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| ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスの遺体が眠る墓石(その1) (ハイゲイト墓地の東区画) <筆者撮影> |
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| 2022年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の 愛蔵版(ハードカバー版)の表紙 (Cover design by Holly Macdonald / Illustrations by Shutterstock.com) |
その際に交わされたジェイムズ・シェパード医師とフローラ・アクロイドの会話に出てくる「フロス河の水車場(The Mill on the Floss)」の作者であるジョージ・エリオット(George Eliot)は、英国の作家である。実は、「ジョージ・エリオット」はペンネームで、本名はメアリー・アン・エヴァンズ(Mary Anne Evans:1819年ー1880年)。
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| ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery内で 所蔵 / 展示されているジョージ・エリオット (本名:メアリー・アン・エヴァンズ)の肖像画 (By Sir Frederic William Burton / chalk / 1865年 / 514 mm x 381 mm) |
1819年11月22日、土地差配人である父ロバート・エヴァンズ(Robert Evans:1773年ー1849年)と母クリスティアナ・エヴァンズ(Christiana Evans:1788年ー1836年 / 旧姓:ピアスン(Pearson))の下、ウォーリック州(Warwickshire)ヌニートン(Nuneaton)に出生したメアリー・アン・エヴァンズは、1850年、作家を志して、ロンドンへと移った。
彼女は、ダーフィト・フリードリヒ・シュトラウス(David Friedrich Strauss:1808年ー1874年)作「イエス伝」の英語翻訳版を刊行してくれた英国の出版業者であるジョン・チャップマン(John Chapman:1821年ー1894年)の家に寄宿。彼女は、ジョン・チャップマンが買収した左派系の雑誌「ザ・ウェストミンスター・レヴュー(The Westminster Review)」に、マリアン・エヴァンズ(Marian Evans)と言うペンネームを使い、同年から寄稿。1851年には、副主筆(assistant editor)へ昇格。
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| ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスの遺体が眠る墓石(その2) (ハイゲイト墓地の東区画) <筆者撮影> |
1857年、メアリー・アン・エヴァンズは、ブラックウッズマガジン(Blackwood’s Magazine)誌上に、彼女と不倫関係にあった英国の哲学者 / 文芸批評家ジョージ・ヘンリー・ルイス(George Henry Lewes:1817年ー1878年)の名を借りた「ジョージ・エリオット(George Eliot)」のペンネームを用いて、短編小説を順次発表し、1858年1月に、「牧師館物語(Scenes of Clerical Life)」として纏められ、出版された。
その後、彼女は、1859年には、最初の長編小説となる「アダム・ビード(Adam Bede)」を発表し、1876年には、長編小説第7作目となる「ダニエル・デロンダ(Daniel Deronda)」を出版。
なお、アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」において言及される「フロス河の水車場」は、1860年に発表された長編小説第2作目に該る。
| ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)が 1860年に発表した長編小説第2作目「フロス河の水車場」 <筆者撮影> |
メアリー・アン・エヴァンズと長らく不倫関係にあったジョージ・ヘンリー・ルイスが1878年11月30日に亡くなった後、彼女は、友人だった青年実業家のジョン・ウォルター・クロス(John Walter Cross:1840年ー1924年)との間で、親密度合いを深めていく。
そして、ジョージ・ヘンリー・ルイスが亡くなってから約18ヶ月後の1880年5月16日に、メアリー・アン・エヴァンズは、ジョン・ウォルター・クロスと結婚して、知人達を騒然とさせる。なお、ジョン・ウォルター・クロスは、メアリー・アン・エヴァンズよりも20歳以上年下だった。ジョン・ウォルター・クロスと結婚したメアリー・アン・エヴァンズは、メアリー・アン・クロス(Mary Ann Cross)と改名。
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| ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスの遺体が眠る墓石(その3) (ハイゲイト墓地の東区画) <筆者撮影> |
新婚旅行から戻って来たメアリー・アン・クロスとジョン・ウォルター・クロスの2人は、1880年12月3日にチェイニーウォーク4番地(4 Cheyne Walk → 2026年6月3日付ブログで紹介済)へ引っ越したが、彼女は、喉の痛みを訴えて、体調不良となり、数年前から患っていた腎臓病も併発したため、結婚から僅か7ヶ月後の1880年12月22日にロンドンで死去した。享年61歳で、メアリー・アン・クロスは、ジョン・ウォルター・クロスと一緒に、1880年12月3日から同年12月22日までの約3週間だけ、チェイニーウォーク4番地で暮らしたことになる。
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| チェイニーウォーク4番地の建物全景 <筆者撮影> |
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| チェイニーウォーク4番地の建物の2階の外壁には、 ジョージ・エリオットが、ここで亡くなったことを示すプラークが掛けられている。 <筆者撮影> |
ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスは、キリスト教を信仰していなかったことに加えて、ジョージ・ヘンリー・ルイスと長らく不倫関係にあったこともあり、彼女の遺体はウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)に埋葬されなかった。
そのため、彼女の遺体は、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のハイゲイト地区(Highgate)内にあるハイゲイト墓地(Highgate Cemetery → 2018年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)に埋葬された。
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| ハイゲイト墓地入場時に受け取った東区画の地図から抜粋。 |
ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスの遺体が埋葬されているのは、ハイゲイト丘を南北に延びるスワインズレーン(Swain’s Lane)の東側に1865年に追加された「東区画(East Cemetery)」の北東の角近く(別添の地図で言うと、左上の箇所)である。
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| ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスの生誕200周年を記念して、 2019年に The George Eliot Fellowship が設置した金属プレート <筆者撮影> |
ジョージ・エリオットこと、メアリー・アン・クロスの墓地の前の方に、彼女の生誕200周年を記念して、2019年に The George Eliot Fellowship の金属プレートが設置されている。
































