ナショナルポートレートギャラリー (National Portrait Gallery)で販売されている サー・アイザック・ニュートンの肖像画の葉書 (Sir Godfrey Kneller Bt. / 1702年 / Oil on canvas 756 mm x 622 mm) |
アイザック・ニュートン(Issac Newton:1642年―1727年)は、1665年にケンブリッジ大学(University of Cambridge)トリニティーカレッジ(Trinity College)を卒業した後も、大学に残ったが、ペストが大流行したため、同年から1666年にかけて、大学は閉鎖され、故郷のウールズソープ(Woolsthorpe)へと疎開した。
故郷に戻った彼は、実験や思索等、学問に専念。なお、「木の枝からリンゴが落下するのを見て、万有引力の法則を思い付いた。」と言う有名な逸話の出来事があったのは、この時期である。
サー・アイザック・ニュートンが生まれたウールズソープマナー(Woolsthorpe Manor)の解説書 <筆者がウールズソープマナーで購入> |
ペストが終息した1667年に、アイザック・ニュートンは、大学へと戻る。
同年10月、事故等により、大学のフェロー職に欠員が生じたため、彼はフェロー職(Fellow - 研究費を得られる身分)を得た。
サー・アイザック・ニュートンが 1665年から1668年にかけて使用したノートをベースにした葉書 <筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館 (Fitzwilliam Museum)で購入> |
1668年に、アイザック・ニュートンは、ニュートン式望遠鏡を考案して、第一号機を完成させたことを受けて、彼の師で、ルーカス数学講座(Lucasian Chair of Mathematics)の初代教授であるアイザック・バロー(Isaac Barrow:1630年ー1677年)から、自らのポストを打診された。
一度固辞したが、最終的には、師の申し出を受けて、同年、彼は、26歳の若さで、ルーカス教授職(Lucasian Professor of Mathematics)に就く。
ルーカス教授職に就いたアイザック・ニュートンは、彼の2大著書となる「自然哲学の数学的諸原理(Principia)」(1687年刊行)と「光学(Opticks)」(1704年刊行)の執筆を精力的に行った。
また、彼が改良したニュートン式望遠鏡の第二号機が、1671年に王立協会(Royal Society)に提出され、この実績を理由に、アイザック・ニュートンは、1672年、王立協会のフェロー(Fellow of the Royal Society)に推薦された。
また、1688年には、庶民院議員(下院議員 - Member of Parliament for Cambridge)として、大学から演出もされた。
古い英国1ポンド紙幣に描かれているサー・アイザック・ニュートン |
その後、研究生活に疲弊して、精神不調に陥った彼は、ケンブリッジを離れて、1696年にロンドンへ移住。
19歳年下の教え子である初代ハリファックス伯爵チャールズ・モンタギュー(Charles Montagu, 1st earl of Halifax:1661年ー1715年)が財務大臣となっており、アイザック・ニュートンは、チャールズ・モンタギューの紹介を受けて、王立造幣局監事(Warden of the Royal Mint)の職に就き、1699年には、王立造幣局長官(Master of the Royal Mint)へと昇格。
教え子のチャールズ・モンタギューとしては、研究生活に疲弊して、精神不調に陥った恩師のアイザック・ニュートンに対して、研究から離れて、時間的にも、体力的にも余裕のある地位や職を紹介したつもりであったが、アイザック・ニュートンは、就任早々、通貨偽造人を逮捕したことを皮切りにして、組織内の汚職を片っ端から摘発のうえ、処罰すると言う厳しい方針を打ち出した。
アイザック・ニュートンは、政治や行政の世界とは程遠い大学教授であったにもかかわらず、王立造幣局長官として、非常に鮮やかな手並みを発揮して、彼の在職中、通貨偽造が激減したと言われている。
アイザック・ニュートンは、1703年には、王立協会の会長(President of the Royal Society)に選出され、また、1705年には、英国のステュアート朝(House of Stuart)最後の君主であるアン女王(Queen Anne:1665年ー1714年 在位期間:1702年ー1714年)から、自然哲学の業績に対し、トリニティーカレッジにおいて、ナイトの称号(サー)を授与された。
アン女王は、1702年3月に(最後の)イングランド王国・スコットランド王国君主およびアイルランド女王(Queen of England, Scotland and Ireland)として即位し、1707年5月にスコットランドがイングランドに併合されたことに伴い、(最初の)グレートブリテン王国君主およびアイルランド女王(Queen of Great Britain and Ireland)として、1714年8月まで君臨した。
なお、自然哲学(自然科学)の分野で、ナイトの称号を授与されたのは、アイザック・ニュートンが最初である。
研究生活に疲弊して、精神不調に陥ったため、 ケンブリッジを離れて、ロンドンへ移住した サー・アイザック・ニュートンが住んでいたジャーミンストリート88番地(1696年―1700年)と 同87番地(1700年―1709年)。 |
アイザック・ニュートンは、ジャーミンストリート88番地(88 Jermyn Street:1696年―1700年 → 2016年7月24日付ブログで紹介済)と同87番地(87 Jermyn Street:1700年―1709年 → 2016年7月24日付ブログで紹介済)に住んでいた。当初、ジャーミンストリート88番地に住んでいたが、1700年に同所より広いジャーミンストリート87番地が空いたため、彼は、そちらへ移った。残念ながら、当時の建物は、1908年に取り壊されてしまった。
ジャーミンストリート87番地 / 88番地の建物の壁には、 サー・アイザック・ニュートンが住んでいたことを示す プラークが架けられている。 |
ナイトの称号授与から22年後の1720年3月20日に亡くなったアイザック・ニュートンは、国葬を経て、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)に埋葬された。
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