2026年3月31日火曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その28A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「死との約束」ペーパーバック版の表紙 -
本作品の事件(家族を見物に行かせて、
キャンプ地に一人残ったボイントン夫人が、洞窟の入口近くで、
多量のジギトキシンを皮下注射器で投与されて、殺害される)の舞台となる
ヨルダンの古都ペトラにある遺跡が描かれている。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(65)ペトラ(Petra)



ジグソーパズルの右下に設置されているガラスケース内の後列真ん中に、ヨルダン(Jordan)の古都ペトラにある遺跡の模型が置かれている。


(66)皮下注射器(hypodermic syringe)



ジグソーパズルの下段の一番左手にあるテーブルに寄せられた椅子の近くに、皮下注射器が置かれている。


これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1938年に発表した「死との約束(Appointment with Death → 2021年3月13日付ブログで紹介済)」である。

「死との約束」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第23作目に、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第16作目に該っている。


本作品は、「メソポタミアの殺人(Murder in Mesopotamia → 2020年11月8日付ブログで紹介済)」(1936年)と「ナイルに死す(Death on the Nile → 2020年10月4日付ブログで紹介済)」(1937年)に続く中近東を舞台にした長編第3作目でもある。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)は、休暇を兼ねて、エルサレム(Jerusalem)のキングソロモンホテル(King Solomon Hotel)に滞在していた。エルサレムは、三大宗教にとっての聖地であり、ユダヤ教文化、キリスト教文化、そして、イスラム教文化が入り混じる魅惑の地であった。


「いいかい、彼女を殺してしまわなきゃいけないんだよ。(You do see, don’t you, that she’s got to be killed ?)」

ポワロがホテルに宿泊した最初の晩、開け放った窓から、夜の静けさをぬって、男女の危険な囁き声をポワロは耳にした。どこへ行こうとも、彼には、犯罪が付いて回るのだろうか?


同じホテルに滞在しているボイントン一家は、行く先々で皆の注目を集めていた。

家族の行動は、全て、母親であるボイントン夫人(Mrs. Boynton)中心に回っていて、全ての面において、彼女は家族の行動を監視するとともに、厳しい批判を行っていた。ボイントン夫人は、残酷な仕打ちそのものに非常な喜びを見出す精神的なサディストであり、可哀想なことに、彼女の家族全員がそのはけ口となっていたのである。


2026年3月30日月曜日

<第2100回> アガサ・クリスティー作「シタフォードの謎」<小説版(愛蔵版)>(The Sittaford Mystery by Agatha Christie )- その3

2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「シタフォードの謎」の愛蔵版(ハードカバー版)の内扉 
-
南アフリカから英国へとやって来たウィレット夫人と
娘のヴァイオレット・ウィレットが借りている
シタフォード荘において催され降霊術会で
霊が「
トリヴェリアン大佐が死んだ」と告げたため、
大佐の友人で、彼の安否を気遣った
ジョン・エドワード・バーナビー少佐が、
吹雪の中、大佐が住む
エクスハンプトン村(シタフォード村から6マイル離れている)の
ヘイゼルムーア荘を訪れるが、
地面に降り積もった雪の上に残された
ジョン・エドワード・バーナビー少佐の足跡が、
内扉にデザインされているものと思われる。

海軍のジョーゼフ・アーサー・トリヴェリアン大佐(Captain Joseph Arthur Trevelyan)は、10年前に退役した後、デヴォン州(Devon)ダートムーア(Dartmoor)の周辺部に所在するシタフォード(Sittaford)と言う小さな村に退き、シタフォード荘(Sittaford House)と言う屋敷を建てて、そこに住んでいたが、ある年の10月の終わり頃、不動産エージェント経由、冬の間、シタフォード荘を借りたいと言う依頼があり、先方が提示した家賃の額も非常に良かったため、彼はシタフォード村から6マイル離れたエクスハンプトン(Exhampton)と言う村に所在するヘイゼルムーア荘(Hazelmoor)を借りて、転居した。

そして、南アフリカから英国へとやって来たウィレット夫人(Mrs. Willett)と娘のヴァイオレット・ウィレット(Miss Violet Willett)の2人がシタフォード荘に入居して、約2ヶ月が経過する。


12月のある金曜日の午後(午後3時半)、ウィレット母娘の2人は、シタフォード荘の周りに住む


*1号コテージ:ジョン・バーナビー少佐(Major John Edward Burnaby - ジョーゼフ・アーサー・トリヴェリアン大佐の友人)

*3号コテージ:ライクロフト氏(Mr. Rycroft - 心霊研究会(Psychical Research Society)会員)

*4号コテージ:ロナルド・ガーフィールド(Ronald Garfield - キャロライン・パーシハウス(Miss Caroline Percehouse - 未婚の婦人)の甥 / 愛称:ロニー(Ronnie))

*6号コテージ:デューク氏(Mr. Duke - 最近、シタフォード村に越して来た人物)


の4人をシタフォード荘のお茶会に招待する。4日間にわたって、雪が英国中で降り続き、シタフォード村でも、数フィートの雪が積もっていた。


お茶会の後、ロナルド・ガーフィールドが、他の5人に対して、テーブルターニング(table-turning / 降霊術会)を提案する。

テーブルターニングの最中、驚くことに、霊が「トリヴェリアン大佐が死んだ(Trevelyan Dead)」と告げた。霊のお告げを見たジョン・バーナビー少佐は、長年の友人であるジョーゼフ・トリヴェリアン大佐の安否を気遣う。

残念なことに、シタフォード荘には、電話がなく、ジョーゼフ・トリヴェリアン大佐が住むヘイゼルムーア荘に連絡をとることができない。また、今日までの降雪のため、道路は車が通れない状況だった。更に、これから大雪になると言う予報がが出ていた。

ジョーゼフ・トリヴェリアン大佐の安否を心配するジョン・バーナビー少佐は、シタフォード村から6マイル離れたエクスハンプトン村まで歩いて行くことを宣言すると、シタフォード荘を出て行った。


そして、2時間半後(午後8時前)、吹雪の中、ジョン・バーナビー少佐は、ジョーゼフ・トリヴェリアン大佐が住むヘイゼルムーア荘に到着。

ジョン・バーナビー少佐はヘイゼルムーア荘のベルを鳴らしたが、不思議なことに、屋内からは誰の応答もなかった。

不測の事態に困ったジョン・バーナビー少佐は、ヘイゼルムーア荘の近くにある派出所のグレイヴス巡査(Constable Graves)と派出所の直ぐ隣に住んでいるウォーレン医師(Dr. Warren)を呼んで、ヘイゼルムーア荘へと戻る。

そして、3人がヘイゼルムーア荘の書斎の窓から家の中に入ったところ、ジョーゼフ・トリヴェリアン大佐が床の上に横たわっているのを発見する。残念ながら、彼は既に死亡していた。

ウォーレン医師がジョーゼフ・トリヴェリアン大佐の死体を調べた結果、頭蓋骨の骨折が死因であり、凶器は死体の傍らに落ちていた砂が入った緑色の袋だった。


ジョン・バーナビー少佐が懸念していた通り、シタフォード荘で催されたテーブルターニングの最中、霊が告げた内容が本当のことになったのである。


エクスハンプトン村から汽車で30分の場所にあるエクセター(Exeter)のナラコット警部(Inspector Narracott)が、捜査を担当する。

ウォルターズ&カークウッド(Walters & Kirkwood)弁護士事務所の弁護士フレデリック・カークウッド(Frederick Kirkwood)によると、ジョーゼフ・トリヴェリアン大佐の遺言に基づき、大佐の財産は、


(1)ジェニファー・ガードナー(Jennifer Gardner)- 大佐の妹 / エクセターのローレル荘(The Laurels)に在住 / 夫のロバート・ガードナー(Robert Gardner)は、戦争の後遺症のため、寝たきりの状態。


大佐のもう一人の妹であるメアリー・ピアスン(Mary Pearson)は既に死去していた関係上、


(2)ジェイムズ・ピアスン(James Pearson:28歳)- メアリーの長男(大佐の甥)/ ロンドンの保険会社に勤務

(3)シルヴィア・デリング(Sylvia Dering:25歳)- メアリーの長女(大佐の姪)/ ウィンブルドン(Wimbledon)のヌック荘(The Nook)に在住 / 夫のウィリアム・マーティン・デリング(William Martin Dering)は小説家

(4)ブライアン・ピアスン(Brian Pearson)- メアリーの次男(大佐の甥)/ オーストラリア(Australia)のニューサウスウェールズ(New South Wales)に在住


の4人で等分することになっていた。


ナラコット警部による捜査の結果、ジョーゼフ・トリヴェリアン大佐が殺害された日、ジェイムズ・ピアスンは、ロンドンからエクスハンプトン村に来ており、大佐から借金しようとしたが、断られていたことが判明。そのため、ジェイムズ・ピアスンは、大佐殺害容疑で逮捕されてしまう。


ジェイムズ・ピアスンの婚約者であるエミリー・トレファシス(Emily Trefusis)は、彼の無実を信じて、独自に事件を調べ始める。

その過程で知り合ったディリーワイヤー誌(Daily Wire)の記者であるチャールズ・エンダビー(Charles Enderby)と一緒に、 エミリー・トレファシスは、シタフォード荘の庭師だったカーティス夫妻(Mr. & Mrs. Curties)の家(5号コテージ)に滞在して、ジョーゼフ・トリヴェリアン大佐を殺害した真犯人の手掛かりを探すのであった。


2026年3月29日日曜日

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley)- その3

オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」の英訳版に付されている
オードリー・ビアズリーによる挿画(その1)


後に英国のイラストレーター / 詩人 / 小説家となるオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)は、行きつけの書店の主人であるフレデリック・エヴァンズの紹介により、出版業者のJ・M・デント(J. M. Dent)と知り合い、1893年から約1年半にわたって、トマス・マロリー(Thomas Malory:1399年ー1471年)作「アーサー王の死(Le Morte d’Arthur)」の挿絵を描いた。これによって、彼はイラストレーターとしてのデビューを飾る。


1893年6月にパリから帰国したオーブリー・ビアズリーは、アイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、シャーロック・ホームズシリーズの作者サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)の友人でもあったオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)による一幕物の悲劇である戯曲「サロメ(Salome → 2026年3月11日 / 3月12日付ブログで紹介済)」に挿画を提供する契約を締結。


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)で販売されている
オスカー・ワイルドの写真の葉書
(Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card
305 mm x 184 mm) 


戯曲「サロメ」は、1891年にオスカー・ワイルドによりフランス語で執筆されて、1893年にパリで出版された。

同戯曲の英訳版は、1894年に出版されているが、当時、オスカー・ワイルドの同性の恋人だった第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ショルト・ダグラス(John Sholto Douglas, 9th Marquess of Queensberry:1844年ー1900年)の三男で、作家 / 詩人 / 翻訳家のアルフレッド・ブルース・ダグラス卿(Lord Alfred Bruce Douglas:1870年ー1945年)が英訳を行ったものの、出来が悪かったため、オスカー・ワイルド自身が、その英訳を修正している。

当初、オーブリー・ビアズリーは、戯曲「サロメ」の英訳者となることを望んでいたものの、残念ながら、彼の希望は叶えられなかった。


戯曲「サロメ」の英訳版への挿絵提供を依頼したのは、作者であるオスカー・ワイルド自身であったが、彼は、出来上がったオーブリー・ビアズリーについて、「自分の劇はビザンティン的なのに対して、ビアズリーの挿絵はあまりにも、日本的だ。」とコメントしており、お気に召さなかったようである。


オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」の英訳版に付されている
オードリー・ビアズリーによる挿画(その2


オーブリー・ビアズリーは、1894年に、米国の作家であるヘンリー・ハーランド(Henry Harland:1861年ー1905年)と一緒に、挿絵入り文芸誌「イエローブック(The Yellow Book)」を創刊して、同誌の美術担当編集主任となった。


テイト・ブリテン美術館(Tate Britain
→ 2018年2月18日付ブログで紹介済)
で販売されている
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー作
「Cover Design for 'The Yellow Book' Volume 1」
(1894年 / ink on paper / 26 cm x 21.6 cm)-
「イエローブック(The Yellow Book)」とは、
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーが1894年に創刊した挿絵入りの文芸誌で、
彼は同誌の美術担当編集主任を務めている。


経済的に余裕ができたオーブリー・ビアズリーは、同年、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)ピムリコ地区(Pimlico)内にあるケンブリッジストリート114番地(114 Cambridge Street)を購入して、1歳上の姉メイベル・ビアズリー(Mable Beardsley:1871年ー1916年)と同居。

この建物は、ビアズリー一家が1888年にイングランド南部のサセックス州(Sussex)ブライトン(Brighton)からロンドンに移った際に住んだケンブリッジストリート32番地(32 Cambridge Street → 2026年3月26日付ブログで紹介済)と同じ通り沿いに所在している。


オーブリー・ビアズリーが1888年にブライトンの初等中学校を卒業した後、

ビアズリー一家が移り住んだケンブリッジストリート32番地の建物正面

<筆者撮影>


1895年4月5日、オスカー・ワイルドがアルフレッド・ブルース・ダグラスとの男色の罪状で逮捕される。

オーブリー・ビアズリー自身は男色家ではなかったものの、戯曲「サロメ」の英訳版への挿絵提供以降、彼はオスカー・ワイルドと同一視されていたため、当時の世論から猛攻撃を受けてしまい、その結果、前年に創刊した挿絵入り文芸誌「イエローブック」から追放されると言う憂き目に遭った。

そして、オーブリー・ビアズリーは、同年4月20日、追われるようにロンドンからパリへと渡る。


ヴァインストリート(Vine Street → 2025年9月19日付ブログで紹介済)の西側入口から
東側の行き止まりを見たところ -
アルフレッド・ブルース・ダグラス卿は、オスカー・ワイルドと同性愛の関係にあったため、
ヴァインストリート警察署において逮捕されている。

<筆者撮影>


同年5月5日にパリから帰国したオーブリー・ビアズリーは、同年7月にケンブリッジストリート114番地からリージェンツパーク(Regent’s Park → 2016年11月19日付ブログで紹介済)近くのチェスターテラス(Chester Terrace)の借家に転居すると、その後、フランスのディエップ(Dieppe)を訪問。


2026年3月28日土曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その27B

英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作「ナイルに死す」の
ペーパーバック版の表紙 -

表紙が、スカラベ(甲虫類のコガネムシ科タマオシコガネ属の属名、

および、その語源となった古代エジプト語)の形に切り取られている。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1937年に発表した「ナイルに死す(Death on the Nile → 2020年10月4日付ブログで紹介済)」は、彼女が執筆した長編としては、第22作目に、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第15作目に該っている。


弱冠20歳のリネット・リッジウェイ(Linnet Ridgeway)は、英国で最も裕福な女性だった。ある日、学生時代の古い友人であるジャクリーン・ド・ベルフォール(Jacqueline De Bellefort)が彼女に電話を架けてきた。

ジャクリーン(通称:ジャッキー(Jackie))の家族が2年前に破産してしまい、それ以来、彼女は辛い日々を送っていた。それに加えて、今度は、彼女の婚約者であるサイモン・ドイル(Simon Doyle)が失業してしまったのである。

ジャッキーは、リネットに対して、サイモンをリネットが住む屋敷の管理人にしてほしいと頼み込んだ。「私、サイモンと結婚できなければ、死んでしまうわ!(If I don’t marry him, I’ll die!)」と。ジャッキーの懇願に根負けしたリネットは、ジャッキーに対して、「面接をするので、あなたの恋人(サイモン)を私の屋敷に連れて来て。」と答えた。

翌日、ジャッキーは、サイモンを連れて、リネットの屋敷へと向かった。ジャッキーによる紹介を受けて、リネットとサイモンはお互いに見つめ合い、リネットは、その場でサイモンを自分の屋敷の管理人として採用することを決める。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


そして、場面は変わり、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)は、エジプトで休暇を楽しんでいた。

彼が、アスワン(Aswan)で知り合った若い女性のロザリー・オッタボーン(Rosalie Otterbourne)と一緒に、ナイル河沿いを散歩していると、ルクソールから到着した大型汽船から、あるカップルが降りてくる。それは、リネット・リッジウェイとサイモン・ドイルの二人であった。ロザリーによると、二人が最近結婚したことが新聞に載っていた、とのこと。

ポワロは、リネットの目の下のくまと、そして、指の関節が白くなる程に、彼女が日傘を強く握りしめていたことから、彼女が何かに非常に困っているに違いないと感じるのであった。


夕闇が迫るホテルのテラスにおいて、リネットとサイモンが過ごしていると、回転ドアが廻り、ワインカラーのドレスを着た女性がゆっくりとテラスを横切って、リネットの視線の先に座る。それは、サイモンの元婚約者のジャッキーだった。

この出来事にひどく動揺したりネットは、その晩、ポワロに相談を持ちかける。リネットは、ジャッキーが、新婚の彼女とサイモンの二人が行くところ、ずーっとつきまとっているのだ、と言う。彼女によると、新婚旅行先のヴェネツィア(Venice)から始まり、ブリンジジ(Brindisi)、カイロ(Cairo)、そして、アスワンまで続いているらしい。


ジャッキーによるつきまといから逃れるために、リネットとサイモンの二人は、ある計画を立てた。自分達の周囲の人達には、アスワンにこのまま滞在する予定と話しておいて、実際には、二人は、ナイル河の遊覧に参加することにしたのである。ポワロも、リネットとサイモンの二人が乗る汽船で、ナイル河を遊覧することになった。


ナイル河の遊覧船への乗船を無事済ませ、ホッと安心して船室から出てきたリネットとサイモンの二人であったが、そこに笑い声が聞こえてくる。リネットが驚いて振り返ると、そこには、ジャッキーが立っていた。呆然自失となるリネットと怒りを隠せないサイモンの二人。


ナイル河の遊覧船がアブ・シンベル(Abu Simbel)に寄港した際、同神殿において、リネットに目掛け、大岩が落下する事故が発生するが、彼女は辛くも難を逃れる。彼女に向けて大岩を落としたのは、ジャッキーではないかと疑われたが、彼女にはアリバイがあったため、真相は有耶無耶となってしまう。

こうして、船内の緊張が限界まで高まり、ナイル河の遊覧船が折り返し地点である最奥の寄港地ワジ・ハルファ(Wadi Halfa)に着いた際、ある悲劇が発生するのであった。


(59)ナイル河の遊覧船(クルーズ船)(cruise down the Nile)



ナイル河の遊覧船の「カルナック号(Karnak)」が、本作品における事件の舞台となる。


(60)真珠のネックレス (pearl necklace)



船内のラウンジにおいて泥酔したジャッキーがサイモンに詰め寄り、その後、激した彼女が隠し持っていた拳銃で彼の脚を撃ってしまう事件が発生する。

その翌朝、リネットが自室で頭を撃たれて死んでいるのが発見された。リネットの殺害現場から、彼女が持っていた非常に高価な真珠のネックレスが盗まれていることが判明する。


(61)銃座に真珠の装飾が施された拳銃(pearl-handed pistol)



ナイル河から見つかったジャッキーの拳銃は、2発発射された痕があり、1発は、ジャッキーがサイモンの脚に向けて撃ち、もう1発は、何者かが自室で眠るリネットの頭に向けて撃ったものと考えられた。


(62)赤いマニキュア液(red nail varnish)



リネットを殺害した真犯人は、自分が本当に撃たれたように見せかけるために、赤いマニキュア液を使って、出血しているような演出を行った。


(63)ヴェルヴェット(ビロード)の肩掛け(velvet stole)



ナイル河から見つかったジャッキーの拳銃は、米国の大富豪の貴婦人であるマリー・ヴァン・スカイラー(Marie Van Schuyler)が「無くした。」と言っていたヴェルヴェットの肩掛けに包まれていた。


(64)アブ・シンベル神殿(Temple of Abu Simbel)



アブ・シンベル神殿の観光中、大岩がリネットに目掛けて落下する事故が起きたものの、幸いにして、彼女に怪我はなかった。他の皆は、ジャッキーの仕業だと疑ったが、彼女にはアリバイがあり、真相は分からず終いとなってしまう。


          

2026年3月27日金曜日

ワット・タイラーの乱(Wat Tyler’s Rebellion)

セントバーソロミュー病院の外壁に設置されている
ワット・タイラーの乱の慰霊碑(その1)
<筆者撮影>


ウェストスミスフィールド(West Smithfield)に面して建つセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)の外壁には、サー・ウィリアム・ウォレス(Sir William Wallace:1270年頃ー1305年 → 2026年3月24日付ブログで紹介済)の慰霊碑の他に、「農民反乱(Peasant’s Revolt)」を起こした後。同地で刺殺されたワット・タイラー(Wat Tyler:?ー1381年)の慰霊碑も設置されている。


セントバーソロミュー病院の外壁に設置されている
ワット・タイラーの乱の慰霊碑(その2)
<筆者撮影>


プランタジネット朝(House of Plantagenet)最後のイングランド王であるリチャード2世(Richard II:1367年ー1400年 在位期間:1377年ー1399年)は、1378年と1380年の2回、百年戦争(Hundred Year’s War:1337年ー1453年 → フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国とプランタジネット朝 / ランカスター朝イングランド王国の戦い)でフランスに奪われた元イングランド地域の奪還を目指して、欧州大陸へと遠征したものの、目的を達することができなかった。2回にわたる大陸遠征により、膨大な戦費調達が必要となったリチャード2世は人頭税の導入を図る。


セントバーソロミュー病院の外壁に設置されている
ワット・タイラーの乱の慰霊碑(その3)
<筆者撮影>


ただし、この人頭税が、上層階級に対しては軽く、逆に下層階級に対しては重い税制だったため、1381年6月、増税に反対する下層階級の農民や労働者が反乱を起こす。

屋根瓦職人のワット・タイラー(Wat Tyler:?ー1381年)が、神父のジョン・ボール(John Ball:1338年頃ー1381年)と共に、この反乱に指導者として加わると、勢いを得た反乱軍は、カンタベリー(Cantebury)を占拠した後、ロンドン郊外、続いて、ロンドン市内へと侵入し、カンタベリー大司教や政府の幹部だった財務長官のロバート・イルズと尚書部長官のサイモン・サドベリーを殺害したのである。


セントバーソロミュー病院の外壁に設置されている
ワット・タイラーの乱の慰霊碑(その4)
<筆者撮影>


これが、「ワット・タイラーの乱(Wat Tyler’s Rebellion)」、または、「農民反乱」と呼ばれている。


セントバーソロミュー病院の外壁に設置されている
ワット・タイラーの乱の慰霊碑(その5)
<筆者撮影>


なお、ワット・タイラーの半生について、判っていることが非常に少なく、出生時の名前は「ウォルター(Walter)」とされているが、姓に関しては不明で、屋根瓦職人(roof tiler)であったことから、「Tyler」の姓が付けられたものと考えられている。


スミスフィールドマーケット(Smithfield Market)側からギルトスパーストリートを望む –
ここからギルトスパーストリートの北側が始まる。
<筆者撮影>



リチャード2世率いる国王軍は、ウェストスミスフィールドへと至る今のギルトスパーストリート(Giltspur Street → 2018年6月9日 / 6月16日 / 6月23日+2026年2月1日付ブログで紹介済)がある辺りで、ワット・タイラー達が率いる反乱軍を出迎え、同年6月14日、1回目の交渉が行われ、リチャード2世は、ワット・タイラー達に対して、農民や労働者の要求を保証すると回答した。


1381年6月15日に行われた2回目の交渉時、
ワット・タイラーに斬りつけたロンドン市長のウィリアム・ウォルワースの像 -
ホルボーン高架橋(Holborn Viaduct
→ 2018年5月27日 / 6月2日付ブログで紹介済)に設置されている。
<筆者撮影>


ところが、翌日の同年6月15日、2回目の交渉が行われている最中、当時のロンドン市長(Lord Mayor of the City of London / Lord Mayor of London)だったウィリアム・ウォルワース(William Walworth:?ー1385年)によって、ワット・タイラーは突然斬り付けられた。ワット・タイラーは近くにあるセントバーソロミュー教会(St. Bartholomew the Great Church - 現在のセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great → 2026年2月15日 / 2月17日 / 2月22日付ブログで紹介済))へ難を逃れようとしたものの、そのまま殺害されてしまったのである。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の
建物正面(西側)を見たところ
<筆者撮影>


ワット・タイラーと言う重要な指導者の一人を失った農民反乱軍も、リチャード2世率いる国王軍によって鎮圧されてしまった。 


         

2026年3月26日木曜日

ロンドン ケンブリッジストリート32番地(32 Cambridge Street)

オーブリー・ビアズリーが1888年にブライトンの初等中学校を卒業した後、

ビアズリー一家が移り住んだケンブリッジストリート32番地の建物正面(その1)

<筆者撮影>


アイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、シャーロック・ホームズシリーズの作者サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)の友人でもあったオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)による一幕物の悲劇である戯曲「サロメ(Salome → 2026年3月11日 / 3月12日付ブログで紹介済)」は、1891年にフランス語で執筆されて、1893年にパリで出版された。

同戯曲の英訳版は、1894年に出版されているが、当時、オスカー・ワイルドの同性の恋人だった第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ショルト・ダグラス(John Sholto Douglas, 9th Marquess of Queensberry:1844年ー1900年)の三男で、作家 / 詩人 / 翻訳家のアルフレッド・ブルース・ダグラス卿(Lord Alfred Bruce Douglas:1870年ー1945年)が英訳を行ったものの、出来が悪かったため、オスカー・ワイルド自身が、その英訳を修正している。

同戯曲の英訳版には、英国のイラストレーター / 詩人 / 小説家であるオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)による挿画が使用されている。



ヴィクトリア朝時代の世紀末美術を代表するオーブリー・ビアズリーは、1872年8月21日、父ヴィンセント・ポール・ビアズリー(Vincent Paul Beadsley:1839年-1909年)と母エレン・アグナス・ピット(Ellen Agnus Pitt:1846年ー1932年)の長男として、イングランド南部のサセックス州(Sussex)ブライトン(Brighton)に出生。

彼の1歳上には、後に女優となる姉のメイベル・ビアズリー(Mable Beardsley:1871年ー1916年)が居た。


ヒューストリート側(北側)からケンブリッジストリートを眺めたところ -

オーブリー・ビアズリーが1888年にブライトンの初等中学校を卒業した後、

ビアズリー一家が移り住んだケンブリッジストリート32番地の建物は、

画面右側に建っている。

<筆者撮影>


オーブリー・ビアズリーは、父方から工芸家としての器用さを受け継ぎ、また、母方から芸術に対する洗練された趣味を受け継いだ。

肺結核(tuberculosis)のため、稼ぎがなかった父ヴィンセントに代わり、母エレンが、音楽教師として働いて、オーブリー・ビアズリーに文学や音楽の本格的な教育を施した。


ケンブリッジストリート32番地の建物の反対側の歩道から

ヒューストリート方面(北西側)を眺めたところ

<筆者撮影>


オーブリー・ビアズリーは、1878年、ブライトン近郊の寄宿学校ハミルトンロッジ(Hamilton Lodge)に入学して、絵を描き始めるが、1879年に肺結核の兆候が出てきたため、1881年にハミルトンロッジを退学。

彼の治療のため、同年(1881年)、ビアズリー一家は、ロンドン 南郊のエプソム(Epsom)へ転居、更に、1883年にロンドンへ移住するが、1884年に、再びブライトンに戻る。


ケンブリッジストリート32番地の建物の反対側の歩道から

ウォーリックウェイ方面(南東側)を眺めたところ

<筆者撮影>


オーブリー・ビアズリーは、1885年1月に地元の初等中学校(Brighton, Hove and Sussex Grammar School)に入学し、母方の大伯母による学費援助を受けながら、4年間の勉学を修めて、1888年に同初等中学校を卒業。

その後、ビアズリー一家は、ロンドンへと移り住み、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)ピムリコ地区(Pimlico)内にあるケンブリッジストリート32番地(32 Cambridge Street)に居を構えた。


オーブリー・ビアズリーが1888年にブライトンの初等中学校を卒業した後、

ビアズリー一家が移り住んだケンブリッジストリート32番地の建物正面(その2)

<筆者撮影>


ケンブリッジストリート32番地は、地下鉄ヴィクトリアライン(Victoria Line)が停まる地下鉄ピムリコ駅(Pimlico Tube Station)とヴィクトリア駅(Victoria Station → 2015年6月13日付ブログで紹介済)の間に所在している。

ケンブリッジストリート(Cambridge Street)の南側は、地下鉄ピムリコ駅から西へ延びるルプスストリート(Lupus Street)から始まり、北西に延びて、その北側は、ヴィクトリア駅の東側を走るヒューストリート(Hugh Street)にぶつかって終わっている。

ヒューストリートの北側は、ヴィクトリア駅から南側に延びる線路となっている。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ピムリコ地区の地図を抜粋。

ケンブリッジストリート32番地は、北側のヒューストリートと南側のウォーリックウェイ(Warwick Way)に挟まれたケンブリッジストリートの丁度中間辺りの西側に建っている。

ヴィクトリア駅に近い関係上、通勤 / 通学や旅行等に非常に便利ではあるものの、生活環境としては、若干劣っていると言える。

ケンブリッジストリート沿いで言うと、ウォーリックウェイを越えて、更に南へ下った場所の方が、生活環境としては、かなり上だと思われる。


オーブリー・ビアズリーが1888年にブライトンの初等中学校を卒業した後、

ビアズリー一家が移り住んだケンブリッジストリート32番地の建物正面(その3)

<筆者撮影>


オーブリー・ビアズリーが後に自分で購入したケンブリッジストリート114番地(114 Cambridge Street)の建物の外壁に、ブループラークが掛けられている(ブループラークは、一個人一つに限定されている)ため、ケンブリッジストリート32番地の建物の外壁には、ブループラークが掛けられていない。