2026年4月20日月曜日

ロンドン ポーランドストリート15番地(15 Poland Street)

英国のロマン派詩人であるパーシー・ビッシュ・シェリーが住んでいた
ポーランドストリート15番地の建物全景
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表したノンシリーズ作品である長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night)」のタイトルは、英国の詩人、画家で、銅版画職人でもあったウィリアム・ブレイク(William Blake:1757年ー1827年 → 2023年5月15日付ブログで紹介済)による詩「無垢の予兆(Auguries of Innocence → 2026年4月16日付ブログで紹介済)」の一節である「Some are born to Endless Night.」から採られている。


2020年に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
ウィリアム・ブレイクが作詞した「無垢の予兆」が選ばれた。
132行に及ぶ「無垢の予兆」のうち、最初の2行が抜粋されている。
「To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower」
「一粒の砂にも、世界を見
一輪の野の花にも、天国を見」(筆者訳)


ウィリアム・ブレイクは、1757年11月28日、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)ソーホー地区(Soho)内に所在するブロードウィックストリート28番地(28 Broadwick Street → 2026年4月19日付ブログで紹介済)で生まれているが、パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley:1792年ー1822年)が住んでいた家が近くに所在している。


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示されている
パーシー・ビッシュ・シェリーの肖像画
(By Alfred Clint, after Amelia Curran, and Edward Ellerker Williams /
Oil on canvas / about 1829, based on a work of 1819)
<筆者撮影>

パーシー・ビッシュ・シェリーは、英国のロマン派詩人で、ゴシック小説「フランケンシュタイン、或いは、現代のプロメテウス(Frankenstein; or, the Modern Prometheus. → 2021年3月24日付ブログで紹介済)」(1818年)を執筆し、フランケンシュタインの怪物を創造して、SF の先駆者と見做される英国の小説家メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー(Mary Wollstonecraft Godwin Shelley:1797年ー1851年 → 2021年3月9日 / 3月16日付ブログで紹介済)の夫である。


2020年に英国のロイヤルメールから発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
パーシー・ビッシュ・シェリーが選ばれている。


パーシー・シェリーは、1792年8月4日、ウェストサセックス州(West Sussex)ホルシャム(Horsham)近くのフィールドプレイス(Field Place)に、富裕な貴族の長男として出生。父親は、サー・ティモシー・シェリー(Timonthy Shelley:1753年ー1844年)で、母親は、エリザベス・ピルフォルド(Elizabeth Pilfold:1763年ー1846年)。


イートン校(Eton College)を経て、1810年10月にオックスフォード大学(University College, Oxford → 2015年11月21日付ブログで紹介済)に入学するも、1811年に「無神論の必要(Necessity of Atheism)」というパンフレットを書いて、オックスフォードの書店で売り出すという暴挙に出たため、同年3月に大学から放校となった。


オックスフォード大学から放校となる前の1810年12月、彼は、妹の学友であるハリエット・ウェストブルック(Harriet Westbrook:1795年ー1816年)と出会い、彼女の学校での不遇に同情して、翌年の1811年8月に、彼女と結婚する。その後、彼は、アイルランドやウェールズを放浪する。


1814年、妻ハリエットやその姉と不和になったパーシー・シェリーは、幼い頃に読んだ「政治的正義」を執筆した無政府主義の先駆者でもある英国の政治評論家 / 著述家のウィリアム・ゴドウィン(William Godwin:1756年ー1836年)の邸に足しげく通うようになる。

そして、そこで、彼は、ウィリアム・ゴドウィンの娘であるメアリー(当時の名前は、まだメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン)と出会い、付き合うようになる。ただ、当時、パーシー・シェリーは、妻帯者だったため、彼との恋愛に父親であるウィリアム・ゴドウィンは大反対をし、その結果、同年、メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンは、パーシー・シェリーと一緒に、欧州大陸へ駆け落ちをするのであった。


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンの肖像画の葉書
(Richard Westall
 / 1813年 / Oil on canvas
914 mm x 711 mm) 


一旦、欧州大陸から英国に帰国するものの、パーシー・シェリーの友人で、英国のロマン派詩人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron:1788年ー1824年 → 2021年5月9日+2024年8月24日 / 8月30日付ブログで紹介済)に誘われて、1816年5月、バイロン卿、彼の愛人であるクレア・クレモント(Claire Clairmont:1798年ー1879年 / メアリー・シェリーの義姉妹)、パーシー・シェリーとメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンの4人は、スイス / ジュネーヴ近郊のレマン湖畔にあるディオダディ荘(Villa Diodati)に滞在した。


020年に英国のロイヤルメールから発行された
英国の詩人を特集した切手10種類の一人として、
第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(=バイロン卿)が選ばれている。


同年7月、長く降り続く雨のため、屋内に閉じ込められていた折、バイロン卿は、「皆で一つずつ怪奇譚を書こう。(We will write a ghost story.)」と、他の3人に提案した。このディオダディ荘での怪奇談議を切っ掛けに、メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンは、フランケンシュタインの怪物の着想を得て、小説の執筆に取りかかった。


英国の The Orion Publishing Group Ltd. より2022年に出ている
ジグソーパズル「フランケンシュタインの世界(The World of Frankenstein)」における
スイス / ジュネーヴ近郊のレマン湖畔にある
ディオダディ荘での怪奇談議 -
画面左側から、
英国のロマン派詩人であるパーシー・ビッシュ・シェリー、
メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー
(当時は、まだ
メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン)、
そして、
英国のロマン派詩人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンだと思われる。
<筆者撮影>


同年9月、彼ら4人が英国に帰国した後、同年12月10日に、ハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)のサーペンタイン湖(Serpentine → 2015年3月15日付ブログで紹介済)から入水自殺したパーシー・シェリーの妻ハリエット・シェリーの遺体が発見される。検死によると、ハリエット・シェリーは、パーシー・シェリー以外の男の子供を身籠っていた、とのこと。

その20日後の同年12月30日、パーシー・シェリーは、ロンドンの教会でメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンと正式に結婚して、彼女は、メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリーとなった。


ナショナルポートレートギャラリーで所蔵 / 展示されている
メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリーの肖像画
(By Richard Rothwell / 
Oil on canvas / about 1830 - 1840)
<筆者撮影>


メアリー・シェリーは、スイス / ジュネーヴ近郊のレマン湖畔にあるディオダディ荘での怪奇談議を切っ掛けに着想を得たフランケンシュタインの怪物の話を1817年5月に脱稿し、翌年の1818年1月に匿名で出版した。このゴシック小説の正式なタイトルが、「フランケンシュタイン、或いは、現代のプロメテウス」である。当作品の出版により、後に、彼女は SF の先駆者と見做されるようになる。

1818年3月に、彼女は、夫であるパーシー・シェリーの序文を付けて、再度、匿名で同作品を出版した。

現在、一般に流布している版は、1831年に出版された第3版(改訂版)がベースとなっている。


東京創元社から刊行されている
メアリー・シェリー作「フランケンシュタイン」(創元推理文庫)の表紙
(表紙デザイン:松野光洋)-
レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci:1452年 - 1519年)が
1485年 - 1490年頃に描いた「ウィトルウィウス的人体図(Uomo vitruviano)」が、
デザインのベースになっていると思われる。


パーシー・シェリーとメアリー・シェリーの間には、1815年に長女を生後間もなくして亡くした後、長男のウィリアム(1816年ー1819年)と次女のクレアラ(1817年ー1818年)が生まれているが、1818年9月にクレアラを赤痢で、そして、1819年6月にウィリアムをマラリアで、幼少期に亡くしまうという波瀾の人生を送っている。


1822年7月8日、パーシー・シェリーは、ジェノヴァ(Genoa)の造船業者に特注で建造させた帆船に乗り、イタリアのリヴォルノ(Livorno)からレーリチ(Lerici)への帰途についた数時間後、突然の暴風雨に襲われ、ヴィアレッジョ(Viareggio)沖で帆船は沈没。

10日後、パーシー・シェリーの遺体がヴィアレッジョ郊外の海岸に漂着したが、身元確認も困難な程に、無残な水死体となっていた。疫病の蔓延を恐れた当局の指示により、彼の遺体は、海岸で火葬された。その際、彼の友人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンは立ち会ったが、妻のメアリー・シェリーは、当時の英国の慣習を守り、火葬には参列しなかった。


パーシー・シェリーの遺骨は、ローマのプロテスタント墓地に葬られ、墓石の表面には、「Cor Cordium(ラテン語で「心の心」の意味)」と彼が生前愛誦した句が刻まれた。

「Nothing of him that doth fade / But doth suffer a sea-change / Into something rich and strange」

(ウィリアム・シェイクスピア「テンペスト」)


また、パーシー・シェリーの心臓は、妻のメアリー・シェリーとともに、英国南部ボーンマス(Bournemouth)にあるセントピーター教区教会(The Parish Church of St. Peter)敷地内の墓に安置されている。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
ソーホー地区の地図を抜粋。



パーシー・シェリーが住んでいた家は、ウィリアム・ブレイクは、1757年11月28日が生まれたブロードウィックストリート28番地の西側を南北に延びるポーランドストリート(Poland Street)沿いにある。ブロードウィックストリート(Broadwick Street)から北へ延びるポーランドストリートが、グレイトマルボローストリート(Great Marborough Street)/ ノエルストリート(Noel Street)と交差した南東の角に建つポーランドストリート15番地(15 Poland Street)の建物が、それである。


ポーランドストリート15番地の2階(1F)の外壁には、
「詩人のパーシー・ビッシュ・シェリーが1811年にここに住んでいた」ことを示す
プラークが掛けられている。
<筆者撮影>


ポーランドストリート15番地の2階(1F)の外壁には、「詩人のパーシー・ビッシュ・シェリー(1792年ー1822年)が1811年にここに住んでいた」ことを示すイングリッシュヘリテージ(English Heritage)のプラークが掛けられている。

1881年と言うと、パーシー・シェリーが、オックスフォード大学から放校となった後、妹の学友であるハリエット・ウェストブルックと結婚した頃に該る。


ポーランドストリートの西側から
ポーランドストリート15番地の建物を見上げたところ(その1)
<筆者撮影>

ポーランドストリートの西側から
ポーランドストリート15番地の建物を見上げたところ(その2)
<筆者撮影>


ポーランドストリート15番地の建物の地上階(GF)には、現在、「Bubala Soho」と言う中華料理店が入居して営業している。


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