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| ナショナルポートレートギャラリー (National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示されている オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの肖像画 (by Jacques-Emile Blanche / oil on canvas / 1895年) |
戯曲「サロメ(Salome → 2026年3月11日 / 3月12日付ブログで紹介済)」は、アイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、シャーロック・ホームズシリーズの作者サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)の友人でもあったオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)による一幕物の悲劇で、新約聖書を元にしている。
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| ナショナルポートレートギャラリーで販売されている オスカー・ワイルドの写真の葉書 (Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card 305 mm x 184 mm) |
戯曲「サロメ」は、1891年にフランス語で執筆されて、1893年にパリで出版された。
同戯曲の英訳版は、1894年に出版されているが、当時、オスカー・ワイルドの同性の恋人だった第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ショルト・ダグラス(John Sholto Douglas, 9th Marquess of Queensberry:1844年ー1900年)の三男で、作家 / 詩人 / 翻訳家のロード・アルフレッド・ブルース・ダグラス(Lord Alfred Bruce Douglas:1870年ー1945年)が英訳を行ったものの、出来が悪かったため、オスカー・ワイルド自身が、その英訳を修正している。
同戯曲の英訳版には、英国のイラストレーター / 詩人 / 小説家であるオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)による挿画が使用されている。
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| オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」の英訳版に付されている オードリー・ビアズリーによる挿画 - タイトルページ |
ヴィクトリア朝時代の世紀末美術を代表するオーブリー・ビアズリーは、1872年8月21日、ビアズリー夫妻の長男として、イングランド南部のサセックス州(Sussex)ブライトン(Brighton)に出生。
父親のヴィンセント・ポール・ビアズリー(Vincent Paul Beadsley:1839年-1909年)は、金銀細工師の息子だったが、肺結核(tuberculosis)のため、特に職業には就いておらず、祖父から受け継いだ遺産で生活していた。
母親のエレン・アグナス・ピット(Ellen Agnus Pitt:1846年ー1932年)は、軍医(少佐)ウィリアム・ピット(William Pitt)の娘で、ブライトンでは著名かつ由緒ある家系だっため、結婚した二人の間には、社会的な格差があった。
オーブリー・ビアズリーの1歳上には、姉のメイベル・ビアズリー(Mable Beardsley:1871年ー1916年)が居り、後に女優となった。
オーブリー・ビアズリーは、父方から工芸家としての器用さを受け継ぎ、また、母方から芸術に対する洗練された趣味を受け継いだ。
肺結核のため、稼ぎがなかった父ヴィンセントに代わり、母エレンが、音楽教師として働いて、オーブリー・ビアズリーに文学や音楽の本格的な教育を施した。その甲斐もあって、オーブリー・ビアズリーは、学校に上がる前に、ピアノでショパンを弾きこなせるになり、周囲から音楽の天才と呼ばれる。
オーブリー・ビアズリーは、1878年、ブライトン近郊の寄宿学校ハミルトンロッジ(Hamilton Lodge)に入学し、絵を描き始めるが、1879年に肺結核の兆候が出てきたため、1881年にハミルトンロッジを退学。
オーブリー・ビアズリーの治療のため、同年(1881年)、ビアズリー一家は、ロンドン 南郊のエプソム(Epsom)へ転居、更に、1883年にロンドンへ移住する。
そして、1884年に、ビアズリー一家は、再びブライトンに戻った。
オーブリー・ビアズリーは、1885年1月に地元の初等中学校(Brighton, Hove and Sussex Grammar School)に入学。学費については、母方の大伯母が援助した。
彼は、4年間の勉学を修めて、1888年に同初等中学校を卒業。
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