2026年7月13日月曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その38A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「葬儀を終えて」ペーパーバック版の表紙 -
リチャード・アバネシーの葬儀の翌日、
手斧でズタズタにされて殺された末妹コーラ・ランスケネの家が
表紙として使用されていると思われる。
その証拠に、窓から見える壁には、
地元のセールで彼女が集めていた絵画が掛けられている。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(87)埠頭を描いた絵(painting of a pier)



ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)から右真横へ移動した位置に居る執事のジョージ(George → 2025年10月23日付ブログで紹介済)の左側にある柱の壁に、埠頭を描いた絵が掛けられている。


(88)手斧(hatchet)



エルキュール・ポワロの執事ジョージの右足下に、手斧があり、柱に立てかけられている。


(89)ウェディングケーキが乗った皿(slice of wedding cake)



ジグソーパズルの右下に設置されているガラスケースの上に、ウェディングケーキが乗った皿が置かれている。


これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1953年に発表した「葬儀を終えて(After the Funeral)」である。

「マギンティー夫人は死んだ」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第44作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第25作目に該っている。


「葬儀を終えて」の場合、米国版のタイトルは、「Funerals Are Fatal」が使用されている。

1963年に本作品が英国映画として映像化された際、英国版のタイトルは、映画に合わせて、「Murder at the Gallop(寄宿舎の殺人)」へと改題された。なお、探偵役は、本来のエルキュール・ポワロではなく、ミス・ジェーン・マープルが務めている。


2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
「アガサ・クリスティー 2026年オフィシャルカレンダー」のうち、
2026年6月のカレンダーに描かれている
エルキュール・ポワロシリーズの長編第25作目「葬儀を終えて」(1953年)-
大富豪で、アバネシー家の当主であるリチャード・アバネシーの葬儀が行われた
教会が描かれているものと思われる。
兄リチャード・アバネシーの墓の前に佇んでいるのは、
末妹のコーラ・ランスケネだろうか?
<筆者撮影>


大富豪で、アバネシー家の当主であるリチャード・アバネシー(Richard Abernethie)の葬儀に出席するために、彼の邸宅「エンダビーホール(Enderby Hall)」において、親族が一堂に会した。

リチャード・アバネシーの弟の1人であるレオ(Leo)は、第二次世界大戦(1939年-1945年)中に戦死していた。また、リチャード・アバネシーの妻は早くに亡くなっており、息子のモーティマー(Mortimer)も6ヶ月前に既に死去していた。


リチャード・アバネシーの葬儀に参列したのは、


(1)ティモシー・アバネシー(Timothy Abernethie):リチャードの弟

(2)モード・アバネシー(Maude Abernethie):ティモシーの妻 / リチャードの義妹


(3)ヘレン・アバネシー(Helen Abernethie):第二次世界大戦中に戦死したリチャードの弟レオの妻 / リチャードの義妹


(4)スーザン・バンクス(Susan Banks):リチャードの弟ゴードン(Gordon)の娘 / リチャードの姪

(5)グレゴリー・バンクス(Gregory Banks):スーザンの夫 / 薬剤師


(6)ローラ・クロスフィールド(Laura Crossfield):リチャードの妹

(7)ジョージ・クロスフィールド(George Crossfield):ローラの息子 / リチャードの甥 / 事務弁護士


(8)ロザムンド・シェーン(Rosamund Shane):リチャードの妹ジェラルディン(Geraldine)の娘 / リチャードの姪 / 女優

(9)マイケル・シェーン(Michael Shane):ロザムンドの夫 / 俳優


(10)コーラ・ランスケネ(Cora Lansquenet):リチャードの末妹


の面々だった。


アバネシー家の弁護士であるエントウィッスル氏(Mr. Entwhistle)が、リチャード・アバネシーの遺言執行者として、その内容を読み上げた。

リチャード・アバネシーの遺産の大部分は、彼の弟ティモシー・アバネシー、彼の亡き弟の妻ヘレン・アバネシー、彼の末妹コーラ・ランスケネ、彼の甥ジョージ・クロスフィールド、そして、彼の2人の姪スーザン・バンクスとロザムンド・シェーンの6人に当分されると言う極めて妥当な内容だった。


エントウィッスル氏が読み上げたリチャード・アバネシーの遺言書の内容を聞き、自分の相続分を素直に喜んこんだ末妹コーラ・ランスケネは、小首を傾げると、無邪気な一言を言い放った。

「だって、リチャードは殺されたんでしょう?」と。


2026年7月12日日曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その37B

英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作「マギンティー夫人は死んだ」の
ペーパーバック版の表紙 -
背景は、事件が起きたブローディニー村の風景だと思われる。
ただし、それを切り取る形は、
マギンティー夫人殺害に使用された凶器の砂糖ハンマーとは思えない。
雑役婦 / 掃除婦であるマギンティー夫人が使っていた肉切り包丁なのだろうか?


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1952年に発表した「マギンティー夫人は死んだ(Mrs. McGinty’s Dead)」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第42作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第24作目に該っている。


なお、当初、米国のシカゴトリビューン紙(Chicago Tribune)の日曜日版に、1951年10月7日から同年12月30日にかけて、13回の掲載が行われた際、「Blood Will Tell」と言うタイトルが使用されている。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


「マギンティー夫人は死んだ」の場合、キルチェスター警察に勤務し、間もなく定年を迎えるスペンス警視(Superintendent Spence)は、友人であるエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)の元を訪れるところから、その物語が始まる。

スペンス警視は、ポワロに対して、「僅か30ポンドのために、家主であるマギンティー夫人(Mrs. McGinty)を殺害した罪状により、死刑判決を受けた間借り人のジェイムズ・ゴードン・ベントリー(James Gordon Bentley)が真犯人だと思えないので、事件の再調査をしてほしい。」と依頼するのであった。


スペンス警視は、事件の詳細について、ポワロに説明する。


雑役婦 / 掃除婦(charwoman)として、いくつもの家に通っていたマギンティー夫人は、自宅の客間の床の上で死んでいるのを発見された。マギンティー夫人の家内は、家探しされており、寝室の床板の下に隠してあった30ポンドの現金が紛失していた。マギンティー夫人を殺害した凶器は見つかっておらず、押し入れられた形跡もなかった。


マギンティー夫人の間借り人であるジェイムズ・ベントリーは、上着の袖口に血がついていたにもかかわらず、マギンティー夫人が殺害された前夜以来、彼女の顔を見ていないと主張した。

また、マギンティー夫人の寝室の床板の下から紛失した30ポンドの現金は、後に家の外に隠してあるのが見つかる。


2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
「アガサ・クリスティー 2026年オフィシャルカレンダー」のうち、
2026年11月のカレンダーに描かれている
エルキュール・ポワロシリーズの長編第24作目「マギンティー夫人は死んだ」(1952年)-
自宅の客間の床の上で、マギンティー夫人が殺害されているのを発見され、
警察が彼女の庭を捜索している場面が描かれている。
<筆者撮影>


当然のことのように、間借り人のジェイムズ・ベントリーは、マギンティー夫人殺害の罪で逮捕され、事件が公判に付されると、彼はあっさりと有罪となり、死刑が確定し、死刑を待つ身となった。

あらゆる証拠がジェイムズ・ベントリーを指しているものの、スペンス警視は「事件があまりにも単純過ぎる。」と懸念を示すと、スペンス警視の話を聞いていたポワロも、彼のコメントに同意するのであった。


スペンス警視からの依頼を受けたポワロは、事件が起きたブローディニー村(Broadhinny village)へと向かった。

ブローディニー村の隣町にある唯一の宿屋で、サマーヘイズ夫妻(Maureen Summerhayes + Major Johnnie Summerhayes)が営むゲストハウスに滞在したポワロは、早速、事件の調査を開始する。


ポワロが調査したところ、マギンティー夫人は、殺される3日前に、


*タブロイド紙に掲載された昔の事件に関係して、その後、行方不明になった4人の女性達の写真を切り取っていたこと


*「そのうちの誰かがブローディニー村に居る。」と手紙に認めて、新聞社宛に送っていたこと


を突き止める。


ブローディニー村の住民達の年齢を考慮して、ポワロは、4人の女性達のうち、


*僅か12歳で肉切り包丁によりおばを殺害したリリー・ガンボル(Lily Gamboll)- 釈放後、アイルランドへ転居


もしくは、


*雇い主であるクレイグ氏(Mr. Craig)と不倫関係にあり、クレイグ夫人(Mrs. Craig)の殺害を疑われた家庭教師(governess)のエヴァ・ケイン(Eva Kane)- オーストラリアへ逃亡 / イヴリン(Evelyn)と言う名前の子供が居たらしい。


のどちらかだと推理する。


果たして、ジェイムズ・ベントリーの死刑が執行されるまでに、ポワロは、真犯人を見つけることができるのか?


(84)砂糖ハンマー(sugar hammer)



ポワロは、滞在先のサマーヘイズ夫妻が営むゲストハウスににおいて、血痕が付いた古い砂糖ハンマーを発見。これが、マギンティー夫人を殺害した凶器と考えられた。生憎と、ゲストハウスには、鍵がかかっておらず、砂糖ハンマーは、誰でも容易に使用可能だった。


(85)写真(photograph)



ポワロが調査を進めた結果、ブローディニー村に住む裕福なローラ・アップワード(Laura Upward)の家から、イヴリン・ホープ(Evelyn Hope)の名前が入った本が発見される。

更に、ポワロは、サマーヘイズ夫妻が営むゲストハウスの引き出しの中から、一枚の写真を見つけ出し、それがマギンティー夫人が問題視した写真であることに気付く。それは、エヴァ・ケインの写真で、裏には「my mother」と書かれていたのである。


(86)口紅が付いた紅茶茶碗(teacup with a lipstick stain)



ある夜、ブローディニー村に住む裕福なローラ・アップワードが、自宅において、絞殺死体となって見つかる。

生憎と、メイドは休みの夜の上、ローラ・アップワードの息子で、劇作家(playwright)のロビン・アップワード(Robin Upward)は、フィンランド人探偵(Sven Hjerson)を主人公とするシリーズで有名な女性推理作家であるアリアドニ・オリヴァー(Ariadne Oliver → 2025年10月26日付ブログで紹介済)の小説を戯曲化する関係で、アリアドニ・オリヴァーと一緒に、劇場へ出かけていたため、ローラ・アップワードは自宅に一人だった。


アリアドニ・オリヴァーは、
ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロのすぐ右側に居て、

肘掛け椅子に座っている。

<筆者撮影>


ロビン・アップワードとアリアドニ・オリヴァーの2人が劇場から戻ったところ、ローラ・アップワードは絞殺されていたのである。

現場には、絞殺されたローラ・アップワードが、彼女を殺害した犯人と一緒に飲んだと思われるコーヒーカップが残されていた。コーヒーカップには、口紅が付いており、また、室内には、香水の匂いが残されていた。

調べたところ、その夜、ローラ・アップワードは、イヴ・カーペンター(Eve Carpenter)、ディアドレ・ヘンダースン(Deirdre Henderson)とシェララ・レンデル(Shelagh Rendell)の3人を、個別に招いていたことが判明する。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界 (The World of Hercule Poirot)」では、「口紅が付いた紅茶茶碗」となっているので、これは誤りと言える。


2026年7月11日土曜日

ロンドン コートールドギャラリー(Courtauld Gallery)- その3

'The Trinity with Saints Mary Magdalen and John the Baptist'
by Sandro Botticelli
Around 1491 - 1494 / Egg tempera on wood
<筆者撮影>

今回から2回に分けて、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)にあり、テムズ河(River Thames)を見下ろす絶好のロケーションに建つサマセットハウス(Somerset House → 2016年7月17日)内に設けられているコートールドギャラリー(Courtauld Gallery)に所蔵 / 展示されている主な絵画について、御紹介致したい。


コートールドギャラリーの地階(Lower Ground Floor)と
1階(Ground Floor)のレイアウト図


コートールドギャラリーの地階(Lower Ground Floor)と
2階(Floor 1)のレイアウト図


コートールドギャラリーの地階(Lower Ground Floor)と
3階(Floor 2)のレイアウト図


(1)サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Bottivelli:1445年頃ー1510年 - ルネサンス期のイタリアの画家)


(2)ルーカス・クラナッハ(父)(Lucas Cranach the Elder:1472年ー1553年)- ルネサンス期のドイツの画家


(3)ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens:1577年ー1640年)- バロック期のフランドルの画家 / 外交官


'Moses and the Brazen Serpent' by Peter Paul Rubens
1609 - 1610 / Oil paint on wood
<筆者撮影>

'Studies for an Altarpiece in Antwerp Cathedral' by Peter Paul Rubens
<筆者撮影>


(4)アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck:1599年ー1641年 → 2025年9月27日 / 10月4日 / 10月8日 / 10月13日付ブログで紹介済)- バロック期のフランドルの画家


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
アンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画の葉書
(Sir 
Anthony van Dyck / 1640年頃 / Oil on panel
560 mm x 460 mm) 


'Ecce Homo' by Anthony van Dyck
Around 1625 - 1626 / Oil paint on canvas
<筆者撮影> 


これらの絵画は、英国の実業家であるサミュエル・コートールド(Samuel Courtauld:1876年ー1947年)とコートールドギャラリーを共同設立した英国の軍人 / 外交官 / 政治家 / 慈善家である初代/リー・オブ・フェアラム子爵アーサー・ハミルトン・リー(Arthur Hamilton Lee, 1st Viscount Lee of Fareham:1868年ー1947年)が寄贈したものである。


(5)サー・ジョシュア・レイノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)- 英国の画家 / 王立芸術協会(Royal Society of Arts)の初代会長を務めた。


'Portrait of Maria Marow Gideon and her brother, William'
by Joshua Reynolds
1786 - 1787 / Oil paint on canvas
<筆者撮影> 

'Cupid and Psyche' by Joshua Reynolds
Around 1789 / Oil paint on canvas
<筆者撮影>


(6)トマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)- 英国の画家


'Portrait of Thomas Gainsborough'
by Thomas Gainsborough
Completed by Gainsborough Dupont (1754 - 1797)
Late 1760s / Completed 1788
Oil paint on canvas
<筆者撮影>

(7)ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)- 英国の肖像画家


'Portrait of Georgiana, Lady Grenville' by George Romney
Around 1771 - 1772 / Oil paint on canvas
<筆者撮影>


これらの絵画は、英国の実業家であるサミュエル・コートールド(Samuel Courtauld:1876年ー1947年)とコートールドギャラリーを共同設立した英国の美術史家であるサー・ロバート・クレルモン・ウィット(Sir Robert Clermont Witt:1872年ー1952年)が寄贈したものである。


2026年7月10日金曜日

ロンドン クリフォーズイン(Clifford’s Inn)- その2

1912年に結婚したヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
移り住んだフラット「クリフォーズイン」の玄関を北側から見たところ
<筆者撮影>

1912年8月10日に結婚した英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年 / 英国の小説家 / 評論家)レナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年 / 英国の作家 / 出版業者 / 公務員の2人は、南フランス / スペイン / イタリアへの新婚旅行から戻って来た後、クリフォーズイン(Clifford’s Inn)と言うフラットへ移り住んだ。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


妻となったヴァージニア・ウルフは、子供を欲しがったが、夫のレナード・シドニー・ウルフは、以下の理由から、2人の間い子供を持つことを良しとはしなかった。


1912年に結婚したヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
移り住んだフラット「クリフォーズイン」の建物を南側から見上げたところ
<筆者撮影>


<理由(その1)>

1895年(ヴァージニア・ウルフが13歳の時)に、母親で、初代准男爵サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones, 1st Baronet:1833年ー1898年 → 2018年6月3日 / 6月10日 / 6月17日付ブログで紹介済)等の「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)のモデルとして知られている母ジュリア・プリンセップ・ジャクスン(Julia Prinsep Jackson:1846年ー1895年)が48歳で急死し、1897年(ヴァージニア・ウルフが15歳の時)に、異父姉ステラ(Stella:1869年ー1897年)が亡くなったことに伴い、彼女は最初の神経衰弱を発病。

1904年(ヴァージニア・ウルフが22歳の時)に、父親で、英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴン(Leslie Stephen:1832年ー1904年)が72歳で亡くなり、彼女は2度目の神経衰弱に陥った。

1906年(ヴァージニア・ウルフが24歳の時)の秋、兄(長男)のトビー(Thoby:1880年ー1906年)がギリシア / トルコ旅行へ出かけた際、腸チフス(typhoid fever)に罹患し、同年11月20日に、26歳の若さで急死したため、彼女の精神状態はまた不安定になり、そう言った状況が続いている。


1912年に結婚したヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
移り住んだフラット「クリフォーズイン」の玄関を南側から見たところ
<筆者撮影>


<理由(その2)>

ヴァージニア・ウルフは、母親になる(=子供を産んで育てる)には、精神的に強くなく、子供を持った場合、彼女の精神状態は更に悪化すると懸念。


1912年に結婚したヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
移り住んだフラット「クリフォーズイン」の建物を北側から見上げたところ
<筆者撮影>


一方、ヴァージニア・ウルフは、レナード・シドニー・ウルフと結婚する前に、彼女の最初の長編小説となる「船出(The Voyage Out)」を概ね完成させていたが、結婚後の1912年12月から1913年3月にかけて、大幅な改稿を行った。

同作品は、彼女の異父兄であるジェラルド・ダックワース(Gerald Duckworth:1870年-1937年)が興した出版社(Gerald Duckworth and Company Ltd. - 1898年設立)から1915年3月26日に刊行されることになるが、上記の大幅な改稿が、肉体的にも、精神的にも、彼女を極度の消耗状態へと追い込んだ。

その結果、彼女は何度も神経衰弱に陥り、1913年9月9日には、睡眠薬のヴェロナール(veronal)の過剰摂取により、自殺を試みたが、なんとか一命をとりとめた。


フラット「クリフォーズイン」の玄関左側の壁には、
「ヴァージニア・ウルフとレナード・ウルフの2人が、1912年から1913年までの間、
この建物に住んでいた」ことを示すプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


フラット「クリフォーズイン」の玄関左側の壁に、「ヴァージニア・ウルフ(1882年ー1941年)とレナード・ウルフ(1880年ー1969年)の2人が、1912年から1913年までの間、この建物に住んでいた」ことを示す Virginia Woolf Society of Great Britain のプラークが掛けられている。


                                       

2026年7月9日木曜日

<第2200回> ロンドン クリフォーズイン(Clifford’s Inn)- その1

1912年に結婚したヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が移り住んだ
フラット「クリフォーズイン」へと至る門
<筆者撮影>

英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)と弟のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)の2人は、1911年11月、より広い家を求めて、ロンドンの中心部にあるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のフィッツロヴィア地区(Fitzrovia)内に所在するフィッツロヴィア(Fitzrovia)の端正なフィッツロイスクエア29番地(29 Fitzroy Square → 2026年6月6日 / 6月11日付ブログで紹介済)からロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camdenブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在するブランズウィックスクエア(Brunswick Square → 2026年6月23日付ブログで紹介済)の家へ引っ越した。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


引越後、ヴァージニア・ウルフと弟のエイドリアンの2人は、著述家や芸術家の知的サークルである「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury Group)」のメンバーのうち、


*ダンカン・ジェイムズ・コロウ・グラント(Duncan James Corrowr Grant:1885年ー1978年)- 英国の画家 / 織物・陶芸・舞台美術・服飾デザイナー

*レナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年)- 英国の作家 / 出版業者 / 公務員

*初代ケインズ男爵ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes, 1st Baron Keynes:1883年ー1946年)- 英国の経済学者


の3人を下宿人 / 間借り人として招き、同居している。


ヴァージニア・ウルフが住んでいた家は、
ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎の非常口の辺りに建っていたと思われる。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフは、レナード・シドニー・ウルフと結婚する1912年までの間、ブランズウィックスクエアの家に住んでいた。


ヴァージニア・ウルフが住んでいた家の跡地には、現在、
ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン薬学部の校舎が立っている。
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが住んでいたブランズウィックスクエアの家は現存せず、現在は、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London → 2015年8月16日付ブログで紹介済)薬学部(School of Pharmacy - 住所:ブランズウィックスクエア29-39番地)の校舎が、その場所に建っている。


1912年8月10日に結婚したヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人は、南フランス / スペイン / イタリアへの新婚旅行から戻って来た後、クリフォーズイン(Clifford’s Inn)と言うフラットへ移り住んだ。


1912年に結婚したヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が移り住んだ
フラット「クリフォーズイン」の周辺地図 -
Google Maps から抜粋。


クリフォーズインは、シティー・オブ・ロンドン(City of London → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の東端に所在している。


フリートストリートの南側から
シティー・オブ・ロンドンに属するフェッターレーン方面を見たところ
<筆者撮影>

フリートストリートの南側から
シティー・オブ・ウェストミンスター区に属するチャンセリーレーン方面を見たところ
<筆者撮影>

フリートストリートの南側から
クリフォーズインパッセージを見たところ
<筆者撮影>


シティー・オブ・ロンドンからトラファルガースクエア(Trafalgar Square)方面へとフリートストリート(Fleet Street → 2014年9月21日付ブログで紹介済)を西へ進む。

シティー・オブ・ロンドンに属するフェッターレーン(Fetter Lane)とロンドン中心部のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)に属するチャンセリーレーン(Chancery Lane)に東西を挟まれたフリートストリートの北側の歩道から、クリフォーズインパッセージ(Clifford’s Inn Passage)と言う小道が北へと延びている。



フリートストリートの北側の歩道から
クリフォーズインパッセージへ入ったところ
<筆者撮影>

フリートストリートの北側の歩道から
クリフォーズインパッセージを中程まで進んだところ
<筆者撮影>


クリフォーズインパッセージを北進して、「クリフォーズイン」と刻まれた門を潜ると、進行方向右手にフラット「クリフォーズイン」が建っている。