2026年10月3日土曜日

アガサ・クリスティー作「牧師館の殺人」<小説版(愛蔵版)>(The Murder at the Vicarage by Agatha Christie )- その2

2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「牧師館の殺人」の
愛蔵版(ハードカバー版)の裏表紙
(Cover design and 
illustration
by Poppy Loughtman / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ロンドン郊外のセントメアリーミード村にある教会が、
表紙に描かれている。
なお、レナード・クレメント牧師が、
司祭を務めている。

英国の HarperCollinsPublishers 社から今年(2026年)に愛蔵版(ハードバック版)が出版されたアガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「牧師館の殺人(The Murder at the Vicarage → 2022年10月30日 / 10月31日付ブログで紹介済)」(1930年)は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第10作目に該り、ミス・ジェーン・マープル(Miss Jane Marple)シリーズに属する長編のうち、第1作目に該っている。

ジグソーパズル「ミス・マープルの世界」の完成形
<筆者撮影>


レナード・クレメント牧師は、
ジズソーパズル中央のやや右側の位置に居て、
ミス・マープルの右隣りにあるテラス用の椅子に座り、
右手に帽子を持っている。
<筆者撮影>

本作品の語り手を務めるのは、ロンドン郊外のセントメアリーミード(St. Mary Mead)という小さな村にある教会の司祭(vicar)であるレナード・クレメント牧師(Reverend Leonard Clement → 2024年8月18日付ブログで紹介済)である。

事件の舞台となる牧師館の GF 平面図 -
2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「牧師館の殺人」の
愛蔵版(ハードカバー版)から抜粋。
なお、教会と牧師館は隣接しておらず、
離れた場所に建っている。

ある水曜日の午後、牧師館において、クレメント牧師は、若き妻のグリゼルダ(Griselda)と甥のデニス(Dennis)と一緒に、昼食をとっていたが、その際、彼らの話題は、ルシアス・プロセロウ大佐(Colonel Lucius Protheroe)のことでもちきりだった。プロセロウ大佐は、治安判事かつセントメアリーミード村の教区委員で、次の日の午後、牧師館にやって来て、教会の献金袋から盗まれた1ポンド紙幣の件について、クレメント牧師と話し合うことになっていた。なお、牧師補のホーズ(Hawes)が、問題の1ポンド紙幣を盗んだ犯人だと疑われていた。

プロセロウ大佐は、クレメント牧師を困らせることを何よりも至上の楽しみにしていたので、昼食の席上、クレメント牧師は、思わず、「誰でもいいから、プロセロウ大佐をあの世へ送ってくれたら、世の中は随分と良くなるだろう。」と口走ってしまう。


昼食後、クレメント牧師は、セントメアリーミードに滞在中の肖像画家であるローレンス・レディング(Lawrence Redding)のアトリエへと出向く。牧師館の庭の一画に小屋があり、彼は、この小屋をアトリエとして使用していた。

クレメント牧師は、このアトリエ内でローレンス・レディングとプロセロウ大佐の妻であるアン・プロセロウ(Anne Protheroe)の二人が情熱的なキスを交わしている現場を、偶然見かけてしまう。クレメント牧師の跡を追って、牧師館の書斎まで追いかけてきたアン・プロセロウに対して、クレメント牧師は、軽はずみな関係はできる限り早く終わらせるよう、諭すのであった。


その夜、ローレンス・レディングは、牧師館の夕食に招かれていた。

夕食後、牧師館の書斎において、クレメント牧師は、ローレンス・レディングに対して、厳しく叱責するとともに、できるだけ早く村を立ち去るよう、忠告する。ところが、ローレンス・レディングは、クレメント牧師の忠告を全く受け入れず、「プロセロウ大佐が死んでくれれば、いい厄介払いになる。」と嘯くと、「自分は、25口径のモーゼル銃を持っている。」と、恐ろしいことを口にする。


翌朝、セントメアリーミードのハイストリートにおいて、クレメント牧師は、プロセロウ大佐と偶然出会った際、耳が遠くなりかけている人にありがちで、自分以外の人間も耳が遠いと思い込んでいるプロセロウ大佐は、当日の午後の約束を大声で念押ししつつ、約束の時間も午後6時15分へと変更した。

クレメント牧師が牧師館に戻ると、ローレンス・レディングが立ち寄って、「(プロセロウ大佐の妻である)アンとの不倫関係を清算して、明日、村を去るつもりだ。」と、クレメント牧師に告げる。


その日の午後5時半頃、クレメント牧師は電話を受け、「ロウワーファーム(Lower Farm)のアボット氏(Mr. Abbott)が危篤状態なので、側に居てほしい。」と頼まれる。

クレメント牧師は、今からロウワーファームまで出かけると、プロセロウ大佐との約束の午後6時15分までに牧師館へ戻ることは難しいと判断して、プロセロウ大佐には書斎で待っていてもらうよう、メイドに頼むと、急いでロウワーファームへと徒歩で(→ クレメント牧師は自転車に乗れないため)向かった。


事件の舞台となる牧師館の書斎の平面図 -
2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「牧師館の殺人」の
愛蔵版(ハードカバー版)から抜粋。
なお、
拳銃で後頭部を撃たれたルシアス・プロセロウ大佐が突っ伏していた
牧師の書き物机は、画面の右上に位置している
。


クレメント牧師がロウワーファームのアボット氏の元を訪れると、驚くことに、本人は全くピンピンとしていて、先程の電話は悪戯であったことが判明する。

午後7時頃、クレメント牧師が牧師館に戻った際、非常に取り乱した様子のローレンス・レディングが大慌てで牧師館から立ち去るところだった。不思議に思ったクレメント牧師が書斎に入ると、プロセロウ大佐が拳銃で後頭部を撃たれて、牧師の書き物机の上に突っ伏してたまま、息絶えているのを発見したのである。


2022年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
「アガサ・クリスティー / 2023年カレンダー作
(ミス・ジェーン・マープルシリーズ版)」のうち、
ビル・ブラッグ氏(Mr. Bill Bragg)が描く
ミス・マープルシリーズの長編第1作目「牧師館の殺人」の一場面 -

カレンダーには、レナード・クレメント牧師が司祭を務める牧師館の書斎において、

何者かに後頭部を拳銃で撃たれて殺害されたルシアス・プロセロウ大佐から流れ出た血が、

クレメント牧師の机の上に広がり、そして、床へと滴り落ちる場面が描かれている。

背後の窓の右側の壁には、ミス・マープルと思われる人物の影が映っている。

それとも、プロセロウ大佐を殺害した真犯人の影であろうか?


HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている「牧師館の殺人」のペーパーバック版の表紙には、
ビル・ブラッグ氏によるイラストが、
プロセロウ大佐の殺害に使用された拳銃の形に切り取られているものが使用されている。


メルチェット大佐(Colonel Melchett)とスラック警部(Inspector Slack → 2024年8月20日付ブログで紹介済)が率いる地元警察が捜査を進める中、ローレンス・レディングとアン・プロセロウの二人がそれぞれに、プロセロウ大佐の殺害を自供した。


ジズソーパズルのやや右上の位置で、
右手を右頬に当てて、
ヘイドック医師(Dr. Haydock → 2024年8月18日付ブログで紹介済)と
話をしている背広姿の男性が、スラック警部である。
<筆者撮影>


ところが、ローレンス・レディングは、正確ではない犯行時刻を主張する一方、アン・プロセロウの場合、犯行時刻の頃、彼女が牧師館を訪れるのを、隣りに住むミス・ジェーン・マープル(→ 2024年8月8日付ブログで紹介済)が見かけており、アン・プロセロウは、その際、手ぶらで、拳銃のような大きさのものが入ったバッグ等を持っていなかったと、ミス・マープルは明言する。


ミス・ジェーン・マープルは、
ジズソーパズル中央のやや右側の位置に居て、
テラス用の椅子に座り、得意の編み物をしている。
<筆者撮影>


地元警察は、不倫関係のため、プロセロウ大佐の殺害動機があると疑われたローレンス・レディングとアン・プロセロウの二人が、お互いに庇い合っているものと考えて、一旦、二人を無罪放免とし、他に容疑者を求めることになった。


事件の舞台となる牧師館を含む
セントメアリーミード村の周辺地図 -

2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「牧師館の殺人」の
愛蔵版(ハードカバー版)から抜粋。


果たして、クレメント牧師の牧師館の書斎において、プロセロウ大佐の後頭部を拳銃で撃って、彼を殺害した犯人は、一体、誰なのか?


         

2026年10月2日金曜日

ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー作「トラファルガーの海戦」(The Battle of Trafalgar, as Seen from the Mizen Starboard Shrouds of the Victory by J. M. W. Turner)- その2

テイト・ブリテン美術館に所蔵 / 展示されている
ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー作「トラファルガーの海戦」(1806年ー1808年)
Oil paint on canvas / 縦 : 172.7 cm x 横 : 238.8 cm
<筆者撮影>

英国本土上陸作戦の中止を決断したフランス第一帝政の皇帝であるナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte:1769年ー1821年 在位期間:1804年-1814年+1815年)、すなわち、ナポレオン1世は、次の手として、オーストリアへの侵攻を計画し、その支援のため、スペインのフィニステレ岬(Cape Finisterre)の沖で行われたフィニステレ岬の海戦(Battle of Cape Finisterre - 1805年7月22日に、英国艦隊とフランス / スペイン連合艦隊の間で行われた海戦)から撤退して、スペインのカディス(Cadiz:スペイン南西部に位置し、大西洋に面する港湾都市)に入り、整備を行っていたフランス / スペイン連合艦隊を率いる提督(トゥーロン駐留艦隊司令官)のピエール=シャルル=ジャン=バティスト=シルヴェストル・ド・ヴィルヌーヴ伯爵(Pierre-Charles-Jean-Baptiste-Silvestre de Villeneuve:1763年ー1806年)に対して、命令を下した。ナポレオン1世からの命令を受けたド・ヴィルヌーヴ提督は、1805年10月19日から20日にかけて、フランス / スペイン連合艦隊をカディスから出撃させた。一方、地中海艦隊司令長官(Commander-in-Chief of the Mediterranean Fleet)であった初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)が率いる英国地中海艦隊は、出撃したフランス / スペイン連合艦隊をカディス沖で監視していた。


「トラファルガーの海戦」(1805年10月21日)の200周年を記念して、
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が、2005年10月18日に発行した
記念切手に付いている海戦図


そして、カディス沖に布陣していた英国地中海艦隊とカディスを出撃したフランス / スペイン連合艦隊は、翌日の1805年10月21日に、スペインのトラファルガー岬(Cape of Trafalgar)の沖において、相見えることになる。


トラファルガースクエア(Trafalgar Sqaure)の近くにある
地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の改札口へと向かう地下通路の壁に描かれている
タイル画(その1) -
「トラファルガーの海戦」を前にして、作戦を練るネルソン提督
<筆者撮影>


英国地中海艦隊とフランス / スペイン連合艦隊の指揮官と戦力は、以下の通り。


<英国艦隊>

(指揮官)

・ホレーショ・ネルソン(階級:1804年に白色艦隊中将(Vice-Admiral of the White)へ昇進) → 英国側の旗艦である「ビクトリー(HMS Victory → 2022年1月16日付ブログで紹介済)」に乗艦

・カスバート・コリングウッド(Cuthbert Collingwood:1748年ー1810年)(階級:1805年に赤色艦隊中将(Vice-Admiral of the Red)へ昇進) → 「ロイヤルソブリン(HMS Royal Sovereign)」に乗艦

(戦力)

・戦列艦: 27隻

・フリゲート艦: 4隻

・その他: 2隻


<フランス / スペイン連合艦隊>

(指揮官)

・フランス: ピエール=シャルル=ジャン=バティスト=シルヴェストル・ド・ヴィルヌーヴ伯爵(階級:海軍中将) → フランス側の旗艦である「ビューサントル(Bucentaure)」に乗艦

・スペイン: ドン・フェデリコ・カルロス・グラビーナ・イ・ナポリ(Don Federico Carlos Gravina y Napoli:1756年ー1806年)(階級:大将(Admiral)) → スペイン側の旗艦である「プリンシペ・デ・アストゥリアス(Principe de Asturias)」に乗艦

(戦力)

・戦列艦: 33隻(フランス:18隻+スペイン:15隻)

・フリゲート艦: 5隻

・その他: 2隻


トラファルガースクエアの近くにある
地下鉄チャリングクロス駅の改札口へと向かう地下通路の壁に描かれているタイル画(その2) -
三日月型の陣形を採るフランス / スペイン連合艦隊に対して、
2列の縦列で突っ込む英国艦隊
(風上の列は、ネルソン提督が乗艦する旗艦「ビクトリー」が先導し、
風下の列は、コリングウッド提督が乗艦する「ロイヤルソブリン」が先導)
<筆者撮影>


フランス / スペイン連合艦隊を率いるド・ヴィルヌーヴ提督は、当初、艦隊を三日月型の陣形にしていた。そこで、英国艦隊を率いるネルソン提督は、フランス / スペイン連合艦隊の隊列を分断するために、2列の縦列で相手に突っ込むネルソンタッチという戦法を使用する。


午前11時45分に、戦いの火蓋は切って落とされ、ネルソン提督は、各艦に対して、「英国は、各員が自身の義務を果たすことを期待する。(England expects that every man will do his duty.)」という有名な信号旗を送信した。


その際、フランス / スペイン連合艦隊は、北方向へカーブした陣形を採っていたが、ネルソン提督の戦法通り、ネルソン提督が乗艦する旗艦の「ビクトリー」が風上の縦列で、そして、コリングウッド提督が乗艦する「ロイヤルソブリン」が風下の縦列で、フランス / スペイン連合艦隊へと向かった。


フランス / スペイン連合艦隊は、英国艦隊よりも、数的には優位であったが、フランス海軍艦にスペイン海軍艦が混在していたため、指揮系統が複雑だったことに加え、士気や練度も低かった。一方、英国艦隊の方は、士気や練度も高かった。また、フランス / スペイン連合艦隊の艦載砲の射速(3分に1発)は、英国艦隊(1分30秒に1発)に比べると、かなり劣っていた。


大激戦の末、フランス / スペイン連合艦隊は、


大破: 1隻

拿捕: 21隻

戦死: 約4,500名

戦傷: 約2,500名

捕虜: 約7,000名


という被害を受けた上に、フランス / スペイン連合艦隊を率いるド・ヴィルヌーヴ提督も捕虜となった。ドン・フェデリコ・カルロス・グラビーナ・イ・ナポリ提督は負傷し、スペインへと戻った後も、負傷が癒えず、数ヶ月後に世を去った。


一方、英国艦隊は、


大破: 0隻

拿捕: 0隻

戦死: 約450名

戦傷: 約1,200名


という被害で済んだが、英国艦隊を率いたネルソン提督が、フランス艦「ルドゥタブル(Redoutable)」の狙撃兵による銃弾に倒れ、「神に感謝する。私は、義務を果たした。(Thank God. I have done my duty.)」と言い残して、息を引き取ったのである。


トラファルガースクエアの近くにある
地下鉄チャリングクロス駅の改札口へと向かう地下通路の壁に描かれているタイル画(その3) -
英国艦隊を率いたネルソン提督は、フランス艦「ルドゥタブル」の狙撃兵による銃弾に倒れ、
息を引き取ってしまう。
<筆者撮影>


ネルソン提督が死亡したため、コリングウッド提督が、英国艦隊の最高指揮官となった。嵐の接近を予測したネルソン提督は、「錨を下ろせ。」と遺言したが、コリングウッド提督は、これを無視した。その結果、トラファルガー岬の沖合いに発生した嵐により、英国艦隊は、せっかく拿捕した艦の多くを失うことになったのである。


トラファルガースクエアの近くにある
地下鉄チャリングクロス駅のプラットフォームに描かれている壁画 -
「トラファルガーの海戦」における英国艦隊の勝利とネルソン提督の死を伝える新聞記事と
ネルソン提督の肖像画
<筆者撮影>


ネルソン提督の遺体は、腐敗を防ぐために、当時最高級のコニャックの樽に入れられ、旗艦「ビクトリー」が曳航された先のジブラルタルにおいて、ワインを蒸留したスピリッツで満たされた棺へと移された後、鉛で密封の上、英国本国まで運ばれた。


セントポールズチャーチヤード(St. Pau's Churchyard→2015年7月26日付ブログで紹介済)から見た
セントポールポール大聖堂の大ドームと側面
<筆者撮影>


そして、翌年の1806年、君主以外では初となる国葬として、セントポール大聖堂(St. Paul’s Cathedral → 2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)に葬られたのである。


テイト・ブリテン美術館に所蔵 / 展示されている
ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー作
「自画像(Self-Portrait)」(1799年頃)
<筆者撮影>


一般的には、「J・M・W・ターナー(J. M. W. Turner)」として知られている英国のロマン主義の画家であるジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner:1775年ー1851年 → 2018年7月1日 / 7月8日 / 7月15日付ブログで紹介済)は、「トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar → 2022年4月18日 / 4月22日付ブログで紹介済)」において、旗艦「ビクトリー」の船上で、英国海軍提督の初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソンが戦死する場面を描いた歴史画「トラファルガーの海戦(The Battle of Trafalgar, as Seen from the Mizen Starboard Shrouds of the Victory)」(1806年ー1808年)を描いている。


フランス艦「ルドゥタブル」の狙撃兵による銃弾に倒れたネルソン提督は、
画面中央に描かれている。
<筆者撮影>


なお、フランス艦「ルドゥタブル」の狙撃兵による銃弾に倒れたネルソン提督の姿は、同作品の左下の方に描かれている。


テイト・ブリテン美術館の建物正面を階段下から見上げたところ 
<筆者撮影>


ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーが1851年12月19日に亡くなった際、手元にあった主要作品の全てを英国政府に遺贈したため、同作品は、現在、テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)に所蔵 / 展示されている。


2026年10月1日木曜日

ロンドン ハックニーエンパイア劇場(Hackney Empire Theatre)- その2

ハックニーエンパイア劇場のエントランスホール
<筆者撮影>

ハックニーエンパイア劇場のエントランスホール内の左階段 -
上階の Dress Circle 席へと至る。
<筆者撮影>

ハックニーエンパイア劇場のエントランスホール内の右階段 -
上階の Dress Circle 席へと至る。
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「スペイン櫃の謎(The Mystery of the Spanish Chest)」(1960年)は、1932年に発表された短編「バグダッドの大櫃の謎(The Mystery of the Baghdad Chest)」を改稿した中編で、短編集「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)に収録されている。


英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」の TV ドラマ版が、英国の TV 会社 ITV 社による制作の下、1991年2月17日に放映された「Agatha Christie’s Poirot」の第27話(第3シリーズ)において、物語の冒頭、英国の俳優であるサー・デヴィッド・スーシェ(Sir David Suchet:1946年ー)が演じる名探偵エルキュール・ポワロが、アーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings)と一緒に、オペラ「リゴレット(Rigoletto - ヴィクトル・ユーゴーの戯曲「王様はお楽しみ」を原作にしたヴェルディ(Verdi)による歌劇)」を観劇した劇場として、ハックニーエンパイア劇場(Hackney Empire Theatre)の内部が撮影に使用されている。


第27話「スペイン櫃の謎」が収録された
エルキュール・ポワロシリーズの DVD コレクション No. 3 の表紙


ハックニーエンパイア劇場は、ロンドンの特別区の一つであるハックニー区(London Borough of Hackney)ハックニー地区(Hackney)内に所在しており、南北に延びるメアストリート(Mare Street)の西側に建っている。


ハックニーエンパイア劇場の周辺地図(Google Maps から抜粋)


ハックニーエンパイア劇場は、劇場の建設やデザインを専門とする英国の建築家であるフランク・マッチャム(Frank Matcham:1854年ー1920年)による設計に基づいて、1901年にミュージックホールとして建てられた。


ハックニーエンパイア劇場の歴史を案内する説明板(その1)
<筆者撮影>


その際、劇場の屋根の上にギリシア神話における喜劇の神(Greek muse of comedy)である「タレイア(Thalia)」の像が設置。


メアストリートの対岸から
ハックニーエンパイア劇場の正面上部を見たところ -
屋根の上に、ギリシア神話における喜劇の神「タレイア」の像が設置されている。
<筆者撮影>


ハックニーエンパイア劇場は、1901年12月9日にミュージックホールとしてオープン。

ミュージックホール時代、「黄金狂時代」、「街の灯」、「モダンタイムス」や「ライムライト」等で知られる英国の映画俳優/映画監督であるチャールズ・スペンサー・”チャーリー”・チャップリン("Charlie" Chaplin:1889年ー1977年)も出演している。


レスタースクエア(Leicester Square)に設置されている
チャーリー・チャップリンのブロンズ像 -
同像を制作したのは、
地下鉄ベイカーストリート駅(Baker Street Tube Station)前の
シャーロック・ホームズ像の作者でもある
ジョン・ダブルデイ(John Doubleday)。
<筆者撮影>


ミュージックホールとしてオープンしたハックニーエンパイア劇場は、1956年から1962年までの間、TV スタジオとして使用された後、1963年から1984年までの間、ビンゴホールとして使用されると言う変遷を経る。


ハックニーエンパイア劇場の歴史を案内する説明板(その2)
<筆者撮影>

ハックニーエンパイア劇場の歴史を案内する説明板(その3)
<筆者撮影>


その間、ハックニーエンパイア劇場は、1972年6月28日に「Grade II listed building」に指定。

1979年には、劇場の屋根に設置されていた「タレイア」の像が撤去される(後に、元に戻される)。


ハックニーエンパイア劇場のエントランスホール内の天井
<筆者撮影>

ハックニーエンパイア劇場のエントランスホール内の壁(左側)
<筆者撮影>

ハックニーエンパイア劇場のエントランスホール内の壁(右側)
<筆者撮影>


ビンゴホールの運営会社がハックニーエンパイア劇場の維持管理費用の捻出が困難となったため、1984年、ハックニーエンパイア劇場は、取り壊しの危機を迎えた。

その際、英国の俳優 / 劇作家であるローランド・マルドゥーン(Roland Muldoon:1941年ー)が主催する「Cartoon Archetypical Slogan Theatre (CAST)」に対して、ビンゴホールの運営会社から接触があった。「CAST」は、当時、英国の地方を巡業する劇団で、ロンドンにおける拠点を必要としていたのである。

そこで、ローランド・マルドゥーンがハックニーエンパイア劇場の支配人(theatre director)に就任し、改修工事を経て、85周年に該る1986年12月9日、ハックニーエンパイア劇場は、劇場として再オープン。

約1300席の収容人数を有する劇場として生まれ変わったハックニーエンパイア劇場は、英国における喜劇上演劇場として、次第に知名度を上げていった。


2026年9月30日水曜日

初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson)- その2

シティー・オブ・ロンドン(City of London
→ 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)内の
ギルドホールアートギャラリー(Guildhall Art Gallery
→ 2025年5月13日 / 5月18日 / 5月23日 / 5月28日付ブログで紹介済)に
所蔵 / 展示されている
初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンの胸像
<筆者撮影>


初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンの胸像を制作したのは、
英国の肖像彫刻家であるフランシス・ジョン・ウィリアムスン
(Francis John Williamson:1833年ー1920年)。
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1962年に発表したミス・マープルシリーズ作品の長編第8作目「鏡は横にひび割れて(Mirror Crack’d from Side to Side)」の題名は、初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson:1809年ー1892年)による詩「シャロット姫(The Lady of Shalott)」(1833年)をベースにしている。


英国の Harper Collins Publishers 社から出版されている
アガサ・クリスティー作ミス・マープルシリーズ
「鏡は横にひび割れて」のペーパーバック版の表紙
<イラスト:ビル・ブラッグ氏(Mr. Bill Bragg)>


Out flew the web and floated wide -

The mirror crack’d from side to side;

“The curse is come upon me,” cried

The Lady of Shalott.


横にひび割れた鏡 -
ジグソーパズル「アガサ・クリスティーの世界(The World of Agatha Christie)」の一部
<筆者撮影>


織物はとびちり、ひろがれり

鏡は横にひび割れぬ

「ああ、呪いがわが身に」と、

シャロット姫は叫べり。

(橋本福夫訳)


テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)で購入した
英国の画家であるジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
(John William Waterhouse:1849年ー1917年)
作
「シャロット姫(The Lady of Shalott → 2024年9月28日付ブログで紹介済)」
(1888年)の絵葉書
Oil paint on canvas
153 cm x 200 cm
Presented by Sir Henry Tate in 1894


1809年8月6日、英国国教会の牧師である父ジョージ・クレイトン・テニスン(George Clayton Tennyson)と母エリザベス(Elizabeth - 旧姓:Fytche)の三男として、リンカンシャー州(Lincolnshire)サマズビー(Somersby)に出生したアルフレッド・テニスンは、かなり裕福な家で育ち、少年時代、英国のロマン派詩人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron:1788年ー1824年 → 2021年5月9日+2024年8月24日 / 8月30日付ブログで紹介済)の詩作に非常に魅了された。


ナショナルポートレイトギャラリーで販売されている
第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンの肖像画の葉書
(Richard Westall
 / 1813年 / Oil on canvas
914 mm x 711 mm) 


2020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(=バイロン卿)が選ばれている。


1827年にケンブリッジ(Cambridge)のトリニティーカレッジ(Trinity College)に入学した彼は、同年、兄であるフレデリック・テニスン(長男 / Frederick Tennyson:1807年ー1898年)やチャールズ・テニスン・ターナー(次男 / Charles Tennyson Turner:1808年ー1879年)と一緒に、最初の詩集「Poems by Two Brothers」を出版。

続いて、彼は、1830年、単独の詩集となる「Poems Chiefly Lyrica」を出版した。


1831年2月、父ジョージ・クレイトン・テニスンが亡くなり、学費を払えなくなったアルフレッド・テニスンは、学位を取得する前に、ケンブリッジから故郷のリンカンシャー州サマズビーへと戻った。

翌年の1832年2月、ケンブリッジ時代の学友で、英国の詩人であるアーサー・ヘンリー・ハーラム(Arthur Henry Hallam:1811年ー1833年)がアルフレッド・テニスンの元を訪れ、彼の家に滞在。そして、アーサー・ヘンリー・ハーラムは、アルフレッド・テニスンの妹エミリア・テニスン(Emilia Tennyson:1811年ー1887年)と婚約する。

同年7月、アルフレッド・テニスンとアーサー・ヘンリー・ハーラムの2人は、欧州大陸(ライン河流域)を旅行。

更に、その翌年の1833年8月、アーサー・ヘンリー・ハーラムは、父親と一緒に、欧州大陸へ出かけたが、同年9月15日、ウィーン(Vienna)で急死してしまう。

ケンブリッジ時代の学友で、妹エミリアの婚約者でもあったアーサー・ヘンリー・ハーラムの急死に強い衝撃を受けたアルフレッド・テニスンは、彼を弔う長詩「イン・メモリアム(In Memoriam A.H.H.)」を書き始め、その後の自己の成長を織り込んで、1849年に完成させた。


アルフレッド・テニスンは、1833年に詩「シャロット姫」を発表するも、酷評の憂き目に遭い、以降、約10年間沈黙してしまう。

アルフレッド・テニスンと家族は、1837年頃、故郷のリンカンシャー州サマズビーからエセックス州(Essex)エッピングフォレスト(Epping Forest)へ移住。


ロンドンのチェルシー地区(Chelsea)チェイニーウォーク(Cheyne Walk)沿いの
広場内に設置されているトマス・カーライル像
<筆者撮影>


彼は、1839年頃、スコットランド出身で、ヴィクトリア朝時代の大英帝国を代表する歴史家で、評論家でもあるトマス・カーライル(Thomas Carlyle:1795年ー1881年 → 2016年10月15日付ブログで紹介済)と知り合い、以後、生涯にわたり、親交を深める。

そして、アルフレッド・テニスンは、1840年、ロンドンへと引っ越した。