2026年3月24日火曜日

サー・ウィリアム・ウォレス(Sir William Wallace)

セントバーソロミュー病院の外壁に設置されている
サー・ウィリアム・ウォレスの慰霊碑(その1)
<筆者撮影>

シティー・オブ・ロンドン(City of London → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)を防衛するために築かれたロンドンウォール(London Wall)にあった7つの門の一つで、ローマ時代に遡る6つの門の一つでもあるニューゲート(New Gate)の直ぐ外側にある広大な放牧地だったウェストスミスフィールド(West Smithfield)は、12世紀頃から、馬の販売所として知られていた。


12世紀に入ると、ニューゲートは、殺人や強盗等の重罪人を収容するニューゲート監獄(Newgate Prison)の一部として使用されたが、1666年9月に発生したロンドン大火(Great Fire of London → 2018年9月8日 / 9月15日 / 9月22日 / 9月29日付ブログで紹介済)によって焼失した。その後、再建されたものの、ニューゲートは1767年に、また、ニューゲート監獄は1777年に取り壊されてしまう。


中央刑事裁判所の建物上部全景
<筆者撮影>


ニューゲート監獄の跡地に建つ中央刑事裁判所(Central Criminal Court → 2016年1月17日付ブログで紹介済)のニューゲートストリート側に面している建物外壁には、「1777年に取り壊されたニューゲート監獄が建っていた場所である(Site of Newgate Demonlished 1777)」ことを示すブループラークが掛けられている。


中央刑事裁判所の建物外壁(北側)には、「ここに建っていたニューゲート監獄が
1777年に取り壊された」ことを示すプラークが設置されている。
<筆者撮影>


ニューゲートがニューゲート監獄の一部として使用された経緯もあり、ウェストスミスフィールドにおいて、騎士の決闘の他に、重罪人の公開処刑も頻繁に行われていた。


その関係で、ウェストスミスフィールドに面して建つセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)の外壁に、サー・ウィリアム・ウォレス(Sir William Wallace:1270年頃ー1305年)の慰霊碑が設置されている。


セントバーソロミュー病院の外壁に設置されている
サー・ウィリアム・ウォレスの慰霊碑(その2)
<筆者撮影>

サー・ウィリアム・ウォレスは、スコットランドの愛国者 / 騎士 / 軍事指導者であるが、彼の出自や前半生については、ほぼ不明で、伝承が多いため、確証できていない。


ウィリアム・ウォレスは、1290年代後半に、プランタジネット朝(House of Plantagenet)の第5代イングランド国王であるエドワード1世(1239年ー1307年 在位期間:1272年ー1307年)による過酷なスコットランド支配に対して、抵抗運動を始め、スコットランド民衆の国民感情を鼓舞した。

そして、彼は、1297年9月11日、スターリングブリッジの戦い(Battle of Stirling Bridge)において、スコットランド総督である第6代サリー伯爵ジョン・ド・ワーレン率いるイングランド軍と交戦して、勝利を収め、この戦功により、スコットランド守護官(Guardian of Scotland)に任じられる。

これ以降、彼は「サー・ウィリアム・ウォレス」と呼ばれるようになった。


しかし、サー・ウィリアム・ウォレスの破竹の勢いも長くは続かず、約1年後の1298年7月22日、フォルカークの戦い(Battle of Falkirk)において、エドワード1世率いるイングランド軍に敗れたことに伴い、スコットランド守護官の職を辞す。

その後も、彼はフランスやローマ教皇を訪問して、エドワード1世に対する抵抗運動への援助を求める交渉を行なったが、エドワード1世は、1300年以降、スコットランド侵攻を何度も行い、1303年5月、遂にスコットランド制圧に成功。


セントバーソロミュー病院の外壁に設置されている
サー・ウィリアム・ウォレスの慰霊碑(その3)
<筆者撮影>

スコットランドに帰国したサー・ウィリアム・ウォレスは、かつての部下だったダンバートン(Dumbarton)総督のサー・ジョン・ド・メンティス(Sir John Menteith:1275年ー1329年)の裏切りにあって、1305年8月5日、イングランド軍に引き渡される。

同年8月22日にロンドンへ護送されたサー・ウィリアム・ウォレスは、翌日の8月23日、ウェストミンスター宮殿(Palace of Westminster)のウェストミンスターホール(Westminster Hall)へ連行され、エドワード1世への大逆罪にかかる裁判に付された。

裁判において有罪判決が下ったサー・ウィリアム・ウォレスは、同日、ウェストスミスフィールドの処刑場までの約8㎞の道を引き摺られていき、到着後、首吊り / 内蔵抉り / 四つ裂きと言う残虐刑で処刑された。


彼の首はロンドン橋(London Bridge)に串刺しとなり、四つに引き裂かれたhあ、ニューカッスル・アポン・タイン(Newcastle upon Tyne)/ ベリック=アポン=ツィード(Berwick-pon-Tweed)/ パース(Perth)/ アバディーン(Aberdeen)で晒しものにされた。


英国のロイヤルメールから2002年9月10日に発行された
記念切手「ロンドンの橋」のうちの
1枚である「ロンドン橋」


イングランドのエドワード1世は、サー・ウィリアム・ウォレスを残虐刑に処すことで、スコットランドの抵抗運動を抑えつけようとした。

しかしながら、エドワード1世の計画は成功せず、逆にスコットランドの国民感情を駆り立てることになり、その結果、イングランドによるスコットランド支配は崩壊へと向かったのである。


当時、スコットランドに国家や国民と言った概念がほとんどない中、スコットランド人を愛国精神で導いたサー・ウィリアム・ウォレスは、スコットランドでは、今も英雄視されている。


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