2026年10月23日金曜日

ブルース・ルール作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 初仕事の探偵」(The Further Adventures of Sherlock Holmes: The Debutante Detective by Bruce Rule) - その1

英国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2026年に出版された
ブルース・ルール作
「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 初仕事の探偵」の表紙


「初仕事の探偵(The Debutante Detective)」は、米国の作家であるブルース・ルール(Bruce Rule)が、Titan Publishing Group Ltd. から、「シャーロック・ホームズの更なる冒険(The Further Adventures of Sherlock Holmes)」シリーズの一つとして、今年(2026年7月)に発表した作品である。

作者のブルース・ルールは、約40年間にわたり、米国、英国やチリ等において、報道関係の仕事に携わっており、以前にノンフィクション本を2冊出しているが、フィクション本としては、今回が初の出版となる。

現在は、米国デラウェア州(Delaware)ルイス(Lewes)に在住。


ブルース・ルール作「初仕事の探偵」の場合、1905年4月8日の午後遅く、ジョン・H・ワトスンが、久し振りにベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)を訪れるところから、物語が始まる。


英国で出版された「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」
1923年3月号に掲載された挿絵 -
1903年9月のある日曜日の晩、
ケンフォード大学(Camford University)の生理学者(physiologist)である
プレスベリー教授(Professor Presbury)のことを案じる
彼の助手であるトレヴァー・ベネット(Trevor Bennett)が、
シャーロック・ホームズの元を相談に訪れる。
画面左手前の人物が、ホームズで、
画面右手前の人物が、ジョン・H・ワトスン。
そして、画面奥の人物が、トレヴァー・ベネット。


「這う男(The Creeping Man → 2022年11月6日 / 11月18日 / 11月20日付ブログで紹介済)」事件から1年以上が経過しており、シャーロック・ホームズは、既に指紋探偵業から引退して、ロンドンを離れ、サセックス州(Sussex)のコテージで日々を過ごしていた。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1923年3月号に掲載された挿絵 -
プレスベリー教授の助手であるトレヴァー・ベネットは、
ホームズに対して、驚くべきことを告げる。
「プレスベリー教授は、這っていたんです。」と。


ワトスンがベイカーストリート221B に入ると、ハドスン夫人(Mrs. Hudson)は居らず、何故か、上の部屋には、ホームズが居た。

ホームズは、既に指紋探偵業から引退していたが、ロンドンに戻る用事がある場合に備え、ハドスン夫人に依頼して、部屋をそのままに管理してもらっていたのである。


そこへ、男装の女性が、ホームズの元を相談に訪れる。

彼女は、「自分は、リリアン・ジョンスン(Mrs. Lillian Johnson)で、アリス・リー・ルーズヴェルト(Alice Lee Roosevelt:21歳)の秘書である。」と名乗った。

アリス・リー・ルーズヴェルトは、米国の軍人 / 政治家で、第25代副大統領、そして、ウィリアム・マッキンリー大統領の暗殺に伴い、第26代大統領に就任したセオドア・ルーズヴェルト(Theodore Roosevelt:1858年ー1919年 → 2022年10月21日 / 10月26日付ブログで紹介済)の娘で、現在、ロンドンに滞在していた。


国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2010年に出版された
H・ポール・ジェファーズ(H. Paul Jeffers:1934年ー2009年)作
「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 不屈の仲間
(The Stalwart Companions → 2022年10月2日 / 10月4日 / 10月17日付ブログで紹介済)」
(1978年)の表紙(部分)に描かれているセオドア・ルーズヴェルト大統領


リリアン・ジョンスンによると、アリス・リー・ルーズヴェルトが米国の駐英大使であるチョート氏(Mr. Choate)と昼の会食をしている間、ホテルの部屋(アリス・リー・ルーズヴェルト用)に一人で居た、とのこと。

その時、部屋のドアがノックされたので、彼女はホテルの従業員だと思い、ドアを開けた。アリス・リー・ルーズヴェルトは、リリアン・ジョンスンに対して、「事前の約束がない訪問者は、 部屋に入れないこと。」と言い渡していた。

リリアン・ジョンスンがドアを開けたところ、そこには、ホテルの従業員ではなく、英国人の紳士が立っていたのである。 驚いたリリアン・ジョンスンがホテルの従業員を呼んでいる間に、ホテルの部屋のテーブルの上に置かれていたある重要な書類が紛失していたのである。 


それは、セオドア・ルーズヴェルト大統領の指示に基づいて、アリス・リー・ルーズヴェルトがロンドンに持参した日露戦争(1904年ー1905年)にかかる大日本帝国とロシア帝国の間の講和条約に関する書類だったのだ。


2026年10月22日木曜日

ロンドン サックヴィルストリート(Sackville Street)

北側のヴィーゴストリートから南側のピカデリー通りへ向かって、
サックヴィルストリートを見たところ。
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、バリントンマナーハウス(Barrington Manor)で開催されたオークションに出品された絵画の作者のうちの1人であるジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)は英国の画家で、同時代に活躍したジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャー(通称:マイク)と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン(通称:エリー)の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックスに依頼して、

キングストンビショップ村にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


1723年7月16日、サミュエル・レノルズ牧師(Reverend Samuel Reynolds)の三男(第7子)として、デヴォン州(Devon)プリンプトン(Plympton)に出生したジョシュア・レノルズは、少年の頃から絵画に興味を抱いており、1740年、英国の肖像画家で、同じデヴォン州生まれのトマス・ハドスン(Thomas Hudson:1701年ー1779年)に弟子入りして、修行を始める。


ナショナルポートレイトギャラリー(Naitional Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ジョシュア・レノルズ作「Self-Portrait(自画像)」
(1747年ー1749年頃)
<筆者撮影>


1749年5月に英国海軍の代将に任ぜられた初代ケッペル子爵オーガスタス・ケッペル(Augustus Keppel, 1st Viscount Keppel:1725年ー1786年) が、海賊対策のため、地中海へ向けて出航した際、ジョシュア・レノルズは、戦列艦「セチュリオン(HMS Centurion)」に便乗して、地中海西部のメノルカ島(Menorca)まで一緒に行き、そこからイタリアへ渡り、約2年間、ローマ(Roma)に滞在して、ルネサンスを代表するイタリアの画家であるラファエロ・サンティ(Raffaello Santi:1483年ー1520年)等の古典作品を熱心に研究した。


北側のヴィーゴストリートから始まるサックヴィルストリート
<筆者撮影>

北側のヴィーゴストリートから南側のピカデリー通りへ向かって、
サックヴィルストリートの中間辺りまでを進んで来たところ。
<筆者撮影>


約2年間のローマ滞在を終えて、1752年10月に英国に戻ったジョシュア・レノルズは、デヴォン州(Devon)で3ヶ月程過ごした後、1753年にロンドンへ出て来ると、驚くべき速さで、肖像画家としての成功を手にしていく。


ジョシュア・レノルズが住んでいたレスタースクエア47番地の建物があった場所
<筆者撮影>


売れっ子の肖像画家となったジョシュア・レノルズは、彼の作品を展示する場所や彼のアシスタント達が住む場所等を含めて、より広いスペースが必要となったため、1760年、レスターフィールズ(Leicester Fields - 現在のレスタースクエア(Leicester Square))の西側に建つレスタースクエア47番地(47 Leicester Square → 2026年10月16日付ブログで紹介済)の建物へと引っ越した。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から
シティー・オブ・ロンドン(City of London
→ 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)へ向かって東に延びる
ストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)
の中州に建つ
セントクレメントディンズ教会(St. Clement Danes)の裏手に建つ
サミュエル・ジョンスン像
Sculptor : Percy Fitzgerald / Stonebust / 1910年
<筆者撮影>


ジョシュア・レノルズは、18世紀の英国において、小説家、詩人、評論家、道徳家、文芸評論家、伝記作家、編集者、そして、辞書編纂者として多岐にわたり、英国の文学界に多大な貢献をした人物であるサミュエル・ジョンスン(Samuel Johnson:1709年ー1784年 → 2017年4月23日付ブログで紹介済)と親交を深め、1764年2月、食堂「Turks Head」(住所:ジェラルドストリート9番地(9 Gerrard Street → 2026年10月21日付ブログで紹介済))の2階(1F)に、サミュエル・ジョンスンを中心メンバーにして、「ザ・クラブ(The Club)」を創設。


サミュエル・ジョンスンを中心メンバーにして、
ジョシュア・レノルズが「ザ・クラブ」を創設した
ジェラルドストリート9番地の建物全体(左側)を見たところ。
<筆者撮影>


1783年に、食堂「Turks Head」の店主が亡くなり、店舗が売られたため、「ザ・クラブ」は、ジェラルドストリートからサックヴィルストリート(Sackville Street)へと移った。


サックヴィルストリート32番地の玄関口
<筆者撮影>

サックヴィルストリート32番地の玄関口左側の外壁に掛けられたプラーク
<筆者撮影>


サックヴィルストリートは、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街メイフェア地区(Mayfair)内に所在している。

「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ピカデリーサーカス周辺の地図を抜粋。



サックヴィルストリートは、現在、王立芸術院(Royal Academy of Arts)が入っているバーリントンハウス(Burlington House)の東側にある通りで、南北に延びており、北側のヴィーゴストリート(Vigo Street)と南側のピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)を結んでいる。


南側のピカデリー通りから北側のヴィーゴストリートへ向かって、
サックヴィルストリートを戻りつつあるところ(その1)。
<筆者撮影>


後にバース伯爵(Earl of Bath)となるウィリアム/・プルトニー(William Pulteney)による開発が1730年に始まり、1733年までに、サックヴィルストリートと左右に建ち並ぶ家屋が建設された。


南側のピカデリー通りから北側のヴィーゴストリートへ向かって、
サックヴィルストリートを戻りつつあるところ(その2)。
<筆者撮影>


なお、ジェラルドストリートからサックヴィルストリートへ移った「ザ・クラブ」の具体的な番地は不明。


2026年10月21日水曜日

ロンドン ジェラルドストリート9番地(9 Gerrard Street)

サミュエル・ジョンスンを中心メンバーにして、
ジョシュア・レノルズが「ザ・クラブ」を創設した
ジェラルドストリート9番地の建物全体(左側)を見たところ。
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、バリントンマナーハウス(Barrington Manor)で開催されたオークションに出品された絵画の作者のうちの1人であるジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)は英国の画家で、同時代に活躍したジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャー(通称:マイク)と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン(通称:エリー)の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックスに依頼して、

キングストンビショップ村にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


1723年7月16日、サミュエル・レノルズ牧師(Reverend Samuel Reynolds)の三男(第7子)として、デヴォン州(Devon)プリンプトン(Plympton)に出生したジョシュア・レノルズは、少年の頃から絵画に興味を抱いており、1740年、英国の肖像画家で、同じデヴォン州生まれのトマス・ハドスン(Thomas Hudson:1701年ー1779年)に弟子入りして、修行を始める。


バーリントンハウス(Burlington House)の中庭に建つ
王立芸術院(Royal Academy of Arts)の初代会長を務めた
ジョシュア・レノルズのブロンズ像
Sculptor : Alfred Drury / Bronze / 1931年
<筆者撮影>


1749年5月に英国海軍の代将に任ぜられた初代ケッペル子爵オーガスタス・ケッペル(Augustus Keppel, 1st Viscount Keppel:1725年ー1786年) が、海賊対策のため、地中海へ向けて出航した際、ジョシュア・レノルズは、戦列艦「セチュリオン(HMS Centurion)」に便乗して、地中海西部のメノルカ島(Menorca)まで一緒に行き、そこからイタリアへ渡り、約2年間、ローマ(Roma)に滞在して、ルネサンスを代表するイタリアの画家であるラファエロ・サンティ(Raffaello Santi:1483年ー1520年)等の古典作品を熱心に研究した。

ローマ滞在中に、ジョシュア・レノルズは、酷い風邪に罹患して、回復したものの、聴覚の一部を失ってしまう。その結果、彼は補聴器を持ち歩くようになる。


ジェラルドストリート9番地の建物(左側)を下から見上げたところ。
<筆者撮影>


約2年間のローマ滞在を終えて、1752年10月に英国に戻ったジョシュア・レノルズは、デヴォン州(Devon)で3ヶ月程過ごした後、1753年にロンドンへ出て来ると、驚くべき速さで、肖像画家としての成功を手にしていく。

売れっ子の肖像画家となったジョシュア・レノルズは、彼の作品を展示する場所や彼のアシスタント達が住む場所等を含めて、より広いスペースが必要となったため、1760年、レスターフィールズ(Leicester Fields - 現在のレスタースクエア(Leicester Square))の西側に建つレスタースクエア47番地(47 Leicester Square → 2026年10月16日付ブログで紹介済)の建物へと引っ越した。

多忙となり、滅多に休みをとれないジョシュア・レノルズは、肖像画のモデルの衣服については、ジュゼッペ・フィリッポ・リベラティ・マルチ(Giuseppe Filippo Liberati Marchi:1735年ー1808年)を初めとするアシスタント達に任せるようになる。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から
シティー・オブ・ロンドン(City of London
→ 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)へ向かって東に延びる
ストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)
の中州に建つ
セントクレメントディンズ教会(St. Clement Danes)の裏手に建つ
サミュエル・ジョンスン像
Sculptor : Percy Fitzgerald / Stonebust / 1910年
<筆者撮影>


ジョシュア・レノルズは、18世紀の英国において、小説家、詩人、評論家、道徳家、文芸評論家、伝記作家、編集者、そして、辞書編纂者として多岐にわたり、英国の文学界に多大な貢献をした人物であるサミュエル・ジョンスン(Samuel Johnson:1709年ー1784年 → 2017年4月23日付ブログで紹介済)と親交を深め、1764年2月、食堂「Turks Head」(住所:ジェラルドストリート9番地(9 Gerrard Street))の2階(1F)に、サミュエル・ジョンスンを中心メンバーにして、「ザ・クラブ(The Club)」を創設。そして、毎週月曜日の夜7時に集まり、夜が更けるまで、議論を交わした。最終的に、「ザ・クラブ」のメンバーは、35人までになった。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ソーホー地区の地図を抜粋。-
ジェラルドストリートは、シャフツベリーアヴェニューの南側に、
シャフツベリーアヴェニューに並行して、東西に延びる通りで、
東側のジェラルドプレイスと西側のウォーダーストリートを結んでいる。



ジェラルドストリート9番地は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)ソーホー地区(Soho)内に所在している。



シャフツベリーアヴェニューから左手奥に入ると、
中華街(チャイナタウン)がある。
<筆者撮影>


ジェラルドストリートは、シャフツベリーアヴェニュー(Shaftesbury Avenue → 2016年5月15日付ブログで紹介済)の南側に、シャフツベリーアヴェニューに並行して、東西に延びる通りで、東側のジェラルドプレイス(Gerrard Place)と西側のウォーダーストリート(Wardour Street)を結んでいる。


南側のウォーダーストリートからジェラルドストリートへと入るところ。
<筆者撮影>

ジェラルドストリートを西側から東側へと進んでいるところ。
<筆者撮影>


現在、ジェラルドストリートの両側には、中華料理店が建ち並び、中華街(Chinatown)と化している。


ジェラルドストリートの外壁に掛かっているプラークを見上げたところ。
<筆者撮影>


ジェラルドストリート9番地は、東側のジェラルドプレイス寄りのジェラルドストリートの北側に建っていて、現在、中華系のスーパーマーケットが入居して、営業している。


ジェラルドストリートの外壁に掛かっているプラークの拡大写真。
<筆者撮影>


ジェラルドストリート9番地の建物の1階(GF)と2階(1F)の間の外壁に、「Here in the former Turk’s Head Tavern Dr. SAMUEL JOHNSON & JOSHUA REYNOLDS founded The Club in 1764」と記した Westminster City Council のプラークが架けられている。 


2026年10月20日火曜日

エセル・リナ・ホワイト作「消えた女性」<小説版>(The Lady Vanishes by Ethel Lina White )- その1

2024年に英国の Pushkin Press 社から出版された
エセル・リナ・ホワイト作「消えた女性」のペーパーバック版の表紙
(Cover design by Jo Walker / Photo by SSPL + Getty Images /
Photo by Found Image Holdings + Corbis via Getty Images) 


英国ウェールズ地方(Wales)モンマスシャー(Monmouthshire)生まれの女性推理作家で、1930ー1940年代を代表する推理作家の一人と言われているエセル・リナ・ホワイト(Ethel Lina White:1876年ー1944年)が1933年に発表した長編第6作目に該る「誰かが見ている(Some Must Watch → 2020年6月7日付ブログで紹介済)」は、英国の出版社であるプーシキンプレス社(Pushkin Press)から、「螺旋階段(The Spiral Staircase → 2026年10月9日 / 10月19日付ブログで紹介済)」と言うタイトルで、2025年に出版されている。

本作品は、彼女の代表作の一つで、ドイツ人のロバート・シオドマク監督(Robert Siodmak:1900年ー1973年)により、1946年に「螺旋階段(The Spiral Staircase)」と言うタイトルで、米国で映画化されている。

2025年にプーシキンプレス社から出た版は、ロバート・シオドマク監督により映画化された際のタイトルに準拠している。


エセル・リナ・ホワイトが1936年に発表した長編第9作目に該る「車輪の空転(The Wheel Spins)」が、英国の出版社であるプーシキンプレス社(Pushkin Press)から、「消えた女性(The Lady Vanishes)」と言うタイトルで、2024年に出版されているので、今回、紹介したい。

本作品も、彼女の代表作の一つで、英国人で、「サイコ」、「鳥」や「レベッカ」等で有名なアルフレッド・ジョーゼフ・ヒッチコック監督(Alfred Joseph Hitchcock:1899年ー1980年)がにより、1938年に「バルカン超特急(The Lady Vanishes)」と言うタイトルで、英国で映画化されている。

2024年にプーシキンプレス社から出た版は、アルフレッド・ヒッチコック監督により映画化された際のタイトルに準拠している。


「消えた女性」の場合、社交界の名士(名花)であるアイリス・カー(Iris Carr)が、欧州大陸で夏の休暇を過ごした後、アドリア海に臨むイタリア北東部の港市トリエステ(Trieste)から英国へ戻るところから、物語が始まる。


駅のプラットフォームにおいて、2人の男性が裁判の証人のことで議論しているのを見ていたアイリス・カーは、突然、気を失ってしまう。

暫くして気が付くと、彼女は、待合室のベンチで横になっていた。スーツケースと帽子は近くにあったが、お金、切符やパスポート等が入った鞄が手元になかった。

周囲で見守っていたポーターが、彼女に鞄を手渡す。幸いにして、鞄の中に、お金、切符やパスポート等は入っていた。ホテルの領収書も、一緒に入っていた。


アイリス・カーは、鞄の中から取り出した切符をポーターに見せると、ポーターは、彼女の手をとり、プラットフォームへ向かって、 駆け出す。

そして、ポーターは、 動き出した列車の一番近い車輌のドアを開けると、アイリス・カーのスーツケースを車輌内へ放り込んだ後、乗客の女性の手助けを得て、アイリス・カーもなんとか車輌に無事乗せることができた。


アイリス・カーがなんとか列車に乗ることを手助けした乗客の女性は、英国人の教師(English governess)であるウィニフレッド・フォイ(Winifred Foy - 愛称:ウィニー(Winnie))で、休暇のため、英国へと戻る途中だった。

ウィニフレッド・フォイは、落ち着いたアイリス・カーを、食堂車でのお茶へと誘う。


2026年10月19日月曜日

エセル・リナ・ホワイト作「螺旋階段」<小説版>(The Spiral Staircase by Ethel Lina White )- その2

2025年に英国の Pushkin Press 社から出版された
エセル・リナ・ホワイト作「螺旋階段」のペーパーバック版の裏表紙
(Cover design by Jo Walker
) 


英国ウェールズ地方(Wales)モンマスシャー(Monmouthshire)生まれの女性推理作家で、1930ー1940年代を代表する推理作家の一人と言われているエセル・リナ・ホワイト(Ethel Lina White:1876年ー1944年)が1933年に発表した長編第6作目に該る「螺旋階段(The Spiral Staircase - 原題:誰かが見ている(Some Must Watch → 2020年6月7日付ブログで紹介済))」の場合、イングランドとウェールズの境界、何もない荒涼とした田園地帯に建つ「サミット邸(The Summit)」が、物語の舞台となる。サミット邸は、一番近い町から22マイル(約36㎞)、一番近い村からは12マイル(約20㎞)離れた辺鄙で、不便な場所に所在していた。


一風変わったウォーレン(Warren)一家が住むこの屋敷に、女主人の世話役として雇われたヘレン・カペル(Helen Capel:23歳)は、不吉な予感に震えていた。

何故ならば、近隣の町や村で、若い女性4人が連続して、何者かに殺害されているのだ。最初の2人は町(パブの外の通りや庭)で、3人目は村(パブの屋内)で殺されたのだが、サミット邸からはまだ離れた世界の話である。ところが、4人目はサミット邸から僅か5マイル(約8㎞)しか離れていない一軒家の中で絞殺されたのである。

つまり、若い女性ばかりを殺害している犯人は、少しずつサミット邸へと近づいて来ているのであった。次に殺人鬼に狙われるのは、自分かもしれない。何故か、ヘレンは、そう感じていた。


雷鳴が近づくある夕暮れ、散歩に出かけたヘレンは、サミット邸に戻ろうとしていた。雨と風が激しくなりつつある中、正門からサミット邸の玄関へと向かうヘレンは、ある樹木の幹が2つに分かれるのを目撃した。それは、つまり、謎の男が樹木の幹の後ろから出て来て、暗闇の中へと姿を消したのである。


英国の Arcturus Publishing Limited から
 Crime Classics シリーズの一つとして出版されている
エセル・リナ・ホワイト作「誰かが見ている」の表紙 –
「激しくなる嵐の夜、サミット邸内の階段に佇み、
恐怖に震えるヘレンに忍び寄る連続殺人鬼の影」という感じで、
物語のハイライト場面の雰囲気を非常にうまく伝えている。
ただし、厳密に言うと、ヘレンが着ている服の色は、
赤色ではなく、青色が正当である。


嵐が激しくなる夜、サミット邸に居るのは、ヘレンの他には、


(1)レディーウォーレン(Lady Warren):寝たきりの老齢の女主人

(2)セバスチャン・ウォーレン教授(Professor Sebastian Warren):女主人の義理の息子で、妻を早くに亡くしている。

(3)ブランシェ・ウォーレン(Miss Blanche Warren):ウォーレン教授の妹

(4)ニュートン・ウォーレン(Newton Warren):ウォーレン教授の息子

(5)シモーネ・ウォーレン(Simone Warren):ニュートンの妻で、スティーヴン・ライスに対して、色目を使っている。

(6)スティーヴン・ライス(Stephen Rice - 愛称:スティーヴ(Steve)):サミット邸に居ついているウォーレン教授の学生で、教授から Indian Civil Service を学んでいる。また、オットー(Otto)と名付けた犬を部屋で飼っている。

(7)バーカー(Nurse Barker):レディーウォーレンを担当する新任の看護婦

(8)オーテス夫妻(Mr. & Mrs. Oates):サミット邸の家事全般をとりしきる執事と家政婦

(9)パリー(Dr. Parry):レディーウォーレンを担当する若き医師(ウェールズ人)


の10人。


丁度そこに、パブ「ザ・ブル(The Bull)」のオーナーであるウィリアムズ(Williams)からパリー医師宛に電話がある。

以前、サミット邸で働いていた女性セリドウェン・オーウェン(Ceridwen Owen)の死体が見つかったのである。近所に住むビーン大尉(Captain Bean)が市場から自宅に戻った際、ドアの鍵を開けようと、鍵穴をよく見るために、マッチを擦ったところ、庭の隅に彼女の死体が横たわっているのを発見したのだ。

遂に、連続殺人鬼の魔の手が、サミット邸の近くまで達したと言える。


パリー医師は、死体を調べるために、オーテス氏は、レディーウォーレン用の酸素ボンベを調達するために、それぞれ、嵐の中、サミット邸を出て行く。更には、ニュートン・ウォーレン、シモーネ・ウォーレンとスティーヴン・ライスの間で、痴話喧嘩が発生し、スティーヴン、シモーネ、そして、ニュートンの順に、サミット邸を出て行ってしまう。


サミット邸からどんどん人が居なくなるにつれて、ヘレン・カペルは、ひたひたと忍び寄る連続殺人鬼の影に怯えるのであった。遂には、男性のように体格がよいバーカー看護婦に対して、ヘレンは疑惑の目を向けるようになる。


この非常事態の下、ウォーレン教授は、翌朝までサミット邸を内側から封鎖するよう、指示を下す。しかし、実際には、ヘレンが恐れるよりもずっと近くに、連続殺人鬼はその姿を隠していたのである。


そして、最後、連続殺人鬼が、遂にヘレンの前にその姿を現すのである。


2026年10月18日日曜日

<第2300回> ジョシュア・レノルズ(Joshua Reynolds)- その5

バーリントンハウスの中庭に建つ
王立芸術院の初代会長を務めたジョシュア・レノルズのブロンズ像(その1)
Sculptor : Alfred Drury / Bronze / 1931年
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、バリントンマナーハウス(Barrington Manor)で開催されたオークションに出品された絵画の作者のうちの1人であるジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)は英国の画家で、同時代に活躍したジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャー(通称:マイク)と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン(通称:エリー)の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックスに依頼して、

キングストンビショップ村にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ロンドンには、共同で展覧会を開催するための芸術家の団体として、大英芸術家協会(Society of Artists of Great Britain)が1760年に設立され、当初、ジョシュア・レノルズは、同協会の創設メンバーの一人だった。

大英芸術家協会は、1760年4月に最初の展覧会を開催し、1765年にハノーヴァー朝の第3代国王であるジョージ3世(George III:1683年ー1820年 在位期間:1760年ー1820年)の勅許を受け、同年、会員数は211人に達する。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ハノーヴァー朝の第3代英国王であるジョージ3世の肖像画
(By the studio of Allan Ramsay / Oil on canvas /
based on a portrait of 1761 - 1762)
<筆者撮影>


ところが、1767年に入ると、会員のうち、有力な建築家であるジェイムズ・ペイン(James Paine:1717年ー1789年)とサー・ウィリアム・チェンバーズ(Sir William Chambers:1723年ー1796年)の間で派閥争いが勃発したことに伴い、サー・ウィリアム・チェンバーズやジョシュア・レノルズ達は、大英芸術家協会を脱退。

彼らは、新しい芸術家の団体として、王立芸術院(Royal Academy of Arts)を1768年に設立して、ジョシュア・レノルズが初代会長に選任され、1792年に亡くなるまで、会長職を務めた。


バーリントンハウスの中庭に建つ
王立芸術院の初代会長を務めたジョシュア・レノルズのブロンズ像(その2)
<筆者撮影>


1768年12月10日にジョージ3世が署名した王立芸術院設立に関する協定書(instrument of foundation)上、会員総数は40名と定められていたが、実際には、34名が創設会員に名を連ねた。トマス・ゲインズバラも、その一人である。

1769年に、2人が会員に追加され、総勢出36名となった。


バーリントンハウスの中庭に建つ
王立芸術院の初代会長を務めたジョシュア・レノルズのブロンズ像(その3)
<筆者撮影>


王立芸術院は、全ての芸術家に対して門戸を開くことを旨として、1769年4月25日から同年5月27日まで、最初の展覧会を開催。

この展覧会は、「王立芸術院サマーエキシビション(RA Summer Exhibition)」として、一般に認知されるようになり、現在も、毎年開催されている。


バーリントンハウス内の中庭 -
反対側に見える建物に、王立芸術院が入居している。
<筆者撮影>


王立芸術院は、創立当初から、いくつか場所を点々としたが、現在は、英国政府が所有しているバーリントンハウス(Burlington House)に本拠地を構えている。

また、バーリントンハウスの中庭には、王立芸術院の初代会長を務めたジョシュア・レノルズのブロンズ像が建っている。



ナショナルギャラリーの建物正面を下から見上げたところ 
<筆者撮影>


テイト・ブリテン美術館の建物正面を階段下から見上げたところ 
<筆者撮影>


このように、王立芸術院は、ナショナルギャラリー(National Gallery)やテイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)に匹敵する存在として、現在も存続しているが、一方、サー・ウィリアム・チェンバーズやジョシュア・レノルズ達が脱退してしまった大英芸術家協会は、1791年まで展覧会を開催した後、解散の憂き目に遭っている。