2026年8月15日土曜日

ロンドン グローヴナースクエア22番地(22 Grosvenor Square)

グローヴナースクエアから北へ延びる
ノースオードリーストリート(North Audley Street)の対岸から見た
グローヴナースクエア22番地の建物全景
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年 → 2026年5月16日 / 5月21日 / 5月26日 / 5月31日付ブログで紹介済)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャース
(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村(Kingston Bishop)にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作の自画像(Self-portrait)(1784年)
<筆者撮影>


そのジョージ・ロムニーに多大な芸術的霊感を与えてくれる女神(muse)とも言える存在となったエマ・ハート(Emma Hart:1765年ー1815年)は、英国の絵画モデル / 舞踏家 / 女優である。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作のエマ・ハートの肖像画(1785年頃)
<筆者撮影>


英国の外交官で、ナポリ公使として駐在していたサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton:1730年ー1803年)の愛人を経て、1791年9月6日の結婚後、彼の正式な妻、即ち、ナポリ公使夫人となったレディー・エマ・ハミルトンは、1793年9月の初対面の5年後の1798年9月に再会した後に英国海軍提督となる初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)と恋愛関係になる。

前述の通り、エマ・ハミルトンは、1791年にサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンと結婚して、ナポリ公使夫人と言う立場にあり、また、ホレーショ・ネルソンも、1787年にフランシス・ハーバート・ウールワード(Frances Herbert Woolward:1758年ー1831年)と結婚していたため、2人とも不倫だった訳である。

2人の不倫関係は、何故か、周囲から寛大に見られており、エマ・ハミルトンの夫であるサー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンも、そうであった。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとしては、ホレーショ・ネルソンを英国にとって必要不可欠な人物であると見做して、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を黙認する一方、ホレーショ・ネルソンとの友情関係も維持していた、とのこと。

ただ、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、ナポリから本国である英国へと伝わり、新聞報道を経て、公となってしまった。


ナショナルポートレイトギャラリーに所蔵 / 展示されている
Sir William Beechey 作のホレーショ・ネルソンの肖像画(1800年)
<筆者撮影>


ホレーショ・ネルソンの英国への召喚と時を同じくして、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンもナポリ公使の任を解かれた。

エマ・ハミルトンは、少なくとも、1800年4月の時点で、ホレーショ・ネルソンの子を懐妊していたと推測される。

エマ・ハミルトンは、母メアリー・キッド(Mary Kidd)、夫サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンや愛人ホレーショ・ネルソンと一緒に、中央ヨーロッパ経由で、1800年11月6日に英国へ帰国。

妊娠しているエマ・ハミルトンを見たホレーショ・ネルソンの妻フランシス・ハーバート・ウールワードは、不快な表情を見せたため、これがまた新聞の恰好なネタとなり、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係は、再度世間を騒がせた。サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとは異なり、フランシス・ハーバート・ウールワードは、エマ・ハミルトンとホレーショ・ネルソンの不倫関係を最後まで認めなかった。


グローヴナースクエアから北へ延びる
ノースオードリーストリート(North Audley Street)の対岸から見た
グローヴナースクエア22番地の建物外壁
<筆者撮影>


英国への帰国後、サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトンとエマ・ハミルトンは、グローヴナースクエア22番地(22 Grosvenor Square)にある英国の作家 / 政治家であるウィリアム・トマス・ベックフォード(William Thomas Beckford:1760年ー1844年)の邸宅へ一旦入居。

「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
メイフェア地区の地図を抜粋。



ウィリアム・トマス・ベックフォードの邸宅があったロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級住宅街メイフェア地区(Mayfair)内に所在している。


グローヴナースクエアから西へ延びる
アッパーブルックストリートの対岸から見た
グローヴナースクエア22番地の建物全景
<筆者撮影>


グローヴナースクエア22番地は、グローヴナースクエア(Grosvenor Square → 2015年2月22日付ブログで紹介済)の北西の角に位置している。

同建物には、現在、「The Twenty Two Restaurant」と言うモダンヨーロッパ料理店が入居、営業中。


米国大使館からホテルへと改装された
「The Chancery Rosewood」の外観(その1)-
画面右下に建っているのは、
共和党出身の第34代米国大統領ドワイト・ディヴィッド・アイゼンハワー
(Dwight David Eisenhower:1890年ー1969年)のブロンズ像。
<筆者撮影>

アッパーブルックストリート(Upper Brook Street)を間に挟んで、グローヴナースクエア22番地の反対側には、米国政府が1960年に建設した米国大使館(United States Embassy)の建物があったが、2008年に入り、米国政府は同大使館(United States Embassy)をグローヴナースクエアからテムズ河(River Thames)南岸にあるワンズワース区(London Borough of Wandsworth)のナインエルムズ地区(Nine Elms → 2017年12月30日 / 2018年1月6日付ブログで紹介済)へ移転させる方針を発表。

一方、2009年10月に、イングランド内にある城や邸宅等の保存を目的とするイングリッシュヘリテージ(English Heritage)の推奨を受けて、米国大使館が入居していた建物は「グレードⅡ(Grade Ⅱ)」の認定を受けたことに伴い、法令上、建物の所有者は建物の外観を変更することが許されなくなった。現在の建物を建て替える場合、外観についてはそのまま残して、建物の内部のみが建替え可能となった。建物の正面屋上に鷲の像が設置されているが、建替えの際には、これも撤去できなくなった。


米国大使館からホテルへと改装された
「The Chancery Rosewood」の外観(その2)
<筆者撮影>


2009年11月に、米国大使館が入居していた建物は、カタール系投資グループに売却され、米国大使館の移転後、建物の外観をそのまま残して、内部をホテルに改装。近年、「The Chancery Rosewood」と言う5つ星ホテルが正式にオープンした。


再オープン前のグローヴナースクエアの内部(その1)
<筆者撮影>

再オープン前のグローヴナースクエアの内部(その2)
<筆者撮影>

また、米国大使館からホテルへの改装に合わせて、前にあるグローヴナースクエアも、シティー・オブ・ウェストミンスター区による改修が行われて、最近、再オープンしている。


2026年8月14日金曜日

ロンドン パークヒルロード11A番地(11A Parkhill Road)- その1

20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーアが
1929年から住み始めた「
パークヒルロード11A番地」の建物外観(その1)
<筆者撮影>


英国の芸術家 / 彫刻家で、英国コンウォール州(Cornwall)にあるセントアイヴス(St. Ives)に住む芸術家のコミュニティーにおいて、主導的な役割を果たした人物であるジョスリン・バーバラ・ヘップワース(JocelynBarbara Hepworth:1903年ー1975年 → 2024年10月1日 / 10月31日 / 11月2日付ブログで紹介済)は、1925年に英国の彫刻家であるジョン・ラッテンベリー・スキーピング(John Rattenbury Skeaping:1901年ー1980年)と結婚していたが、1931年に英国の抽象画家であるベンジャミン・ローダー・ニコルスン(Benjamin Lauder Nicholson:1894年ー1982年)と出会い、不倫関係となるものの、ジョン・ラッテンベリー・スキーピングとの婚姻関係はそのまま維持。


Portrait of Barbara Hepworth by Paul Laib (1869 - 1958)
1933年 / Vintage gelation silver print


Portrait of Ben Nicholson by Paul Laib (1869 - 1958)
1933年 / Vintage gelation silver print


その2年後の1933年に、彼女は、ジョン・ラッテンベリー・スキーピングに対して、離婚を申し出て、同年3月に離婚。

当時、ベンジャミン・ローダー・ニコルスンは、英国の画家であるローザ・ウィニフレッド・ニコルスン(Rosa Winifred Nicholson:1893年ー1981年)と婚姻関係にあったが、1938年に離婚が成立。

その結果、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、1938年11月17日、ロンドンの北西部にあるハムステッド登記所(Hampstead Register Office)において、ベンジャミン・ローダー・ニコルスンと結婚した。


英国の芸術家 / 彫刻家であるジョスリン・バーバラ・ヘップワースと
英国の抽象画家であるベンジャミン・ローダー・ニコルスンの2人が使用していた
モールステュディオズ」のうち、7番目のアトリエは、
画面奥の右手に建っている。
<筆者撮影>


ジョスリン・バーバラ・ヘップワースとベンジャミン・ローダー・ニコルスンの2人は、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)ハムステッド地区(Hampstead → 2018年8月26日付ブログで紹介済)内のタスカーロード(Tasker Road)近くに所在する「モールステュディオズ(Mall Studios → 2026年8月8日付ブログで紹介済)」と呼ばれるアトリエを使用していた。


ロンドンの特別区の一つであるワンズワース区(London Borough of Wandsworth)
バタシー地区(Battersea)の
バタシーパーク(Battersea Park → 2016年7月10日付ブログで紹介済)
内に設置されている
ヘンリー・スペンサー・ムーア作彫刻
「Three Standing Figures(→ 2026年5月11日付ブログで紹介済)」を正面から見たところ
<筆者撮影>


20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーア(Henry Spencer Moore:1898年ー1986年)は、1898年7月30日、ヨークシャー州(Yorkshire)カッスルフォード(Castleford)に、父レイモンド・スペンサー・ムーア(Raymond Spencer Moore)と母メアリー・ベイカー(Mary Baker)の8人のの子供の7人目として出生。

父親のレイモンド・スペンサー・ムーアは、カッスルフォードのウェルデイル炭鉱(Wheldale colliery)において、炭鉱夫として働いており、その後、下級のマネージャー、そして、鉱山技師になった。

長じて、1919年にリーズ美術学校(Leeds School of Art)へ入学したヘンリー・スペンサー・ムーアは、そこでジョスリン・バーバラ・ヘップワースと出会い、長年にわたる友人となる。


20世紀の英国を代表する芸術家 / 彫刻家であるヘンリー・スペンサー・ムーアが
1929年から住み始めた「
パークヒルロード11A番地」の建物外観(その2)
<筆者撮影>


1929年7月19日にポーランド系ロシア人のイリーナ・ラデツキー(Irina Radetsky)と結婚したヘンリー・スペンサー・ムーアは、カムデン区ハムステッド地区に移り住んだ際、ジョスリン・バーバラ・ヘップワースも、ベンジャミン・ローダー・ニコルスンと一緒に、ハムステッド地区へ引っ越して来て、そこを根城に前衛的な芸術活動を始めている。


地下鉄ベルサイズパーク駅の周辺地図(Google Maps から抜粋)-
画面右上の赤い矢印部分に、
ジョスリン・バーバラ・ヘップワース夫のベンジャミン・ローダー・ニコルスンがアトリエとして使用していたモールステュディオズ」が所在している。
また、画面右下の「Henry Moore Blue Plaque」と紫色で表示されている部分に、
ヘンリー・スペンサー・ムーアが、妻のイリーナ・ラデツキーと一緒に、1929年に移り住んだ
パークヒルロード11A番地」が所在している。



ヘンリー・スペンサー・ムーアが、妻のイリーナ・ラデツキーと一緒に、1929年に移り住んだ家が「パークヒルロード11A番地(11A Parkhill Road)」で、ジョスリン・バーバラ・ヘップワース夫のベンジャミン・ローダー・ニコルスンがアトリエとして使用していた「モールステュディオズ」から徒歩で5分程度の範囲内に所在している。 


        

2026年8月13日木曜日

ロンドン キングストリート18番地 / オークハウス(Oak House / 18 King Street)- その2

キングストリート18番地に建つ「オークハウス」(その3)
<筆者撮影>

アガサ・クリスティー作「スペイン櫃の謎(The Mystery of the Spanish Chest)」は、短編集「クリスマスプディングの冒険(The Adventure of the Christmas Pudding)」(1960年)に収録されている一編である。


英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作短編集「クリスマスプディングの冒険」の
ペーパーバック版の表紙 -
中編「スペイン櫃の謎」が収録されている。


英国のTV会社 ITV1 で放映されたエルキュール・ポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の第3シリーズ / 第27話「スペイン櫃の謎」(放送日:1991年2月17日)において、クレイトン夫妻(Mr. and Mrs. Clayton)の家はルーメインガーデンズ(Roumaine Gardens - 架空の場所)にあると言う設定になっているが、実際には、ロンドンの特別区の一つで、ロンドン南西部郊外のリッチモンド・アポン・テムズ区(London Borough of Richmond upon Thames)のリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)内に所在するリッチモンドグリーン(Richmond Green → 2026年7月24日付ブログで紹介済)と呼ばれる大きな緑地帯の南側、南北に延びるオールドパレステラス通り(Old Palace Terrace)と東西に延びるキングストリート(King Street)が交差する場所に建つキングストリート18番地(18 King Street)の「オークハウス(Oak House)」の外観が、撮影に使用されている。


キングストリート18番地に建つ「オークハウス」(その4)-
画面中央奥の建物が「オークハウス」。
<筆者撮影>


なお、アガサ・クリスティーの原作上、クレイトン夫妻の家は、スローンストリート(Sloane Street)近くのカーディガンガーデンズ(Cardigan Gardens - 架空の場所)にあると言及されている。


リッチモンドの周辺地図(Google Maps から抜粋)-
画面中央から左側にある大きな緑地帯が「リッチモンドグリーン」で、
その北側にある小さな緑地帯が「リトルグリーン」。


キューガーデンズ(Kew Gardens)が所在する北方面からキューロード(Kew Road)を南下すると、リッチモンド駅(Richmond Station)の前を過ぎた辺りで、キューロードはザ・クワドラント通り(The Quadrant)へと名前を変える。

ザ・クワドラント通りの右手奥に、リトルグリーン(Little Green)と呼ばれる小さな緑地帯とリッチモンドグリーンがあるものの、ザ・クワドラント通りから右折して行くことができない。

そのため、イートンストリート(Eton Street)、パラダイスロード(Paradise Road)、そして、キングストリート(King Street)へと進み、環状交差点(roundabout)を回り込んでいくと、リッチモンドグリーンへ到達できる。


「オークハウス」の前から
キングストリート(東方面)を見たところ
<筆者撮影>


「オークハウス」の前から
オールドパレスプレイス通り(西方面)を見たところ
<筆者撮影>


キングストリートを進むと、進行方向右手からオールドパレステラス通り(Old Palace Terrace)が延びてくるが、キングストリートがオールドパレステラス通りと交差した地点の進行方向左手が、キングストリート18番地で、
「オークハウス」が建っている。


リッチモンド内のリッチモンドグリーン南側の地図(Google Maps から抜粋)-
ピンク色の蛍光ペンで囲った建物が、キングストリート18番地に建つ「オークハウス」。


外から見る限り、「オークハウス」は普通の住居で、現在も使用されているものの、特に歴史的な建物ではないように思える。

TV 版のポワロシリーズの場合、全作品の時代設定を第一次世界大戦(1914年ー1918年)と第二次世界大戦(1939年ー1945年)の間に置いており、当時流行したアールデコ様式の建築物、内装や小物等が画面にしばしば登場する。

従って、「スペイン櫃の謎」の撮影時に、「オークハウス」がクレイトン夫妻の家の外観として使用された理由が不明である。


2026年8月12日水曜日

ロンドン 地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station)- その1

地下鉄ピカデリーサーカス駅の
ピカデリーラインが停まるプラットフォームの壁にある駅表示
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の長編第2作目で、かつ、トマス・ベレズフォード(Thomas Beresford - 愛称:トミー(Tommy))とプルーデンス・カウリー(Prudence Cowley - 愛称:タペンス(Tuppence))の記念すべきシリーズ第1作目に該る「秘密機関(The Secret Adversary → 2025年7月20日 / 10月1日付ブログで紹介済)」(1922年)は、英国の海運会社であるキュナードライン(Cunard Line)が所有する当時世界最大の旅客船で、米国ニューヨーク(New York)から英国リヴァプール(Liverpool)へと向かっていたルシタニア号(RMS Lusitania → 2025年7月22日 / 7月23日付ブログで紹介済)が、1915年5月7日の午後2時、アイルランド(Ireland)沖15㎞ の地点で、ドイツ帝国海軍(Imperial Germany Navy)の潜水艦 Uボート(U-boat)から2発の魚雷攻撃を受けて、沈没したところから、その物語が始まる。


2015年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「秘密機関」の
ペーパーバック版の表紙
(Cover design : 
HarperCollinsPublishers Ltd. /
Agatha Christie Ltd. 2015
)


第一次世界大戦(1914年ー1918年)が終わり、世界が復興へと向かう中、ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅(Dover Street Tube Station → 2025年7月30日 / 8月5日付ブログで紹介済)のドーヴァーストリート(Dover Street → 2025年7月28日 / 7月29日付ブログで紹介済)出口において、昔馴染みのトミーとタペンスは、偶然出くわした。


HarperCollins Publishers 社から2008年に出ている
アガサ・クリスティー作「秘密機関」のグラフィックノベル版
(→ 2023年8月1日 / 8月14日 / 8月16日 / 8月21日付ブログで紹介済)
-
第一次世界大戦後、タペンスこと、プルーデンス・カウリーと
トミーこと、トマス・ベレズフォードの2人は、
ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅のドーヴァーストリート出口において、数年ぶりに再会する。


二人は、お互いに戦後の就職難に悩まされていた。トミーの方は、大戦中の1916年に負傷しており、一方、タペンスの方は、大戦中ずーっと、ボランティアとして、様々な形で働いていたのである。

久々の再会を果たしたトミーとタペンスの2人は、自分達で「青年冒険家商会(The Young Adventurers, Ltd.)」を設立して、報酬を獲得するべく、話し合った。


ロンドンの地下鉄ドーヴァーストリート駅のドーヴァーストリート出口があった
ドーヴァーストリート5−7番地(5-7 Dover Street)の建物外観
<筆者撮影>


Tommy was holding the paper thoughtfully. His face burned a deeper red.

‘Shall we really try it?’ He said at last. ‘Shall we, Tuppence? Just for the fun of the thing?’

’Tommy, you’re a sport! I knew you would be! Let’s drink to success.’ She poured some cold dregs of tea into the two cups.

‘Here’s to our joint venture, and may it prosper!’

‘The Young Adventurers, Ltd.!’ responded Tommy.

They put down the cups and laughed rather uncertainly. Tuppence rose.

‘I must return to my palatial suite at the hostel.’

‘Perhaps it is time I strolled round to the Ritz,’ agreed Tommy with a grin. ‘Where shall we meet? And when?’

‘Twelve o’clock tomorrow. Piccadilly Tube station. Will that suit you?’

‘My time is my own,’ replied Mr Beresford magnificently. 

‘So long, then.’

‘Goodbye, old thing.’ 


地下鉄ピカデリーサーカス駅のピカデリーラインが停まるプラットフォームへ
車輌が入って来たところ
<筆者撮影>


トミーは広告文を書いた紙をじっと見つめ、顔を真っ赤にした。

「やってみようか?」ついに言った。「ためしにやってみよう、タペンス」

「トミー、あなたならそう言うと思ったわ。じゃあ、成功を祈って乾杯しましょ」タペンスが二つのカップに冷めた紅茶を注いだ。

「わたしたちの ジョイント・ベンチャーが成功しますように」

「ヤング・アドベンチャラーズに」トミーも応じた。

二人はカップを置くと、ためらいがちに笑った。タペンスが椅子から立ちあがった。

「そろそろユースホステルの”豪華な”部屋に戻らないと」

「それじゃ、ぼくはリッツ・ホテルの前で金持ちを捜そうかな」トミーはニヤリとした。

「こんどはどこで会おうか?いつにする?」

「明日の十二時、地下鉄のピカデリー駅はどう?」

「いいとも」トミーは元気よくうなずいた。

「それじゃ、また」

「ああ、また明日」

(嵯峨 静江訳)


ピカデリー通りの反対側から、リッツ ロンドンの建物外壁を見上げたところ
<筆者撮影>


タペンスと別れた後、トミーが立ち寄ろうとした「リッツ・ホテル」とは、ロンドン中心部のピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)沿いで、グリーンパーク(Green Park)に面して建つ高級ホテルの「リッツ ロンドン(The Ritz London → 2025年7月2日 / 7月14日付ブログで紹介済)」のことである。


招待客が兵隊島に到着した日の晩餐会において、
謎の声(オーウェン氏)による告発により、招待客8人と執事 / 料理人夫婦が戦慄する場面
(HarperCollins Publishers 社から2009年に出ている
アガサ・クリスティー作「そして誰もいなくなった」のグラフィックノベル版
(→ 2020年9月13日付ブログで紹介済)から抜粋)


アガサ・クリスティーが1939年に発表したノンシリーズ作品「そして誰もいなくなった(And Then There Were None)」において、1930年代後半の8月、英国デヴォン州(Devon)の沖合いに浮かぶ兵隊島(Soldier Island)に、年齢も職業も異なる8人の男女が招かれるところから、物語が始まる。

彼らを島で迎えた執事のトマス・ロジャーズ(Thomas Rogers)と料理人のエセル・ロジャーズ(Ethel Rogers)の夫婦は、エリック・ノーマン・オーウェン氏(Mr. Ulick Norman Owen)とユナ・ナンシー・オーウェン夫人(Mrs. Una Nancy Owen)に自分達は雇われていると招待客に告げる。しかし、彼らの招待主で、この島の所有者であるオーウェン夫妻は、いつまで待っても、姿を現さないままだった。

雇い主のオーウェン氏からロジャーズ夫妻宛に雇用にかかる手紙が出されたのが、リッツ ロンドンからだった。


ピカデリー通りの同じ側から、リッツ ロンドンの建物外壁を見上げたところ
<筆者撮影>


リッツ ロンドンの開業は、1906年5月24日で、開業後、約120年が経っている。

リッツ ロンドンは、ピカデリーライン(Piccadilly Line)、ジュビリーライン(Jubilee Line)とヴィクトリアライン(Victoria Line)の3線が乗り入れる地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station → 2025年7月30日付ブログで紹介済)の直ぐ真横に建っており、徒歩1分と言う利便性を誇る。

また、トミーとタペンスが数年ぶりに再会したドーヴァーストリートとは、目と鼻の先である。


ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)の地下にある
地下鉄ピカデリーサーカス駅の改札口

<筆者撮影>


そして、トミーとタペンスの2人が翌日の昼12時に会う約束をした地下鉄ピカデリーサーカス駅(Piccadilly Circus Tube Station)は、ロンドンの中心部にあるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)内のソーホー地区(Soho)とセントジェイムズ地区(St. James’s)の境界線近辺に所在する駅で、ピカデリーラインとベイカールーライン(Bakerloo Line)の2線が乗り入れている。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ソーホー地区の地図を抜粋。


ピカデリーラインの場合、地下鉄ピカデリーサーカス駅は、西側の地下鉄グリーンパーク駅と東側の地下鉄レスタースクエア駅(Leicester Square Tube Station)の間にあり、また、ベイカールーラインの場合、北側の地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)と南側の地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の間に位置している。


2026年8月11日火曜日

ロンドン タヴィストックスクエア52番地(52 Tavistock Square)- その1

レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人が、
約10年間を過ごしたリッチモンドを離れ、ロンドンの中心部へと戻り、
1924年3月に移った
タヴィストックスクエア52番地の跡地に建つ
タヴィストックホテル(Tavistock Hotel)
<筆者撮影>

1912年8月10日に結婚した英国の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年 / 英国の小説家 / 評論家)レナード・シドニー・ウルフ(Leonard Sidney Woolf:1880年ー1969年 / 英国の作家 / 出版業者 / 公務員の2人は、シティー・オブ・ロンドン(City of London → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の西端に所在しているクリフォーズイン(Clifford’s Inn → 2026年7月9日 / 7月10日付ブログで紹介済)と言うフラットへ移り住んだ。


1912年8月10日に結婚した
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
移り住んだフラット「クリフォーズイン」の玄関を北側から見たところ
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフは、1912年12月から1913年3月にかけて行った彼女の最初の長編小説となる「船出(The Voyage Out)」の大幅な改稿作業の結果、肉体的にも、精神的にも、極度の消耗状態になった。その後、彼女は何度も神経衰弱に陥り、1913年9月9日には、睡眠薬のヴェロナール(veronal)の過剰摂取により、自殺を試みたが、なんとか一命をとりとめた。


ナショナルポートレイトギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売
されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


重度の精神疾患に苦しむヴァージニア・ウルフのことを心配したレナード・シドニー・ウルフは、1914年の秋、彼女を連れて、ロンドン市内を離れ、テムズ河(River Thames)の中流域に位置する緑豊かなリッチモンド(Richmond → 2018年3月17日 / 3月24日付ブログで紹介済)にあるリッチモンドグリーン(Richmond Green → 2026年7月24日付ブログで紹介済)へと引っ越した。

ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人がリッチモンドグリーンへ引っ越した1914年の秋頃、彼女の精神状態は落ち着いていたが、引越後の1915年2月には、精神疾患が再発、彼女の容体は悪くなってしまう。


リッチモンドグリーンの緑地帯を
南西側から北東方面へと進むところ
<筆者撮影>


そこで、1915年3月、彼らは、リッチモンドグリーン近くのパラダイスロード34番地(34 Paradise Road → 2026年7月31日 / 8月5日付ブログで紹介済)の家へ再度引っ越して、その家を「ホガースハウス(Hogarth House)」と名付けた。

リッチモンドグリーンからパラダイスロード34番地の「ホガースハウス」へ引っ越したものの、ヴァージニア・ウルフの精神疾患は、1917年まで続いた。

レナード・シドニー・ウルフは、彼女が興味を持てそうな趣味や活動をなんとか見つけて、執筆による精神的ストレスから彼女を解放しようと努めた。幸いにして、2人が興味を持っていた印刷技術に注目したレナード・シドニー・ウルフは、1917年3月、「ホガースプレス(Hogarth Press)」と言う出版社を、「ホガースハウス」の居間に設立。

レナード・シドニー・ウルフは、小さな手動印刷機、古い活字、道具や材料等を購入して、ヴァージニア・ウルフと2人で、活字を一字一字拾い、自分達で印刷と製本を行った。2人が「ホガースプレス」として出版した最初の本は、「Two Stories」で、1917年7月のことであった。「Two Stories」は、レナード・シドニー・ウルフの随筆とヴァージニア・ウルフの短編「壁の染み(The Mark on the Wall)」が収録された32ページの小冊子だった。

「ホガースプレス」は、当初、レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人による手作業だったので、150部止まりの出版が多かったが、その後、「ホガースプレス」に追加の設備が導入され、事業が拡大した結果、一部の印刷作業は、外部の会社に委託されるようになった。


1915年3月に
ヴァージニア・ウルフとレナード・シドニー・ウルフの2人が
リッチモンドグリーンから移り住んだパラダイスロード34番地の建物
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフは、レナード・シドニー・ウルフと一緒に、パラダイスロード34番地のホガースハウスに居る間に、以下の長編3作を発表して、小説家として歩み始めていた。


*長編第1作目「船出」

*長編第2作目「夜と昼(Night and Day)」

*長編第3作目「ジェイコブの部屋(Jacob’s Room)」


レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人が
1924年3月から住んだ
タヴィストックスクエア52番地の建物は、
1939年にドイツ軍によるロンドン大空襲(Blitz)のため、
大きな被害を蒙ってしまう。
その結果、当時の住居は取り壊され、
その跡地には、現在、タヴィストックホテルが建っている。
<筆者撮影>


「ホガースプレス」の出版事業に参加したことにより、ヴァージニア・ウルフの精神状態が落ち着き、その結果、執筆にも脂がのってきたため、レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人は、1914年の秋から約10年間を過ごしたリッチモンドを離れ、ロンドンの中心部へと戻り、1924年3月、タヴィストックスクエア52番地(52 Tavistock Square)に居を構えた。

2人が1917年3月に設立した「ホガースプレス」は、タヴィストックスクエア52番地の建物の地下に設置。



タヴィストックスクエア52番地は、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内に所在している。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ブルームズベリー地区近辺の地図を抜粋。


英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴンが
1904年2月22日に亡くなった後、
ハイドパークゲイト通り22番地の家
(22 Hyde Park Gate → 2026年5月12日 / 5月17日付ブログで紹介済)を売却して、
ヴァージニア・ウルフ達が引っ越したゴードンスクエア46番地の建物全景
<筆者撮影>


タヴィストックスクエア52番地の建物が面するタヴィストックスクエア(Tavistock Square)は、英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴン(Leslie Stephen:1832年ー1904年)が1904年2月22日に亡くなった後、ヴァージニア・ウルフが、姉のヴァネッサ(Vanessa Bell:1879年ー1961年 → 後に英国の画家 / インテリアデザイナーとなる)、長男のトビー(Thoby:1880年ー1906年)や次男のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)と一緒に移り住んだゴードンスクエア46番地(46 Gordon Square → 2026年5月22日 / 5月27日付ブログで紹介済)が面するゴードンスクエア(Gordon Square → 2026年6月1日付ブログで紹介済)の東側に位置している。


レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人が
1924年3月から住んだ
タヴィストックスクエア52番地の跡地に建つ
タヴィストックホテルの建物外壁を下から見上げたところ。
<筆者撮影>


レナード・シドニー・ウルフとヴァージニア・ウルフの2人がロンドンの中心部へと戻って来たのは、第一次世界大戦(1914年ー1918年)を経て、戦勝国である英国の経済が急速に回復し、好景気に沸いている頃で、戦前のヴィクトリア朝時代の文化が過去のものとなりつつあった。