2026年4月26日日曜日

ロンドン ノースエンド / オールドワイルデス荘(North End / Old Wyldes)

英国の風景画家 / 肖像画家 / 銅版画職人のジョン・リネルが住み、
英国の詩人、画家で、銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイクが滞在していた
オールドワイルデス荘(その1)
<筆者撮影>


英国の詩人、画家で、銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイク(William Blake:1757年ー1827年 → 2023年5月15日付ブログで紹介済)は、1818年に知人から英国の風景画家 / 肖像画家 / 銅版画職人のジョン・リネル(John Linnell:1792年ー1882年)を紹介される。

ジョン・リネルは、1822年、17歳だった若い画家のサミュエル・パーマー(Samuel Palmer:1805年ー1881年)の才能を見抜き、彼の教育に務めた。サミュエル・パーマーは、後に英国の風景画家 / 肖像画家となり、ジョン・リネルの娘とも結婚する。

1824年、サミュエル・パーマーは、ジョン・リネルを通じて、ウィリアム・ブレイクと知り合い、彼から強い影響を受ける。ウィリアム・ブレイクを信奉するサミュエル・パーマーは、宗教的なテーマで幻想的な雰囲気の風景画を描くようになった。


英国の風景画家 / 肖像画家 / 銅版画職人のジョン・リネルが住み、
英国の詩人、画家で、銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイクが滞在していた
オールドワイルデス荘(その2)
<筆者撮影>


ジョン・リネルが住んでいた家「オールドワイルデス荘(Old Wyldes)」の外壁には、「ジョン・リネルが住んでいたこと」と「ウィリアム・ブレイクが滞在していたこと」を示す Greater London Council のプラークが掛けられている。


隣りに建つ家の前から、オールドワイルデス荘とブループラークを見たところ
<筆者撮影>


ジョン・リネルが住んでいた家「オールドワイルデス荘」は、ロンドンの特別区の一つであるバーネット区(London Borough of Barnet)内に所在している。


地下鉄のノーザンライン(Northern Line)が停まる地下鉄ハムステッド駅(Hampstead Tube Station)の前を通るヒースストリート(Heath Street)を北上すると、「ジャック・ストローの砦(Jack Straw’s Castle → 2018年8月27日付ブログで紹介済)」が建つ場所で、ハムステッドヒース(Hampstead Heath → 2015年4月25日付ブログで紹介済)へと向かうスパ二アーズロード(Spaniards Road:東側)と地下鉄ゴルダースグリーン駅(Golders Green Tube Station → 2024年12月20日付ブログで紹介済)へと向かうノースエンドウェイ(North End Way:西側)の二手に分かれる。


「ジャック・ストローの砦」の建物全景
<筆者撮影>


1381年にイングランドのケント州(Kent)やエセックス州(Essex)を中心にして全国的規模で起きた農民反乱(Peasant’s Revolt)の際、エセックス州の農民を率いてロンドンに入った指導者ジャック・ストロー(Jack Straw)がこの地に住んでいたと言われており、ここにパブが建てられた時、それに因んで、「ジャック・ストローの砦」と呼ばれるようになった。パブが閉店した後、高級フラットへ改装され、現在はオフィスとして使用されているようである。



地下鉄ゴルダースグリーン駅方面へと至るノースエンドウェイ –
画面左手に「ジャック・ストローの砦」の建物外壁一部が見える。
<筆者撮影>


ノースエンドウェイを地下鉄ゴルダースグリーン駅方面へと向かう途中、ノースエンドウェイは、ノースエンドロード(North End Road)へと名前を変える。

その時点で、右側にあるノースエンド(North End)と言う脇道へと入る。



ノースエンドの北側に建つ家並み -
画面左奥に、地下鉄ゴルダースグリーン駅方面へと至るノースエンドウェイが延びている。
<筆者撮影>

ノースエンドのほぼ突き当たりの場所 -
画面右奥に伸びているのは、ノースエンドアベニュー(North End Avenue)で、
オールドワイルデス荘へ向かうワイルドウッドテラスは、画面左奥にある。
<筆者撮影>

ノースエンドを進み、左手にあるワイルドウッドテラス(Wildwood Terrace)と言う更なる脇道へ入る。


ノースエンドから枝分かれしたワイルドウッドテラスの入口
<筆者撮影>


ワイルドウッドテラスを奥に進む(その1)
<筆者撮影>

ワイルドウッドテラスを奥に進む(その2)
<筆者撮影>

ワイルドウッドテラスを奥に進む(その3)-
画面中央左手に、オールドワイルデス荘への入口が見える。
<筆者撮影>

オールドワイルデス荘の入口に辿り着いたところ
<筆者撮影>


ワイルドウッドテラスを奥まで進むと、進行方向左手に「オールドワイルデス荘」が建っており、これがジョン・リネルが住んでいた家で、ウィリアム・ブレイクが滞在していた家でもある。


オールドワイルデス荘の外壁には、
「ジョン・リネルがここに住み、そして、ウィリアム・ブレイクがここに滞在していた」ことを示す
Greater London Council のブループラークが掛けられている。

<筆者撮影>


Greater London Council のプラークは、「オールドワイルデス荘」の建物正面の外壁に掛けられているが、ワイルドウッドテラスと「オールドワイルデス荘」の間に、広い庭がある上に、植栽が茂っているため、ワイルドウッドテラスからはかなり見辛いと言うのが、正直な感想である。 


2026年4月25日土曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その30B

英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作「杉の柩」のペーパーバック版の表紙 -

棘がある薔薇の茎を背景にした表紙が、

裁判において用いられる儀礼用の小型の木槌(gavel)の形に切り取られている。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1940年に発表した「杉の柩(Sad Cypress)」の場合、婚約中のエリノア・カーライル(Elinor Carlisle)とロデリック・ウェルマン(Roderick Welman)の2人が、ロンドンで生活を送っていルところから、物語が始まる。エリノア・カーライルは、金持ちの未亡人であるローラ・ウェルマン(Mrs. Laura Welman)の姪で、ロデリック・ウェルマンは、ローラ・ウェルマンの亡き夫の甥に該る。

裕福な叔母ローラ・ウェルマンは、現在、寝たきりの状態で、彼女が亡くなった場合、エリノア・カーライルとロデリック・ウェルマンの2人には、かなりの額の財産が入る予定で、彼らは、ローラ叔母の遺産が入り次第、結婚するつもりでいた。


そんな時、「寝たきりの未亡人の財産が、若い女に狙われている。」と言う匿名の手紙が、エリノア・カーライルの元に届く。

エリノア・カーライルとロデリック・ウェルマンの2人は、本気で心配した訳ではないが、見舞いのため、ローラ叔母が住むハンターベリー(Hunterbury)の屋敷へと向かった。

ローラ叔母は、発作の後遺症で左半身が麻痺しており、エリノア・カーライルが彼女と話をしていると、そこにローラ叔母を治療している若いピーター・ロード医師(Dr. Peter Lord)がやって来る。自分の患者の美しい姪に初めて会ったピーター・ロード医師は、思わず赤面する。

一方、その頃、外を散歩していたロデリック・ウェルマンは、ローラ叔母のお気に入りで、ウェルマン家の門番の娘であるメアリー・ジェラード(Mary Gerrard)に出会い、その美しさに心を奪われてしまう。


その翌週、エリノア・カーライルとロデリック・ウェルマンの2人は、ピーター・ロード医師より、ローラ叔母が再び発作に襲われたとの連絡を受け、ハンターベリーの屋敷へと急いだ。

死期が近いことを悟ったローラ叔母は、エリノア・カーライルに対して、「(お気に入りの)メアリー・ジェラードのために、遺言書に追加条項を加えたいので、翌朝、弁護士を呼んでほしい。」と強く希望した。

ピーター・ロード医師によると、その日、ローラ叔母の容態は大丈夫な筈であったが、翌朝、ローラ叔母は、眠ったまま、亡くなっていた。


ローラ・ウェルマンを看護していたジェシー・ホプキンズ看護婦(Nurse Jessie Hopkins)は、持って来た筈のモルヒネがないことに気付く。

また、ローラ・ウェルマンの弁護士であるセドン(Mr. Seddon)は、彼女が遺言書を作成していなかったことを告げる。

その結果、唯一の血縁者であるエリノア・カーライルが、ローラ叔母の全財産を相続することになった。その一方で、ロデリック・ウェルマンが、メアリー・ジェラードに対する想いを明らかにしたため、エリノア・カーライルとロデリック・ウェルマンの婚約は、白紙となってしまう。


ジェシー・ホプキンズ看護婦の助言を受けたメアリー・ジェラードは、ニュージーランドに居る伯母に財産を遺す遺言書を作成する。また、エリノア・カーライルも、ロデリック・ウェルマンに全財産を遺す遺言書を作成した。


ロデリック・ウェルマンが居ないハンターベリーの屋敷に住む気になれないエリノア・カーライルは、屋敷を売ることに決めた。

約1ヶ月後、ハンターベリーの屋敷の買い手がついたので、エリノア・カーライルは、引き渡しの準備と家具の整理のために、屋敷を訪れた。また、メアリー・ジェラードも、ジェシー・ホプキンズ看護婦と一緒に、門番小屋の片付けに来ていた。

エリノア・カーライルの心中には、メアリー・ジェラードに対する嫉妬と憎しみが渦巻いていたが、表向きは礼儀正しさを崩さず、メアリー・ジェラードとジェシー・ホプキンズ看護婦の2人を、昼食(お茶とサンドウィッチ)に誘った。ところが、エリノア・カーライルがつくった魚肉ペーストのサンドウィッチを食べたメアリー・ジェラードが、昼食後間もなく、急に苦しんで、息を引き取ってしまったのである。


その結果、エリノア・カーライルは、メアリー・ジェラードに対して、モルヒネを盛った疑いで、警察に逮捕される。

ピーター・ロード医師は、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)の元を訪れると、「エリノア・カーライルが無実であることを立証してほしい。」と依頼するのであった。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


(69)魚肉ペースト(練りもの)のサンドウィッチ(plate of fish-paste sandwiches)



ハンターベリーの屋敷の買い手がついたエリノア・カーライルは、引き渡しの準備と家具の整理のために、屋敷を訪れた。

メアリー・ジェラードに対する嫉妬と憎しみが渦巻いていたものの、エリノア・カーライルは、表向きは礼儀正しさを崩さず、門番小屋の片付けに来ていたメアリー・ジェラードとジェシー・ホプキンズ看護婦の2人を、昼食(お茶とサンドウィッチ)に誘う。ところが、エリノア・カーライルがつくった魚肉ペーストのサンドウィッチを食べたメアリー・ジェラードが、昼食後間もなく、急に苦しんで、息を引き取ってしまったのである。メアリー・ジェラードの死因は、モルヒネ中毒だった。

メアリー・ジェラードが摂取することになったモルヒネは、何に入っていたのか?エリノア・カーライルが準備した魚肉ペーストのサンドウィッチなのか?(→ 3人とも魚肉ペーストのサンドウィッチを食しているが、エリノア・カーライルとジェシー・ホプキンズ看護婦の2人には、異常はなかった。)それとも、ジェシー・ホプキンズ看護婦が淹れた紅茶か?(→ メアリー・ジェラードとジェシー・ホプキンズ看護婦の2人は紅茶を飲んだが、エリノア・カーライルは紅茶を飲まなかった。)


(70)棘のない薔薇(thornless rose)



メアリー・ジェラードがモルヒネ中毒により亡くなる事件が発生した当日、ハンターベリーの屋敷の台所において、ジェシー・ホプキンズ看護婦が袖のカフスを外して、薬缶の端を洗い、桶にあけた際、エリノア・カーライルは、ジェシー・ホプキンズ看護婦の手首に何かに刺された痕を見つけた。

エリノア・カーライルの問い掛けに対して、青ざめた顔をしていたジェシー・ホプキンズ看護婦は、「門番小屋の側にある薔薇の垣根で、棘に刺されたんですが、直ぐに抜いてしまいました。」と口早に答えた。

メアリー・ジェラードをモルヒネを盛って殺害した容疑で、エリノア・カーライルに対する裁判が始まった後、エルキュール・ポワロとピーター・ロード医師の2人が確認してみると、門番小屋の側にあったのは、「ゼフィライン(Zephirine Rose)」と言う薔薇で、棘がない品種だったのである。


(71)裁判官(judge)



メアリー・ジェラードをモルヒネを盛って殺害した容疑で、エリノア・カーライルは訴追されるが、その裁判を担当したのが、べディングフェルド裁判官(Mr. Judge Beddingfeld)だった。


2026年4月24日金曜日

ロンドン セントジェイムズプレイス10番地(10 St. James’s Place)

セントジェイムズプレイス10番地の建物全景(その1)
<筆者撮影>


1895年8月に訪問先であるフランスのディエップ(Dieppe)からオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)は、リージェンツパーク(Regent’s Park → 2016年11月19日付ブログで紹介済)近くのチェスターテラス(Chester Terrace → 2026年4月9日付ブログで紹介済)の借家からセントジェイムズプレイス10番地(10 St. James’s Place)へと転居した。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示
されている
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの肖像画
(by Jacques-Emile Blanche / 1895年 / Oil on canvas)
<筆者撮影>


セントジェイムズプレイス10番地は、セントジェイムズプレイス10番地は、アイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、戯曲「サロメ(Salome → 2026年3月11日 / 3月12日付ブログで紹介済)」の作者のオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)が一時期執筆に使用していた場所だった。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
セントジェイムズ地区の地図を抜粋。


セントジェイムズプレイス10番地は、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James’s)内にあり、パル・マル通り(Pall Mall → 2016年4月30日付ブログで紹介済)とピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)を南北に結ぶセントジェイムズストリート(St. James’s Street → 2021年7月24日付ブログで紹介済)の中間辺りからグリーンパーク(Green Park)方面へ向かって西に延びるセントジェイムズプレイス(St. James’s Place)沿いに所在している。



セントジェイムズストリート側からセントジェイムズプレイスを見たところ -
セントジェイムズプレイス10番地の建物は、右側(北側)に建っている。
<筆者撮影>


セントジェイムズプレイス10番地は、セントジェイムズプレイスの中間辺りの北側に立っている。


セントジェイムズプレイス10番地の建物全景(その2)
<筆者撮影>


セントジェイムズストリートは、交通渋滞が激しいピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)を経由しないで、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からピカデリー通りへと行くことができる抜け道のため、車の往来が結構あるので、セントジェイムズストリート沿いは、それなりの騒音がある。ただ、セントジェイムズストリートからセントジェイムズプレイスへと少し入るだけで、かなり静かになる。


セントジェイムズストリート10番地の建物の反対側(南側)から
セントジェイムズプレイスの東方面を見たところ
<筆者撮影>

セントジェイムズストリート10番地の建物の反対側(南側)から
セントジェイムズプレイスの西方面を見たところ
<筆者撮影>


セントジェイムズプレイス沿いの建物には、他にも、以下の著名人が在住 / 滞在していた。


(1)セントジェイムズプレイス4番地(4 St. James’s Place)


セントジェイムズプレイス4番地の建物全景
<筆者撮影>


ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家で、ピアニストとしても有名だったフレデリック・フランソワ・ショパン(Frederic Francois Chopin:1810年ー1849年)が、ロンドンでの演奏旅行時(1848年)、ここに滞在。


フレデリック・ショパンが、1848年のロンドンでの演奏旅行時に滞在したのが、
セントジジェイムズプレイス4番地で、
建物外壁には、そのことを示すプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


フレデリック・ショパンがセントジジェイムズプレイス4番地に滞在したことを示す
Greater London Council によるプラークのアップ

<筆者撮影>


(2)セントジェイムズプレイス29番地(29 St. James’s Place)


ナショナルポートレートギャラリーで所蔵 / 展示されている
ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチルの肖像画
(by Sir William Orpen / 1916年 / Oil on canvas)
<筆者撮影>

セントジェイムズプレイス29番地の建物全景 -
現在、改装工事中だと思われる。
<筆者撮影>


英国の政治家、軍人、従軍記者、作家であるウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill:1874年ー1965年)が、1880年から1883年の間、ここに在住。 


セントジェイムズプレイス4番地の1階(GF)の外壁
<筆者撮影>

ウィンストン・チャーチルセントジジェイムズプレイス29番地に住んでいたことを示す
City of Westminster によるプラークのアップ

<筆者撮影>


2026年4月23日木曜日

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley)- その4

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain → 2018年2月18日付ブログで紹介済)で所蔵 / 展示されている

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの白黒(モノトーン)のペン画3点

<筆者撮影>

1895年8月に訪問先であるフランスのディエップ(Dieppe)からオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)は、リージェンツパーク(Regent’s Park → 2016年11月19日付ブログで紹介済)近くのチェスターテラス(Chester Terrace → 2026年4月9日付ブログで紹介済)の借家からセントジェイムズプレイス10番地(10 St. James’s Place)へと転居した。

チェスターゲート通り(南側)から見たチェスターテラスの入口
<筆者撮影>

セントジェイムズプレイス10番地は、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James’s)内にあり、アイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、戯曲「サロメ(Salome → 2026年3月11日 / 3月12日付ブログで紹介済)」の作者のオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)が一時期執筆に使用していた場所だった。


オーブリー・ビアズリーは、休む遑もなく、1895年8月後半、ドイツのケルン、ミュンヘンやベルリンを訪問した後、同年9月後半までフランスのディエップに再び滞在。同年10月にロンドンに戻ると、セントジェイムズプレイス10番地にやっと腰を落ち着けた。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示
されている
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの肖像画
(by Jacques-Emile Blanche / 1895年 / Oil on canvas)
<筆者撮影>


1896年1月に、オーブリー・ビアズリーは、英国の出版業者であるレナード・チャールズ・スミザーズ(Leonard Charles Smithers:1861年ー1907年)と英国の詩人 / 文芸評論家 / 雑誌編集者であるアーサー・ウィリアム・シモンズ(Arthur William Symons:1865年ー1945年)による招きを受けて、雑誌「サヴォイ(The Savoy)」の創刊に参加。アーサー・シモンズが文芸編集者を、そして、オーブリー・ビアズリーが美術編集者を務める体制で、文学と芸術の融合を目指した雑誌の定期刊行を進めた。

しかし、鉄道駅構内を中心に展開する大手の本屋である W・H・スミス(W. H. Smith)が同誌の店頭販売を拒否する事態が発生した結果、全8巻を発行した後、1896年12月、廃刊に追い込まれてしまった。


テイト・ブリテン美術館で所蔵 / 展示されている

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーのペン画「The Fat Woman」

(1894年 / Ink on paper)

<筆者撮影>


雑誌「サヴォイ」の美術編集者を務める傍ら、オーブリー・ビアズリーは、1896年2月にパリへ移転。同年3月下旬には、文芸編集者のアーサー・シモンズと一緒に、ブリュッセルへ出かけた際、同地において喀血。これが、後に彼の生命を奪うことになる結核(tuberculosis)の兆候だった。同年4月には、パリへ戻った。


出版人のレナード・スミザーズからの依頼に基づき、オーブリー・ビアズリーは、1896年6月後半から同年8月前半にかけて、古代アテナイの喜劇詩人 / 風刺詩人であるアリストパネス(Aristophanes)の喜劇「女の平和(Lysistrata)」の挿絵を制作したが、その後、結核のため、彼の健康状態は悪化の一途を辿るのであった。


2026年4月22日水曜日

綾辻行人作「時計館の殺人」<小説版>(The Clock House Murders by Yukito Ayatsuji ) - その4

英国のプーシキン出版から2025年に刊行されている
Pushkin Vertigo シリーズの一つである
綾辻行人作「時計館の殺人」の英訳版内に付されている
「時計館」旧館(Old Wing)の見取り図


1989年7月30日(日)の午後、JR 大船駅に集合した


大船観音寺にある大船観音像
<筆者撮影>


*小早川 茂郎(Shigeo Kobayakawa - 44歳 / 大手出版社である稀譚社(Kitansha)が発行する超常現象を取り扱うオカルト雑誌「CHAOS」(月刊紙)の副編集長(Deputy editor-in-chief)で、W大学のOB)

*江南 孝明(Takaaki Kawaminami - 24歳 / 「CHAOS」の新米編集者)

*内海 篤志(Atsushi Utsumi - 29歳 / 稀譚社写真部のカメラマン)


*瓜生 民佐男(Misao Uryu - 20歳 / W大学3年生で、超常現象研究会会長)

*樫 早希子(Sakiko Katagi - 20歳 / W大学3年生で、超常現象研究会の会員)

*河原崎 潤一(Junichi Kawarazaki - 21歳 / W大学3年生で、超常現象研究会の会員)

*渡辺 涼介(Ryosuke Watanabe - 20歳 / W大学2年生で、超常現象研究会の会員)

*新見 こずえ(Kozue Niimi - 19歳 / W大学2年生で、超常現象研究会の会員)


の取材メンバー8名は、3台の車(小早川 茂郎の車+タクシー2台)に分乗の上、建築家の中村青司(Seiji Nakamura)が設計した「時計館(Clock House)」(神奈川県(Kanagawa Prefecture)鎌倉市(Kamakura City))に到着した。


当初の予定では、新見 こずえではなく、福西 涼太(Ryota Fukunishi - 21歳 / W大学3年生で、超常現象研究会の会員)が参加する筈だったが、2日前に起きた親戚の不幸(従兄弟のオートバイ事故死)のため、取材に参加できなくなった関係上、急遽、新見 こずえが、彼の代わりに参加していた。


時計館は、白山神社(Hakusan Shrine)や散在ガ池(Sanzaigaike)等が所在する今泉地区(Imaizumi area)がある鎌倉市北東部にあった。

時計館に到着して、建物を見上げた江南 孝明は、驚いた。彼が見上げた時計塔の文字盤には、時間と分を示す2本の針が存在していなかったからである。


小早川 茂郎を初めとする取材メンバー達を、時計館の現在の管理者である伊波 紗代子(Sayoko Inami - 46歳)が出迎えた。

彼女によると、今日から3日間、時計館に泊り込むメンバーの一人である光明寺 美琴(Mikoto Komyoji - 32歳 / 霊能者(Spirit medium)で、江南 孝明の友人である島田 潔(Kiyoshi Shimada - 40歳)が住んでいるマンションの隣人)は、既に到着済、とのことだった。


光明寺 美琴を含めた取材メンバー達は、伊波 紗代子から時計館の現当主である古峨 由季弥(Yukiya Koga - 16歳)を紹介される。

時計館の先代当主は、古峨精計社(Koga Clocks)の前会長である古峨 倫典(Michinori Koga - 63歳 / 故人)だったが、妻の古峨 時代(Tokiyo Koga - 28歳 / 故人)と一人娘の古峨 永遠(Towa Koga - 14歳 / 故人)を早くに亡くしていた。

古峨 由季弥は、元々、古峨 倫典の従弟の息子だったが、両親が亡くなったため、古峨 倫典の養子となったのである。

伊波 紗代子曰く、「慕っていた古峨 永遠が亡くなった後、古峨 由季弥は、「夢の世界」で生きている。」とのことだった。

古峨 倫典が亡くなった後、彼の妹である足立 輝美(Terumi Adachi - 58歳)が、古峨 由季弥の後見人(legal guardian)となっていたが、現在、夫の仕事の関係でオーストラリアに住んでいるため、時計館の現在の管理者である伊波 紗代子が、日本に来られない足立 輝美の代わりを務め、古峨 由季弥の世話も担当していた。

伊波 紗代子も、夫の伊波 裕作(Yusaku Inami - 40歳 / 故人)と一人娘の伊波 今日子(Kyoko Inami - 9歳 / 故人)を既に亡くしていた。彼女は、現在、耳を悪くしているようで、補聴器を付けていたが、補聴器の調子が悪いのか、頻りに耳に手をあてていた。


古峨 永遠が亡くなった後、上記以外にも、


*馬渕 智(Satoru Mabuchi - 22歳 / 故人):古峨 永遠の許嫁

*長谷川 俊政(Toshimasa Hasegawa - 52歳 / 故人):古峨家の主治医

*寺井 明江(Akie Terai - 27歳 / 故人):看護師で、長谷川 俊政の紹介により、

古峨 永遠の看護を担当。

*服部 郁夫(Ikuo Hattori - 45歳 / 故人):古峨 倫典から信頼されていた部下


が次々と死去しており、古峨家が住む時計館は、まるで何かに呪われているみたいだった。

また、時計館に出没する霊は、早世した古峨 永遠の霊であると噂されていたのである。


一方、その頃、江南 孝明との2週間前の約束通り、島田 潔は、自分の車で時計館へと急いでいた。


英国のプーシキン出版から2020年に刊行されている
Pushkin Vertigo シリーズの一つである
綾辻行人作「十角館の殺人」の英訳版の表紙
(Cover design & illustration by Jo Walker)


大分県(Oita Prefecture)O市のK大学推理小説研究会の元会員である江南 孝明と島田 潔の2人は、「十角館の殺人(The Decagon House Murders → 2023年2月21日 / 2月25日 / 3月9日 / 3月18日付ブログで紹介済)」を通じて、知り合いになっていた。

上記の事件後、江南 孝明は、大手出版社である稀譚社に入り、新米の編集者となっていた。一方、島田 潔は、「鹿谷 門実(Kadomi Shishiya)」と言うペンネームで「迷路館の殺人(The Labyrinth House Murders → 2024年12月19日 / 2025年1月9日 / 1月18日 / 3月18日付ブログで紹介済)」を出版して、駆け出しの推理作家としてデビューを飾っていた。


英国のプーシキン出版から2024年に刊行されている
Pushkin Vertigo シリーズの一つである
綾辻行人作「迷路館の殺人」の英訳版の表紙
(Cover design by Jo Walker /
Cover image by Shutterstock)


親戚の不幸のため、時計館の取材メンバーを辞退した渡辺 涼介であったが、ある記憶が気になっており、島田 潔と同じように、時計館へと向かっていた。


生憎と、時計館へと向かう車が途中で故障してしまい、島田 潔は、立ち往生。

渡辺 涼介が、偶然、そこに行き合わせる。


光明寺 美琴を含めた取材メンバー達は、伊波 紗代子に案内されて、新館(New Wing)から旧館(Old Wing)へと進む。

その途中、江南 孝明は、エントランスホールの壁に掛けられていた仮面の一つが、行きはあったにもかかわらず、帰りは無くなっているのに気付く。

誰がその仮面を取り去ったのだろうか?それとも、江南 孝明の勘違いなのか?


取材メンバー達が入った「時計館」旧館内において、
霊能者である光明寺 美琴が謎の失踪を遂げた後、
W大学超常現象研究会の会員である樫 早希子と渡辺 涼介の2人が、
正体不明の何者かによって、次々に惨殺される。


光明寺 美琴を含めた取材メンバー達が旧館エリアへ入ると、新館と旧館の間の重厚な扉が閉ざされ、施錠される。

残念ながら、島田 潔と渡辺 涼介の2人は、取材メンバー達に合流することが叶わなかった。

そして、閉ざされた旧館エリアに入った取材メンバー達は、正体不明の何者かによって、一人ずつ惨殺されていくのであった。