2026年6月12日金曜日

ロンドン フィッツロイスクエア21番地(21 Fitzroy Square)

英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵
ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルが住んでいた

フィッツロイスクエア21番地の建物全景
<筆者撮影>


アイルランド出身の文学者 / 脚本家 / 劇作家 / 評論家 / 政治家 / 教育家 / ジャーナリストであるジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw:1856年ー1950年)が、1887年から1898年まで住み、その後、英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)が、1907年から1911年まで住んだフィッツロイスクエア29番地(29 Fitzroy Square → 2026年6月6日 / 6月11日付ブログで紹介済)の北側に建つフィッツロイスクエア21番地(21 Fitzroy Square)には、英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシル(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury:1830年ー1903年)が住んでいた。



第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルは、1830年2月3日、枢密院議長等を歴任した第2代ソールズベリー侯爵ジェイムズ・ブラウンロウ・ウィリアム・ガスコイン=セシル(James Brownlow William Gascoyne-Cecil, 2nd Marquess of Salisbury:1791年ー1868年)とフランセス・メアリー・ガスコイン(Frances Mary Gascoyne)の三男として、ハートフォードシャー州(Hertfordshire)ハットフィールド(Hatfield)にあるソールズベリー侯爵家の別宅ハットフィールドハウス(Hatfield Hose → 2023年6月25日付ブログで紹介済)に出生。


Hatfield House and gardens by Marcus May (1995年頃)
庭園歴史博物館(Museum of Garden History)で購入した絵葉書 -
中央に建つ建物が、17世紀初めに
初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシルが建設した主館で、
左後方に建つ建物が、
15世紀末に高位聖職者の邸宅として建設されたビショップ館、
そして、両方の館を取り巻く広大な庭園が描かれている。


第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルは、1853年に庶民院議員として政界入りした後、1868年に爵位継承を経て、貴族院議員へと転じた。


パーラメントスクエアガーデン(Parliament Square Garden)内に建つ
初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリの銅像
<筆者撮影>


彼は、保守党政権下において、閣僚職を歴任し、英国の政治家 / 小説家で、ヴィクトリア朝の中期に、保守党の党首として、英国首相を2回(第1次内閣:1868年 / 第2次内閣:1874年ー1880年)務めた初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield:1804年-1881年)亡き後、保守党の党首に就任。


テムズ河(River Thames)に架かる
ブラックフライアーズ橋(Blackfriars Bridge
→ 2024年8月6日 / 8月11日付ブログで紹介済)の北岸に設置されている
ヴィクトリア女王のブロンズ像
<筆者撮影>


そして、ハノーヴァー朝(House of Hanover)の第6代女王で、かつ、初代インド女帝であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年 → 2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)とザクセン=コーブルク&ゴータ朝(House of Saxe-Coburg and Gotha)の初代英国国王 / インド皇帝であるエドワード7世(Edward VII:1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年 → 2025年5月10日 / 5月26日 / 5月31日 / 6月8日 / 6月15日付ブログで紹介済 )の治世下、英国首相を3回(第1次内閣:1885年ー1886年 / 第2次内閣:1886年ー1892年 / 第3次内閣:1895年ー1902年)務めた。


ウォーターループレイス(Waterloo Place)内に建つ
エドワード7世の騎馬ブロンズ像
<筆者撮影>


第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルは、典型的な貴族主義者かつ保守主義者で、民主主義や選挙権の拡大には強く反対したが、一方で、漸進的な内政改革を行った。

外交面において、彼は帝国主義を推し進め、大英帝国の更なる拡張を果たした。特に、

南アフリカ南部に対して、植民地大臣(Colonial Secretary)を務めていたジョーゼフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain:1836年ー1914年)と南アフリカ高等弁務官(High Commissioner for South Africa) / ケープ植民地総督(Governor - General of Cape Colony)に任命された初代ミルナー子爵アルフレッド・ミルナー(Alfred Milner, 1st Viscount Milner:1854年ー1925年 → 2022年8月29日 / 9月1日付ブログで紹介済)と一緒に、第二次ボーア戦争(1899年10月12日ー1902年5月31日 → 2022年8月8日付ブログで紹介済)を仕掛けた。


大英英国軍に応戦するボーア軍
(Dorling Kindersley Limited から発行されている
「The Sherlock Holmes Book」から抜粋)


増大する戦死者を目にして、大英帝国内において、インド人等の英領植民地人を代わりに戦地へ送り、英国人の人的損害を減らすべきであるという意見が、各方面で強まった。

そこに、シャーロック・ホームズシリーズの作者であるアーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年-1930年)が登場する。彼は、当時、「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1893年12月号に「最後の事件(The Final Problem 2022年5月1日 / 5月8日 / 5月11日付ブログで紹介済)」を発表して、ホームズを、「犯罪界のナポレオン(Napoleon of crime)」と呼ばれるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)と一緒に、スイスのマイリンゲン(Meiringen)にあるライヘンバッハの滝壺(Reichenbach Falls)に葬り去った後で、「ストランドマガジン」の1901年8月号から1902年4月号にかけて、「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」の連載を開始するまでの約7年半に及ぶ空白の期間であった。

コナン・ドイルは、「タイムズ」紙において、「英国人が一人も戦地へ赴かないで、その代わりを英領植民地の人達に穴埋めさせるのは、名誉にかかわるのではないか?」という主張を展開するとともに、自分自身も英国軍に従軍する決意を固めた。ただ、彼は既に40歳を超えていたため、英国陸軍の兵役検査をパスできなかった。そこで、彼は、従軍を諦めたが、その代わりに、戦地へ派遣される50人の医療奉仕団(コナン・ドイルの友人であるジョン・ラングマンが提唱)に医師の一人として参加することに決めたのである。


アーサー・コナン・ドイルは、
既に40歳を超えていたため、英国陸軍の兵役検査をパスできず、
従軍を諦めたが、その代わりに、戦地の南アフリカへ派遣される医療医師団に
参加することに決め、現地入りした。

(Dorling Kindersley Limited から発行されている
「The Sherlock Holmes Book」から抜粋)


コナン・ドイルを含む医療奉仕団を乗せたPO・ラインのオリエンタル号は、1900年3月に英領ケープ植民地の首都ケープランドに到着し、英国軍司令官である初代ロバーツ伯爵フレデリック・ロバーツ(Frederick Roberts, 1st Earl of Roberts:1832年ー1914年)が率いる英国軍の進軍路を辿りつつ、野戦病院において負傷者等の治療に従事した。傷病兵の数は収容しきれない程に増えていき、医療奉仕団の各人は尽力したものの、十分な治療もままならず、多くの兵士が亡くなった。その上、腸チフスが発生した関係で、現地における状況は、更に絶望的になっていったのであった。


英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵
ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルが住んでいた

フィッツロイスクエア21番地の建物入口
<筆者撮影>


ちょうどその頃、増援部隊が大英帝国の本国から到着すると、ロバーツ卿率いる英国軍はボーア軍を遂に打ち破って、反撃に転じ、同年3月13日にオレンジ自由国(Orange Free State)の首都ブルームフォンテーン(Bloemfontein)を、続いて、同年6月5日にトランスヴァール共和国の首都プレトリア(Pretoria)を陥落させた。

コナン・ドイルは、プレトリアにおいて、ロバーツ卿と会見して、医療奉仕団の活躍を報告した後、プレトリア陥落により、第二次ボーア戦争の大勢は決したと思われたため、当戦争を総括する執筆を行うべく、同年7月に本国への帰国の途に就いたのである。


英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵
ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルが住んでいた

フィッツロイスクエア21番地の建物1階(GF)外壁
<筆者撮影>


第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルは、1902年7月11日、病を理由に退任して、後任の保守党党首 / 首相に、甥である初代バルフォア伯爵アーサー・ジェイムズ・バルフォア(Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour:1848年ー1930年)を就任させた。

そして、翌年の1903年8月22日に死去。


フィッツロイスクエア21番地の建物1階(GF)外壁には、
英国の貴族 / 政治家である第3代ソールズベリー侯爵
ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシルがここに住んでいたことを示す
London City Council のプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


なお、フィッツロイスクエア21番地の建物は、現在、モザンビーク大使館(Mozambique High Commission)として使用されている。


2026年6月11日木曜日

ロンドン フィッツロイスクエア29番地(29 Fitzroy Square)- その2

兄トビーの急死(1906年)と姉ヴァネッサの結婚(1907年)に伴い、
ヴァージニア・ウルフが弟エイドリアンと一緒に引っ越した先の
フィッツロイスクエア29番地の建物全景(その2)
<筆者撮影>


英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴン(Leslie Stephen:1832年ー1904年)が1904年2月22日に72歳で死去したことに伴い、2度目の神経衰弱に陥ったヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)は、姉のヴァネッサ(Vanessa Bell:1879年ー1961年 → 後に英国の画家 / インテリアデザイナーとなる)、長男のトビー(Thoby:1880年ー1906年)と次男のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)と一緒に、それまで住んでいたハイドパークゲイト通り22番地(22 Hyde Park Gate → 2026年5月12日 / 5月17日付ブログで紹介済)の家を売却して、ゴードンスクエア46番地(46 Gordon Square → 2026年5月22日 / 5月27日付ブログで紹介済)に家を購入した。


ヴァージニア・ウルフが生まれた
ハイドパークゲイト通り22番地の建物全景
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが神経衰弱の療養からゴードンスクエア46番地の家へ戻り、落ち着いた翌年の1905年3月頃から、兄のトビーがケンブリッジ大学(University of Cambridge)において知り合った才気溢れる青年達が、ゴードンスクエア46番地の家に集まるようになった。彼らの集まりは、後に「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury Group)」と言う著述家や芸術家の知的サークルへとなる。


英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴンが
1904年2月22日に亡くなった後、
ハイドパークゲイト通り22番地の家を売却して、
ヴァージニア・ウルフ達が引っ越したゴードンスクエア46番地の建物全景
<筆者撮影>


1906年の秋、兄のトビー達がギリシア / トルコ旅行へ出かけた際、トビーが腸チフス(typhoid fever)に罹患し、同年11月20日に、26歳の若さで急死してしまう。

また、トビーが亡くなった2日後、姉のヴァネッサがアーサー・クライヴ・へワード・ベル(Arthur Clive Heward Bell:1881年-1964年 → 後に英国の芸術批評家となる)からの求婚を受け、2人は1907年に結婚。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


上記の結果、2人となったヴァージニア・ウルフと弟のエイドリアンは、1907年8月、ゴードンスクエア46番地の家から、フィッツロヴィア(Fitzrovia)の端正なフィッツロイスクエア29番地(29 Fitzroy Square)の家へ引っ越した。

ヴァージニア・ウルフ達が引っ越したフィッツロイスクエア29番地には、アイルランド出身の文学者 / 脚本家 / 劇作家 / 評論家 / 政治家 / 教育家 / ジャーナリストであるジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw:1856年ー1950年)が、1887年から1898年までの間、住んでいた。



姉のヴァネッサが結婚したアーサー・クライヴ・へワード・ベルの父親は、ウェールズ(Wales)の鉱山業で巨万の富を築いており、姉のヴァネッサは、アーサー・クライヴ・へワード・ベルとの結婚により、裕福な一族への仲間入りを果たしていた。

ヴァージニア・ウルフとしては、姉のヴァネッサが結婚により富を得たこと自体、公正ではないと憤っており、彼女と弟のエイドリアンは、フィッツロイスクエア29番地の家で、倹しく生活を送った。


フィッツロイスクエア29番地の建物入口
<筆者撮影>


また、ヴァージニア・ウルフは、フィッツロイスクエア29番地の家で、彼女の処女作(小説)となる「船出(The Voyage Out)」の執筆に取り掛かっている。

「船出」が実際に出版されるのは、1915年である。


ヴァージニア・ウルフが、1907年から1911年までの間、
フィッツロイスクエア29番地に住んでいたことを示すプラーク
<筆者撮影>


フィッツロイスクエア29番地の建物入口の右側の外壁に、「ヴァージニア・ウルフ(旧姓:ヴァージニア・スティーブン)が、1907年から1911年までの間、ここに住んでいた」ことを示す Greater London Council のプラークが掛けられている。


ジョージ・バーナード・ショーが、1887年から1898年までの間、
フィッツロイスクエア29番地に住んでいたことを示すプラーク
<筆者撮影>


更に、そのプラークの上に、「ジョージ・バーナード・ショーが、1887年から1898年までの間、住んでいた」ことを示すプラークも掛けられている。 


                                    

2026年6月10日水曜日

エマ・ハミルトン(Emma, Lady Hamilton)- その2

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain
→ 2018年2月18日付ブログで紹介済)に所蔵 / 展示されている

ジョージ・ロムニー作「Emma Hart as Circe」(1782年頃)
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャー(通称:マイク)と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


彼女は、1765年4月26日、鍛治職人(blacksmith)の父ヘンリー・ライオン(Henry Lyon)と母メアリー・キッド(Mary Kidd)の下、チェシャー州(Cheshire)のネス(Ness)に出生。本名は、エイミー・ライオン(Amy Lyon)。

彼女が生後2ヶ月の時に、父ヘンリー・ライオンが亡くなったため、母メアリー・キッドと祖母サラ・キッド(Sarah Kidd)に育てられたが、正規の教育を受けなかった。後に、彼女は、エイミー・ライオンからエマ・ハート(Emma Hart)へと名前を変えた。


エマ・ハートは、1777年(12歳)から家政婦として働き始め、1779年、もしくは、1780年初めに、ロンドンへと向かった。

彼女は、家政婦として働きつつ、コヴェントガーデン(Covent Garden)のドルリーレーン劇場(Drury Lane Theatre)で女優業を始め、また、絵画モデルや舞踏家としても働いた。

彼女は、1780年(15歳)、第2代準男爵サー・ヘンリー・フェザーストノー(Sir Henry Fetherstonhaugh, 2nd Baronet:1754年ー1846年)の愛人となり、後に娘エマ・カルー(Emma Carew)を生んでいる。


1781年6月 / 7月頃、エマ・ハートは、初代ウォーリック伯爵フランシス・グレヴィル(Francis Greville, 1st Earl of Warwick:1719年ー1773年)の次男であるチャールズ・フランシス・グレヴィル(Charles Francis Greville:1749年ー1809年)と親しくなり、彼の愛人となる。

1782年4月、チャールズ・フランシス・グレヴィルが、新しい愛人である彼女を連れて、友人のジョージ・ロムニーの元を訪れた。目的は、ジョージ・ロムニーに彼女の肖像画を依頼するためだった

当時、ジョージ・ロムニーは47歳、彼女は17歳で、2人は30歳と言う年齢の開きがあったが、この出会いは、芸術家としてのジョージ・ロムニーにとって、非常に得難い邂逅となり、ジョージ・ロムニーは、彼女にすっかりと魅せられた。こうして、彼女は、ジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神とも言える存在となっていく。

彼女は、1782年4月から(イタリアのナポリへ行く前の)1786年3月までの間、ジョージ・ロムニーの前で約180回ポーズをとり、その多くは、文学的な主題における劇的なヒロインに扮した。そして、彼は彼女の肖像画を60作以上描き、それらは、通常の肖像画から神話や宗教的な絵画と多岐にわたった。


1786年、エマ・ハートは、ナポリ(Naples)へと向かい、チャールズ・フランシス・グレヴィルの叔父で、英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人となる。

当時、チャールズ・フランシス・グレヴィルは、裕福な妻を見つけて、正式な結婚をしようと考えており、彼女を叔父のサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンの愛人とさせて、叔父の再婚を阻止するとともに、自分も彼女を厄介払いしようとしたのである。


エマ・ハートにすっかり魅了されたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンは、彼女と正式に結婚することを決める。彼女は、英国に一時帰国した際、1791年6月から同年9月にかけて、ジョージ・ロムニーのモデルを再度務めている。

また、1791年9月6日の結婚式の日にも、彼女は、ハミルトン夫人(Lady Hamilton)として、ただ一度、ジョージ・ロムニーの前に座ってもいる。

サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとの結婚後、彼女は、ナポリへと戻り、その後、ジョージ・ロムニーと再会することは二度となかったのである。 


2026年6月9日火曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その34A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「ホロー荘の殺人」ペーパーバック版の表紙 -
日曜日、ルーシー・アンカテルに昼食へ招かれ、ホロー荘を訪れたエルキュール・ポワロは、
執事のガジョン(Gudgeon)に案内されて、昼食前の一杯のため、
プールの側の東屋(あずまや)へと向かった。
すると、ポワロは、、プールのところにホロー荘の主夫妻や招待客達が集まっているのを目にする。
彼らが囲んでいたのは、銃で撃たれ、血を流して倒れているジョン・クリストウと、
銃を手にして傍らに立つガーダ・クリストウという芝居染みた光景であった。
ペーパーバック版の表紙には、殺人事件の舞台となるホロー荘のプールサイドが描かれている。

英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(77)馬の粘土細工(clay horse)



ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)から右真横へ移動した画面右端近くにある柱の側に、彼の執事であるジョージ(George 2025年10月23日付ブログで紹介済)が立っている。ポワロの執事ジョージが立つ左側の柱に、飾り棚があるが、その上に馬の粘土細工が飾られており、花瓶に入った棘のない薔薇(thornless rose → 2026年4月21日 / 4月25日付ブログで紹介済)と蝋人形(wax figure 2026年5月8日 / 5月13日付ブログで紹介済)の間に置かれている。


(78)樹木の悪戯書き(doodle of a tree)



ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)の右斜め後ろの位置に、スコットランドヤードのジェイムズ・ハロルド・ジャップ警部(Inspector James Harold Japp → 2025年10月24日付ブログで紹介済)が立っている。ジャップ警部の左側にある柱の表面に、樹木の悪戯書きがされている。


これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1946年に発表した「ホロー荘の殺人(The Hollow)」である。

「ホロー荘の殺人」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第37作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第22作目に該っている。


「ホロー荘の殺人」の場合、米国において1954年にペーパーバック版が出版された際、「Murder after Hours」と言うタイトルへ改題されている。


アガサ・クリスティーは、自伝の中で、「ホロー荘の殺人」に関連して、「いつも思っていたことだったが、『ホロー荘の殺人』では、ポワロを登場させたことが失敗だった。私は自分の小説にポワロを出すことに慣れっこになっていたので、当然、この小説にも彼が入ってきたが、ここでは、それが失敗だった。」と述べている。


本作品は、ある年の9月末の週末、行政官だったサー・ヘンリー・アンカテル(Sir Henry Angkatell)と夫人のルーシー・アンカテル(Lucy Angkatell)が、友人のクリストウ夫妻をロンドン近くの自宅ホロー荘(The Hollow)へ招待して、彼らをもてなす計画をするところから、物語が始まる。


夫のジョン・クリストウ(John Christow)はハーリーストリート(Harley Street →  2015年4月11日付ブログで紹介済)で成功をおさめた外科医で、夫人のガーダ・クリストウ(Gerda Christow)は純真かつ無邪気な性格で、夫のジョンに対して崇拝に近い位の愛情を捧げていた。ただ、ガーダは簡単な室内ゲームも満足にできないのが、ルーシー・アンカテルにとって頭の痛い点だった。


ホロー荘には、クリストウ夫妻の他に、以下の人物が招待されていた。


(1)ミッジ・ハードキャッスル(Midge Hardcastle):ルーシー・アンカテルの従妹で、服飾関係の店員として働いている。

(2)エドワード・アンカテル(Edward Angkatell):サー・ヘンリー・アンカテルの従弟で、アンカテル家の領地エインズウィック(Ainswick)の法廷相続人。

(3)ヘンリエッタ・サヴァナク(Henrietta Savernake):彫刻家

(4)デイヴィッド・アンカテル(David Angkatell):ルーシー・アンカテルの従兄弟で、学生。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


更に、ルーシー・アンカテルがバグダッドで出会ったエルキュール・ポワロが偶然ホロー荘の近くに別荘を借りていたため、彼女は彼を日曜日の昼食に招いていた。


2026年6月8日月曜日

ロンドン ハイゲイト墓地(Higate Cemetery)- その3

ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスの遺体が眠る墓石(その1)
(ハイゲイト墓地の東区画)
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が執筆した長編としては、第6作目に、そして、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)シリーズの長編としては、第3作目に該る「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd → 2023年9月25日 / 10月2日付ブログで紹介済)」において、事件の記録者となる「わたし」こと、キングスアボット村(King's Abbot)に住むジェイムズ・シェパード医師(Dr. James Sheppard)が、村の富豪であるロジャー・アクロイド(Roger Ackroyd)から夕食に招待され、9月17日(金)の午後7時半に、ロジャー・アクロイドが住むフェルンリーパーク館(Fernly Park)を訪れる。会席者を待つ間、ジェイムズ・シェパード医師は、応接間において、ロジャー・アクロイドによる蒐集品の数々を眺めていると、そこへフローラ・アクロイド(Flora Ackroyd - ロジャー・アクロイドの義理の妹で、未亡人のセシル・アクロイド夫人(Mrs. Cecil Ackroyd)の娘)が姿を見せる。


2022年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design by Holly Macdonald /
Illustrations by Shutterstock.com) 


その際に交わされたジェイムズ・シェパード医師とフローラ・アクロイドの会話に出てくる「フロス河の水車場(The Mill on the Floss)」の作者であるジョージ・エリオット(George Eliot)は、英国の作家である。実は、「ジョージ・エリオット」はペンネームで、本名はメアリー・アン・エヴァンズ(Mary Anne Evans:1819年ー1880年)。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery内で
所蔵 / 展示されているジョージ・エリオット
(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)の肖像画
(By Sir Frederic William Burton / chalk / 1865年 /
514 mm x 381 mm)


1819年11月22日、土地差配人である父ロバート・エヴァンズ(Robert Evans:1773年ー1849年)と母クリスティアナ・エヴァンズ(Christiana Evans:1788年ー1836年 / 旧姓:ピアスン(Pearson))の下、ウォーリック州(Warwickshire)ヌニートン(Nuneaton)に出生したメアリー・アン・エヴァンズは、1850年、作家を志して、ロンドンへと移った。

彼女は、ダーフィト・フリードリヒ・シュトラウス(David Friedrich Strauss:1808年ー1874年)作「イエス伝」の英語翻訳版を刊行してくれた英国の出版業者であるジョン・チャップマン(John Chapman:1821年ー1894年)の家に寄宿。彼女は、ジョン・チャップマンが買収した左派系の雑誌「ザ・ウェストミンスター・レヴュー(The Westminster Review)」に、マリアン・エヴァンズ(Marian Evans)と言うペンネームを使い、同年から寄稿。1851年には、副主筆(assistant editor)へ昇格。


ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスの遺体が眠る墓石(その2)
(ハイゲイト墓地の東区画)
<筆者撮影>


1857年、メアリー・アン・エヴァンズは、ブラックウッズマガジン(Blackwood’s Magazine)誌上に、彼女と不倫関係にあった英国の哲学者 / 文芸批評家ジョージ・ヘンリー・ルイス(George Henry Lewes:1817年ー1878年)の名を借りた「ジョージ・エリオット(George Eliot)」のペンネームを用いて、短編小説を順次発表し、1858年1月に、「牧師館物語(Scenes of Clerical Life)」として纏められ、出版された。

その後、彼女は、1859年には、最初の長編小説となる「アダム・ビード(Adam Bede)」を発表し、1876年には、長編小説第7作目となる「ダニエル・デロンダ(Daniel Deronda)」を出版。

なお、アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」において言及される「フロス河の水車場」は、1860年に発表された長編小説第2作目に該る。


ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)が
1860年に発表した長編小説第2作目
「フロス河の水車場」
<筆者撮影>


メアリー・アン・エヴァンズと長らく不倫関係にあったジョージ・ヘンリー・ルイスが1878年11月30日に亡くなった後、彼女は、友人だった青年実業家のジョン・ウォルター・クロス(John Walter Cross:1840年ー1924年)との間で、親密度合いを深めていく。

そして、ジョージ・ヘンリー・ルイスが亡くなってから約18ヶ月後の1880年5月16日に、メアリー・アン・エヴァンズは、ジョン・ウォルター・クロスと結婚して、知人達を騒然とさせる。なお、ジョン・ウォルター・クロスは、メアリー・アン・エヴァンズよりも20歳以上年下だった。ジョン・ウォルター・クロスと結婚したメアリー・アン・エヴァンズは、メアリー・アン・クロス(Mary Ann Cross)と改名。


ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスの遺体が眠る墓石(その3)
(ハイゲイト墓地の東区画)
<筆者撮影>


新婚旅行から戻って来たメアリー・アン・クロスとジョン・ウォルター・クロスの2人は、1880年12月3日にチェイニーウォーク4番地(4 Cheyne Walk → 2026年6月3日付ブログで紹介済)へ引っ越したが、彼女は、喉の痛みを訴えて、体調不良となり、数年前から患っていた腎臓病も併発したため、結婚から僅か7ヶ月後の1880年12月22日にロンドンで死去した。享年61歳で、メアリー・アン・クロスは、ジョン・ウォルター・クロスと一緒に、1880年12月3日から同年12月22日までの約3週間だけ、チェイニーウォーク4番地で暮らしたことになる。


チェイニーウォーク4番地の建物全景
<筆者撮影>


チェイニーウォーク4番地の建物の2階の外壁には、
ジョージ・エリオットが、ここで亡くなったことを示すプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスは、キリスト教を信仰していなかったことに加えて、ジョージ・ヘンリー・ルイスと長らく不倫関係にあったこともあり、彼女の遺体はウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)に埋葬されなかった。

そのため、彼女の遺体は、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のハイゲイト地区(Highgate)内にあるハイゲイト墓地(Highgate Cemetery → 2018年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)に埋葬された。


ハイゲイト墓地入場時に受け取った東区画の地図から抜粋。


ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスの遺体が埋葬されているのは、ハイゲイト丘を南北に延びるスワインズレーン(Swain’s Lane)の東側に1865年に追加された「東区画(East Cemetery)」の北東の角近く(別添の地図で言うと、左上の箇所)である。


ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスの生誕200周年を記念して、
2019年に The George Eliot Fellowship が設置した金属プレート

<筆者撮影>


ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスの墓地の前の方に、彼女の生誕200周年を記念して、2019年に The George Eliot Fellowship の金属プレートが設置されている。