2026年9月2日水曜日

ロンドン タヴィストックスクエア(Tavistock Square)- その1

画面奥に見える建物は、
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
約10年間を過ごしたリッチモンドを離れ、ロンドンの中心部へと戻り、
1924年3月に移った
タヴィストックスクエア52番地の跡地に建つタヴィストックホテル -
手前に見える庭園は、タヴィストックスクエアガーデンズ(Tavistock Square Gardens)。
<筆者撮影>


1912年8月10日に結婚した英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)英国の作家 / 出版業者 / 公務員であるレナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年の2人は、1914年の秋から約10年間を過ごしたリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)を離れ、ロンドンの中心部へと戻り、1924年3月、タヴィストックスクエア52番地(52 Tavistock Square)に居を構えた。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


レナード・シドニー・ウルフが、1917年3月、パラダイスロード34番地 / ホガースハウス(Hogarth House, 34 Paradise Road → 2026年7月31日 / 8月5日付ブログで紹介済)に設立した出版社「ホガースプレス(Hogarth Press)」に参加したことにより、ヴァージニア・ウルフの精神状態が落ち着き、その結果、執筆にも脂がのってきたこと、また、ヴァージニア・ウルフ自身が若い頃から慣れ親しんできたロンドンの街の刺激が恋しくなったことが、彼らがロンドンの中心部へと戻った理由だった。

2人がパラダイスロード34番地 / ホガースハウスの居間に設立した「ホガースプレス」は、タヴィストックスクエア52番地の建物の地下に設置された。


1915年3月に
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
リッチモンドグリーンから移り住んだパラダイスロード34番地の建物
<筆者撮影>



ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人は、1924年から第二次世界大戦(1939年-1945年)が始まった1939年までの間、タヴィストックスクエア52番地に住むことになる。

現在、タヴィストックスクエア52番地の跡地には、タヴィストックホテル(Tavistock Hotel)が建っている。


レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人が、
リッチモンドから引っ越した
タヴィストックスクエア52番地の跡地に建つ
タヴィストックホテル
<筆者撮影>


タヴィストックスクエア52番地は、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在している。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。


タヴィストックスクエア52番地の建物が面するタヴィストックスクエア(Tavistock Square)は、英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴン(Leslie Stephen:1832年ー1904年)が1904年2月22日に亡くなった後、ヴァージニア・ウルフが、姉のヴァネッサ(Vanessa Bell:1879年ー1961年 → 後に英国の画家 / インテリアデザイナーとなる)、長男のトビー(Thoby:1880年ー1906年)や次男のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)と一緒に移り住んだゴードンスクエア46番地(46 Gordon Square → 2026年5月22日 / 5月27日付ブログで紹介済)が面するゴードンスクエア(Gordon Square → 2026年6月1日付ブログで紹介済)の東側に位置している。


英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴンが
1904年2月22日に亡くなった後、
ハイドパークゲイト通り22番地の家
(22 Hyde Park Gate → 2026年5月12日 / 5月17日付ブログで紹介済)を売却して、
ヴァージニア・ウルフ達が引っ越したゴードンスクエア46番地の建物全景
<筆者撮影>


ゴードンスクエアガーデンの南側入口から北方面を見たところ
<筆者撮影>

南側の入口近くに設置されている
ゴードンスクエアガーデンの沿革に関する説明板

<筆者撮影>


現在のラッセルスクエア(Russell Square → 2026年4月4日 / 4月11日 / 4月15日付ブログで紹介済)とブルームズベリースクエア(Bloomsbury Square → 2025年2月24日 / 2月26日付ブログで紹介済)の間に、ベッドフォード公爵(Duke of Bedord)が所有するベッドフォードハウス(Bedford House)が建っていた。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区の地図を抜粋。


英国の貴族で、ホイッグ党(Whig)の政治家でもあった第5代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセル(Francis Russell, 5th Duke of Bedford:1765年ー1802年)は、1800年にベッドフォードハウスを取り壊すと、英国の不動産開発業者であるジェイムズ・バートン(James Burton:1761年ー1837年)に依頼して、住宅の建設を進めた。

また、英国の造園師であるハンフリー・レプトン(Humphry Repton:1752年ー1818年)に依頼して、ラッセルスクエアの設計を行った。


ラッセルスクエア内の案内図
<筆者撮影>


ラッセルスクエアの南東の入口近くから北方面を見たところ
<筆者撮影>


ラッセルスクエアは、1801年から1805年までの建設期間を経て、完成。生憎と、第5代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセルは、ラッセルスクエアの完成を見ないまま、1802年に亡くなった。


南東の入口近くに設置されている
ラッセルスクエアの沿革に関する説明板
<筆者撮影>


完成後、ベッドフォード公爵家の姓に因んで、「ラッセルスクエア」と命名された。


ラッセルスクエアの南側に建つ
第5代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセル像のアップ
<筆者撮影>


その後、英国の彫刻家であるサー・リチャード・ウェストマコット(Sir Richard Westmacott:1775年ー1856年)により、第5代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセル像が制作され、1809年にラッセルスクエアの南側に設置された。


南側の入口近くに設置されている
タヴィストックスクエアガーデンズの沿革に関する説明板

<筆者撮影>

タヴィストックスクエアガーデンズ内の植栽
<筆者撮影>


ラッセルスクエアに続き、ゴードンスクエア46番地が建つゴードンスクエアと
タヴィストックスクエア52番地が建つタヴィストックスクエアが、英国の不動産開発業者であるジェイムズ・バートンと建設業者/不動産開発業者であるトマス・キュービット(Thomas Cubitt:1788年ー1855年)によって、1820年代に開発された。

なお、トマス・キュービットは、ベルグレイヴィア地区(Belgravia)やピムリコ地区(Pimlico)等を開発したことで有名である。


シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の
ピムリコ地区(Pimlico)内の Denbigh Street 沿いに設置されている
トマス・キュービット像
<筆者撮影>


完成後、ベッドフォード公爵家の長男に与えられる称号「タヴィストック侯爵(Marquess of Tavistock)」に因んで、「タヴィストックスクエア」と命名された。 


2026年9月1日火曜日

エマ・ハミルトン(Emma, Lady Hamilton)- その6

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain
→ 2018年2月18日付ブログで紹介済)に所蔵 / 展示されている

ジョージ・ロムニー作「Emma Hart as Circe」(1782年頃)
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース
(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作の自画像(Self-portrait)(1784年)
<筆者撮影>


英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人を経て、1791年9月6日の結婚後、彼の正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、1793年9月の初対面の5年後の1798年9月に再会した後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)と恋愛関係になる。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
Sir William Beechey 作のホレーショ・ネルソンの肖像画(1800年)
<筆者撮影>


前述の通り、エマ・ハミルトンは、1791年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと結婚して、ナポリ公使夫人と言う立場にあり、また、ホレーショ・ネルソンも、1787年にフランシス・ハーバート・ウールワード(Frances Herbert Woolward:1758年ー1831年)と結婚していたため、2人とも不倫だった訳である。

2人の不倫関係は、何故か、周囲から寛大に見られており、エマ・ハミルトンの夫であるサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンも、そうであった。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとしては、ホレーショ・ネルソンを英国にとって必要不可欠な人物であると見做して、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を黙認する一方、ホレーショ・ネルソンとの友情関係も維持していた、とのこと。

ただ、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、ナポリから本国である英国へと伝わり、新聞報道を経て、公となってしまった。


ピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)の対岸から
ホテル「ザ・ディリー(The Dilly)」(画面左側の建物)を見たところ -
エマ・ハミルトンがホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソンを出産したピカデリー通り23番地は、
画面左下にあるバス停留所の背後の店舗部分に該る。
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンの英国への召喚と時を同じくして、ナポリ公使の任を解かれたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと一緒に、英国に帰国したエマ・ハミルトンは、1801年1月29日、ピカデリー通り23番地(23 Piccadilly → 2026年8月26日付ブログで紹介済)の家おいて、ホレーショ・ネルソンの娘ホレイシア・ネルソン(Horatia Nelson:1801年ー1881年)を出産した。

なお、ホレーショ・ネルソンは、エマ・ハミルトンがホレイシア・ネルソンを出産する前の1801年1月1日に、青色艦隊中将(Vice-admiral of the Blue)へ昇進し、新たな任務を帯びて、航海へ出た後だった。


航海から戻って来たホレーショ・ネルソンは、同年の秋、エマ・ハミルトンのため、ウィンブルドン(Wimbledon)郊外のマートンプレイス(Merton Place)に小さな家を購入し、ホレーショ・ネルソンとエマ・ハミルトンの2人は、たサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと一緒に、開けっぴろげに生活を送った。エマ・ハミルトンの生母であるメアリー・キッド(Mary Kidd)も、同所を度々訪れている。この奇妙な世帯は、世間の関心を大いに呼んだ。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作のエマ・ハートの肖像画(1785年頃)
<筆者撮影>


1803年4月6日に、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンが、ピカデリー通り23番地の家において亡くなった後、世間的な体裁を保つため(=ホレーショ・ネルソンとは異なる住所を確保するため)、エマ・ハミルトンは、ピカデリー通り23番地の家から、あまり離れていないクラルジズストリート11番地(11 Clarges Street)の家へ引っ越した。


ホレーショ・ネルソンは、同年、地中海艦隊司令長官(Commander-in-Chief of the Mediterranean Fleet)へ昇進して、また新たな任務を帯び、海へ戻る。

第2子を妊娠中だったエマ・ハミルトンは、一人残された孤独の中、ホレーショ・ネルソンの帰還をひたすら待ち続けた。

エマ・ハミルトンが生んだ第2子(次女)は、残念ながら、数週間しか生きられず、第2子を亡くした彼女は、空虚な心を埋めるために、ギャンブルや浪費生活を送った。


「トラファルガーの海戦」(1805年10月21日)の200周年を記念して、
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が、2005年10月18日に発行した
記念切手に付いている海戦図

トラファルガースクエア(Trafalgar Square)の近くにある
地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の改札口へと向かう
地下通路の壁に描かれている
タイル画(その1)-
三日月型の陣形を採るフランス / スペイン連合艦隊に対して、
2列の縦列で突っ込む英国艦隊
(風上の列は、ネルソン提督が乗艦する旗艦「ビクトリー」が先導し、
風下の列は、コリングウッド提督が乗艦する「ロイヤルソブリン」が先導)
<筆者撮影>


トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar → 2022年4月18日 / 4月22日付ブログで紹介済)において、1805年10月21日、ホレーショ・ネルソンが戦死した後、エマ・ハミルトンは、借金地獄に陥った。

ホレーショ・ネルソンは、兄のウィリアム・ネルソン(Wiiliam Nelson:1757年ー1835年 → 後の初代ネルソン伯爵(1st Earl Nelson))に対して、自分の遺産を遺贈していたことに因る。

エマ・ハミルトンには、マートンプレイスの家のみが残されたが、1803年に亡くなった夫サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの年金も食い潰していたため、マートンプレイスの家も抵当に入ってしまった。

ホレーショ・ネルソンは、エマ・ハミルトンと娘のホレイシア・ネルソンの扶養を命じていたが、何故か、彼女達の存在は無視されてしまい、富も名誉も、相続人である兄ウィリアム・ネルソンのものとなった。


ラファルガースクエアの近くにある
地下鉄チャリングクロス駅の改札口へと向かう地下通路の壁に描かれているタイル画(その2)-
英国艦隊を率いたネルソン提督は、フランス艦「ルドゥタブル」の狙撃兵による銃弾に倒れ、
息を引き取ってしまう。
<筆者撮影>


トラファルガースクエアの近くにある
地下鉄チャリングクロス駅のプラットフォームに描かれている壁画 -
「トラファルガーの海戦」における英国艦隊の勝利とネルソン提督の死を伝える新聞記事と
ネルソン提督の肖像画
<筆者撮影>


エマ・ハミルトンは、クラルジズストリート11番地の家からボンドストリート136番地(136 Bond Street)の安い家へと引っ越したものの、焼け石に水で、1811年から1812年にかけて、債務者監獄(debtors’ prison)に入れられた。娘のホレイシア・ネルソンも、一時期、母親と一緒に、債務者監獄に居た。


エマ・ハミルトンは、債権者達から逃れるため、1814年7月1日、娘のホレイシア・ネルソンを連れて、フランスへ渡る。

エマ・ハミルトンは、支援者達に頼って、昔の生活を維持しようとしたが、借金を重ねるだけで、困窮の中、酒に溺れ、肝臓を傷めた末、1815年1月15日にカレー(Calais)で亡くなった。享年49歳だった。


2026年8月31日月曜日

ロンドン ケンサルグリーン墓地(Kensal Green Cemetery)- その4


英国国教徒用の礼拝堂正面を東側から眺めたところ(その1)-
ハノーヴァー朝の第3代国王であるジョージ3世と
王妃であるソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツの第6王子に該る
初代サセックス公爵オーガスタス・フレデリック王子の墓は、
画面右手奥にある。
<筆者撮影>


ケンサルグリーン墓地(Kensal Green Cemetery → 2023年12月15日付ブログで紹介済)の場合、その大部分がロンドンの特別区の一つであるケンジント&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のノースケンジントン地区(North Kensington)の北端ケンサルグリーン(Kensal Green)内にあり、西側の一部がロンドンの特別区の一つであるハマースミス&フラム区(London Borough of Hammersmith and Fulham)内にある。

ケンサルグリーン墓地は、北側のハーロウロード(Harrow Road)と南側のグランドユニオンカナル(Grand Union Canal)と言う運河に挟まれたエリア内にある広大な共同墓地(約29ヘクタール)である。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ケンサルグリーン墓地周辺の地図を抜粋。-
ハノーヴァー朝の第3代国王であるジョージ3世と
王妃であるソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツの第6王子に該る
初代サセックス公爵オーガスタス・フレデリック王子の墓は、
画面左上の星マークの辺りにある。


ケンサルグリーン墓地は、英国の弁護士、雑誌編集者で、実業家でもあったジョージ・フレデリック・カーデン(George Frederick Carden:1798年ー1874年)が出資者となり、1833年にオープンした。


ケンサルグリーン墓地は、ハイゲイト墓地(Highgate Cemetery:1839年にオープン → 2018年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)やブロンプトン墓地(Brompton Cemetery :1840年にオープン → 2015年9月6日付ブログで紹介済)と同じように、ロンドンの「7大墓地(Magnificent Seven)」の一つであるが、7大墓地の中で、一番最初に出来た共同墓地である。


初代サセックス公爵オーガスタス・フレデリック王子の墓を
センターアヴェニューから見たところ

<筆者撮影>


ケンサルグリーン墓地内に埋葬されている故人の中で、最も地位が高いのは、以下の3人である。


(1)初代サセックス公爵オーガスタス・フレデリック王子(Prince Augustus Frederick, 1st Duke of Sussex:1773年ー1843年)- ハノーヴァー朝の第3代国王であるジョージ3世(George III:1683年ー1820年 在位期間:1760年ー1820年)と王妃であるソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ(Sophia Charlotte of Mecklenburg- Strelitz:1744年ー1818年)の第6王子 / ケンジントン宮殿(Kensington Palace)で逝去。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)内で所蔵 / 展示されている
ハノーヴァー朝の第3代英国王であるジョージ3世の肖像画
(By the studio of Allan Ramsay / Oil on canvas /
based on a portrait of 1761 - 1762)
<筆者撮影>


ナショナルポートレイトギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ジョージ3世の王妃である
ソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ
(1744年ー1818年)の肖像画

(By the studio of Allan Ramsay / Oil on canvas /
based on a portrait of 1761 - 1762)
<筆者撮影>


(2)ソフィア・オブ・ザ・ユナイテッド・キングダム(Princess Sophia Mathilda of the United Kingdom:1777年ー1848年)- ハノーヴァー朝の第3代国王であるジョージ3世と王妃であるソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツの第5女 / ケンジントン宮殿で逝去、亡き兄初代サセックス公爵オーガスタス・フレデリック王子の近くに埋葬された。


(3)インヴァネス女公爵・アンダーウッド(Cecilia Underwood, Duchess of Inverness:1789年ー1873年)- 初代サセックス公爵オーガスタス・フレデリック王子の妻 / ケンジントン宮殿で逝去、亡き夫の隣りに埋葬された。


初代サセックス公爵オーガスタス・フレデリック王子の墓を
英国国教徒用の礼拝堂正面から見たところ
<筆者撮影>


彼らがケンサルグリーン墓地(共同墓地)を自分達の埋葬地に選んだことにより、貴族や富裕層の間に共通認識として広まっていた「共同墓地を埋葬地に選ぶなんて…」と言う忌避感を払拭させることに繋がったと言われている。


アルマプレイスにあるウェストゲイト(その1)
<筆者撮影>


ケンサルグリーン墓地には、2つの出入口があり、東側は、ハーロウロードとラドブロークグローヴ通り(Ladbroke Grove)が交差する辺りにあり、こちらがメインゲイト(Main (East) Gate)となっている。

一方、西側は、ケンサルグリーン駅(Kensal Green Station)を出て、ハーロウロード沿いに少し西へ進んだところにあるアルマプレイス(Alma Place)から、墓地内へ入ることができ、こちらがウェストゲイト(West Gate)となっている。


アルマプレイスにあるウェストゲイト(その2)
<筆者撮影>


初代サセックス公爵オーガスタス・フレデリック王子の墓は、ウェストゲイト側からケンサルグリーン墓地へと入り、真っ直ぐに南下して、ウェストセンターアヴェニュー(West Centre Avenue)に至ったところで左折。ケンサルグリーン墓地の中央に建つ英国国教徒用の礼拝堂(Anglican Chapel)へと向かって、ウェストセンターアヴェニューを東進。


英国国教徒用の礼拝堂正面を東側から眺めたところ(その2)
<筆者撮影>



英国国教徒用の礼拝堂正面から
東方面へと延びるセンターアヴェニューを眺めたところ -
初代サセックス公爵オーガスタス・フレデリック王子の墓は、画面左手にある。
<筆者撮影>


北側、あるいは、南側から英国国教徒用の礼拝堂の正面へと回り込んだ後、センターアヴェニュー(Centre Avenue)をほんの少し東へ進んだ進行方向左手に、初代サセックス公爵オーガスタス・フレデリック王子の墓は所在している。
 

        

2026年8月30日日曜日

アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」<英国 TV ドラマ版>(The Mystery of the Spanish Chest by Agatha Christie )- その3

第27話「スペイン櫃の謎」が収録された
エルキュール・ポワロシリーズの DVD コレクション No. 3 ケースの表紙 -
第32話「大空の死(Death in the Clouds)」において、

サー・デイヴィッド・スーシェ(Sir David Suchet)が
演じるエルキュール・ポワロ(画面左側)と
Sarah Woodward が演じるジェーン・グレイ(Jane Grey:画面右側)の二人が、
パリの街角を歩いているシーンが使用されている。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「スペイン櫃の謎(The Mystery of the Spanish Chest)」(1960年)は、1932年に発表された短編「バグダッドの大櫃の謎(The Mystery of the Baghdad Chest)」を改稿した中編で、短編集「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)に収録されている。


英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」の TV ドラマ版が、英国の TV 会社 ITV 社による制作の下、「Agatha Christie’s Poirot」の第27話(第3シリーズ)として、1991年2月17日に放映されている。英国の俳優であるサー・デヴィッド・スーシェ(Sir David Suchet:1946年ー)が、名探偵エルキュール・ポワロを演じている。


アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎」の TV ドラマ版の場合、原作対比、以下のような差異が引き続き見受けられる。


<原作>

ある日の朝、エルキュール・ポワロが秘書フェリシティー・レモン(Miss Felicity Lemon)にその日の仕事を指示する際、持参した朝刊の見出しにある記事「スペイン櫃の謎(SPANISH CHEST MYSTERY)」に興味を持ち、彼女に対して、事件の詳細を調べるよう、頼むところから、物語が始まる。つまり、物語の冒頭、事件は発生しており、ポワロは事後に事件に関与する形を採っている。


<英国 TV ドラマ版>

英国 TV ドラマ版の場合、原作とは異なり、ポワロは事件の発生前から関係者達に出会い、物語の中盤に事件が発生して、ポワロが事件の調査を行うと言う形へ変更されている。


エドワード・クレイトン(Edward Clayton - 原作のアーノルド・クレイトン(Arnold Clayton)に相当)が、ジョン・リッチ(陸軍)少佐(Major John Rich - 原作のチャールズ・リッチ(陸軍)少佐(Major Charles Rich)に相当)の自宅の居間に置かれた「スペイン櫃(Spanish Chest)」内で刺殺された経緯は、 英国 TV ドラマ版と原作の間で、異なっている。


(4)


<英国 TV ドラマ版>

帰宅したエドワード・クレイトンは、妻のマーガリート・クレイトン(Marguerite Clayton - 原作のマーガリータ・クレイトン(Margharita Clayton)に相当)に対して、「今夜、急用でエディンバラ(Edinburgh)へ出かけることになった。ジョン・リッチ少佐のパーティーには出席できなくなったので、一人で出かけてほしい。エディンバラへ出かける前、午後4時まではクラブに居る予定。」と告げる。


エドワード・クレイトンの帰宅時間は不明だが、妻マーガリートとの会話から、クラブへの移動時間を考慮すると、遅くても午後3時以前だと思われる。

また、エドワード・クレイトンの職業については、明確に言及されていないが、物語におけるセリフから推測すると、弁護士のように思われる。エディンバラへ出かける要因になった急用が、公用なのか、私用なのか、ハッキリしないものの、おそらく、公用だと推測される。


英国 TV ドラマ版の場合、クレイトン夫妻の家として、ロンドンの特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のリッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)のリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)内に所在するリッチモンドグリーン(Richmond Green → 2026年7月24日付ブログで紹介済)と呼ばれる大きな緑地帯の南側、南北に延びるオールドパレステラス通り(Old Palace Terrace)と東西に延びるキングストリート(King Street)が交差する場所に建つキングストリート18番地(18 King Street)の「オークハウス(Oak House → 2026年8月7日 / 8月13日付ブログで紹介済)」の建物外観が、撮影に使用されている。


キングストリート18番地に建つ「オークハウス」
<筆者撮影>



<原作>

帰宅したアーノルド・クレイトンは、妻のマーガリータ・クレイトンに対して、「自分が所有する不動産の件で、今夜、急用でスコットランド(Scotland)へ出かけることになった。チャールズ・リッチ少佐のパーティーには出席できなくなったので、一人で出かけてほしい。」と告げる。行き先として、スコットランドとのみ言及されており、エディンバラとまでは特定されていない。


アーノルド・クレイトンの帰宅時間は、妻マーガリータによると、「午後6時過ぎ」とのこと。

また、アーノルド・クレイトンの職業は、英国の大蔵省(Treasury)勤務で、スコットランドへ出かける要因になった急用は、自分が所有する不動産の件なので、私用である。


クレイトン夫妻の家は、ルーメインガーデンズ(Roumaine Gardens - 架空の場所)にあると言う設定になっている。


(5)


<英国 TV ドラマ版>

自宅を出たエドワード・クレイトンは、クラブに寄り、そこで友人のカーティス(陸軍)大佐(Colonel Curtiss - 原作のジョック・マクラーレン(海軍)中佐(Commander Jock McLaren)に相当)と一緒に、お酒を飲みながら、相談事(妻のマーガリートが、ジョン・リッチ少佐と不倫しているのではないか?)をしている。


<原作>

自宅を出たアーノルド・クレイトンは、クラブに寄り、そこで友人のジョック・マクラーレン中佐と一緒に、お酒を飲みながら、「自分が所有する不動産の件で、今夜、急用でスコットランドへ出かけることになったので、チャールズ・リッチ少佐のパーティーには出席できなくなった」旨を告げている。


(6)


<英国 TV ドラマ版>

クラブを出たエドワード・クレイトンは、キングスクロス駅(King’s Cross Station)へ行く前に、ジョン・リッチ少佐の自宅に寄り、リッチ少佐の執事であるウィリアム・バージェス(William Burgess)に会い、パーティーに出席できなくなった旨を告げる。

エドワード・クレイトンがジョン・リッチ少佐の自宅を訪れたのは、午後6時過ぎ。


<原作>

クラブを出たアーノルド・クレイトンは、キングスクロス駅(King’s Cross Station)へ行く前に、チャールズ・リッチ少佐の自宅に寄り、リッチ少佐の執事であるバーゴイン(Burgoyne)に会い、パーティーに出席できなくなった旨を告げる。

アーノルド・クレイトンがチャールズ・リッチ少佐の自宅を訪れたのは、午後7時55分頃。


(7)


<英国 TV ドラマ版>

クラブにおいて、カーティス大佐が、ジョン・リッチ少佐の元へ行き、エドワード・クレイトンから聞かされた相談事を踏まえて、警告を告げる。

つまり、エドワード・クレイトン、カーティス大佐とジョン・リッチ少佐の3人は、同じクラブの会員だと言うことが判る。


<原作>

原作では、このような場面はない。

原作の場合、エドワード・クレイトンとカーティス大佐の2人は、同じクラブの会員だと言うことが言及されているのみ。


(8)


<英国 TV ドラマ版>

ジョン・リッチ少佐の自宅で開催されたパーティーへの出席者は、以下の通り。

(主催者)

*ジョン・リッチ少佐

(招待客)

*エルキュール・ポワロ

*レディー・キャロライン・チャタートン(Lady Caroline Chatterton - マーガリートの友人 / ポワロの知人)

*エドワード・クレイトン → 欠席

*マーガリート・クレイトン

*カーティス大佐

*その他、大勢が出席


なお、ジョン・リッチ少佐の自宅として、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のホルボーン地区(Holborn → 2016年9月24日 / 2025年4月22日付ブログで紹介済)内にあるリンカーンズ・イン・フィールズ(Lincoln's Inn Fields → 2016年7月3日付ブログで紹介済)に面して建つリンカーンズ・イン・フィールズ29番地(29 Lincoln's Inn Fields → 2017年4月2日付ブログで紹介済)の建物外観が、撮影に使用されている。


リンカーンズ・イン・フィールズ29番地の建物の正面全景
<筆者撮影>


<原作>

チャールズ・リッチ少佐の自宅で開催されたパーティーへの出席者は、以下の通り。

(主催者)

*チャールズ・リッチ少佐

(招待客)

*アーノルド・クレイトン → 欠席

*マーガリート・クレイトン

*ジョック・マクラーレン中佐

*ジェレミー・スペンス(Jeremy Spence - リンダの夫)

*リンダ・スペンス(Linda Spence - ジェレミーの妻)

の4名のみ。


なお、チャールズ・リッチ少佐の自宅は、ロンドン中心部のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街ベルグレイヴィア地区内にあると述べられている。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ベルグレイヴィア地区の南側の地図を抜粋。


(9)


<英国 TV ドラマ版>

翌朝、ジョン・リッチ少佐の執事であるウィリアム・バージェスが、居間に置かれた「スペイン櫃」内で、エドワード・クレイトンの刺殺体を発見。


<原作> 

翌朝、チャールズ・リッチ少佐の執事であるバーゴインが、居間に置かれた「スペイン櫃」内で、アーノルド・クレイトンの刺殺体を発見。