2026年2月24日火曜日

ヨハネス・フェルメール作「ギターを弾く女」(The Guitar Player by Johannes Vermeer)- その1

「白亜の館」と呼ばれるケンウッドハウス内に展示されている
ヨハネス・フェルメール作「ギターを弾く女」(1671年ー1674年)
53.0 cm x 46.3 cm / Oil on canvas
<筆者撮影>


12世紀のイングランド王であるヘンリー1世碩学王(Henry I Beauclerc:1068年頃ー1135年 在位期間:1100年ー1135年)の寵臣ラヒア(Rahere:?ー1143年)によって1123年にロンドンのスミスフィールド(Smithfield)に設立されたセントバーソロミュー修道院(Priory of St. Bartholomew)から転じたセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great → 2026年2月15日 / 2月17日 / 2月22日付ブログで紹介済)に関連する絵画として、ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer:1632年?ー1675年?)作「ギターを弾く女(The Guitar Player)」(1671年ー1674年)が挙げられる。


ヨハネス・フェルメール作「ギターを弾く女」と同じ部屋に展示されている
レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン晩年の「自画像(Portrait of the Artist)」
<筆者撮影>


ヨハネス・フェルメール(本名:ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト(Jan van der Meer van Delft))は、ネーデルラント連邦共和国(現オランダ王国)の画家で、レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn:1606年ー1669年 → 2025年9月26日 / 10月2日付ブログで紹介済)と並ぶ17世紀オランダ黄金時代を代表する画家と評されている。


ハムステッドヒースの入口に設置されている
ケンウッドハウスの案内板
<筆者撮影>

ハムステッドヒース内の案内図
<筆者撮影>

1925年にギネスビール社会長の初代アイヴィー伯爵エドワード・セシル・ギネス(Edward Cecil Guinness, 1st Earl of Iveagh:1847年ー1927年)がハムステッドヒース(Hampstead Heath → 2015年4月25日付ブログで紹介済)内に建つ「白亜の館」であるケンウッドハウス(Kenwood House → 2018年9月23日付ブログで紹介済)を購入した。


「白亜の館」と呼ばれるケンウッドハウスの裏面
<筆者撮影>


その2年後の1927年、彼が死去した際、ケンウッドハウスは、彼が購入後に展示していた絵画コレクションと一緒に、国に遺贈されて、現在、イングリッシュヘリテージ(English Heritage)がケンウッドハウスと絵画コレクションを管理しており、一般に公開している。


ケンウッドハウスの正面玄関と両脇にあるウィング
<筆者撮影>


ヨハネス・フェルメール作「ギターを弾く女」は、この絵画コレクションに含まれてるが、1974年に一度盗難に遭っている。


<事件の概要>

*発生年月日:1974年2月23日(土)の夜

*犯行の状況:犯人は、事前に電話線を切断した上で、ハンマーで窓の鉄格子を壊して、ケンウッドハウス内に侵入。壁からヨハネス・フェルメール作「ギターを弾く女」を外すと、高さ約3mの壁を越えて逃走。


<犯人側からの要求>

犯行後、犯人側から英国政府に対して、以下の要求がつきつけられた。


(1)政治的要求:ロンドンの刑務所に収監されていた IRA(アイルランド共和軍)暫定派のメンバーであるプライス姉妹を北アイルランドの刑務所へ移送すること


(2)人道的要求:カリブ海のグレナダ島へ110万ドル相当の食料を寄付すること


「これらの要求に応じられない場合、絵画を焼き払う。」と言う脅迫も為された。


<事件のその後>

事件から約10週間後の1974年5月7日に、セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の墓地において、ヨハネス・フェルメール作「ギターを弾く女」は、新聞紙に包まれた状態で発見。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の
建物正面(西側)を見たところ
<筆者撮影>


犯人側が犯行の証拠として送り付けるために、カンヴァスの折り返し部分(絵が描かれていない箇所)が一部切り取られていたが、それ以外には、目立った傷はなく、湿気による多少の損傷はあったものの、幸い、修復は可能だった。

犯行当時は、IRA の関与が強く疑われたが、真相については、残念ながら、明らかにはなっていない。


2026年2月23日月曜日

カーター・ディクスン作「仮面荘の怪事件 / メッキの神像」(The Gilded Man by Carter Dickson)- その1

東京創元社から、創元推理文庫の一冊として出版されている
カーター・ディクスン作「仮面荘の怪事件」の表紙
(カバー : 村山 潤一) -
「仮面荘」と呼ばれる富豪ドワイト・スタンホープ(Dwight Stanhope)の
別邸ワルドミア荘(Waldemere)内に陳列されている名画を盗むために
侵入した覆面の泥棒が描かれている。

今回は、カーター・ディクスン(John Dickson Carr:1906年ー1977年)作「仮面荘の怪事件(東京創元社)/ メッキの神像(早川書房)(The Gilded Man)」について、紹介したい。

「仮面荘の怪事件 / メッキの神像」は、米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、カーター・ディクスン名義で、1942年に発表したヘンリー・メルヴェール卿(Sir Henry Merrivale)を探偵役とするシリーズ長編第13作目に該る。

東京創元社から、創元推理文庫の一冊として出版されている
ジョン・ディクスン・カー作
「カー短編全集2 妖魔の森の家」の表紙
(カバー : アトリエ絵夢 志村 敏子) -
「軽率だった夜盗」(宇野 利奏訳)において、
夜盗がクランレイ荘に侵入した際、
「その(懐中電燈の)光が、食器棚に沿って匍っていくと、
銀色にきらめくものがあった。果物鉢である。
鉢の中のリンゴに、まるでそれが人間の胴であるかのように、
小型ナイフが不気味につき刺さったままだ。」や
「銀の食器類が一そろい、食器棚の前に散乱していた。
果物鉢も転げ落ちていた。
オレンジとリンゴ、そして葡萄の粒が潰れているあいだに、
死体が仰向けに倒れている。」と言う記述があるので、
表紙のデザインは、同作の内容を参考しているものと思われる。


ジョン・ディクスン・カーは、元々、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)シリーズの短編として、1940年に「軽率だった夜盗(A Guest in the House / The Incautious Burglar → 2025年9月9日付ブログで紹介済)」を発表しており、「仮面荘の怪事件 / メッキの神像」の場合、ギディオン・フェル博士シリーズの短編である「軽率だった夜盗」をベースにして、ヘンリー・メルヴェール卿シリーズの長編を執筆の上、カーター・ディクスン名義で1942年に出版したのである。

ギディオン・フェル博士シリーズの短編「軽率だった夜盗」とヘンリー・メルヴェール卿シリーズの長編「仮面荘の怪事件 / メッキの神像」では、以下の違いがある。

(1)探偵役

*「軽率だった夜盗」:ギディオン・フェル博士

*「仮面荘の怪事件 / メッキの神像」:ヘンリー・メルヴェール卿


(2)事件の発生時期

*「軽率だった夜盗」:真夏

*「仮面荘の怪事件 / メッキの神像」:年末(1938年12月末)


(3)犠牲者の生死

*「軽率だった夜盗」:死亡

*「仮面荘の怪事件 / メッキの神像」:瀕死の重傷


(4)泥棒に狙われた絵画

*「軽率だった夜盗」:

(a)レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn:1606年ー1669年 / ネーデルラント連邦共和国(現オランダ王国)の画家 → 2025年9月26日 / 10月2日付ブログで紹介済)


ロンドンのナショナルギャラリー(National Gallery)に所蔵 / 展示されている
レンブラント・ファン・レイン作
「34歳の自画像(Self Portrait at the Age of 34)」
Oil on canvas / Bought by National Gallery in 1861
<筆者撮影>


(b)アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck:1599年ー1641年 / バロック期のフランドル出身の画家 → 2025年9月27日 / 10月4日 / 10月8日 / 10月13日付ブログで紹介済)


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画の葉書
(Sir 
Anthony van Dyck / 1640年頃 / Oil on panel
560 mm x 460 mm) 


*「仮面荘の怪事件 / メッキの神像」:

(a)エル・グレコ(El Greco:1541年ー1614年 / 現在のギリシア領クレタ島出身の画家で、スペインで活動)

(b)ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルヴァ・イ・ヴェラスケス(Diego Rodriguez de Silva y Velazquez:1599年ー1660年 / バロック期のスペインの画家)

(c)バルトロイ・エステバン・ペレス・ムリーリョ(Bartolome Esteban Perez Murillo:1617年ー1682年 / バロック期のスペインの画家)

(d)フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco Jose de Goya y Lucientes:1746年ー1828年 / スペインの画家)


上記の相違点を除くと、ギディオン・フェル博士シリーズの短編「軽率だった夜盗」とヘンリー・メルヴェール卿シリーズの長編「仮面荘の怪事件 / メッキの神像」は、ストーリーやトリックは同じである。


2026年2月22日日曜日

ロンドン セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great)- その3

セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の内部(その1)
<筆者撮影>

セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の内部(その2)
<筆者撮影>

セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の内部(その3)
<筆者撮影>

12世紀のイングランド王であるヘンリー1世碩学王(Henry I Beauclerc:1068年頃ー1135年 在位期間:1100年ー1135年)の寵臣ラヒア(Rahere:?ー1143年)によって1123年にロンドンのスミスフィールド(Smithfield)に設立されたセントバーソロミュー修道院(Priory of St. Bartholomew - 現在のセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great)の内部は、建設当初のノルマン様式を今現在も残しており、荘厳さに溢れている。

セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の内部(その4)
<筆者撮影>

セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の内部(その5)
<筆者撮影>

セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の内部(その6)
<筆者撮影>

教会内には、セントバーソロミュー修道院の創設者であるラヒアの墓には、彼の遺体が安置されている。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会内には、
ラヒアの遺体が安置されている。
<筆者撮影>


18世紀の英国画壇を代表する国民的画家のウィリアム・ホガース(William Hogarth:1697年ー1764年 → 2026年1月17日 / 1月29日 / 2月5日付ブログで紹介済)は、1697年11月10日、ラテン語学校の教師であるリチャード・ホガース(Richard Hogarth)と母アン・ギボンズ(Anne Gibbons)の長男として、ロンドンのセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)の直ぐ近くのバーソロミュークローズ(Bartholomew Close → 2026年2月13日付ブログで紹介済)に出生した後、セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会において洗礼を受けている。


ナショナルギャラリー(National Gallery)において所蔵 / 展示されている
ウィリアム・ホガース作「自画像」(1745年) 
(Portrait of the Painter and his Pug)
<筆者撮影>


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の内部には、ウィリアム・ホガースが洗礼を受けた際に使用された洗礼盤(1404年製作)も現存している。


画家ウィリアム・ホガースが洗礼を受けた際に使用された洗礼盤
<筆者撮影>

洗礼盤の説明
<筆者撮影>

また、上記の洗礼盤のの右横には、英国の現代美術家であるダミアン・ハースト(Damien Hirst:1965年ー)が制作した聖人セントバーソロミュー(Saint Bartholomew)の黄金像が置かれている。


ダミアン・ハーストが制作した聖人セントバーソロミューの黄金像(その1)-
左側にあるのは、
画家ウィリアム・ホガースが洗礼を受けた際に使用された洗礼盤
<筆者撮影>

ラヒアが、ローマ巡礼中に、重い病に倒れたが、彼の神への強い祈りが届いたかのように、奇跡的に病から回復。

その際、彼の夢の中に、イエス・キリストの使徒の一人である聖人セントバーソロミューが現れると、ロンドンのスミスフィールドに貧民や病人を助けるための修道院(病院)を建てるように告げたと伝えられている。


セントバーソロミュー病院博物館(St. Bartholomew's Hospital Museum)内にある
病院の歴史に関する説明資料 -
左側が 
セントバーソロミュー修道院(病院)を設立したラヒアで、
右側が彼の夢の中に現れた聖人セントバーソロミュー。
<筆者撮影>


セントバーソロミュー病院の北翼(North Wing
→ 2025年12月15日 / 12月19日 / 12月21日 / 12月22日付ブログで紹介済)にある
大広間の右側の壁に掲げられている
聖人バーソロミューの絵
<筆者撮影>


この聖人セントバーソロミューのお告げに従って、イングランドに戻ったラヒアは、1123年、スミスフィールドの地にセントバーソロミュー修道院を設立したのである。


ダミアン・ハーストが制作した聖人セントバーソロミューの黄金像(その2)


ダミアン・ハーストが制作した聖人セントバーソロミューの黄金像の場合、皮剥ぎの刑で殉教した姿をしており、彼の右腕には、剥がされた自身の皮膚がぶら下っている。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の内部(その7)-
左上に見えるのは、パイプオルガン。
<筆者撮影>

2026年2月21日土曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その22A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「ABC 殺人事件」ペーパーバック版の表紙 -
地名と名前のイニシャルが一致する人物をアルファベット順に選んで、
'ABC' と名乗る犯人はその人物を殺害した後、
死体の傍らに「ABC 鉄道案内」を残している。
表紙の絵は、「ABC 鉄道案内」からの連想で描かれてる。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(45)ABC 鉄道案内(railway guide)



ジグソーパズルの下段中央にあるテーブルの右端近くに、ABC 鉄道案内が置かれている。


(46)絹のストッキング(silk stocking)



ジグソーパズルの中段の一番左手にあるテーブルの前に、赤い着物を着た女性がこちらに背を向けて立っているが、彼女の足元に、絹のストッキングが落ちている。


(47)ドンカスターで開催される競馬 (St. Leger Stakes horse race)



ジグソーパズルの上段中央やや左手の壁に、ドンカスター(Doncaster)で開催される競馬の絵が掛けられている。


これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1936年に発表した「ABC 殺人事件(The ABC Murders)」である。

「大空の死」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第18作目に、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第11作目に該っている。

「ABC 殺人事件」は、ミッシングリンクをテーマにしたミステリー作品の中でも、最高峰と評価される作品で、知名度・評価ともに非常に高く、アガサ・クリスティーの代表作の一つとなっている。


アーサー・ヘイスティングス大尉は、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立つ
エルキュール・ポワロの左斜め後ろに居る。

<筆者撮影>


アフリカから戻ったアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings → 2025年10月12日付ブログで紹介済)は、ロンドンに新しいフラットを構えた友人エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)の元を訪れた。

そんなポワロの元に、'ABC' と名乗る謎の人物から、「アンドーヴァー(Andover)を警戒せよ。」と警告する手紙が届いていたのだ。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


そして、その手紙通り、「A」で始まるアンドーヴァーにおいて、小さなタバコ屋を切り盛りしていた老女で、イニシャルが「A. A.」のアリス・アッシャー(Alice Asher)が殺害されたのである。その上、彼女の死体の傍らには、「ABC 鉄道案内」が置かれていた。

アリス・アッシャーの殺害犯として、大酒飲みで、妻の彼女に度々お金をせびっていた夫のフランツ・アッシャー(Franz Ascher)が、警察によって疑われる。


その最中、ABC と名乗る謎の人物からポワロの元に、第2の犯行を予告する手紙が届く。


第2の殺人事件として、「B」で始まるべクスヒル(Bexhill)において、カフェのウェイトレスとして働いていた若い女性で、イニシャルが「B. B.」のエリザベス(ベティー)・バーナード(Elizabeth (Betty) Barnard)が殺害される。

今度は、ベティー・バーナードの殺害犯として、彼女の婚約者で、不動産関係の仕事をしているドナルド・フレーザー(Donald Fraser)が、警察によって疑われる。何故なら、殺されたベティー・バーナードの場合、異性関係に少々だらしなかったため、彼女の異性関係に着いて、2人の間で、何度も言い争いが起きていたからである。


2026年2月20日金曜日

ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)- その1

ベンジャミン・フランクリンの渡英300周年を記念して、
セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会が印刷した冊子
(Painting of from Boston Public Library /
Artist : Joseph-Siffrede Duplessis)


ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin:1706年ー1790年)は、米国の政治家 / 外交官 / 著述家 / 物理学者 / 気象学者である。

印刷業で成功を収めた後、政界へと進出した彼は、1776年に米国独立宣言の起草委員となり、トマス・ジェファースン(Thomas Jefferson:1743年ー1826年 / 後の第3代米国大統領(1801年-1809年))と一緒に、米国独立宣言に最初に署名した5人の政治家のうちの1人だったことから、「アメリカ合衆国建国の父」として称えられている。


1657年に英国ノーザンプトンシャー州(Northamptonshire)のエクトン(Ecton)に生まれたジョサイア・フランクリン(Josiah Franklin:1657年ー1745年)は、当初、1677年に同地でアン・チャイルド(Anne Child)と結婚。

ジョサイアとアンのフランクリン夫妻は、1683年に英国領北米植民地のマサチューセッツ湾植民地(Massachusetts Bay Colony)であるボストン(Boston)へ移民したが、妻のアンが同年7月9日に死去したため、ジョサイア・フランクリンは、同年11月25日にマサチューセッツ湾植民地のナンタケット(Nantucket)出身のアビア・フォルジャー(Abiah Folger:1667年ー1752年)と再婚。

そして、ベンジャミン・フランクリンは、獣脂蝋燭製造業者である父ジョサイア・フランクリンと母アビア・フォルジャーの下、グレゴリオ暦1706年1月17日(ユリウス暦1705年1月6日)、ボストンに出生。ジョサイア・フランクリンは、二度の結婚で17人の子供をもうけているが、ベンジャミン・フランクリンは、15番目の子供だった。


1718年(12歳)に、ベンジャミン・フランクリンは、印刷業を営んでいた兄ジェイムズ(James)の徒弟となる。

1721年(15歳)に、兄ジェイムズがボストンで「ニューイングランドクーラント(The New-England Courant)」紙を発行したことに伴い、ベンジャミン・フランクリンは、次第に記者や編集者として頭角を現したが、1723年(17歳)に、兄ジェイムズとの喧嘩の末に、彼との縁を切り、ボストンを後にして、当初はニューヨークへ赴いたものの、印刷工の職はなかったため、直ぐにフィラデルフィア(Philadelphia)へ移り、職を得た。


その後、ベンジャミン・フランクリンは、フィラデルフィア知事(Philadelphia governor)であるサー・ウィリアム・キース(Sir William Keith:1669年ー1749年)の勧めにより、ロンドン 行きを決意。

お金も、友人も、そして、何の伝手もないまま、ベンジャミン・フランクリンは、1724年(18歳)12月24日にロンドンに到着。


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)で販売されている
エリザベス1世の肖像画の葉書
(Unknown English artist / 1600年頃 / Oil on panel
1273 mm x 997 mm) -
エリザベス1世は、王族しか着れない
イタチ科オコジョの毛皮をその身に纏っている。
オコジョの白い冬毛は、「純血」を意味しており、
実際、エリザベス1世は、英国の安定のために、
生涯、誰とも結婚しなかったので、「処女女王」と呼ばれた。
エリザベス1世の」赤毛」と「白塗りの化粧」は、
当時流行したものである。


テューダー朝の第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年 → 2023年6月24日 / 7月2日付ブログで紹介済)による統治時、セントバーソロミュー修道院(Priory of St. Bartholomew)から英国国教会(Church of England)の教会へと変わったセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great → 2026年2月17日 / 2月19日付ブログで紹介済)は、教会の一部を印刷所に貸し出していた。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の
建物正面(西側)を見たところ
<筆者撮影>


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の入口を示す看板
<筆者撮影>


ベンジャミン・フランクリンは、この印刷所の店主であるサミュエル・パルマー(Samuel Palmer)に植字工(compositor / typesetter)として雇われて、1725年から働き始めた。この植字工が、ベンジャミン・フランクリンにとって、ロンドンにおける最初の仕事だった。


ベンジャミン・フランクリンの渡英300周年を記念して、
セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会が印刷した冊子から抜粋
(Photo by samleven on free images.com /
Statue by Joseph Brown)


ベンジャミン・フランクリンがサミュエル・パルマーの下で植字工として働いたのは、1年に満たず、1726年(20歳)に、彼は英国からフィラデルフィアへ戻り、印刷業を再開したのである。


2026年2月17日火曜日

ロンドン セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great)- その2

セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の建物内部
<筆者撮影>


12世紀のイングランド王であるヘンリー1世碩学王(Henry I Beauclerc:1068年頃ー1135年 在位期間:1100年ー1135年)の寵臣ラヒア(Rahere:?ー1143年)によって1123年にロンドンのスミスフィールド(Smithfield)に設立されたセントバーソロミュー修道院(Priory of St. Bartholomew - 現在のセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great)とセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)の両方を含む)は、テューダー朝(House of Tudor)の第2代イングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年 → 2024年7月26日付ブログで紹介済)による統治時に重大な局面を迎える。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会内には、
ラヒアの遺体が安置されている。
<筆者撮影>


ヘンリー8世は、男の世継ぎ(嫡子)が生まれていない王妃キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon:1487年ー1536年)との離婚とキャサリン王妃の侍女メアリー・ブーリン(Mary Boleyn:1499年 / 1500年頃ー1543年)の妹(諸説あり)であるアン・ブーリン(Anne Boleyn:1501年頃ー1536年)との結婚を画策して、ローマのカトリック教会と対立し、1534年に国王至上法(首長令)を発布の上、自らを英国国教会(Church of England)の長とするとともに、カトリック教会から英国国教会の分離を行った。


セントバーソロミュー病院の北翼(North Wing
→ 2025年12月15日 / 12月19日 / 12月21日 / 12月22日付ブログで紹介済)にある
大広間の最奥の壁に掲げられている
ヘンリー8世の肖像画のアップ
<筆者撮影>


ヘンリー8世が宗教改革の一環として実施した修道院解散(Dissolution of the monasteries:1536年ー1539年)政策に基づき、イングランド国内にあった多くの修道院が解散、そして、財産没収の憂き目に遭った。

セントバーソロミュー修道院から分離したセントバーソロミュー病院は、貧民救済病院として生き残ったものの、修道院からの収入の道が絶たれたため、一時は経営難に陥った。


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)で販売されている
アン・ブーリンの肖像画の葉書
(Unknown artist / 1535 - 1536年頃 / Oil on panel
543 mm x 416 mm) 


そこで、貧民救済病院として生き残ったセントバーソロミュー修道院は、1546年12月27日にシティー・オブ・ロンドン共同体(City of London Corporation - 正式名:Mayor and Commonalty and Citizens of the City of London)から認可を受ける合意に調印したことで、ヘンリー8世による再設立を受けることになった。


セントバーソロミュー病院の北翼にある
大広間の左側の窓に設置されているステンドグラス -
1546年12月27日に、ヘンリー8世がロンドン市長に対して、
セントバーソロミュー修道院(病院)の支援を約束する書状を手渡す場面が描かれている。
<筆者撮影>


そして、1547年1月、セントバーソロミュー修道院は、法的に「ヘンリー8世設立・シティー・オブ・ロンドン・ウェストスミスフィールド救貧院(House of the Poore in West Smithfield in the suburbs of the City of London of Henry VIII’s Foundation)」と命名された。


1546年12月27日に
ヘンリー8世とシティー・オブ・ロンドン共同体の間で交わされた
セントバーソロミュー修道院に関する合意書
ヘンリー8世がシティー・オブ・ロンドン共同体に対して
セントバーソロミュー修道院の支援を約束する書状) -
セントバーソロミュー病院博物館内に展示されている。
<筆者撮影>


ヘンリー8世による修道院解散政策に基づき、セントバーソロミュー修道院の敷地は、英国国教会の小教区として再編されて、セントバーソロミュー病院の敷地内にあったセントバーソロミュー・ザ・レス教会(The Hospital Church of St. Bartholomew the Less → 2026年1月5日 / 1月15日付ブログで紹介済)が教区教会となる。

一方、セントバーソロミュー病院を分離させられたセントバーソロミュー修道院は、そのまま放置されることとなった。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
メアリー1世の肖像画の葉書
(Master John / 1544年 / Oil on panel
711 mm x 508 mm) 


テューダー朝の第4代イングランド王メアリー1世(Mary I:1516年ー1558年 在位期間:1553年-1558年)による統治時、セントバーソロミュー修道院は、修道院として復活。


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
エリザベス1世の肖像画の葉書
(Unknown English artist / 1600年頃 / Oil on panel
1273 mm x 997 mm) -
エリザベス1世は、王族しか着れない
イタチ科オコジョの毛皮をその身に纏っている。
オコジョの白い冬毛は、「純血」を意味しており、
実際、エリザベス1世は、英国の安定のために、
生涯、誰とも結婚しなかったので、「処女女王」と呼ばれた。
エリザベス1世の」赤毛」と「白塗りの化粧」は、
当時流行したものである。


そして、テューダー朝の第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年 → 2023年6月24日 / 7月2日付ブログで紹介済)が、セントバーソロミュー修道院を英国国教会の教会(セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会)へ変えている。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の入口を示す看板
<筆者撮影>

英国国教会の教会となったセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の一部は、その後の2-3世紀に渡り、鍛冶場(blacksmith’s forge)、学校、家屋、印刷所やレース / 縁取り工場(lace and fringe factory)等に使用された。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の時計塔(Clock Tower)は、
1628年に建てられた。
<筆者撮影>


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の最初の修復工事は、1863年から1868年に掛けて行われ、その後、英国の建築家であるサー・アシュトン・ウェッブ(Sir Aston Webb:1849年ー1930年)が担当した大規模な修復工事が、1884年から1921年にかけて実施された。

なお、サー・アシュトン・ウェッブは、バッキンガム宮殿(Buckingham Palace)の外壁やヴィクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)等の設計も担当している。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の建物入口
<筆者撮影>


幸いにして、セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、ロンドン 空襲による大きな被害を被ることはなく、1950年に Grade I listed building に指定され、現在に至っている。