2026年3月4日水曜日

ヨハネス・フェルメール作「ヴァージナルの前に立つ女」(A Lady Standing at the Virginal by Johannes Vermeer)

ナショナルギャラリー内に所蔵 / 展示されている
ヨハネス・フェルメール作「ヴァージナルの前に立つ女」
(1671年ー1674年)<その1>
51.8 cm x 45.2 cm / Oil on canvas
<筆者撮影>

ハムステッドヒース(Hampstead Heath → 2015年4月25日付ブログで紹介済)内に建つ「白亜の館」であるケンウッドハウス(Kenwood House → 2018年9月23日付ブログで紹介済)に所蔵 / 展示されているヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer:1632年?ー1675年? / 本名:ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト(Jan van der Meer van Delft))作の絵画「ギターを弾く女(The Guitar Player → 2026年2月24日 / 3月1日付ブログで紹介済)」の他に、ヨハネス・フェルメール作の絵画2点が、ナショナルギャラリー(National Gallery)に所蔵 / 展示されている。

トラファルガースクエア(Trafalgar Square)に面したナショナルギャラリー
<筆者撮影>

今回は、「ヴァージナルの前に立つ女」(A Lady Standing at the Virginal)について、紹介したい。


「ヴァージナルの前に立つ女」も、「ギターを弾く女の晩年」と同じく、ヨハネス・フェルメール晩年(1671年ー1674年)の作品である。


多くのヨハネス・フェルメール作品のように、室内に女性が一人で立っていて、左手の窓から光が射していると言う彼独特の構図ではあるが、他の作品と異なるのは、


(1)左手の窓から射している光に対して、女性が背を向けていること

(2)左手の窓から射している光が強いため、画面全体が明るいこと


が挙げられる。


ヴァージナル(virginal)と言うのは、チェンバロに似た楽器で、当時のオランダの家庭にはよく置かれていたものと思われる。


ナショナルギャラリー内に所蔵 / 展示されている
ヨハネス・フェルメール作「ヴァージナルの前に立つ女」(左側の絵画)と
「ヴァージナルの前に座る女」(右側の絵画)
<筆者撮影>


女性の後ろの壁に掛けられている画中画に描かれている「キューピッド」は、左手に何も記されていないカードを掲げている。

この絵は、「愛のエンブレム集」(絵画に描かれている図像がどのような意味を有しているのかを解説した寓意図像解説書)に出てくる「1」と言う数字が描かれたカードを掲げているキューピッドを下敷きに、ヨハネス・フェルメールは描いたものと考えられている。

識者によると、「愛は一人に捧げてこそ」と言う意味で、「ヴァージナルの前に立つ女」の場合、キューピッドが掲げているカードに数字が入っていないのは、「1が描かれていると、寓意があまりにも明確で、作品の外観を損なうから。」と推測されている。


また、壁に掛かっている風景画とヴァージナルの蓋に描かれている風景画に関して、元ワシントンナショナルギャラリー学芸員のアーサー・K・ウィーロック・ジュニア(Arthur K. Wheelock Jr.:1943年ー)は、両方とも自然の美しさで女性の純潔を表現したものと考えている。

一方、元メトロポリタン美術館学芸員のウォルター・リトケ(Walter Liedtke:1945年ー2015年)は、岐路に立つヘラクレスと言う有名な主題(岩山:美徳 / なだらかな道:悪徳)を引き合いに出して、岩山の風景画(ヴァージナルの蓋)と牧歌的な風景画(壁)は、女性が美徳と快楽のどちらを選択するのかを突き付けられている比喩だと解釈している。


ナショナルギャラリー内に所蔵 / 展示されている
ヨハネス・フェルメール作「ヴァージナルの前に立つ女」
(1671年ー1674年)<その2>
51.8 cm x 45.2 cm / Oil on canvas
<筆者撮影>


「ヴァージナルの前に立つ女」は、次回に紹介する「ヴァージナルの前に座る女(A Lady Seated at the Virginal)」と一緒に、当初、アントウェルペンのデュアルトの元にあったようで、流転の末にフランス人のテオフィル・トレ=ビュルガー(Théophile Thoré-Bürger:1807年ー1869年)によって所有された。

彼は、美術ジャーナリストである「テオフィル・トレ」と美術史家である「ウィリアム・ビュルガー」と言う2つの顔を持ち、画商を生業としており、ヨハネス・フェルメール作品を再発見した人物として知られている。

彼の死後、画商を通じて、ナショナルギャラリーが1892年に同作品を購入して、現在に至っている。


2026年3月3日火曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その23B

英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作「メソポタミアの殺人」の
ペーパーバック版の表紙 -

中東に広がる砂漠の表紙が、

遺跡を発掘するのに使用されるスコップの形に切り取られている。


その後も、ルイーズ・ボスナー(Louise Bosner)が新しい男性と親しくなる度に、夫のフレデリック・ボスナー(Frederick Bosner)の名前で、脅迫状が舞い込んだ。ところが、ルイーズが米国人考古学者のエリック・ライドナー博士(Dr. Eric Leidner)と出会って結婚するまでの間、脅迫状は届かなかった。

しかしながら、二人の結婚後、夫のフレデリックの名前で、「命令に背いたお前を殺す。」と書かれた脅迫状が再び届き、その直後、ルイーズとエリックの二人は、自宅において、危うくガス中毒で殺されかけたのである。

そのため、二人は、イラクで発掘調査をする時以外も、海外で暮らし始めると、それから2年間、脅迫状はぱたりと止んだ。


しかし、今年の発掘調査が始まると、3週間前に、「お前の命は、風前の灯だ。」と、そして、1週間前には、「俺は、遂にやって来たぞ。」と書かれた脅迫状がまた届いたため、ルイーズは、恐怖に怯えていたのである。

ただ、脅迫状に書かれた筆跡が、ルイーズのものによく似ていたため、夫のエリック・ライドナー博士と英国人看護婦で、ルイーズの付き添いとして雇われたエイミー・レザラン(Amy Leatheran)の二人は、ルイーズが自分で自分宛に脅迫状を書いているのではないかと疑う。


翌日の午後、昼寝の床に就いたルイーズが自室の床の上で死んでいるのを、夫のエリック・ライドナー博士が発見した。何か重いものによる右のこめかみへの一撃が、彼女の死因だった。ところが、ルイーズの部屋の窓は、内側から鍵がかかっている上に、室内から凶器らしきものは、全く見つからなかった。


事件発生当時、ルイーズの部屋の前の中庭では、現地の少年が発掘された土器を洗っており、彼女の部屋には、誰も出入りしなかったと証言する。更に、中庭へと通じる発掘調査隊宿舎の入口には、現地雇いの使用人達が集まって、雑談に興じており、見知らぬ外部の人間が宿舎内へと侵入することは、不可能だった。

つまり、ルイーズを殺害した犯人は、発掘調査隊のメンバーの中に居ると思われた。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


折しも、シリアからバグダッドへと向かう途中、この辺りを通りかかったエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)は、自分達の手には負えないと判断した地元の警察署長から要請され、事件の捜査を引き受けるのであった。


(48)遺跡の発掘現場(archaeological dig)



米国人考古学者のエリック・ライドナー博士は、ピッツタウン大学イラク調査隊のメンバー達と一緒に、発掘調査隊を組成し、古代メソポタミアの地、チグリス河岸にあるテル・ヤリミヤ(Tell Yarimjah)遺跡において、発掘調査を進めていた。

そして、発掘調査隊の宿舎内において、エリック・ライドナー博士の妻であるルイーズ・ライドナーが、密室状態の自室の床の上で死んでいるのが発見される。


(49)黄金の杯(gold cup)



黄金の杯は、テル・ヤリミヤ遺跡から発掘された調度品の一つである。


(50)石臼 (stone quern)



昼寝の床に就いたルイーズ・ライドナーが自室の床の上で死んでいるのが、夫のエリック・ライドナー博士によって発見される。何か重いものによる右のこめかみへの一撃が、彼女の死因であった。

地元の警察署長からの要請に基づき、事件の捜査を引き受けたエルキュール・ポワロは、石臼 が凶器だったことを見抜く。


2026年3月2日月曜日

ロンドン クレイヴンストリート32番地(32 Craven Street)

ドイツの詩人であるハインリヒ・ハイネが住んでいた
クレイヴンストリート32番地の建物全景
<筆者撮影>

印刷業で成功を収めた後、政界へ進出したベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin:1706年ー1790年 / 米国の政治家 / 外交官 / 著述家 / 物理学者 / 気象学者 → 2026年2月20日 / 2月26日付ブログで紹介済)は、英国領北米植民地における待遇改善を要求するため、1757年に、ペンシルヴェニア植民地(Pennsylvania Assembly)により、英国へと派遣される。


彼は、1757年から1775年までの約20年間、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内にあるクレイヴンストリート36番地(36 Craven Street → 2026年2月27日付ブログで紹介済)に間借りしており、現在、この建物は、「ベンジャミン・フランクリンハウス(Benjamin Franklin House)」として、一般に公開されている。

クレイヴンストリート32番地の建物を見上げたところ
<筆者撮影>


チャリングクロス駅(Charing Cross Station → 2014年9月20日付ブログで紹介済)の前を通って東西に延びるストランド通り(Stand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)からテムズ河(River Thames)へ向かい、クレイヴンストリート(Craven Street → 2014年8月3日付ブログで紹介済)が南北に延びている。

クレイヴンストリート36番地の建物は、クレイヴンストリートの東側に、チャリングクロス駅に隣接するように建っている。


クレイヴンストリート32番地の建物入口(その1)
<筆者撮影>


クレイヴンストリートには、ベンジャミン・フランクリン以外にも、著名人が住んでいた建物がある。

それは、クレイヴンストリート32番地(32 Craven Street)の建物で、ベンジャミン・フランクリンが住んでいたクレイヴンストリート36番地と同じ側(=クレイヴンストリートの東側)に建っている。


クレイヴンストリート32番地の建物入口(その2)
<筆者撮影>


クレイヴンストリート32番地の建物には、ドイツの詩人 / 文芸評論家 / エッセイスト / ジャーナリストであるクリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Henrich Heine:1797年ー1856年)が一時住んでいた。


クレイヴンストリート32番地の建物外壁には、
ハインリヒ・ハイネがここに住んでいたことを示す
LCC (London City Council) のプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


1797年にデュッセルドルフ(
Düsseldorf)に生まれ、1825年に名門ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン(Georg-August-Universität Göttingen)を卒業して、法学の学士を取得したハインリヒ・ハイネは、学生時代から雑誌に寄稿していたため、職業作家 / ジャーナリストとしての活動を始める。
ハインリヒ・ハイネは、ハンブルク(Hamburg)に移住した後、1827年にミュンヘン(München)へ、そして、1829年にベルリン(Berlin)へ移り住むが、その間に、1827年に英国とオランダを、また、1829年にイタリアを旅行している。


クレイヴンストリート32番地の建物外壁に掛けられている
ハインリヒ・ハイネがここに住んでいたことを示すプラークのアップ
<筆者撮影>


つまり、1827年に英国を訪れた際、ハインリヒ・ハイネは、一時、クレイヴンストリート32番地の建物に滞在していた訳である。

彼の旅行体験は、「旅の絵(Reisebilder)」(1826年-1831年)や「イギリス断章(Englische Fragmente)」(1827年)等の作品に結実することになる。


2026年3月1日日曜日

ヨハネス・フェルメール作「ギターを弾く女」(The Guitar Player by Johannes Vermeer)- その2

「白亜の館」と呼ばれるケンウッドハウス内に所蔵 / 展示されている
ヨハネス・フェルメール作「ギターを弾く女」(1671年ー1674年)<その1>
53.0 cm x 46.3 cm / Oil on canvas
<筆者撮影>

絵画「ギターを弾く女(The Guitar Player)」は、ネーデルラント連邦共和国(現オランダ王国)の画家で、レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn:1606年ー1669年 → 2025年9月26日 / 10月2日付ブログで紹介済)と並ぶ17世紀オランダ黄金時代を代表する画家と評されているヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer:1632年?ー1675年? / 本名:ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト(Jan van der Meer van Delft)の晩年(1671年ー1674年)の作品で、残念ながら、ベストの作品とは言えない。

ヨハネス・フェルメールの作品の場合、左手に光源があることが多いが、「ギターを弾く女」については、珍しく光源が右手にある。


「ギターを弾く女」は、ヨハネス・フェルメールが亡くなった時に、フェルメール家に残っていた絵画の1枚で、彼の妻カタリーナ・ボルネス(Catharina Bolnes:1631年ー1688年)は、パン屋のヘンドリック・ファン・バイテンに、借金の担保として渡さざるを得なかった。

カタリーナ・ボルネスは、「ギターを弾く女」をなんとか取り戻そうとしたものの、上手くいかず、ヘンドリック・ファン・バイテンが1701年に死んだ際に残された「ギターを弾く女」は、売却されてしまった。


上記以降、「ギターを弾く女」がどのような経路を辿ったのか、不明なるも、1794年に英国のパルマーストーン公が同作品をハーグ(Den Haag)で購入したと言う記録が残っている。


「白亜の館」と呼ばれるケンウッドハウス内に所蔵 / 展示されている
ヨハネス・フェルメール作「ギターを弾く女」(1671年ー1674年)<その2>
53.0 cm x 46.3 cm / Oil on canvas
<筆者撮影>


その後、何人かの手を経て、ロンドンの画廊が同作品を入手して、ギネスビール社会長の初代アイヴィー伯爵エドワード・セシル・ギネス(Edward Cecil Guinness, 1st Earl of Iveagh:1847年ー1927年)が、1889年に購入。


「白亜の館」と呼ばれるケンウッドハウス内に所蔵 / 展示されている
初代アイヴィー伯爵エドワード・セシル・ギネスの肖像画
<筆者撮影>

彼がハムステッドヒース(Hampstead Heath → 2015年4月25日付ブログで紹介済)内に建つ「白亜の館」であるケンウッドハウス(Kenwood House → 2018年9月23日付ブログで紹介済)を購入したことに伴い、「ギターを弾く女」は、ケンウッドハウス内に所蔵 / 展示される。


「白亜の館」と呼ばれるケンウッドハウスの裏面
<筆者撮影>


その2年後の1927年、初代アイヴィー伯爵エドワード・セシル・ギネスが死去した際、ケンウッドハウスは、彼が購入後に展示していた絵画コレクション(「ギターを弾く女」を含む)と一緒に、国に遺贈されて、現在、イングリッシュヘリテージ(English Heritage)がケンウッドハウスと絵画コレクションを管理しており、一般に公開している。


ケンウッドハウス前から見たハムステッドヒース
<筆者撮影>

「ギターを弾く女」は、ずっと個人蔵であったため、後世に行われた修復の影響がなく、額縁を含めて、ほぼオリジナルのままと言われている。


2026年2月28日土曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その23A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「メソポタミアの殺人」ペーパーバック版の表紙 -
表紙の背景は、古代メソポタミアの地、
チグリス河岸にあるテル・ヤリミヤ遺跡の発掘現場で、
手前の人物は、
遺跡発掘調査隊を率いる米国人考古学者のエリック・ライドナー博士の妻で、
事件の被害者となるルイーズ・ライドナーだと思われる。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(48)遺跡の発掘現場(archaeological dig)



ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)から右真横へ移動した画面右端近くにある柱の側に、彼の執事であるジョージ(George → 2025年10月23日付ブログで紹介済)が立っている。ポワロの執事ジョージが立つ左側の柱に、遺跡の発掘現場が物入れのように立て掛けられている。


(49)黄金の杯(gold cup)



ジグソーパズルの下段のやや右手にあるテーブルの上段の右端の辺りに、黄金の杯が置かれている。


(50)石臼 (stone quern)



ジグソーパズルの下段のやや右手にあるテーブルの下段の左端の辺りに、石臼が置かれている。


これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1936年に発表した「メソポタミアの殺人(Murder in Mesopotamia)」である。

「大空の死」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第19作目に、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第12作目に該っている。

なお、本作品は、「ナイルに死す(Death on the Nile)」(1937年)と「死との約束(Appointment with Death → 2021年3月13日付ブログで紹介済)」(1938年)へと続く中近東を舞台にした長編第1作目でもある。


バグダッドでの仕事を終えた英国人看護婦のエイミー・レザラン(Amy Leatheran)は、イラクの遺跡発掘調査隊を率いる米国人考古学者のエリック・ライドナー博士(Dr. Eric Leidner)に雇われ、彼の妻であるルイーズ・ライドナー(Louise Leidner)の付き添いをすることになった。そのため、エイミーは、古代メソポタミアの地、チグリス河岸にあるテル・ヤリミヤ(Tell Yarimjah)遺跡の発掘調査隊宿舎へとやって来た。


発掘調査隊宿舎に到着したエイミーは、ルイーズ・ライドナーから、ピッツタウン大学イラク調査隊のメンバーを紹介される。ルイーズは、40歳近くの魅力的で美しい女性であったが、神経衰弱により、ノイローゼになる位に怯えていたのである。


発掘調査隊宿舎に着いて1週間が経過し、エイミーのことを信頼したルイーズは、彼女に対して、「自分は、もうすぐ殺されてしまうかもしれない。」と打ち明ける。

ルイーズによると、第一次世界大戦(1914年ー1918年)中の20歳の時に、フレデリック・ボスナー(Frederick Bosner)と最初の結婚をした。フレデリックは米国政府で働いていたが、ルイーズは、夫のフレデリックが実際にはドイツのスパイであることに気付き、陸軍省に勤めていた父親に通報した。その結果、フレデリックは、米国政府によって逮捕されてしまう。そして、ルイーズは、夫のフレデリックがドイツのスパイとして、米国政府により処刑されたものと思っていた。


ところが、後にルイーズが他の男性と親しくなると、夫のフレデリックの名前で、「その相手と直ぐに別れろ。」と迫る脅迫状が届くようになる。驚くルイーズに対して、父親は真相を話す。ルイーズの夫フレデリックは、米国政府により逮捕されたものの、処刑前に脱走を図った後、列車の転覆事故に巻き込まれて、死亡したことになっていた。ただ、遺体の損傷が激しかったため、間違いなく、遺体がフレデリック本人であるとは断言できなかったのである。


2026年2月27日金曜日

ロンドン ベンジャミン・フランクリンハウス / クレイヴンストリート36番地(Benjamin Franklin House / 36 Craven Street)

「ベンジャミン・フランクリンハウス」
(クレイヴンストリート36番地)の建物全景
<筆者撮影>


印刷業で成功を収めた後、政界へ進出したベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin:1706年ー1790年 / 米国の政治家 / 外交官 / 著述家 / 物理学者 / 気象学者 → 2026年2月20日 / 2月26日付ブログで紹介済)は、英国領北米植民地における待遇改善を要求するため、1757年に、ペンシルヴェニア植民地(Pennsylvania Assembly)により、英国へと派遣される。


ベンジャミン・フランクリンの渡英300周年を記念して、
セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会
(The Priory Church of St. Bartholomew the Great →
2026年2月17日 / 2月19日 / 2月22日付ブログで紹介済)
が印刷した冊子
(Painting of from Boston Public Library /
Artist : Joseph-Siffrede Duplessis)


彼は、1757年から1775年までの約20年間、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内にあるクレイヴンストリート36番地(36 Craven Street)に間借りしていた。


「ベンジャミン・フランクリンハウス」の看板
<筆者撮影>

「ベンジャミン・フランクリンハウス」の入口
<筆者撮影>


チャリングクロス駅(Charing Cross Station → 2014年9月20日付ブログで紹介済)の前を通って東西に延びるストランド通り(Stand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)からテムズ河(River Thames)へ向かい、クレイヴンストリート(Craven Street → 2014年8月3日付ブログで紹介済)が南北に延びている。

クレイヴンストリート36番地の建物は、クレイヴンストリートの東側に、チャリングクロス駅に隣接するように建っている。


「ベンジャミン・フランクリンハウス」の外壁には、
ベンジャミン・フランクリンがここに住んでいたことを示すプラークが掛けられている。
<筆者撮影>

ベンジャミン・フランクリンがクレイヴンストリート36番地の建物に住んでいたことを示す
プラークのアップ

<筆者撮影>

クレイヴンストリート36番地の建物は、英国の建築家であるヘンリー・フリットクロフト(Henry Flitcroft:1697年ー1729年)により設計された。


「ベンジャミン・フランクリンハウス」内の階段(その1)
<筆者撮影>

「ベンジャミン・フランクリンハウス」内の階段(その2)
<筆者撮影>


当時、クレイヴンストリート36番地の建物には、マーガレット・スティーヴンスン夫人(Mrs. Margaret Stevenson)と娘のポリー・スティーヴンスン(Polly Stevenson)が所有しており、ベンジャミン・フランクリンは、彼女達から建物の一部を借り受けたのである。

ベンジャミン・フランクリンは、彼女達に対して、年間、100ポンドの家賃を支払っていたと記録されている。


ベンジャミン・フランクリンが間借りしていた区画の想像図
<筆者撮影>

ベンジャミン・フランクリンが間借りしていた区画の現在
<筆者撮影>

ベンジャミン・フランクリンが間借りしていた区画の窓から外を見たところ
<筆者撮影>


クレイヴンストリート36番地の建物の地下では、一時、マーガレット・スティーヴンスン夫人の義理の息子であるウィリアム・ヒュースン医師(Dr. William Hewson)が、解剖学の学校を運営していた。


「ベンジャミン・フランクリンハウス」の地下の壁にも、
ベンジャミン・フランクリンがここに住んでいたことを示すプラークが掛けられている。
<筆者撮影>

「ベンジャミン・フランクリンハウス」の中庭から上を見上げたところ
<筆者撮影>


クレイヴンストリート36番地の建物は、修復工事を経て、ベンジャミン・フランクリンの生誕300周年に該る2006年1月17日に、「ベンジャミン・フランクリンハウス(Benjamin Franklin House)」として、一般に公開されている。

なお、クレイヴンストリート36番地の建物は、ベンジャミン・フランクリンが住んでいた家屋のうち、世界中で唯一現存しているものである。


2026年2月26日木曜日

ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)- その2

ベンジャミン・フランクリンの渡英300周年を記念して、
セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会が印刷した冊子から抜粋
(Photo by photos.com on free images.com)

テューダー朝の第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年 → 2023年6月24日 / 7月2日付ブログで紹介済)による統治時、セントバーソロミュー修道院(Priory of St. Bartholomew)から英国国教会(Church of England)の教会へと変わったセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great → 2026年2月17日 / 2月19日 / 2月22日付ブログで紹介済)の一部で印刷所を経営していたサミュエル・パルマー(Samuel Palmer)の下、植字工(compositor / typesetter)として、1725年(19歳)から約1年間働いたベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin:1706年ー1790年 / 米国の政治家 / 外交官 / 著述家 / 物理学者 / 気象学者)は、1726年(20歳)に、英国からフィラデルフィア(Philadelphia)へ戻り、印刷業を再開した。


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)で販売されている
エリザベス1世の肖像画の葉書
(Unknown English artist / 1600年頃 / Oil on panel
1273 mm x 997 mm) -
エリザベス1世は、王族しか着れない
イタチ科オコジョの毛皮をその身に纏っている。
オコジョの白い冬毛は、「純血」を意味しており、
実際、エリザベス1世は、英国の安定のために、
生涯、誰とも結婚しなかったので、「処女女王」と呼ばれた。
エリザベス1世の」赤毛」と「白塗りの化粧」は、
当時流行したものである。

セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の
建物正面(西側)を見たところ
<筆者撮影>

ベンジャミン・フランクリンの渡英300周年を記念して、
セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会が印刷した冊子から抜粋
(Photo by samleven on free images.com /
Statue by Joseph Brown)


ベンジャミン・フランクリンは、印刷業を行う傍ら、

*1729年:「ペンシルヴェニアガゼット(The Pennsylvania Gazette)」誌を買収して、米国初のタブロイド誌を発行。

*1731年:フィラデルフィアに米国初の公共図書館(フィラデルフィア組合図書館)を設立。

*1734年:「貧しいリチャードの暦(Poor Richard’s Almanack)」を発行して、米国人の道徳的手本となる。

*1737年:フィラデルフィアで郵便局長(postmater of Philadelphia)に就任。

*1743年:米国学術協会(American Philosophical Society)を設立。

*1748年:印刷業から手を引き、ペンシルヴェニア植民地議員(Pennsylvania Assembly councilman)や郵便総局長(postmaster-general of Philadelphia)を務め、公職に専念。

*1751年:フィラデルフィアアカデミー(Philadelphia Academy → 後のペンシルヴェニア大学)を設立。

*1752年:凧を用いた実験を通して、雷と電気が同じものであることを証明。

*1753年:英国領北米郵政副長官(deputy postmaster-general of British North America)に就任。


等の活動を経て、政界へと進出した。


英国領北米植民地における待遇改善を要求するため、1757年に、ベンジャミン・フランクリンは、ペンシルヴェニア植民地(Pennsylvania Assembly)により、英国へと派遣される。

彼は、1757年から1775年までの間、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内にあるクレイヴンストリート36番地(36 Craven Street)に間借りしていた。

クレイヴンストリート36番地の建物は、「ベンジャミン・フランクリンハウス(Benjamin Franklin House)」として、一般に公開されているので、次回紹介したい。