2026年5月30日土曜日

ジョージ・エリオット(George Eliot)- その4

ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)が
1871年ー1872年に発表した長編小説第6作目
「ミドルマーチ」
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が執筆した長編としては、第6作目に、そして、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)シリーズの長編としては、第3作目に該る「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd → 2023年9月25日 / 10月2日付ブログで紹介済)」において、事件の記録者となる「わたし」こと、キングスアボット村(King's Abbot)に住むジェイムズ・シェパード医師(Dr. James Sheppard)が、村の富豪であるロジャー・アクロイド(Roger Ackroyd)から夕食に招待され、9月17日(金)の午後7時半に、ロジャー・アクロイドが住むフェルンリーパーク館(Fernly Park)を訪れる。会席者を待つ間、ジェイムズ・シェパード医師は、応接間において、ロジャー・アクロイドによる蒐集品の数々を眺めていると、そこへフローラ・アクロイド(Flora Ackroyd - ロジャー・アクロイドの義理の妹で、未亡人のセシル・アクロイド夫人(Mrs. Cecil Ackroyd)の娘)が姿を見せる。


2022年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design by Holly Macdonald /
Illustrations by Shutterstock.com) 


その際に交わされたジェイムズ・シェパード医師とフローラ・アクロイドの会話に出てくる「フロス河の水車場(The Mill on the Floss)」の作者であるジョージ・エリオット(George Eliot)は、英国の作家である。実は、「ジョージ・エリオット」はペンネームで、本名はメアリー・アン・エヴァンズ(Mary Anne Evans:1819年ー1880年)。


ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)が
1860年に発表した長編小説第2作目
「フロス河の水車場」
<筆者撮影>


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery内で
所蔵 / 展示されているジョージ・エリオット
(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)の肖像画
(By Sir Frederic William Burton / chalk / 1865年 /
514 mm x 381 mm)


1819年11月22日、土地差配人である父ロバート・エヴァンズ(Robert Evans:1773年ー1849年)と母クリスティアナ・エヴァンズ(Christiana Evans:1788年ー1836年 / 旧姓:ピアスン(Pearson))の下、ウォーリック州(Warwickshire)ヌニートン(Nuneaton)に出生したメアリー・アン・エヴァンズは、1850年、作家を志して、ロンドンへと移った。

彼女は、ダーフィト・フリードリヒ・シュトラウス(David Friedrich Strauss:1808年ー1874年)作「イエス伝」の英語翻訳版を刊行してくれた英国の出版業者であるジョン・チャップマン(John Chapman:1821年ー1894年)の家に寄宿。彼女は、ジョン・チャップマンが買収した左派系の雑誌「ザ・ウェストミンスター・レヴュー(The Westminster Review)」に、マリアン・エヴァンズ(Marian Evans)と言うペンネームを使い、同年から寄稿。1851年には、副主筆(assistant editor)へ昇格。


1857年、メアリー・アン・エヴァンズは、ブラックウッズマガジン(Blackwood’s Magazine)誌上に、彼女と不倫関係にあった英国の哲学者 / 文芸批評家ジョージ・ヘンリー・ルイス(George Henry Lewes:1817年ー1878年)の名を借りた「ジョージ・エリオット(George Eliot)」のペンネームを用いて、


*「エイモス・バートン牧師の悲運(The Sad Fortunes of the Reverend Amos Barton)」

*「ギルフィル氏の恋物語(Mr. Gilfil’s Love Story)」

*「ジャネットの改悛(Janet’s Repentance)」


の短編小説を順次発表。

1858年1月に、「牧師館物語(Scenes of Clerical Life)」として纏められ、出版された。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手6枚のうちの1枚


そして、スコットランド出身で、ヴィクトリア朝時代の大英帝国を代表する歴史家で、評論家でもあるトマス・カーライル(Thomas Carlyle:1795年ー1881年 → 2016年10月15日付ブログで紹介済)の影響を大きく受けたメアリー・アン・エヴァンズは、1859年には、最初の長編小説となる「アダム・ビード(Adam Bede)」を発表する。

彼女の最初の長編小説「アダム・ビード」は大変な評判を呼び、読者は作者の正体に興味を示したため、メアリー・アン・エヴァンズは、「ジョージ・エリオット」が自分のペンネームであることを認めるに至った。


ロンドンのチェルシー地区チェイニーウォーク(Cheyne Walk)沿いの
広場内に設置されているトマス・カーライル像
<筆者撮影>


以降、メアリー・アン・エヴァンズは、


*長編小説第2作目「フロス河の水車場(The Mill on the Floss)」(1860年)

*長編小説第3作目「サイラス・マーナー(Silas Marner)」(1861年)

*長編小説第4作目「ロモラ(Romola)」(182年ー1863年)

*長編小説第5作目「急進主義者フェリックス・ホルト(Felix Holt, the Radical)」(1866年)

*長編小説第6作目「ミドルマーチ(Middlemarch)」(1871年ー1872年)

*長編小説第7作目「ダニエル・デロンダ(Daniel Deronda)」(1876年)


と精力的に発表して、次第に文名を高めていった。

特に、複数の家庭のドラマを錯綜させて、地方都市の生態を描き出した大作「ミドルマーチ」は、後世の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf:1882年ー1941年)によって賞賛されている。


ナショナルポートレイトギャラリーで販売されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


長編小説第7作目「ダニエル・デロンダ」を発表した後、メアリー・アン・エヴァンズとジョージ・ヘンリー・ルイスの2人は、ロンドンからサリー州(Surrey)ウィトリー(Witley)へ引っ越すが、その頃から、ジョージ・ヘンリー・ルイスの健康状態は不調に陥る。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメールから2019年に発行された切手6枚のうちの1枚


メアリー・アン・エヴァンズとジョージ・ヘンリー・ルイスの2人は、長らく不倫関係にあったが、1877年にハノーヴァー朝(House of Hanover)の第6代女王であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年 → 2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)の息女ルイーズ王女(Princess Louise:1848年ー1939年)に紹介されたことにより、2人の関係は公に認められるようになった。

母親のヴィクトリア女王は、メアリー・アン・エヴァンズの著作の熱心な読者で、特に、長編小説第1作目「アダム・ビード」に感銘を受けたと伝えられている。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメールから2019年に発行された切手6枚のうちの1枚


ジョージ・ヘンリー・ルイスが1878年11月30日に亡くなった後、メアリー・アン・エヴァンズは、彼が途中でやり残した仕事の編集を行っていたが、長らく友人だった青年実業家のジョン・ウォルター・クロス(John Walter Cross:1840年ー1924年)との間で、親密度合いを深めていく。

ジョージ・ヘンリー・ルイスが亡くなってから約18ヶ月後の1880年5月16日に、メアリー・アン・エヴァンズは、ジョン・ウォルター・クロスと結婚して、知人達を騒然とさせる。なお、ジョン・ウォルター・クロスは、メアリー・アン・エヴァンズよりも20歳以上年下だった。ジョン・ウォルター・クロスと結婚したメアリー・アン・エヴァンズは、メアリー・アン・クロス(Mary Ann Cross)と改名。


新婚旅行から戻って来たメアリー・アン・クロスとジョン・ウォルター・クロスの2人は、ロンドンのチェルシー地区(Chelsea)に住み始めたが、メアリー・アン・クロスは、喉の痛みを訴えて、体調不良となり、数年前から患っていた腎臓病も併発したため、結婚から僅か7ヶ月後の1880年12月22日にロンドンで死去した。享年61歳だった。


2026年5月29日金曜日

舞台劇「シャーロック・ホームズ(Sherlock Holmes)」- その2

リージェンツパークの野外劇場において購入した
舞台劇「シャーロック・ホームズ」のプログラム

5月2日(土)から6月6日(日)までの1ヶ月強の間、ロンドンのリージェンツパーク(Regent’s Park → 2016年11月19日付ブログで紹介済)内にある庭園「メアリー女王の庭園(Queen Mary’s Gardens → 2026年5月4日 / 5月10日 / 5月15日付ブログで紹介済)」内に所在する野外劇場(Open Air Theatre)において上演されている英国の劇作家であるジョエル・ホーウッド(Joel Horwood)による舞台劇「シャーロック・ホームズ(Sherlock Holmes)」は、米国のフィラデルフィアに本社を構える「リピンコット・マンスリー・マガジン(Lippincott’s Monthly Magazine)」のエージェントであるジョーゼフ・マーシャル・ストッダート博士(Dr. Joseph Marshall Stoddart)の依頼に基づいて、サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年-1930年)が同誌の1890年2月号に発表したシャーロック・ホームズシリーズ長編第2作目「四つの署名(The Sign of the Four → 2017年8月12日付ブログで紹介済)をかなり脚色している。


ジョエル・ホーウッド作舞台劇「シャーロック・ホームズ」は、「Act 1:約60分 + Interval:約20分 + Act 2:約60分」と言う2部構成になっている。


< Act 1 >


サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名」とは異なり、ジョン・ショルト少佐(Major John Sholto)とアーサー・モースタン大尉(Captain Arthur Morstan)の間に起きたインド駐留時代の因縁話から、舞台劇は始まる。

そして、物語は1890年のロンドンへと移り、アーサー・モースタン大尉の娘であるメアリー・モースタン(Mary Morstan)が、事件の相談のために、ベイカーストリート221B のシャーロック・ホームズの元を訪れる。

ホームズ、ジョン・H・ワトスンとメアリー・モースタンの3人は、ジョン・ショルト少佐の息子であるサディアス・ショルト(Thaddeus Sholto)の屋敷を訪問するが、ホームズとワトスンの2人が、メアリー・モースタンとサディアス・ショルトを残して、席を外している隙に、サディアス・ショルトが毒矢で殺害されてしまう。

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名」の場合、ホームズ、ワトスンとメアリー・モースタンの3人は、当初、ジョン・ショルト少佐の息子で、双子の弟であるサディアス・ショルトの屋敷へ招待される。その後、彼ら3人は、サディアス・ショルトに連れられて、ジョン・ショルト少佐の息子で、双子の兄であるバーソロミュー・ショルト(Bartholomew Sholto)へ赴くと、バーソロミュー・ショルトが毒矢で殺害されているのを発見する。

ジョエル・ホーウッド作舞台劇「シャーロック・ホームズ」の場合、ジョン・ショルト少佐の息子は、サディアス・ショルト1人に絞り、彼が毒矢で殺害される流れへ変更しており、物語の簡略化が為されている。

ホームズは、サディアス・ショルトの殺害犯として、ジョナサン・スモール(Jonathan Small)を指摘するが、決定的な証拠を示すことができない上に、ジョナサン・スモールを死なせてしまう。

その結果、メアリー・モースタンは、サディアス・ショルトの殺害犯として、警察に疑われ、逮捕の上、裁判に付されることが決まったところで、第1幕は終わる。


< Act 2 >



メアリー・モースタンに対して恋心を抱くワトスンとホームズの2人は、ロンドン中を駈け巡り、メアリー・モースタンの無実を証明して、裁判から救い出そうと頑張る。

シャーロック・ホームズは、兄であるマイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)の助けも借りるものの、サディアス・ショルトの本当の殺害犯であるトンガ(Tonga)を捕まえるまでには至らない。

物語の舞台は、最終的に、リージェンツパークへと移り、ホームズ対トンガの追跡劇が続く。

サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名」の場合、テムズ河(River Thames)での船による追跡劇が展開するが、ジョエル・ホーウッド作舞台劇「シャーロック・ホームズ」の場合、地上での追跡劇となる。

最後に、ホームズがメアリー・モースタンの濡れ衣を晴らした後、ワトスンはメアリー・モースタンに求婚するが、サー・アーサー・コナン・ドイル作「四つの署名」とは異なり、メアリー・モースタンワトスンの求婚を受け入れず、ハッピーエンドには終わらない。

そして、物語の最後に、ホームズによって、メアリー・モースタンの驚くべき姓(Last Name)が明らかにされて、舞台劇は終わりを迎える。



ジョエル・ホーウッド作舞台劇「シャーロック・ホームズ」の場合、舞台が何度も回転し続ける中、上演が行われ、回転舞台の上に渡された階段や通路等も有効に使用されて、通常の舞台劇に比べて、遥かに動きがある。

また、リージェンツパークにおけるホームズとトンガの追跡劇の際には、観客席の背後の通路も使われて、劇場全体を物語の中に取り込んでいる。

更に、犯人が逃亡に使用する気球も出てきて、なかなか楽しめる内容だった。


2026年5月28日木曜日

ロンドン セントメアリー教会バタシー(St. Mary’s Church, Battersea)- その2

ウィリアム・ブレイクとキャサリン・ソフィア・ブーシェの2人が
1782年8月18日に結婚式を挙げたセントメアリー教会バタシーの建物全景(その1)
<筆者撮影>

1827年8月12日に亡くなり、バンヒルフィールズ(Bunhill Fields → 2026年5月1日 / 5月7日 / 5月14日付で紹介済)に埋葬されている英国の詩人、画家で、銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイク(William Blake:1757年ー1827年 → 2023年5月15日付ブログで紹介済)は、1781年に出会ったキャサリン・ソフィア・ブーシェ(Catherine Sophia Boucher:1762年ー1831年)と、1782年8月18日にセントメアリー教会バタシー(St. Mary’s Church, Battersea)において結婚している。

ウィリアム・ブレイクは1757年11月28日生まれなので、この時、24歳で、キャサリン・ソフィア・ブーシェは1762年4月25日生まれなので、この時、20歳だった。


バンヒルフィールズ内にある
ウィリアム・ブレイクのお墓
<筆者撮影>


セントメアリー教会バタシーは、ロンドンの特別区の一つであるワンズワース区(London Borough of Wandsworth)バタシー地区(Battersea)にあるバタシーパーク(Battersea Park → 2016年7月10日付ブログで紹介済)近くに所在している。


Google Maps からバタシー地区近辺の地図を抜粋。


セントメアリー教会バタシーは、ワンズワース区バタシー地区内にある教会の中では、もっとも最古の教会で、元々の建物は、800年頃に建てられた、とのこと。

現存する教会は、1777年に地元の建築家であるジョーゼフ・ディクスン(Joseph Dixon)によって建設されたもので、現在、 Grade I Listed building の指定を受けて、保存されている。


ウィリアム・ブレイクとキャサリン・ソフィア・ブーシェの2人が
1782年8月18日に結婚式を挙げたセントメアリー教会バタシーの建物全景(その2)
<筆者撮影>


英国のステンドグラス(stained glass)芸術で知られているジョン・ヘイワード(John Hayward:1929年-2007年)が、1976年から1982年にかけて、セントメアリー教会バタシーに関連する4人の著名人をテーマにしたステンドグラスを制作の上、同教会の窓に設置している。


(1)ブレイク窓(The Blake Window)


2020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
ウィリアム・ブレイクが作詞した「無垢の予兆」が選ばれた。
132行に及ぶ「無垢の予兆」のうち、最初の2行が抜粋されている。
「To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower」
「一粒の砂にも、世界を見
一輪の野の花にも、天国を見」(筆者訳)


ウィリアム・シェイクスピア作の喜劇「夏の夜の夢」を題材にして、
英国の詩人 / 画家 / 銅版画職人であるウィリアム・ブレイクが、
水彩画「オーベロン、ティターニア、パックと妖精の踊り
(Oberon, Titania and Puck with Fairies Dancing)」(1786年頃)を描いている。
画面左側から、「
妖精の王オーベロン」、「妖精の女王ティターニア」、

「悪戯好きの妖精パック」、「蛾の羽の妖精」、「芥子の種の妖精」、

蜘蛛の巣の妖精」、そして、「豆の花の妖精」が登場している。

この水彩画を所蔵 / 展示しているテイト・ブリテン美術館

Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)で購入した絵葉書から抜粋。


英国の詩人、画家で、銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイクは、1782年8月18日に、この教会において、キャサリン・ソフィア・ブーシェと結婚式を挙げている。


(2)ターナー窓(The Tuner Window)


テイト・ブリテン美術館に所蔵 / 展示されている
ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーによる「自画像」(1799年)
<筆者撮影>


一般的には、「J・M・W・ターナー(J. M. W. Turner)」として知られている英国のロマン主義の画家であるジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner:1775年ー1851年  → 2018年7月1日 / 7月8日 / 7月15日付ブログで紹介済)は、当時、チェルシー地区(Chelsea)に住んでおり、セントメアリー教会バタシーからテムズ河(River Thames)を描いた。


(3)カーティス窓(The Curtis Window)


セントメアリー教会バタシーに隣接する墓地(その1)
<筆者撮影>

セントメアリー教会バタシーに隣接する墓地(その2)
<筆者撮影>


英国の植物学者(botanist)/ 昆虫学者(entomologist)であるウィリアム・カーティス(William Curtis:1746年ー1799年)は、1799年7月7日に亡くなった後、セントメアリー教会バタシーに埋葬された。


(4)アーノルド窓(The Arnold Window)


セントメアリー教会バタシーに隣接する墓地(その3)
<筆者撮影>

セントメアリー教会バタシーに隣接する墓地(その4)
<筆者撮影>


米国生まれの英国の軍人で、米国独立戦争(American Revolutionary War:1775年ー1783年)に出兵したベネディクト・アーノルド(Benedict Arnold:1741年-1801年)は、1801年6月14日に亡くなった後、セントメアリー教会バタシーに埋葬されている。


2026年5月27日水曜日

ロンドン ゴードンスクエア46番地(46 Gordon Square)- その2

英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴンが
1904年2月22日に亡くなった後、
ハイドパークゲイト通り22番地の家を売却して、
ヴァージニア・ウルフ達が引っ越したゴードンスクエア46番地の建物全景
<筆者撮影>

英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴン(Leslie Stephen:1832年ー1904年)が1904年2月22日に72歳で亡くなり、ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)は、2度目の神経衰弱に陥った。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


父親の死去に伴い、姉のヴァネッサ(Vanessa Bell:1879年ー1961年 → 後に英国の画家 / インテリアデザイナーとなる)、長男のトビー(Thoby:1880年ー1906年)と次男のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)は、それまで住んでいたハイドパークゲイト通り22番地(22 Hyde Park Gate → 2026年5月12日 / 5月17日付ブログで紹介済)の家を売却して、ゴードンスクエア46番地(46 Gordon Square)に家を購入した。


ヴァージニア・ウルフが生まれた
ハイドパークゲイト通り22番地の建物全景
<筆者撮影>


ゴードンスクエア46番地は、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在している。位置的には、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London → 2015年8月16日付ブログで紹介済)の東側で、ロンドン大学(University of London → 2016年8月6日付ブログで紹介済)の北側に該る。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。


ヴァージニア・ウルフは、ゴードンスクエア46番地の家へ引っ越した1904年の秋、一時的に当地に住んだものの、神経衰弱の療養のため、ケンブリッジ(Cambridge)やヨークシャー州(Yorkshire)へ転地。彼女が、神経衰弱の療養からゴードンスクエア46番地の家へ戻って来たのは、1904年12月だった。


ゴードンスクエア46番地の入口
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフ達が住み始めたゴードンスクエア46番地周辺には、大英博物館(British Museum → 2014年5月26日付ブログで紹介済)、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンやロンドン大学等が所在していたが、当時のブルームズベリー地区は、現在対比、より自由でボヘミアンな土地柄だったため、未婚の兄姉妹弟の4人が住む場所としては、あまり好ましいところではなかったと言える。


ゴードンスクエア46番地の建物外壁には、
英国の経済学者である初代ケインズ男爵ジョン・メイナード・ケインズが、
1916年から1946年までの間、ここに住んでいたことを示す
Greater London Council のプラークが掛けられている。
<筆者撮影>

ゴードンスクエア46番地の建物外壁には、
ヴァージニア・ウルフの姉で、
英国の画家 / インテリアデザイナーであるヴァネッサ・ベルと
英国の画家 / 織物・陶芸・舞台美術・服飾デザイナーである
ダンカン・ジェイムズ・コロウ・グラントがここに住んでいたことを示す
Englsih Heritage のブループラークが掛けられている。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフ
が神経衰弱の療養からゴードンスクエア46番地の家へ戻り、落ち着いた翌年の1905年3月頃から、長男のトビーがケンブリッジ大学(University of Cambridge)において知り合った才気溢れる青年達が、ゴードンスクエア46番地の家に集まるようになった。


ゴードンスクエア46番地と同じ並びに建つ
ゴードンスクエア50番地の建物全景
<筆者撮影>


ゴードンスクエア46番地の家に集まるようになった青年達の中には、


*ロジャー・エリオット・フライ(Roger Eliot Fry:1866年ー1934年)- 英国の画家 / 芸術批評家

*エドワード・モーガン・フォースター(Edward Morgan Forster:1879年ー1970年)- 英国の作家

*リットン・ストレイチー(Lytton Strachey:1880年-1932年)- 英国の伝記作家 / 批評家

*サクソン・アーノル・シドニー=ターナー(Saxon Arnoll Sydney-Turner:1880年ー1962年)- 英国の公務員

*レナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年)- 英国の作家 / 出版業者 / 公務員

*アーサー・クライヴ・へワード・ベル(Arthur Clive Heward Bell:1881年-1964年)- 英国の芸術批評家

*初代ケインズ男爵ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes, 1st Baron Keynes:1883年ー1946年)- 英国の経済学者

*ダンカン・ジェイムズ・コロウ・グラント(Duncan James Corrowr Grant:1885年ー1978年)- 英国の画家 / 織物・陶芸・舞台美術・服飾デザイナー

*ルパート・ショーナー・ブルック(Rupert Chawner Brooke:1887年ー1915年)- 英国の詩人

*デイヴィッド・ガーネット(David Garnett:1892年ー1981年)- 英国の作家 / 出版業者


等が居た。

彼らの集まりは、当初、「Thursday evenings」と呼ばれていたが、「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury Group)」と言う著述家や芸術家の知的サークルへとなった。


ゴードンスクエア50番地の入口
<筆者撮影>

ゴードンスクエア50番地の建物外壁には、
「ブルームズベリーグループ」に属するメンバー達がここや周辺の建物に住んでいたことを示す
Camden London Borough Council のプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


「ブルームズベリーグループ」の中心人物達との交流は、
ヴァージニア・ウルフの創作活動に大きな影響を与え、本格的な執筆活動を始めた。

当時は、文学批評が中心で、彼女は、様々な雑誌に記事を寄稿した。


                                            

2026年5月26日火曜日

ジョージ・ロムニー(George Romney)- その3

ケンウッドハウス(Kenwood House → 2018年9月23日付ブログで紹介済)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作「Mrs. Musters」(1780年)
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。

2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャー(通称:マイク)と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ジョージ・ロムニーは、1734年12月26日、家具職人(cabinet maker)の父ジョン・ロムニー(John Romney)と母アン・シンプスン(Anne Simpson)の三男として、ランカシャー州(Lancashire - 現在のカンブリア州(Cumbria))ダルトン・イン・ファーネス(Dalton-in-Furness)のベックサイド(Beckside)に出生したジョージ・ロムニーは、21歳の時(1755年)にケンダル(Kendal)へ行き、地元の肖像画家であるクリストファー・スティール(Christopher Steele)の弟子となり、絵画を正式に学び始めるが、2年後の1757年に、クリストファー・スティールとの師弟関係を解消。その頃には、彼は、地元ケンダルの後援者の間で、肖像画家 / 風景画家 / 歴史画家として有名になりつつあった。

ジョージ・ロムニーは、見習い期間中に病気に罹り、女家主の娘であるメアリー・アボット(Mary Abbot)に手厚く看護されたことが縁となり、1756年に2人は結婚し、同年に長男ジョンが生まれている。

1760年には、2人目の子供で、長女のアンが生まれたが、1762年3月、彼は、歴史画家として成功することを夢見て、妻メアリー・アボットと2人の子供(ジョン+アン)を地元ケンダルに残し、単身ロンドンへと向かった。


ロンドンにやって来たジョージ・ロムニーは、歴史画「ウルフ将軍の死(The Death of General Wolfe)」を描き上げ、1763年に王立芸術協会(Royal Society of Arts)のコンペに出品し、第2位の賞を獲得したものの、何故か、後になって賞金額が半分に減らされた。この賞金減額決定の背後に、サー・ジョシュア・レノルズが居たと言われており、生涯にわたって、2人の確執を呼んだ。

歴史画家としての生活は困窮したため、ジョージ・ロムニーは、2度、地元のケンダルへと戻らざるを得なかった。

ちなみに、その後、深刻な体調不良に陥り、肖像画の仕事を縮小して、1799年の夏に地元ケンダルへ戻るまで、彼は、家族とは一度も会わないままだった。ただし、家族との連絡を絶やすことはなく、また、家族への仕送りも続けた。


ジョージ・ロムニーは、1764年9月に初の海外旅行として、パリを訪問。

そして、1765年に再度、王立芸術協会のコンペにおいて、第2位の賞を獲得すると、肖像画家として売れっ子になっていく。


1769年に開校した王立美術院(Royal Academy of Arts)の250周年を記念して、
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が2019年に発行した記念切手(その1)


1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手(その2)

1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手(その3)


ジョージ・ロムニーは、肖像画家として成功をおさめたが、1768年に設立された王立芸術院(Royal Academy of Arts)への参加を要請されることはなく、また、彼自身から申し出ることもなかった。王立芸術院の会員にならなかったため、彼は、英国王室等からの支援を得ることができなかった。


1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年にが発行した記念切手(その4)


1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手(その5)


1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手(その6)


ジョージ・ロムニーが王立芸術院に参加しなかった理由としては、サー・ジョシュア・レノルズとの確執が、その一つに考えられるが、一方で、ジョージ・ロムニーは、優れた芸術家は王立芸術院の会員でなくても成功できる筈と言う考えを抱いていたことも、その一つに加えられる。

彼の肖像画家として業績は、この信念を裏付けるものであったが、晩年、この件について、彼は少しばかり遺憾の意を表明している。