| ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)が 1860年に発表した長編小説第2作目「フロス河の水車場」 <筆者撮影> |
アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が執筆した長編としては、第6作目に、そして、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)シリーズの長編としては、第3作目に該る「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd → 2023年9月25日 / 10月2日付ブログで紹介済)」において、事件の記録者となる「わたし」こと、キングスアボット村(King's Abbot)に住むジェイムズ・シェパード医師(Dr. James Sheppard)が、村の富豪であるロジャー・アクロイド(Roger Ackroyd)から夕食に招待され、9月17日(金)の午後7時半に、ロジャー・アクロイドが住むフェルンリーパーク館(Fernly Park)を訪れる。会席者を待つ間、ジェイムズ・シェパード医師は、応接間において、ロジャー・アクロイドによる蒐集品の数々を眺めていると、そこへフローラ・アクロイド(Flora Ackroyd - ロジャー・アクロイドの義理の妹で、未亡人のセシル・アクロイド夫人(Mrs. Cecil Ackroyd)の娘)が姿を見せる。
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| ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery内で 所蔵 / 展示されているジョージ・エリオット (本名:メアリー・アン・エヴァンズ)の肖像画 (By Sir Frederic William Burton / chalk / 1865年 / 514 mm x 381 mm) |
その際に交わされたジェイムズ・シェパード医師とフローラ・アクロイドの会話に出てくる「フロス河の水車場(The Mill on the Floss)」の作者であるジョージ・エリオット(George Eliot)は、英国の作家である。実は、「ジョージ・エリオット」はペンネームで、本名はメアリー・アン・エヴァンズ(Mary Anne Evans:1819年ー1880年)。
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| 英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の ペーパーバック版の表紙 - ロジャー・アクロイドが住む フェルンリーパーク館へと向かう ジェイムズ・シェパード医師が運転する車を イメージしていると思われる。 |
1819年11月22日、土地差配人である父ロバート・エヴァンズ(Robert Evans:1773年ー1849年)と母クリスティアナ・エヴァンズ(Christiana Evans:1788年ー1836年 / 旧姓:ピアスン(Pearson))の下、ウォーリック州(Warwickshire)ヌニートン(Nuneaton)に出生したメアリー・アン・エヴァンズは、21歳の時、兄のアイザック・エヴァンズ(Isaac Evans:1816年ー1890年)が結婚して、エヴァンズ家の家を引き継いだため、父親と一緒に、コヴェントリー(Coventry)近郊へ移った。
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| 英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の ペーパーバック版の表紙 - 壁紙の絵が、物語の語り手であるジェイムズ・シェパード医師が 事件を記録するために使用しているインク壺と羽根ペンの形に切り取られている。 |
そこで、彼女は、哲学者であるチャールズ・ブレイ(Charles Bray:1811年ー1884年)とカーラ・ブレイ(Cara Bray)の夫妻と知り合い、1846年(27歳)に、ドイツの神学者 / 哲学者であるダーフィト・フリードリヒ・シュトラウス(David Friedrich Strauss:1808年ー1874年)の「イエス伝」の英語翻訳版を刊行。
1849年(30歳)に父親が亡くなり、父の葬式を済ませた5日後に、メアリー・アン・エヴァンズは、ブレイ夫妻と一緒に、欧州大陸旅行へ出発。ブレイ夫妻とともに、スイスを訪れた後、彼女は、一人で残り、ジュネーヴに滞在した。
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| 2022年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の 愛蔵版(ハードカバー版)の表紙 (Cover design by Holly Macdonald / Illustrations by Shutterstock.com) |
1850年にジュネーヴから帰国したメアリー・アン・エヴァンズは、作家にを志して、ロンドンへと移った。彼女は、ダーフィト・フリードリヒ・シュトラウス作「イエス伝」の英語翻訳版を刊行してくれた英国の出版業者であるジョン・チャップマン(John Chapman:1821年ー1894年)の家に寄宿。
そして、ジョン・チャップマンが買収した左派系の雑誌「ザ・ウェストミンスター・レヴュー(The Westminster Review)」に、メアリー・アン・エヴァンズは、マリアン・エヴァンズ(Marian Evans)と言うペンネームを使い、同年から寄稿。1851年には、副主筆(assistant editor)へ昇格。なお、ジョン・チャップマン自身が主筆(editor)を務めた。












































