2026年9月20日日曜日

ロンドン メクレンバーグスクエア37番地(37 Mecklenburgh Square)- その1

ドイツ軍による空襲を受けて、ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が、
1939年にタヴィストックスクエア 52番地から引っ越した
メクレンバーグスクエア37番地は、
画面中央奥にあり、現在は入口がないブロックの建物である。
<筆者撮影>


1912年8月10日に結婚した英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)英国の作家 / 出版業者 / 公務員であるレナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年の2人は、1914年の秋から約10年間を過ごしたリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)を離れ、ロンドンの中心部へと戻り、1924年3月、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にあるタヴィストックスクエア52番地(52 Tavistock Square → 2026年8月11日 / 8月17日付ブログで紹介済)に居を構えた。


レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人が、
リッチモンドから引っ越した
タヴィストックスクエア52番地の跡地に建つ
タヴィストックホテル
<筆者撮影>


タヴィストックホテルの玄関左側の外壁に掛けられている
英国ヴァージニア・ウルフ協会のプラークには、
ヴァージニア・ウルフとレナード・ウルフの2人が、1924年から1939年までの間、
タヴィストックスクエア52番地の建物に住んでいたことが記されている。
<筆者撮影>


タヴィストックスクエア52番地は、ヴァージニア・ウルフがリッチモンドへ引っ越す前に住み慣れた住居の直ぐ近くだった。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


レナード・シドニー・ウルフが、1917年3月、パラダイスロード34番地 / ホガースハウス(Hogarth House, 34 Paradise Road → 2026年7月31日 / 8月5日付ブログで紹介済)に設立した出版社「ホガースプレス(Hogarth Press)」に参加したことにより、ヴァージニア・ウルフの精神状態が落ち着き、その結果、執筆にも脂がのってきたこと、また、ヴァージニア・ウルフ自身が若い頃から慣れ親しんできたロンドンの街の刺激が恋しくなったことが、彼らがロンドンの中心部へと戻った理由だった。


1915年3月に
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
リッチモンドグリーンから移り住んだパラダイスロード34番地の建物
<筆者撮影>



パラダイスロード34番地「ホガースハウス」の外壁に掛けられている
Greater London Council のプラークには、
レナード・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人が、1915年から1924年までの間、
パラダイスロード34番地の建物に住んでおり、
また、1917年にここで出版社「ホガースプレス」を設立したことが記されている。
<筆者撮影>


2人がリッチモンドで経営した出版社「ホガースプレス」は、タヴィストックスクエア52番地の建物の地下に設置された。


画面奥に見える建物は、
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
約10年間を過ごしたリッチモンドを離れ、ロンドンの中心部へと戻り、
1924年3月に移った
タヴィストックスクエア52番地の跡地に建つタヴィストックホテル -
手前に見える庭園は、タヴィストックスクエアガーデンズ(Tavistock Square Gardens)。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフは、この頃、叔母からの遺言で、毎年500ポンド(現在価値で言うと、約500万円)の遺産を受け取るようになった。これにより、彼女には、金銭的な余裕ができて、小説等の執筆に専念することが可能となった。

ヴァージニア・ウルフは、1924年3月、タヴィストックスクエア52番地に移った後、


*長編第4作目「ダロウェイ夫人(Mrs Dalloway)」(1925年)

*長編第5作目「灯台へ(To the Lighthouse)」(1927年)

*長編第6作目「オーランドー(Orlando)」(1928年)

*長編第7作目「波(The Waves)」(1931年)

*長編第8作目「歳月(The Years)」(1937年)


を次々と意欲的に発表。


南側の入口近くに設置されている
タヴィストックスクエアガーデンズの沿革に関する説明板

<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人がロンドンの中心部へと戻って来た1924年3月当時は、第一次世界大戦(1914年ー1918年)を経て、戦勝国である英国の経済が急速に回復し、好景気に沸いている頃だった。

残念ながら、この好景気は一時的なものにすぎず、1929年の米国ニューヨーク株式市場における大暴落を皮切りに始まった世界恐慌(The Great Depression)は、全世界へと拡大して、各地に失業と貧困を引き起こした。その結果、ナチズムとファシズムが台頭、再び戦争の足音が聞こえ始めるのだった。

レナード・シドニー・ウルフはユダヤ人だったため、2人は反ユダヤ主義を伴ったファシズムを非常に恐れていた。こうして、ヴァージニア・ウルフの精神状態は、またもや悪化の一途を辿っていくのである。


タヴィストックスクエアガーデンズの南西の角に設置されている
ヴァージニア・ウルフのブロンズ胸像のアップ
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が恐れていたことが、やがて現実となった。1939年、英国がドイツに対して宣戦布告したため、第二次世界大戦(1939年ー1945年)が勃発。

ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフが住んでいたタヴィストックスクエア52番地の建物は、ドイツ軍によるロンドン爆撃を受けて、損壊。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
セントパンクラス地区近辺の地図を抜粋。



そのため、同年、ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人は、比較的安全な地域と考えられたカムデン区のセントパンクラス地区(St. Pancras)内にあるメクレンバーグスクエア37番地(37 Mecklenburgh Square)の最上階へと引っ越したのである。


画面右側から、メクレンバーグスクエア35番地(建物に入口あり)、
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が、
1939年にタヴィストックスクエア 52番地から引っ越した
メクレンバーグスクエア37番地(現在、建物に入口なし)、
そして、メクレンバーグスクエア39番地(建物に入口あり)と続いている。
<筆者撮影>


メクレンバーグスクエア37番地に引っ越したのも束の間、1940年9月から始まったドイツ軍によるロンドン大空襲(The Blitz)により被害を受け、ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人は、1919年に購入したイーストサセックス州(East Sussex)にある別荘モンクスハウス(Monk’s House)へと移動せざるを得なかった。

この頃、ヴァージニア・ウルフの精神状態は最悪の状況となっており、彼女にとって、モンクスハウスが終焉の地となるのであった。 


2026年9月19日土曜日

ロンドン アッパーベルグレイヴストリート9番地(9 Upper Belgrave Street)

初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンが住んでいた
アッパーベルグレイヴストリート9番地の建物を
正面から見たところ
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1962年に発表したミス・マープルシリーズ作品の長編第8作目「鏡は横にひび割れて(Mirror Crack’d from Side to Side)」では、「ゴシントンホール(Gossington Hall - ミス・マープルの親友であるドリー・バントリー(Dolly Bantry → 2024年8月14日付ブログで紹介済)が所有していた邸宅)」を購入して、最近、セントメアリーミード村(St. Mary Mead)に引っ越して来た米国の映画女優であるマリーナ・グレッグ(Marina Gregg)と彼女の夫で、映画監督であるジェイスン・ラッド(Jason Rudd)が開催したセントジョン野戦病院協会(St. John Ambulance)支援パーティーの席上、マリーナ・グレッグを捕まえて、長い昔話を始めた同協会の幹事を務めるヘザー・バドコック(Mrs. Heather Badcock)が、突然倒れて、死亡してしまう事件が発生する。

スコットランドヤードのダーモット・クラドック主任警部(Chief Inspector Dermot Craddock)が捜査を担当し、検死解剖の結果、ヘザー・バドコックの死因は、推奨量の6倍もの精神安定剤を摂取したことによるもので、その精神安定剤は、マリーナ・グレッグが持っていたダイキリ(daiquiri)のグラス内に混入されており、自分の飲み物をこぼしたヘザー・バドコックに対して、マリーナ・グレッグがそのグラスを手渡したのであった。


英国の Harper Collins Publishers 社から出版されている
アガサ・クリスティー作ミス・マープルシリーズ
「鏡は横にひび割れて」のペーパーバック版の表紙
<イラスト:ビル・ブラッグ氏(Mr. Bill Bragg)>


ヘザー・バドコックとマリーナ・グレッグの会話を近くで聞いていたドリー・バントリーは、ヘザー・バドコックが長話をしている間、マリーナ・グレッグが非常に奇妙な表情を浮かべていたことに気付いた。

その違和感について、ドリー・バントリーは、セントジョン野戦病院協会支援パーティーに参加できなかったミス・マープルに対して、説明を行う。


初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンが住んでいた
アッパーベルグレイヴストリート9番地の建物を
右側(東側)から見たところ
<筆者撮影>


「そうではなくて、マリーナ・グレッグの顔をよ。バドコックという女の話なんか、ひとことも聞いていなかったみたいな顔つきをしていたわ。相手の肩ごしに正面の壁を見つめているのよ。その見つめかたがねえ - どうにもわたしには説明できそうにないわ」

「そんなことを言わないで、なんとか努力してみてよ」とミス・マープルは言った。「そこのところが重要な点かもしれないのだから」

「一種の凍りついたような表情だったわ」と彼女は言葉をさがしさがし説明しようとした。「まるで、なにかを見たみたいな - 情景を描写するなんてむずかしいものなのねえ。ああ、そうだわ、『レディ・オブ・シャロット』をおぼえていない?鏡は横にひび割れぬ。”ああ、わが命運もつきたり”と、シャロット姫は叫べり。マリーナもそういった表情をしていたのよ。近頃の人はテニスンなんて古臭いというけれど、わたしは若いときには心をときめかせて『レディ・オブ・シャロット』を読んだものだし、いまだってそうなのよ」

「凍りついたような表情をしていたのね」ミス・マープルは考えこんだ。

(橋本福夫訳)


横にひび割れた鏡 -
ジグソーパズル「アガサ・クリスティーの世界(The World of Agatha Christie)」の一部


アガサ・クリスティー作「鏡は横にひび割れて」の題名は、初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson:1809年ー1892年)による詩「シャロット姫(The Lady of Shalott)」をベースにしている。


テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)で購入した
英国の画家であるジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
(John William Waterhouse:1849年ー1917年)

「シャロット姫(The Lady of Shalott → 2024年9月28日付ブログで紹介済)」
(1888年)の絵葉書
Oil paint on canvas
153 cm x 200 cm
Presented by Sir Henry Tate in 1894


Out flew the web and floated wide -

The mirror crack’d from side to side;

“The curse is come upon me,” cried

The Lady of Shalott.


織物はとびちり、ひろがれり

鏡は横にひび割れぬ

「ああ、呪いがわが身に」と、

シャロット姫は叫べり。

(橋本福夫訳)


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)で展示されている
アルフレッド・テニスンの肖像画
(By George Frederic Watts / Oil on canvas / 1863年ー1864年頃


アルフレッド・テニスンは、ヴィクトリア朝時代に活躍した英国の詩人で、1830年に単独の詩集となる「Poems Chiefly Lyrical」を発表した後、1832年に詩「シャロット姫」を発表するも、酷評の憂き目に遭い、以降、約10年間沈黙してしまう。

1842年に発表した詩集「Poems by Alfred Tennyson」で復活したアルフレッド・テニスンは、1847年に叙事詩「The Princess」を発表すると、1850年には、英国の代表的なロマン派詩人であるウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth:1770年ー1850年 → 2024年12月10日 / 12月11日および2025年2月14日 / 3月17日付ブログで紹介済)の後継者として、「桂冠詩人(宮廷職で、優れた詩人に与えられる称号)」となる。


ナショナルポートレイトギャラリーで販売されている
ウィリアム・ワーズワースの肖像画の葉書
(by Benjamin Robert Haydon / chalk / 1818年 / 546 mm x 419 mm) -
ウィリアム・ワーズワースは、英国の代表的なロマン派詩人で、
湖水地方をこよなく愛した。


2016年に英国の Faber & Faber 社から出版された
ウィリアム・ワーズワース詩集の表紙
<Poems selected by Seamus Heaney>
(Series design by Faber
 / Illustration : Glenn Tomkinson
) 


020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
ウィリアム・ワーズワースが選ばれている。


その後も各種の詩の発表を行った彼は、1884年にテニスン男爵(Baron Tennyson)に叙せられた。


初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンが住んでいた
アッパーベルグレイヴストリート9番地の GF(1階)の建物外壁
<筆者撮影>


アガサ・クリスティーの長編第2作目で、かつ、トマス・ベレズフォード(Thomas Beresford - 愛称:トミー(Tommy))とプルーデンス・カウリー(Prudence Cowley - 愛称:タペンス(Tuppence))の記念すべきシリーズ第1作目に該る「秘密機関(The Secret Adversary → 2025年7月20日 / 10月1日付ブログで紹介済)」(1922年)において、タペンスが住む寄宿寮(hostel)が所在したサザンベルグレイヴィア(Southern Belgravia)は、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街ベルグレイヴィア地区(Belgravia)の南側に該る。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ベルグレイヴィア地区近辺の地図を抜粋。



アルフレッド・テニスンが晩年に住んでいた家が、ベルグレイヴィア地区内にある。

それは、アッパーベルグレイヴストリート9番地(9 Upper Belgrave Street)で、ベルグレイヴスクエア(Belgrave Square)の東の角から南東の方面へと延びるアッパーベルグレイヴストリート(Upper Belgrave Street)沿いに建っている。


ベルグレイヴスクエアから南東方向へ延びる
アッパーベルグレイヴストリート(Upper Belgrave Street)沿いの建物(その1)-
画面奥に見えるのが、
ベルグレイヴスクエア。
<筆者撮影>

ベルグレイヴスクエアから南東方向へ延びる
アッパーベルグレイヴストリート沿いの建物(その2)-
画面奥に見えるのが、ホウバートプレイス(Hobart Place)。
<筆者撮影>


具体的には、西側のチェスターストリート(Chester Street)と東側のウィルトンストリート(Wilton Street)に挟まれたアッパーベルグレイヴストリートの北側に所在している。


アッパーベルグレイヴストリート9番地の GF(1階)の建物外壁には、
「初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンが、1880年と1881年の間、
此処に住んでいた」ことを示す English Heritage のプラークが掛けられている。

<筆者撮影>


アッパーベルグレイヴストリート9番地の GF(1階)の建物外壁には、「初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンが、1880年から1881年の間、此処に住んでいた」ことを示すイングリッシュヘリテージ(English Heritage)のプラークが掛けられている。

アルフレッド・テニスンは1892年になくなっているので、「1880年から1881年の間」というと、彼が70歳代前半の頃である。


2026年9月17日木曜日

ロンドン ニューボンドストリート103番地(103 New Bond Street)

ホレーショ・ネルソンが1798年に住んでいた
ニューボンドストリート103番地の建物正面を

左側(南側)から見たところ
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース
(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作の自画像(Self-portrait)(1784年)
<筆者撮影>


そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作のエマ・ハートの肖像画(1785年頃)
<筆者撮影>


英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人を経て、1791年9月6日の結婚後、彼の正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、1793年9月の初対面の5年後の1798年9月に再会した後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)と恋愛関係になる。

前述の通り、エマ・ハミルトンは、1791年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと結婚して、ナポリ公使夫人と言う立場にあり、また、ホレーショ・ネルソンも、1787年にフランシス・ハーバート・ウールワード(Frances Herbert Woolward:1758年ー1831年)と結婚していたため、2人とも不倫だった訳である。

2人の不倫関係は、何故か、周囲から寛大に見られており、エマ・ハミルトンの夫であるサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンも、そうであった。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとしては、ホレーショ・ネルソンを英国にとって必要不可欠な人物であると見做して、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を黙認する一方、ホレーショ・ネルソンとの友情関係も維持していた、とのこと。

ただ、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、ナポリから本国である英国へと伝わり、新聞報道を経て、公となってしまった。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
Sir William Beechey 作のホレーショ・ネルソンの肖像画(1800年)
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンの英国への召喚と時を同じくして、ナポリ公使の任を解かれたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと一緒に、英国に帰国したエマ・ハミルトンは、1801年1月29日、ピカデリー通り23番地(23 Piccadilly → 2026年8月26日付ブログで紹介済)の家において、ホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソン(Horatia Nelson:1801年ー1881年)を出産した。


ピカデリー通りの対岸からホテル「ザ・ディリー(The Dilly)」(画面左側の建物)を見たところ -
エマ・ハミルトンがホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソンを出産したピカデリー通り23番地は、
画面左下にあるバス停留所の背後の店舗部分に該る。
<筆者撮影>


なお、ホレーショ・ネルソンは、エマ・ハミルトンがホレイシア・ネルソンを出産する前の1801年1月1日に、青色艦隊中将(Vice-admiral of the Blue)へ昇進し、新たな任務を帯びて、航海へ出た後だった。


ホレーショ・ネルソンが1797年に住んでいた
ニューボンドストリート147番地の建物正面を

右側(北側)から見たところ
<筆者撮影>


ニューボンドストリート(New Bond Street)沿いには、ホレーショ・ネルソンが1797年に住んでいたニューボンドストリート147番地(147 New Bond Street → 2026年9月13日付ブログで紹介済)以外に、もう1件、彼が住んでいた建物が存在している。


ホレーショ・ネルソンが1798年に住んでいた
ニューボンドストリート103番地の建物正面を

右側(北側)から見たところ
<筆者撮影>


それはニューボンドストリート103番地(103 New Bond Street)で、ニューボンドストリート147番地と同じく、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街メイフェア地区(Mayfair)内に所在している。

「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
メイフェア地区の地図を抜粋。



彼が住んでいたニューボンドストリート103番地と同147番地は、トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar → 2022年4月18日 / 4月22日付ブログで紹介済)において、1805年10月21日、ホレーショ・ネルソンが戦死した後、借金地獄に陥ったエマ・ハミルトンが引っ越したニューボンドストリート136番地(136 New Bond Street → 2026年9月10日付ブログで紹介済)の安い家と、奇しくも、同じボンドストリート(Bond Street → 2017年5月21日付ブログで紹介済)沿いに所在しており、同136番地を間に挟むように建っている。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)の近くにある
地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)のプラットフォームに描かれている壁画 -
「トラファルガーの海戦」における英国艦隊の勝利とネルソン提督の死を伝える新聞記事 +
ネルソン提督の肖像画
<筆者撮影>


ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から、地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station → 2025年7月30日付ブログで紹介済)の前を通って、地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)へと西に延びるピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)と地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)から、地下鉄ボンドストリート駅(Bond Street Tube Station)の前を通って、地下鉄マーブルアーチ駅(Marble Arch Tube Station)へと西に延びるオックスフォードストリート(Oxford Street → 2016年5月28日付ブログで紹介済)を、ボンドストリートは南北に結んでいる。

現在、南側のセクションを「オールドボンドストリート(Old Bond Street)」、そして、北側のセクションを「ニューボンドストリート(New Bond Street)」と呼び、区分けしている。


ニューボンドストリート103番地の建物の反対側から
ニューボンドストリートの南側から見たところ
<筆者撮影>

ニューボンドストリート103番地の建物の反対側から
ニューボンドストリートの北側から見たところ
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンが住んでいたニューボンドストリート103番地は、南側のブルックストリート(Brook Street → 2015年4月4日付ブログで紹介済)と北側のブレナムストリート(Blenheim Street)に挟まれたニューボンドストリートの西側に建っている。

ニューボンドストリート103番地の 1F(2階)と 2F(3階)の間の建物外壁には、
「ホレーショ・ネルソンが1798年に此処に住んでいた」ことを示す
London County Council のプラークが掛けられている。

<筆者撮影>


ニューボンドストリート103番地の 1F(2階)と 2F(3階)の間の建物外壁に、「ホレーショ・ネルソンが1798年に此処に住んでいた」ことを示すプラークが掛けられている。
と言うことは、ホレーショ・ネルソンがニューボンドストリート103番地に住んでいた時期は、ニューボンドストリート147番地と同じく、彼がエマ・ハミルトンに初対面した1793年9月と再会した1798年9月の間に該っている。


ニューボンドストリート103番地の建物を下から見上げたところ
<筆者撮影>


ニューボンドストリート103番地には、ニューボンドストリート147番地と同様に、現在、アートギャラリー系のテナントが入居して、営業している。