2026年8月22日土曜日

ロンドン ケンサルグリーン墓地(Kensal Green Cemetery)- その2

ケンサルグリーン墓地内にある
英国の画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの墓(その1)
<筆者撮影>

ケンサルグリーン墓地(Kensal Green Cemetery → 2023年12月15日付ブログで紹介済)の場合、その大部分がロンドンの特別区の一つであるケンジント&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のノースケンジントン地区(North Kensington)の北端ケンサルグリーン(Kensal Green)内にあり、西側の一部がロンドンの特別区の一つであるハマースミス&フラム区(London Borough of Hammersmith and Fulham)内にある。

ケンサルグリーン墓地は、北側のハーロウロード(Harrow Road)と南側のグランドユニオンカナル(Grand Union Canal)と言う運河に挟まれたエリア内にある広大な共同墓地(約29ヘクタール)である。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ケンサルグリーン墓地周辺の地図を抜粋。


ケンサルグリーン墓地は、英国の弁護士、雑誌編集者で、実業家でもあったジョージ・フレデリック・カーデン(George Frederick Carden:1798年ー1874年)が出資者となり、1833年にオープンした。

ケンサルグリーン墓地は、ハイゲイト墓地(Highgate Cemetery → 2018年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)やブロンプトン墓地(Brompton Cemetery → 2015年9月6日付ブログで紹介済)と同じように、ロンドンの「7大墓地(Magnificent Seven)」の一つであるが、7大墓地の中で、一番最初に出来た共同墓地である。


英国の Harper Collins Publishers 社から出版されている
アガサ・クリスティー作ミス・マープルシリーズ
「鏡は横にひび割れて」のペーパーバック版の表紙
<イラスト:ビル・ブラッグ氏(Mr. Bill Bragg)>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1962年に発表したミス・マープルシリーズ作品の長編第8作目「鏡は横にひび割れて(Mirror Crack’d from Side to Side)」の題名は、ヴィクトリア朝時代に活躍した英国の詩人である初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson:1809年ー1892年)による詩「シャロット姫(The Lady of Shalott → 2024年9月27日付ブログで紹介済)」をベースにしている。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)で展示されている
アルフレッド・テニスンの肖像画
(By George Frederic Watts / Oil on canvas / 1863年ー1864年頃
<筆者撮影>


Out flew the web and floated wide -

The mirror crack’d from side to side;

“The curse is come upon me,” cried

The Lady of Shalott.


織物はとびちり、ひろがれり

鏡は横にひび割れぬ

「ああ、呪いがわが身に」と、

シャロット姫は叫べり。

(橋本福夫訳)


横にひび割れた鏡 -
ジグソーパズル「アガサ・クリスティーの世界(The World of Agatha Christie)」の一部
<筆者撮影>


英国の画家であるジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse:1849年ー1917年)が、初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンによる詩「シャロット姫」におけるクライマックスの場面を、1888年に「シャロット姫(The Lady of Shalott → 2024年9月28日付ブログで紹介済)」として描いている。


テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)で購入した
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作「シャロット姫」(1888年)の絵葉書
(Oil paint on canvas / 153 cm x 200 cm / Presented by Sir Henry Tate in 1894)


ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、1849年4月6日、画家の両親であるウィリアム・ウォーターハウス(William Waterhouse)とイザベラ・ウォーターハウス(Isabella Waterhouse)の子として、ローマ(Rome)に出生。

彼が5歳の時(1854年)、ウォーターハウス一家は、英国へと戻り、当時設立されて間もないヴィクトリア&アルバート美術館(Victoria and Albert Museum)に近い、ロンドンのサウスケンジントン地区(South Kensington)に住む。

少年期、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、画家である父ウィリアムの元で絵画を学び、1871年に英国王立美術院(Royal Academy)に入学した後、彫刻、その後、絵画を学んだ。


ケンサルグリーン墓地内にある
英国の画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの墓(その2)
<筆者撮影>


1874年、25歳になったジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、寓意画「眠りと異母兄弟の死(Sleep and his Half-brother Death)」を英国王立美術院の夏の展示会において発表して、好評を得る。

これにより、彼は、以降、1890年と1915年の2回を除き、1917年に死去するまでの毎年、英国王立美術院の展示会へ招かれた。


ケンサルグリーン墓地内にある
英国の画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの墓(その3)
<筆者撮影>


1883年、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、ロンドンのイーリング(Ealing)に住む美術教師の娘であるエステル・ケンワージー(Esther Kenworthy:1857年ー1944年)と結婚。エステル・ケンワージー自身も、絵画を英国王立美術院の展覧会等に出品している。

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスが、初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンによる詩「シャロット姫」におけるクライマックスの場面を、「シャロット姫」として描いていたのは、1888年である。


ケンサルグリーン墓地内にある
英国の画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの墓(その4)
<筆者撮影>


1895年に、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、英国王立美術院の最高芸術院会員(full Academician)へと選出される。

彼は、セントジョンズウッド美術学校(St. John’s Wood Art School)で教鞭を執り、セントジョンズウッド芸術クラブ(St. John’s Wood Arts Club)にも参加。

その後、彼は、英国王立美術院評議会(Royal Academy Council)にも所属。


ケンサルグリーン墓地内にある
英国の画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの墓(その5)
<筆者撮影>


ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、1915年頃には癌に侵され、それでも絵を描き続けたが、2年後の1917年2月10日に死去、享年67歳だった。

彼の遺体は、ケンサルグリーン墓地に葬られた。 


アルマプレイスにあるウェストゲイト(その1)
<筆者撮影>


ケンサルグリーン墓地には、2つの出入口があり、東側は、ハーロウロードとラドブローク通り(Ladbroke)が交差する辺りにあり、こちらがメインゲイト(Main (East) Gate)となっている。

一方、西側は、ケンサルグリーン駅(Kensal Green Station)を出て、ハーロウロード沿いに少し西へ進んだところにあるアルマプレイス(Alma Place)から、墓地内へ入ることができ、こちらがウェストゲイト(West Gate)となっている。


アルマプレイスにあるウェストゲイト(その2)
<筆者撮影>


ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの墓は、ウェストゲイト側からケンサルグリーン墓地へと入り、真っ直ぐに南下して、グランドユニオンカナルの近くまで近付いた辺りに所在している。


                                   

2026年8月21日金曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その42A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「複数の時計」ペーパーバック版の表紙 -

キャヴェンディッシュ秘書紹介所から派遣された速記タイピストのシーラ・ウェッブは、

派遣先のウィルブラームクレッセント通り19番地の居間において、

身なりの立派な男性の死体を発見する。

男性の死体の周囲には、6つの時計が置かれており、

そのうちの4つが何故か午後4時13分を指していた。

表紙には、その時計の内部にある歯車が描かれている。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(99)(午後)4時13分を指した4つの時計(four clocks set at 4:13)


(午後)4時13分を指した4つの時計が、ジグソーパズル内の各所に散りばめられている。


1つ目の時計は、ジグソーパズルの右上の角に見える回廊の手摺りに掛けられている。



2つ目の時計は、ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロの右斜め後ろの位置に立っているスコットランドヤードのジェイムズ・ハロルド・ジャップ警部(Inspector James Harold Japp / 後に主任警部(Chief Inspector)に昇進 → 2025年10月24日付ブログで紹介済)の足下に置かれている。



3つ目の時計は、ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロの左斜め後ろで、両腕を胸の前で組んだアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings → 2025年10月12日付ブログで紹介済)が凭れ掛かっている大理石の暖炉(marble fireplace → 2026年6月25日 / 6月30日付ブログで紹介済)の上に置かれている。3つ目の時計の右側には、砂糖ハンマー(sugar hammer  → 2026年7月7日 / 7月12日付ブログで紹介済)が置かれている。



4つ目の時計は、ジグソーパズルの下段中央の右手にあるテーブルの下段の中央辺りに置かれている。4つ目の時計の左側には、蓄音機(Dictaphone → 2025年11月11日 / 11月12日付ブログで紹介済)が置かれている。



(100)通り名を示す標識(street sign)


「ウィルブラームクレッセント通り(Wilbraham Crescent)」と言う通り名を示す標識が、ジグソーパズルの下段中央の右手にあるテーブルの下段の右端に置かれている。



これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1963年に発表した「複数の時計(The Clocks)」である。

「死者のあやまち」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第54作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第29作目に該っている。


キャサリン・マーティンデール(Miss Katherine Martindale)が所長を勤めるキャヴェンディッシュ秘書紹介所(Cavendish Secretarial Bureau)から派遣された速記タイピストのシーラ・ウェッブ(Sheila Webb)は、ウィルブラームクレッセント通り19番地(19 Wilbraham Crescent)へと急いでいた。

シーラ・ウェッブが電話で指示された部屋(居間)へ入ると、彼女はそこで身なりの立派な男性の死体を発見する。男性の死体の周囲には、6つの時計が置かれており、そのうちの4つが何故か午後4時13分を指していた。

鳩時計が午後3時を告げた時、ウィルブラームクレッセント19番地の住人で、目の不自由な女教師ミリセント・ペブマーシュ(Miss Millicent Pebmarsh)が帰宅する。自宅内の異変を感じたミリセント・ペブマーシュが男性の死体へと近づこうとした際、シーラ・ウェッブは悲鳴を上げながら、表へと飛び出した。そして、彼女は、ちょうどそこに通りかかった青年コリン・ラム(Colin Lamb)の腕の中に飛び込むことになった。

実は、コリン・ラム青年は、警察の公安部員(Special Branch agent)で、何者かに殺された同僚のポケット内にあったメモ用紙に書かれていた「M」という文字、「61」という数字、そして、「三日月」の絵から、ウィルブラームクレッセント19番地が何か関係して入るものと考え、付近を調査していたのである。「M」を逆さまにすると、「W」になり、「ウィルブラーム」の頭文字になる。「三日月」は「クレッセント」であり、「61」を逆さまにすると、「19」となる。3つを繋げると、「ウィルブラームクレッセント通り19番地」を意味するのだ。


2026年8月20日木曜日

ロンドン ドーヴァーストリート17番地(17 Dover Street)

ドーヴァーストリートの対岸から見た
ドーヴァー17番地の建物全景
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース
(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作の自画像(Self-portrait)(1784年)
<筆者撮影>


そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作のエマ・ハートの肖像画(1785年頃)
<筆者撮影>


英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人を経て、1791年9月6日の結婚後、彼の正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、1793年9月の初対面の5年後の1798年9月に再会した後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)と恋愛関係になる。

前述の通り、エマ・ハミルトンは、1791年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと結婚して、ナポリ公使夫人と言う立場にあり、また、ホレーショ・ネルソンも、1787年にフランシス・ハーバート・ウールワード(Frances Herbert Woolward:1758年ー1831年)と結婚していたため、2人とも不倫だった訳である。

2人の不倫関係は、何故か、周囲から寛大に見られており、エマ・ハミルトンの夫であるサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンも、そうであった。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとしては、ホレーショ・ネルソンを英国にとって必要不可欠な人物であると見做して、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を黙認する一方、ホレーショ・ネルソンとの友情関係も維持していた、とのこと。

ただ、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、ナポリから本国である英国へと伝わり、新聞報道を経て、公となってしまった。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
Sir William Beechey 作のホレーショ・ネルソンの肖像画(1800年)
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンの英国への召喚と時を同じくして、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンもナポリ公使の任を解かれた。

エマ・ハミルトンは、少なくとも、1800年4月の時点で、ホレーショ・ネルソンの子を懐妊していたと推測される。

エマ・ハミルトンは、母メアリー・キッド(Mary Kidd)、夫サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンや愛人ホレーショ・ネルソンと一緒に、中央ヨーロッパ経由で、1800年11月6日に英国へ帰国。

妊娠しているエマ・ハミルトンを見たホレーショ・ネルソンの妻フランシス・ハーバート・ウールワードは、不快な表情を見せたため、これがまた新聞の恰好なネタとなり、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、再度世間を騒がせた。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとは異なり、フランシス・ハーバート・ウールワードは、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を最後まで認めなかった。


グローヴナースクエアグローヴナースクエア
(Grosvenor Square → 2015年2月22日付ブログで紹介済)
から北へ延びる
ノースオードリーストリート(North Audley Street)の対岸から見た
グローヴナースクエア22番地の建物全景
<筆者撮影>


英国への帰国後、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとエマ・ハミルトンは、グローヴナースクエア22番地(22 Grosvenor Square → 2026年8月15日付ブログで紹介済)にある英国の作家 / 政治家であるウィリアム・トマス・ベックフォード(William Thomas Beckford:1760年ー1844年)の邸宅へ一旦入居。

一方、ホレーショ・ネルソンとフランシス・ハーバート・ウールワードは、グローヴナースクエア22番地から徒歩圏内にあるドーヴァーストリート17番地(17 Dover Street)に入居した。


ドーヴァーストリートの対岸から
ドーヴァー17番地の建物を見上げたところ
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンとフランシス・ハーバート・ウールワードが入居したドーヴァーストリート17番地は、グローヴナースクエア22番地と同じく、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街メイフェア地区(Mayfair)内に所在している。

「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
メイフェア地区の地図を抜粋。




ドーヴァーストリートは、ピカデリーライン(Piccadilly Line)とベイカールーライン(Bakerloo Line)の2線が乗り入れる地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station → 2026年8月12日付ブログで紹介済)とピカデリーラインが停まる地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)を東西に結ぶ約1マイルの幹線道路であるピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)から北北西へ延びる通りである。

ドーヴァーストリート17番地の反対側から、
ドーヴァーストリートの南側を見たところ -
画面左側から、ドーヴァーストリート17番地、
ドーヴァーストリート16番地、スタッフォードストリート6番地、
スタッフォードストリート、そして、ドーヴァーストリート15番地と続く。
<筆者撮影>

ドーヴァーストリート17番地の反対側から、
ドーヴァーストリートの北側を見たところ
<筆者撮影>

ドーヴァーストリートを北上すると、進行方向右手に、東西に延びるスタッフォードストリート(Stafford Street)が見えてくる。

ドーヴァーストリートとスタッフォードストリートが交差した北東の角の建物の場合、入口がスタッフォードストリート側にあるため、住所表記上、スタッフォードストリート6番地(6 Stafford Street)となっている。その左隣りがドーヴァーストリート16番地(16 Dover Street)で、更にその左隣りに、ドーヴァーストリート17番地が建っている。


ドーヴァー17番地の建物には、
現在、フィットネス系の医療施設が入っている。
<筆者撮影>


ドーヴァーストリート17番地の建物には、現在、「Lanserhof at The Arts Club」と言うフィットネス系の医療施設が入っている。

2026年8月19日水曜日

ロンドン パークヒルロード11A番地(11A Parkhill Road)- その2

20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーアが
1929年から住み始めた「
パークヒルロード11A番地」の建物(画面中央)を
パークヒルロードの対岸から見たところ
<筆者撮影>

英国の芸術家 / 彫刻家で、英国コンウォール州(Cornwall)にあるセントアイヴス(St. Ives)に住む芸術家のコミュニティーにおいて、主導的な役割を果たした人物であるジョスリン・バーバラ・ヘップワース(JocelynBarbara Hepworth:1903年ー1975年 → 2024年10月1日 / 10月31日 / 11月2日付ブログで紹介済)と並び、20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーア(Henry Spencer Moore:1898年ー1986年)が、1929年7月19日にポーランド系ロシア人のイリーナ・ラデツキー(Irina Radetsky)と結婚した後に住んでいた家が、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)ハムステッド地区(Hampstead → 2018年8月26日付ブログで紹介済)に所在している。


ロンドンの特別区の一つであるワンズワース区(London Borough of Wandsworth)
バタシー地区(Battersea)の
バタシーパーク(Battersea Park → 2016年7月10日付ブログで紹介済)
内に設置されている
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻
「Three Standing Figures(→ 2026年5月11日付ブログで紹介済)」を正面から見たところ
<筆者撮影>


ヘンリー・スペンサー・ムーアが、妻のイリーナ・ラデツキーと一緒に、1929年に移り住んだ家が「パークヒルロード11A番地(11A Parkhill Road)」で、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースと夫で、英国の抽象画家であるベンジャミン・ローダー・ニコルスン(Benjamin Lauder Nicholson:1894年ー1982年)がアトリエとして使用していた「モールステュディオズ(Mall Studios → 2026年8月8日付ブログで紹介済)」から徒歩で5分程度の範囲内に位置している。


地下鉄ベルサイズパーク駅の周辺地図(Google Maps から抜粋)-
画面右上の赤い矢印部分に、
ジョスリン・バーバラ・ヘップワース夫のベンジャミン・ローダー・ニコルスンがアトリエとして使用していたモールステュディオズ」が所在している。
また、画面右下の「Henry Moore Blue Plaque」と紫色で表示されている部分に、
ヘンリー・スペンサー・ムーアが、妻のイリーナ・ラデツキーと一緒に、1929年に移り住んだ
パークヒルロード11A番地」が所在している。
更に、画面右下の角にある緑色の四角部分で、
ハムステッド ファイン アーツ カレッジが開校している。


パークヒルロード11A番地」へ行くには、ノーザンライン(Northern Line)が停車する地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)から東方面へ向かう。

地下鉄ハムステッド駅前から始まるハムステッドハイストリート(Hampstead High Street)が、ロスリンヒル通り(Rosslyn Hill)、そして、ヘイヴァーストックヒル通り(Haverstock Hill)へと名前を変えて、同じく、ノーザンラインが停車する地下鉄ベルサイズパーク駅(Belsize Park Tube Station)の前を通過。

ヘイヴァーストックヒル通りを更に東方面へと向かい、進行方向左手にパークヒルロード(Parkhill Road)が見えた時点で、パークヒルロードへと左折。

パークヒルロードを北進し、前方にパークヒルロードを横切るタスカーロード(Tasker Road)が見える手前の左手に、パークヒルロード11A番地」の建物が建っている。


パークヒルロード11A番地」の建物2階(1F)の外壁には、
ヘンリー・スペンサー・ムーアがここに住み、作品の制作を行っていたことを記す
イングリッシュヘリテージのブループラークが掛けられている。
<筆者撮影>


パークヒルロード11A番地」の建物の2階(1F)の外壁に、イングリッシュヘリテージ(English Heritage)のブループラークが掛けられており、「彫刻家のヘンリー・ムーアが、1929年から1940年までの間、ここに住み、作品の制作も行っていた(HENRY MOORE 1898 - 1986 Sculptor lived and worked here 1929 - 1940)」と記されている。


パークヒルロード2番地に建つ
ハムステッド ファイン アーツ カレッジの建物(その1)
<筆者撮影>

パークヒルロード2番地に建つ
ハムステッド ファイン アーツ カレッジの建物(その2)
<筆者撮影>


20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーアとジョスリン・バーバラ・ヘップワースの2人が近くに住んでいたこともあり、パークヒルロード2番地(2 Parkhill Road)には、ハムステッド ファイン アーツ カレッジ(Hampstead Fine Arts College)と言う私立学校が開校している


2026年8月18日火曜日

アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」<英国 TV ドラマ版>(The Mystery of the Spanish Chest by Agatha Christie )- その2

第27話「スペイン櫃の謎」が収録された
エルキュール・ポワロシリーズの DVD コレクション No. 3 の裏表紙


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「スペイン櫃の謎(The Mystery of the Spanish Chest)」(1960年)は、1932年に発表された短編「バグダッドの大櫃の謎(The Mystery of the Baghdad Chest)」を改稿した中編で、短編集「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)に収録されている。


英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」の TV ドラマ版が、英国の TV 会社 ITV 社による制作の下、「Agatha Christie’s Poirot」の第27話(第3シリーズ)として、1991年2月17日に放映されている。英国の俳優であるサー・デヴィッド・スーシェ(Sir David Suchet:1946年ー)が、名探偵エルキュール・ポワロを演じている。


アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」の TV ドラマ版の場合、原作対比、以下のような差異が見受けられる。


<原作>

ある日の朝、エルキュール・ポワロが秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)にその日の仕事を指示する際、持参した朝刊の見出しにある記事「スペイン櫃の謎(SPANISH CHEST MYSTERY)」に興味を持ち、彼女に対して、事件の詳細を調べるよう、頼むところから、物語が始まる。つまり、物語の冒頭、事件は発生しており、ポワロは事後に事件に関与する形を採っている。


<英国 TV ドラマ版>

英国 TV ドラマ版の場合、原作とは異なり、ポワロは事件の発生前から関係者達に出会い、物語の中盤に事件が発生して、ポワロが事件の調査を行うと言う形へ変更されている。


(1)

10年前、エドワード・クレイトン(Edward Clayton - 原作のアーノルド・クレイトン(Arnold Clayton)に相当)とカーティス(陸軍)大佐(Colonel Curtiss - 原作のジョック・マクラーレン(海軍)中佐(Commander Jock McLaren)に相当)の2人が、マーガリート・クレイトン(Marguerite Clayton - 原作のマーガリータ・クレイトン(Margharita Clayton)に相当)との結婚を賭けて、フェンシングによる決闘を行う場面が描かれる。

日本における武士の果たし合いのように、命を賭ける訳ではなく、相手の身体に傷を負わせた時点で、勝敗が決するルールだったと思われる。

実際、エドワード・クレイトンが振るったフェンシングの剣先が、カーティス大佐の頬を傷付けたところで勝敗が決して、エドワード・クレイトンがマーガリートを妻にしたのである。


(2)

上記(1)から10年後、ポワロは、アーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings)と一緒に、劇場において、オペラ「リゴレット(Rigoletto - ヴィクトル・ユーゴーの戯曲「王様はお楽しみ」を原作にしたヴェルディ(Verdi)による歌劇)」を観劇。

インターバル時に、ポワロは、レディー・キャロライン・チャタートン(Lady Caroline Chatterton - 原作のレディー・アビー・チャタートン(Lady Abbie Chatterton)に相当)から声を掛けられる。

レディー・キャロライン・チャタートンによると、彼女はポワロの知人で、ポワロが Chalfont diamond case(ダイヤモンドの盗難事件?)を解決した際、彼女も容疑者の一人だった、とのこと。

レディー・キャロライン・チャタートンは、ポワロに対して、「友人のマーガリート・クレイトンの件で、相談したいことがある。」と話す。

その際、ポワロは、遠方でマーガリート・クレイトンとジョン・リッチ(陸軍)少佐(Major John Rich - 原作のチャールズ・リッチ少佐(Major Charles Rich)に相当)が歓談しているのを見かける。


(3)

レディー・キャロライン・チャタートンから相談を受けたポワロは、翌日の午前11時、ヘイスティングス大尉を伴って、彼女の自宅を訪問の上、更に詳しい説明を受ける。

レディー・キャロライン・チャタートン曰く、


*10年前に、マーガリート・クレイトンとの結婚をめぐって、2人の男性(エドワード・クレイトンとカーティス大佐)が、フェンシングで対決。


*エドワード・クレイトンは、妻のマーガリート・クレイトンとジョン・リッチ少佐の関係を疑っていて、そのため、彼女を殺害しようとしているのではないか?


とのことだった。


原作上、エドワード・クレイトンは、大人しい性格と言う設定だったが、英国 TV ドラマ版の場合、直ぐにカッとなりやすい質へと変更されている。


チジックモール沿いの家並み(その1)
<筆者撮影>


チジックモール沿いの家並み(その2)
<筆者撮影>


チジックモール沿いの家並み(その3)
<筆者撮影>


また、ポワロとヘイスティングス大尉の2人が訪れるレディー・キャロライン・チャタートンの自宅として、チジックモール(Chiswick Mall → 2019年2月3日付ブログで紹介済)にある家が撮影に使用されている。


チジックモール沿いの家並み(その4)
<筆者撮影>


チジックモール沿いの家並み(その5)
<筆者撮影>


チジックモールは、ロンドンの特別区の一つであるハウンズロー治区(London Borough of Hounslow)のチジック地区(Chiswick → 2016年7月23日付ブログで紹介済)内にあり、ハマースミス・アンド・フラム区(London Borough of Hammersmith and Fulham)のハマースミス地区(Hammersmith)を抜けて、ロンドンの中心部からヒースロー空港(Heathrow Airport)へと向かうグレイトウェストロード(Great West Road)とテムズ河(River Thames)に挟まれた場所にある。