2026年7月1日水曜日

メアリー女王の庭園 - 薔薇園(Queen Mary's Gardens - Rose Gardens)- その3

Rosa - You're Beautiful(その1)
<筆者撮影>

メアリー女王の庭園(Queen Mary's Gardens → 2026年5月4日 / 5月10日 / 5月15日付ブログで紹介済)内にある薔薇園(Rose Gardens)において、主だった薔薇の写真を撮ってきたので、3回に分けて、御紹介したい。今回は、3回目です。なお、品種によっては、最盛期を過ぎている薔薇があるが、御容赦願います。

Rosa - Norwich Castle
<筆者撮影>

Rosa - Precious Time
<筆者撮影>

Rosa - Princess Anne
<筆者撮影>

Rosa - Rock & Roll
<筆者撮影>

Rosa - Saffie-Rose
<筆者撮影>

Rosa - Scarborough Fair
<筆者撮影>

Rosa - Tiamo
<筆者撮影>

Rosa - You're Beautiful(その2)
<筆者撮影>

Rosa - Your Lovely Eyes
<筆者撮影>

2026年6月30日火曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その36B

英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作「満潮に乗って」の
ペーパーバック版の表紙 -
ドイツ軍によるロンドン大空襲を背景にして、
それからロンドンを守る英国空軍の戦闘機である
スーパーマリン スピットファイア(Supermarine Spitfire)の形に切り取られている。

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1948年に発表した「満潮に乗って(Taken at the Flood)」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第38作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第23作目に該っている。


なお、「満潮に乗って」の場合、1948年3月に米国で出版された際、「There Is a Tide」と言うタイトルが使用されたが、同年11月に英国で出版された際には、「Taken at the Flood」と言うオリジナルのタイトルへ戻された。


2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
「アガサ・クリスティー 2026年オフィシャルカレンダー」のうち、
2026年4月のカレンダーに描かれている
エルキュール・ポワロシリーズの長編第23作目
「満潮に乗って(→ 2026年1月21日付ブログで紹介済)」(1948年)-

若い未亡人であるロザリーン・アンダーヘイと再婚して、ロンドンに戻って来た

大富豪のゴードン・クロードは、ドイツ軍によるロンドン大空襲の際、亡くなってしまう。

2026年4月のカレンダーには、その場面が描かれている

<筆者撮影>


随分前に妻を亡くし、子供も居ない大富豪ゴードン・クロード(Gordon Cloade)は、クロード一族の生活を支えており、一族全員が彼の庇護下にあった。

そんなゴードン・クロードであったが、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中の1944年春、ニューヨークへ向かう船上で出会った若い未亡人であるロザリーン・アンダーヘイ(Rosaleen Underhay)と突然再婚する。

再婚したロザリーンを伴い、ゴードン・クロードがロンドンに戻って来たが、その数日後、ドイツ軍によるロンドン大空襲を受けて、ゴードン・クロードは死亡。再婚相手のロザリーンと彼女の兄であるディヴィッド・ハンター(David Hunter)の2人は、辛くも難を逃れた。

ゴードン・クロードは、ロンドンに戻って来た時点で、新たな遺言書を作成していなかったものの、再婚により、以前に作成した彼の遺言書は無効となり、彼の財産は、全て、またもや未亡人となったロザリーン・クロード(Rosaleen Cloade)が相続することになった。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


その数日後、ドイツ軍によるロンドン大空襲が再度あり、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)は、クラブに居た面々と一緒に、地下シェルターへと避難する。

その地下シェルターにおいて、ポワロは、ポーター少佐(Major Porter)から、アフリカに居る友人のロバート・アンダーヘイ(Robert Underhay)の話を聞く。

ポーター少佐は、ポワロに対して、


*ロバート・アンダーヘイは、不幸な結婚をしたこと

*ロバート・アンダーヘイの妻であるロザリーンは、その後、大富豪であるゴードン・クロードと再婚したが、先日のロンドン大空襲の際、ゴードン・クロードが亡くなったこと

*ロザリーンの最初の夫であるロバート・アンダーヘイは、まだ死んでいないかもしれないこと


等を語った。


ゴードン・クロードの死亡に伴い、彼の全財産を引き継いだロザリーン・クロードが、彼に代わって、クロード一族の面倒をみることになったが、一族の生活費の支出については、実質的には、ロザリーンの兄であるディヴィッド・ハンターの許可が必要だった。

「彼女(ロザリーン)さえ居なければ!」

クロード一族の面々の心には、どす黒い悪意が満ちていく。


それから2年後、ある訪問客が、事件の依頼のために、ポワロの元を訪れる。

その訪問客は、ゴードン・クロードの弟ライオネル・クロード(Lionel Cloade - 医者)の妻であるキャサリン・クロード(Katherine Cloade - 愛称:ケイシー(Kathie))で、「霊の導きにより、エルキュール・ポワロの元にやって来た。」と告げた。

彼女としては、ゴードン・クロードの全財産を相続したロザリーン・クロードの最初の夫であるロバート・アンダーヘイがまだ生きているのかどうかを調べてほしいと切り出すのであった。


(82)宿屋「スタッグ」(The Stag Inn)



ウォームズリーヴェイル村(Warmsley Vale)の宿屋「スタッグ」に、イーノック・アーデン(Enoch Arden)と名乗る男が、姿を現わす。そして、彼は、「ロザリーン・クロードの最初の夫であるロバート・アンダーヘイを見つけ出す方法を知っている。」と言って、ディヴィッド・ハンターを脅迫する。

数日後、イーノック・アーデンの撲殺死体が、宿屋「スタッグ」の部屋で発見されるのだった。


(83)大理石の暖炉(marble fireplace)



イーノック・アーデンは、頭を火かき棒で殴りつけられているが、直接の死因は、暖炉の大理石の縁に、頭をぶつけたためと、ポワロは突き止める。そして、ポワロは、「イーノック・アーデンの事件は、故意の殺人ではなく、事故死である。」と結論づけるのだった。


2026年6月29日月曜日

ロンドン グレンヴィルストリート / ダウニングコート(Downing Court, Grenville Street)

バーナードストリート側からダウニングコートを見上げたところ
<筆者撮影>


英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)と弟のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)の2人は、1911年11月、より広い家を求めて、ロンドンの中心部にあるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のフィッツロヴィア地区(Fitzrovia)内に所在するフィッツロヴィア(Fitzrovia)の端正なフィッツロイスクエア29番地(29 Fitzroy Square → 2026年6月6日 / 6月11日付ブログで紹介済)からロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camdenブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在するブランズウィックスクエア(Brunswick Square → 2026年6月23日付ブログで紹介済)の家へ引っ越した。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


引越後、ヴァージニア・ウルフと弟のエイドリアンの2人は、著述家や芸術家の知的サークルである「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury Group)」のメンバーのうち、


*ダンカン・ジェイムズ・コロウ・グラント(Duncan James Corrowr Grant:1885年ー1978年)- 英国の画家 / 織物・陶芸・舞台美術・服飾デザイナー

*レナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年)- 英国の作家 / 出版業者 / 公務員

*初代ケインズ男爵ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes, 1st Baron Keynes:1883年ー1946年)- 英国の経済学者


の3人を下宿人 / 間借り人として招き、同居している。


ヴァージニア・ウルフが住んでいた家は、
ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎の非常口の辺りに建っていたと思われる。
<筆者撮影>


ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎の非常口の右側の外壁に、
1911年から1912年にかけて、ヴァージニア・ウルフ達がここに住んでいたことを示す
プラークが掛けられている。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフは、レナード・シドニー・ウルフと結婚する1912年までの間、ブランズウィックスクエアの家に住んでいた。


ヴァージニア・ウルフが住んでいた家の跡地には、現在、
ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎が立っている。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが住んでいたブランズウィックスクエアの家は現存せず、現在は、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London → 2015年8月16日付ブログで紹介済)薬学部(School of Pharmacy - 住所:ブランズウィックスクエア29-39番地)の校舎が、その場所に建っている。


ブランズウィックスクエアガーデンズ内の案内板
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが住んでいたブランズウィックスクエアの家は、ブランズウィックスクエアガーデンズ(Brunswick Square Gardens → 2026年6月28日付ブログで紹介済)に面しているが、同ガーデンズを挟んだ反対側に、サー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie:1860年ー1937年)が住んでいた。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。


サー・ジェイムズ・マシュー・バリーは、スコットランドのキリミュア(Kirriemuir)生まれの劇作家/童話作家で、「ピーターパン(Peter Pan)」シリーズ等の作者として有名である。


バーナードストリート側からダウニングコートを見たところ
<筆者撮影>


シャーロック・ホームズシリーズの作者であるサー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)と同じスコットランドの出身で、彼の友人であった。その関係で、ジェイムズ・バリーが創設したアマチュアのクリケットチーム(Allahakbarries)に、コナン・ドイルも所属していた。


グレンヴィルストリート側からダウニングコートを見上げたところ
<筆者撮影>


1860年、織工の父と石工の娘の母の下、彼は10人兄弟の9番目として出生(なお、そのうちの2人は、彼が生まれる前に既に死亡)。

彼の家族は彼に聖職者になってほしいと願ったが、彼は作家になりたいという希望が強く、エディンバラ大学(University of Edinburgh)に入学し、文学を専攻。

1882年に大学を卒業した後は、ノッティンガムの新聞社(Nottingham Journal)に勤めながら、雑誌への寄稿等を行った。そして、1885年に彼はロンドンへ行き、文筆業に専念した。


グレンヴィルストリート側からダウニングコートを見たところ
<筆者撮影>


その際、ジェイムズ・バリーは、ブランズウィックスクエアガーデンズの南西の角、東西に延びるバーナードストリート(Bernard Street)と南北に延びるグレンヴィルストリート(Grenville Street)が交差する場所に、1885年から1888年までの間、住んでいた。


バーナードストリート側にある
ダウニングコートの1階外壁に、プラークが掛けられている。

<筆者撮影>


現在、この場所には、「ダウニングコート(Downing Court)」と言うフラットが建っており、バーナードストリートに面した建物の1階外壁に、「サー・ジェイムズ・マシュー・バリーが、1885年から1888年までの間、ここに住んでいた」ことを示す Marchmont Association のプラークが掛けられている。


バーナードストリート側にあるダウニングコートの1階外壁に掛けられているプラークには、
「ピーターパン」の作者であるサー・ジェイムズ・マシュー・バリーが、
1885年から1888年までの間、ここに住んでいたと記されている。
<筆者撮影>


つまり、ジェイムズ・バリーは、作家として成功をおさめる前の雌伏の時代に、ブランズウィックスクエアガーデンズ近くに住んでいたことになる。

サー・ジェイムズ・マシュー・バリーが、1885年から1888年までの間、住んでいた場所には、
現在、「ダウニングコート」と言うフラットが建っており、
入口はグレンヴィルストリート側に面している。
<筆者撮影>


1888年に発表した「オールドリヒト物語(Auld Licht Idylls)」で成功をおさめ、一躍有名となった彼は劇作家としても活動するようになる。

1891年、彼にとって3作目の劇で知り合った女優メアリー・アンセル(Mary Ansell)と1894年7月9日に彼の出生地であるキリミュアで結婚する。1893年から1894年にかけて、彼は体調が優れず、メアリーは彼の家族と一緒に彼の看病を行い、彼の体調が回復したことに伴い、結婚式が行われたのである。


1895年に、バリー夫妻はサウスケンジントン地区(South Kensington)内にあるグロースターロード(Gloucester Road)沿いに家を購入したが、彼がよく散歩に出かけるケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens → 2026年1月31日付ブログで紹介済)からかなり距離があった。


ケンジントンガーデンズ内に設置されている案内板 -
ウェストキャレッジドライブ(West Carriage Drive
→ 2024年11月5日付ブログで紹介済)が、
ハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)と
ケンジントガーデンズを東西に分ける境界線となっている。
<筆者撮影>


そのため、1900年に、バリー夫妻はケンジントンガーデンズの北側のベイズウォーターロード(Bayswater Road → 2026年1月30日付ブログで紹介済)沿いの家を購入して、移り住んだ。この家がベイズウォーターロード100番地(100 Bayswater Road → 2015年7月25日付ブログで紹介済)の建物で、東西に延びるベイズウォーターロードと南北に延びるレンスターテラス(Leinster Terrace)が交差する北西の角に建っている。ジェイムズ・バリーの希望通り、ベイズウォーターロード100番地の家からケンジントンガーデンズを一望することが可能な上、ベイズウォーターロードを横切れば、ケンジントンガーデンズは目と鼻の先という立地条件であった。


レンスターテラスの入口から見たベイズウォーターロード100番地の建物
<筆者撮影>


ジェイムズ・バリーは、このベイズウォーターロード100番地をベースにして、以下の有名な作新を執筆している。


*「小さな白い鳥(The Little White Bird)」(1902年)- 第13章から第18章にピーターパンが初めて登場。

*戯曲「ピーターパンー大人になりたがらない少年(Peter Pan, or The Boy Who Wouldn't Grow Up)」(1904年)

*「ケンジントン公園のピーターパン(Peter Pan in Kensington Gardens)」(1906年)

*「ピーターパンとウェンディー(Peter and Wendy)」(1911年)


ベイズウォーターロード100番地の建物には、
サー・ジェイムズ・バリーがここに住んでいたことを示す
London City Council のプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


これらの作品は、彼がよく散歩していたケンジントンガーデンズで1897年に知り合ったディヴィス夫妻とその息子達(5人兄弟)のうち、ディヴィス夫人のシルヴィア(Sylvia Davies:1866年ー1910年)と彼女の長男ジョージ・ディヴィス(George Davies:1893年ー1915年)がモデルとなっていると一般に言われている。


1908年に、妻メアリーは夫の友人であるギルバート・キャナン(Gilbert Cannan)と不倫関係になり、これが1909年7月にジェイムズ・バリーの知るところとなる。当初、彼は妻メアリーに不倫関係を止めるよう説得するが、彼女はこれを拒否したため、最終的には、妻の不貞行為を理由にして、1909年10月に、彼は妻と離婚する。

上記の離婚後、彼はベイズウォーターロード100番地を彼の友人で南極探検家だったロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott:1868年ー1912年)の未亡人キャスリーン・ブルース(Kathleen Bruce:彫刻家)に売却してしまう。


仲が良かったディヴィス夫妻の死亡(夫アーサー:1907年+夫人シルヴィア:1910年)に伴い、ジェイムズ・バリーは、ディヴィス夫妻の子供2人を養子にする。アーサーの死亡後から、彼はシルヴィア夫人への財政的な援助を始めている(ピーターパン関係の著作による収入が充分にあり、シルヴィア夫人への財政的な援助には全く問題なかった)が、こういった彼の行動が妻メアリーの不貞行為につながった要因の一つではないかと、個人的には思う。


ケンジントンガーデンズ内にあるイタリアンガーデンズ(その1)
<筆者撮影>


ケンジントンガーデンズ内にあるイタリアンガーデンズ(その2)
<筆者撮影>


1912年5月に、ジェイムズ・バリーは、ケンジントンガーデンズ内イタリアンガーデンズ(Italian Gardens)の南側にある湖ザ・ロング・ウォーター(The Long Water)の西岸に、養子マイケル(Michael Davies:1900年ー1921年 ディヴィス夫妻の四男)をモデルにしたピーターパンの像(Peter Pan Statue)を建てた。

実際には、彫刻家サー・ジョージ・フランプトン(Sir George Frampton)は別の子供をモデルにして、ピーターパンの像を制作したため、ジェイムズ・バリーを大いに失望させた。彼によると、「ピーターパンの中に悪魔が表現されていない。(It doesn't show the devil in Peter.)」とのこと。


ケンジントンガーデンズ内イタリアンガーデンズの南側にあるザ・ロング・ウォーター
<筆者撮影>


ケンジントンガーデンズ内イタリアンガーデンズの南側にある
湖ザ・ロング・ウォーターの西岸に建つ
ピーターパンの像
<筆者撮影>


悪いことは続き、ディヴィス夫妻の長男ジョージは、1915年に第一次世界大戦(1914年ー1918年)において死亡した上、四男のマイケルは、1921年に21歳の誕生日まであと1ヶ月を控えた20歳の若さで、オックスフォード(Oxford)の近くにある湖で友人(同性愛の相手と思われる)と一緒に溺死したため、ジェイムズ・バリーを非常に悲しませたのである。 


                                         

2026年6月28日日曜日

ロンドン ブランズウィックスクエアガーデンズ(Brunswick Square Gardens)

ブランズウィックスクエアガーデンズ内の案内板
<筆者撮影>

英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)と弟のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)の2人は、1911年11月、より広い家を求めて、ロンドンの中心部にあるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のフィッツロヴィア地区(Fitzrovia)内に所在するフィッツロヴィア(Fitzrovia)の端正なフィッツロイスクエア29番地(29 Fitzroy Square → 2026年6月6日 / 6月11日付ブログで紹介済)からロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camdenブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在するブランズウィックスクエア(Brunswick Square → 2026年6月23日付ブログで紹介済)の家へ引っ越した。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


引越後、ヴァージニア・ウルフと弟のエイドリアンの2人は、著述家や芸術家の知的サークルである「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury Group)」のメンバーのうち、


*ダンカン・ジェイムズ・コロウ・グラント(Duncan James Corrowr Grant:1885年ー1978年)- 英国の画家 / 織物・陶芸・舞台美術・服飾デザイナー

*レナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年)- 英国の作家 / 出版業者 / 公務員

*初代ケインズ男爵ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes, 1st Baron Keynes:1883年ー1946年)- 英国の経済学者


の3人を下宿人 / 間借り人として招き、同居している。


ヴァージニア・ウルフが住んでいた家は、
ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎の非常口の辺りに建っていたと思われる。
<筆者撮影>


ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎の非常口の右側の外壁に、
1911年から1912年にかけて、ヴァージニア・ウルフ達がここに住んでいたことを示す
プラークが掛けられている。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフは、レナード・シドニー・ウルフと結婚する1912年までの間、ブランズウィックスクエアの家に住んでいた。

ヴァージニア・ウルフが住んでいたブランズウィックスクエアの家は現存せず、現在は、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London → 2015年8月16日付ブログで紹介済)薬学部(School of Pharmacy - 住所:ブランズウィックスクエア29-39番地)の校舎が、その場所に建っている。


ヴァージニア・ウルフが住んでいた家の跡地には、現在、
ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎が立っている。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが住んでいたブランズウィックスクエアの家は、ブランズウィックスクエアガーデンズ(Brunswick Square Gardens)に面している。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。



ブランズウィックスクエアガーデンズは、元々、英国の船長(sea captain)から慈善家(philanthropist)へ転じたトマス・コラム(Thomas Coram:1668年-1751年)が1739年に設立した孤児院(Foundling Hospital)に属する土地だった。


ブランズウィックスクエアの西側から
ブランズウィックスクエアガーデンズを見たところ(その1)
<筆者撮影>

ブランズウィックスクエアの西側から
ブランズウィックスクエアガーデンズを見たところ(その2)
<筆者撮影>


孤児院運営用の資金調達のため、後にブランズウィックスクエアガーデンズとメクレンバーグスクエア(Mecklenburgh Square - 東側に隣接)となる土地が1790年に貸し出され、英国の不動産開発業者(property developer)であるジェイムズ・バートン(James Burton:1761年ー1837年)が、1795年から1802年にかけて、周辺の住宅街を建設。


ナショナルポートレイトギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ハノーヴァー朝の第3代英国王であるジョージ3世の肖像画
(By the studio of Allan Ramsay / Oil on canvas /
based on a portrait of 1761 - 1762)
<筆者撮影>


ナショナルポートレイトギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ジョージ3世の王妃である
ソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ
(1744年ー1818年)の肖像画

(By the studio of Allan Ramsay / Oil on canvas /
based on a portrait of 1761 - 1762)
<筆者撮影>


西側の区画は、ハノーヴァー朝(House of Hanover)第4代英国王のジョージ4世(George IV:1762年ー1830年 在位期間:1820年ー1830年)の王妃であるキャロライン・アメリア・エリザベス・オブ・ブランズウィック=ウォルフェンビュッテル(Caroline Amelia Elizabeth of Brunswick-Wolfenbuttel:1768年ー1821年)に因んで、「ブランズウィックスクエア」と、また、東側の区画は、ハノーヴァー朝の第3代国王であるジョージ3世(George III:1683年ー1820年 在位期間:1760年ー1820年)の王妃であるソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ(Sophia Charlotte of Mecklenburg- Strelitz:1744年ー1818年)に因んで、「メクレンバーグスクエア」と名付けられた。


ナショナルポートレイトギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ハノーヴァー朝の第4代英国王であるジョージ4世の肖像画
(By Sir Thomas Lawrence / Oil on canvas / 1814年頃)
<筆者撮影>


なお、ジェイムズ・バートンが当時開発した住宅街は、残念ながら、一軒も現存していない。


ブランズウィックスクエアの北東の角に建つ孤児院博物館
<筆者撮影>


現在、「ブランズウィックスクエア」の北側には、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンの薬学部、孤児院の歴史を紹介する孤児院博物館(Foundling Museum)や孤児院を設立したトマス・コラムのブロンズ像が建っている。


ブランズウィックスクエアの北東の角に設置されている
慈善家で、1739年に孤児院を設立した
トマス・コラムのブロンズ像
<筆者撮影>

慈善家で、1739年に孤児院を設立した
トマス・コラムの説明プレート
<筆者撮影>


「ブランズウィックスクエア」の東側には、サッカー競技場と「コラムフィールズ(Coram’s Fields - 大人は、子供を伴っている場合のみ、入園可能)」が広がっている。


ブランズウィックスクエアガーデンズの内部(その1)
<筆者撮影>

ブランズウィックスクエアガーデンズの内部(その2)
<筆者撮影>


「ブランズウィックスクエア」の南側には、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンの学生寮(International Hall)が建っている。


ブランズウィックスクエアガーデンズの内部(その3)
<筆者撮影>

ブランズウィックスクエアガーデンズの内部(その4)
<筆者撮影>


最後に、「ブランズウィックスクエア」の西側には、「ブランズウィックセンター(Brunswick Centre)」と呼ばれるカムデン区が管理する低所得者用住居(カウンシルフラット)とショッピングセンターが入っている。


ブランズウィックスクエアガーデンズの内部(その5)
<筆者撮影>


「ブランズウィックスクエア」、「メクレンバーグスクエア」と「コラムフィールズ」は、歴史がある公園 / 庭園(Historic Parks and Gardens)として、listed Grade II 指定されている。