2026年4月28日火曜日

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley)- その5

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain

→ 2018年2月18日付ブログで紹介済)で所蔵 / 展示されている

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーのペン画

「Design for the Frontispiece to John Davidson's Play」

(1894年 / Ink and graphite on paper)

<筆者撮影>


オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)は、1896年1月に、英国の出版業者であるレナード・チャールズ・スミザーズ(Leonard Charles Smithers:1861年ー1907年)と英国の詩人 / 文芸評論家 / 雑誌編集者であるアーサー・ウィリアム・シモンズ(Arthur William Symons:1865年ー1945年)による招きを受けて、雑誌「サヴォイ(The Savoy)」の創刊に参加。アーサー・シモンズが文芸編集者を、そして、オーブリー・ビアズリーが美術編集者を務める体制で、文学と芸術の融合を目指した雑誌の定期刊行を進めた。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示
されている
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの肖像画
(by Jacques-Emile Blanche / 1895年 / Oil on canvas)
<筆者撮影>


雑誌「サヴォイ」の美術編集者を務める傍ら、オーブリー・ビアズリーは、1896年2月に、ロンドンのセントジェイムズプレイス10番地(10 St. James’s Place → 2026年4月24日付ブログで紹介済)からパリへ移転。同年3月下旬には、文芸編集者のアーサー・シモンズと一緒に、ブリュッセルへ出かけた際、同地において喀血。これが、後に彼の生命を奪うことになる結核(tuberculosis)の兆候だった。同年4月には、パリへ戻った。


雑誌「サヴォイ」については、鉄道駅構内を中心に展開する大手の本屋である W・H・スミス(W. H. Smith)が同誌の店頭販売を拒否する事態が発生した結果、全8巻を発行した後、1896年12月、廃刊に追い込まれてしまった。


テイト・ブリテン美術館で所蔵 / 展示されている

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーのペン画

「Cover Design for 'The Yellow Book' Volume 1」
(1894年 / Ink on paper)-
「イエローブック(The Yellow Book)」とは、
オーブリー・ビアズリーが1894年に創刊した挿絵入りの文芸誌で、
彼は同誌の美術担当編集主任を務めている。

<筆者撮影>


その後、結核のため、オーブリー・ビアズリーの健康状態は悪化の一途を辿り、経済的に困窮した結果、1897年以降、フランス出身の英国の詩人 / 作家であるマルク=アンドレ・ラファロヴィチ(Marc-Andre Raffalovich:1864年ー1934年)からの支援を受ける。

同年3月31日、オーブリー・ビアズリーは、マルク=アンドレ・ラファロヴィチや英国の詩人 / カトリック司祭であるジョン・ヘンリー・グレイ(John Henry Gray:1866年ー1934年)からの説得を受けて、カトリックに改宗した。


オーブリー・ビアズリーは、1897年7月、フランスのディエップ(Dieppe)において、出獄したアイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、戯曲「サロメ(Salome → 2026年3月11日 / 3月12日付ブログで紹介済)」の作者のオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)と再会。


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
オスカー・ワイルドの写真の葉書
(Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card
305 mm x 184 mm) 


その際、オスカー・ワイルドより、彼の詩「レディング牢獄の唄(The Ballad of Reading Gaol)」の装丁を依頼されたが、オーブリー・ビアズリーは、健康状態の悪化を理由にして、この依頼を拒絶した。オーブリー・ビアズリーとしては、オスカー・ワイルドの醜聞の巻き添えを食って、自分も英国社会から糾弾されたため、オスカー・ワイルドを敵視したと言われており、本当の拒絶の理由は、こちらにあったと思われる。


オーブリー・ビアズリーは、1897年末に南仏のマントン(Menton)へと転地するが、1898年1月には、結核の進行のため、右手が動かなくなり、1月末以降は、寝たきりとなり、カトリックの信仰にふける日々が続いた。

そして、同年3月16日、結核のため、彼はマントンで死去する。まだ25歳の若さだった。


オーブリー・ビアズリーが描く悪魔的な鋭さを持つ白黒(モノトーン)のペン画を描くオーブリー・ビアズリーは、耽美主義の鬼才と謳われ、多くの画家に影響を与えた。


2026年4月27日月曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その31A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「いち、にい、私の靴の留め金を締めて」ペーパーバック版の表紙 -

エルキュール・ポワロは、半年に一回の定期検診のために、

クイーンシャーロットストリート58番地にある歯科医ヘンリー・モーリーの元を訪れた。

診療を終えた後、フラットに戻ったポワロを待っていたのは、

ついさっき自分を診療したモーリー歯科医が診療室で拳銃自殺をしたとの

スコットランドヤードのジャップ主任警部からの連絡であった。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(72)留め金(バックル)付きの靴(buckled shoe)



ジグソーパズルの中段の一番左手にあるテーブルの前に、赤い着物を着た女性がこちらに背を向けて立っているが、彼女の足元に、留め金(バックル)付きの靴が落ちている。


これから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1940年に発表した「いち、にい、私の靴の留め金を締めて(One, Two, Buckle My Shoe)」である。

「杉の柩」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第28作目に該り、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第19作目に該っている。


「いち、にい、私の靴の留め金を締めて」の場合、1941年に出版された米国版のタイトルは、「The Patriotic Murders(愛国殺人)」が使用されている。

米国版のタイトルは、1953年に、更に「An Overdose of Death」へと改題された。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)がクイーンシャーロットストリート58番地(58 Queen Charlotte Street → 2016年5月29日付ブログで紹介済)にある歯科医ヘンリー・モーリー(Henry Morley)の待合室に居るところから、物語が始まる。


2026年4月26日日曜日

ロンドン ノースエンド / オールドワイルデス荘(North End / Old Wyldes)

英国の風景画家 / 肖像画家 / 銅版画職人のジョン・リネルが住み、
英国の詩人、画家で、銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイクが滞在していた
オールドワイルデス荘(その1)
<筆者撮影>


英国の詩人、画家で、銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイク(William Blake:1757年ー1827年 → 2023年5月15日付ブログで紹介済)は、1818年に知人から英国の風景画家 / 肖像画家 / 銅版画職人のジョン・リネル(John Linnell:1792年ー1882年)を紹介される。

ジョン・リネルは、1822年、17歳だった若い画家のサミュエル・パーマー(Samuel Palmer:1805年ー1881年)の才能を見抜き、彼の教育に務めた。サミュエル・パーマーは、後に英国の風景画家 / 肖像画家となり、ジョン・リネルの娘とも結婚する。

1824年、サミュエル・パーマーは、ジョン・リネルを通じて、ウィリアム・ブレイクと知り合い、彼から強い影響を受ける。ウィリアム・ブレイクを信奉するサミュエル・パーマーは、宗教的なテーマで幻想的な雰囲気の風景画を描くようになった。


英国の風景画家 / 肖像画家 / 銅版画職人のジョン・リネルが住み、
英国の詩人、画家で、銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイクが滞在していた
オールドワイルデス荘(その2)
<筆者撮影>


ジョン・リネルが住んでいた家「オールドワイルデス荘(Old Wyldes)」の外壁には、「ジョン・リネルが住んでいたこと」と「ウィリアム・ブレイクが滞在していたこと」を示す Greater London Council のプラークが掛けられている。


隣りに建つ家の前から、オールドワイルデス荘とブループラークを見たところ
<筆者撮影>


ジョン・リネルが住んでいた家「オールドワイルデス荘」は、ロンドンの特別区の一つであるバーネット区(London Borough of Barnet)内に所在している。


地下鉄のノーザンライン(Northern Line)が停まる地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)の前を通るヒースストリート(Heath Street)を北上すると、「ジャック・ストローの砦(Jack Straw’s Castle → 2018年8月27日付ブログで紹介済)」が建つ場所で、ハムステッドヒース(Hampstead Heath → 2015年4月25日付ブログで紹介済)へと向かうスパ二アーズロード(Spaniards Road:東側)と地下鉄ゴルダースグリーン駅(Golders Green Tube Station → 2024年12月20日付ブログで紹介済)へと向かうノースエンドウェイ(North End Way:西側)の二手に分かれる。


「ジャック・ストローの砦」の建物全景
<筆者撮影>


1381年にイングランドのケント州(Kent)やエセックス州(Essex)を中心にして全国的規模で起きた農民反乱(Peasant’s Revolt)の際、エセックス州の農民を率いてロンドンに入った指導者ジャック・ストロー(Jack Straw)がこの地に住んでいたと言われており、ここにパブが建てられた時、それに因んで、「ジャック・ストローの砦」と呼ばれるようになった。パブが閉店した後、高級フラットへ改装され、現在はオフィスとして使用されているようである。



地下鉄ゴルダースグリーン駅方面へと至るノースエンドウェイ –
画面左手に「ジャック・ストローの砦」の建物外壁一部が見える。
<筆者撮影>


ノースエンドウェイを地下鉄ゴルダースグリーン駅方面へと向かう途中、ノースエンドウェイは、ノースエンドロード(North End Road)へと名前を変える。

その時点で、右側にあるノースエンド(North End)と言う脇道へと入る。



ノースエンドの北側に建つ家並み -
画面左奥に、地下鉄ゴルダースグリーン駅方面へと至るノースエンドウェイが延びている。
<筆者撮影>

ノースエンドのほぼ突き当たりの場所 -
画面右奥に伸びているのは、ノースエンドアベニュー(North End Avenue)で、
オールドワイルデス荘へ向かうワイルドウッドテラスは、画面左奥にある。
<筆者撮影>

ノースエンドを進み、左手にあるワイルドウッドテラス(Wildwood Terrace)と言う更なる脇道へ入る。


ノースエンドから枝分かれしたワイルドウッドテラスの入口
<筆者撮影>


ワイルドウッドテラスを奥に進む(その1)
<筆者撮影>

ワイルドウッドテラスを奥に進む(その2)
<筆者撮影>

ワイルドウッドテラスを奥に進む(その3)-
画面中央左手に、オールドワイルデス荘への入口が見える。
<筆者撮影>

オールドワイルデス荘の入口に辿り着いたところ
<筆者撮影>


ワイルドウッドテラスを奥まで進むと、進行方向左手に「オールドワイルデス荘」が建っており、これがジョン・リネルが住んでいた家で、ウィリアム・ブレイクが滞在していた家でもある。


オールドワイルデス荘の外壁には、
「ジョン・リネルがここに住み、そして、ウィリアム・ブレイクがここに滞在していた」ことを示す
Greater London Council のブループラークが掛けられている。

<筆者撮影>


Greater London Council のプラークは、「オールドワイルデス荘」の建物正面の外壁に掛けられているが、ワイルドウッドテラスと「オールドワイルデス荘」の間に、広い庭がある上に、植栽が茂っているため、ワイルドウッドテラスからはかなり見辛いと言うのが、正直な感想である。 


2026年4月25日土曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その30B

英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作「杉の柩」のペーパーバック版の表紙 -

棘がある薔薇の茎を背景にした表紙が、

裁判において用いられる儀礼用の小型の木槌(gavel)の形に切り取られている。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1940年に発表した「杉の柩(Sad Cypress)」の場合、婚約中のエリノア・カーライル(Elinor Carlisle)とロデリック・ウェルマン(Roderick Welman)の2人が、ロンドンで生活を送っていルところから、物語が始まる。エリノア・カーライルは、金持ちの未亡人であるローラ・ウェルマン(Mrs. Laura Welman)の姪で、ロデリック・ウェルマンは、ローラ・ウェルマンの亡き夫の甥に該る。

裕福な叔母ローラ・ウェルマンは、現在、寝たきりの状態で、彼女が亡くなった場合、エリノア・カーライルとロデリック・ウェルマンの2人には、かなりの額の財産が入る予定で、彼らは、ローラ叔母の遺産が入り次第、結婚するつもりでいた。


そんな時、「寝たきりの未亡人の財産が、若い女に狙われている。」と言う匿名の手紙が、エリノア・カーライルの元に届く。

エリノア・カーライルとロデリック・ウェルマンの2人は、本気で心配した訳ではないが、見舞いのため、ローラ叔母が住むハンターベリー(Hunterbury)の屋敷へと向かった。

ローラ叔母は、発作の後遺症で左半身が麻痺しており、エリノア・カーライルが彼女と話をしていると、そこにローラ叔母を治療している若いピーター・ロード医師(Dr. Peter Lord)がやって来る。自分の患者の美しい姪に初めて会ったピーター・ロード医師は、思わず赤面する。

一方、その頃、外を散歩していたロデリック・ウェルマンは、ローラ叔母のお気に入りで、ウェルマン家の門番の娘であるメアリー・ジェラード(Mary Gerrard)に出会い、その美しさに心を奪われてしまう。


その翌週、エリノア・カーライルとロデリック・ウェルマンの2人は、ピーター・ロード医師より、ローラ叔母が再び発作に襲われたとの連絡を受け、ハンターベリーの屋敷へと急いだ。

死期が近いことを悟ったローラ叔母は、エリノア・カーライルに対して、「(お気に入りの)メアリー・ジェラードのために、遺言書に追加条項を加えたいので、翌朝、弁護士を呼んでほしい。」と強く希望した。

ピーター・ロード医師によると、その日、ローラ叔母の容態は大丈夫な筈であったが、翌朝、ローラ叔母は、眠ったまま、亡くなっていた。


ローラ・ウェルマンを看護していたジェシー・ホプキンズ看護婦(Nurse Jessie Hopkins)は、持って来た筈のモルヒネがないことに気付く。

また、ローラ・ウェルマンの弁護士であるセドン(Mr. Seddon)は、彼女が遺言書を作成していなかったことを告げる。

その結果、唯一の血縁者であるエリノア・カーライルが、ローラ叔母の全財産を相続することになった。その一方で、ロデリック・ウェルマンが、メアリー・ジェラードに対する想いを明らかにしたため、エリノア・カーライルとロデリック・ウェルマンの婚約は、白紙となってしまう。


ジェシー・ホプキンズ看護婦の助言を受けたメアリー・ジェラードは、ニュージーランドに居る伯母に財産を遺す遺言書を作成する。また、エリノア・カーライルも、ロデリック・ウェルマンに全財産を遺す遺言書を作成した。


ロデリック・ウェルマンが居ないハンターベリーの屋敷に住む気になれないエリノア・カーライルは、屋敷を売ることに決めた。

約1ヶ月後、ハンターベリーの屋敷の買い手がついたので、エリノア・カーライルは、引き渡しの準備と家具の整理のために、屋敷を訪れた。また、メアリー・ジェラードも、ジェシー・ホプキンズ看護婦と一緒に、門番小屋の片付けに来ていた。

エリノア・カーライルの心中には、メアリー・ジェラードに対する嫉妬と憎しみが渦巻いていたが、表向きは礼儀正しさを崩さず、メアリー・ジェラードとジェシー・ホプキンズ看護婦の2人を、昼食(お茶とサンドウィッチ)に誘った。ところが、エリノア・カーライルがつくった魚肉ペーストのサンドウィッチを食べたメアリー・ジェラードが、昼食後間もなく、急に苦しんで、息を引き取ってしまったのである。


その結果、エリノア・カーライルは、メアリー・ジェラードに対して、モルヒネを盛った疑いで、警察に逮捕される。

ピーター・ロード医師は、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)の元を訪れると、「エリノア・カーライルが無実であることを立証してほしい。」と依頼するのであった。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


(69)魚肉ペースト(練りもの)のサンドウィッチ(plate of fish-paste sandwiches)



ハンターベリーの屋敷の買い手がついたエリノア・カーライルは、引き渡しの準備と家具の整理のために、屋敷を訪れた。

メアリー・ジェラードに対する嫉妬と憎しみが渦巻いていたものの、エリノア・カーライルは、表向きは礼儀正しさを崩さず、門番小屋の片付けに来ていたメアリー・ジェラードとジェシー・ホプキンズ看護婦の2人を、昼食(お茶とサンドウィッチ)に誘う。ところが、エリノア・カーライルがつくった魚肉ペーストのサンドウィッチを食べたメアリー・ジェラードが、昼食後間もなく、急に苦しんで、息を引き取ってしまったのである。メアリー・ジェラードの死因は、モルヒネ中毒だった。

メアリー・ジェラードが摂取することになったモルヒネは、何に入っていたのか?エリノア・カーライルが準備した魚肉ペーストのサンドウィッチなのか?(→ 3人とも魚肉ペーストのサンドウィッチを食しているが、エリノア・カーライルとジェシー・ホプキンズ看護婦の2人には、異常はなかった。)それとも、ジェシー・ホプキンズ看護婦が淹れた紅茶か?(→ メアリー・ジェラードとジェシー・ホプキンズ看護婦の2人は紅茶を飲んだが、エリノア・カーライルは紅茶を飲まなかった。)


(70)棘のない薔薇(thornless rose)



メアリー・ジェラードがモルヒネ中毒により亡くなる事件が発生した当日、ハンターベリーの屋敷の台所において、ジェシー・ホプキンズ看護婦が袖のカフスを外して、薬缶の端を洗い、桶にあけた際、エリノア・カーライルは、ジェシー・ホプキンズ看護婦の手首に何かに刺された痕を見つけた。

エリノア・カーライルの問い掛けに対して、青ざめた顔をしていたジェシー・ホプキンズ看護婦は、「門番小屋の側にある薔薇の垣根で、棘に刺されたんですが、直ぐに抜いてしまいました。」と口早に答えた。

メアリー・ジェラードをモルヒネを盛って殺害した容疑で、エリノア・カーライルに対する裁判が始まった後、エルキュール・ポワロとピーター・ロード医師の2人が確認してみると、門番小屋の側にあったのは、「ゼフィライン(Zephirine Rose)」と言う薔薇で、棘がない品種だったのである。


(71)裁判官(judge)



メアリー・ジェラードをモルヒネを盛って殺害した容疑で、エリノア・カーライルは訴追されるが、その裁判を担当したのが、べディングフェルド裁判官(Mr. Judge Beddingfeld)だった。


2026年4月24日金曜日

ロンドン セントジェイムズプレイス10番地(10 St. James’s Place)

セントジェイムズプレイス10番地の建物全景(その1)
<筆者撮影>


1895年8月に訪問先であるフランスのディエップ(Dieppe)からオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)は、リージェンツパーク(Regent’s Park → 2016年11月19日付ブログで紹介済)近くのチェスターテラス(Chester Terrace → 2026年4月9日付ブログで紹介済)の借家からセントジェイムズプレイス10番地(10 St. James’s Place)へと転居した。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示
されている
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの肖像画
(by Jacques-Emile Blanche / 1895年 / Oil on canvas)
<筆者撮影>


セントジェイムズプレイス10番地は、セントジェイムズプレイス10番地は、アイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、戯曲「サロメ(Salome → 2026年3月11日 / 3月12日付ブログで紹介済)」の作者のオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)が一時期執筆に使用していた場所だった。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
セントジェイムズ地区の地図を抜粋。


セントジェイムズプレイス10番地は、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James’s)内にあり、パル・マル通り(Pall Mall → 2016年4月30日付ブログで紹介済)とピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)を南北に結ぶセントジェイムズストリート(St. James’s Street → 2021年7月24日付ブログで紹介済)の中間辺りからグリーンパーク(Green Park)方面へ向かって西に延びるセントジェイムズプレイス(St. James’s Place)沿いに所在している。



セントジェイムズストリート側からセントジェイムズプレイスを見たところ -
セントジェイムズプレイス10番地の建物は、右側(北側)に建っている。
<筆者撮影>


セントジェイムズプレイス10番地は、セントジェイムズプレイスの中間辺りの北側に立っている。


セントジェイムズプレイス10番地の建物全景(その2)
<筆者撮影>


セントジェイムズストリートは、交通渋滞が激しいピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)を経由しないで、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からピカデリー通りへと行くことができる抜け道のため、車の往来が結構あるので、セントジェイムズストリート沿いは、それなりの騒音がある。ただ、セントジェイムズストリートからセントジェイムズプレイスへと少し入るだけで、かなり静かになる。


セントジェイムズストリート10番地の建物の反対側(南側)から
セントジェイムズプレイスの東方面を見たところ
<筆者撮影>

セントジェイムズストリート10番地の建物の反対側(南側)から
セントジェイムズプレイスの西方面を見たところ
<筆者撮影>


セントジェイムズプレイス沿いの建物には、他にも、以下の著名人が在住 / 滞在していた。


(1)セントジェイムズプレイス4番地(4 St. James’s Place)


セントジェイムズプレイス4番地の建物全景
<筆者撮影>


ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家で、ピアニストとしても有名だったフレデリック・フランソワ・ショパン(Frederic Francois Chopin:1810年ー1849年)が、ロンドンでの演奏旅行時(1848年)、ここに滞在。


フレデリック・ショパンが、1848年のロンドンでの演奏旅行時に滞在したのが、
セントジジェイムズプレイス4番地で、
建物外壁には、そのことを示すプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


フレデリック・ショパンがセントジジェイムズプレイス4番地に滞在したことを示す
Greater London Council によるプラークのアップ

<筆者撮影>


(2)セントジェイムズプレイス29番地(29 St. James’s Place)


ナショナルポートレートギャラリーで所蔵 / 展示されている
ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチルの肖像画
(by Sir William Orpen / 1916年 / Oil on canvas)
<筆者撮影>

セントジェイムズプレイス29番地の建物全景 -
現在、改装工事中だと思われる。
<筆者撮影>


英国の政治家、軍人、従軍記者、作家であるウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill:1874年ー1965年)が、1880年から1883年の間、ここに在住。 


セントジェイムズプレイス4番地の1階(GF)の外壁
<筆者撮影>

ウィンストン・チャーチルセントジジェイムズプレイス29番地に住んでいたことを示す
City of Westminster によるプラークのアップ

<筆者撮影>


2026年4月23日木曜日

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley)- その4

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)で所蔵 / 展示されている

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの白黒(モノトーン)のペン画3点

<筆者撮影>

1895年8月に訪問先であるフランスのディエップ(Dieppe)からオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)は、リージェンツパーク(Regent’s Park → 2016年11月19日付ブログで紹介済)近くのチェスターテラス(Chester Terrace → 2026年4月9日付ブログで紹介済)の借家からセントジェイムズプレイス10番地(10 St. James’s Place)へと転居した。

チェスターゲート通り(南側)から見たチェスターテラスの入口
<筆者撮影>

セントジェイムズプレイス10番地は、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James’s)内にあり、アイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、戯曲「サロメ(Salome → 2026年3月11日 / 3月12日付ブログで紹介済)」の作者のオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)が一時期執筆に使用していた場所だった。


オーブリー・ビアズリーは、休む遑もなく、1895年8月後半、ドイツのケルン、ミュンヘンやベルリンを訪問した後、同年9月後半までフランスのディエップに再び滞在。同年10月にロンドンに戻ると、セントジェイムズプレイス10番地にやっと腰を落ち着けた。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示
されている
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの肖像画
(by Jacques-Emile Blanche / 1895年 / Oil on canvas)
<筆者撮影>


1896年1月に、オーブリー・ビアズリーは、英国の出版業者であるレナード・チャールズ・スミザーズ(Leonard Charles Smithers:1861年ー1907年)と英国の詩人 / 文芸評論家 / 雑誌編集者であるアーサー・ウィリアム・シモンズ(Arthur William Symons:1865年ー1945年)による招きを受けて、雑誌「サヴォイ(The Savoy)」の創刊に参加。アーサー・シモンズが文芸編集者を、そして、オーブリー・ビアズリーが美術編集者を務める体制で、文学と芸術の融合を目指した雑誌の定期刊行を進めた。

しかし、鉄道駅構内を中心に展開する大手の本屋である W・H・スミス(W. H. Smith)が同誌の店頭販売を拒否する事態が発生した結果、全8巻を発行した後、1896年12月、廃刊に追い込まれてしまった。


テイト・ブリテン美術館で所蔵 / 展示されている

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーのペン画「The Fat Woman」

(1894年 / Ink on paper)

<筆者撮影>


雑誌「サヴォイ」の美術編集者を務める傍ら、オーブリー・ビアズリーは、1896年2月にパリへ移転。同年3月下旬には、文芸編集者のアーサー・シモンズと一緒に、ブリュッセルへ出かけた際、同地において喀血。これが、後に彼の生命を奪うことになる結核(tuberculosis)の兆候だった。同年4月には、パリへ戻った。


出版人のレナード・スミザーズからの依頼に基づき、オーブリー・ビアズリーは、1896年6月後半から同年8月前半にかけて、古代アテナイの喜劇詩人 / 風刺詩人であるアリストパネス(Aristophanes)の喜劇「女の平和(Lysistrata)」の挿絵を制作したが、その後、結核のため、彼の健康状態は悪化の一途を辿るのであった。