2026年10月28日水曜日

エセル・リナ・ホワイト作「消えた女性」<小説版>(The Lady Vanishes by Ethel Lina White )- その2

2024年に英国の Pushkin Press 社から出版された
エセル・リナ・ホワイト作「消えた女性」のペーパーバック版の表紙
(Cover design by Jo Walker / Photo by SSPL + Getty Images /
Photo by Found Image Holdings + Corbis via Getty Images) 

英国ウェールズ地方(Wales)モンマスシャー(Monmouthshire)生まれの女性推理作家で、1930ー1940年代を代表する推理作家の一人と言われているエセル・リナ・ホワイト(Ethel Lina White:1876年ー1944年)が1936年に発表した長編第9作目に該る「消えた女性(The Lady Vanishes - 原題:「車輪の空転(The Wheel Spins)」)の場合、社交界の名士(名花)であるアイリス・カー(Iris Carr)が、欧州大陸で夏の休暇を過ごした後、アドリア海に臨むイタリア北東部の港市トリエステ(Trieste)から英国へ戻るところから、物語が始まる。

駅のプラットフォームにおいて、2人の男性が裁判の証人のことで議論しているのを見ていたアイリス・カーは、突然、気を失ってしまう。暫くして気が付くと、彼女は、待合室のベンチで横になっていた。スーツケースと帽子は近くにあったが、お金、切符やパスポート等が入った鞄が手元になかった。周囲で見守っていたポーターが、彼女に鞄を手渡す。幸いにして、鞄の中に、お金、切符やパスポート等は入っていた。ホテルの領収書も、一緒に入っていた。

アイリス・カーは、鞄の中から取り出した切符をポーターに見せると、ポーターは、彼女の手をとり、プラットフォームへ向かって、駆け出す。そして、ポーターは、 動き出した列車の一番近い車輌のドアを開けると、アイリス・カーのスーツケースを車輌内へ放り込んだ後、乗客の女性の手助けを得て、アイリス・カーもなんとか車輌に無事乗せることができた。

アイリス・カーがなんとか列車に乗ることを手助けした乗客の女性は、英国人の教師(English governess)であるウィニフレッド・フォイ(Winifred Foy - 愛称:ウィニー(Winnie))で、休暇のため、英国へと戻る途中だった。ウィニフレッド・フォイは、落ち着いたアイリス・カーを、食堂車でのお茶へと誘う。

食堂車へ行く前に、ウィニフレッド・フォイは、アイリス・カーに対して、自分の両親等のことを話し始める。

*父親(シオドア(Theodore):77歳)- 65歳で引退して、70歳からヘブライ語(Hebrew)を学び始めた。

*母親(80歳)- 小説好きで、毎週、長距離バスに乗って、本を借りに行く。 

*犬(ソック(Sock))


ウィニフレッド・フォイの話を聞いている途中、アイリス・カーは、酷い頭痛がして、気分が悪くなってきた。目を閉じたアイリス・カーのことを心配したウィニフレッド・フォイは、アイリス・カーが食べられそうなものを買いに、食堂車へ一人で向かった。

暫くして、アイリス・カーが目を覚ますと、ウィニフレッド・フォイの席は空いたままで、食堂車からまだ戻って来ていなかった。


アイリス・カーが、別のコンパートメントに居る牧師のケネス・バーンズ(Kenneth Barnes)と妻のエドナ・バーンズ(Edna Barnes)に、ウィニフレッド・フォイのことを尋ねるが、2人からは、「彼女(ウィニフレッド・フォイ)のことは見ていない。」と言う答えが返ってきた。


ウィニフレッド・フォイが食堂車から戻ってこないことを心配するアイリス・カーに、山岳地帯でダム建設に従事する技師のマクシミリアン・ヘア(Maximilian Hare)とトッドハンター教授(Professor Todhunter)が協力する。

ウィニフレッド・フォイとアイリス・カーが居たコンパートメントの乗客達にヒアリングするものの、皆、「そういった女性のことは知らない。」と答えるのであった。


アイリス・カーは、マクシミリアン・ヘアと一緒に、食堂車へ赴くものの、残念ながら、何の情報も得られなかった。そこへ、トッドハンター教授が「ウィニフレッド・フォイは、自分の席に戻った。」と告げに来た。


アイリス・カーとマクシミリアン・ヘアが元のコンパートメントへ戻ってみると、確かに、その席に女性が座っていたが、ウィニフレッド・フォイとは全く別人だった。その女性は、クマー夫人(Frau Kummer)だと名乗り、食堂車でアイリス・カーとお茶したことも付け加えたのだ。

その話を聞いたアイリス・カーは、思わず、「そんなのは嘘です。私は、貴女とお茶などしていません。私は、今までに貴女に会ったことはありません。(That’s a lie. I never had tea with you. You’re a complete stranger to me.)」と叫んだ。


ウィニフレッド・フォイは、一体、何処へ姿を消してしまったのか?それとも、彼女は、アイリス・カーが見た幻なのか?


2026年10月27日火曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その44A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「ハロウィーンパーティー」のペーパーバック版の表紙


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(104)口で咥えるゲーム用に、水に浮かべたリンゴが入ったバケツ(apple-bobbing bucket)



ジグソーパズルの上段中央のやや右手にあるフランス窓の外に、水に浮かべたリンゴが入ったバケツが置かれている。


(105)魔除けのガラス玉と手鏡(witch ball and hand mirror)



ジグソーパズルの中段の一番左手にあるテーブルの上の左端に、魔除けのガラス玉と手鏡に置かれている。


これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1969年に発表した「ハロウィーンパーティー(Hallowe’en Party)」である。

「ハロウィーンパーティー」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第60作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第31作目に該っている。


アリアドニ・オリヴァーは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立つ
エルキュール・ポワロ
のすぐ右側に居て、

肘掛け椅子に座っている。

<筆者撮影>


女性推理作家として有名なアリアドニ・オリヴァー夫人(Mrs. Ariadne Oliver → 2025年10月26日付ブログで紹介済)は、ロンドンから30ー40マイル程離れた町ウッドリーコモン(Woodleigh Common)に住む友人のジュディス・バトラー(Judith Butler)宅に滞在していた。

ウッドリーコモンの中心的な存在であるロウィーナ・ドレイク夫人(Mrs. Rowena Drake)が、学校の生徒達のために、ハロウィーンパーティーを主催することになり、オリヴァー夫人やジュディス・バトラーも、準備作業を含めて、参加する運びとなった。


ハロウィーンパーティーを晩に控えた午後、ドレイク夫人宅「リンゴの木荘(Apple Trees House)」において、学校の生徒達が準備の手伝いをしていた。その際、生徒の一人である13歳のジョイス・レノルズ(Joyce Reynolds)が、突然、「ずっと前に殺人を目撃したことがある。ただ、当時は、それが殺人だと判らなかった。(I witnessed a murder once, when I was little. I didn’t understand what was going on at the time.)」と言い出したのである。

ジョイス・レノルズの話を聞いた他の生徒達は、日頃から彼女が人の関心を惹くために、いろいろと嘘をつくので、彼女を全く相手にしない。ドレイク夫人宅に準備の手伝いに来ていたオリヴァー夫人も、ジョイスが推理作家である自分の気を引こうとしているものと思い、彼女の話を本気にしなかった。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


ドレイク夫人宅において、ハロウィーンパーティーが行われた日の翌日の晩、オリヴァー夫人が、ロンドンのエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)のフラットに電話をかけてきた後、慌ててやって来る。オリヴァー夫人は、ポワロに対して、ヒステリー気味に話を始めた。

ハロウィーンパーティーが終わった後、以前殺人を目撃したことがあると言っていたジョイス・レノルズが、ドレイク夫人宅の図書室において、リンゴが浮かぶブリキのバケツに頭を押し込まれて、溺死しているのが見つかったのである。


オリヴァー夫人から話を聞いて、ハロウィーンパーティー前の発言のために、ジョイス・レノルズが口封じされたものと考えたポワロは、早速、行動に移った。

ポワロは、古い友人であるバート・スペンス元警視(ex Superintendent Bart Spence)の元を訪れる。偶然にも、スペンス元警視は、引退後、夫を亡くした妹のエルスペス・マッケイ(Elspeth McKay)と一緒に、ジョイス・レノルズが殺害された町ウッドリーコモンに住んでいたのである。


2026年10月26日月曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その43B

英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作「第三の女」のペーパーバック版の表紙 -
樹木の枝にとまる鳥の絵が、孔雀の羽根の形に切り取られている。
欲を言えば、背景の絵として、
孔雀が使われていると、なおよかったのではないかと思われる。

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1966年に発表した「第三の女(Third Girl)」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第57作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第30作目に該っている。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


「第三の女」の場合、ノーマ・レスタリック(Norma Restarick)と言う若い女性が、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)の元を訪れるところから、物語が始まる。

彼女曰く、「自分は殺人を犯したのかもしれない。」と言って、ポワロに助けを求めに来たのだが、実際に、ポワロ本人に面会すると、「あなたは年を取り過ぎている。」と告げると、何故か、急にその場から逃げ出してしまった。


アリアドニ・オリヴァーは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立つ
エルキュール・ポワロ
のすぐ右側に居て、

肘掛け椅子に座っている。

<筆者撮影>


人気推理作家で、昔なじみのアリアドニ・オリヴァー夫人(Mrs. Ariadne Oliver → 2025年10月26日付ブログで紹介済)がノーマ・レスタリックに対して自分のことを紹介したことを知ったポワロは、オリヴァー夫人と一緒に、ノーマ・レスタリックの実家や彼女が住むアパートを訪ねるのであった。

今回、ポワロとオリヴァー夫人の2人は、死体なき犯罪の行方を追うことになる。


ノーマ・レスタリックは、ロンドンのアパートにも実家にも居らず、行方不明になっていた。

数日後、ノーマ・レスタリックが恋人のディヴィッド・ベイカー(David Baker)と一緒にカフェに居るところを、偶然、オリヴァー夫人が発見。

カフェに残ったノーマ・レスタリックをポワロに任せると、オリヴァー夫人は、ディヴィッド・ベイカーを尾行する。

ポワロはノーマ・レスタリックに殺人のことを再度尋ねたものの、彼女は思い出すことができず、再び恐怖に駆られて、その場から立ち去ってしまった。

一方、ディヴィッド・ベイカーの尾行を開始したオリヴァー夫人は、狭い路地に入ったところで、彼に尾行を気付かれてしまう。なんとか話を繕って、その場を凌いだオリヴァー夫人であったが、ディヴィッド・ベイカーのアトリエを出たところで、何者かに背後から頭を殴られて、病院へと搬送される。


ポワロは、精神科医であるジョン・スティリングフリート(Dr. John Stillingfleet)に依頼して、ノーマ・レスタリックを尾行させた。

ジョン・スティリングフリート医師は、ノーマ・レスタリックが交通事故に遭う場から救い出すと、彼女の治療と安全確保のために、自分の家に連れて行くのであった。


果たして、ノーマ・レスタリックは、自分の記憶通り、殺人を犯しているのだろうか?


(101)孔雀が描かれた絵画(painting of a peacock)



ノーマ・レスタリックの恋人であるディヴィッド・ベイカーが派手な格好をしているため、オリヴァー夫人は、彼のことを孔雀に例えている。


(102)アトリエが描かれた絵画(art studio)



カフェからディヴィッド・ベイカーを尾行したオリヴァー夫人は、彼に尾行を気付かれてしまう。オリヴァー夫人は、なんとか話を繕って、その場を凌いだが、ディヴィッド・ベイカーのアトリエを出たところで、何者かに背後から頭を殴られて、病院へと搬送されてしまう。


(103)夫婦が描かれた肖像画(portrait of a husband and wife)



ノーマ・レスタリックの父親で、実業界の大物であるアンドリュー・レスタリック(Andrew Restarick)は、ノーマ・レスタリックの恋人であるディヴィッド・ベイカーに依頼して、20年前に流行した画家のスタイルで、自分と亡き妻グレース(Grace)の肖像画を描かせた。この肖像画が、後に、物語上、非常に重要な役割を果たすのである。


2026年10月25日日曜日

ロンドン 王立芸術院(Royal Academy of Arts)- その2

1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年にが発行した記念切手(その4)


会員間(有力な建築家であるジェイムズ・ペイン(James Paine:1717年ー1789年)とサー・ウィリアム・チェンバーズ(Sir William Chambers:1723年ー1796年)の間で勃発した派閥争いに伴い、サー・ウィリアム・チェンバーズやジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)達は、大英芸術家協会(Society of Artists of Great Britain - 1760年に設立)を脱退すると、新しい芸術家の団体として、王立芸術院(Royal Academy of Arts)を1768年に設立。そして、ジョシュア・レノルズが初代会長に選任された。


1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手(その5)


王立芸術院は、設立当初(1768年)、パル・マル通り(Pall Mall → 2016年4月30日付ブログで紹介済)に置かれた。



夕暮れが迫るパル・マル通り
<筆者撮影>


その後、王立芸術院は、1771年に初代サマセットハウス(Somerset House → 2016年7月17日付ブログで紹介済)に、1780年に2代目サマセットハウスへ移った。


サマセットハウスの中庭 - 奥に南ウィングが見える。
画面右手前に建つのは、
ハノーヴァー朝の第3代国王であるジョージ3世
(George III:1683年ー1820年 在位期間:1760年ー1820年)のブロンズ像
(Sculptor : John Bacon the Elder / Bronze / 1780年)
<筆者撮影>


1539年にハートフォード伯爵エドワード・シーモア(Edward Seymour, Earl of Hertford:1500年ー1552年)が、 時の英国王ヘンリー8世(Henry III:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)からこの地を譲り受け、自分の邸宅を建設したのが、(初代)サマセットハウスのそもそもの始まりである。ちなみに、彼は、ヘンリー8世の3番目の王妃ジェーン・シーモア(Jane Seymour:1509年ー1537年)の兄である。

ヘンリー8世の子供のエドワード6世(Edward VI:1537年ー1553年 在位期間:1547年ー1553年)が1547年に即位したことに伴い、ハートフォード伯爵エドワード・シーモアは初代サマセット公爵(Duke of Somerset)かつ護国卿/摂政(Lord Protector)に叙せられたことに伴い、彼の邸宅は「サマセットハウス」と呼ばれるようになった。しかし、邸宅の完成前に、彼は反逆罪に問われ、処刑されてしまったため、邸宅は未完成のまま取り残され、この地は英国王の所有地へ戻されることとなった。

その後、サマセットハウスは英国王家で使用され、1685年には英国の建築家サー・クリストファー・レン(Sir Christopher Wren:1632年ー1723年)による改修も実施されたが、1688年の名誉革命(Glourious Revolution)以降、建物の維持費が次第に捻出できなくなり、次第に劣化するようになる。18世紀に入ると、倉庫や軍の兵舎等として使用されたものの、1775年には取り壊しの憂き目に会う。

同年の1775年、新サマセットハウスの設計者として、前述のサー・ウィリアム・チェンバーズが任命され、1776年から建設工事が開始された。彼の新古典主義建築に基づいて、ストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)に面した北ウィング部分が最初に完成。1782年に彼は建築総監に就任し、建設計画を進めるものの、残念ながら、1796年に死去。


サマセットハウスの北ウィング部分を
ストランド通り側から見たところ
<筆者撮影>


彼の後を継いだ英国の建築家ジェイムズ・ワイアット(James Wyatt:1746年ー1813年)によって、同年の1796年、大部分の建物が完成を迎えた。建物が竣工した時期は不明で、1800年代に入っても、工事はまだ残っていたようである。


中庭側から見たサマセットハウスの西ウィング部分
<筆者撮影>


その後、サー・ウィリアム・チェンバーズが計画していたものの、彼の存命中には成し得なかった東ウィングと西ウィングが19世紀中に増築され、中庭を東西南北のウィングが囲む現在の建物が完成。


バーリントンハウス内の中庭 -
反対側に見える建物に、王立芸術院が入居している。
<筆者撮影>


王立芸術院は、続いて、1837年にトラファルガースクエア(Trafalgar Square)の北側に新たに建設された建物(現在のナショナルギャラリー(National Gallery)の東棟)へ移り、更に、1869年にロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街メイフェア地区(Mayfair)内に所在しているバーリントンハウス(Burlington House)へ移転して、現在に至っている。


現在、王立芸術院が入っている
バーリントンハウスの中庭に建つ
王立芸術院の初代会長を務めたジョシュア・レノルズのブロンズ像
Sculptor : Alfred Drury / Bronze / 1931年
<筆者撮影>


また、バーリントンハウスの中庭には、王立芸術院の初代会長を務めたジョシュア・レノルズのブロンズ像が建っている。


1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手(その6)


王立芸術院は、 現在、国立美術学校(Royal Academy Schools)や美術館が併設されており、ナショナルギャラリーやテイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)に匹敵する存在として存続しているが、一方、サー・ウィリアム・チェンバーズやジョシュア・レノルズ達が脱退してしまった大英芸術家協会は、1791年まで展覧会を開催した後、解散の憂き目に遭っている。


2026年10月24日土曜日

ロンドン 王立芸術院(Royal Academy of Arts)- その1

1769年に開校した王立美術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が2019年に発行した記念切手(その1)

王立芸術院(Royal Academy of Arts)は、 1768年に設立された芸術家団体で、国立美術学校(Royal Academy Schools)や美術館が併設されている。

1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手(その2)

ロンドンには、共同で展覧会を開催するための芸術家の団体として、大英芸術家協会(Society of Artists of Great Britain)が1760年に設立され、英国の画家で、同時代に活躍したジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家であるジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)も、当初は、同協会の創設メンバーの一人だった。

大英芸術家協会は、1760年4月に最初の展覧会を開催し、1765年にハノーヴァー朝の第3代国王であるジョージ3世(George III:1683年ー1820年 在位期間:1760年ー1820年)の勅許を受け、同年、会員数は211人に達する。

ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ハノーヴァー朝の第3代英国王であるジョージ3世の肖像画
(By the studio of Allan Ramsay / Oil on canvas /
based on a portrait of 1761 - 1762)
<筆者撮影>


ところが、1767年に入ると、会員のうち、有力な建築家であるジェイムズ・ペイン(James Paine:1717年ー1789年)とサー・ウィリアム・チェンバーズ(Sir William Chambers:1723年ー1796年)の間で派閥争いが勃発したことに伴い、サー・ウィリアム・チェンバーズやジョシュア・レノルズ達は、大英芸術家協会を脱退。

彼らは、新しい芸術家の団体として、王立芸術院(Royal Academy of Arts)を1768年に設立して、ジョシュア・レノルズが初代会長に選任され、1792年に亡くなるまで、会長職を務めた。


現在、王立芸術院が入っている
バーリントンハウス(Burlington House)の中庭に建つ
王立芸術院の初代会長を務めたジョシュア・レノルズのブロンズ像
Sculptor : Alfred Drury / Bronze / 1931年
<筆者撮影>


1768年12月10日にジョージ3世が署名した王立芸術院設立に関する協定書(instrument of foundation)上、会員総数は40名と定められていたが、実際には、34名が創設会員に名を連ねた。トマス・ゲインズバラも、その一人である。

1769年に、2人が会員に追加され、総勢出36名となった。


1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手(その3)


王立芸術院は、全ての芸術家に対して門戸を開くことを旨として、1769年4月25日から同年5月27日まで、最初の展覧会を開催。

この展覧会は、「王立芸術院サマーエキシビション(RA Summer Exhibition)」として、一般に認知されるようになり、現在も、毎年開催されている。


一方、サー・ウィリアム・チェンバーズやジョシュア・レノルズ達が脱退してしまった大英芸術家協会は、1791年まで展覧会を開催した後、解散の憂き目に遭っている。


2026年10月23日金曜日

ブルース・ルール作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 初仕事の探偵」(The Further Adventures of Sherlock Holmes: The Debutante Detective by Bruce Rule) - その1

英国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2026年に出版された
ブルース・ルール作
「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 初仕事の探偵」の表紙


「初仕事の探偵(The Debutante Detective)」は、米国の作家であるブルース・ルール(Bruce Rule)が、Titan Publishing Group Ltd. から、「シャーロック・ホームズの更なる冒険(The Further Adventures of Sherlock Holmes)」シリーズの一つとして、今年(2026年7月)に発表した作品である。

作者のブルース・ルールは、約40年間にわたり、米国、英国やチリ等において、報道関係の仕事に携わっており、以前にノンフィクション本を2冊出しているが、フィクション本としては、今回が初の出版となる。

現在は、米国デラウェア州(Delaware)ルイス(Lewes)に在住。


ブルース・ルール作「初仕事の探偵」の場合、1905年4月8日の午後遅く、ジョン・H・ワトスンが、久し振りにベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)を訪れるところから、物語が始まる。


英国で出版された「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」
1923年3月号に掲載された挿絵 -
1903年9月のある日曜日の晩、
ケンフォード大学(Camford University)の生理学者(physiologist)である
プレスベリー教授(Professor Presbury)のことを案じる
彼の助手であるトレヴァー・ベネット(Trevor Bennett)が、
シャーロック・ホームズの元を相談に訪れる。
画面左手前の人物が、ホームズで、
画面右手前の人物が、ジョン・H・ワトスン。
そして、画面奥の人物が、トレヴァー・ベネット。


「這う男(The Creeping Man → 2022年11月6日 / 11月18日 / 11月20日付ブログで紹介済)」事件から1年以上が経過しており、シャーロック・ホームズは、既に指紋探偵業から引退して、ロンドンを離れ、サセックス州(Sussex)のコテージで日々を過ごしていた。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1923年3月号に掲載された挿絵 -
プレスベリー教授の助手であるトレヴァー・ベネットは、
ホームズに対して、驚くべきことを告げる。
「プレスベリー教授は、這っていたんです。」と。


ワトスンがベイカーストリート221B に入ると、ハドスン夫人(Mrs. Hudson)は居らず、何故か、上の部屋には、ホームズが居た。

ホームズは、既に指紋探偵業から引退していたが、ロンドンに戻る用事がある場合に備え、ハドスン夫人に依頼して、部屋をそのままに管理してもらっていたのである。


そこへ、男装の女性が、ホームズの元を相談に訪れる。

彼女は、「自分は、リリアン・ジョンスン(Mrs. Lillian Johnson)で、アリス・リー・ルーズヴェルト(Alice Lee Roosevelt:21歳)の秘書である。」と名乗った。

アリス・リー・ルーズヴェルトは、米国の軍人 / 政治家で、第25代副大統領、そして、ウィリアム・マッキンリー大統領の暗殺に伴い、第26代大統領に就任したセオドア・ルーズヴェルト(Theodore Roosevelt:1858年ー1919年 → 2022年10月21日 / 10月26日付ブログで紹介済)の娘で、現在、ロンドンに滞在していた。


国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2010年に出版された
H・ポール・ジェファーズ(H. Paul Jeffers:1934年ー2009年)作
「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 不屈の仲間
(The Stalwart Companions → 2022年10月2日 / 10月4日 / 10月17日付ブログで紹介済)」
(1978年)の表紙(部分)に描かれているセオドア・ルーズヴェルト大統領


リリアン・ジョンスンによると、アリス・リー・ルーズヴェルトが米国の駐英大使であるチョート氏(Mr. Choate)と昼の会食をしている間、ホテルの部屋(アリス・リー・ルーズヴェルト用)に一人で居た、とのこと。

その時、部屋のドアがノックされたので、彼女はホテルの従業員だと思い、ドアを開けた。アリス・リー・ルーズヴェルトは、リリアン・ジョンスンに対して、「事前の約束がない訪問者は、 部屋に入れないこと。」と言い渡していた。

リリアン・ジョンスンがドアを開けたところ、そこには、ホテルの従業員ではなく、英国人の紳士が立っていたのである。 驚いたリリアン・ジョンスンがホテルの従業員を呼んでいる間に、ホテルの部屋のテーブルの上に置かれていたある重要な書類が紛失していたのである。 


それは、セオドア・ルーズヴェルト大統領の指示に基づいて、アリス・リー・ルーズヴェルトがロンドンに持参した日露戦争(1904年ー1905年)にかかる大日本帝国とロシア帝国の間の講和条約に関する書類だったのだ。


2026年10月22日木曜日

ロンドン サックヴィルストリート(Sackville Street)

北側のヴィーゴストリートから南側のピカデリー通りへ向かって、
サックヴィルストリートを見たところ。
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、バリントンマナーハウス(Barrington Manor)で開催されたオークションに出品された絵画の作者のうちの1人であるジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)は英国の画家で、同時代に活躍したジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャー(通称:マイク)と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン(通称:エリー)の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックスに依頼して、

キングストンビショップ村にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


1723年7月16日、サミュエル・レノルズ牧師(Reverend Samuel Reynolds)の三男(第7子)として、デヴォン州(Devon)プリンプトン(Plympton)に出生したジョシュア・レノルズは、少年の頃から絵画に興味を抱いており、1740年、英国の肖像画家で、同じデヴォン州生まれのトマス・ハドスン(Thomas Hudson:1701年ー1779年)に弟子入りして、修行を始める。


ナショナルポートレイトギャラリー(Naitional Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ジョシュア・レノルズ作「Self-Portrait(自画像)」
(1747年ー1749年頃)
<筆者撮影>


1749年5月に英国海軍の代将に任ぜられた初代ケッペル子爵オーガスタス・ケッペル(Augustus Keppel, 1st Viscount Keppel:1725年ー1786年) が、海賊対策のため、地中海へ向けて出航した際、ジョシュア・レノルズは、戦列艦「セチュリオン(HMS Centurion)」に便乗して、地中海西部のメノルカ島(Menorca)まで一緒に行き、そこからイタリアへ渡り、約2年間、ローマ(Roma)に滞在して、ルネサンスを代表するイタリアの画家であるラファエロ・サンティ(Raffaello Santi:1483年ー1520年)等の古典作品を熱心に研究した。


北側のヴィーゴストリートから始まるサックヴィルストリート
<筆者撮影>

北側のヴィーゴストリートから南側のピカデリー通りへ向かって、
サックヴィルストリートの中間辺りまでを進んで来たところ。
<筆者撮影>


約2年間のローマ滞在を終えて、1752年10月に英国に戻ったジョシュア・レノルズは、デヴォン州(Devon)で3ヶ月程過ごした後、1753年にロンドンへ出て来ると、驚くべき速さで、肖像画家としての成功を手にしていく。


ジョシュア・レノルズが住んでいたレスタースクエア47番地の建物があった場所
<筆者撮影>


売れっ子の肖像画家となったジョシュア・レノルズは、彼の作品を展示する場所や彼のアシスタント達が住む場所等を含めて、より広いスペースが必要となったため、1760年、レスターフィールズ(Leicester Fields - 現在のレスタースクエア(Leicester Square))の西側に建つレスタースクエア47番地(47 Leicester Square → 2026年10月16日付ブログで紹介済)の建物へと引っ越した。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から
シティー・オブ・ロンドン(City of London
→ 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)へ向かって東に延びる
ストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)
の中州に建つ
セントクレメントディンズ教会(St. Clement Danes)の裏手に建つ
サミュエル・ジョンスン像
Sculptor : Percy Fitzgerald / Stonebust / 1910年
<筆者撮影>


ジョシュア・レノルズは、18世紀の英国において、小説家、詩人、評論家、道徳家、文芸評論家、伝記作家、編集者、そして、辞書編纂者として多岐にわたり、英国の文学界に多大な貢献をした人物であるサミュエル・ジョンスン(Samuel Johnson:1709年ー1784年 → 2017年4月23日付ブログで紹介済)と親交を深め、1764年2月、食堂「Turks Head」(住所:ジェラルドストリート9番地(9 Gerrard Street → 2026年10月21日付ブログで紹介済))の2階(1F)に、サミュエル・ジョンスンを中心メンバーにして、「ザ・クラブ(The Club)」を創設。


サミュエル・ジョンスンを中心メンバーにして、
ジョシュア・レノルズが「ザ・クラブ」を創設した
ジェラルドストリート9番地の建物全体(左側)を見たところ。
<筆者撮影>


1783年に、食堂「Turks Head」の店主が亡くなり、店舗が売られたため、「ザ・クラブ」は、ジェラルドストリートからサックヴィルストリート(Sackville Street)へと移った。


サックヴィルストリート32番地の玄関口
<筆者撮影>

サックヴィルストリート32番地の玄関口左側の外壁に掛けられたプラーク
<筆者撮影>


サックヴィルストリートは、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街メイフェア地区(Mayfair)内に所在している。

「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ピカデリーサーカス周辺の地図を抜粋。



サックヴィルストリートは、現在、王立芸術院(Royal Academy of Arts)が入っているバーリントンハウス(Burlington House)の東側にある通りで、南北に延びており、北側のヴィーゴストリート(Vigo Street)と南側のピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)を結んでいる。


南側のピカデリー通りから北側のヴィーゴストリートへ向かって、
サックヴィルストリートを戻りつつあるところ(その1)。
<筆者撮影>


後にバース伯爵(Earl of Bath)となるウィリアム/・プルトニー(William Pulteney)による開発が1730年に始まり、1733年までに、サックヴィルストリートと左右に建ち並ぶ家屋が建設された。


南側のピカデリー通りから北側のヴィーゴストリートへ向かって、
サックヴィルストリートを戻りつつあるところ(その2)。
<筆者撮影>


なお、ジェラルドストリートからサックヴィルストリートへ移った「ザ・クラブ」の具体的な番地は不明。