ケンブリッジ時代の学友で、英国の詩人であるアーサー・ヘンリー・ハーラムに因んでいる。
アルバート公の死後、長詩「イン・メモリアム」を読んで、 友人を亡くした場合と最愛の夫を亡くした場合と状況はやや異なるものの、深く感銘を受けたハノーヴァー朝(House of Hanover)の第6代女王で、かつ、初代インド女帝であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年 → 2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)は、1862年4月と1883年8月の2回、アルフレッド・テニスンと面会している。
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ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、 ロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手6種類の1枚 - 最愛の夫であるアルバート公の死後、 ヴィクトリア女王は、常に喪服で過ごした、とのこと。
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その後も、彼は、
1855年:「Maud」
1859年ー1864年:アーサー王伝説(King Arthur and the Knights of the Round Table)に取材した物語詩「国王牧歌(Idylls of the King)」
1864年:哀れな水夫の物語詩「イーノック・アーデン(Enoch Arden)」
1886年:「Locksley Hall Sixty Years After」
1889年:短詩「砂州を越えて(Crossing the Bar)」
等を発表。
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ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、 ロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手6種類の1枚 - ヴィクトリア女王から引見を受ける初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ (彼は、当時、第二次ディズレーリ内閣(1874年ー1880年)を組閣しており、 南アフリカ連邦をまとめるべく、 1877年4月に、最後に残ったトランスヴァール共和国を併合した直後)
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アルフレッド・テニスンは、英国の政治家 / 小説家で、ヴィクトリア朝の中期に、保守党の党首として、英国首相を2回(第1次内閣:1868年 / 第2次内閣:1874年ー1880年)務めた初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield:1804年-1881年 → 2022年8月14日 / 8月16日付ブログで紹介済)から、1865年と1868年の2回、準男爵の称号(baronetcy)授与の打診を受けたが、これを固辞。
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パーラメントスクエアガーデン(Parliament Square Garden)内に建つ 初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリのブロンズ像 (Sculptor : Mario Raggi / 1883年) <筆者撮影> |
その後、英国の政治家で、ヴィクトリア朝の中期から後期にかけて、自由党の党首として、英国首相を4回(第一次内閣:1868年-1874年 / 第二次内閣:1880年-1885年 / 第三次内閣:1886年 / 第四次内閣:1892年ー1894年)務めたウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone:1809年ー1898年 → 2022年8月22日 / 8月24日付ブログで紹介済)から、1883年に貴族の爵位(peerage)授与の打診を受け、これを受諾。
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ストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)が フリートストリート(Fleet Street → 2014年9月21日付ブログで紹介済)へと変わる道の中央浮島にある セント・クレメント・デーンズ教会(St. Clement Danes Church)の前に建つ ウィリアム・ユワート・グラッドストンのブロンズ像 (Sculptor : Sir Hamo Thornycroft / 1905年) <筆者撮影> |
その結果、アルフレッド・テニスンは、1884年に、ヴィクトリア女王からテニスン男爵(Baron Tennyson)に叙せられた。また、同年3月に、貴族院(House of Lords)に席を得る。
1892年10月6日、83歳で亡くなった初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンは、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)に埋葬された。
長男のハーラムが爵位を継いで、第2代テニスン男爵(2nd Baron Tennyson)となり、1897年に父アルフレッド・テニスンの伝記を記している。後に、彼は、第2代オーストラリア総督(Governor-General of Australia)の地位にも就いている。