英国の Laurence King Publishing Group Ltd. より、2020年に発売されたジグソーパズル「シェイクスピアの世界(The World of Shakespeare)」には、のイラスト内には、イングランドの劇作家 / 詩人であるウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare:1564年ー1616年 → 2023年5月19日付ブログで紹介済)や彼が生きた時代の人物、彼の劇が上演されたグローブ座、そして、彼が発表した史劇、悲劇や喜劇に登場するキャラクター等が散りばめられているので、前回に続き、順番に紹介していきたい。
今回紹介するのは、ウィリアム・シェイクスピアが劇作家 / 詩人として活躍した時期のイングランド女王である。
<エリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年)>
テューダー朝の第5代君主であるエリザベス1世を乗せた船が、 テムズ河の下流へと向かって、進んで行く。 |
エリザベス1世は、イングランドとアイルランドの女王で、テューダー朝(House of Tudor)の第5代かつ最後の君主である。
テューダー朝の第2代イングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年-1547年)は、1509年にキャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon:1487年ー1536年 / カスティーリャ女王イザベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の娘)と結婚したが、キャサリン王妃は、死産、王子を産んだが夭折、そして、流産を繰り返した後、後にテューダー朝の第4代イングランド王メアリー1世(Mary I:1516年ー1558年 在位期間:1553年-1558年)として即位するメアリー王女を1516年に出産するものの、世継ぎとなる嫡出の王子には恵まれなかった。
地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の ベーカルーライン(Bakerloo Line)のプラットフォームにある壁画 - 一番右手の人物が、姦通罪等を理由にして、 ロンドン塔において、2番目の王妃であるアン・ブーリンを斬首刑に処したヘンリー8世。 (なお、画面中央の人物は、メアリー1世である。) |
それもあって、ヘンリー8世は、キャサリン王妃の侍女であるメアリー・ブーリン(Mary Boleyn:1499年 / 1500年頃ー1543年)と関係を持っていた。更に、ヘンリー8世は、彼女の妹(諸説あり)であるアン・ブーリン(Anne Boleyn:1501年頃ー1536年)を求めるようになったが、アン・ブーリンは、姉(諸説あり)のメアリーとは異なり、愛人となることを拒み、正式な結婚を望んだ。
そこで、ヘンリー8世は、世継ぎとなる嫡出の王子を望めないキャサリン王妃を宮廷から追放すると、1533年、アン・ブーリンと結婚して、2番目の王妃として迎えた。そして、同年9月7日、アン・ブーリンは、グリニッジ宮殿(Greenwich Palace)において、後のエリザベス1世として即位するエリザベス王女を出産した。彼女の名前は、祖母に該るエリザベス・オブ・ヨーク(Elizabeth of York)とエリザベス・ハワード(Elizabeth Howard)に因んで、名付けられた。
最初の王妃であったキャサリンは、以前、ヘンリー8世の兄であるアーサーと結婚していたため、宮廷から追放された彼女は、故王太子の未亡人と言う地位に格下げされ、第一継承法に基づいて、エリザベス王女がヘンリー8世の世継ぎとなり、逆に、キャサリンの娘であるメアリー王女は、庶子の身分へ格下げとなった。つまり、王位継承順位で言うと、メアリー王女は、エリザベス王女の次位に下げられ、エリザベスの侍女となった。
地下鉄チャリングクロス駅の ベーカルーラインのプラットフォームにある壁画 - 一番左手の人物が、今でもロンドン塔内に 首のない亡霊として現れると噂されているヘンリー8世の2番目の王妃であるアン・ブーリン。 (なお、画面中央の人物は、メアリー1世である。) |
ナショナルポートレートギャラリーで販売されている アン・ブーリンの肖像画の葉書 (Unknown artist / 1535 - 1536年頃 / Oil on panel 543 mm x 416 mm) |
ヘンリー8世の2番目の王妃となったアン・ブーリンは、エリザベス王女を出産した後、流産や想像妊娠を経るものの、世継ぎとなる嫡出の王子と言う期待に答えることができなかった。その一方で、アン・ブーリンは、その強い性格と優れた知性を以って、政治へと介入して、多くの政敵をつくった。
1536年、アン・ブーリンは、再び流産すると、世継ぎとなる嫡出の王子を望めないと悟ったヘンリー8世は、彼女の実弟に該るジョージ・ブーリン(George Boleyn:1504年頃ー1536年)を含む5人の男を王妃との姦通罪で逮捕するとともに、アン・ブーリンも姦通罪、近親相姦罪および魔術を用いた罪で逮捕の上、処刑した。
当時、2歳8ヶ月だったエリザベス王女は、庶子の身分へと格下げされるとともに、王女の称号も剥奪されたのである。
1543年にヘンリー8世の6番目かつ最後の王妃となったキャサリン・パー(Katherine Parr:1512年-1548年)による説得により、同年、第三継承法が発令され、メアリーとエリザベスは庶子の身分のままであるが、王位継承権が復活された。
ところが、メアリーとエリザベスの異母弟で、ヘンリー8世の跡を継ぎ、テューダー朝の第3代イングランド王として即位したエドワード6世(Edward VI:1537年ー1553年 在位期間:1547年ー1553年)は、家臣からの進言を受け、カトリック教徒であるメアリーが王位を継ぐことを恐れて、第三継承法を退けて、メアリーとエリザベスの王位位継承権を剥奪すると、ヘンリー8世の妹メアリー・テューダー(Mary Tudor:1496年ー1533年)の孫に該るジェーン・グレイ(Jane Grey:1537年ー1554年 在位期間:1553年7月10日ー同年7月19日)を王位継承者とした。
僅か9日間で、ジェーン・グレイの在位が廃位されると、メアリーがメアリー1世として即位する。
ナショナルポートレートギャラリー (National Portrait Gallery)で販売されている メアリー1世の肖像画の葉書 (Master John / 1544年 / Oil on panel 711 mm x 508 mm) |
妹エリザベスが生きている限り、自分の王位は安泰ではないと考えたメアリー1世は、同じカトリック教徒であるスペイン王子と結婚することに対する宗教的反発として、1554年に勃発したトマス・ワイアット(Sir Thomas wyatt:1521年ー1554年)によるワイアットの乱を使い、エリザベスによる同反乱への加担を疑い、同年3月18日にロンドン塔(Tower of London → 2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)に投獄し、その後も、1年近く、彼女を幽閉状態に置いた。
雨上がりの夕闇の中に照らされるロンドン塔 |
プロテスタントに対する過酷な弾圧を行い、「血まみれのメアリー(Bloody Mary)」と呼ばれたメアリー1世が、1558年11月17日にセントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)において崩御すると、エリザベスは、テューダー朝の第5代イングランド王エリザベス1世として即位した(戴冠式は、1559年1月15日に行われた)。
なお、エリザベスは、ハットフィールドハウス(Hatfield House)において、姉の崩御を知らされている。
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