2026年3月3日火曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その23B

英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作「メソポタミアの殺人」の
ペーパーバック版の表紙 -

中東に広がる砂漠の表紙が、

遺跡を発掘するのに使用されるスコップの形に切り取られている。


その後も、ルイーズ・ボスナー(Louise Bosner)が新しい男性と親しくなる度に、夫のフレデリック・ボスナー(Frederick Bosner)の名前で、脅迫状が舞い込んだ。ところが、ルイーズが米国人考古学者のエリック・ライドナー博士(Dr. Eric Leidner)と出会って結婚するまでの間、脅迫状は届かなかった。

しかしながら、二人の結婚後、夫のフレデリックの名前で、「命令に背いたお前を殺す。」と書かれた脅迫状が再び届き、その直後、ルイーズとエリックの二人は、自宅において、危うくガス中毒で殺されかけたのである。

そのため、二人は、イラクで発掘調査をする時以外も、海外で暮らし始めると、それから2年間、脅迫状はぱたりと止んだ。


しかし、今年の発掘調査が始まると、3週間前に、「お前の命は、風前の灯だ。」と、そして、1週間前には、「俺は、遂にやって来たぞ。」と書かれた脅迫状がまた届いたため、ルイーズは、恐怖に怯えていたのである。

ただ、脅迫状に書かれた筆跡が、ルイーズのものによく似ていたため、夫のエリック・ライドナー博士と英国人看護婦で、ルイーズの付き添いとして雇われたエイミー・レザラン(Amy Leatheran)の二人は、ルイーズが自分で自分宛に脅迫状を書いているのではないかと疑う。


翌日の午後、昼寝の床に就いたルイーズが自室の床の上で死んでいるのを、夫のエリック・ライドナー博士が発見した。何か重いものによる右のこめかみへの一撃が、彼女の死因だった。ところが、ルイーズの部屋の窓は、内側から鍵がかかっている上に、室内から凶器らしきものは、全く見つからなかった。


事件発生当時、ルイーズの部屋の前の中庭では、現地の少年が発掘された土器を洗っており、彼女の部屋には、誰も出入りしなかったと証言する。更に、中庭へと通じる発掘調査隊宿舎の入口には、現地雇いの使用人達が集まって、雑談に興じており、見知らぬ外部の人間が宿舎内へと侵入することは、不可能だった。

つまり、ルイーズを殺害した犯人は、発掘調査隊のメンバーの中に居ると思われた。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


折しも、シリアからバグダッドへと向かう途中、この辺りを通りかかったエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)は、自分達の手には負えないと判断した地元の警察署長から要請され、事件の捜査を引き受けるのであった。


(48)遺跡の発掘現場(archaeological dig)



米国人考古学者のエリック・ライドナー博士は、ピッツタウン大学イラク調査隊のメンバー達と一緒に、発掘調査隊を組成し、古代メソポタミアの地、チグリス河岸にあるテル・ヤリミヤ(Tell Yarimjah)遺跡において、発掘調査を進めていた。

そして、発掘調査隊の宿舎内において、エリック・ライドナー博士の妻であるルイーズ・ライドナーが、密室状態の自室の床の上で死んでいるのが発見される。


(49)黄金の杯(gold cup)



黄金の杯は、テル・ヤリミヤ遺跡から発掘された調度品の一つである。


(50)石臼 (stone quern)



昼寝の床に就いたルイーズ・ライドナーが自室の床の上で死んでいるのが、夫のエリック・ライドナー博士によって発見される。何か重いものによる右のこめかみへの一撃が、彼女の死因であった。

地元の警察署長からの要請に基づき、事件の捜査を引き受けたエルキュール・ポワロは、石臼 が凶器だったことを見抜く。


2026年3月2日月曜日

ロンドン クレイヴンストリート32番地(32 Craven Street)

ドイツの詩人であるハインリヒ・ハイネが住んでいた
クレイヴンストリート32番地の建物全景
<筆者撮影>

印刷業で成功を収めた後、政界へ進出したベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin:1706年ー1790年 / 米国の政治家 / 外交官 / 著述家 / 物理学者 / 気象学者 → 2026年2月20日 / 2月26日付ブログで紹介済)は、英国領北米植民地における待遇改善を要求するため、1757年に、ペンシルヴェニア植民地(Pennsylvania Assembly)により、英国へと派遣される。


彼は、1757年から1775年までの約20年間、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内にあるクレイヴンストリート36番地(36 Craven Street → 2026年2月27日付ブログで紹介済)に間借りしており、現在、この建物は、「ベンジャミン・フランクリンハウス(Benjamin Franklin House)」として、一般に公開されている。

クレイヴンストリート32番地の建物を見上げたところ
<筆者撮影>


チャリングクロス駅(Charing Cross Station → 2014年9月20日付ブログで紹介済)の前を通って東西に延びるストランド通り(Stand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)からテムズ河(River Thames)へ向かい、クレイヴンストリート(Craven Street → 2014年8月3日付ブログで紹介済)が南北に延びている。

クレイヴンストリート36番地の建物は、クレイヴンストリートの東側に、チャリングクロス駅に隣接するように建っている。


クレイヴンストリート32番地の建物入口(その1)
<筆者撮影>


クレイヴンストリートには、ベンジャミン・フランクリン以外にも、著名人が住んでいた建物がある。

それは、クレイヴンストリート32番地(32 Craven Street)の建物で、ベンジャミン・フランクリンが住んでいたクレイヴンストリート36番地と同じ側(=クレイヴンストリートの東側)に建っている。


クレイヴンストリート32番地の建物入口(その2)
<筆者撮影>


クレイヴンストリート32番地の建物には、ドイツの詩人 / 文芸評論家 / エッセイスト / ジャーナリストであるクリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Henrich Heine:1797年ー1856年)が一時住んでいた。


クレイヴンストリート32番地の建物外壁には、
ハインリヒ・ハイネがここに住んでいたことを示す
LCC (London City Council) のプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


1797年にデュッセルドルフ(
Düsseldorf)に生まれ、1825年に名門ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン(Georg-August-Universität Göttingen)を卒業して、法学の学士を取得したハインリヒ・ハイネは、学生時代から雑誌に寄稿していたため、職業作家 / ジャーナリストとしての活動を始める。
ハインリヒ・ハイネは、ハンブルク(Hamburg)に移住した後、1827年にミュンヘン(München)へ、そして、1829年にベルリン(Berlin)へ移り住むが、その間に、1827年に英国とオランダを、また、1829年にイタリアを旅行している。


クレイヴンストリート32番地の建物外壁に掛けられている
ハインリヒ・ハイネがここに住んでいたことを示すプラークのアップ
<筆者撮影>


つまり、1827年に英国を訪れた際、ハインリヒ・ハイネは、一時、クレイヴンストリート32番地の建物に滞在していた訳である。

彼の旅行体験は、「旅の絵(Reisebilder)」(1826年-1831年)や「イギリス断章(Englische Fragmente)」(1827年)等の作品に結実することになる。


2026年3月1日日曜日

ヨハネス・フェルメール作「ギターを弾く女」(The Guitar Player by Johannes Vermeer)- その2

「白亜の館」と呼ばれるケンウッドハウス内に所蔵 / 展示されている
ヨハネス・フェルメール作「ギターを弾く女」(1671年ー1674年)<その1>
53.0 cm x 46.3 cm / Oil on canvas
<筆者撮影>

絵画「ギターを弾く女(The Guitar Player)」は、ネーデルラント連邦共和国(現オランダ王国)の画家で、レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn:1606年ー1669年 → 2025年9月26日 / 10月2日付ブログで紹介済)と並ぶ17世紀オランダ黄金時代を代表する画家と評されているヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer:1632年?ー1675年? / 本名:ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト(Jan van der Meer van Delft)の晩年(1671年ー1674年)の作品で、残念ながら、ベストの作品とは言えない。

ヨハネス・フェルメールの作品の場合、左手に光源があることが多いが、「ギターを弾く女」については、珍しく光源が右手にある。


「ギターを弾く女」は、ヨハネス・フェルメールが亡くなった時に、フェルメール家に残っていた絵画の1枚で、彼の妻カタリーナ・ボルネス(Catharina Bolnes:1631年ー1688年)は、パン屋のヘンドリック・ファン・バイテンに、借金の担保として渡さざるを得なかった。

カタリーナ・ボルネスは、「ギターを弾く女」をなんとか取り戻そうとしたものの、上手くいかず、ヘンドリック・ファン・バイテンが1701年に死んだ際に残された「ギターを弾く女」は、売却されてしまった。


上記以降、「ギターを弾く女」がどのような経路を辿ったのか、不明なるも、1794年に英国のパルマーストーン公が同作品をハーグ(Den Haag)で購入したと言う記録が残っている。


「白亜の館」と呼ばれるケンウッドハウス内に所蔵 / 展示されている
ヨハネス・フェルメール作「ギターを弾く女」(1671年ー1674年)<その2>
53.0 cm x 46.3 cm / Oil on canvas
<筆者撮影>


その後、何人かの手を経て、ロンドンの画廊が同作品を入手して、ギネスビール社会長の初代アイヴィー伯爵エドワード・セシル・ギネス(Edward Cecil Guinness, 1st Earl of Iveagh:1847年ー1927年)が、1889年に購入。


「白亜の館」と呼ばれるケンウッドハウス内に所蔵 / 展示されている
初代アイヴィー伯爵エドワード・セシル・ギネスの肖像画
<筆者撮影>

彼がハムステッドヒース(Hampstead Heath → 2015年4月25日付ブログで紹介済)内に建つ「白亜の館」であるケンウッドハウス(Kenwood House → 2018年9月23日付ブログで紹介済)を購入したことに伴い、「ギターを弾く女」は、ケンウッドハウス内に所蔵 / 展示される。


「白亜の館」と呼ばれるケンウッドハウスの裏面
<筆者撮影>


その2年後の1927年、初代アイヴィー伯爵エドワード・セシル・ギネスが死去した際、ケンウッドハウスは、彼が購入後に展示していた絵画コレクション(「ギターを弾く女」を含む)と一緒に、国に遺贈されて、現在、イングリッシュヘリテージ(English Heritage)がケンウッドハウスと絵画コレクションを管理しており、一般に公開している。


ケンウッドハウス前から見たハムステッドヒース
<筆者撮影>

「ギターを弾く女」は、ずっと個人蔵であったため、後世に行われた修復の影響がなく、額縁を含めて、ほぼオリジナルのままと言われている。


2026年2月28日土曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その23A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「メソポタミアの殺人」ペーパーバック版の表紙 -
表紙の背景は、古代メソポタミアの地、
チグリス河岸にあるテル・ヤリミヤ遺跡の発掘現場で、
手前の人物は、
遺跡発掘調査隊を率いる米国人考古学者のエリック・ライドナー博士の妻で、
事件の被害者となるルイーズ・ライドナーだと思われる。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(48)遺跡の発掘現場(archaeological dig)



ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)から右真横へ移動した画面右端近くにある柱の側に、彼の執事であるジョージ(George → 2025年10月23日付ブログで紹介済)が立っている。ポワロの執事ジョージが立つ左側の柱に、遺跡の発掘現場が物入れのように立て掛けられている。


(49)黄金の杯(gold cup)



ジグソーパズルの下段のやや右手にあるテーブルの上段の右端の辺りに、黄金の杯が置かれている。


(50)石臼 (stone quern)



ジグソーパズルの下段のやや右手にあるテーブルの下段の左端の辺りに、石臼が置かれている。


これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1936年に発表した「メソポタミアの殺人(Murder in Mesopotamia)」である。

「大空の死」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第19作目に、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第12作目に該っている。

なお、本作品は、「ナイルに死す(Death on the Nile)」(1937年)と「死との約束(Appointment with Death → 2021年3月13日付ブログで紹介済)」(1938年)へと続く中近東を舞台にした長編第1作目でもある。


バグダッドでの仕事を終えた英国人看護婦のエイミー・レザラン(Amy Leatheran)は、イラクの遺跡発掘調査隊を率いる米国人考古学者のエリック・ライドナー博士(Dr. Eric Leidner)に雇われ、彼の妻であるルイーズ・ライドナー(Louise Leidner)の付き添いをすることになった。そのため、エイミーは、古代メソポタミアの地、チグリス河岸にあるテル・ヤリミヤ(Tell Yarimjah)遺跡の発掘調査隊宿舎へとやって来た。


発掘調査隊宿舎に到着したエイミーは、ルイーズ・ライドナーから、ピッツタウン大学イラク調査隊のメンバーを紹介される。ルイーズは、40歳近くの魅力的で美しい女性であったが、神経衰弱により、ノイローゼになる位に怯えていたのである。


発掘調査隊宿舎に着いて1週間が経過し、エイミーのことを信頼したルイーズは、彼女に対して、「自分は、もうすぐ殺されてしまうかもしれない。」と打ち明ける。

ルイーズによると、第一次世界大戦(1914年ー1918年)中の20歳の時に、フレデリック・ボスナー(Frederick Bosner)と最初の結婚をした。フレデリックは米国政府で働いていたが、ルイーズは、夫のフレデリックが実際にはドイツのスパイであることに気付き、陸軍省に勤めていた父親に通報した。その結果、フレデリックは、米国政府によって逮捕されてしまう。そして、ルイーズは、夫のフレデリックがドイツのスパイとして、米国政府により処刑されたものと思っていた。


ところが、後にルイーズが他の男性と親しくなると、夫のフレデリックの名前で、「その相手と直ぐに別れろ。」と迫る脅迫状が届くようになる。驚くルイーズに対して、父親は真相を話す。ルイーズの夫フレデリックは、米国政府により逮捕されたものの、処刑前に脱走を図った後、列車の転覆事故に巻き込まれて、死亡したことになっていた。ただ、遺体の損傷が激しかったため、間違いなく、遺体がフレデリック本人であるとは断言できなかったのである。


2026年2月27日金曜日

ロンドン ベンジャミン・フランクリンハウス / クレイヴンストリート36番地(Benjamin Franklin House / 36 Craven Street)

「ベンジャミン・フランクリンハウス」
(クレイヴンストリート36番地)の建物全景
<筆者撮影>


印刷業で成功を収めた後、政界へ進出したベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin:1706年ー1790年 / 米国の政治家 / 外交官 / 著述家 / 物理学者 / 気象学者 → 2026年2月20日 / 2月26日付ブログで紹介済)は、英国領北米植民地における待遇改善を要求するため、1757年に、ペンシルヴェニア植民地(Pennsylvania Assembly)により、英国へと派遣される。


ベンジャミン・フランクリンの渡英300周年を記念して、
セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会
(The Priory Church of St. Bartholomew the Great →
2026年2月17日 / 2月19日 / 2月22日付ブログで紹介済)
が印刷した冊子
(Painting of from Boston Public Library /
Artist : Joseph-Siffrede Duplessis)


彼は、1757年から1775年までの約20年間、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内にあるクレイヴンストリート36番地(36 Craven Street)に間借りしていた。


「ベンジャミン・フランクリンハウス」の看板
<筆者撮影>

「ベンジャミン・フランクリンハウス」の入口
<筆者撮影>


チャリングクロス駅(Charing Cross Station → 2014年9月20日付ブログで紹介済)の前を通って東西に延びるストランド通り(Stand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)からテムズ河(River Thames)へ向かい、クレイヴンストリート(Craven Street → 2014年8月3日付ブログで紹介済)が南北に延びている。

クレイヴンストリート36番地の建物は、クレイヴンストリートの東側に、チャリングクロス駅に隣接するように建っている。


「ベンジャミン・フランクリンハウス」の外壁には、
ベンジャミン・フランクリンがここに住んでいたことを示すプラークが掛けられている。
<筆者撮影>

ベンジャミン・フランクリンがクレイヴンストリート36番地の建物に住んでいたことを示す
プラークのアップ

<筆者撮影>

クレイヴンストリート36番地の建物は、英国の建築家であるヘンリー・フリットクロフト(Henry Flitcroft:1697年ー1729年)により設計された。


「ベンジャミン・フランクリンハウス」内の階段(その1)
<筆者撮影>

「ベンジャミン・フランクリンハウス」内の階段(その2)
<筆者撮影>


当時、クレイヴンストリート36番地の建物には、マーガレット・スティーヴンスン夫人(Mrs. Margaret Stevenson)と娘のポリー・スティーヴンスン(Polly Stevenson)が所有しており、ベンジャミン・フランクリンは、彼女達から建物の一部を借り受けたのである。

ベンジャミン・フランクリンは、彼女達に対して、年間、100ポンドの家賃を支払っていたと記録されている。


ベンジャミン・フランクリンが間借りしていた区画の想像図
<筆者撮影>

ベンジャミン・フランクリンが間借りしていた区画の現在
<筆者撮影>

ベンジャミン・フランクリンが間借りしていた区画の窓から外を見たところ
<筆者撮影>


クレイヴンストリート36番地の建物の地下では、一時、マーガレット・スティーヴンスン夫人の義理の息子であるウィリアム・ヒュースン医師(Dr. William Hewson)が、解剖学の学校を運営していた。


「ベンジャミン・フランクリンハウス」の地下の壁にも、
ベンジャミン・フランクリンがここに住んでいたことを示すプラークが掛けられている。
<筆者撮影>

「ベンジャミン・フランクリンハウス」の中庭から上を見上げたところ
<筆者撮影>


クレイヴンストリート36番地の建物は、修復工事を経て、ベンジャミン・フランクリンの生誕300周年に該る2006年1月17日に、「ベンジャミン・フランクリンハウス(Benjamin Franklin House)」として、一般に公開されている。

なお、クレイヴンストリート36番地の建物は、ベンジャミン・フランクリンが住んでいた家屋のうち、世界中で唯一現存しているものである。


2026年2月26日木曜日

ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)- その2

ベンジャミン・フランクリンの渡英300周年を記念して、
セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会が印刷した冊子から抜粋
(Photo by photos.com on free images.com)

テューダー朝の第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年 → 2023年6月24日 / 7月2日付ブログで紹介済)による統治時、セントバーソロミュー修道院(Priory of St. Bartholomew)から英国国教会(Church of England)の教会へと変わったセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great → 2026年2月17日 / 2月19日 / 2月22日付ブログで紹介済)の一部で印刷所を経営していたサミュエル・パルマー(Samuel Palmer)の下、植字工(compositor / typesetter)として、1725年(19歳)から約1年間働いたベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin:1706年ー1790年 / 米国の政治家 / 外交官 / 著述家 / 物理学者 / 気象学者)は、1726年(20歳)に、英国からフィラデルフィア(Philadelphia)へ戻り、印刷業を再開した。


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)で販売されている
エリザベス1世の肖像画の葉書
(Unknown English artist / 1600年頃 / Oil on panel
1273 mm x 997 mm) -
エリザベス1世は、王族しか着れない
イタチ科オコジョの毛皮をその身に纏っている。
オコジョの白い冬毛は、「純血」を意味しており、
実際、エリザベス1世は、英国の安定のために、
生涯、誰とも結婚しなかったので、「処女女王」と呼ばれた。
エリザベス1世の」赤毛」と「白塗りの化粧」は、
当時流行したものである。

セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の
建物正面(西側)を見たところ
<筆者撮影>

ベンジャミン・フランクリンの渡英300周年を記念して、
セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会が印刷した冊子から抜粋
(Photo by samleven on free images.com /
Statue by Joseph Brown)


ベンジャミン・フランクリンは、印刷業を行う傍ら、

*1729年:「ペンシルヴェニアガゼット(The Pennsylvania Gazette)」誌を買収して、米国初のタブロイド誌を発行。

*1731年:フィラデルフィアに米国初の公共図書館(フィラデルフィア組合図書館)を設立。

*1734年:「貧しいリチャードの暦(Poor Richard’s Almanack)」を発行して、米国人の道徳的手本となる。

*1737年:フィラデルフィアで郵便局長(postmater of Philadelphia)に就任。

*1743年:米国学術協会(American Philosophical Society)を設立。

*1748年:印刷業から手を引き、ペンシルヴェニア植民地議員(Pennsylvania Assembly councilman)や郵便総局長(postmaster-general of Philadelphia)を務め、公職に専念。

*1751年:フィラデルフィアアカデミー(Philadelphia Academy → 後のペンシルヴェニア大学)を設立。

*1752年:凧を用いた実験を通して、雷と電気が同じものであることを証明。

*1753年:英国領北米郵政副長官(deputy postmaster-general of British North America)に就任。


等の活動を経て、政界へと進出した。


英国領北米植民地における待遇改善を要求するため、1757年に、ベンジャミン・フランクリンは、ペンシルヴェニア植民地(Pennsylvania Assembly)により、英国へと派遣される。

彼は、1757年から1775年までの間、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内にあるクレイヴンストリート36番地(36 Craven Street)に間借りしていた。

クレイヴンストリート36番地の建物は、「ベンジャミン・フランクリンハウス(Benjamin Franklin House)」として、一般に公開されているので、次回紹介したい。


2026年2月25日水曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その22B

英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作「ABC 殺人事件」の
ペーパーバック版の表紙 -

'ABC' と名乗る犯人の策略により、ストッキングのセールスマンとして、

英国内を巡っているアレグサンダー・ボナパート・カストが従軍した

第一次世界大戦の戦場跡(?)と思われる草原の表紙が、

'ABC' と名乗る犯人がエルキュール・ポワロ宛に送り付けた犯行予告を

タイプするのに使用したタイプライターの形に切り取られている。

もしかすると、表紙の草原は、

サー・カーマイケル・クラークが引退したチャーストンにある屋敷の敷地なのかもしれない。


「A」で始まる「アンドーヴァー(Andover)」と「B」で始まる「べクスヒル(Bexhill)」に続き、’ABC’ と名乗る謎の人物からエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)の元に、第3の犯行を予告する手紙が届いた。今回、警戒する場所は、「C」で始まる「チャーストン(Churston)」だった。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


ただし、今回は、一つおかしな点があった。第1の犯行と第2の犯行を予告する手紙の場合、犯行当日まで若干の日数があったものの、第3の犯行を予告する手紙の場合、犯行当日にポワロは手紙を受け取ったのである。

ポワロが手紙の宛先をよく見てみると、彼が住んでいるフラットの名前が一部誤ってタイプされていた。そのため、手紙の配達に、通常よりも日数を要したのだった。

第1の犯行と第2の犯行を予告する手紙の場合、ポワロが住むフラットの名前は正しくタイプされていたのに、第3の犯行を予告する手紙の場合、彼が住むフラットの名前は誤ってタイプされたのか?後に判明するが、これには、深い意図があったのである。


手紙の予告通り、第3の殺人事件として、チャーストンにおいて、かつて医師として成功した大富豪で、イニシャルが「C. C.」のサー・カーマイケル・クラーク(Sir Carmichael Clarke)が殺害されているのが発見された。

そして、アリス・アッシャー(Alice Asher)/ エリザベス(ベティー)・バーナード(Elizabeth (Betty) Barnard)と同様に、サー・カーマイケル・クラークの死体の傍にも、「ABC 鉄道案内」が置かれていたのである。


ポワロは、’ABC’ と名乗る犯人が、住んでいる場所の頭文字とイニシャルが合致する人物を、アルファベット順に選び出した上で、殺害しているものと推測した。

ところが、それぞれの被害者に対して、殺害動機を有する者は存在しているが、全ての被害者に対して、殺害動機を有する人物は居なかった。また、被害者達には、’ABC’ 以外の関連性はなく、’ABC’ と名乗る犯人の正体とその動機については、判らなかった。


アーサー・ヘイスティングス大尉は、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立つ
エルキュール・ポワロの左斜め後ろに居る。

<筆者撮影>


ポワロとアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings → 2025年10月12日付ブログで紹介済)は、以下の事件関係者達を集まると、’ABC’ と名乗る犯人の正体を捕まえるチームを結成するのであった。


(1)メアリー・ドローワー(Mary Drower):アリス・アッシャーの姪で、アンドーヴァー近郊の屋敷でメイドとして働いている。

(2)ドナルド・フレーザー(Donald Fraser):ベティー・バーナードの婚約者

(3)メーガン・バーナード(Megan Barnard):ベティー・バーナードの姉で、ロンドンでタイピストとして働いている。

(4)フランクリン・クラーク(Franklin Clarke):サー・カーマイケル・クラークの弟で、兄の右腕として、兄が趣味としている骨董品を、世界中から買い集めている。

(5)ソーラ・グレイ(Thora Grey):サー・カーマイケル・クラークの秘書


その最中、第4の犯行を予告する手紙が届いた。今回、警戒する場所は、「D」で始まる「ドンカスター(Doncaster)」だった。そして、犯行当日は、ドンカスターにおいて、「セントレジャーステークス(St. Leger Stakes)」と呼ばれる競馬が開催される日で、大混雑が予想された。


(45)ABC 鉄道案内(railway guide)



「アンドーヴァー」の「アリス・アッシャー」、「べクスヒル」の「ベティー・バーナード」、そして、「チャーストン」の「サー・カーマイケル・クラーク」と、’ABC’ と名乗る犯人は、住んでいる場所の頭文字とイニシャルが合致する人物を、アルファベット順に選び出した上で、殺害した後、自分の犯行であることを示すように、死体の傍らにABC 鉄道案内を残したのである。


(46)絹のストッキング(silk stocking)



「アリス・アッシャー」が殺害された「アンドーヴァー」、「ベティー・バーナード」が殺された「べクスヒル」、そして、「サー・カーマイケル・クラーク」が殺害された「チャーストン」に姿を見せたのは、ストッキングのセールスマンであるアレグザンダー・ボナパート・カスト(Alexander Bonaparte Cust)だった。

彼は、第一次世界大戦(1914年-1918年)に従軍したが、復員後、その後遺症に悩まされていた。また、自分の名前が2人の偉大な英雄(アレクサンダー大王とナポレオン・ボナパルト)に由来していることに、強いコンプレックスを抱いている。

真犯人による策略にはまり、アレグザンダー・ボナパート・カストは、一連の事件の犯人と言う濡れ衣を着せられることになる。


(47)セントレジャーステークス (St. Leger Stakes horse race)



英国のクラシック三冠 / 牝馬クラシック三冠の最終戦として、ドンカスター競馬場の芝コースで開催される競馬で、このドンカスターが、’ABC’ と名乗る犯人による第4の犯行場所となった。